神田界隈
楠山正雄
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「芝で生まれて神田で育ち」というふるい文句があるが、私は芝でこそ生まれないが、ついそのお隣り区の銀座で生まれて十三年、早く明治三十年代に、その時分、駿河台の、多分いまの明大校舎の辺にあった、伯父の博士樫村氏の山竜堂病院に寄寓の時代、一たび神田との縁がむすばれ、それから後、多少の断続はあっても、四十年代の末ふたたび冨山房を通して神田とはなれぬ関係ができて、いつの間にか二十五年、かれこれ前後四十年にも近い、いわば人間のほぼ一代を、なんということなしに、神田界隈、というよりも、駿河台──神保町をむすぶ二町にも足りない、それこそ、まいまいつぶろの角よりも短い線の上を、往きつ戻りつ、どうやら過ぎて来たようである。奇因縁といえば奇因縁、はかないといえば、まことにはかないようなものであった。
こんなわけで、少年時代から育ててもらって、神田はいわば、私の第二の故郷ではあるが、さて四十年を追懐してみて、とり立てていうほどに今昔の感じのおこらないのは、神田という中にも、この神保町・駿河台界隈が、むかしも今も、古本屋さんと学校と、そうして病院の町である外貌に、さして変りがないためであろう。
そうはいっても、むろん、今の神田はむかしの神田ではない。冨山房前を今川小路にぬける通りが、ふしぎにむかしとさしてちがわない町幅のままで、今もあるほかは、どこもここも路面がとり拡げられて、あれほど多かった小路や新道がほとんど跡も知れなくなった。お茶の水から九段へぬける長い通りなど、四、五間の幅にも足りない狭さで、両側の古本屋の店先きを、右から左へ縫うようにしてひやかしてあるいたものであったが、今は明大横の、ほんの半町ほどの商店街に、わずかに狭かったその頃の通りの名残りをとどめているにすぎない。さしも目白押しに両側に軒をならべた古本屋が、ほとんど南の片側にばかり集まってしまって、昼時すぎて、学生大群がさっと引上げてしまったあと、いたずらにだだっ広い路面の上を、あまり客ののっていない電車と、から円タクが閑散らしく走っているのが、立派にはなったが、昔にくらべて何となく空しい感じのする、今の学生街の午後風景である。
町の地形が変るより以上に住む人も変ったが、でも長い年月の試練にのこって今も栄えている店は、さすがにどこも大きく変った。冨山房のある神保町の通りだけでいっても、平べったい木造二階建の瓦屋の、古風な千本格子の窓下に、べたべたと机を畳にならべて仕事をしていた冨山房が、七階の美しい大ビルディングになったのをはじめ(開新堂、敬業社、同文館──明治文化に貢献した幾つかの大書店を失った代りに)、どこもあの頃からみると、五倍、六倍もの大商店に発展した。
書肆もそうだが、学校というものもよく続いて行く。上野清さんの数学院が東京中学になり、松見順平さんの順天求合社が順天中学になり、杉浦鋼太郎さんの大成学館が大成中学になってみんな大きくのびた。奥平浪太郎さんの研数学館が、中学にこそはならないが、古ぼけたペンキ塗りの私塾から、今の四階建鉄筋コンクリートの宏壮な大校舎への飛躍ぶりに、目をみはらないものはないであろう。私塾といえば、あの時分、冨山房の界隈で、露路という露路の安借家のほとんど軒並に、看板を上げていた英漢数ないしは独仏語教授の先生たちは、どこへどう行ってしまったろう。そういう群小私塾が一斉解消して、研数学館や正則英語学校や、アテネ・フランセそのほかに集結されたところに、学校の資本主義化が考えられないことはない。そういえば、数学院も、順天求合社も、大成学館も、やはりあの時分、いわば私塾の大きなものであった。
冨山房の仮営業所が九段下にあった時分、一日訪問された下田次郎先生が、そこの三階の窓から往来越しに、前の精華女学校の大きな建物をながめられて、「あれは寺田勇吉君の置きみやげのようなものだが、一度建てた学校はすたらないものだね」といわれたことが思い出される。だがすたらないで、かえって大きくなって行くのは、学校ばかりではない。本屋さんも、それから病院だっておそらくそうであろう。だから神田は四十年一日の如く、本屋さんと学校と病院の町であることをやめないのである。
でもその中で、新陳代謝はどこにもあって、たとえば古本屋さんでは、学生時代からのおなじみは割合にたんとはない。松村書店の、あの哲学者のヘーゲルに似た魁偉な風貌の老主人は今も健在のようだが、爼橋際の堅木屋の、店はあっても、洋書のよくわかる老夫妻はとうに姿がみえない。大きくなったのは巌松堂である。和本では小川町の松山堂も古い。
以呂波堂に、石垣と、二軒まであった貸本屋の、今は全く影を没したのも寂しい。貸本屋といっても、場所柄で講談本などはほとんど無く、学生向の参考書か、文学物も古典の覆刻叢書か、新刊の詩集・小説類に限られていたが、私は一日二銭くらいの見料を払って、ほとんど毎日のようにとっ替え引っ替え借出しては読んだ。おかげで博文館の帝国文庫や、その頃はやった王朝文学の講義類は、ほとんど読みつくしてしまったとおぼえている。図書館の発達した今日でも、こういう学生のための貸本屋は復活されてよいであろう。
古い店といえば、小川町角の伊勢屋は、今も江戸前の足袋屋さんらしい店構えがひとり目立つが、その隣りあたりに、十二間間口(?)の老舗を誇った呉服屋さんの山川屋は、あの大暖簾と一しょにどこへ行ったろう。今、あの店のあったあたりは、学生向、職業人向の洋服屋さんばかりになって、いつか向柳原が、とおく小川町までものびてきた観がある。
中川、いろは、江知勝、ときわと、さしも多かった牛肉屋も、今文一軒になったようだが、牛鍋一人前二十銭が、壱円以上にも向上しては、もはや学生大衆のものではない。蕎麦を大衆的だというが、五銭の種物が三十五銭では、喫茶店に学生を吸収されても仕方がない。錦町の福本とうに無く、神保町の地久庵も最近に廃業して、あの時代の蕎麦屋では、依然連雀町の藪一軒をのこすのみとなったが、これも昔の、ちょっとした植込みなどがあって奥深かった小座敷のおもかげは無い。今の神保町界隈は、一品食堂の氾濫であるが、明治四十年代の「三銭均一食道楽」のお登和亭が多分、今でもあって、その方のこれが草分けであろう。「三銭均一」は、その時分はじめて開通した市内「三電」(東鉄・街鉄・外濠線)の均一乗車賃であり、お登和さんが村井弦斎作る『食道楽』の女主人公にちなむことを記憶する人は少なかろう。一品三銭均一で果してやっていたか、それはおぼえていないが、あの頃、「食道楽」の看板をかかげた飲食店が、お登和亭一軒だけではなかったのは、弦斎も売り込んだものであった。
町幅も狭く家並も低かった代り、夜も、むろんくらべものにならず暗かったわりに、町は今よりはかえって賑やかで、動いてもいたようにおもわれる。大衆娯楽の醞醸地というと、今では浅草か新宿であるが、明治三十年代は、浅草か神田かというところであった。女学生が少なく、一体に若い女性がそう外あるきをしなかった時代に、娘義太夫は、今日のレヴィウとカフェーと、その上に映画館までの役目を一手に兼ねていたともいえよう。本郷の若竹、吾妻橋の東橋亭、日本橋の宮松、両国の新柳亭、京橋のつる仙、芝の琴平というように、市内いたるところに、娘義太夫で繁昌した寄席の多かった中に、小川町の小川亭が、京子、小土佐の全盛時代から、昇之助姉妹が三年間ここに籠城して、ほとんど連夜の満員をつづけた時代まで、十数年これ一本で通してきて、神田は自然これが中心であるらしくみえた。歌舞伎や講談落語の形式化した旧演芸に対して、同じ江戸時代の旧演芸ながら、それを未熟のままに語る、この少女達のなまなましい芸に、当年の若い時代はかえって新鮮味を感じていたのであろう。
劇場も、今では、一時噂された商大跡に吉右衛門座建設の計画がうやむやになったほど、そういう雰囲気が神田から失われているが、あのころは、四銭木戸に、二銭の半札をお釣りにつけて返した、例の女芝居の三崎座、それのあった三崎町には、歌舞伎座に対立する大劇場の東京座が、芝翫、高麗蔵(歌右衛門、幸四郎)を中心におこされ、川上音二郎が、川上座を建てて、洋式劇場の走りを試みもした。それは形の上だけでも、今の木挽町の松竹系に対して、日比谷の東宝系が対立したような概があったのである。三十年代のはじめ、まだ「白袴隊」と名のる「街の大川友右衛門」めいた不良学生群が一時跳梁した、あのさびしい三崎町の原が、わずかの間でも、とにかく集中的な娯楽街として発展しようとしたのである。それが芝翫旧棲に帰り川上死して、間もなく、その計画も一空に帰し、日露戦後の新興的元気をともなって市民享楽の中心は、山をのぼって本郷台に押し上り、本郷座の新派が一時栄えて、また下町に復帰したが、二度と神田へは戻ってこなかった。
日本映画の発祥が明治三十年、神田錦町の錦輝館の活動写真にあることも、今では映画史の第一頁に、例の「すこぶる非常」で売った活弁元祖の駒田好洋の名と共に必ず記されることになった。その第一回の興行では、波に戯れる犬、エディソン工場前の撒水、そのほか二、三のほんの四、五分間の活動スケッチのしまいに、英国史悲話ジェーン・グレイ姫の斬首、仏国愛国美談ジャンヌ・ダルクの火刑が巻軸で、一晩には時間が余るため、一つの画が三回ずつくり返して映写された。だからジェーン姫は三度生き返って断頭台に首をのせ、オルレアンの少女も、三度柱と共に焼かれなければならなかった。でもこうして日本最初の活動写真を見る機会を得たのも、神田にいたおかげであったといえる。神田橋ぎわに建てられた和強楽堂も、おそらく、公衆向の音楽堂としては、今の日比谷公会堂の先駆ででもあったろう。ただし、そのころ、神田橋下の外濠も、今のようにメタン臭紛々の泥沼ではなく、お茶の水運河と東西相対して、「早船」と称する軽舟を隅田川に通ずる、溶々(?)たる可航河川であった。
水の「早船」と対して、陸の円太郎馬車が、今のバスの代用をした。それが神保町辺を走っていた記憶はないが、須田町辺が円太郎区域の中心ではあったようだ。その名づけ親の橘屋円太郎老人が、例の鬱金木綿の袋からぴかぴか光るラッパを出して「おばあさん危いよう」を朗かに吹いた、晩年の高座姿を、神保町の川竹(今の花月)で見たのは、三十年代のはじめであったろう。
町の賑やかであったことをいえば、電車・自動車のなかったあの時分は、古本の夜店が小川町通りには毎晩出た。五・十の日の五十稲荷の縁日ももっと盛んであったし、東明館・南明館と二つあった勧工場が、今のデパートの役廻りをして、家庭婦人の人出が今よりもかえって多かったように思われる。
思い出してみて、あの時分の神田は親しみももて、うるおいも多い街であった。今の神田──ばかりではない、震災後の東京の町はどこも大抵そうであるが──ことに神田はいたずらに明るく乾きすぎた感じがする。晴れても降っても、白茶けたトレンチコートの学生群が、舗道の上を右往左往するだけの街になった。それも朝の通学時間と、昼飯時のひと時で、午後にはいって追々ひっそりと白けかえる。神田へわざわざ買物にくる婦人がほとんどないのは、子供の教科書でも買うほかに何も買うものがないからだ。繁栄策もいろいろ考えられているようだが、古本屋さんが各店分立で、町を固めているのもよしあし、合同して図書文房具中心の百貨店にでも固まる方が買う方も便利だが、これはできない相談かもしれない。公園らしい公園をもたないのだから、学生群が街上をいたずらに右往左往するのをとがめることもできない。大教育者の記念物や小図書館を中心に、学生広場のようなものが、駿河台か一橋辺にできてもよいのではないか。
婦人のための店のほとんど無いことと、二、三軒の貧しい映画館以外、これという娯楽設備の無いことも、よけい荒涼の感を加える。大震災後の一望灰土の光景を想起すると、あまりぜい沢はいわれないかもしれないが、目ぼしい学校はぽつりぽつり郊外へ移ってしまって、中間的な受験学生ばかりがいたずらに多く、年々学生街としての品格もおちつきも失われて行くらしい今日、第二次の経営に移る時代が、いやでも神田街に来ていることが考えられるのである。
底本:「出版人の遺文 冨山房 坂本嘉治馬」栗田書店
1968(昭和43)年6月1日第1刷発行
1969(昭和44)年2月11日第2刷発行
底本の親本:「冨山房五十年」冨山房
1936(昭和11)年10月15日発行
入力:鈴木厚司
校正:hitsuji
2018年10月24日作成
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