二階から
岡本綺堂
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二階からといって、眼薬をさす訳でもない。私が現在閉籠っているのは、二階の八畳と四畳の二間で、飯でも食う時のほかは滅多に下座敷などへ降りたことはない。わが家ながらあたかも間借りをしているような有様で、私の生活は殆どこの二間に限られている。で、世間を観るのでも、月を観るのでも、雪を観るのでも、花を観るのでも、すべてこの二階から観る。随って眼界は狭い。その狭い中から見出したことの二つ三つをここに書く。
去年の十一月に支那水仙を一鉢買った。勿論相当に水も遣る、日にも当てる。一通りの手当は尽していたのであるが、十二月になっても更に蕾を出さない。無暗に葉が伸びるばかりである。どうも望みがないらしいと思っているところへ、K君が来た。K君は園芸の心得ある人で、この水仙を見ると首を傾げた。
「君、これはどうもむずかしいよ。恐く花は持つまい。」
こういって、K君は笑った。私も頭を掻いて笑った。その当時K君の忰は病床に横わっていたが、病院へ入ってから少しは良いということであった。ところが、その月の中旬に寒気が俄に募ったためか、K君の忰は案外に脆く仆れてしまった。K君の忰は蕾ながらにして散ってしまったのである。私の家の水仙はその蕾さえも持たずして、空しく枯れてしまうであろうと思われた。
年が明けた。ある暖い朝、私がふとかの水仙の鉢を覗くと、長く伸びた葉の間から、青白い袋のようなものが見えた。私は奇蹟を目撃したように驚いた。これは確に蕾である。それから毎日欠さずに注意していると、葉と葉との間からは総て蕾がめぐんで来た。それが次第に伸びて拡がって来た。もうこうなると、発育の力は実に目ざましいもので、茎はずんずんと伸てゆく。蕾は日ましに膨らんでゆく。今ではもう十数輪の白い花となって、私の書棚を彩っている。
殆ど絶望のように思われた水仙は、案外立派に発育して、花としての使命を十分果した。K君の忰は花とならずして終った。春の寒い夕、電灯の燦たる光に対して、白く匂いやかなるこの花を見るたびに、K君の忰の魂のゆくえを思わずにはいられない。
新聞を見ると、市川団五郎が静岡で客死したとある。団五郎という一俳優の死は、劇界に何らの反響もない。少数の親戚や知己は格別、多数の人々は恐らく何の注意も払わずにこの記事を読み過したであろう。しかも私はこの記事を読んで、涙をこぼした一人である。
団五郎と私とは知己でも何でもない。今日まで一度も交際したことはなかった。が、私の方ではこの人を記憶している。歌舞伎座の舞台開きの当時、私は父と一所に団十郎の部屋へ遊びにゆくと、丁度わたしと同年配ぐらいの美少年が団十郎の傍に控えていて、私たちに茶を出したり、団十郎の手廻りの用などを足していた。いうまでもなく団十郎の弟子である。
「綺麗な児だが、何といいます。」
父が訊くと、団十郎は笑って答えた。
「団五郎というのです。いたずら者で──。」
答はこれだけの極めて簡短なものであったが、その笑みを含んだ口吻にも、弟子を見遣った眼の色にも、一種の慈愛が籠っていた。この児は師匠に可愛がられているのであろうと、私も子供心に推量した。
「今に好い役者になるでしょう。」
父が重ねていうと、団十郎はまた笑った。
「どうですかねえ。しかしまあ、どうにかこうにかものにはなりましょうよ。」
若い弟子に就ての問答はこれだけであった。やがて幕が明くと、団十郎は水戸黄門で舞台に現れた。その太刀持を勤めている小姓は、かの団五郎であった。彼は楽屋で見たよりも更に美しく見えた。私は団五郎が好きになった。
けれども、彼はその後いつも眼に付くほどの役を勤めていなかった。番附をよく調べて見なければ、出勤しているのかいないのか判らない位であった。その中に私もだんだんに年を取った。団五郎に対する記憶も段々に薄らいで来た。近年の芝居番附には団五郎という名は見えなくなってしまった。二十何年ぶりで今日突然にその訃を聞いたのである。何でも旅廻りの新俳優一座に加わって、各地方を興行していたのだという。それ以上のことは詳しく判らないが、その晩年の有様も大抵は想像が付く。
日本一の名優の予言は外れた。団五郎は遂にものにならずに終った。師匠の眼識違いか、弟子の心得違いか。その当時の美しい少年俳優がこういう運命の人であろうとは、私も思い付かなかった。
O君が来て古い番茶茶碗をくれた。おてつ牡丹餅の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集って来る。その傍に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十位であったらしい。眉を落して歯を染めた小作りの年増であった。聟を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児を持っていた。美しい娘も老いて俤が変ったのであろう。私の稚い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛石伝いに奥へ這入るようになっていた。門の際には高い八つ手が栽えてあって、その葉かげに腰を屈めておてつが毎朝入口を掃いているのを見た。汁粉と牡丹餅とを売っているのであるが、私が知っている頃には店も甚だ寂れて、汁粉も牡丹餅もあまり旨くはなかったらしい。近所ではあったが、私は滅多に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
私の貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見といったような心持で、店の土瓶や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗というけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼も薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。私は今これを自分の茶碗に遣っている。しかしこの茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
今この茶碗で番茶を啜っていると、江戸時代の麹町が湯気の間から蜃気楼のように朦朧と現れて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐かに這入って来た。娘の長い袂は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚が這入って来た。丁稚は大きい風呂敷包を卸して椽に腰をかけた。どこへか使に行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂で口を拭いて、逃げるように狐鼠狐鼠と出て行った。
講武所風の髷に結って、黒木綿の紋附、小倉の馬乗袴、朱鞘の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯の高い下駄をがら付かせた若侍が、大手を振って這入って来た。彼は鉄扇を持っていた。悠々と蒲団の上に座って、角細工の骸骨を根付にした煙草入れを取出した。彼は煙を強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連が日傘を持って這入って来た。彼らも煙草入れを取出して、鉄漿を着けた口から白い煙を軽く吹いた。山の手へ上って来るのは中々草臥れるといった。帰りには平河の天神様へも参詣して行こうといった。おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッという鬨の声が揚った。ほうろく調練が始まったらしい。
私は巻煙草を喫みながら、椅子に倚り掛って、今この茶碗を眺めている。曾てこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落付く所へ落付いてしまったのであろう。
植木屋の忰が松の緑を摘みに来た。一昨年まではその父が来たのであるが、去年の春に父が死んだので、その後は忰が代りに来る。忰はまだ若い、十八、九であろう。
昼休みの時に、彼は語った。
自分はこの商売をしないつもりで、築地の工手学校に通っていた。もう一年で卒業という間際に父に死なれた。とても学校などへ行ってはいられない。祖母は父の弟の方へ引取られたが、家には母がある。弟がある。自分は父と同職の叔父に附いて出入先を廻ることになった。これも不運で仕方がないが、親父がもう一年生きていてくれればと思うことも度々ある。自分と同級の者は皆学校を卒業してしまった。
あきらめたというものの、彼の声は陰っていた。私も暗い心持になった。
しかし人間は学校を卒業するばかりが目的ではない。ほかにも色々の職業がある。これからの世の中は学校を卒業したからといって、必ず安楽に世を送られると限ったものではない。なまじい学問をしたために、かえって一身の処置に苦むようなこともしばしばある。親の職業を受嗣いで、それで世を送って行かれれば、お前に取って幸福でないとはいえない。今お前が羨んでいる同級生が、かえってお前を羨むような時節がないとも限らない。お前はこれから他念なく出精して、植木屋として一人前の職人になることを心掛けねばならないと、私はくれぐれもいい聞かせた。
彼も会得したようであった。再び高い梯に昇って元気よく仕事をしていた。松の枝が時々にみしりみしりと撓んだ。その音を聴ごとに、私は不安に堪なかった。
庭の松と高野槙との間に蜘蛛が大きな網を張っている。二本ながら高い樹で丁度二階の鼻の先に突き出ているので、この蜘蛛の巣が甚だ眼障りになる。私は毎朝払い落すと、午頃には大きな網が再び元のように張られている。夕方に再び払い落すと、明る朝にはまたもや大きく張られている。私が根よく払い落すと、彼も根よく網を張る。蜘蛛と私との闘は半月あまりも続いた。
私は少しく根負けの気味になった。いかに鉄条網を突破しても、当の敵の蜘蛛を打ち亡ぼさない限りは、到底最後の勝利は覚束ないと思ったが、利口な彼は小さい体を枝の蔭や葉の裏に潜めて、巧みに私の竿や箒を逃れていた。私はこの出没自在の敵を攻撃するべくあまりに遅鈍であった。
彼の敵は私ばかりではなかった。ある日強い南風が吹き巻って、松と槙との枝を撓むばかりに振り動かした。彼の巣もともに動揺した。巣の一部分は大きな魚に食い破られた網のように裂けてしまった。彼は例の如く小さい体を忙がしそうに働かせながら、風に揺られつつ網の破れを繕っていた。
ある日、庭に遊んでいる雀が物に驚いて飛び起った時に、彼の拡げた翼はあたかも蜘蛛の巣に触れた。鳥は向う見ずに網を突き破って通った。それから三十分ばかりの間、小さい虫はまたもや忙がしそうに働かねばならなかった。彼は忠実なる工女のように、息もつかずに糸を織っていた。
彼は善く働くと私はつくづく感心した。それと同時に、彼を駆逐することは所詮駄目だと、私は諦めた。わたしはこの頑強なる敵と闘うことを中止しようと決心した。
私が蜘蛛の巣を払うのは勿論いたずらではない。しかし命賭けでもこれを取払わねばならぬというほどの必要に迫られている訳でもない。単に邪魔だとか目障りだとかいうに過ぎないのである。これが有ったからといって、私の生活に動揺を来すというほどの大事件ではない。それと反対に、彼に取っては実に重大なる死活問題である。彼が網を張るのは悪戯や冗談ではない、彼は生きんがために努力しているのである。彼は生きている必要上、網を張って毎日の食を求めなければならない。彼には生に対する強い執着がある。毎日払い落されても、毎日これを繕ってゆく。恐く彼はいよいよ死ぬという最終の一時間までこの努力をつづけるに相違あるまい。
私は、彼に敵することは能ないと悟った。
小さい虫は遂に私を征服して、私の庭を傲然として占領している。
次は蛙である。青い脊中に軍人の肩章のような金色の線を幾筋も引いている雨蛙である。
私の狭い庭には築山がある。彼は六月の中旬頃からひょこりとそこに現れた。彼は山をめぐる躑躅の茂みを根拠地として、朝に晩にそこらを這い歩いて、日中にも平気で出て来た。雨が降ると涼しい声を出して鳴いた。
今年の梅雨中には雨が少かったので、私の甥は硝子の長い管で水出しを作った。それを楓の高い枝にかけてあたかも躑躅の茂みへ細い滝を落すように仕掛けた。午後一時半頃、甥は学校から帰って来ると、すぐにバケツに水を汲み込んで水出しの設備に取かかる。細い水は一旦噴き上って更に真直にさッと落ちて来ると、夏楓の柔い葉は重い雫に堪えないように身を顫わした。咲き残っている躑躅の白い花も湿れた頭を重そうに首肯かせた。滝は折々に風にしぶいて、夏の明るい日光の前に小さい虹を作った。湿れた苔は青く輝いた。あるものは金色に光った。
「もう今に蛙が出て来るだろう。」
こういっていると、果して何処からか青い動物が遅々と這い出して来る。彼は悠然として滝の下にうずくまる。そうして、楓の葉を通して絶間なしに降り注ぐ人工の雨に浴している。バケツの水が尽きると、甥と下女とが汲み替えて遣る。蛙は眼を晃らしているばかりでちっとも動かない。やがて十分か二十分も経ったと思うと、彼は弱い女のような細い顫え声を高く揚げて、からからからというように鳴き始める。調子はなかなか高いので二階にいる私にも能く聞えた。
こんなことが十日ほども続くと、彼は何処へか姿を隠してしまった。甥がいくら苦心しても、人工の雨では遂に彼を呼ぶことが能なくなった。甥は失望していた。私も何だか寂しく感じた。
それから四日ほど過ぎると朝から細雨が降った。どこやらでからからからという声が聞えた。甥は学校へ行った留守であったので、妻と下女とはその声を尋ねて垣の外へ出た。声は隣家の塀の内にあるらしく思われた。塀の内には紫陽花が繁って咲いていた。
「奥さんここにいますよ」と、下女が囁いた。蛙は塀の下にうずくまって昼の雨に歌っているのであった。下女は塀の下から手を入れて難なく彼を捕えて帰った。もう逃げるのじゃないよといい聞かせて、再び彼を築山のかげに放して遣った。その日は一日降暮した。夕方になると彼は私の庭で歌い始めた。
家内の者は逃げた鶴が再び戻って来たように喜んだ。築山に最も近い四畳半の部屋に集って、茶を飲みながら蛙の声を聴いた。私の家族は俄に風流人になってしまった。
俄作りの詩人や俳人は明る日になって再び失望させられた。蛙は再び逃げてしまった。今度はいくら探してももう見えなかった。
その後にもしばしば雨が降った。しかも再び彼の声を聴くことは能なかった。隣の庭でも鳴かなかった。甥の作った水出しは物置の隅へ投げ込まれてしまった。
「あんなに可愛がって遣たのに……」と、甥も下女も不平らしい顔をしていた。
実際、我々は彼を苦めようとはしなかった。寧ろ彼を愛養していた。しかも彼を狭い庭の内に押込めて、いつまでも自分たちの専有物にしておこうという我儘な意思を持っていたことは否まれなかった。そこに有形無形の束縛があった。彼は自由の天地にあこがれて、遠く何処へか立去ったのであろう。
蜘蛛は私に打克った。蛙は私の囚われを逃れた。彼らはいずれも幸福でないとはいえまい。
前回に蛙の話を書いた折に、ふと満洲の蛙を思い出した。十余年前、満洲の戦地で聴いた動物の声で、私の耳の底に最も鮮かに残っているのは、蛙と騾馬との声であった。
蓋平に宿った晩には細雨が寂しく降っていた。私は兵站部の一室を仮りて、板の間に毛布を被って転がっていると、夜の十時頃であろう、だしぬけに戸の外でがあがあと叫ぶような者があった、ぎいぎいと響くような者があった。その声は家鴨に似て非なるものであった。殊にその声の大きいのに驚かされた。
私は蝋燭を点けて外を窺った。外は真暗で、雨は間断なしにしとしとと降っていた。ぎいぎいという不思議の声は遠い草叢の奥にあるらしく思われたので、私は蝋燭を火縄に替えた。そうして、雨の中を根好く探して歩いたが、怪物の正体は遂に判らなかった。私は夜もすがらこの奇怪なる音楽のために脅やかされた。
夜が明けてから兵站部員に訊くと、彼は蛙であった。その鳴声が調子外れに高いので、初めて聴いた者は誰でも驚かされる、しかも滅多にその形を視た者はないとのことであった。漢詩では蛙の鳴くことを蛙鳴といい蛙吠というが、吠の字は必ずしも平仄の都合ばかりでなく、実際にも吠ゆるという方が適切であるかも知れないと、私はこの時初めて感じた。
日本の演劇で蛙の声を聞かせる場合には、赤貝を摺り合せるのが昔からの習であるが、『太功記』十段目の光秀が夕顔棚のこなたより現れ出でた時に、例の小田の蛙が満洲式の家鴨のような声を張上げてぎいぎいと鳴き出したらどうであろう。光秀も恐く竹槍を担いで逃げ出すより他はあるまい。私は独りで噴飯してしまった。
ただし満洲の蛙も悉くこの調子外ればかりではなかった。中には楽人の資格を備えている種類もあった。私が楊家屯に露宿した夕、宵の間は例の蛙どもが破れた笙を吹くような声を遠慮なく張上げて、私の安眠を散々に妨害したが、夜の更けるに随ってその声も漸く断えた。今夜は風の生暖い夜であった。空は一面に陰っていた。近所の溜りの池で再び蛙の声が起った。これは聞慣れた普通の声であった。わたしは久振で故郷の音楽を聴いた。桜の散る頃に箕輪田圃のあたりを歩いているような気分になった。私は嬉しかった、懐かしかった。疲れた身にも寝るのが惜いように思われたのはこの夜であった。
騾馬の嘶きも甚だ不快な記憶を止めている。これも一種のぎいぎいという声である。どう考えても生きた物の声とは思われなかった。木と木とが触れ合ったらこんな響を発するであろうかと思われた。そうして如何にも苦しい、寂しい、悲しい、今にも亡びそうな声である。ある人が彼を評して亡国の声といったのも無理はない。決して目出たい声でない、陽気な声でない、彼は人間の滅亡を予告するように高く嘶いているのではあるまいか。
遼陽の攻撃戦が酣なる時、私は雨の夕暮に首山堡の麓へ向った。その途中で避難者を乗せているらしい支那人の荷車に出逢った。左右は一面に高粱の畑で真中には狭い道が通じているばかりであった。私はよんどころなしに畑へ入って車を避けた。車を牽いているのは例の騾馬であった。車に乗っているのは六十あまりの老女と十七、八の若い娘と六、七歳の男の児の三人で、他に四十位で頬に大きな痣のある男が長い鞭を執っていた。車には掩蓋がないので、人は皆湿れていた。娘は蒼白い顔をして、鬢に雫を滴らしているのが一入あわれに見えた。
路が悪いので車輪は容易に進まなかった。車体は右に左に動揺した。車が激しく揺れるたびに、娘は胸を抱えて苦しそうに咳き入った。わたしはもしや肺病患者ではないかと危ぶんだ。
男は焦れて打々と叫んだ。そうして長い鞭をあげて容赦なしに痩せた馬の脊を打った。馬は跳って狂った。狂いながらにいくたびか高く嘶いた。娘は老女の膝に倒れかかって、血を吐きそうに強く咳き入った。
遼陽から首山堡の方面にかけて、大砲や小銃の音がいよいよ激しくなった。私は車の通り過ぎるのを待ち兼ねて、再び旧の路に出た。騾馬はまたもや続けて嘶いた。娘は揉み殺されそうに車に揺られていた。やがて男の児も泣き出した。
私が一町ほど行き過ぎた頃にも、騾馬の声は寒い雨の中に遠く聞えていた。
おたけは暇を取って行った。おとなしくて能く働く女であったが、たった二週間ばかりで行ってしまった。
これまで奉公していたおよねは母が病気だというので急に国へ帰る事になった。その代りとしておたけが目見得に来たのは、七月の十七日であった。彼女は相州の大山街道に近い村の生れで、年は二十一だといっていたが、体の小さい割に老けて見えた。その目見得の晩に私の甥が急性腸胃加答児を発したので、夜半に医師を呼んで灌腸をするやら注射をするやら、一家が徹夜で立騒いだ。来たばかりのおたけは勝手が判らないのでよほど困ったらしいが、それでも一生懸命に働いてくれた。暗い夜を薬取りの使にも行ってくれた。目見得も済んで、翌日から私の家に居着くこととなった。
彼女は何方かといえば温順過ぎる位であった。寧ろ陰気な女であった。しかし柔順で正直で骨を惜まずに能く働いて、どんな場合にも決して忌そうな顔をしたことはなかった。好い奉公人を置き当てたと家内の者も喜んでいた。私も喜んでいた。すると四、五日経った後、妻は顔を皺めてこんなことを私に囁いた。
「おたけはどうもお腹が大きいようですよ。」
「そうかしら。」
私には能く判らなかった。なるほど、小作りの女としては、腹が少し横肥りのようにも思われたが、田舎生れの女には随分こんな体格の女がないでもない。私はさのみ気にも止めずに過ぎた。
おたけはいくらか文字の素養があると見えて、暇があると新聞などを読んでいた。手紙などを書いていた。ある時には非常に長い手紙を書いていたこともあった。彼女は用の他に殆ど口を利かなかった。いつも黙って働いていた。
彼女は私の家へ来る前に青山の某軍人の家に奉公していたといった。七人の兄妹のある中で、自分は末子であるといった。実家は農であるそうだが、あまり貧しい家ではないと見えて、奉公人としては普通以上に着物や帯なども持っていた。容貌はあまり好くなかったが、人間が正直で、能く働いて、相当の着物も持っているのであるから、奉公人としては先ず申分のない方であった。諄くもいう通り、甚く温順い女で、少し粗匆でもすると顔の色を変えて平謝りに謝まった。
彼女は「だいなし」という詞を無暗に遣う癖があった。ややもすると「だいなしに暑い」とか、「だいなしに遅くなった」とかいった。病気も追々に快くなった甥などはその口真似をして、頻りに「だいなし」を流行らせていた。
妻も彼女を可愛がっていた。私も眼をかけて遣れといっていた。が、折々に私たちの心の底に暗い影を投げるのは、彼女の腹に宿せる秘密であった。気をつけて見れば見るほどどうも可怪いようにも思われたので、私はいっそ本人に対って打付に問い糺して、その疑問を解こうかとも思ったが、可哀そうだからお止しなさいと妻はいった。私も何だか気の毒なようにも思ったので、詮議は先ずそのままにしてしばらく成行を窺っていた。
月末になると請宿の主人が来て、まことに相済まないがおたけに暇をくれといった。段々聞いてみると、彼女は果して妊娠六ヵ月であった。彼女は郷里にある時に同村の若い男と親しくなったが、男の家が甚だ貧しいのと昔からの家柄が違うとかいうので、彼女の老いたる両親は可愛い末の娘を男に渡すことを拒んだ。若い二人は引分けられた。彼女は男と遠ざかるために、この春のまだ寒い頃に東京へ奉公に出された。その当時既に妊娠していたことを誰も知らなかった。本人自身も心付かなかった。東京へ出て、漸次に月の重なるに随って、彼女は初めて自分の腹の中に動く物のあることを知った。
これを知った時の彼女の悲しい心持はどんなであったろう。彼女は故郷へこのことを書いて遣ったが、両親も兄も返事をくれなかった。帰るにも帰られない彼女は、苦しい胸と大きい腹とを抱えてやはり奉公をつづけていると、盆前になって突然に主人から暇が出た。ただならぬ彼女の身体が主人の眼に着いたのではあるまいか。主人は給金のほかに反物をくれた。
彼女はいよいよ重くなる腹の児を抱えて、再び奉公先を探した。探し当てたのが私の家であった。彼女としては辛くもあったろう、苦しくもあったろう、悲しくもあったろう。気心の知れない新しい主人の家へ来て、一生懸命に働いている間にも、彼女は思うことが沢山あったに相違ない。いくら陰陽がないといっても、主人には見せられぬ涙もあったろう。内所で書いていた長い手紙には、遣瀬ない思いの数々を筆にいわしていたかも知れない。彼女が陰った顔をしているのも無理はなかった。そんなこととは知らない私は、随分大きな声で彼女を呼んだ。遠慮なしに用をいい付けた。私は思い遣りのない主人であった。
それでも彼女は幸であった。彼女が奉公替をしたということを故郷へ知らせて遣った頃から、両親の心も和らいだ。子まで生したものを今更どうすることも能まいという兄たちの仲裁説も出た。結局彼女を呼び戻して、男に添わして遣ろうということになった。そう決ったらば旧の盂蘭盆前に嫁入させるが土地の習慣だとかいうので、二番目の兄が俄に上京した。おたけは兄に連れられて帰ることになったのである。
勿論、暇をくれるという話さえ決れば、代りの奉公人の来るまでは勤めてもいいとのことであったが、私たちはいつまでも彼女を引止めておくに忍びなかった。嫁入仕度の都合などもあろうから直に引取っても差支ないと答えた。彼女は明る日の午後に去った。
去る時に彼女は二階へ上って来て、わたしの椅子の下に手を突いて、叮寧に暇乞いの挨拶をした。彼女は白粉を着けて、何だか派手な帯を締めていた。
「私の方ではもっと奉公していてもらいたいと思うけれども、国へ帰った方がお前のためには都合がいいようだから──。」
私が笑いながらこういうと、彼女は少しく頬を染めて俯向いていた。彼女はさぞ嬉しかろう。貧乏であろうが、家柄が違おうが、そんなことはどうでもいい。彼女は自分の決めた男のところへ行くことが能るようになった。彼女は私生児の母とならずに済んだ。悲しい過去は夢となった。
私も「だいなし」に嬉しかった。
僅か二週間を私の家に送ったおたけは、こんな思い出を残して去った。
Sさん。郡部の方もだんだん開けて来るようですね。御宅の御近所も春は定めてお賑かいことでしょう。そこでお前の住んでいる元園町の春はどうだという御尋ねでしたが、私共の方は昨今却ってあなたたちの方よりも寂しい位で、御正月だからといって別に取立てて申上げるほどのこともないようです。しかし折角ですから少しばかり何か御通信申上げましょう。
この頃は正月になっても、人の心を高い空の果へ引揚げて行くような、長閑な凧のうなりは全然聞かれなくなりました。往来の少い横町へ這入ると、追羽子の春めいた音も少しは聞えますが、その群の多くは玄関の書生さんや台所の女中さんたちで、お嬢さんや娘さんらしい人たちの立交っているのはあまり見かけませんから、門松を背景とした初春の巷に活動する人物としては、その色彩が頗る貧しいようです。平手で板を叩くような皷の音をさせて、鳥打帽子を被った万歳が幾人も来ます。鉦や太皷を鳴らすばかりで何にも芸のない獅子舞も来ます。松の内早仕舞の銭湯におひねりを置いてゆく人も少いので、番台の三宝の上に紙包の雪を積み上げたのも昔の夢となりました。藪入などは勿論ここらの一角とは没交渉で、新宿行の電車が満員の札をかけて忙がしそうに走るのを見て、太宗寺の御閻魔様の御繁昌を窃かに占うに過ぎません。
家々に飼犬が多いに引替えて、猫を飼う人は滅多にありません。家根伝いに浮かれあるく恋猫の痩せた姿を見るようなことは甚だ稀です。ただ折々に何処からか野良猫がさまよって来ますが、この闖入者は棒や箒で残酷に追い払われてしまいます。夜は静です、実に静です。支那の町のように宵から眠っているようです。八時か九時という頃には大抵の家は門戸を固くして、軒の電灯が白く凍った土を更に白く照しているばかりです。大きな犬が時々思い出したように、星の多い空を仰いで虎のように嘯きます。ここらでただ一軒という寄席の青柳亭が看板の灯を卸す頃になると、大股に曳き摺って行くような下駄の音が一としきり私の門前を賑わして、寄席帰りの書生さんの琵琶歌などが聞えます。跡はひっそりして、シュウマイ屋の唐人笛が高く低く、夜風にわななくような悲しい余韻を長く長く曳いて、横町から横町へと闇の奥へ消えて行きます。どこやらで赤児の泣く声も聞えます。尺八を吹く声も聞えます。角の玉突場でかちかちという音が寒むそうに聞えます。
寒の内には草鞋ばきの寒行の坊さんが来ます。中には襟巻を暖かそうにした小坊主を連れているのもあります。日が暮れると寒参りの鈴の音も聞えます。麹町通りの小間物屋には今日うし紅のビラが懸けられて、キルクの草履を穿いた山の手の女たちが驕慢な態度で店の前に突っ立ちます。ここらの女の白粉は格別に濃いのが眼に着きます。
四谷街道に接している故か、馬力の車が絶間なく通って、さなきだに霜融の路をいよいよ毀して行くのも此頃です。子供が竹馬に乗って歩くのも此頃です。火の番銭の詐欺の流行るのも此頃です。しかし風のない晴れた日には、御堀の堤の松の梢が自ずと霞んで、英国大使館の旗竿の上に鳶が悠然と止まっているのも此頃です。
まだ書いたら沢山ありますが、先ずここらで御免を蒙ります。さようなら。
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めてこの病が流行り出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗になった。我々はその時初めてインフルエンザという病名を知って、それは仏蘭西の船から横浜に輸入されたものだという噂を聞いた。しかしその当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風といっていた。何故お染という可愛らしい名を冠らせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれに能く似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうとある老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料見は、恐らく恋風というような意味で、お染が久松に惚れたように、直に感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染には限らない。お夏でもお俊でも小春でも梅川でもいい訳であるが、お染という名が一番可愛らしく婀娜気なく聞える。猛烈な流行性を有って往々に人を斃すようなこの怖るべき病に対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗る面白い対照である、流石に江戸児らしい所がある。しかし例の大虎列剌が流行した時には、江戸児もこれには辟易したと見えて、小春とも梅川とも名付親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと智慧のない名を付けてしまった。
既にその病がお染と名乗る以上は、これに凴着かれる患者は久松でなければならない。そこでお染の闖入を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。三囲の堤下を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒の傍には白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に凴着くにはやはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。
音楽家のS君が来て、狐の軍人という恠談を話して聞かせた。
それは明治二十五年の夏であった。軍人出身のS君はその当時見習士官として北の国の○○師団司令部に勤務中で、しかも自分が当番の夜の出来事であるから決して誤謬はないと断言した。狐が軍人に化けて火薬庫の衛兵を脅かそうとしたというのである。赤羽や宇治の火薬庫事件が頭に残っている際であるから、私は一種の興味を以てその話を聴いた。
どこも同じことで、火薬庫のある附近には、岡がある、森がある、草が深い。殊に夏の初めであるから、森の青葉は昼でも薄暗いほどに茂っていた。その森の間から夜半の一時頃に一つの提灯がぼんやりとあらわれた。歩哨の衛兵が能く視ると、それは陸軍の提灯で別に不思議もなかった。段々近いて来ると、提灯の持主は予て顔を見識っているM大尉で、身には大尉の軍服を着けていた。しかし規則であるから、衛兵は銃剣を構えて「誰かッ」と一応咎めたが、大尉は何とも返事をしないで衛兵の前に突っ立っていた。
返事をしない以上は直に突き殺しても差支ないのであるが、みすみすそれが顔を見識っている大尉であるだけに、衛兵もさすがに躊躇した。再び声をかけたが、大尉はやはり答えなかった。その中に衛兵は不思議なことを発見した。大尉の持っている提灯は紙ばかりで骨がなかった。大尉は剣も着けていなかった。衛兵は三たび呼んだが、それでも返事のないのを見て、彼はやにわに銃剣を揮って大尉の胸を突き刺した。大尉は悲鳴をあげて倒れた。
衛兵はその旨を届け出たので、隊でも驚いた。司令部でも驚いた。当番のS君は真先に現場へ出張した。聯隊長その他も駈付けて見ると、M大尉は軍服を着たままで倒れていた。衛兵の申立とは違って、その持っている提灯には骨があった。しかし剣は着けていなかった、靴も穿いていなかった。殊に当番でもない彼が何故こんな姿でここへ巡回して来たのか、それが第一の疑問であった。取あえずM大尉の自宅へ使を走らせると、大尉は無事に蚊帳の中に眠っていた。呼び起してこの出来事を報告すると、大尉自身も面食って早々にここへ駈付けて来た。
大尉は小作りの人であった。倒れている死体も小作りの男であった。何人も初めは一見して彼を大尉と認めていたが、ほんとうの大尉その人に比較して能く視ると、まるで似付かないほどに顔が違っていた。陸軍大尉の軍服は着けているが、どこの誰だか判らないということになってしまった。要するに彼はほんとうの軍人でない、何者かが軍人に変装してこの火薬庫へ窺い寄ったのではあるまいかという決論に到着した。果してそうならば問題がまた重大になって来るので、死体を一先ず室内へ舁き入れて、何や彼やと評議をしている中に、短い夏の夜はそろそろ白んで来た。死体は仰向に横えて、顔の上には帽子が被せてあった。
とにかくに人相書を認める必要があるので、一人の少尉がその死体の顔から再び帽子を取除けると、彼は思わずあっと叫んだ。硝子の窓から流れ込む暁の光に照された死体の顔は、いつの間にか狐に変っていた。狐が軍服を着ていたのであった。
「狐が化けるはずはない。」
若い士官たちは容易に承認しなかった。しかし現在そこに横っている死体は、人間でない、勿論M大尉でない。たしかに一匹の古狐であった。若い士官たちが如何に雄弁に論じても、この生きた証拠を動かすことは不可能であった。狐や狸が化けるという伝説も嘘ではないということになってしまった。S君も異議を唱えた一人で、強情に何時までも死体を監視していたが、狐は再び人間に復らなかった。朝がだんだん明るくなるに従って、彼は茶褐色の毛皮の正体を夏の太陽の強い光線の前に遠慮なく曝け出してしまった。ただし軍服や提灯の出所は判らなかった。
「狐が人間に化けるなどということは信じられません。私は今でも絶対に信じません。けれども、こういう不思議な事実を曾て目撃したということだけは否む訳に行きませんよ。どう考えても判りませんねえ」と、S君は首をかしげていた。私も烟にまかれて聴いていた。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
1915(大正4)年3、7、8、9月、1916(大正5)年1、4月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
2011年10月9日修正
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