一九二八年三月十五日
小林多喜二




 お惠には、それはさう仲々慣れきることの出來ない事だつた。何度も──何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク〳〵したし、周章てた。そして、又その度に夫の龍吉に云はれもした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。

 ──組合の人達が集つて、議題を論議し合つてゐるとき、お惠がお茶を持つて階段を上つて行くと、夫の聲で、

「嬶の意識の訓練となると、手こずるつて……。」さう云つてゐるのを一度ならず聞いた。

「××は臺所から──これは動かせない公式だからなあ。小川さん、甘い、甘い。」

「實際、俺の嬶シヤポだ。」

ワイフとの理論鬪爭になると、負けるんだなあ。」と、そして、皆にひやかされた。

 夫は聲を出して、自分で自分の身體を抱えこむやうに、恐縮した。

 朝、龍吉が齒を磨いてゐた。側で、お惠が臺所の流しに置いてある洗面器にお湯を入れてやつてゐた。

「ローザつて知つてるか。」夫が楊子で、口をモグ〳〵させながら、フト思ひ出して訊いた。

「ローザア?」

「ローザさ。」

「レーニンなら知つてるけど……。」

 龍吉はひくゝ「お前は馬鹿だ。」と云つた。

 お惠はさういふ事をちつとも知らうと思ひ、又はさうするために努めた事さへ無かつた。それ等は覺えられもしないし、覺えたつて、どうにもならない氣がしてゐた。「レーニン」とか「マルクス」とか、それは子供の幸子から知らされた位だつた。一旦それを覺えると、自家にくる組合の工藤さんとか、阪西さんとか、鈴本さんとか、夫などが口ぐせのやうに「レーニン」とか「マルクス」とか云つてゐるのに氣付いた。何かの拍子に、だから、お惠が「マルクスは勞働者の神樣みたいな人なんだつてね。」と、夫に云つたとき、夫が、へえ! といふ顏付でお惠を見て、「何處から聞いてきた。」と賞められても、さう嬉しい氣は別にしなかつた。

 然しお惠は、夫や組合の人達や、又その人達のする事に惡意は持つてゐなかつた。初め、然し、お惠は薄汚い、それに何處かに凄味をもつた組合の人達を見ると、おぢけついた。その印象がしばらくお惠の氣持の中に殘つてゐた。けれども變にニヤ〳〵したり、馬鹿丁寧であつたりする學校の先生(夫の同僚)などよりは、一緒に話し合つてゐるとみんな氣持のよい人達だつた。物事にさう拘はりがなく、ネチ〳〵してゐなかつた。かへつて、子供らしくて、お惠などをキヤツ〳〵と笑はせたり、初めモヂ〳〵しながら、御飯を御馳走になつてゆくと、次ぎからは自分達の方から「御飯」を催促したりした。風呂賃をねだつたり、煙草錢をもらつたりする。然し、それが如何にも單純な、飾らない氣持からされた。だん〳〵お惠は皆に好意を持ち出してゐた。

 港一帶にゼネラル・ストライキがあつた時、お惠は外で色々「恐ろしい噂さ」を聞いた。あの工藤さんや、鈴本さんなどの指導してゐるストライキがその「恐ろしい」ストライキである事が、はじめはどうしても呑込めなかつた。

誰にとつて、一體あのストライキが恐ろしいつて云ふんだ。金持にかい、貧乏人にかい。」

 夫にさう云はれた。が、腹からその理窟が分りかねた。

「理窟でないよ。」

 新聞には、毎日のやうに大きな活字で、ストライキの事が出た。O全市を眞暗にして、金持の家を燒打ちするだらうとか、警官と衝突して檢束されたとか、(さういふ中に渡や工藤がゐたりした。)このストライキは全市の呪ひであるとか……。お惠は夫の龍吉までが、殆んど組合の事務所に泊りつきりでストライキの中に入つてゐる事を思ひ、思はず眉をひそめた。龍吉が、寢不足のはれぼつたい青い、險をもつた顏をして歸つてきたとき、「いゝんですか?」ときいた。

「途中スパイに尾行つけられたのを、今うまくまいて來たんだ。」

 そして、すぐ蒲團にくるまつた。「五時になつたら起してくれ。」

 お惠はその枕もとに、しばらく坐つてゐた。お惠はこんな場合、何時でも夫のしてゐることを言葉に出してまで云つた事がなかつた。然し、やつぱり、そんなに苦しんで、何もかも犧牲にしてやつて、それが一體どの位の役に立つんだらう。──プロレタリアの社會が、さう〳〵來さうにも思へない。お惠はひよい〳〵考へた。幸子もゐる、本當のところあんまり飛んでもない事をしてもらひたくなかつた。夫のしてゐる事が、ワザ〳〵食へなくなるやうにする事であるとしか思へなかつた。

 然しお惠は組合の人達の色々な話や勞働者の悲慘な生活を知り、勞働者達は苦しい、苦しくてたまらないんだ、だから彼等は理窟なしに自分達の生活を搾り上げてゐる金持に「こん畜生!」といふ氣になるのだ。組合の人達はそれを指導し、その鬪爭を擴大してゆく、お惠にはさういふ事も分つてきた。夫達のしてゐる事が、それがお惠には何時見込のつくことか分らない事だとしても、非常に「大きな」「偉い」事だ、といふ一種の「誇り」に似た氣持さへ覺えてきた。

 龍吉は三度目の檢束で、學校が首になり、小間物屋でどうにか暮して行かなければならなくなつた。その時──何時か來る、その漠然とした氣持はもつてゐたのだが──お惠は何かで不意になぐられたやうなめまひを感じた。然しそのことにこだわつて、クド〳〵云はない程になつてゐた。

 龍吉は勤めといふ引つかゝはりが無くなると、運動の方へもつと積極的に入り込んで行つた。それからスパイがよく家へやつてくるやうになつた。お惠は店先をウロ〳〵してゐる見なれない男を見ると、寒氣を感じた。それだけなら、だが、まだまだよかつた。さういふ男が標札を見ながら家へ入つてくると、「一寸警察まで來てくれ。」さう云つて龍吉を引張つてゆくことがあつた。夫が二人位の和服に守られて家を出てゆく、それは見て居れない情景だつた。行つてしまつてからは、變に物淋しいガランドウな氣持が何時迄も殘つた。お惠は人より心臟が弱いのか、さういふことのあつた時は、何時迄もドキついた鼓動がとまらなかつた。お惠は胸を押へたまゝ、紙のやうに白くなつた顏をして、家の中をウロ〳〵した。

 ──それは全くお惠には、さう仲々慣れきれる事の出來ないことだつた。何度も──何度やつてきても、お惠は初めてのやうに驚かされたし、ビク〳〵したし、周章てた。そして又その度に夫に云はれたりした。然し女には、それはどうしても強過ぎる打撃だつた。お惠にはさうだつた。

 三月十五日の未明に、寢てゐる處を起され、家の中をすつかり搜索されて、お互にものも云はせないで、夫が五六人の裁判所と警察の人に連れて行かれたとき、お惠はかへつてぼんやりしてしまつて、何時迄も寢床の上に坐つたまゝでゐた。思はず、ワツと泣き出したのは、それから餘つ程經つてからだつた。


 その朝、幸子はオヤツと思つて、何かの物音で眼をさました。幸子は、パツチリ開いた眼で、無意識に家のなかを見廻はした。何時だらう、朝だらうかと思つた。何故つて、次の室からは五六人の人達の何かザワついてゐる音が聞えてきてゐた。眞夜中なら、そんな筈はない。だが、まだ電燈が明るくついてゐる。朝ではない。どうしたんだらう。疊の上をひつきりなしに、ミシ〳〵誰か歩いてゐる音がする。

「次の室も調べる。」襖のそばで知らない人の聲がした。

「寢る處ですから、何にもありません。」お母さんが殊更に低くしてゐる聲だつた。

「調べてもらつたつていゝよ。」父だつた。

「幸ちやんが眼でも覺すと…………。」

 幸子には所々しかはつきり聞えなかつた。彼女は人が入つてきたら、眠つてゐる振りをしてゐなければならないのだ、と思つた。

 棚からものを下したり、新聞紙がガサ〳〵いつたり、疊を起すやうな音がしたり、タンスの引出しを一つ一つ──七つ迄開けてゐる。それで全部だつた。幸子はそれを心で數えてゐた。すると、臺所の方では戸棚を開けてゐる。幸子は身體のずウと底の方からザワザワと寒氣がしてきた。さうなると、身體をどう曲げても、どう向きを變えても、その寒氣がとまらず、身體が顫えてきた。ひよいとすると、齒と齒が小刻みにカタ〳〵と鳴つた。びつくりして、顎に力を入れて、それをとめた。父と母の一言も云ふのが聞えない。どうしてゐるんだらう。何か云つてゐるのは、よその人ばかりだつた。

 自分の家には、何時でも澤山の人達がくる、然し今來てゐるのはさういふ人達とは、まるつきり異つた恐ろしい直感をおぼえさせた。

 襖が開いた。急にまばゆい光が巾廣く、斜めに差しこんだ。幸子は周章てゝ眼をとぢた。心臟の鼓動が急にドキドキし出した。が、寢がへりを打つ振りをして、幸子は薄眼をあけて見た。母が胸の上に手をくみながら、自分の寢顏をみてゐた。血の氣のない無氣味な顏をしてゐる。父は少し離れて、よその人達の探す手先を見てゐた。電燈のすぐ横にゐるせいか、父の顏が妙にいかつく見えた。

 知らない人は五人ゐた。一人はひげを生やした一番上の人らしく、大きな黒い折鞄を持つて、探がしてゐる人達に何か云つた。云はれた人達は、その通りにした。巡査が二人ゐた。あとの二人は普通の服を着てゐた。──お父さんは何をしたんだらう。この人達はそして何をしやうとしてゐるんだらう。よその人は幸子の學校道具に手をかけたり、本を一册々々倒に振つたりした。色々な遊び道具を疊の上へ無遠慮に開けた。幸子は妙に感情がたかぶつてきた。そして、それが眼の底へヂクリ、ヂクリと涙をにぢませてきた。

「それは子供のばかりです……。」

 母が立つたまゝ、低い聲で云つた。よその人はなま返事を口の中で分らなくして、然しやめなかつた。

 一通りの取調べが終ると、皆は一度室の中をグル〳〵見廻はして、出て行つた。襖が閉つた。──室が暗くなつた。幸子は危くワツと泣き出す處だつた。

 父と折鞄が始め低く何か云つてゐた。だん〳〵聲が高くなつてきて、何を話してゐるか幸子にも聞えてきた。

「とにかく來て下さい。」折鞄が云つてゐる。

「とにかくぢや分らないよ。」

「こゝで云ふ必要がないんだ。來て貰えばいゝんだ。」だん〳〵言葉がぞんざいになつて行つた。

「理由は?」

「分らん。」

「ぢや、行く必要は認めない。」

「認めやうが、認めまいが、こつちは…………。」

「そんな不法な、無茶な話があるか。」

「何が無茶だ。來れば分るつて云つてるぢやないか。」

「何時もの手だ。」

「手でも何んでもいゝ。──とにかく來て貰ふんだ。」

 父が急に口をつむんでしまつた。と、力一杯に襖が開いて、父が入つてきた。後から母がついてきた。五人は次の間に立つて、こつちを向いてゐる。

「ズボン。」

 父は怒つた聲で母に云つた。母は默つてズボンを出してやつた。父はズボンに片足を入れた。然し、もう片足を入れるのに、何度も中心を失つてよろけ、しくじつた。父の頬が興奮からピク〳〵動いてゐた。父はシヤツを着たり、ネクタイを結んだりするのにつゝかゝつたり、まごついたりして、──殊に、ネクタイが仲々結べなかつた。それを見て、母が側から手を出した。

「いゝ〳〵!」父は邪險にそれを拂つた。父は妙に周章てゝゐた。

 母はオロ〳〵した樣子で父に何か話しかけた。

「お互に話してもらつては困る。」次の間から、折鞄がピタリと釘を打つた。

 又幸子の寢てゐる室が暗くなつた。ドヤドヤと澤山の足音が亂れて、土間に降りたつてゐる。──表の戸が開いた。一寸そこで足音が澱むと、何か話聲が聞えた。幸子がたまらなくなつて、寢卷のまゝ起き立つた。ブル、ブルンと一瞬間で頭から足の爪先まで寒氣がきた。襖を細目に開けて覗いた。──父は上り端に腰を下して、かゞんで靴の紐を結んでゐた。よその人は土間につゝ立つてゐる。母はやつぱり胸に手をあてたまゝ、柱に自分の身體を支えて、青白い顏をしてゐる。變な沈默だつた。

 不圖──不圖幸子は分つた氣がした。それもすつかり分つた氣がした。「レーニンだ!」と思つた。これ等のことが皆レーニンから來てゐることだ、それに氣付いた。色々な本の澤山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられてゐる寫眞のレーニンの顏が、アリ〳〵と幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた學校の吉田といふ小使さんと、そつくりの顏だつた。そして、それに──組合の人達がくる度に、父と一緒に色々な歌をうたつた。幸子は然し、子供の歌に對する敏感さから、大人達の誰よりも早く「×旗の歌」や「メーデイの歌」を覺えてしまつた。幸子は學校でも家でも「からたちの唄」や「カナリヤの歌」なぞと一緒に、その歌を意味も分らずに、何處ででも歌つた。それで、何度も幸子は組合の人から頭を撫てもらつた。──父は決して惡い人でないし、惡いこともする筈がない。幸子には、だからそれは矢張り「レーニン」と「×旗の歌」のせいだとしか思へない氣がした。──さうだ、確かにそれしかない。

 父が立ち上つた。──幸子は火事の夜のやうに、齒をカタ〳〵いはせてゐた。──皆外へ出た。母の青い顏がその時動いた。唇も何か云ふやうに動いたやうだつた。が、言葉が出なかつた。出たかも知れないが、幸子には聞えなかつた。母の、身體を支えてゐる柱の手先きに、力が入つてゐるのが分つた。──父は一寸帽子をかぶり直し、母の顏を見た。それから、チヨツキのボタンの一つかゝつてゐたのを外し、それを又かけ直した。落付きなく又母の顏を見た。──父の身體が半分戸の外へ出た。

ゆきを氣付けろ…………。」

 かすれた乾いた聲で云ふと、父は無理に出したやうな咳をした。

 母は後から續いて外へ出た。

 幸子は寢床に走り入ると、うつ伏せになつて、そのまゝ枕に顏をあてゝ泣き出した。幸子は泣きながら、急に父を連れて行つたよその人が憎くなつた。「憎いのはあいつ等だ、あいつ等だ。」と思つた。さう思ふと、なほ悲しくて泣けた。幸子は恐ろしさに顫えながら、今度も「お父さん」「お父さん」と、父を叫びながら、心一杯に泣いた。



 空氣が空間を充たしてゐるそのまゝの形で、青白く凍えてしまつてゐるやうだつた。何の音もしないし、人影もなかつた。──夜が更けてゐた。ヂリ〳〵と寒氣が骨まで透みこんでくる。午前三時だつた。

 カリ〳〵に雪が凍つてゐる道に、五六人の足音が急に起つた。それは薄暗い小路からだつた。靜まりかへつてゐる街に、その足音が案外高く響きかへつた。電柱に裸の電燈がともつてゐる少し廣い道に、足音が出てきた。──顎紐をかけた警官だつた。サアベルの音がしないやうに、片手でそれを握つてゐた。

 ドカ〳〵ツと、靴のまゝ(!)警官が合同勞働組合の二階に、一齊にかけ上つた。

 組合員は一時間程前に寢たばかりだつた。十五日は反動的なサアベル内閣の打倒演説會を開くことに決めてゐた。その晩は、全員を動員して宣傳ビラを市内中に貼らせたり、館の交渉をしたり、それに常任委員會があつたり──やうやく二時になつて、一先づ片付いたのだつた。そこをやられた。

 七八人の組合員は、いきなり掛蒲團を剥ぎとられると、靴で×られて跳ね起きた。皆が丸太棒のやうにムツクリと起き上ると、見當を失つて身體をよろつかせ、うろ〳〵した。

 鈴本は、しまつた! と思つた。彼は實は、或はと思つてゐた。言論の自由は完全に奪はれてゐる、そこへ持つてきて、無理にねぢ込んで、御本尊──田中内閣の打倒運動をやらうとする、××がその當日になつて、中止々々で辯士を將棋倒しにするのは分り切つてゐるし、覺悟はしてゐたが、その前に或ひは(野×達のことだ!)總檢束でもしないか、よくやりたがる手だ、さう思つてゐた、それが來たんだ、──瞬間さう鈴本は思つた。

「組合のドンキ」で通つてゐる阪西が、猿又一つで、

「何かあるのか。」と、顏なじみのスパイに訊いた。

「分らんよ。」

「分らん? 馬鹿にするなよ。──睡いんだぜ。」

 續いて上つてきた和服が片つ端から、書類を調べ始めた。

「貴樣等、こんな處にゴロ〳〵してるから碌なことをしねえ事になるんだ。」

 巡査が横着な恰好に構えてゐる「關羽」そつくりの鈴本をぢろり、ぢろり見ながら、毒ツぽい調子で皆に聞えるやうに、はき出した。鈴本はそんなものにからかつてはゐられなかつた。

「働いてみろ、つまらん考へなんか無くなるから。」

 ──獨りでしやべれ、誰が相手になつてゐられるもんか!

「一つ世話して貰らひたいもんです。」

 阪西は何時もの人の好い笑ひ聲をして、を入れた。──組合の連中は阪西を足りない事にしてゐた。何處へもつて行つても、つぶしがきかないし、仕事がルーズだつた。然しその人のよさが憎めない魅力をもつてゐた。

 その時、渡が周章てゝ階段をかけ降りやうとした。が、巡査がすぐその前に立つてしまつた。「何處へ行くんだ。」

 鈴本はその渡の態度を見て、おや、と思つた。渡はその態度ばかりでなしに、顏の色がちつとも無かつた。普段若手として、何時でも一番先頭に立つて働いてゐる、がつしりした、「鐵板」みたいな渡が、渡らしくない! 鈴本は變な豫感を渡に對して感じた。

 皆は前と後と兩側を巡査に守られながら、階段をゾロ〳〵降りた。然し渡を除くと皆元氣だつた。かういふ事には慣れてゐた。一つ、二つ平手が飛んだ。

 普段何かすると、すぐ「我々は戰鬪的でなければならない。」と、誰れ彼れの差別なく振りまはして歩く齋藤は、然し矢張り一番元氣だつた。彼が鈴本のところへ寄つてくると、

「明日の演説會あれに差支えるから、我ん張らう。」

「うん、やる必要がある。」

 齋藤が、そして何か云はうとした。

「オイ〳〵ツ! 」いきなり齋藤の後首に警官が手をかけると、こづき廻はすやうにして、鈴本から離して別な方へ引張つて行つた。


民衆の旗、×旗は…………


 前の方で、誰か突然歌ひ出した。──、ピシリ、といふ平手の音がした。

「何んだ、この野郎!」身體でもつて、つツかゝつて行くの聲だつた。サーベルで×××つける音が、平手打ちの音に交つて聞えた。

 皆は前と後と、すつかり腕をつなぎ合はせてゐた。ワザと強く足ぶみをして歩いた。

「うるせえツよ!」齋藤が、小さい身體一杯に叫んで、立ち止つてしまつた。「おい、皆、わけも分らないで引つ張られてゆくのは反對だ。なアツ! 一つ訊くんだ。」

「んだ、んだ!」皆それに賛成した。

 鈴本は渡だけに眼をつけてゐた。何時でもかういふ時には、彈んだバネのやうに、一緒にはぢけ上る渡が、棒杭のやうにつツ立つてゐる。──警官は小さい齋藤のまはりをぐるりと取卷いてしまつた。外の組合員は、警官の肩と肩の間に自分の肩を楔形に割り込ませやうとした。その身體と身體のモミ合ひが、そこに小さい渦卷きを起した。

「馬鹿野郎、理由を云れ!」

「行けば分る。」──こゝでも、これだ。

「行けば分るで、一々臭え處さ引張られてつてたまるか。」

「人權蹂躙だ!」後からも叫んだ。

 ××の一人が齋藤をなぐりつけたらしかつた。人の輪が急に大きく搖れた。握りこぶしを固めた組合員が輪の外から、それを乘り越さうと、あせつた。それで急に騷ぎが大きくなつた。

「貴樣等は!……貴樣等はな!」口を何かで抑へられて無理に出してゐる齋藤の聲が、切れ、切れに聞えた。──「貴樣等が、いくらこつたら事したつて、この運動が………な、無くなるとでも……畜生、無くなるとでも思つてるのか! 糞ツ!」

 皆は興奮して、ワツと聲をあげた。

 何かに氣をとられた形でゐた渡が、この時肩巾の廣い、がつしりした身體で、その渦の中に割り込んで行つた。それを見ると、鈴本は、何んでもなかつたのか、さう思つてホツとした。

「正當な理由が無えうち、俺達この全部の力にかけて、行くこと反對だ!」かすれた、底のある低い聲で云つた。渡の低い聲は皆に對して何時も不思議に大きな力を持つてゐた。

 渦卷きから離れて立つてゐた石田は、空元氣を出して騷いでゐる組合員を、何時ものやうに苦々しく思ひ、だまつて見てゐた。石田は騷ぐ時と、さうでない時──さうあつてはならない時がある、と思つてゐる。この事をよくわきまへて、さうする事は、何も非戰鬪的なことであるとは思へなかつた。齋藤などは、石田には狂犬病患者であると、しか考へられなかつた。石田はこの運動をしてゐるものに、殊に「齋藤型」の多いのを知つてゐる。それ等を見ると、石田は何時でも顏をそむけた。それ等には「小兒病」と、人間らしい侮蔑語を使ふのさへ勿體なかつた。「こんな時に、それが何んになる。フン、勇敢な無産階級の鬪士だ。」──石田は自分の周圍に唾をはくと、靴の爪先きでそれを床にこすりつけた。

 渡が出て、皆の結束ががつしりした。──と、その時、入口からもう七八人の巡査がどや〳〵ツと突入してきた。それで、結束はその力で一もみにもみ潰されてしまつた。皆は大きな渦卷きになつて、表へ、入口の戸をシリ〳〵させ、もみ出た。

 戸の外からは、剃刀の刄のやうな寒氣がすべり込んできた。夜明けに近く、冷えるにいいだけ冷えきつた、零下二十度の空氣だつた。それに皆は寢起きすぐの身體なので、その寒さが殊にブルン〳〵とこたえた。皆は顎と肩に力を入れて、ふるえをこらえた。

 夜はまだ薄明りもしてゐなかつた。雪を含んだ暗い空の下で、街は地の底からジーンと靜まりかへつてゐた。歩くと、雪道は何かものでも毀れる時のやうにカリツ〳〵と鳴つた。垢でベタ〳〵になつてゐるシヤツをコールテン地の服の下に着てゐた石田や齋藤は、直接ぢかに膚へ寒さを感じた。皮膚全體が痛んできた。そして、しばらくすると、手先きや爪先きが感覺なく、しびれてくるのを覺えた。

 皆は一人々々警官に腕を組れて外へ出た。

 一週間程前に組合に入つたばかりの、まだ二十にならない柴田は初めつから一言も、ものを云へず、變にひきつツた顏をしてゐた。彼は皆がどなる時、それでも、それについて自分でもさうしやうと努めた。が、半分乾きかけた粘土のやうになつてゐる頬は、ピクピクと動いたきり、いふことをきかなかつた。彼は、何時でもかういふ事には、これから打ち當る、だから早く慣れきつてしまつて置かなければならない、さう思つてゐた。今、然し初めての柴田にはやつぱりそれはドシンと體當りに當つてきた。彼はひとたまりもなく、投げ出された形だつた。彼は寒さからではなしに、身體がふるえ、ふるえ──齒のカタ〳〵するのを、どうしても止められなかつた。

 皆は灰色の一かたまりにかたまつて、街の通りを、通りから通りへ歩いて行つた。寒さを防ぐために、お互に身體をすり合せ、もみ合せ、足にワザと力を入れて踏んだ。ひつそりしてゐる通りに、二十人の歩く靴音がザツク、ザツク……と、響いて行つた。

 組合の者達は妙にグツと押し默つてゐた。さうしてゐるうちに、皆には然し、不思議に一つの同じ氣持が動いて行つた。インクに浸たされた紙のやうに、みる〳〵それが皆の氣持の隅から隅まで浸してゆくやうに思はれた。一つの集團が、同じ方向へ、同じやうに動いてゆくとき、そのあらゆる差別を押しつぶし、押しのけて必ず出てくる、たつた一つの氣持だつた。「關羽」の鈴本も、渡も、「ドンキ」の阪西も、齋藤も、石田も、又新米の柴田も、その他の組合員も、たつた一つの集團の意識の中に──同じ方向を持つた、同じ色彩の、調子の、強度の意識の中に、グツ、グツと入り込んでしまつてゐた。「それ」は何時でも、かういふ時に起る不思議な──だが、然しそれこそ無くてはならない、「それ」があればこそ、プロレタリアの「鐵」の團結が可能である──氣持だつた。

 今、この九人の組合員は、九人といふ一つ、一つの數ではなしに、それ自身何かたつた一つのタンクに變つてゐた。彼等は互に腕と腕をガツシリ組み合せ、肩と肩をくつつけ、暗い然し鋭い眼で前方を見据え、──それは恰かも彼等のたつた一つの目標に向つて──「××」に向つて、前進してゐるかの如く、見えた。



 お惠は夫があんな風にして連れて行かれてから、何處かガランとした家の中にゐる事が、たまらなかつた。自家うちへ時々やつてくる組合の書記の工藤の家へ行つてみやうと思つた。それに、組合の人達の樣子や、今度のことの内容や、その範圍なども知りたかつた。然し工藤もやつぱり檢束されてゐた。

 ──工藤の家へ、警官が踏みこんだ時は、家の中は眞暗だつた。警官は、「オイ、起きろツ!」と云ひながら、電燈のつる下がつてゐるあたりを、手さぐりした。三人ゐる子供が眼をさまして、大きな聲で一度に泣き出した。電燈の位置をさがしてゐる警官は「保名」でも踊る時のやうな手付きをして、空をさがしてゐた。と、闇の中でパチン、パチンとスウイツチをひねる音がした。「どうしたんだ、えゝ?」

「電燈はつかんよ。」

 それまで何も云はないでゐた工藤は、警官の周章てゝゐるのとは反對に、憎いほど落付いた聲で云つた。

 工藤の家は電燈料が滯つて、二ヶ月も前から電燈のスウイツチが切られてしまつてゐた。然し、と云つて、ローソクを買ふ金も、ランプにする金もなかつた。夜になると、子供を隣りの家に遊ばせにやつたり、妻のお由は組合に出掛けたりして、六十日も暗闇の中で過ごしてゐた。「明るい電燈、明るい家庭。」暗い電燈さへ無い彼等には、そんなものは糞喰えだつた。

「逃げないから大丈夫。」さう云つて、工藤が笑つた。

 お由は泣いてゐる子供に、「誰でもないよ。何時も來る人さ。何んでもない、さ、泣くんでない。」と云つてゐた。子供は一人づゝ泣きやんで行つた。工藤の子供達は巡査などに慣れてさへゐた。組合の人達は、冗談半分だけれども、お由が自分の子供等に正しい「階級教育」をほどこしてゐるといふので、評判を立てゝゐた。が、お由は勿論自分では何か理窟があつて、さうしてゐるのではなかつた。──お由は秋田のドン百姓の末娘に生れた。彼女は小學校を二年でやめると、十四の春迄地主の家へ子守にやられた。そこでお由は意地の惡い、氣むづかしい背中の子供と、所嫌はずなぐりつける男の主人と、その主人よりもつと慘忍な女主人にいぢめられ、こづき廻はされた。五年の間、一日の休みもなく、コキ使はれた。そして、やうやく其處から自家へ歸つてくると、畑へ出された。一日中蝦夷のやうに腰を二つに折り、そのために血が頭に下がつてきて、頬とまぶたが充血して腫れ上つた。十七の時、隣り村の工藤に嫁入した。が、その次の次の日から(!)──丁度秋の穫入れが終つた頃なので──工藤と二人で近所の土工部屋にトロツコ押しに出掛けて行かなければならなかつた。雜巾切れのやうに疲れ切つて歸つてくると、家の中の仕事は山のやうに溜つてゐた。お由は打ちのめされた人のやうに、クラツ〳〵する身體でトロツコと臺所の間を往き來した。ジリ〳〵燒けつく日中に、トロツコを押しながら、始めての夫婦生活の疲勞と月經から氣を失つて、仰向けにぶツ倒れた事があつた。

 子供が生れてから、生活は尻上りに、やけに苦しくなつてきた。そんな時になつてどうすればいゝか分らなくなつた工藤は、自分とお由とで行李を一つづゝ背負つて、暗くなつてから村を出てしまつた。暗い、吹雪いた、山の鳴る夜だつた。そして北海道へ渡つてきた。

 小樽で二人はある鐵工場に入つた。が、北海道と内地とは、人が云ふほどの大した異ひはなかつた。こゝも矢張りお由達には住みいゝ處ではなかつた。では、何處へ行けばよかつたらう。だが、何處へ行くところがある! プロレタリアは何處へ行つたつて、同じことだ……。

 お由の手は、自分の身體には不釣合に大きく蟹のはさみのやうに、兩肩にブラ下つてゐた。皮膚は樹の根のやうにザラ〳〵して、汚れが眞黒に染み込んでゐた。それは、もう、一生取れないだらう。子供が背中をかゆがると、お由は爪でなくて、そのザラした掌で何時も撫でゝやつた。それだけで子供は掻かれたよりも氣持よがつた。

 お由はその長い間の自分の生活から、身をもつて「憎くて、憎くてたまらない人間」を、ハツキリと知つてゐた。殊に夫が組合に入り、運動をするやうになつてから、それ等のことが、もつとはつきりした形でお由の頭に入つてきた。

 工藤は組合の仕事で一週間も家へ歸れない事が何度もあつた。お由は自分で──自分一人で働いて、子供のことまでしてゆかなければならなかつた。が、今迄とは異つた氣持で、お由は仕事が出來た。お由は濱へ出て石炭擔ぎをやつたり、倉庫で澱粉や雜穀の袋縫ひをしたり、輸出青豌豆の手撰工場へ行つたりした。末の子が腹にゐたとき、十ヶ月の大きな腹をして、炭俵を艀から倉庫へ擔いだ。

 家の障子は骨ばかりになつた。寒い風が吹き込むやうになつても、然し障子紙など買ふ金がなかつたので、組合から「無産者新聞」や「勞働農民新聞」の古いのを貰つてきて、それを貼つた。煽動的なストライキの記事とか、大きな「火」のやうな見出しが斜めになつたり、倒になつたり、半分隱れたりして貼られた。お由は暇な時、ボツリ、ボツリそれを讀んでゐた。子供から「これ何アに、あれ何アに」と聞れるたびに、それを讀んできかせた。家の壁には選擧の時に使ひ餘つたポスター、ビラ、雜誌の廣告などをべた〳〵貼りつけた。渡や鈴本が工藤の家にやつてくると「ほオ!」と何度もグル〳〵見廻はつて歩いて、「我等の家」だなんて云つて、喜んだ。

 ……工藤は起き上ると、身仕度をした。身支度をしながら、工藤は今度は長くなると思つた。さうなれば、一錢も殘つてゐない一家がその間、どうして暮して行くか、それが重く、じめ〳〵と心にのしかゝつてきた。これは、こんな場合、何時でも同じやうに感ずる氣持だつた。然し何度感じやうが、組合で皆と一緒に興奮してゐる時はいゝ、然しさうでない時、子供や妻の生活を思ひ、やり切れなく胸をしめつけられた。

 お由は手傳つて、用意をしてやると、

「ぢや、行つといで。」と云つた。

「ウム。」

「今度は何んだの。當てがある?」

 彼は默つてゐた。が、

「どうだ、やつて行けるか。長くなるかも知れないど。」

「後?──大丈夫。」

 お由は何時もの明るい、元氣のいゝ調子で云つた。

 漠然ではあるが、何のことか分つてゐる一番上の子供が、

「おどうつておで。」と云つた。

「こんな家へくると、とてもたまつたもんでない。」警官が驚いた。「まるで當り前のことみたいに、一家そろつて行つてお出で、だと!」

「こんな事で一々泣いたり、ほえたりしてゐた日にや、俺達の運動なんか出來るもんでないよ。」

 工藤は暗い、ジメ〳〵さを取り除くために、毒ツぽく云ひ返した。

「この野郎、要らねえ事をしやべると、たゝきのめすぞ。」

 警官が變に息をはづませて、どなつた。

 彼は妻に何か云ひ殘して行きたいと思つた。然し口の重い彼は、どう云つていゝか一寸分らなかつた。妻が又苦勞するのか、と思ふと、(勿論それは自分の妻だけではないが、)膝のあたりから、妙に力が拔ける感じがした。

「本當、どうにかやつて行けるから。」

 お由は夫の顏を見て、もう一度さう云つた。夫はだまつて、うなづいた。

 戸がしまつた。お由は皆の外を行く足音を、しばらく立つてきいてゐた。

 自分達の社會が來る迄、こんな事が何百遍あつたとしても、足りない事をお由は知つてゐた。さういふ社會を來させるために、自分達は次に來る者達の「踏臺」になつて、××××にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシ〳〵川に入つて、重り合つて溺死し後から來る者をその自分達の屍を橋に渡してやる、といふことを聞いた事があつた。その先頭の蟻こそ自分達でなければならない、組合の若い人達がよくその話をした。そしてそれこそ必要なことだつた。

「まだ、まだねえ!」

 さうお由がお惠に云つた。

 お惠は半ば暗い顏をしながら、然し興奮してお由にうなづいてみせた。



 今度の檢擧が案外廣い範圍に渡つてゐることをお惠はお由から知らされた。××鐵工場の職工が仕事場から、ナツパ服のまゝ連れて行かれたり、濱の自由勞働者や倉庫の勞働者が毎日五人、十人と取調べに引かれたり、學生も確か二、三人は入つてゐた。


 龍吉の家で毎火曜の晩開かれる研究會に來てゐた會社員の佐多も、二日遲れて引張られて行つた。

 佐多は龍吉達に時々自分の家のことをこぼしてゐた。──家には、佐多だけを頼りにしてゐる母親が一人ゐた。母親は息子が運動の方へ入つてゆくのを「身震ひ」して悲しんでゐた。母親は彼を高商まであげるのに八年間も、身體を使つて、使つて、使ひ切らしてしまつた。彼はまるで母親の身體を少しづゝ食つて生きて來たやうなものだつた。然し母親は、佐多が學校を出て、銀行員か會社員になつたら、自分は息子の月給を自慢をしたり、長い一日をのん氣にお茶を飮みながら、近所の人と話し込んだり、一年に一回位は内地の郷里に遊びに行つたり、ボーナスが入つたら温泉にもたまに行けるやうになるだらう………今迄のやうに、毎月の拂ひにオド〳〵したり、言譯をしたり、質屋へ通つたり、差押へをされたりしなくてもすむ。それはまるで、お湯から上つてきて、襦袢一枚で縁側に横になるやうなこの上ない幸福なことに思はれた。母親は長い、長い(──實際それは長過ぎた氣がした。)苦しさの中で、たゞ、それ等のことばかりを考へ、豫想し、それだけの理由で苦しさに堪えてきた。

 毎日會社に通ふ。──月末にちやん〳〵と月給が入つてくる。──このキチンとした生活を長い間母親は待つてゐたのだ。佐多が學校を出て、就職がきまり、最初の月給を「袋のまゝ」受取つたとき、母親はそれを膝の上にのせたまゝ、ぢいツとしてゐた。が、しばらくすると母親の身體が、見えない程小刻みに、顫えてきた。母親は何度も、何度も袋を自分の額に押しあてた。佐多は矢張り變な興奮と、逆に「有りふれて、古い、古い。」と思ひながら、二階に上つた。暫すると、下で佛壇のりんのなる音がした。

 晩飯まで本を讀んで、下りてくると、食卓には何時もより御馳走があつた。佛壇にはローソクが明るくついて、袋がのつてゐる。「お父さんに上げておいたよ。」と母が云つた。

 それまではよかつた。

 母親は、今までなかつた色々な寫眞が、佐多の二階の室にだん〳〵貼られてきたのに氣を使ひだした。

「これは何んといふ人?」

 母親が佐多の机のすぐ前の壁にかゝつてゐるアイヌのやうな、ひげにうづまつた──ひげの中から顏が出てゐる、のを指差した。佐多は曖昧にふくみ笑つた。

「お前、別に何んでもないかい。」

 何處から聞いてくるか、然しハツキリではなく、こんな云ひ方をすることもあつた。表紙の眞赤な本が殖えてきたのにも氣づいてゐた。勞農黨××支部、さういふ裏印を押した手紙がくると、母親は獨りで周章てゝ、自分の懷にしまひ込んだ。佐多が歸つてくると、何か祕密な恐ろしいものでゝもあるやうに、それを出して渡した。「お前、そのう、主義者しぎしやだか、なんだかになつたんでないだらうねえ。」

 佐多は、母親がだん〳〵浮かないやうな顏をする日が多くなり、夜など朝まで寢がへりをうつて、寢られずにゐるのを知つた。佛壇の前に坐つて、泣いてゐるのも、何度も見た。それが皆自分のことからである、とハツキリ思つた。特別な事情で育てられてきた佐多には、さういふ母を見ることは心臟に鶴嘴を打ち込まれる氣がした。龍吉やお惠は隨分佐多から、この事では相談されたことがあつた。

 佐多が二階にゐると、時々母が上つてきた。その回數がだん〳〵多くなつてきた。母親はその度に同じことをボソ〳〵云つた。──お前一人がどうしやうが、どうにもなるものぢやない、若しもの事があり、食へなくなつたらだうする、お前は世間の人達の恐れてゐるやうなそんな事をする人間ではなかつた筈だ、キツト何んかに馮かれてゐるんだ、お母さんは毎日お前のために神樣や、死んだお父さんにお祈りしてゐる……。佐多はイライラしてくると、

「お母さんには分らないんだ。」と、半分泣きさうになつてゐる聲で、どなつた。

「それより、お母さんにはお前の心が分らないよ。」母は肩をすぼめて、弱々しく云つた。

 佐多は面倒になると、母を殘して二階をドン〳〵降りてしまつた。降りても然し、佐多の氣持はなごまなかつた。俺をこんなに意氣地なくするのは母だ、「母親なんて案外大きな俺たちの敵なのだ。」彼は興奮した心で考へた。

 その後で、もう一度さういふ事があつた。佐多はムツとして立ち上ると、

「分つた、分つた、分つたよ! もういゝ、澤山だ!」いきなり叫んだ。「もうやめたよ。お母さんの云ふやうに、やめるよ。いゝんだらう。やめたらいゝんだらう。やめるよ、やめるよ! うるさい!」

 彼は母をつツ飛ばすやうにして表へ出てしまつた。外へ出てしまうと、然し逆な氣持が起つてきた。

「お母さんには分らないんだ。」

 佐多は十六日に、仲間から龍吉の方や組合に大檢擧のあつた事をきいた。然しその仲間も、それが何んのことでやられたのか見當がついてゐなかつた。佐多は家へ歸ると、色々な書類を纒めて近所の家へ預け、整理してしまつた。その日は何んでもなかつた。彼はホツとする一方、組合へ出掛けて行つて、樣子を見てみやうと思つた。そこへ前の仲間が來て、組合や黨の事務所には私服が澤山入りこんでゐて危いことを知らせてくれた。そして組合にウツカリ來る者は、それが關係のあるものであらうと、無からうと引張つてゆく。組合の小林が十五日の午後、何氣なく組合に行くと、私服がドカ〳〵と出てきて、いきなり小林をつかまえた。小林はハツとして、突嗟に、俺は印刷屋の掛取りだ。掛を取りに來たんだ、と云つたら、今誰も居ないから駄目、駄目、と云つてつツ返へされてきた。彼は勿論その足で、組合員の家を廻つて、注意するやうに云つた。仲間はそんな事を話した。彼は行かないでよかつたと思つた。

 然し檢束のために、警官がやつて來たのは、十七日の夜、佐多が夕刊を讀んでゐた處だつた。佐多はイザとなつたとき、自分でも案外な覺悟と落着きが出來てゐた。

 彼は活動寫眞や古い芝居で、よく「腰をぬかす」滑稽な身振りを見て笑つた。然し! 彼が外套を取りに行つて二階から下りてきた時だつた。彼は室の片隅の方にぺつたりへたばつたまゝ、手と足だけをバタ〳〵やつてゐる母親を見たのだつた! 唇がワナ〳〵動いて、何か一生懸命ものを云はうとしてゐるらしく、然し何も云へず、サツと凄い程血の氣の無くなつた顏がこはゞつて、眼だけがグル〳〵動いてゐる。手と足は何かにつかまらうとしてゐるやうに振つてゐる。然し母親の身體はちつとも動かないではないか。佐多は障子を半分開きかけたそのまゝの恰好で、丸太棒のやうに立ちすくんでしまつた。

 佐多は三人の警官に守られながら外へ出た。彼は道々母のことを考へ、警官に見られないやうに、獨りで長い間泣いてゐた。


 お惠は工藤の家からの歸り、市の一番賑やかな花園町大通りを歩いてきた。まだ暮れたばかりの夜だつた。そんなに寒氣しばれがきびしくなかつた。街には何時ものやうに、澤山の人が歩いてゐたし、鈴をつけた馬橇、自動車、乘合自動車はしきりなしに往つたり來たりしてゐた。明るい店のシヨウ・ウインドウに、新婚らしい二人連れが顏を近く寄せて、何か話してゐた。──温かさうなコートや角卷の女、厚い駱駝のオーヴアに身體をフカ〳〵と包んだ男、用達しの小僧、大きな空の辨當箱をさげたナツパ服、子供……それ等が皆、肩と肩とを擦り合せ、話し合ひ、急ぎ足であつたり、ブラ〳〵であつたり、歩いてゐる。お惠は不思議な氣持がしてくるのを覺えた。今、この同じ××の市であんなに大きな事件が起き上つてゐる。然し、それと此處は何んといふ無關係であらう。それでいゝのだらうか。あの何十人──何百人かの人達が、全く自分等の身體を投げてかゝつてゐる、誰れでものためでない、無産大衆のためにやつてゐるそのことが、こんなに無關係であつていゝと云ふのだらうか──お惠は分らなくなつた。こゝには、そのちよツぴりした餘波さへ來てゐない氣がした。政府が新聞に差止めしてゐるズルイ方法のためがあつたかも知れない。ずるい方法だ! 然しどの顏も、そのどの態度も皆明るく、滿足し、皆てんでの行先きに急いでゐるやうに思はれた。

 夫達は誰のためにやつてゐるのだ。お惠は變に淋しい物足りなさを感じた。夫達がだまされてゐる! 馬鹿な、何を云ふ! 然し、暗い氣持は馬虻のやうに、しつこくお惠の身體にまつはつて離れなかつた。

── 次號完結 ──



 ××日の夜明、警察署からは帽子の顎紐をかけた警官が何人も周章た樣子で、出たり入つたりしてゐた。それが何度も何度も繰返された。空色に車體を塗つた自動車も時々横付けにされた。自動車がバタ〳〵と機關の音をさせると警察のドアーが勢よく開いて、片手で劍をおさへた警官が走つて出てきた。自動車は一きわ高い爆音をあげて、そこから直ぐ下り坂になつてゐる處を、雪道の窪みにタイヤを落して、車體をゆすりながら、すべり下りて、直ぐ見えなくなつた。一寸すると戻つてきて、別な人を乘せると、又出た。


 留置場は一杯になつてゐた。

 先きに入られた者等は、扉の錠がガチヤ〳〵し出すと、今迄勝手にしやべり散らしてゐたのを、ぴたりやめて、其處だけに眼を注いで──待つた。入つてきたのが、渡、鈴本、齋藤、阪西達だと分ると思はず一緒に歡聲をあげた。警備に當つてゐる巡査が鷄冠のやうに赤くなつて、背のびをしながら怒鳴つたが、ちつとも効めがなかつた。一緒にされた十四五人は皆何時も顏を合せ、第一線に立つて鬪爭してきたものばかりだつた。

 彼等は、それ〴〵自分の相手に、興奮してこの不法行爲に就いて、大聲で議論をし合つた。そして彼等は、皆が一緒になつたといふ事から、それに恃んで、無茶苦茶な亂暴をしたい衝動にかられた。

 齋藤は、いきなり身體をマリのやうに縮めると、ものも云はずに、板壁に身體全部で打ち當つて行つた。唇をギユツとかんで、顏を眞赤にして力みながら、鬪牛のやうに首を少しまげて、それを繰り返した。

「チエツ!」

 駄目だと分ると、今度は馬のやうに後足で蹴り出した。皆も眞似をして、てんでに、板壁をたゝいたり、蹴つたりした。石田は(彼だけ)腕ぐみをして、時々獨言を漏らしながら、室の中央を歩いてゐた。

 又扉が開いた。然し今度は鈴本と渡が呼び出されて行つた。「どうしたんだ。」──皆は頭株の二人がゐなくなると、變に氣拔けしてきた。そして壁をたゝくものが、一人やめ、二人やめ、だん〳〵やめてしまつた。

 石田は、壁の隅ツこに兩足を投げ出したまゝ眼をつぶつてゐる龍吉に、氣付いた。彼は、小川さんも! と思ふと今度の事はとてつもなく大變な事である氣がした。と、同時に、その親しさから、何處か頼りある氣持になつた。

「小川さん。」石田は寄つて行つた。

 龍吉は顏をあげた。

「今度のは何んです。」

「ウン、俺にも分らないんだよ。今、渡君にでも聞かうと思つてたんだ。」

「今日やる倒閣。」

「さうかとも思つてるんだ──が。さうなら今日一日でいゝわけだ──が……。」

 皆が二人を取卷いてきた。何等理由もきかせず、犬の子か猫の子を處置するやうに、引張つてきて、ブチ込んだことに對して奮慨した。龍吉もそれはさうだつた。

「ねえ、法律にはかう決めてあるんだよ。日出前、日沒後に於ては、生命とか身體とか財産に對して、危害切迫せりと認むる時だ。又はさ、博奕、密淫賣の現行ありと認むる時でなかつたら、そこに住んでゐる人の意に反してだ──どうだ、いゝか──現居住者の意に反して、邸宅に入ることを得ず、ツてあるんだ。それを何んだ、夜中の寢込みを襲つて! それに理由も云はずに檢束するなんて! ××はこんな事をする處だよ。」

 勞働者達は一心に聞いてゐた。そして、畜生、野郎、と叫んで、足ぶみをした。

 龍吉は興奮してゐた。「所が、どうだ、憲法にはかうあるんだ、憲法にだぜ。──日本臣民は、だ、法律によるに非ずして逮捕、監禁、審問、處罰を受くることなし。俺達は、ところがどうだ。ちアんと正式の法律の手續をふんで、一度だつて、その逮捕、監禁、審問を受けたことがあつたとでも云ふのか。──このゴマカシと嘘八百!」

 かう云はれて、皆は今の場合──現實に、その××な仕打のワナにかゝつて、身もだえをしてゐる場合、それ等のことがムシ齒の神經に直接に觸はられるやうに、全身にこたえて行つた。

「おい、そこの扉を皆でブチ割つて、理由を聞きに行かうぢやないか。」

「やらう!」他の者も興奮して、それに同意した。「ひでえ騷ぎ、たゝき起してやるべえ!」

「駄目、駄目。」龍吉が頭を振つた。

「どうしてだい?」齋藤は組合などでもよくする癖で、肩でつツかゝるやうに龍吉に向つて行つた。

「かう入つてしまへば、何をしたつて無駄さ。逆に、かへつてひでえ目に會ふが落さ。──萬事、俺達の運動は、外で大衆の支持で! 五人、十人の偉さうな亂暴と狂燥は何んにもならないんだ。俺達が夢にでも忘れてはならない原則にもどるよ。」

「そ、そんなことで、ぢつとしてられるか! それこそ偉さうな理窟だ、理窟だ!」

 石田は側で、相變らずだなア、と思つた。巡査が四人入つてきた。

 皆はギヨツとして、そのまゝの恰好に、ぢいツとしてゐた。顏一面ザラ〳〵したひげの、背の低い、がつしりした身體つきの巡査が、留置場の中をグル〳〵見廻はしてから、

「貴樣等、こゝは警察だ位のことは分つてるんだらうな。何んだこのやかましさは!」

 一人々々の肩をグイ〳〵と押しのめした。齋藤の處へ來たとき、彼はひよいと肩を引いた。はづみを食らつて、巡査の手と身體が調子よく前にヨロ〳〵と泳いだ。と、巡査は「この野郎!」と無氣味な聲で云ふと、いきなり、齋藤の身體に自分の身體をすり寄せた。齋藤の身體は空に半圓を描いて、龍吉の横の羽目板に「ズスン」と鈍い音をたてて、投げつけられてゐた。

 巡査はせわしく肩で息をして、少しかすれた聲で「皆、覺えておけ。少しでも騷いだりすると覺悟が要るんだぞ!」と云つた。

 後から入つてきた巡査は、紙を見て、一人々々名前を呼んで、その者だけを廊下に出るやうに云つた。ブツ〳〵云ひながら、呼ばれた者は小さい潜り戸を、蹲みながら出て行つた。あとに六人殘つた。

 倒れた齋藤が横になつたまゝ、身體を尺取蟲のやうにして起き上らうとしてゐた處を、先の巡査は靴のまゝ、續けて二度蹴つた。

 しばらくして、又別な巡査が入つてきて、中にゐる六人に一人づゝ付添つて、話も出來ないやうにしてしまつた。

 龍吉は高く取り付けてある小さい窓の下に坐つた。汚く濁つた電燈の光が、皆の輪廓をぼかして、動いてゐるのは影だけでゞもあるやうな雰圍氣だつた。それが五分經ち──十分經つて行くうちに、初め黄色ツぽい光だつた電燈がへんに薄れて行くやうで──一帶が青白くなり、そしてだん〳〵に、室の中が深い海底でゞもあるやうな色に變つてゆくのが分つた。何處か一部分だけがズキ〳〵する頭で、龍吉は夜が明けかゝつてゐるのだな、と思つた。

 構内は靜かになつた。凍え切つた靜かさだつた。時々廊下を小走りにゆくコツ〳〵といふ靴音がした。足音が止んで扉を開ける、それが氷でも碎ける音のやうに聞えた。ドタ〳〵と足音か亂れて、誰か腕をとられながら、何か云ひ爭ふやうにして前を通つて行つた。それが終ると、もとの夜明らしい何處か變態的な靜けさにかへつた。誰か、やつぱり短い生あくびをして、表を通り過ぎて行つた。

「寢むてえ。寢せてけないのか。」

 ボソ〳〵した調子で、片隅からさう云ふのが聞えた。

「もう夜明けだ。夜が明けるよ。」

 巡査も寢不足の、はれぼつたい、ぼんやりした顏をしてゐた。

 龍吉は板壁に身體を寄りかゝらせて、眼をつぶつてゐた。身體も神經も妙に疲れきつてゐた。ぢつと、さうしてゐると、船にでも乘つてゐるやうに、自分の身體が靜かに巾大きく、搖れてゐるやうに感じた。彼は檢束された時、何時でもさうする癖をつけてゐたやうに、取りとめのないことの空想や、想像や、思ひ出やに疲れてくると、一度讀んだ事のある重要な本の復習や、そこから出てくる問題を頭の中で理論的に筋道をつけて考へることに決めてゐた。又組合や黨などで論爭された自分の考などについて、もう一度始めから清算してみることにしてゐた。それを始めた。

 龍吉は、この前の研究會の時、マルクスの價値説とオーストリア學派の限界効用説に就いて起つた議論を、自分が考へ、又讀んだことのある本の中から材料を探がしてきて、もう一度考へ直さうと思つてゐた……。

 彼はすつかりアワを食つてゐた。ズボンをはきながら、のめつたり、よろめいたり、自分ながらさういふ自分に不快になるのを感じさへした。然し、彼は襖一重隣の室で自分を待つてゐる巡査の、カチヤ〳〵するサアベルの音が幸子の耳に聞える、今にも聞える、さう思つて、ハラ〳〵してゐた。彼はその音が幸子に聞えれば、幸子の「心」にひゞが入ることを知つてゐた。

「お父さんはねえ、學校の人と一緒に旅行へ行くんだよ。」

 幸子が黒い大きな眼をパツチリ、つぶらに開いて、彼を見上げる。

「おみやに何もつてきて?」

 彼はグツとこたえた。が「うん〳〵、いゝものどつさり。」

 と、幸子が襖の方へ、くるりと頭を向けた。彼はいきなり兩手で自分の頭を押へた。ピーン、陶器の割れるその音を、彼はたしかにきいた。彼は、アツと、内にこもつた叫聲をあげて、かけ寄ると、急いで幸子の懷を開けてみた。乾萄葡をつけたやうな二つの乳首の間に、陶器の皿のやうな心がついてゐる──見ると、髮の毛のやうなヒビが、そこに入つてゐるではないか!

 あつ、あつ、あつ、あつ…‥龍吉は續け樣にむせたやうな叫び聲をあげた……。

 眼を開けると、室の中はけぶつたやうな青白い夜明けの光が、はつきり入つてゐた。皆は疲勞してゐるやうな恰好で、大きな頭を胸にうづめたり、身體を半分横にしたり、ぼんやり洞ろな眼差しを板壁に向けてゐたりしてゐた。龍吉は輕くゴツン〳〵と板壁に自分の頭を打ちつけてみた。頭の左側の一部分が、やはり、そこだけズキ、ズキしてゐた。彼は今うつゝに見た夢が、無氣味な實感の餘韻を何時迄も心に殘してゐることを感じた。

 然し、龍吉は今では自分でもさうと分る程、かういふ處にたゝき込まれた時のオキマリの感傷的な絶望感から逃れ得てゐた。それは誰れでもが囚はれる──そして、それは或る場合、當人を事實全く氣狂ひのやうにしてしまうかも知れない──堪え難い、ハケ口のない陰鬱な壓迫だつた。このためにだけでも、何人もこの運動から身を引いて行つた人のあることを龍吉は見て來てゐた。龍吉だつても、勿論そこを危い綱渡りのやうに通つてきた。そして一回、一回不當な××な××を受ければ、受けるその度毎に、今迄に彼のうちに多分に殘されてゐた抹梢神經がドシ〳〵すり減らされて行つた。ムシ齒に這ひ出てゐる神經のやうに、一寸したことにでもピリ〳〵くる彼の(輕蔑の意味でのデリケートな)心がだん〳〵鋼鐵のやうに鍛えられてゆくのを感じた。それは然し龍吉にとつては文字通り「連續した××」の生活だつた。龍吉のやうに「インテリゲンチヤ」の過去を持つたものが、この運動に眞實に、頭からではなしに、「身體をもつて」入り込もうとする時、それは然し當然の過程として課せられなければならない「訓練」であつた。そしてそれは又、單純な道ではあり得なかつた。──髮の毛をひツつかんで引きずり廻はされるやうな、ジグザツクな、しかも胸突八丁だつた。

 ──龍吉は妙に、心にしみこんでくる幸子のことを頭から拂ひ落さうとするやうに、大きくあくびをした。片隅で齋藤が餘程長く延びてゐる髮を、やけに兩手の指を熊手のやうにして逆にかき上げた。

 交代の時間が來て、一人に一人づゝ付いてゐた巡査が出て行つた。時々龍吉の家にくるので知つてゐる須田巡査が出て行きしなに彼へ、

「ねえ、小川君、實際こんなことがあるとたまらないよ。──非番も何もあつたもんでない。身體が參るよ。」──さう云つたのに、變な實感があつた。

 彼は、人をふんだり、蹴つたりする巡査らしくない親しみを感じ、ひよつとすると、それが彼の素地であるかも知れないものを其處に見た氣がして、意外に思つた。

「實際、ご苦勞さんだ。」

 皮肉でなく、さう云つてやつた。

 齋藤は「ご苦勞──を。」と、ブツ切ら棒に捨科白のやうに巡査の後に投げつけた。

 外の巡査が皆出てしまうと、須田巡査が、

「何か自家うちことづけが無いか」とひくゝ訊いた。

 龍吉は一寸何も云へずに、思はず須田の顏を見た。

「いゝや、別に──有難う……。」

 須田は頭でうなづいて出て行つた。少し前こゞみな官服の圓い肩が、妙に貧相に見えた。

「あ──あ、煙草飮みたいなア。」誰かゞ獨言のやうに云つた。

「もう、夜が明けるぞ……」



 龍吉と一緒の室にゐた齋藤が便所に行く途中、廊下の突き當りの留置場の前で、

「おい。」──と、その留置場にゐる誰かに呼ばれた、と思つた。

 齋藤は足をとゞめた。

「おい。」──聲が渡だつた。小さい窓へ、内から顏をあてゝゐるのが、さう云へば渡だつた。

「渡か、俺だ。──何んだ、獨りか?」

「獨りだ。皆元氣か。」何時もの、高くない底のある聲だつた。

「元氣だ。──うむ、獨りか。」獨り、といふのが齋藤の胸に來た。

 少し遲れて附いてきた巡査が寄つてきたので、

「元氣で居れ。」と云つて、歩き出した。

 歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思つた。室に歸つてから、齋藤はその事を龍吉に云つた。龍吉はだまつたまゝ、それが何時もの癖である下唇をかんだ。

 石田は、渡とは便所で會つた。言葉を交はすことは出來なかつたが、がつしり落付いた、鋼のやうに固い、しつかりした彼の何時もの表情を見た。

「おい、バンクロフトつて知つてるか。」石田が齋藤にきいた。

「バンクロフト? 知らない。コンムユニストか?」

「活動役者だよ。」

「そんなぜいたくもの知るもんかい。」

 石田は渡に會つたとき、ひよいと「暗黒街」といふ活動寫眞で見た、巨賊に扮した、バンクロフトを思ひ出した。渡──バンクロフト、それが不思議なほど、ピツタリ一緒に石田の頭に燒付いた。


 渡は、自分が獨房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じやうに、)自分等が主になつてやつてゐる非合法的な運動が發覺した、と思つた。瞬間、やつぱり顏から血がスウと引けてゆくのが自分でも分つた。彼にとつては、然し、それはそれつきりの事だつた。すぐ何時ものに歸つてゐた。そして殊に獨房にどつかり坐つたとき、遠い旅行から久し振りで自家に歸つてきた人のやうな、廣々とつくろいだ氣持を覺えた。──渡でも誰でも、朝眼をぱつちり開ける。と待つてゐたとばかりに、運動が彼をひツつかんでしまふ。ビラを持つて走り廻る。工場の仲間や市内の支部を廻つて、報告を聞き、相談をし、指令を與へる。中央からのレポートがくる。それが一々その地の情勢に應じて色々の形で實行に移されなければならない。委員會が開かれる。石投げのやうな喧嘩腰の討論が續く。謄寫板。組合員の教育、演説會、──準備、ビラ、奔走、演説、檢束……彼等の身體は廻轉機にでも引つかゝつたやうに、引きずり廻はされる。それは一日の例外もなしに、ツ續けに、何處迄行つても限りのない循環小數のやうに續く。──もう澤山だ! さう云ひたくなる位だ。そしてそのあらゆる間、絶え間なく彼等の心は、張り切り得る最高の限度に常に張り切つてゐなければならなかつた。然し「別莊」はその氣持に中休みを入れさせてくれる効果を持つてゐる。だから「別莊行き」には皮肉な意味を除けば、ブルジヨワの使ふ「休息」さういふ言葉通りの意味も含まつてゐた。然し誰もこの後の方の事を口には出して云はなかつた。そんな事を云へば、一言のもとに非戰鬪的だとされることを皆はこつそり知つてゐたからだ。

 渡は、足を前に投げ出して、それを股から膝、脛、足首──それから次には逆に──揉んだり、首や肩を自分の掌でたゝいたり、深呼吸するやうに大きく、ゆつくりあくびをしたりした。ふと、渡は、自分は今迄ゆつくりあくびさへした事のなかつた事を思ひ出した。そして獨りで可笑しくなつて、笑ひ出した。

 四、五日前から鈴本の歌つてゐたのを聞きながら、何時の間にか覺えた、「夜でも晝でも牢屋は暗い。」の歌を小聲で樂しむやうに、一つ〳〵味ひながら、うたつて、小さい獨房の中を歩いてみた。渡の頭には何も殘つてゐない。さう云つてよかつた。然し時々今日全國的に開かれる反動内閣打倒演説が出來なくなつた事と、自分達の運動が一寸の間でも中斷される殘念さがジリ〳〵歸つてきた。が正直に云つて──又不思議に、渡には、それ等の事は眠りに落ちやうとする間際に、ひよい、ひよいと聯絡もなく、淡く浮かんだり消えたりする無意味なものゝやうでしかなかつた。

 渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたゝいてみたり、さすつてみたりした。彼は實になごやかな氣持だつた。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になつたりする。さういふ氣持はちつとも渡は知らなかつた。然しもつと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやつてゐるからこそ、監獄にたゝき込まれるんだ、といふ事が渡の場合苦しい苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはゐられないその氣持と理窟なしに一致してゐた。彼は、自分の主義主張がコブのやうに自分の氣儘な行動をしばりつけてゐるやうな窮屈さや、それに對する絶えない良心の苛責などは嘗つて感じなかつた。渡は、自分ではちつとも、何も犧牲を拂つてゐるとは思つてゐないし、社會的正義のために俺はしてゐるんだぞ、とも思つてゐない。生のまゝの「憎い、憎い!」さう思ふ彼の感情から、少しの無理もなくやつてゐた。これは彼の底からの氣持と云つてよかつた。それに彼はがんばりの意志を持つてゐた。裏も表もなくムキ出しにされてゐた彼の、その「がんばり」はある時には大黒柱のやうに頼りにされたが、別な場合には他の組合員の狂犬のやうな反感をムラ〳〵ツとひき起すこともなくはなかつた。

 彼は前へすぐ下る髮を、頭を振つて、うるさげに拂ひあげながら、一人ゐる留置場を歩き廻つた。彼の長くない、太い足は柔道をやる人のやうに外に曲がつてゐた。それで彼の上體はかへつて土臺のしつかりしたものに乘つてゐるといふ感じを與へた。彼は一歩々々踵に力を入れて、ゆつくり歩く癖があつた。彼の靴は一番先きに、踵の外側だけが、癖の惡い人に使はれた墨のやうに斜めに減つた。彼は歩きながら同志の者たちはどうしてゐるだらふ、と思つた。誰かかういふ彈壓に恐怖を抱くものがあつては、その事が一番彼の考へを占めた。若しも長びくやうだつたら、それがもつと工合惡くなる、彼はそれに對する策略を考へてみた。

 壁には爪や、鉛筆のやうなもので、色々な樂書がしてあつた。退屈になると、渡は丹念にそれを拾ひ、拾ひ讀んだ。何處にも書かれる男と女の生殖器が大きく二つも三つもあつた。

「俺は泥棒ですよ、ハイ。」「こゝの××は劍難死亡の相あり──骨相家。」「×事、×事、×事、×、×。(これが未來派のやうな字體で。)「不良青年とは、もつとも人生を眞劍に渡る人のことでなくして何んぞや。呵々」「社會主義者よ。何んとかしてくれ。」「お前が社會主義になれ。」男と女の生殖器を向ひ合せて書いてある下に「人生の悲喜劇は一本に始つて、一本に終るか。嗚呼。」「私は飯が食えないんです。」「署長よ。お身の令孃には有名な蟲が喰ツついてゐる。」「何んでえ、こつたら處。誰がおつかながるものか。」「勞働者よ、強くなれ。」「こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。樂書はみつともないから止しにしやう。」「糞でも喰らえ。」「不當にも自由を束縛されたものにとつて、樂書は唯だ一つののび〳〵と解放された樂天地だ。こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。大いに樂書をしたまへ。」「勞働者がこの頃生意氣になりました。」「この野郎、もう一度云つてみろ、たゝき殺してやるぞ。勞働者。」「巡査さん、山田町の吉田キヨといふ人妻は、男を三人持つてゐて、サツク持參で一日置きに廻つて歩いてるさうだ。探査を望む」「お前もその一人か。」「妻と子あり、飢えてゐる。俺はこの社會を憎む。」「ウン、大いに憎め。」「働け。」「働け? 働いて樂になる世の中だか考へてかう云へ、馬鹿野郎。」「社會主義××。」……

 渡は何時でも入つてくる度に、何か書いてゆくことにしてゐた。今迄に、さう決めてからは、何度もやつてゐた。

「俺はとう〳〵巡査の厄介になつたよ。悲しい男。」「巡査の嬶で、生活苦のために一回三圓で淫賣をしてゐるものが小樽に八人ゐる。穴知り生。」

 渡はさう書かれてゐる次の空いてゐる壁に、爪で深く傷をつけながら丹念に樂書を始めた。熱中すると知らないうちに餘程の時間を消すことが出來た。それは畫でも描いてゐるやうな氣持で出來る愉快な仕事だつた。成るべく長く書かうと思つた。彼は肩先きに力を入れて仕事にとりかゝつた。熱中したときの癖で、何時の間にか彼は舌を横に出して、一生懸命一字々々刻んで行つた。

おい、皆聞け!(以下三十三行削除)


 かなり長い時間それにかゝつた。渡は讀み返へしてみて滿足を感じた。口笛を吹きながら、コールテンのズボンに手をつツこんで、離れてみたり、近寄つてみたりした。

 夜が明けてゐた。電燈が消えると然し、眼が慣れない間、室の中が急に暗くなつた。壁の樂書も見えなくなつた。青白い、明け方の光が窓の四角に區切られて、下の方へ三、四十度の角度で入つてきてゐた。渡は急に大きく放屁した。それから歩きながらも、力を入れて、何度も續けて放屁した。屁はいくらでも出た。そしてそれが自分でも嫌になるほど、しつこく臭かつた。「えツ糞、えツ糞!」渡はその度に片足を一寸浮かして放屁した。


 八時頃かも知れなかつた。入口の鍵がガチヤ〳〵鳴つた。戸が開いて、腰に劍を吊してゐない巡査が指先の分れてゐる靴下に草履を引つかけて入つてきた。

「出るんだ。」

「動物園の獸ぢやないよ。」

「馬鹿。」

「歸してくれるのかい、有難いなア。」

「取調だよ。」

 さう云つたが、急に「臭い臭い!」と 廊下に飛び出てしまつた。



 その日のうちに、又五、六人の勞働者が連れられて來た。室が狹くなると、皆は演武場の廣場に移された。室の半分は疊で、半分は板敷だつた。室の三方が殆んど全部硝子窓なので、明るい外光が、薄暗い處から出てきた皆の眼を初めはまばゆくさせた。中央には大きなストーヴが据えつけられてゐた。お互に顏を見知つてゐるものも多かつたので、ストーヴを圍むと、色々な話が出た。監視の巡査は四人程ついた。巡査も股を廣げて、ストーヴに寄つた。

 日暮れになると皆表に出された。裏口から一列に並んで外へ出ると、警察構内を半廻りして、表口から又入れられた。「盥廻し」をされてしまつたのだつた。急に皆の顏が不安になつた。どや〳〵と演武場に入つてくると、お互に顏を寄せて、どうしたんだと云ひ合つた。今度の檢束が何か別な原因からだ。といふ直感が皆にきた。實の入つてゐない鹽ツ辛い汁で、粘氣がなくてボロ〳〵した眞黒い麥飯を食つてしまつてから、皆はまたストーヴに寄つた。が、ちつとも話がはづんで行かなかつた。

 八時過ぎに、工藤が呼ばれて出て行つた。皆はギヨツとして、工藤の後姿を見送つた。

 夜が更けてくると、ブス〳〵煙ぶつてゐるやうな安石炭のストーヴでは室は温くならなかつた。背の方からゾク〳〵と寒さが滲みこんできた。龍吉は丹前を持ち出しに、薄暗い隅の方へ行つた。あとから石田がついてきた。

「小川さん、俺こんな事皆の前で云つてえゝか分らないので、默つてゐたんだけど。」と低い聲で云つた。

 龍吉は胃が又痛み出してきたのを、眉のあたりに力を入れて、我慢しながら、

「うん?」と、きゝかへした。

 演武場の外を、誰かゞ足音をカリツ、カリツとさせて歩いてゐた。

 ──少し前だつた。石田が洗面所に行つた。別々の室に入れられてゐる皆が、お互に顏だけでも見合はされ、──又運よく行つて、話でも出來るのは、實は一つしかないために共同に使はれてゐた洗面所だつた。皆が其處へ行くときは、それでその機會をうまくつかめるやうに、心で望んでゐた。石田が入つてゆくと、正面の板壁に下げてある横に長い鏡の前で、こつちへは後を向けた肩巾の廣い、厚い男が顏を洗つてゐた。その時は、石田は何かうつかり外のことを考へてゐたかも知れなかつた。その男の側まで行つて、彼は──と、その時ひよいと、その男が顏をあげた。石田が何氣なく投げてゐた視線と、それがかつちり合つた。「あツ!」石田はたしかに聲をあげた。頭から足へ、何か目にもとまらない速さで、スウツと走つた。彼は、自分の身體が紙ツ片のやうに輕くなつたのを感じた。彼は片手を洗面所の枠に支へると、反射的に片手で自分の相から頬をなでた。顏?──それが×だらふか? ××××××××××××××××××、文字通り「××」××、そして、それが渡ではないか!

「×××××。」自分で自分の顏を指すやうな恰好で、笑つてみせた。笑顏!

 石田は一言も云へず、そのまゝでゐた。心臟の下あたりがくすぐつたくなるやうに、ふるえてきた。

「然し、ちつとも參らない。」

「うん……」

「皆に恐怖病にとツつかれないやうにつて頼むでえ。」

 その時は、それだけしか云へる機會がなかつた。

「キツト何かあつたんだと思ふんだ。」石田が怒つたやうに、低い聲で云つた。

「うむ。…‥心當りがないでもないが。然し、大切なことは矢張り恐怖病だ。」龍吉はストーブの廻りにゐる仲間や巡査の方に眼をやりながら云つた。

「それアさうだ。然し警察へ來てまで空元氣を出して、亂暴を働かなけア鬪士でないなんて考へも、やめさせなけア駄目だ。警察に來ておとなしくしてゐるといふのは何も恐怖病にとツつかれてゐるといふ事ではないんだと思ふ。」

「さうだ、うん。」

「齋藤なんぞ。」さう云つて、ストーヴのそばで何か手振りをしながらしやべつてゐる齋藤を見ながら、「此前だ、警察へ引つぱられてきて、一番罪が輕かつたら、それを恥かしく思つて首でも吊らなかつたら、そんな奴は無産階級の鬪士でないなんて云ひ出したもんだ!」

「……うん、いや、その氣持も運動をしてゐるものがキツト幾分はもつ……何んて云ふか、センチメンタリズムだよ。同志に濟まないつて氣がするもんだからな、そんな場合、然し、勿論それア機會ある毎に直して行かなけアならない事だよ。」

 石田は相手を見て、何か言葉をはさもうとした、然しやめると、考へる顏をした。

「それは然し、案外面倒な方法だと思ふんだ。そいつをあまり眞正面から小兒病だとか、なんとか云ひ出すと、處が肝心要めの情熱そのものを根つからブツつり引つこ拔いてしまふ事にならないとも限らないからなあ。勿論それア、その二つのものは別物だけどさ。」

 石田は自分の爪先きを見ながら、その邊を歩き出した。

「大切なことはその情熱をそのまゝ正しい道の方へ流し込んでやるツて事らしいよ。──情熱は何んと云つたつて、矢張り一番大きな、根本的なものだと思ふんだ。」龍吉は何かを考へて、フト言葉を切つた。「××的理論なくして、××的行動はあり得ないツて言葉があるさ、君も知つてる有名な奴さ。けれども、それはそれだけぢや本當は足りないと、俺は思つてるんだ。その言葉の底に當然のものとして省略されてる大物は、何んと云つたつて情熱だよ。」

「線香花火の情熱はあやまるよ。牛が、何がなんであらうと、然し決してやめる事なく、のそり〳〵歩いてゆく。それが殊に俺達の執拗な長い間の努力の要る運動に必要な情熱ぢやないか、と思ふんだ。」

「さうだ。情熱は然し、人によつて色々異つた形で出るものだよ。俺たちの運動は二三人の氣の合つた仲間ばかりで出來るものぢやないのだから、その點、大きな氣持──それ等をグツと引きしめる一段と高い氣持に、それを結びつけることによつて、それ等の差異をなるべく溶合するやうに氣をつけなければならないと思ふんだ。──それア、どうしたつて個人的に云つて不愉快なこともあるさ。だが勿論そんなことに拘はるのは嘘だよ。俺だつて渡のある方面では嫌なところがある。渡ばかりぢやない。然し、決してそれで分離することはしないよ。それぢや組織體としての俺達の運動は出來ないんだから。」

「うん、うん。」

「これから色々困難なことに打ち當るさ。さうすればキツトこんな事で、案外重大な裂目を引き起さないとも限らないんだ。俺たちはもつと〳〵、かういふ隱れてゐる、何んでもないやうな事に本氣で、氣をつけて行かなければならないと思つてるよ。」

「うん、うん。」石田は口のなかで何邊もうなづいた。

 二人がストーヴに寄つてゆくと、皆は巡査と一緒に猥談をやつてゐた。どういふわけで引張られてきたかちつとも分らないと云つてゐた勞働者は二三人ゐた。それ等は初めからオド〳〵して、側から見てゐられない程くしやんとしてゐた。が、時々その猥談に口をはさんだり、笑つてゐた。話がとぎれて、一寸皆がだまる事があると、走り雲の落してゆく影のやうに、彼等の顏が瞬間暗くなつた。

 齋藤が手振で話してゐたのは、女の××のことだつた。それが口達者なので、皆を引きつけてゐた。話し終ると、

「ねえ、石山さん、煙草一本。」

 一生懸命に聞いてゐた頭の毛の薄い、肥つた巡査に手を出した。

 石山巡査は、下品にえへ、えへゝゝゝと笑ひながら、上着の内隱しから、くしや〳〵にもまれて折れさうになつてゐたバツトを一本出して、齋藤に渡してくれた。

「有難え、有難え。もう一席もツと微細なところをやるかな。」

 こすい眼付きで、相手をちらつと見て笑つた。齋藤はそれを掌の上で丹念に直して、それからそれに唾を塗つて成るべく遲くまで殘るやうに濡した。

「いや、忽體ない。これは後でゆつくりとやる。」そして耳に煙草をはさんだ。

「──早く何んとかしてくれないかな。」

 片隅で誰か獨言した。

 皆はその言葉でひよいと又、自分の心に懷中電燈でもつきつけられたやうに思つた。

「濱の現場から引つぱられて來たんで、家でどツたらに心配してるかツて思つてよ。俺働かねば嬶も餓鬼も食つていけねえんだ。」

「俺らもよ。」

「……こんな運動こり〴〵した。おツかねえ。」──變に實感をこめて、さう云つたのは相當前から組合にゐる勞働者だつた。

「どうしてよ!」齋藤が口を入れた。

 齋藤に云はれて、その勞働者は口をつむんでしまつた。齋藤は怒つた調子を明ら樣に出して「うん?」と、うながした。

「いゝ〳〵。」石田が巡査の方を眼くばせして、齋藤の後を突ツついた。

 その木村といふ勞働者は長く組合にゐたが、表立つては別に何もしてきてゐなかつた。彼は何時でも云つてゐた。──それは、あまり彼の出てゐる倉庫の仕事が苦しかつた。ところが勞働組合がさういふ勞働者の待遇を直してくれるためにある、といふ事を知つた。それで彼が入つてきたのだつた。が、警察に引張られなければならないやうではとても彼は困ると思つたし、それにそんな「惡い事」まですることは、どうしても彼には分らなかつた。恐ろしいとも思つた。そんな事でなしに、うまくやつて行くのが勞働組合だと思つてゐた。彼は思ひ違ひをしてゐた。彼はこれでは、何時かやめなければならない、と考へた。彼は結局後から押されるやうにして、今迄知らず〳〵の間に押されてきてゐた。何かものにつまずけば、すぐそれが動機になつて、軌道から外へ轉げ落ちる形のまゝだつた。彼は組合の仕事もちつとも積極的でなしに、人形のやうに、割り當てられたことだけしかしなかつた。

 總選擧の時だつた。敵候補方のポスターを剥ぎとつたといふ事で、勞農黨から誰か警察に犧牲になつて行く必要が起きた。渡が木村に頼んで、色々注意を話してきかせた。

「少しなぐられるかも知らないけれども、我慢してくれよ。」と云つた。

「嫌だ!」

 一口でさう云ひ切つた。

 そんな答をちつとも豫期してゐなかつた渡が「えゝ?」と反射的に云つたきり、かへつて默つたまゝ木村の顏を見た。

「俺アそつたら事して、一日でも二日でも警察さ引ツ張られてみれ、飯食えなくなるよ。嫌だ!」

「君は俺達の運動といふ事が分らないんだな。」

「お前え達幹部みたいに、警察さ引ツ張られて行けば、それだけ名前が出て偉くなつたり、名譽になつたりすんのと違んだ。」

 渡は息をグツとのんだまゝ、すぐ何か云へず、默つた。そこにゐた龍吉は「これア惡い空氣だ。」と思つた。組合の幹部と平組合員が「こんな事で」にらみ合つてゐては困る、と思つた。

「今のところ、まア別人に行つて貰ふことにしてもいゝさ。」

 龍吉は是非さう云はなければならなかつた。──この木村にとつて、今度の事は、だから、「手をひく」いゝ動機だつた。こゝから出たら、さつぱりとやめやうと思つてゐた。さう決めてゐた。

「意久地のない野郎だ。」

 齋藤はズウと前にあつた、その木村のことを思ひ出してゐた。彼はワザと横を向いた。

「木村君、やつぱり組合員は組合員らしくするんだなア。殊にかういふ事になれば、俺達がしつかりしなけア困る時だ、と思ふんだ。」

 龍吉はストーヴの温さで、かゆくなつた前股のあたりをさすりながら云つた。木村は然し默つてゐた。龍吉はフト文字通り戰鬪的だと云はれてゐる左翼組合に、案外かういふもの等が數の上でゝも中樞をなしてゐることは、さう輕々しく考へ捨てることの出來ない事だと思つた。

 木村の紹介で、最近組合に入つた柴田は兩膝をかゝえて、皆を見てゐた。彼は木村と同じ蒲團に寢るので、彼が心底からぐしやんと參つてゐることを聞かされて知つてゐた。柴田自身も、然し、初め參つたとは思つた。殊に組合で寢こみを襲はれた時血の氣がなくなつた。然し勿論こんなことは堪え切つて行かなければならない事だと、普段から思つてゐた。自分で、さういふ點では殊に至らないつまらないものであると思つてゐたから、彼は人一倍一生懸命になつた。彼はだから、渡や工藤や龍吉さういふ人達の一擧一動にか細い注意を拂つて自分の態度に、意識的に過ぎるとさへ思はれる程鞭を加へてきてゐた。今度の事件は、そして、色々な人間に對する嚴重なフルイであつた。ドシ〳〵眼の前で網の目から落ちて行く同志を見るのは、可なり淋しいことだつた。然しそれは或ひはかへつて必要な過程であるかも知れなかつた。──柴田は、俺はいくら後から來た若造だつて、畜生、落ちてはなるまいぞ、と思つた。

 ストーヴの廻りの話がこの事で一寸渦を卷いて澱んだ。が、誰が話し出すとなく、女の話が又出た。

 八時になると、疊の方へ床を敷いて、二人づゝ寢た。「眠れさへすれば」眠るのが、たつた一つの自由な樂しみだつた。

 何人もが一緒に帶を解いたり、足袋を脱いだりする音がゴソ〳〵起つた。

「早く寢て夢を見るんだ。」口に出して云ふものがゐる。

「留置場の夢か。たまらない。」

「糞。」

 相手がクス〳〵笑つた。宿屋に着いた修學旅行の生徒のやうに、一しきりザワめいた。巡査が時々「シツ」「シツ」と云つた。

 何十人かのあかのついた鯣のやうな夜具の襟が、ひんやりと氣持わるく頬に觸つた。

「あ──あ、極樂だ。」襟で口を抑へられたボソ〳〵した聲だつた。

「地獄の極樂。」

 か飛んでもなく離れた方から、「い──い夢見たい。」

「寢ろ〳〵。」

「女でも抱いたつもりでか。」

「こんな處で、それを云ふ奴があるか。」

「あゝ抱きたい。」

「馬鹿だな、誰だい。」

「何が馬鹿だ……。」

「寢ろ〳〵。」

 そんな言葉が時々間を置いて、思ひ〳〵にあつち、こつちから起つた。それがだん〳〵緩く、途切れ勝ちになつて行つた。二十分もすると、思ひ出したやうに、寢言らしい言葉が出る位になつてしまつた。──そして靜かになつた。

 演武場の外は、淋しい暗がりの多い通りだつた。それであまり人通りは無かつたが、時々下駄が寒氣しばれのひどい雪道をギユン〳〵ならして通つて行くのが、今度は耳についてきた。署内で、誰かゞ遠くで呼んでゐる聲が、それがそれより馬鹿に遠くからといふ風に聞えた。

「眠れるか。」

 龍吉は眠れないので、一緒に寢てゐる齋藤にそつと言葉をかけてみた。齋藤は動かなかつた。眠つてゐた。もう眠つたのかと思ふと、それが如何にも齋藤らしかつたので、彼は獨りで微笑ましくなつた。龍吉はズキン、ズキンと底から(さうひどくはなかつたが)痛んでくる胃を、片手で揉むやうに押しながら、色々なことを考へてゐた。……

「オイ〳〵。」──誰だ、と思つた。今こんな面倒な頁を讀んでゐるのにと思ふと、ムラ〳〵ツと癪にさわつた。「オイオイ。」ぐいと肩をつかまれた。糞ツ! 振りかへらふとして、龍吉は眼をさました。非常に眠かつた。その瞬間、ダブつた寫眞のやうに、夢と現實の境ひをつけるのに、彼はしばらく眼をみはつた。さうだ、すぐ眼の前に汚い、鬚だらけの大きな巡査の顏があつた。

「オイ〳〵、起きるんだ。取調べだ。」

 ギヨツとすると、龍吉は自分でも分らずに、身體を半分起してゐた。

 寢ぼけた處を引張つて行く何時もの彼等の手だつた。ガヂヤ〳〵と、靜かな四圍に不吉な鍵の音をさして、巡査のあとから龍吉はついて出た。

 三十分程した。凄い程すつかり顏色のなくなつた工藤が巡査に連れられて歸つてきた。が、演武場に置いておいた荷物を纒めると、すぐ巡査にうながされて出て行つた。彼はその時、何か云はふとするやうに皆の寢てゐる所を見廻はした。が、身體を廻はすと、ズングリな後を見せて出て行つた。──がちやんと鍵が下りた。二人の、歩調の合つてゐない足音が廊下に何時までも聞えてゐた。

 寢がへりを打つ音や、嘆息や、發音の分らない寢言などが、泥沼に出るメタン瓦斯のやうにブツ〳〵起つた。



 警察署は、一週間のうちに勞働運動者、勞働者、關係のインテリゲンチヤを二百人も、無茶苦茶に、豚のやうにかりたてた。差入れにきた全然運動とは無關係の弟を、そのまゝ引きづり込んで「×××××」一週間も歸さなかつた。だが、こんな事はエピソードの百分の一にも過ぎない。


 取調べが始つた。

 渡に對しては、この×××××がなくても、警察では是が「非でも」やツつけなければならない、と思つてゐた。合法的な黨、組合の運動に楔のやうに無理にねぢこんで、渡を引ツこ拔かうとした。普段から、してゐた。さういふ中を彼は、然し文字通りまるで豹のやうに飛びまはつてゐた。そこをつかまえたのだから「この野郎、半×しにしてやれる」と喜んだ。

 渡は、一言も取調べに對しては口を開かなかつた。「どうぞ、勝手に。」と云つた。

「どういふ意味だ。」司法主任と特高がだん〳〵アワを食ひ出した。

「どういふ意味でゝも。」

「××するぞ。」

「仕方がないよ。」

「天野屋氣取りをして、後で青くなるな。」

「貴方達も案外眼がきかないんだな。俺が××されたら云ふとか、半×しにされたからどうとか、そんな條件付きの男かどうか位は、もう分つてゐてもよささうだよ。」

 彼等は「本氣」にアワを食つてきた。「渡なら」と思ふと、さうでありさうで内心困つたことだと思つた。何故か? 彼等が若し、この×××の「元兇」から一言も「聞取書」が取れないとなると、(が、何しろ元兇だから一寸×せはしないが、)逆に、自分達の「生首」の方が危なかつた。──何より、それだつた。

 渡は×にされると、いきなりものも云はないで、後から(以下十行削除)手と足を硬直さして、空へのばした。ブル〳〵つとけいれんした。そして、次に彼は××失つてゐた。

 然し渡は長い間の××の經驗から、丁度氣合術師が平氣で腕に針を通したり、燒火箸をつかんだりするそれと同じことを會得した。だから、××だ! その緊張──それが知らず知らずの間に知つた氣合だかも知れない──がくると、割合にそれが×えられた。

 こゝでは、石川五右衞門や天野屋利兵衞の、×××××××は××××××××では決してなかつた。それは××××××××。然し勿論かういふことはある──刑法百三十五條「被告人に對しては丁寧親切を旨とし、其利益となるべき事實を陳述する機會を與ふべし。」(

 水をかけると、××ふきかへした。今度は誘ひ出すやうな戰法でやつてきた。

「いくら××したつて、貴方達の腹が減る位だよ。──斷然何も云はないから。」

「皆もうこツちでは分つてるんだ。云へばそれだけ輕くなるんだぜ。」

「分つてれば、それでいゝよ。俺の罪まで心配してもらはなくたつて。」

「渡君、困るなあ、それぢや。」

「俺の方もさ。──俺ア××には免疫なんだから。」

 後に三四人××係(!)が立つてゐた。

「この野郎!」一人が渡の後から腕をまはしてよこして、×を××かゝつた。「この野郎一人ゐる爲めに、小樽がうるさくて仕方がねエんだ。」

 それで渡はもう一度×を失つた。

 渡は××に來る度に、かういふものを「お×はりさん」と云つて、町では人達の、「安寧」と「幸福」と「正義」を守つて下さる偉い人のやうに思はれてゐることを考へて、何時でも苦笑した。ブルジヨワ的教育法の根本は──方法論は「錯覺法」だつた。内と外をうまくすりかえて普及させる事には、つく〴〵感心させる程、上手でもあつたし、手ぬかりもなかつた。

「おい、いゝか、いくらお前が××が免疫になつたつて、東京からは若し何んならブツ××たつていゝツて云つてきてゐるんだ。」

「それアいゝ事をきいた、さうか。──××れたつていゝよ。それで無産階級の運動が無くなるとでも云ふんなら、俺も考へるが、どうして〳〵後から後からと。その點ぢや、さら〳〵心殘りなんか無いんだから。」

 次に渡は×にされて、爪先と床の間が二三寸位離れる程度に××××××た。

「おい、いゝ加減にどうだ。」

 下から柔道三段の(以下二十六字削除」

「加減もんでたまるかい。」

「馬鹿だなア。今度のは新式だぞ。」

「何んでもいゝ。」

「ウフン。」

 渡は、だが、今度のには×××た。それは(以下二十四字削除)                彼は強烈な電氣に觸れたやうに、(以下六十六字削除)                                                 、大聲で叫んだ。

「××、××──え、××──え

 それは竹刀、平手、鐵棒、細引でなぐられるよりひどく堪えた。

 渡は、××されてゐる時にこそ、始めて理窟拔きの「憎い──ツ」といふ資本家に對する火のやうな反抗が起つた。××こそ、無産階級が資本家から受けてゐる壓迫、搾取の形そのまゝの現はれである、と思つた。

 ××××毎に、渡の身體は跳ね上つた。

「えツ、何んだつて神經なんてありやがるんだ。」

 渡は齒を食ひしばつたまゝ、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、××の何處かで××したと思つた。──

「覺えてろ!」それが終ひの言葉だつた。渡は三度×んだ。

 ×を三度目に××返した。渡は自分の身體が紙ツ片のやうに不安定になつて居り、そして意識の上に一枚皮が張つたやうにボンヤリしてゐるのを感じた。さうなれば、然しもう「どうとも勝手」だつた。意識がさういふ風に變調を來してくれば、それは××に對しては魔醉劑のやうな効果を持つからだつた。

 主任が警察で作つた×××の系圖を出して、「もう、こんなになつてるんだ。」と云つて、彼の表情を讀もふとした。

「ホウ、偉いもんだ。成る程──。」醉拂つたやうに云つた。

「おい、さう感心して貰つても困るんだ。」

 係はもう殆んど手を燒きつくしてゐた。

 終ひに、皆は滅茶苦茶に×××たり、下に金の打つてある靴で蹴つたりした。それを一時間も續け樣に續けた。渡の身體は芋俵のやうに好き勝手に轉がされた。彼の××「××」××××。そして時×××××××××が終つて、渡は監房の中へ豚の臟物のやうに放りこまれた。彼は次の朝まで、そのまゝ動けずにうなつてゐた。


 續けて工藤が取調べられた。

 工藤は割合に素直な調子で取調べに應じた。さういふ事では空元氣を出さなかつた。色々その場、その場で方法を伸縮さして、うまく適應するやうに自分をコントロールしてゆくことが出來た。

 工藤に對する××は大體渡に對するのと同じだつた。たゞ、彼がいきなり飛び上つたのは、彼を素足のまゝ立たして置いて、(以下七行削除)彼は終ひにへな〳〵に坐り込んでしまつた。

 それが終ると、兩手の掌を上に向けて、テーブルの上に置かせ、力一杯×××××××××××。それからよくやる、指に××を×××××××。──これ等を續け樣にやると、その代り〴〵にくる強烈な刺戟で神經が極度の疲勞におち入つて、一時的な「痴呆状態」(!)になつてしまう。彈がもどつて、ものにたえ性がなく、うかつな「どうでもいゝ」氣持になつてしまふ。そこをつかまへて、××は都合のいゝ××をさせるのだつた。

 そのすぐ後で取調べられた鈴本の場合なども、同じ手だつた。彼は或る意味で云へば、もつと××××をうけた。彼はなぐられも、蹴られもしなかつたが、たゞ八回も(八回も!)×××に×××××××事だつた。初めから終りまで××醫が(!)(以下四行削除)八回目には鈴本はすつかり醉拂ひ切つた人のやうにフラ、フラになつてゐた。彼は自分の頭があるのか、無いのかしびれ切つて分らなかつた。たゞ主任も特高も××係の巡査も、室も器具も、表現派のやうに解體したり、構成されて映つた。さういふ朦朧とした意識のまゝ、丁度大人に肩をフンづかまれて、ゆすぶられる子供のやうに、取調べを進められた。鈴本は、これは危いぞ、と思つた。が、自分が一つ一つの取調べにどう答へてゐるか、自分で分らなかつた。


 佐多が入れられた留置場には色々なことで引張られてきてゐる四五人がゐた。それは留置場の一番端しの並びにあつて、取調室がすこし離れてその斜め前にあつた。

 彼は警察につれて來られたとき、自分達は偉大な歴史的使命を眞に勇敢にやろうとしてゐたゝめに、かうされるのだ、と繰り返し、繰り返し思つて、自分に納得を與へやうとした。然し彼の氣持はそれとはまるつきり逆に心から參つてしまつてゐた。そして留置場に入つたとき、彼は自分の一生が取返しがつかなく暗くなつた、と思つた。崖の方へ突進してゆく自動車を、もうどうにも運轉出來ず、アツと思つて、手で顏を覆ふ、その瞬間に似た氣持を感じた。その殆んど絶對的な氣持の前には、彼が今迄讀んだレーニンもマルクスも無かつた。「取りかへしがつかない、取りかへしがつかない。」それだけが昆布卷きのやうに、彼の全部を幾重にも包んでしまつた。

 それに、この塵芥ごみ箱の中そのまゝの留置場は、彼のその絶望的な氣持を二乘にも、三乘にも暗くした。室は晝も晩も、それにけぢめなく始終薄暗く、何處かジメ〳〵して、雜巾切れのやうな疊が中央に二枚敷かつてゐた。が、それを引き起したら、その下から蛆や蟲や腐つてムレたゴミなどがウジヨ〳〵出る感じだつた。空氣が動かずムンとして便所臭い匂がしてゐた。吸へば滓でも殘りさうな、胸のむかつく、腐つた溝水のやうな空氣だつた。

 彼は銀行に勤めてゐる關係上、何時も裏からではあつたが、眞に革命的な理論をつかんで、皆と同じやうに實踐に參加してゐたが、その色々な環境と生活からくる膚合ひから云つて、低い生活水準にゐる勞働者とはやつぱりちがはざるを得なかつた。普段はそれが分らずにゐた。勿論彼さへ務めてゐれば、それからくる事はちつとも運動の邪魔にならなかつた。──留置場の空氣が、二日も經たないうちに、その上品な彼の身體にグツとこたえてきた。彼は時々胸が惡くなつて、ゲエ、ゲエといつた。然し吐くのでもなかつた。自家うちにゐれば、毎朝行くことになつてゐる便所にも行かなくなつた。粗食と運動不足がすぐ身體に變調を來たさした。四日目の朝、無理に便所に立つた。然し三十分もふんばつてゐて、カラ〳〵に乾いた鼠の尻尾しつぽ程の糞が二切れほどしか出なかつた。

 留置場の中では、彼は一人ぽつんと島のやうに離れてゐた。彼には、どうしても、彼等がかういふ處に入つてゐて自由に、氣樂に(さう見えた。)お互が色々なことを話し合つたりする事が分らなかつた。佐多は然し、ぢつとしてゐる事がすぐ苦しくなり出した。今度は彼は立ち上ると、室の中を無意味に歩き出した。が、ひよいと板壁に寄りかゝると、そのまゝ何時迄も考へこんでしまつた。自分よりはきつともつと悲しんでゐるだらう母を思つた。母の云つた「小ぢんまりとした、幸福な生活」を自分が踏みにじつた、そしてこれからの長い生涯、自分は監獄と苦鬪! その間を如何に休みなく、つんのめされ、フラ〳〵になり、暗く暮らして行かなければならないか、彼にはその一生がアリ〳〵と見える氣がした。要らない「おせつかい」を俺はしてしまつた、とさへ思つた。そして彼は水を一杯に含んだ海綿のやうに、心から感傷的に溺れてゐた。

 三十年間「コソ泥」をしてきたといふ眼の鋭い六十に近い男が、

「可哀相に、お前さんのやうな人の來る處ぢやないのに。」と彼に云つた。

 思はず、その言葉に彼は胸がふツとあつくなり、危く泣かされる處だつた。彼はしかもさういふ氣持を押えるのではなしに、かへつて、こつちからメソ〳〵と溺れ、甘えかゝつて行く處さへあつた。さうでなければ、たまらなかつた。

 初めての──しかも突然にきた、彼には強過ぎる刺戟に少し慣れてくると、佐多はその考から少しづゝ拔け出てくる事が出來るやうになつた。少しの犧牲もなくて、自分達の運動が出來る筈がなかつた。自分ではちつとも何もせず、一足飛びに直ぐ、(キツト他の誰かゞしてくれた)××の成就してしまつた世界のことだけを考へて、興奮してゐる者にはかういふ經驗こそ、いゝいましめだ。──そこ迄佐多は自分で考へ得れる餘裕を取りもどしてゐた。彼は憂鬱になつたり、快活になつたりした。恐ろしく長い、しかも何もする事なく、たつた一室の中にだけゐなければならない彼には、その事より他に考へることが無かつた。

 夜、十二時を過ぎてゐた頃かも知れなかつた。佐多は隣りに寢てゐた「不良少年」に身體をゆすられて起された。

「ホラ……ホラ聞えないか?」暗がりで、變にひそめた聲が、彼のすぐ横でした。

 佐多は始め何のことか分らなかつた。

「ぢつとしてれ。」

 二人は息をしばらくとめた。全身が耳だけになつた。深夜らしくジイン、ジーン、ジーンと耳のなる音がする。佐多はだん〳〵睡氣から離れてきた。

「聞えるだらう。」

 遠くで劍術をやつてゐるやうな竹刀の音(たしかに竹刀の音だつた。)が彼の耳に入つてきた。それだけでなしに、そしてその合間に何か肉聲らしい音も交つてきこえた。それは然しはつきり分らなかつた。

「ホラ、ホラ…‥ホラ、なあ。」その音が高まる度に、不良少年がさう注意した。

「何んだらう。」佐多も聲をひそめて、彼にきいた。

「××さ。」

「…………?」いきなり咽喉へ鐵棒が入つたと思つた。

「もつとよく聞いてみれ。いゝか、ホラ、ホラ、あれア×××××奴のしぼり上げる××。なあ。」

 佐多には、それが何んと云つてゐるか分らなかつたが、一度きいたら、心にそのまゝ泌み込んで、きつと一生忘れる事が出來ないやうな××××××だつた。彼はぢいと、それに耳をすましてゐるうちに、夜無氣味な半鐘の音をきゝながら、火事を見てゐる時のやうに、身體が顫はさつてきた。「齒の根」がどうしても合はなかつた。彼は知らない間に片手でぎつしり敷布團の端を握つてゐた。

「分る、分るよ! な、×せ──え、×せ──えツて、云つてるらしい。」

「××──えツて?」

「ん、よく聞いてみれ。」

「なア、なア。」

「………………」

 佐多は耳を兩手で覆ふと、汗くさいベト、ベトした布團に顏を伏せてしまつた。彼の耳は、そして又彼の腦膸の奧は、然しその叫聲をまだ聞いてゐた。しばらくして、それが止んだ。取調室の戸が開いたのが聞えてきた。二人は小さい窓に顏をよせて廊下を見た。片方が引きづられてゐる亂れた足音がして、二人が前の方へやつてくるのが見えた。薄暗い電燈では、それが誰か分らなかつた。うん、うん、うんといふ聲と、それを抑へる低い、が強い息聲が靜まりかへつてゐる廊下にきこえた。彼等の前を通るとき、巡査の聲で、

「お前は少し強情だ。」

 さう云ふのが聞えた。

 佐多はその夜、どうしても眠れず、ズキ、ズキ痛む頭で起きてしまつた。

 彼は「××」それを考へると、考へたゞけで背の肉がケイレンを起すやうに痛んだ。膝がひとりでにがくついて、へな〳〵と坐りこんでしまひたくさへなるのを感じた。すぐ咽喉が乾いてたまらなかつた。

 それから二日ばかりした。佐多は立番の巡査に起された。來た! と思つた。立ち上るには立ち上つた。然し彼の身體は丸太棒のやうに、自分の意思では動かなかつた。彼は、巡査に何か云はふとした。然し彼の顎ががくりと下がつて、思はず「あふは、あふは、あふは……」赤子がするやうな發音が出た。

 巡査は分らない顏をして、今迄フウ、フウとはいてゐた煙草の煙の輪をとめて、「どうした?」と云つた。


 龍吉の取調べは──初め、彼が學校に出てゐたとき、三回程檢束された事があつた、けれども、その時は彼から見れば、こつちがかへつて恐縮するやうなものだつた。「お前」とか「貴樣」さう云ひはしなかつた。「貴方」だつた。それに彼等が龍吉からかへつて色々な事を教はる、といふ態度さへあつた。それが、然し、龍吉が學校を出て運動の「表」へ出かゝるやうになつてから、だん〳〵變つて行つた。「貴方」と「お前」をどまついて混用したり、又露骨に今までの態度をかへた。然しそれでもインテリゲンチヤである彼には、渡とか鈴本とか工藤などに對するのとちがつて、ずウと丁寧であつた。それには龍吉は苦笑した。渡は「小川さんはねえ、警察で一度ウンとこさなぐられたら、もつと凄く有望になるんだがな。」と云つたことがあつた。渡はかういふ事では、何時でもズパ〳〵云つた。

「君より感受性が鋭敏だから、結局同じことさ。」

 彼は今迄たゞ一寸したおどかしの程度に平手しか食つてゐなかつた。が、今度の事件では渡などと殆んど同じに警察から龍吉がにらまれた。それが「凄く」彼に打ち當つてきた。

 取調室の天井を渡つてゐる梁に滑車がついてゐて、それの兩方にロープが下がつてゐた。龍吉は×××××(以下五行削除)彼の×、××××××××××なつた。眼は眞赤にふくれ上がつて、飛び出した。

「助けてくれ!」彼が叫んだ。

 それが終ると、××に手をつツこませた。

 龍吉は××で×××××××××結果「××れた」幾人もの同志を知つてゐた。直接には自分の周圍に、それから新聞や雜誌で、それ等が慘めな××になつて引渡されるとき、警察では、その男が「自×」したとか、きまつてさう云つた。「そんな筈」の絶對にない事が分つてゐても、然しそれでは何處へ訴へてよかつたか?──裁判所? だが、外見はどうあらうと、それだつて警察とすつかりグルになつてるではないか。××の内では何をされても、だからどうにも出來なかつた。これは面白い事ではないか。

「これが今度の大立物さ」×××が云つてゐる。彼はグラ〳〵する頭で、さういふのを聞いてゐた。

 次ぎに、龍吉は着物をぬがせられて、三本一緒にした××で×××つけられた。身體全體がピリンと縮んだ。そして、その端が胸の方へ反動で力一杯まくれこんで、×××ひこんだ。それがかへつてこたえた。彼のメリヤスの冬シヤツがズタ〳〵に細かく切れてしまつた。──彼が半分以上も自分ので×××××××××を、やうやく巡査の肩に半ば保たせて、よろめきながら廊下を歸つてゆくとき、彼が一度も「××」を受けた事のなかつた前に、それを考へ恐れ、その慘酷さに心から慘めにされてゐた事が、然し實際になつてみたとき、ちつともさうではなかつた事を知つた。自分がその當事者にいよ〳〵なり、そしてそれが今自分に加へられる──と思つたとき、不思議な「抗力?」が人間の身體にあつた事を知つた。××てくれ、××てくれと云ふ、然し本當のところ、その瞬間慘酷だとか、苦しいとか、さういふ事はちつとも働かなかつた。云へば、それは「極度」に、さうだ極度に張り切つた緊張だつた。「仲々×ぬもんでない。」これはそのまゝ本當だつた。龍吉はさう思つた。然し彼がゴロツキの浮浪人や乞食などの入つてゐる留置場に入れられたとき、──入れられた、とフト意識したとき、それツ切り彼は××失つてしまつた。

 次の朝、龍吉はひどい熱を出した。付添の年のふけた巡査が額を濡れた手拭で冷やしてくれた。始終寢言をしてゐた。一日して、それが直つた。ゴロツキの浮浪人が、

「お前えさんのウワ言は仲々どうして。」

 龍吉はギヨツとして、相手に皆云はせず。「何んか、何んか?」と、せきこんだ。彼は付添えの巡査のゐる處で、飛んでもない事を云つてしまつたのではないか、とギクリとした。外國では、取調べに、ウワ言をする液體の注射をして、それに乘じて證言を取る、さういふ馬鹿げた方法さへ行はれてゐる事を、龍吉は何か本で讀んで知つてゐた。

「ねえ、仲々×ぬもんか。──一寸すると、又仲々×ぬもんか、さ。何んだか知らないが、何十回もそれツばつかりウワ言を云つてゐたよ。」

 龍吉は肩に力を入れて、思はず息を殺してゐたが、ホツとすると、急に不自然に大聲で笑ひ出した。が、「痛た、痛た、痛た……。」と、笑聲が身體に響いて、思はず叫んだ。


 演武場では、齋藤が×××れたので氣が×ひかけてゐる、と云つてゐた。それは、齋藤が取調べられて、「お定まり」の××が始まらうとしたとき、突然「ワツ」と立ち上ると、彼は室の中を手と足と胴を一杯に振つて、「ワア──、ワア──、ワア──ツ」と大聲で叫びながら走り出した。巡査等は初め氣をとられて、棒杭のやうにつツ立つてゐた。皆は變な無氣味を感じた。××、それが頭に來た瞬間、カアツとのぼせたのだ、氣が狂つたのだ、──さう思ふと、誰も手を出せなかつた。

たらだ。やれツ!」

 司法主任が鉛筆を逆に持つて、聽取書の上にキリ〳〵ともみこみながら、低い、冷たい聲で云つた。巡査等は無器用な舞臺の兵卒のやうに、あばれ馬のやうに狂つてゐる齋藤を取りかこんだ。(以下十五行削除)

 齋藤はそのまゝ十日も取調べをうけなかつた。そのうち三日程演武場にゐて、監房へ移されて行つた。が、××があつてから、齋藤は今迄よりは眼に見えて、もつと元氣になつた。然しその元氣に何處か普通でない──自然でない處があつた。何か話しかけて行つても、うつかりしてゐる事が多く、めづらしく靜かにしてゐる時には、獨りでブツ〳〵云つてゐた。


 澤山の勞働者が次から次へと、現場着のまゝ連れられてきた。毎日──打ツ續けに十日も二十日も、その大檢擧が續いた。非番の巡査は例外なしに一日五十錢で狩り出された。そして朝から眞夜中まで、身體がコンニヤクのやうになる程馳けずり廻はされた。過勞のために、巡査は付添の方に廻はると、すぐ居眠りをした。そして又自分達が檢擧してきた者達に向つてさへ、巡査の生活の苦しさを洩らした。彼等によつて××をされたり、又如何に彼等が反動的なものであるかといふ事を色々な機會にハツキリ知らされてゐる者等にとつて、さういふ巡査を見せつけられることは「意外」な事だつた。いや、さうだ、矢張り「そこ」では一致してゐるのだ。たゞ、彼等は色々な方法で目隱しをされ、その上催眠術の中にうま〳〵と落されてゐるのだつた。では、どうすればよかつたか? 誰が一體その目隱しを取り除けてやり、彼等の催眠術を覺ましてやらなければならないのだ?──これア案外さう俺達の敵ではなかつたぞ、龍吉も他の人達と同じやうにさう思つた。

 終ひには、檢擧された人の方で、酷き使はれてゐる××が可哀相で見てゐられない位になつた。どんなボロ工場だつて、そんなに「しぼり」はしなかつた。

「もう、どうでもいゝから、とにかく決つてくれゝばいゝと思ふよ。」頭の毛の薄い巡査が、青いトゲ〳〵した顏をして、龍吉に云つた。「ねえ、君、これで子供の顏を二十日も──えゝ、二十日だよ──二十日も見ないんだから、冗談ぢやないよ。」

「いや、本當に恐縮ですな。」

「非番に出ると──いや、引張り出されると、五十錢だ。それぢや晝と晩飯で無くなつて、結局たゞで働かせられてる事になるんだ、──實際は飯代に足りないんだよ、人を馬鹿にしてゐる。」

「ねえ、水戸部さん。(龍吉は名を知つてゐた。)貴方にこんな事を云ふのはどうか、と思ふんですが、僕等のやつてゐることつて云ふのは、つまり皆んな「そこ」から來てゐるんですよ。」

 水戸部巡査は急に聲をひそめた。(以下四十七行削除)

 龍吉は明かに興奮してゐた。これ等のことこそ重大な事だ、と思つた。彼は、今初めて見るやうに、水戸部巡査を見てみた。蜜柑箱を立てた臺に、廊下の方を向いて腰を下してゐる、厚い巾の廣い、然し圓るく前こゞみになつてゐる肩の巡査は、彼には、手をぎつしり握りしめてやりたい親しみをもつて見えた。頭のフケか、ホコリの目立つ肩章のある古洋服の肩を叩いて、「おい、ねえ君。」さう云ひたい衝動を、彼は心一杯にワク〳〵と感じてゐた。



 龍吉が演武場から隔離される二三日前の事だつた。夜の十時頃、組合で知り合つてゐた木下といふのが、巡査と一緒に演武場に入つてきた。そして二人で、彼がそこに殘して行つた持物を纒めにかゝつた。龍吉が眼を覺ました。

「オ。」龍吉が低く聲をかけた。

 木下は龍吉の方を見ると、頭をかすかに振つたやうだつた。──「札幌廻はしだ。」木下が低くさう云つた。

 龍吉は「う?」と云つたきり、いきなり何かに心臟をグツと一握りにされた、と思つた。札幌廻はり、といふのは十中の八、九もう觀念しなければならない事を意味してゐたからだつた。

 演武場を出るときは、髮を長くのばしてゐたのを知つてゐた龍吉は、彼が地膚の青いのが分る程短く刈つてゐたのに氣付いた。「頭は?」

 木下はフト暗い顏をした。

「あんまり、グン〳〵やられるんで刈つてしまつた。」

 持物が纒つてしまうと、巡査が木下をうながした。出しなに、木下は然し、何かためらつたやうに巡査に云つてゐる、すると、巡査は龍吉のところへ來て、面倒臭さうな調子で「木下が、煙草があつたら君から貰つてくれないかつて云つてゐるんだが。」と云つた。

 さうだ! 氣付いた。──組合でも、木下は煙草だけは皆から一本、二本と集めて、何時でも甘さうにのんでゐた。札幌へ護送される木下のために、せめて煙草だけでも贈ることが出來ることを龍吉は喜んだ。それが何よりだつた。彼は、まるで、周章てた人のやうに、自分の持物のところへ走つて、急いでバツトの箱を取り出した。所が何んといふ事だ、一箇しか無い、しかも、それが輕いぢやないか! 意地の惡い時には、惡いものだ。三本! たつた三本しか入つてゐなかつた。

「君、三本しか無いんだ。」

「いゝ、いゝ! 本當に澤山! 有難う、有難う。」木下は子供が頂戴々々をするときのやうに、兩手を半ば重ねて出した。

「一本で澤山だ!」

 側に立つてゐた巡査がいきなり二本取り上げてしまつた。瞬間二人は、二人とも「もの」も云へず、ぼんやりした。

「のませてやる事すら、過ぎた事なんだぜ!」

 何が「ぜ」だ! 龍吉は身體が底からブル〳〵顫はさつてくる興奮を感じた。然し、

「お願ひです。僅か三本です。それに木下君は特に煙草……。」

 みんな云はせなかつた。「誰が、僅か三本だつて云ふんだ。」

 木下は石のやうな固い表情をして、だまつてゐた。たつた一本のバツトをのせたきりになつてゐる彼の掌が分らない程に顫えてゐた。──二人が出て行つてしまつてから、龍吉は木下の氣持を考へ、半分自分でも泣きながら巡査の返へしてよこしたバツトを粉々にむしつてしまつた。

「えツ糞、えツ糞、糞ツ! 糞ツ! 糞ツ! 糞ツ


 三日になり、四日になり、十日になる、然しこれは、そんな風に單純に算えてしまふ事が出來ない長さ──無限の長さのやうに思はれた。渡や工藤や鈴本などはそれでもさういふ場所の「退屈」に少しは慣れてゐた。然し又、たとひ同じやうに慣れてゐないとしても、龍吉や佐多にくらべて、太い、荒い神經を持つてゐたので、よりそれには堪え得た。殊に佐多は慘めに參つてしまつた。

 佐多の入つてゐた處は渡のところから、さう離れてはゐなかつた。夜になり、佐多は身體の置き處もなく、話もなく、イラ〳〵するのにも中毒して、半分「バカ」になつたやうに放心してゐると、幾つにも扉をさえぎられた向う、から、低く、


夜でも 晝で──エも

牢屋は暗い。

いつでも 鬼めが

窓からのぞく。


 歌ふのが聞えてきた。渡が歌つてゐるのだ。立番の巡査もさう干渉しなくなつてゐるらしかつた。


のぞことまゝよ、

自由はとらはれ、

×はとけず。


 一番後の「×はとけず」の一聯に、渡らしい底のある力を入れて歌つてゐるのが分つた。そこだけを何度も、必ず繰り返して歌つた。彼には渡の氣持が直接ぢかに胸にくる氣がした。

 佐多には、それが何時でも待たれる樂しみだつた。きまつて夕暮だつた。佐多は何時もなら、そんな歌は彼がよく輕蔑して云ふ言葉で「民衆藝術」と片付けてしまつたものだつた。それがガラリと變つてしまつた。然し又歌でなくても、外を歩く人の單純なカラ〳〵といふ音、雪道のギユン〳〵となる音、さういふものにも、よく聞いてみて複雜な階調のあるのを初めて知つたり、何處からか分らないボソ〳〵した話聲に不思議な音樂的なデリケートなニユウアンスを感じたりした。天井に雪が降る微かにサラ〳〵する音に一時間も──二時間も聞き入つた。すると、それに色々な幻想が入り交り、彼の心を退屈から救つてくれた。彼は何も要らなかつた。「音」が欲しかつた。彼の心が少しでもまだ「生物」である證據として、動くことがあるとすれば、それは「音」に對してだけだつた。一緒にゐる不良少年の女をひつかける話や、浮浪者の慘めな生活などは、何時もならキツト佐多の興味をひいた。が、それは二三日すると、もう嫌になつてしまつてゐた。

 小樽の一つの名物として「廣告屋」がゐた。それは市内商店の依頼を受けると、道化の恰好をして、辻々に立ち、滑稽な調子で、その廣告の口上を云ふ。それに太鼓や笛が加はる。──それが一度留置場の外の近所でやつた。拍子木が凍えた空氣にヒヾでも入るやうに、透徹した響を傳えると、道化した調子の口上が聞えた。

 スワツ それは文字通り「スワツ」だつた。留置場の中の全部は「城取り」でもするやうに、小さい、四角な高い處につけてある窓に向つて殺到した。遲れたものは、前のものゝ背に反動をつけて飛び乘つた。そして、その後へも同じやうに外のものが。──「音」には佐多ばかりではなかつたのだ!

 彼は夜、何遍も母の夢を見た。殊に母が面會に來た日の夜、ウツラ〳〵寢ると母の夢を見、又寢ると母の夢を見………それが朝迄何回も續いた。

「お前やせたねえ。顏色がよくないよ。」

 面會に來た母が彼の顏を見ると、見たゞけで息をつまらしてさう云つた。

「お前が早く出てきてくれるやうにツて、佛樣に毎日お願ひしてるよ。」母が皺くちやの汚れたハンカチを出して、顏を覆つた。母の「佛樣」と云ふのは死んだ父の事だつた。奇麗好きな母が、こんなにハンカチを汚してゐることが彼の胸をついた。母は然し、何時ものやうにワケも分らない事をクド〳〵云つて、すゝり上げた。彼は外方を向いてゐた。その合間に、彼の着物の襟の折れてゐるのを、手をのべて直してくれた。彼はぎこちなく首を曲げて、ぢつとしてゐた。母の匂ひを直接に顏に感じた。

 留置場に歸つて、母の差入れてくれたものを解いてみた。色々なものゝ中に交つて、紫色した小さい角瓶の眼藥が出てきた。佐多が家にゐたとき、何時でも眠る前に眼藥を差す習慣があつた。

「やつぱりお母アさ。面會はお母アか?」隣りで、着物を解くのを見てゐた不良少年が、それを見て口を入れた。「俺にだつて、お母アはゐるんだよ。」

 佐多はそれから四五日して警察を出された。

 彼は、自分でも自分が分らない氣持で外へ出た。──だが、確かに、それは外だつた。明るい雪に「輝いてゐる外にちがひなかつた。彼は外へ出た瞬間目まひを感じた。とにかく「外」だ! ○○の家がある。××屋がある。×××橋がある。どれも皆見覺えがある。空、そして電信柱、犬! 犬までが本當にゐる。子供、人、「自由に」歩いてゐる人達、何より自由に!

 あゝ、とう〳〵この世の中に歸つてきた!

 彼は其處を通つてゐる人に、男でも、女でも、子供にでも何か話しかけ、笑ひかけ走り廻りたい衝動を感じた。それはそして少しの誇張さへもない氣持だつた。彼は自分の胸をワク〳〵と搖ぶつて、底から出てくる喜びをどうする事も出來なかつた。「とう〳〵、とう〳〵出てきた!」彼は思はず泣き出した。泣き出すと、後から、後からと心臟の鼓動のやうに、ドキを打つて涙があふれてきた。彼は、道を歩いてゐる人が立ち止つて彼の方を不審に見てゐるのもかまはずに、聲を出して、しやくり上げた。彼は何も考へなかつた。自分以外の誰のことも、何も! そんな餘裕がなかつた。

「とう〳〵出た! とう〳〵


 ──佐多が出たといふ事が一人から一人へ、各監房にゐるものに傳つて行つた。

 渡は別にどういふ感じもそれに對しては起さなかつた。何も好きこのんで監房にたゝき込まれてゐる必要はないのだから、よかつたとは思つた。彼は佐多をあまり知らなかつた。同じ運動にゐても、會社員──インテリゲンチヤといふものと、矢張り膚が合はなかつた。別にイヤではなかつた。無關心でゐた、と云つてよかつた。

 然し工藤は、龍吉などゝ同じやうに、かういふインテリゲンチヤがどし〳〵運動の中に入つてきて、自分達の持てない色々の方面の知識で、ともすれば經驗の少ない向ふ見ずな一本調子になり易い自分達の運動に、厚さと深さとを加へなければならない、と思つてゐた。勿論佐多などには、それらしい多くの缺點はあるにしても、裏にゐてもらつて、その都度──彼でなければならない役に、役立つて貰へればよかつた。殊に工藤は、この方面にはまだ〳〵自分達が澤山の事をしなければならないものゝある事を考へてゐた。


             ×        ×        ×


 取調べは××の氣狂ひじみた方法で、こゝには書き切れない(それだけで一册の本となすかも知れない)色々な慘虐な稗話を作つて、ドシ〳〵進んで行つた。そして「事實」の確定したものは、札幌の裁判所へ順繰りに送られて、豫審へ廻はされた。

 護送される前に、それ〴〵の取調べに當つた司法主任や特高は自腹(?)を切つて、皆に丼や壽司などを取り寄せて御馳走した。自分も一緒に食ひながら、急に、接木をしたやうな親しみを皆に見せた。

「とにかくさ、」──話のついでに(ついでに?)輕くはさんだ。「とにかく、こゝで取調べられた時に云つた通りの事を云へばいゝのさ。話がちがつたりすると、結局君等の不眞面目な態度が問題になつて、不利だからなあ……。」

 そして世間話をしながら、又何氣ない調子で、その同じ事を繰り返した。

「こんなに奢つていゝのか。」意味をちアんと知つてゐる渡や工藤や鈴本はひやかした。

「分つた。分つた。何も云はない。その通りさ。」笑談半分に何度もうなづいて見せた。

 初めての齋藤や石田は、變な顏をして御馳走をうけた。變だなあ、さうは思ふが、それが特高や主任の「手」であることは分らなかつた。彼等は、自分達の手で作りあげた取調書が豫審でガラリと覆へるやうなことがあると「首」が危くなつたり、「覺え」が目出度なくなり、昇進や出世に大きく關係したからだつた。その事情をすつかりつかんでゐる渡などは逆に利用して、札幌へ行く途中、付添の特高にねだつて、停車場で辨當や饅頭を買つてもらつた。

「可哀相に、あまりせびるなよ。」特高の方で、そんな風に云ひ出すやうになつた。

 四月××日迄には××警察に抑留されてゐた全部が札幌へ護送されて行つてしまつた。急に署内がガランとした。壁の樂書だけが、人の居ない室に目立つた。皆を入れて置いた壁には申し合せたやうに、次の文句が殆んどちがひなく、入念に刻みこまれてゐた。


××××××××××

××× ××!


××××××××せよ

×××××××。


一九二八、三、一五!

田中反動内閣×××!


××× ××

勞働農民黨 萬歳

萬國の勞働者 團結せよ


××××を覺えてろ。

××××を忘れるな

勞働者と農民××××××!

××××× ××!

(完)
──(一九二八・八・一七)──

底本:一~四「戰旗 昭和三年十一月号」全日本無産者藝術聯盟本部

   1928(昭和3)年111日発行

   五~九「戰旗 昭和三年十二月号」全日本無産者藝術聯盟本部

   1928(昭和3)年121日発行

初出:一~四「戰旗 昭和三年十一月号」全日本無産者藝術聯盟本部

   1928(昭和3)年111日発行

   五~九「戰旗 昭和三年十二月号」全日本無産者藝術聯盟本部

   1928(昭和3)年121日発行

※「戰旗 昭和三年十二月号」における表題は、「一九二八年三月一五日」です。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「……」と「…‥」の混在は、底本通りです。

※注記については、「一九二八年三月十五日・東倶知安行」新日本出版社(1994(平成6)年1130日初版)を参照し、最小限にとどめました。

入力:林 幸雄

校正:富田倫生

2008年123日作成

2014年526日修正

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