二葉亭余談
内田魯庵
|
私が初めて二葉亭と面会したのは明治二十二年の秋の末であった。この憶出を語る前に順序として私自身の事を少しくいわねばならない。
これより先き二葉亭の噂は巌本撫象から度々聞いていた。巌本は頻りに二葉亭の人物を讃歎して、「二葉亭は哲学者である、シカモ輪廓の大なる人物である、」と激称していた。『浮雲』は私の当時の愛読書の一つで、『あいびき』や『めぐりあい』をも感嘆して何度も反覆していたから是非一度は面会したいと思いながらも機会を得なかった。
その頃私が往来していた文壇の人はいくばくもなかった。紅葉美妙以下硯友社諸氏の文品才藻には深く推服していたが、元来私の志していたのは経済であって、文学の如きは閑余の遊戯としか思っていなかった。平たくいうと、当時は硯友社中は勿論、文学革新を呼号した『小説神髄』の著者といえども今日のように芸術を深く考えていなかった。ましてや私の如きただの応援隊、文壇のドウスル連というようなものは最高文学に対する理解があるはずがなかった。面白ずくに三馬や京伝や其磧や西鶴を偉人のように持上げても、内心ではこの輩が堂々たる国学または儒林の先賢と肩を列べる資格があるとは少しも思っていなかった。渠らの人物がどうのこうのというよりはドダイ小説や戯曲を尊重する気がしなかった。坪内逍遥や高田半峰の文学論を読んでも、議論としては感服するが小説その物を重く見る気にはなれなかった。
私が初めて甚深の感動を与えられ、小説に対して敬虔な信念を持つようになったのはドストエフスキーの『罪と罰』であった。この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。
私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わなかった。が、小説雑著は児供の時から好きでかなり広く渉猟していた。その頃は普通の貸本屋本は大抵読尽して聖堂図書館の八文字屋本を専ら漁っていた。西洋の物も少しは読んでいた。それ故、文章を作らしたらカラ駄目で、とても硯友社の読者の靴の紐を結ぶにも足りなかったが、其磧以後の小説を一と通り漁り尽した私は硯友社諸君の器用な文才には敬服しても造詣の底は見え透いた気がして円朝の人情噺以上に動かされなかった。古人の作や一知半解ながらも多少窺った外国小説(その頃ゾラやドウデも既に読んでいた)でも全幅を傾倒するほどの感に打たれるものには余り多く出会わなかったから、私の文学に対するその頃の直踏は余り高くはなかった。
然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野に落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。その時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するような感に充たされた。
それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった。それまでは文学を軽視し、内心「時間潰し」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応援隊となっていたが、それ以来かくの如き態度は厳粛な文学に対する冒涜であると思い、同時に私のような貧しい思想と稀薄な信念のものが遊戯的に文学を語るを空恐ろしく思った。
同時に私は二葉亭を憶出した。巌本撫象が二葉亭は哲学者であるといったのを奇異な感じを以て聞いていたが、ドストエフスキーの如き偉大な作家を産んだ露国の文学に造詣する二葉亭は如何なる人であろうと揣摩せずにはいられなかった。
これより先き、私はステップニャツクの『アンダーグラウンド・ラシヤ』を読んで露国の民族性及び思想に興味を持ち、この富士の裾野に旅した時も行李の中へ携えて来たが、『罪与罰』に感激すると同時にステップニャツクを想い起し、かつ二葉亭をも憶い浮べた。
今考えると、ステップニャツクと二葉亭とを結び付けるというは奇妙であるが、その時は同型でなくとも何処かに遠い親類ぐらいの共通点があるように思っていた。ステップニャツクの肖像や伝記はその時分まだ知らなかったが、精悍剛愎の気象が満身に張切ってる人物らしく推断して、二葉亭をもまた巌本からしばしば「哲学者である」と聞いていた故、哲学者風の重厚沈毅に加えて革命党風の精悍剛愎が眉宇に溢れている状貌らしく考えていた。左に右く多くの二葉亭を知る人が会わない先きに風采閑雅な才子風の小説家型であると想像していたと反して、私は初めから爾うは思っていなかった。
秋の末に帰京すると、留守中の来訪者の名刺の中に意外にも長谷川辰之助の名を発見してあたかも酸を懐うて梅実を見る如くに歓喜し、その翌々日の夕方初めて二葉亭を猿楽町に訪問した。
丁度日が暮れて間もなくであった。座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷無髯の巨漢が高い卓子の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団を跳退けて代りに置く処だった。
一応初対面の挨拶を済まして部屋の四周を見廻した。薄暗いランプの蔭に隠れて判然解らなかったが、ランプを置いた小汚ない本箱の外には装飾らしい装飾は一つもなく、粗末な卓子に附属する椅子さえなくして、本箱らしい黒塗の剥げた頃合の高さの箱が腰掛ともなりランプ台ともなるらしかった。美妙斎や紅葉の書斎のゴタクサ書籍を積重ねた中に変梃な画や翫弄物を列べたと反して、余りに簡単過ぎていた。
風采は私の想像と余りに違わなかった。沈毅な容貌に釣合う錆のある声で、極めて重々しく一語々々を腹の底から搾り出すように話した。口の先きで喋べる我々はその底力のある音声を聞くと、自分の饒舌が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。
何を咄したか忘れてしまったが、今でも頭脳に固く印しているのは、その時卓子の上に読半しの書籍が開いたまま置かれてあったのを何であると訊くと、二葉亭は極めて面羞げな顔をして、「誠にお恥かしい事で、今時分漸と『種原論』を読んでるような始末で、あなた方英書をお読みになる方はこういう名著を早くから御覧になる事が出来るが、露西亜には文学書の外何にもないので三歳子も知ってる名著に今時分漸とこさと噛り付いているような次第で、」とさも恥入るという容子だった。それから三十年経った今でさえ尚だダアウィンを覗かない私は今でも憶出すと面目ないが、なお更その時は消え入りたいような気持がした。
その時私より三、四十分も遅れて大学の古典漢文科の出身だというYが来問した。この人の口から日本将来の文章という問題が提起された。その時の二葉亭の答が、今では発揮と覚えていないが、何でもこういう意味であった。「一体文章の目的は何である乎。真理を発揮するのが文章の目的乎、人生を説明するのが文章の目的乎、この問題が決しない中は将来の文章を論ずる事は出来ない。この問題が定まれば乃ちその目的を達するに最も近い最も適する文章が自ずから将来の文体となるのである──」という趣旨であった。
この答には私は意外の感に打たれた。当時私はスペンサーの文体論を初め二、三の著名な文章説を読んでいたが、こういう意味の文章論をいわゆる小説家の口から聴こうとは夢にも思っていなかった。問題の提出者たる古典科出身のYは不可解な顔をして何ともいわなかった。
ドストエフスキーを読んで落雷に出会ったような心地のした私は更に二葉亭に接して千丈の飛瀑に打たれたような感があった。それまで実は小説その他のいわゆる軟文学をただの一時の遊戯に過ぎないとばかり思っていたのだが、朧ろ気ながらも人生と交渉する厳粛な森厳な意味を文学に認めるようになったのはこの初対面に由て得た二葉亭の賜物であって、誰に会った時よりも二葉亭との初対面が最も深い印象を残した。
たしか明治二十四年頃であった、二葉亭は四谷の津の守の女の写真屋の二階に下宿した事があった。写真屋というと気が利いているが、宿場外れの商人宿めいたガサガサした下等な家で、二葉亭の外にも下宿人があったらしく、写真屋が本業であった乎、下宿屋が本業であった乎、どちらとも解らない家であった。
秋の一夜偶然尋ねると、珍らしく微醺を帯びた上機嫌であって、どういう話のキッカケからであったか平生の話題とは全で見当違いの写真屋論をした。写真屋の資本の要らない話、資本も労力も余り要らない割合には楽に儲けられる話、技術が極めて簡単だから女にでも、少し器用なら容易に覚えられる話、写真屋も商売となると技術よりは客扱いが肝腎だから、女の方がかえって愛嬌があって客受けがイイという話、ここの写真屋の女主人というは後家さんだそうだが相応に儲かるという咄、そんな話を重ねた挙句が、「官吏も面白くないから、女の写真屋でも初めて後見をやろうかと思う、」と取っても附かない事を言出した。
「女の写真屋は面白い。が、あるかネ、技師になる適当の女が?」というと、さもこそといわぬばかりに、「ある、ある、打って付けのお誂え向きという女がある。技術はこれから教育まにゃならんが、技術は何でもない。それよりは客扱い──髯の生えた七難かしい軍人でも、訳の解らない田舎の婆さんでも、一視同仁に手の中に丸め込む客扱いと、商売上の繰廻しをグングン押切って奮闘する勝気が必要なんだが、幸い人生の荒波の底を潜って活きた学問をして来た女がある」と、それから今の女の教育が何の役にも立たない事、今の女の学問が紅白粉のお化粧同様である事、真の人間を作るには学問教育よりは人生の実際の塩辛い経験が大切である事、茶屋女とか芸者とかいうような下層に沈淪した女が案外な道徳的感情に富んでいて、率という場合懐ろ育ちのお嬢さんや女学生上りの奥さんよりも遥に役に立つ事を諄々と説き、「女丈夫というほどでなくとも、こういう人生の荒浪を潜り抜けて来た女でなくては男の真の片腕とするには足りない」と、何処の女であるか知らぬが近頃際会したという或る女の身の上咄をして、「境涯が境涯だから人にも賤しめられ侮られているが、世間を呑込んで少しも疑懼しない気象と、人情の機微に通ずる貴い同情と──女学校の教育では決して得られないものを持ってる。こういう女に多少の学問と独立出来る職業を与えたら、虚栄に憧がれる今の女学校出の奥さんよりは遥に勝った立派な女が出来る、」と意気込んで咄した。
この結論に達するまでの理路は極めて井然としていたが、ツマリ泥水稼業のものが素人よりは勝っているというが結論であるから、女の看方について根本の立場を異にする私には一々承服する事が出来なかった。が、議論はともあれ、初めは微酔気味であったのが段々真剣になって低い沈んだ調子でポツリポツリと話すのが淋しい秋の寂寞に浸み入るような気がして、内心承服出来ない言葉の一つ一つをシンミリと味わせられた。
「その女をどうしようッてのだい?」
「どうする意もないが、境遇のため眠ってるヒューマニチーの眼を覚まさせるため、真面目な職業なり学問なりを与えてやりたいのだ」と、女の咄から発して人生論となり、コントのポジティヴィズムに説き及ぼし、蜘蛛が巣を作るように段々と大きな網を広げて、終にはヒューマニチーの大哲学となった。女の写真屋を初めるというのも、一人の女に職業を与えるためというよりは、救世の大本願を抱く大聖が辻説法の道場を建てると同じような重大な意味があった。
が、その女は何者である乎、現在何処にいる乎と、切込んで質問すると、「唯の通り一遍の知り合いだからマダ発表する時期にならない、」とばかりで明言しなかった。が、「一見して気象に惚れ込んだ、共に人生を語るに足ると信じたのだ、」と深く思込んだ気色だった。
折々──というよりは煩さく、多分下宿屋の女中であったろう、十二階下とでもいいそうな真白に塗り立てた女が現われて来て、茶を汲んだり炭をついだりしながら媚かしい容子をして、何か調戯われて見たそうにモジモジしていた。沈毅な二葉亭の重々しい音声と、こうした真剣な話に伴うシンミリした気分とに極めて不調和な下司な女の軽い上調子が虫唾が走るほど堪らなく不愉快だった。
十二時近くこの白粉の女が来て、「最う臥せりますからお床を伸べましょうか、」といった。遅いとは思ったが、初めて時間に気が付いて急いで座を起とうとすると、尚だ余談が尽きないから泊って行けといいつつ、「お客様の床も持って来てくれ」と吩咐けた。
二葉亭は談話が上手でもあったしかつ好きでもあった。が、この晩ぐらい興奮した事は珍らしかった。更ければ更けるほど益々身が入って、今ではその咄の大部分を忘れてしまったが、平日の冷やかな科学的批判とは全く違ったシンミリした人情の機微に入った話をした。二時となり三時となっても話は綿々として尽きないで、余り遅くなるからと臥床に横になって、蒲団の中に潜ずり込んでしまってもなおこのまま眠てしまうのが惜しそうであった。「寝よう乎」と寝返りしては復た暫らくして、「どうも寝られない」と向き直ってポツリポツリと話し出し、とうとう鶏の音が聞えて雨戸の隙が白んで来たまでも語り続けた。明るくなったので最う眠るでもないと床を離れて「それじゃア帰ろう」というと、まだ話が仕足りなさそうな容子で、「どうせ最う眠られんから運動がてら其辺まで送って行こう」とムックリ起上って、そこそこに顔を洗ってから一緒に家を出で、津の守から坂町を下り、士官学校の前を市谷見附まで、シラシラ明けのマダ大抵な家の雨戸が下りてる中をブラブラと送って来た。八幡の鳥居の傍まで来て別れようとした時、何と思った乎、「イヤ、昨宵は馬鹿ッ話をした、女の写真屋の話は最う取消しだ、」とニヤリと笑いつつ、「飛んでもないお饒舌をしてしまった!」
*
その晩の話を綜合して想像すると、境遇のため泥水稼業に堕ちた可哀相な気の毒な女があって、これを泥の中から拾い上げて、中年からでも一人前になれる自活の道を与える意で、色々考えた結果がココの女の写真屋の内弟子に住込ませて仕込んでもらってるらしかった。が、开んな女が果してあったかドウかは知ない。この晩度々見えた白粉の女がそうらしくも思われたが、マサカに二葉亭が「一見して気象に惚れ込んだ」というほど思い込んだ女があんな下司な引摺だとは信じられなかった。女の写真屋の話はそれ切で、その後コッチから水を向けても「アレは空談サ」とばかり一笑に附してしまったから今以て不可解である。二葉亭は多情多恨で交友間に聞え、かなり艶聞にも富んでいたらしいが、私は二葉亭に限らず誰とでも酒と女の話には余り立入らんから、この方面における二葉亭の消息については余り多く知らない。ただこの一夜を語り徹かした時の二葉亭の緊張した相貌や言語だけが今だに耳目の底に残ってる。
二葉亭には道楽というものがなかった。が、もし強て求めたなら食道楽であったろう。無論食通ではなかったが、始終かなり厳ましい贅沢をいっていた。かつ頗る健啖家であった。
私が猿楽町に下宿していた頃は、直ぐ近所だったので互に頻繁に往来し、二葉亭はいつでも夕方から来ては十二時近くまで咄した。その頃私は毎晩夜更かしをして二時三時まで仕事をするので十二時近くなると釜揚饂飩を取るのが例となっていた。下宿屋の女中を呼んで、頤をしゃくッて「宜いかい」というと直ぐに合点したもんだ。二葉亭も来る度毎に必ずこの常例の釜揚を賞翫したが、一つでは足りないで二つまでペロリと平らげる事が度々であった。
二葉亭の恩師古川常一郎も交友間に聞えた食道楽であった。かつて或る暴風雨の日に俄に鰻が喰いたくなって、その頃名代の金杉の松金へ風雨を犯して綱曳き跡押付きの俥で駈付けた。ところが生憎不漁で休みの札が掛っていたので、「折角暴風雨の中を遥々車を飛ばして来たのに残念だ」と、悄気返って頻に愚痴ったので、帳場の主人が気の毒がって、「暫らくお待ち下さいまし」と奥へ相談に行き、「折角ですから一尾でお宜しければ……」といった。「一尾結構、」と古川先生大いに満足して一尾の鰻を十倍旨く舌打して賞翫したという逸事がある。恩師の食道楽に感化された乎、将た天禀の食癖であった乎、二葉亭は食通ではなかったが食物の穿議がかなり厳ましかった。或る時一緒に散策して某々知人を番町に尋ねた帰るさに靖国神社近くで夕景となったから、何処かで夕飯を喰おうというと、この近辺には喰うような家がないといって容易に承知しない。それから馬場を通り抜け、九段を下りて神保町をブラブラし、時刻は最う八時を過ぎて腹の虫がグウグウ鳴って来たが、なかなかそこらの牛肉屋へ入ろうといわない。とうとう明神下の神田川まで草臥れ足を引摺って来たのが九時過ぎで、二階へ通って例の通りに待たされるのが常より一層待遠しかったが「こうして腹を空かして置くのが美食法の秘訣だ、」と、やがて持って来た大串の脂ッこい奴をペロペロと五皿平らげた。
私は食物には割合に無頓着であって、何処でも腹が空けばその近所の飲食店で間に合わして置く方であるが、二葉亭はなかなか爾う行かなかった。いつでも散歩すると意見の衝突を来すは必ず食事であって、その度毎に「食物では話せない」といった。電車の便利のない時分、向島へ遊びに行って、夕飯を喰いにわざわざ日本橋まで俥を飛ばして行くという難かし屋であった。
その上に頗る多食家であって、親しい遠慮のない友達が来ると水菓子だの餅菓子だのと三種も四種も山盛りに積んだのを列べて、お客はそっちのけで片端からムシャムシャと間断なしに頬張りながら話をした。殊に蜜柑と樽柿が好物で、見る間に皮や種子を山のように積上げ、「死骸を見るとさも沢山喰ったらしくて体裁が宜くない、」などと云い云い普通の人が一つ二つを喰う間に五つも六つもペロペロと平らげた。
が、贅沢は食物だけであって、衣服や道具には極めて無頓着であった。私が初めて訪問した時にダーウィンの『種原論』が載っていた粗末な卓子がその後脚を切られて、普通の机となって露西亜へ行くまで使用されていた。硯も書生時代から持古るしたお粗末のものなら、墨も筆も少しも択ばなかった。机の上は勿論、床の間にさえ原稿紙や手紙殻や雑誌や書籍がダラシなくゴタクサ積重ねられ、装飾らしい装飾は一物もなかった。一と口にいうと、地方からポッと出の山出し書生の下宿住い同様であって、原稿紙からインキの色までを気にする文人らしい趣味や気分を少しも持たなかった。文房粧飾というようなそんな問題には極めて無頓着であって、或る時そんな咄が出た時、「百万両も儲かったら眼の玉の飛出るような立派な書斎を作るサ、」と事もなげに呵々と笑った。
衣服にもやはり無頓着であった。煙草が好きで、いつでも煙管の羅宇の破れたのに紙を巻いてジウジウ吸っていたが、いよいよ烟脂が溜って吸口まで滲み出して来ると、締めてるメレンスの帯を引裂いて掃除するのが癖で、段々引裂かれて半分近くまでも斜に削掛のように総が下ってる帯を平気で締めていた。実業熱が長じて待合入りを初めてから俄かにめかし出したが、或る時羽織を新調したから見てくれと斜子の紋付を出して見せた。かなり目方のある斜子であったが、絵甲斐機の胴裏が如何にも貧弱で見窄らしかったので、「この胴裏じゃ表が泣く、最少し気張れば宜かった」というと「何故、昔から羽織の裏は甲斐機に定ってるじゃないか、」と澄ました顔をしていた。それから、「この頃は二子の裏にさえ甲斐機を付ける。斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生染みていて、待合入りをする旦那の估券に触る。思切って緞子か繻珍に換え給え、」(その頃羽二重はマダ流行らなかった。)というと、「緞子か繻珍?──そりゃア華族様の事ッた、」と頗る不平な顔をして取合わなかった。丁度同じ頃、その頃流行った黒無地のセルに三紋を平縫いにした単羽織を能く着ていたので、「大分渋いものを拵えたネ、」と褒めると、「この位なものは知ってるサ、」と頗る得々としていた。
二葉亭は江戸ッ子肌であった。あの厳しい顔に似合わず、(野暮を任じていたが、)粋とか渋いとかいう好みにも興味を持っていて相応に遊蕩もした。そういう方面の交際を全く嫌った私の生野暮を晒って、「遊蕩も少しはして見ないとホントウの人生が解らんものだ、一つ何処かイイ処へ案内しようじゃないか、」と能く云い云いした。
二葉亭のお父さんは尾州藩だったが、長い間の江戸詰で江戸の御家人化していた。お母さんも同じ藩の武家生れだったが、やはり江戸で育って江戸風に仕込まれた。両親共に三味線が好きで、殊にお母さんは常磐津が上手で、若い時には晩酌の微酔にお母さんの絃でお父さんが一とくさり語るというような家庭だったそうだ(二葉亭の直話)。江戸の御家人にはこういう芸欲や道楽があって、大抵な無器用なものでも清元や常磐津の一とくさり位は唄ったもんだ。二葉亭のお父さんも晩酌の膳に端唄の一つも唄うという嗜みがあったのだから、若い時分には相応にこの方面の苦労をしたろうと思う。この享楽気分の血は二葉亭にもまた流れていた。
その頃の書生は今の青年がオペラやキネマへ入浸ると同様に盛んに寄席へ通ったもので、寄席芸人の物真似は書生の課外レスンの一つであった。二葉亭もまた無二の寄席党で、語学校の寄宿舎にいた頃は神保町の川竹(その頃は川竹とはいわなかったが)の常連であった。新内の若辰が大の贔負で、若辰の出る席へは千里を遠しとせず通い、寄宿舎の淋しい徒然には錆のある声で若辰の節を転がして喝采を買ったもんだそうだ。二葉亭の若辰の身振声色と矢崎嵯峨の屋の談志の物真似テケレッツのパアは寄宿舎の評判であった。嵯峨の屋は今は六十何歳の老年でマダ健在であるが、あのムッツリした朴々たる君子がテケレッツのパアでステテコ気分を盛んに寄宿舎に溢らしたもんだ。語学校の教授時代、学生を引率して修学旅行をした旅店の或る一夜、監督の各教師が学生に強要されて隠し芸を迫られた時、二葉亭は手拭を姉さん被りにして箒を抱え、俯向き加減に白い眼を剥きつつ、「処、青山百人町の、鈴木主水というお侍いさんは……」と瞽女の坊の身振りをして、平生小六かしい顔をしている先生の意外な珍芸にアッと感服さしたというのはやはり昔し取った杵柄の若辰の物真似であったろう。「謹厳」が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸ッ子であったのだ。
東片町に住った頃、近所に常磐津を上手に語る家があった。二葉亭は毎晩その刻限を覘っては垣根越しに聞きに行った。艶ッぽい節廻しの身に沁み入るようなのに聞惚れて、為永の中本に出て来そうな仇な中年増を想像しては能く噂をしていたが、或る時尋ねると、「時にアノ常磐津の本尊をとうとう突留めたところが、アンマリ見当外れでビックリした。仇な年増どころか皺だらけのイイ婆アさんサ。あの乾枯びたシャモの頸のような咽喉からドウしてアンナ艶ッぽい声が出るか、声ばかり聞いてると身体が融けるようだが、顔を見るとウンザリする、」といった。が、顔を見るとウンザリしてもその声に陶酔した気持は忘れられないと見えて、その後も時々垣根の外へ聞きに行ったらしかった。『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐かしい心持になる。私はこれを日本国民が二千年来この生を味うて得た所のものが間接の思想の形式に由らず直ちに人の肉声に乗って無形のままで人心に来り迫るのだ」とあるは二葉亭のこの間の芸に魅入られた心境を説明しておる。だが、こういうと馬鹿に難かしく面倒臭くなるが、畢竟は二葉亭の頭の隅のドコかに江戸ッ子特有の廃頽気分が潜在して、同じデカダンの産物であるこういう俗曲に共鳴したのであろう。これを日本国民が二千年来この生を味うて得た所のものと国民性に結びつけて難かしく理窟をつける処に二葉亭の国士的形気が見える。
だが、同じ日本の俗曲でも、河東節の会へ一緒に聴きに行った事があるが、河東節には閉口したらしく、なるほど親類だけに二段聴きだ、アンナものは三味線の揺籃時代の産物だといって根っから感服しなかった。河東節の批評はほぼ同感であったが、私が日本の俗曲では何といっても長唄であると長唄礼讃を主張すると、長唄は奥さん向きの家庭音曲であると排斥して、何といっても隅田河原の霞を罩めた春の夕暮というような日本民族独特の淡い哀愁を誘って日本の民衆の腸に染込ませるものは常磐津か新内の外にはないと反対した。この俗曲論は日本の民族性の理解を基礎として立てた説であるが、一つは両親が常磐津が好きで、児供の時から聴き馴れていたのと、最一つは下層階級に味方する持前の平民的傾向から自然にこれらの平民的音曲に対する同感が深かったのであろう。
二葉亭は洋楽には一向趣味がなかった。折に触れて洋楽に対する私の興味を語ると、「洋楽はトッピキピのピだ」と一言に蔑しつけた。「洋楽にもかなりシンミリしたものがある、ヘイズンかシューベルトのセレナードでも聴いて見給え、かなりシンミリした情調が味える、かつシンミリしたものばかりが美くしい音楽ではないから……」と二、三度音楽会へ誘って見たが、「洋楽は真平御免だ!」といって応じなかった。桜井女学校の講師をしていた時分、卒業式に招かれて臨席したが、中途にピアノの弾奏が初まったので不快になって即時に退席したと日記に書いてある。晩年にはそれほど偏意地ではなかったが、左に右く洋楽は嫌いであった。この頃の洋楽流行時代に居合わして、いわゆる鋸の目を立てるようなヴァイオリンやシャモの絞殺されるようなコロラチゥラ・ソプラノでもそこらここらで聴かされ、加之にラジオで放送までされたら二葉亭はとても助かるまい。苦虫潰しても居堪まれないだろう。
俗曲よりも好きだったのは犬と猫であった。俗曲と家畜を一緒にするのは変であるが二葉亭の趣味問題としていうと、俗曲の方には好き嫌いや註文があって、誰が何を語っても感服したのではなかったが、家畜の方は少しも択り好みがなく、どんな犬でも猫でも平等に愛していた。『浮雲』時代の日記に、「常に馴れたる近隣の飼犬のこの頃は余を見ても尾を振りもせず跟をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅ぐのみにて余所を向く、この頃は殽を食する事稀なれば残りを食まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、ただこう思ひたるばかりにてさして心に留めざりしかど何となく快からず」とあるは犬に与える残殽にだも不自由をして懐いた犬に背かれたのを心淋しく感じたのであろう。
『平凡』の中の犬の一節は二葉亭の作中屈指の評判物であるが、あれは仲猿楽町時代の飼犬の実話を書いたものである。あの行衛知れずになった犬というはポインターとブルテリヤの醜い処を搗交ぜたような下等雑種であって、『平凡』にある通りに誰の目にも余り見っとも好くない厭な犬であった。『平凡』では棄てられてクンクン鳴いていた犬の子を拾って育て上げたように書いてあるが、事実は役所の帰途に随いて来た野良犬をズルズルベッタリに飼犬としてしまったので、『平凡』にある通りな狐のような厭な犬であったから、家族は誰も嫌がって碌々関いつけなかった。が、犬ぶりに由て愛憎を二つにしない二葉亭は不便がって面倒を見てやったから、犬の方でも懐いて、二葉亭が出る度毎に跟を追って困るので、役所へ行く時は格子の中に閉じ込めて何処へも出られないようにして置いた。その留守中は淋しそうにションボリして時々悲しい低い声を出して鳴いていたが、二葉亭が帰って来て格子を開けると嬉しそうに飛付き、框に腰を掛けて靴を脱ごうとする膝へ飛上って、前脚を肩へ掛けてはベロベロと頬ぺたを舐めた。「こらこら、そんな所為をする勿」と二葉亭は柔しく制しながらも平気で舐めさしていた。時に由ると、嬉しくて堪らぬように踵から泥足のまま座敷まで追掛けて来てジャレ付いた。ジャレ付くのが可愛いような犬ではなかったが、二葉亭はホクホクしながら、「こらこら、畳の上が泥になる、」と細い眼をして叱りつけ、庭先きへ追出しては麺麭を投げてやった。これが一日の中の何よりの楽みであった。『平凡』に「……ポチが私に対うと……犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる、」とあるはこの瞬間の心持をいったもんだ。
この犬が或る日、二葉亭が出勤した留守中、お客が来て格子を排けた途端に飛出し、何処へか逃げてしまってそれ切り帰らなかった。丁度一週間ほど訪いも訪われもしないで或る夕方偶と尋ねると、いつでも定って飛付く犬がいないので、どうした犬はと訊くと、潮垂れ返った元気のない声で、「逃げたのか、取られたのか、いなくなってしまった」と、見えなくなった顛末を語って吻と嘆息を吐いた。「まるきり踪跡が解らんのかい?」と重ねて訊くと、それ以来毎日役所から帰ると処々方々を捜しに歩くが皆目解らない、「多分最う殺されてしまったろう」と悄れ返っていた。「昨日は酒屋の御用が来て、こちらさまのに善く似た犬の首玉に児供が縄を縛り付けて引摺って行くのを壱岐殿坂で見掛けたといったから、直ぐ飛んでって其処ら中を訊いて見たが、皆くれ解らなかった。児供に虐め殺された乎、犬殺しの手に掛ったか、どの道モウいないものと断念めにゃならない」と、自分の児供を喪くした時でもこれほど落胆すまいと思うほどに弱り込んでいた。家庭の不幸でもあるなら悔みの言葉のいいようもあるが、犬では何と言って慰めて宜いか見当が付かないので、「犬なんてものは何処かへ行ってしまったと思うと、飛んでもない時分に戻って来るもんだ。今に必と帰って来るよ、」といって見た。が、二葉亭は「イヤ、最う断念めた!」と黙り込んでしまったので、この上最早言葉の接穂がなかった。
その当座は犬の事ばかりに屈托して、得意の人生論や下層研究も余り口に出なかった。あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、「イヤ、貰う気はしない、先妻が死んで日柄が経たない中に、どんな美人があるからッて後妻を貰う気になれるかい、」と喪くなった醜い犬を追懐して惻々の情に堪えないようだった。
犬よりも最う一倍酷愛していたのは猫であった。皆川町時代から飯田町、東片町の家に出入したものは誰でも知ってる、白いムクムクと肥った大きな牝猫が、いつでも二葉亭の膝の廻りを離れなかったものだ。東片町時代には大分老耄して居睡ばかりしていたが、この婆さん猫が時々二葉亭の膝へ這上って甘垂れ声をして倦怠そうに戯れていた。人間なら好い齢をした梅干婆さんが十五、六の小娘の嬌態を作って甘っ垂れるようなもんだから、小滛らしくて撲り倒してやりたい処だが、猫だからそれほど妙にも見えないで、二葉亭はお祖父さんが孫を可愛がるようにホクホクして甘やかしていた。
この猫も本とは皆川町時代に何処からか紛れ込んで来た迷い猫であって、毛並から面付までが余り宜くなかった。が、二葉亭は、「誰も褒めてくれ手がなくても、大事な可愛いい娘だ、」と、猫を抱えて頬摺りしながら能く言ったもんだ。「人間の標準から見て、猫の容貌が好いの悪いのというは間違ってる、この猫だって誰も褒めてくれ手がなくても猫同士が見たら案外な美人であるかも知れない、その証拠には交孳の時には牡猫が多勢張りに来る、」と。
かつ曰く、「仮に容貌が悪いにしても、容貌の好悪で好き嫌いをするのは真に愛する所以ではない。自分の娘が醜いからといって親の情愛に変りがないと同様に、猫にだってやはり同じ人情がなければならないはずだ。犬や猫の容貌が好いの悪いのといって好いたり嫌ったりするは人間として実に恥かしい事だ、」と。
二葉亭の家では主人の次には猫が大切にされた。主人の留守に猫に粗糙があっては大変だといって、家中がどれほど猫を荷厄介にして心配したか知れない。出入の八百屋の女房が飛んで来て、「大変でござります、唯今こちらさまのお猫さんが横町の犬に追われて向うの路次に逃込みました、」と目の色変えて註進に及んだという珍談もあった。
殽を買うにも主人の次には猫の分を取った。残殽を当てがうような事は決してなかった。時々は「猫になりたい」という影口もあった。下世話に、犬は貰われる時お子様方はお幾たりと尋ねるが猫は孩児は何匹だと訊くという通りに、猫は犬と違って児供に弄られるのを煩さがるものだが、二葉亭の家では猫は主人の寵幸であって児供が翫弄にするのを許さなかった。児供の方でも父の秘蔵を呑込んで、先年死んだ長男の玄太郎が五ツ六ツの悪戯盛りにも「あれは父ちゃんのおにゃん子」といって指一本も決して触れなかった。
この猫は主人の寵愛に馴れて頗る行儀が悪るかった。客が来て食物が出ると、必ず何処からかヌウッと現われ、ノソノソ食物の傍へ行って臭いを嗅ぐ。世間の猫はコソコソ忍び足で近づいては、油断を見済まして引攫うものだが、二葉亭の猫は叱られた事がないから恐いという事を知らない。鷹揚にノソノソやって来て、自分の好きな塩煎餅か掻餅でもあろうもんなら、宛もこの家のものは竈の下の灰までが俺の物だというような顔をして、平気で菓子鉢に顔を突込んではボリボリと喰べ初める。すると二葉亭は眼を細くして、「これこれ、復たそんな意地汚なをする」と静かに膝へ抱取って掌上へ菓子を取って喰わせながら、「放任教育だから行儀が悪くて困る、」と猫の頭を撫で撫で「が、本来猫に行儀を仕込むッてのが間違ってる、人間の道徳で猫を縛ろうとするのは人間の我儘で、猫に取っては迷惑千万な咄だ、」といった。けれどもお膳が出てから、生腥い臭いにいよいよ鼻をムクムクさして、お客のお膳であろうと一向お関いなしに顔を突出し、傍若無人にお先きへ失敬しようとする時は、いくら放任教育でも有繋にお客の肴を掠奪するを打棄って置けないから、そういう時は自分の膝元へ引寄せてお椀の蓋なり小皿なりに肴を取分けて陪食させた。が、この腕白猫めは頗る健啖家で、少とやそっとのお裾分では満足しなかった。刺身の一と皿位は独り占めにベロリと平らげてなお飽足らずに、首を伸ばして主人が箸に挿んで口まで持って行こうとするのをやにわに横取りをする。すると二葉亭は眼を細くして、「ドウモ敏捷こい奴だ!」と莞爾々々しながら悦に入ったもんだ。
二葉亭の猫におけるや、丁度若い母親が初めて産んだ子を甘やかすように、始終懐ろに入れたり肩へ載せたり、夜は抱いて寝て、チョッカイでも出せば溶けるような顔をして頬摺したり接吻したりした。猫めの方でも大甘垂れに甘垂れて舌を出してはベロベロと二葉亭の顔を舐めた。「接吻だけは止せというが、こうしずにはいられない」と状貌魁偉と形容しそうな相好を壊して、頤の下に猫を抱え込んでは小娘のように嬉しがって舐めたり撫ったりした。
飯田町にいた時分、或る日曜日の朝十時頃に尋ねると、今起きたばかりだといって眠そうな顔をしていた。なんぼ日曜日でも少と寝坊が過ぎるというと、「昨宵は猫のお産で到底寝られなかった、」といった。段々訊くと、予てから猫の産月が近づいたので、書斎の戸棚に行李を準備し、小さい座蒲団を敷いて産所に充てていたところ、昨夜は宵から容子が変なので行李の産所へ入れるとは直ぐ飛出して息遣いも苦しそうに喏々啼きながら頻りと身体をこすりつけて変な容子をする。爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁慶と僕だけだろう。が、卿の君よりは猫の方がよっぽど豪かった、」と手柄顔をした。それから以来習慣が付き、子を産む度毎に必ず助産のお役を勤め、「犬猫の産科病院が出来ればさしずめ院長になれる経歴が出来た、」と大得意だった。
不思議な事にはこれほど大切に可愛がっていたが、この猫には名がなかった。家族は便宜上「白」と呼んでいたが、二葉亭は決して名を呼ばなかった。「名なんかドウでも好い、なくても好い、猫に名なんか付けるのは人間の繁文縟礼で、猫は名を呼ばれたって決して喜ばない、」といっていた。こんな処にも空名虚誉を喜ばない二葉亭の面目が現れていた。
最一つ不思議な事は、この位に猫や犬を可愛がっていても、ツイぞ一度人から貰った事がない。「棄てられたり紛れたりして来たから拾って育ててやるので、犬や猫を飼うのは楽みよりは苦みである。わざわざ求めて飼うもんじゃ決してない、」といっていた。二葉亭の犬や猫に対するや人間の子を愛すると同じ心持であった。
二葉亭は始終文章を気にしていた。文人が文章に気を揉むのは当然のようであるが、今日の偶像破壊時代の文人は過去の一切の文章型を無視して、同じ苦むにしてもこれまでの文章論や美辞法からは全く離れて自由であるべきはずである。極端にいえば、思想さえ思う存分に発現する事が出来るなら方式や修辞は革命家の立場からはドウでも宜かるべきはずである。二葉亭も一つの文章論としては随分思切った放胆な議論をしていたが、率ざ自分が筆を執る段となると仮名遣いから手爾於波、漢字の正訛、熟語の撰択、若い文人が好い加減に創作した出鱈目の造語の詮索から句読の末までを一々精究して際限なく気にしていた。
二葉亭時代の人は大抵国漢文の秩序的教育を受けたから、国漢文の課題文章の習練にはかなり苦まされて文学即文章の誤った考を吹込まれていた。当時の文章教育というのは古文の摸倣であって、山陽が項羽本紀を数百遍反覆して一章一句を尽く暗記したというような教訓が根深く頭に染込んでいて、この根深い因襲を根本から剿絶する事が容易でなかった。二葉亭も根が漢学育ちで魏叔子や壮悔堂を毎日繰返し、同じ心持で清少納言や鴨長明を読み、馬琴や京伝三馬の俗文学までも究め、課題の文章を練習する意で近松や馬琴の真似をしたり、あるいは俗文を漢訳したり漢文を俗訳したりした癖が抜け切れないで、文章を気にする文章家気質がいつまでも失せなかった。一面には従来の文章型を根本から破壊した革命家であったが、同時に一面においてはまた極めて神経的な新らしい雕虫の技術家であった。
自分は小説家でないとか文人になれないとかいったには種々の複雑した意味があったが、自ら文章の才がないと断念めたのもまた有力なる理由の一つであった。二葉亭の作を読んで文才を疑う者は恐らく決してなかろうと思うが、二葉亭自身は常に自己の文才を危んで神経的に文章を気に病んでいた。文章上の理想が余り高過ぎたというよりも昔の文章家気質が失せなかったので、始終文章に屈托していた。ツルゲーネフを愛読したのも文章であって、晩年余りに感服しなくなってからもなお修辞上の精妙を嘖々し、ドストエフスキーの『罪と罰』の如きは露国の最大文学であるを確認しつつもなお、ドストエフスキーの文章はカラ下手くそで全で成っていないといってツルゲーネフの次位に置き、文学上の批判がともすれば文章の好悪に囚われていた。例えば現時の文学に対しても、露伴を第一人者であると推しながらも、座右に置いたのは紅葉全集であった。近松でも西鶴でも内的概念よりはヨリ多くデリケートな文章味を鑑賞して、この言葉の綾が面白いとかこの引掛けが巧みだとかいうような事を能く咄した。また紅葉の人生観照や性格描写を凡近浅薄と貶しながらもその文章を古今に匹儔なき名文であると激賞して常に反覆細読していた。最も驚くべきは『新声』とか何々文壇とかいうような青年寄書雑誌をすらわざわざ購読して、中学を卒業したかそこらの無名の青年の文章まで一々批点を加えたり評語を施こしたりして細さに味わった。丁度植物学者が路傍の雑草にまで興味を持って精しく研究すると同一の態度であった。
この点では私は全く反対であった。私は自分が悪文家であるからでもあろうが、夙くから文章を軽蔑する極端なる非文章論を主張し、かつて紅葉から文壇の野獣視されて、君の文章論は狼の遠吠だと罵られた事があるくらい、文章上のアナーキストであったから、文章論では二葉亭とも度々衝突して、内心窃に二葉亭の古い文章家気質を慊らなく思っていた。が、自分のような鈍感者では到底味う事の出来ない文章上の微妙な説を聞いて大いに発明した事もしばしばあったし、洗練推敲肉痩せるまでも反覆塗竄何十遍するも決して飽きなかった大苦辛を見て衷心嘆服せずにはいられなかった。歿後遺文を整理して偶然初度の原稿を検するに及んで、世間に発表した既成の製作と最始の書き卸しと文章の調子や匂いや味いがまるで別人であるように違ってるのを発見し、二葉亭の五分も隙がない一字の増減をすら許さない完璧の文章は全く千鍜万錬の結果に外ならないのを知って、二葉亭の文章に対する苦辛感嘆をいよいよ益々深くした。
三十六年、支那から帰朝すると間もなく脳貧血症を憂いて暫らく田端に静養していた。病気見舞を兼ねて久しぶりで尋ねると、思ったほどに衰れてもいなかったので、半日を閑談して夜るの九時頃となった。暇乞いして帰ろうとすると、停車場まで送ろうといって、たった二、三丁であるが隈なく霽れた月の晩をブラブラ同行した。
満月ではなかったが、一点の曇りもない冴えた月夜で、丘の上から遠く望むと、見渡す果もなく一面に銀泥を刷いたように白い光で包まれた得もいわれない絶景であった。丁度秋の中頃の寒くも暑くもない快い晩で、余り景色が好いので二人は我知らず暫らく佇立って四辺を眺めていた。二葉亭は忽ち底力のある声で「明月や……」と叫って、較や暫らく考えた後、「……跡が出ない。が、爰で名句が浮んで来るようでは文人の縁が切れない。絶句する処が頼もしいので、この塩梅ではマダ実業家の脈がある、」と呵然として笑った。
汽車の時間を計って出たにかかわらず、月に浮かれて余りブラブラしていたので、停車場でベルが鳴った。周章てて急坂を駈下りて転がるように停車場に飛込みざま切符を買った処へ、終列車が地響き打って突進して来た。ブリッジを渡る暇もないのでレールを踏越えて、漸とこさと乗込んでから顔を出すと、跡から追駈けて来た二葉亭は柵の外に立って、例の錆のある太い声で、「芭蕉さまのお連れで危ない処だった」といった。その途端に列車は動き出し、窓からサヨナラを交換したが、狭い路を辿って帰る淋しい背影が月明りに霞んで見えた。二葉亭の健康の衰え初めたのはその頃からであった。
最も元気だったのは日露戦争中であった。大阪朝日の待遇には余り平らかでなかったが、東京の編輯局には毎日あるいは隔日に出掛けて、海外電報や戦地の通信を瞬時も早く読むのを楽みとしていた。
「砲声聞ゆ」という電報が朝の新聞に見え、いよいよ海戦が初まったとか、あるいはこれから初まるとかいう風説が世間を騒がした日の正午少し過ぎ、飄然やって来て、玄関から大きな声で、
「とうとうやったよ!」と叫った。
「やったか?」と私も奥から飛んで出で、「結果は?」
「マダ十分解らんが、勝利は確実だ。五隻か六隻は沈めたろう。電報は来ているが、海軍省が伏せてるから号外を出せないんだ、」とさも大本営か海軍省の幕僚でもあるような得意な顔をして、「昨夜はマンジリともしなかった。今朝も早くから飛出して今まで社に詰めていた。結局はマダ解らんが、電報が来る度毎に勝利の獲物が次第に殖えるから愉快で堪らん。社では小使給仕までが有頂天だ。号外が最う刷れてるんだが、海軍省が沈黙しているから出す事が出来んで焦り焦りしている。尤も今日は多分夕方までには発表するだろうと思うが、近所まで用達しに来たから内々密と洩らしに来た。」
と、いつも沈着いてる男が、跡から跡からと籠上る嬉しさを包み切れないように満面を莞爾々々さして、「何十年来の溜飲が一時に下った。赤錆だらけの牡蠣殻だらけのボロ船が少しも恐ろしい事アないが、それでも逃がして浦塩へ追い込めると士気に関係する。これで先ず一段落が着いた。詳報は解らんが、何でもよっぽど旨く行ったらしい……」とちょっと考えて「事に由るとロスの奴、滅茶々々かも解らん。今日の電報が楽みだ。」
といいつつソソクサして、「こうしちゃおられん。これから復た社へ行く、」と茶も飲まないで直ぐ飛出し、「大勝利だ、今度こそロスの息の根を留めた、下戸もシャンパンを祝うべしだネ!」と周章た格子を排けて、待たせて置いた車に飛乗りざま、「急げ、急げ!」
こんな周章ただしい忙がしい面会は前後に二度となかった。「ロスの奴滅茶々々かも解らん」とあたかも軍令部長か参謀総長でもあるかのようなプライドが満面に漲っていた。恐らくこの歓喜を一人で味ってられないで、周章てて飛んで来たのであろう。
二葉亭に親近した或る男はいった。「二葉亭は破壊者であって、人の思想や信仰を滅茶々々に破壊するが、破壊したばかりでこれに代るの何物をも与えてくれない」と。思想や信仰は自ら作るもので人から与えるべきものでないから、求めるものの方が間違ってるが、左に右く二葉亭は八門遁甲というような何処から切込んでも切崩す事の出来ない論陣を張って、時々奇兵を放っては対手を焦らしたり悩ましたりする擒縦殺活自在の思弁に頗る長じていた。
勿論、演壇または青天井の下で山犬のように吠立って憲政擁護を叫ぶ熱弁、若くは建板に水を流すようにあるいは油紙に火を点けたようにペラペラ喋べり立てる達弁ではなかったが、丁度甲州流の戦法のように隙間なく槍の穂尖を揃えてジリジリと平押しに押寄せるというような論鋒は頗る目鮮ましかった。加うるに肺腑を突き皮肉に入るの気鋒極めて鋭どく、一々の言葉に鉄槌のような力があって、触るる処の何物をも粉砕せずには置かなかった。二葉亭に接近してこの鋭どい万鈞の重さのある鉄槌に思想や信仰を粉砕されて、茫乎として行く処を喪ったものは決して一人や二人でなかったろう。
それがしの小説家が俄に作才を鈍らして一時筆を絶ってしまったのも二葉亭の鉄槌を受けたためであった。それがしの天才が思想の昏迷を来して一時あらぬ狂名を歌われたのもまた二葉亭の鉄槌に虐げられた結果であった。二葉亭に親近するものの多くは鉄槌の洗礼を受けて、精神的に路頭に迷うの浮浪人たらざるを得なかった。中には霊の飢餓を訴うるものがあっても、霊の空腹を充たすの糧を与えられないで、かえって空腹を鉄槌の弄り物にされた。
二葉亭の窮理の鉄槌は啻に他人の思想や信仰を破壊するのみならず自分の思想や信仰や計画や目的までも間断なしに破壊していた。で、破壊しては新たに建直し、建直しては復た破壊し丁度児供が積木を翫ぶように一生を建てたり破したりするに終った。
二葉亭は常にいった。フィロソフィーというは何処までも疑問を追究する論理であって、もし最後の疑問を決定してしまったならそれはドグマであってフィロソフィーでなくなってしまうと。また曰く、人生の興味は不可解である、この不可解に或る一定の解釈を与えて容易に安住するは「あきらめ」でなければイグノランスであると。かくの如くして二葉亭の鉄槌は軽便安直なドグマや「あきらめ」やイグノランスを破壊すべく常に揮われたのである。
誰やらが二葉亭を評して山本権兵衛を小説家にしたような男だといった。海軍問題以来山本伯の相場は大分下落し、漸く復活して頭を擡上げ掛けると、忽ち復た地震のためにピシャンコとなってしまったから、文壇の山本伯というは苔の下の二葉亭も余りありがたくないだろうが、風丰が何処か似通っている。山本権兵衛と見立てたのは必ずしも不適評ではない。
が、骨相学や人相術が真理なら、風丰の似通っている二人は性格の上にもドコかに共通点がありそうなもんだが、事実は性格が全く相反対していた。二葉亭にもし山本伯の性格の一割でもあったら、アンナにヤキモキ悶えたり焦々したりして神経衰弱などに罹らなかったろう。社会的にも最少し成功したろう。が、気の毒なる哉二葉亭は山本伯とは全く正反対に余りに内気であった、余りに謙遜であった、かつ余りに潔癖であった。切めて山本伯の九牛一毛なりとも功名心があり、粘着力があり、利慾心があり、かつその上に今少し鉄面皮であったなら、恐らく二葉亭は二葉亭四迷だけで一生を終らなかったであろう。
が、方頷粗髯の山本権兵衛然たる魁偉の状貌は文人を青瓢箪の生白けた柔弱男のシノニムのように思う人たちをして意外の感あらしめた。二葉亭の歿後知人は皆申合わしたように二葉亭の風丰がいわゆる小説家型でなかった初対面の意外な印象を語っておる。その上に重厚沈毅な風丰に加えて、双眉の間に深い縦の皺を刻みつつ緊と結んだ口から考え考えポツリポツリと重苦しく語る応対ぶりは一見信頼するに足る人物と思わせずには置かなかった。かつ対談数刻に渉ってもかつて倦色を示した事がなく、如何なる人に対しても少しも城府を設けないで、己れの赤心を他人の腹中に置くというような話しぶりは益々人をして心服せしめずには置かなかった。
二葉亭を何といったら宜かろう。小説家型というものを強ち青瓢箪的のヒョロヒョロ男と限らないでも二葉亭は小説家型ではなかった。文人風の洒脱な風流気も通人気取の嫌味な肌合もなかった。が、同時に政治家型の辺幅や衒気や倨傲やニコポンは薬にしたくもなかった。君子とすると覇気があり過ぎた。豪傑とすると神経過敏であった。実際家とするには理想が勝ち過ぎていた。道学先生とするには世間が解り過ぎていた。ツマリ二葉亭の風格は小説家とも政治家とも君子とも豪傑とも実際家とも道学先生とも何とも定められなかった。
社交的応酬は余り上手でなかったが、慇懃謙遜な言葉に誠意が滔れて人を心服さした。弁舌は下手でも上手でもなかったが話術に長じていて、何でもない世間咄をも面白く味わせた。殊に小説の梗概でも語らせると、多少の身振声色を交えて人物を眼前に躍出させるほど頗る巧みを究めた。二葉亭が人を心服さしたのは半ばこの巧妙なる座談の力があった。
二葉亭は極めて謙遜であった。が、同時に頗る負け嫌いであった。遠慮のない親友同士の間では人が右といえば必ず左というのが常癖で、結局同じ結論に達した場合「むむ、そうか、それなら同説だ、」といったもんだ。初めから同じ結論に達するのが解っていても故意に反対に立つ事が決して珍らしくなかった。かつこの反対の側から同じ結論に達する議論を組立てる手際が頗る鮮かであった。
負け嫌いの甚だしいは、人に自分の腹を看透かされたと思うと一端決心した事でも直ぐ撤去して少しも未練を残さなかった。かつて二葉亭の一身上の或る重要な問題について坪内博士と談合した時、二葉亭の心の中は多分こうであろうと推断して博士に話した。すると間もなく二葉亭は博士を訪うて、果して私が憶測した通りな心持を打明けて相談したので、「内田君も今来て君の心持は多分そうであろうと話した」と、坪内博士が一と言いうと直ぐ一転して「そんな事も考えたが実は猶だ決定したのではない」と打消し、そこそこに博士の家を辞するや否、直ぐその足で私の許を訪い、「今、坪内君から聞いて来たが、君はこうこういったそうだ。飛んでもない誤解で、毛頭僕はそんな事を考えた事はない、」と弁明した。復た例の癖が初まったナと思いつつも、二葉亭の権威を傷つけないように婉曲に言い廻し、僕の推察は誤解であるとしても、そうした方が君のための幸福ではない乎と意中の計画通りを実行させようとした。が、口を酸くして何と説得しても「开ンな考は毛頭ない、」とばかり主張って、相談はとうとうそれきりとなってしまった。現在自分の口から言出して置きながら、人に看透かされたと思うと直ぐコロリと一転下して、一端口外した自家意中の計画をさえも容易に放擲して少しも惜まなかったのはちょっと類の少ない負け嫌いであった。こういう旋毛曲りの「アマノジャク」は始終であって、一々記憶していないほど珍らしくなかった。
二葉亭はこういう人物であった。小説家であって一向小説家らしくなかった人、政治家を志ざしながら少しも政治家らしくなかった人、実業家を希望しながら企業心に乏しく金の欲望に淡泊な人、謙遜なくせに頗る負け嫌いであった人、ドグマが嫌いなくせに頑固に独断に執着した人、更に最う一つ加えると極めて常識に富んだ非常識な人──こういう矛盾だらけな性格破産者であって、この矛盾のために竟に一生を破壊に終った人であった。
二葉亭の古い日記から二節を引いて以て二葉亭の面影と性格とを偲ぶの料としよう。
「この世を棄てんとおもひたる人にあらねばこの世の真の価値は知るべからず。」
「気の欝したる時は外出せば少しは紛るる事もあるべしと思へどもわざと引籠りて求めて煩悶するがかへつて心地よきやうにも覚ゆ。」
底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日第1刷発行
2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
1925(大正14)年6月初版発行
初出:「きのふけふ」
1916(大正5)年3月5日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。