拷問の話
岡本綺堂
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天保五、午年の四月十二日に播州無宿の吉五郎が江戸の町方の手に捕われて、伝馬町の牢屋へ送られた。かれは通称を定蔵といって、先年大阪で入墨の上に重敲きの仕置をうけた者で、窃盗の常習犯人である。
大阪で仕置をうけてから、かれは同じく無宿の入墨者利吉、万吉、清七、勝五郎ら十一人と連れ立って江戸へ出て来た。かれらは二、三人または三、四人ずつ幾組にも分れて、馬喰町その他に宿を取って、江戸馴れない旅人の風をして窃盗や辻強盗や万引の悪事を働いていたのであるが、そのなかで証拠の最も歴然たるのは、日本橋人形町の小間物屋忠蔵方で鼈甲の櫛四枚をぬすみ取ったことであった。
吉五郎は万吉と清七と三人づれで忠蔵の店へ行って、鼻紙袋や烟草入れなどを注文した。色々の品物を出させてみて、あれかこれかと詮議した末に、どうも気に入ったものがないからといって、幾品かを新しく注文して手付の金をも置いて行ったのである。そうした掛合のあいだに彼らは鼈甲の櫛四枚をぬすんで出て、それを故買犯の芳吉というものに一枚一両ずつで売って、三人が四両の金を酒や女につかい果してしまった。それが発覚して、吉五郎が先ず捕われたので、万吉と清七は姿をかくした。他の同類もあわててゆくえを晦ました。四月十二日に入牢して、吉五郎は北町奉行榊原主計頭の吟味をうけることになったが、他の同類がひとりも挙げられていないので、かれはあくまでもその犯罪を否認した。
芳吉が彼らから買い取った四枚の櫛のうちで、二枚は遠州掛川宿へ積み送るつもりで他の品物と一所に柳行李に詰め込み、飛脚問屋佐右衛門方へ托しておいたのを、町方の手で押収された。その櫛はたしかに自分の店でぬすみ取られたものに相違ないと被害者の忠蔵は証明した。それでも吉五郎はやはりそれを否認しているので、更に小間物屋の手代の徳次ら外一人をよび出して、突きあわせの吟味を行うと、手代どもは確かに彼に相違ないと申立てた。それで吉五郎も一旦は屈伏したが、あくる日になるとまたその申口をかえて、自分にはそんな覚えはない、同類の勝五郎というものの面体が自分によく似ているから、手代どもはおそらくそれを見あやまったのであろうと申立てた。しかも彼は常習犯の入墨者であって故買犯の芳吉も彼から買い取ったと白状し、小間物屋の手代共も彼に相違ないと申立てているのであるから、吉五郎の弁解は到底聞きとどけられるはずがなかった。ことに一旦は屈伏しながら、更にその申口を更えたのであるから、奉行は勿論吟味方の役人たちも全然その申立を信用しなかった。そればかりでなく、かれがある夜ひそかに牢抜けを企てたことが発覚したので、かれの罪はいよいよ疑うべからざることに決められてしまった。
それでも彼は自白しなかった。本人が伏罪しない以上、この時代では容易に仕置をすることが出来ないので、奉行所では先例によって彼を拷問することになった。しかし罪人を拷問して自白させるというのは吟味方の名誉でない。口頭の吟味で罪人を屈伏させる力がないので、よんどころなく拷問を加えて、無理強いに屈伏させたということになっては、自分たちの信用にも関するので、奉行所ではなるべく拷問を避けることになっている。芝居や講談にはややもすると拷問の場が出るが、諸大名の領地は知らず、江戸の奉行所では前にいったような事情で甚だしく拷問を嫌うことになっている。あの町奉行は在職何年のあいだに何回の拷問を行ったといわれると、その回数が多ければ多いほど、彼の面目を傷けることにもなるので、よくよくの場合でなければ拷問を行わないことにしているのであるが、相手が強情でどうしても自白しない場合には、否でも応でも拷問を行う外はない。証拠の材料も揃い、証人もあらわれて、それでも相手が強情を張っているかぎりは、ほかに仕様もないのである。
わが国にかぎらず、どこの国でも昔は非常に惨酷な責道具を用いたのであるが、わが徳川時代になってからは、拷問の種類は笞打、石抱き、海老責、釣し責の四種にかぎられていた。かの切支丹宗徒に対する特殊の拷問や刑罰は別問題として、普通の罪人に対しては右の四種のほかにその例を聞かない。しかも普通に行われたのは笞打と石抱きとの二種で、他の海老責と釣し責とは容易に行わないことになっていた。前の二種は奉行所の白洲で行われたが、他の二種は牢内の拷問蔵で行うのを例としていた。世間では普通に拷問と呼んでいるが、奉行所の正しい記録によると、笞打、石抱き、海老責の三種を責問、または牢問いと云い、釣し責だけを拷問というのである。しかし世間の人ばかりでなく、奉行所関係の役人たちでも正式の記録を作製する場合は格別、平常はやはり世間並にすべて拷問と称していたらしい。
いよいよ拷問と決しても、すぐにその苦痛を罪人にあたえるものではない。吟味与力は罪人をよび出して今日はいよいよ拷問を行うぞという威嚇的の警告をあたえ、なるべくは素直に自白させるように努めるのであるが、それでも本人があくまでも屈伏しない場合には、係り役人は高声にかれの不心得を叱りつけて、さらに初めて拷問に着手するのである。しかもその拷問はなるべく笞打と石抱きとにとどめておく方針であるから、先ず笞打を行い、それでも屈伏しないものに対しては更に石抱きを行うのであるが、あまり続けさまに拷問を加えると落命する虞があるので、よくよく不敵の奴と認めないかぎりは、同時に二つの拷問を加えないことになっていた。
吉五郎はその年の七月二十一日に第一回の拷問をうけた。かれが常習犯の盗賊であるのと、その体格が逞しくみえたのとで、彼は一度に笞打と石抱きとの拷問を加えられたが、歯を食いしばり、口を閉じて、とうとう一言も白状しなかったので、その日はそのままで牢屋へ下げられた。笞打は罪人の肌をぬがせ、俗にいう拷問杖でその肩を打つのである。杖は竹切れ二本を心にして、それを麻でつつみ、更にその上を紙の観世捻りで巻きあげたもので、二、三回も打ちつづけられると大抵の者は皮肉が破れて血が流れる。牢屋の下男はすぐにその疵口に砂をふりかけて血止めをして、打役の者がまたもや打ちつづけるのである。いかに強情我慢の者でも二百回以上は堪えられないので、普通は打つこと百五、六十回にして止めることになっている。そのあいだに、打役は「申立てろ、白状しろ」と絶えず責め問うのであるが、相手があくまでも口を閉じている以上、そのままにして中止するの外はない。吉五郎はこれだけの笞打をうけた後に、更に石を抱かされたのである。石抱きは十露盤板と称する三角形の板をならべた台のうえに罪人を坐らせて、その膝のうえに石の板を積むので、石は伊豆石にかぎられ、長さ三尺、厚さ三寸、目方は一枚十三貫である。吉五郎はその石五枚を積まれたが、やはり強情に黙っていた。
元来、徳川時代の拷問はいかなる罪人に対しても行うことを許されていない。それは死罪以上に相当すると認められた罪人にのみ限られている。即ち所詮は殺すべき罪人に対してのみ拷問を行うことを許されているのであるから、拷問の際にあやまって責め殺しても差支えないことになっているが、その罪状の決定しないうちに本人を殺してしまうことは努めて避けなければならない。前にもいう通り、拷問を加えるということが已に係り役人の不面目であるのに、更に未決のうちに責め殺してしまったとあっては、いよいよ彼らの不名誉をかさねる道理であるから、かれらは一面に惨酷の拷問を加えていながらに、一面には罪人を殺すまいと思っている。その呼吸を呑み込んでいる罪人は、自分の体力の堪え得るかぎりはあくまでもその苦痛を忍んで強情を張り通そうとするのである。吉五郎もその一人であった。彼は生に対する強い執着心からこうして一日でも生きていようとしたのか、あるいは召捕または吟味の際に係り役人に対して何かの強い反感をいだいて、意地づくでも白状しまいと覚悟したのか、それは判らない。しかし彼が寃罪でないことは明白であった。
吉五郎は八月十一日によび出されて、第二回の拷問をうけた。それは前回とおなじく、笞打(記録には縛り敲きとある。笞打と同意義である)のほかに石五枚を抱かされたが、かれはやはり問に落ちなかった。第三回は九月十六日で、かれは笞打のほかに石六枚を抱かされた。第四回は同月十九日で、笞打ほかに石七枚を抱かされた。拷問の回数のすすむにしたがって、石の数がだんだんと殖えてくるのであった。
第五回は十月二十一日で、例のごとく拷問に取りかかろうとする時、かれは俄に「申上げます、申上げます」と叫んだ。そうして、自分の罪状を一切自白したので、拷問は中止された。彼はそのままで牢屋へ下げられた。これで彼の運命は一旦定まったのであるが、間もなく病気にかかったという牢屋医者からの届け出があったので、その仕置は来春まで延期されて、かれは暗い牢獄のなかで天保六年の春を迎えた。
三月になって、かれの病気は全快した。それと同時に、彼は去年の申口をかえて、更に再吟味をねがい出た。かれは去年、小間物屋の手代と突き合せ吟味のときに、一旦屈伏したにもかかわらず、更にその申口をかえて拷問をうけたのである。そうして、第五回の拷問前に再び屈伏したにもかかわらず、またもやその申口を変えようとするのである。しかも本人が押して再吟味を願い立てる以上、無理押し付けにそれを処分することも出来ないので、奉行所ではあくまでも強情な彼のために、かさねて裁判を開くことを余儀なくされたが、そういう厄介な罪人に対しては係り役人らの憐愍も同情もなかった。吉五郎は吟味の役人に対して、先度の御吟味があまりに手痛いので自分は心にもない申立をいたしたのであるが、小間物屋の一条は一切おぼえのないことで、それは同類の勝五郎の仕業に相違ないと訴えたが、役人たちは殆ど取合わなかった。
かれはすぐに第二回の拷問を繰返すことになって、笞打のほかに石八枚を抱かされた。強情に彼はこれまでの経験があるので、七枚までは眼をとじて堪えていた。大抵のものは五枚以上積めば気をうしなうのである。七枚のうえに更に一枚を積まれたときに、吉五郎もさすがに顔の色が変って来て、総身の肌がことごとく青くなった。こうして一時(今の二時間)あまりもそのままにしておかれるうちに、かれは眠ったようにうっとりとなってしまったので、その日の拷問はそれで終った。それは四月九日のことで、つづいて十一日の第五回の拷問が行われた。それも笞打と石抱きとで、石はやはり八枚であった。石がだんだんに積まれて八枚になった時に、かれは気をうしなったようにみえたので、役人は注意してその顔色をうかがっていると、彼は眼を細くあけて役人の方をそっと見た。かれは仮死を粧って拷問を中止させようとする横着物であることを役人たちはちらと看破して、決してその拷問をゆるめはしなかった。彼は二時あまりも石を抱かされていたが、遂に恐れ入らなかった。
つづいて十三日に第六回の拷問を行われた。もうこうなると、役人と罪人の根くらべである。この時も笞打と石八枚で、吉五郎はやはり強情我慢を張り通した。九日から十三日までの五日間につづけて三回の拷問をうけながら、彼はちっとも屈しないのは、もしや口中に何かの薬を含んでいるのではないかと役人はその口を無理に開かせて、上下の歯のあいだを一々にあらためた。牢内の習慣で、拷問をうける罪人があるときは、牢名主その他の古顔の囚人どもが彼に対して色々の注意をあたえ、拷問に堪え得る工夫を教えて、たとい責め殺さるるまでも決して白状するなと激励するのである。そればかりでなく、あるいは口中に毒を含ませて遣る。殊に梅干の肉は拷問のあいだに喉の渇きを助け、呼吸を補い、非常に有効であると伝えられているので、往々それを口にして白洲へ出るものがある。吉五郎もその疑いで口中の検査をうけたが、別にそれらしい形跡も発見されなかった。彼は引きつづく拷問でよほど疲労したらしくみえるので、それから一ヵ月ばかりのあいだは吟味を中止された。あまり頻繁に拷問をつづけると、彼を責め殺す虞があるからであった。
五月十八日に彼は第八回の吟味をうけたが、勿論白状しそうもみえないので、またもや拷問にかけられた。今度も笞打と石抱きとであったが、石の数は一枚殖えて九枚となった。それでも彼はとうとう堪え通した。綿のように疲れきって牢屋に帰ってくると、名主や役附の者どもは彼の剛胆を褒めそやして、総がかりで介抱してやった。気の弱い罪人は一回の拷問で問い落されるのが多い、大抵の強い者でも先ず五、六回が行き止りであるのに、吉五郎は已に八回までも堪え通したのであるから、牢内では立派な男として褒められた。
奉行所では根気よくこの強情な罪人を調べなければならなかった。他の公事が繁多のために、六月中は中止されて、七月一日からまたもや吉五郎の吟味をはじめた。係りの役人たちもあせってきたのであろう。かれは一日から八日までのあいだ殆ど隔日の拷問をうけた。前後八回で、やはり笞打と石九枚ずつであった。越えて二十七日には笞打と石七枚、それでも彼はちっとも屈しないので、八月十八日には更に手ひどい拷問を加えられた。この日は笞打なしで、単に石七枚だけであったが、その代りに昼四つ時(午前十時)から夕七つ(午後四時)まで重い石を置かれていた。このおそろしい根くらべにも打ち勝って、かれは無事に牢内へ戻って来て、他の囚人どもを驚かした。第一回以来、かれは前後十八回の拷問をうけながら遂に屈伏しないというのは、伝馬町の牢獄が開かれてから未曾有のことで、拷問に対して実に新しいレコードを作ったのであるから、かれは石川五右衛門の再来として牢内の人気を一身にあつめた。
未決の囚人であるから、かれはいわゆる役附の待遇をうけるわけには行かなかったが、実際はその以上に優遇された。牢名主の声がかりというので、彼は普通の囚人とは全然別格の待遇をうけて、他の囚人どもを手下のように使役するばかりでなく、三日に一度ぐらいは鰻飯などを食って贅沢に生活していた。たびたびの拷問をうけて、かれは定めて疲労衰弱したであろうと想像されるが、実際はそれと反対で、彼はますます肥満して入牢前よりは寧ろ壮健であるらしくみえた。生来虚弱の者は格別、壮健の者が幾回の拷問を凌いでくれば、いよいよ頑丈な体質になるものであると牢内ではいい伝えている。吉五郎はますます壮健になって、牢内の人気役者となって、新しい手拭を使って、うなぎ飯を食って、大威張りで日を送っていたのであった。
かれが最初に強情を張っているのは、一日でも生き延びようとする執着心か、あるいは係りの役人たちに対する一種の反感から湧いて来た意地ずくか、いずれはそんなものであったらしいのであるが、今日の彼は寧ろ一種の虚栄心ともいうべきものに支配されていた。一回でも拷問を堪えれば堪えるほど、かれの器量が上るのである。石川五右衛門の値打が加わるのである。牢内の者にも讃美され、優遇されるのである。所詮大罪は逃れぬと覚悟している以上、責め殺されるまでも強情を張り通して、自分の器量をあげた方がいいと考えたのは、彼として自然の人情であったともいえる。ただその拷問の苦痛に堪え得るか否かというのが問題であった。
こういうたぐいの罪人に対しては、理非をいい聞かせても無駄である。普通の拷問を加えても無効である。奉行所ではかれに対して更に惨酷なる拷問を加えることになって、九月二十二日には笞打のほかに海老責を行った。海老責は罪人を赤裸にして、先ず両手をうしろに縛りあげ、からだを前にかがめさせて、その両足を組みあわせて厳しく引っ縛り、更にその両足を頤にこすり付くまでに引きあげて、肩から背にかけて縛りつけるのであるから、彼は文字通りに海老のような形になって、押潰されたように平た張り伏しているのである。この拷問をうけるものは、はじめは惣身が赤くなり、更に暗紫色に変じて冷汗をしきりに流し、それがまた蒼白に変じるときは即ち絶命する時であるといい伝えられているので、皮膚に蒼白の色を呈するのを合図にその拷問を中止することになっていた。吉五郎はこの試錬をも通過して、無事に牢内に帰った。かれが今日は海老責に逢うことを牢屋附の下男の内報によって、牢内でも薄々承知していたので、ひそかにその安否を気配っていると、かれは問い落されもせず、責め殺されもせず、弱りながらも無事に帰って来たので、牢内の者どもは跳りあがって喜んだ。吉五郎は凱旋の将軍のように歓迎された。
十一月十一日、第二十回の拷問が行われて、かれは笞打のほかに石八枚を抱かされた。つづいて十二月二日には海老責に逢った。しかもかれが依然として屈伏しないこと勿論であった。それでこの年も未決のままに過ぎてしまって、吉五郎は牢内で第二回の春を迎えた。あくれば天保七の申年である。二月十三日に第二十二回の吟味が開かれて、かれは笞打と石九枚の拷問にかかった。三月二日には笞打と石十枚、四月四日には笞打と石九枚、それもみな無効に終った。かれは自ら作った拷問十八回のレコードを破って、更に二十四回の新レコードを作ったのであった。
四月十一日、奉行所ではいよいよ最後の手段として、かれに対して釣り責を行うことになった。まえにもいう通り、今までの笞打、石抱き、海老責は正式にいう拷問ではない。今度の釣し責が真の拷問である。牢問二十四回にしてなお屈伏しない罪人に対して、奉行所では初めて真の拷問を加うることになったのである。釣り責は青細引で罪人の両手をうしろに縛って、地上より三寸六分の高さまで釣りあげるのである。法は頗る簡単のようであるが、責めらるる者に取ってはこれが最大の苦痛であるという。吉五郎は十一日と二十一日にこの拷問をうけた。これで最初から二十六回となるわけである。しかも彼は依然として屈伏しないばかりか、更に疲労衰弱のけしきも見えないので、係りの役人たちもほとほと持余してしまった。さりとてみすみすその罪状明白なる罪人をそのままに打捨てておくわけにも行かないので、奉行所では会議の結果、更に最後の手段を取ることになった。
最後の手段とは、かれが自白の有無にかかわらず、かれに対して裁判を下すのである。今日でいう認定裁判で、江戸時代ではこれを察斗詰といった。しかし未決の罪人を察斗詰に行うのは滅多にその例がないことで、奉行一人の独断で取計うことは出来なかった。それはどうしても老中の許可を得なければならないので、吟味掛りの与力一同からそれぞれに意見書を呈出した。いずれも今日までの吟味の経過を詳細に書きあげて、所詮は察斗詰に行うのほかはありますまいというのであった。
江戸の町奉行所で察斗詰の例は極めて稀であった。士分の者にはその例がない、町人でも享保以後わずかに二人に過ぎないという。そういう稀有の例であるから、老中の方でも最初は容易に許可しそうにも見えなかったが、再三評議の末にいよいよそれを許可することになった。足かけ三年越しの裁判もここに初めて落着して、五月二十三日、播州無宿の吉五郎は死罪を申付けられた。察斗詰に対して、罪人が故障を申立てることは出来ないので、いかに強情我慢の彼もその申渡しに服従するの外はなかった。
しかし所詮は察斗詰であって、彼自身の白状ではない。かれは最後まで拷問に屈しなかったのである。牢内で役附の者どもは彼の最後を飾るべく、新しい麻の帷子に新しい汗襦袢と新しい帯と新しい白足袋とを添えて贈った。吉五郎はその晴衣を身につけて牢内から牽き出されると、それを見送る囚人一同は、日本一、親玉、石川五右衛門と、あらゆる讃美の声々をそのうしろから浴せかけた。
(この話は北町奉行所の与力であった佐久間長敬翁の教によるところが多い。ここにそれを断っておく。筆者)
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「新小説」
1924(大正13)年2月号
初出:「新小説」
1924(大正13)年2月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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