其中日記
(十)
種田山頭火



   自戒三則

一、物を粗末にしないこと

一、腹を立てないこと

一、愚痴をいはないこと

   誓願三章

一、無理をしないこと

一、後悔しないこと

一、自己に佞らないこと

   欣求三条

一、勉強すること

一、観照すること

一、句作すること


 一月一日 晴──曇。


明けましておめでたう。

九時帰庵、独酌。

賀状とり〴〵。

午後、樹明居へ、御馳走になる、来客数人、なか〳〵賑やかであつたが、うるさくもあつた。

留守中、敬君来庵、すみませんでした。

うたゝ寝、覚めると暮れてゐた。

もうまいがもうまい、もありがたいがもありがたい。

夜おそく八幡連中来庵、星城子、鏡子、井上、杉山さんの四人。

豚を鋤焼して飲む、ごろ寝したのは三時を過ぎてゐたらう。


 一月二日 曇。


朝寝して、起きるとまた酒、豚汁はおいしかつた、さすがに井上さんはコツクだつたらしい。

堤さん、後を追うて来た、お土産として銘酒二本。

夕方、みんないつしよにタクシーで湯田温泉に遊ぶ、M旅館で賑やかに会食、近来になくハシヤいだ。

十時の汽車に乗るべく、またタクシーで、──私はたうとう愚劣きわまる酒乱患者となつてしまつた!


 一月三日 曇。


茫々たり、漠々たり、昏々たり、沈々たり。

庵中独坐。

自己清算しろ、自己破産か! 自己決算か!

おのづからなる自壊作用

──生きてゐたくない、死にたい──それも執着だ。

この寂寥、この憂欝、この虚無。

たへがたし、其中一人酔つぱらふ

生きてゐる真実食べることの真実、あはれ〳〵。

天地人一切の有象無象!

酒、酒、餅、餅、新年、新年。

老醜。──


 一月四日 曇。


やゝ落ちつく。

午後、樹明君来庵、酒一杯、飯一杯。

夕方、敬君来庵、一升樽さげて。

同道して湯田へ、一浴して戻る、酒が残つてゐるのでそれだけ飲む。

熟睡安眠、夢も見なかつた。


 一月五日 晴。


日本晴である、昼寝。

樹明君来訪、例の如く酔うてそれからそれへ、──馬鹿、阿呆。──


 一月六日 雨──曇。


陰欝な一日。

餅があるので、鼠が来てゐるお正月(いつもはゐない、ゐつかない)。

考へる、──強く生きよ


 一月七日 曇。


或る青年来庵、間もなく樹明君来訪、三人でのんびり飲む。

咲いた、咲いた、机上の梅が、床の水仙が。

一人となればまた沈欝な一夜。


 一月八日 曇。


あたゝかい冬だが、昨日今日はさすがに寒い。

閑居読書。


 一月九日 曇。


一切放下着。──

転身一路。──

泥中の魚、辛うじて水中の魚!

自他共に醜悪愚劣。

酒なし、煙草なし、石油なし、むろん小遣なんか一銭もなし。


 一月十日 曇。


雪、初雪である。

自然にかへれ自己にかへれ人間にかへれ

午後、暮羊君来庵、つゞいて樹明君来庵、牛肉の鋤焼で飲みはじめる、それから彷徨する。

苦しかつた、心臓が破裂しさうだつた。

雪あかりで自分を見詰める。──


 一月十一日 晴、曇、雪。


雪、雪、此地方には珍らしい雪景色を展開した。

雪を観賞する。

寒い、寒い、オイボレ、オイボレ。


 一月十四日 晴。


晴れて来た、をり〳〵氷雨が降つた。

どうにもならない私の人生。


 一月十二日 曇。


小雪ちらほら。

I老人来訪、彼もまた奇人たるを失はない。


 一月十三日


Nさん来庵。

こんとんとしてからつぽなり


 一月十四日 晴。


冬、冬をひし〳〵と感じる。

からだが痛い、火燵であたゝめる。

何もかも無くなつた、命だけはあるが。

無心にして逍遙遊せよ。

午後、Nさん来訪、餅を頂戴する。

読書。

すこしさみしい。


 一月十五日 晴。


めつきり白髪がふえてゐるのに驚く。

蟄居十日、断酒五日。

朝は雑煮、昼は無、晩もまた無。

まるで水底にゐるやうだ。


 一月十六日 晴。


銭が欲しい、酒も米も油も。

久しぶりにて御飯にありつく、うまかつた。

生死を生死すれば生死なしといふ、まつたくだ。

なつかしいかな小鳥の群、冬の表情の一断面。


 一月十七日 曇。


雪もよひ、今にも降りだしさう。

身心安静。

樹明君来庵、周二君も来庵、めづらしい三人でひさしぶりの快飲。

鮓がおいしかつた、鮓そのものよりもそれをこしらへて持つて来て下さつた心が。

めでたく解散。


 一月十八日 曇。


ぬくい、うれしい。

うたゝ寝の夢のゆくへはいづこだらう。

今日はアルコールの誘惑に打ち克つことが出来た。

ポストまで出かける。

梅もよろしく椿もよろしく水仙もよろしく。


 一月十九日 曇。


しづかな雨、しづかな心。

郵便は来なかつた。

南枝落北枝開、これが宇宙の相である。

敬君来庵、樹明君も、暮羊君もまた、にぎやかな酒宴が初まつた、愉快々々。


 一月廿日 曇。


毎日の冬ごもりには困るけれど詮方ない。

朝がへり、公明正大だ。

身辺整理。

昨夜の今朝で、さすがの山頭火も少々ぼんやりしてござる。

ポストまで。

梅の花ざかり。

濡れてかゞやく枯草のうつくしさよ。

Nさん来訪、Fさんといつしよに。

飲めば酔へる幸福を祝福すべし

年賀状をぼつ〳〵認める、のんきだね。

夕月がほのかに照る、白船君だしぬけに来庵、これはこれはとばかり話しこんでしまつた、八時の汽車へ見送る、お土産の吟醸をいたゞく。

ふくろうが啼く、さびしいと思ふ。

ぐつすり睡れた。


 一月廿一日 雨。


めづらしい早起、すぐ飲みはじめる、ちびり〳〵うまいなあ、白船君ありがと。

ひとつひとつ餅を焼いては食べる。

貧楽を味ふ。

私は身心共に例外ではないかと考へる。

したのぢやない、なつたのだ。

ポストへ出かけたついでに入浴。

夕方敬君来庵、脱線談を聞くこともお正月らしい気分だ。

万事めでたしめでたし。

近頃の感想

遺言

    ──健に──


 一月廿二日 曇──雨。


大寒といふのにこのぬくさはどうだらう。

今日も年賀状を書く、ノンキだね!

銃声、喊声、非常時らしく聞える、至るところに軍国風景が展開される。

ひとりでしづかに微酔を味ふ。

誰も来なかつた、郵便も来なかつた、孤独と沈黙との一日一夜だつた。

嫌な夢を見た、何といふ嫌な夢だつたか、それは私の愚劣と家庭の──徃時の──醜悪とをまざ〳〵とさらけだしたものだつた。


 一月廿三日 曇──晴。


田舎餅はうまい〳〵。

身心沈静、暗愁を感じる。……

今日も蟄居、年賀状を書く。

午後、Kさん来庵、まじめに俳談しばらく。

さびしい夕餉だつた。

□貧乏して卑しくならない人、苦労して狡猾にならない人はえらいと思ふ。


 一月廿四日 晴。


午前中は小春日和だつたが、午後は風が出てうそ寒かつた、それにしても大寒とは思へない。

とん〳〵から〳〵、前の家で莚を織り通す音もうらゝかだつた。

身辺整理する、──私は此頃何となく労れてゐる、──老いては老を楽しむがよい

待つものが来ない、苦労性の私は心配しないではゐられない、必ずしもヱゴではない。

午後、Nさん来庵、いつしよにそこらを散歩して、農学校の舎監室にKさんを訪ねる(樹明君は山口出張)、あたゝかいストーブの傍でヨウカンを食べながら話した。

帰途、一杯やりたかつたが──甘いものを食べた後なので殊に──八方塞りで、どうにもならなかつた!

今日、数日ぶりに新聞を読んで政界の風雲急なるに驚いた、たうとう軍部と政党とが正面衝突して、解散か総辞職かで緊張しが、脆くも広田首相は辞表を捧呈した、まことに日本の現在は『疾風怒濤時代』である。

今日の夕餉もさびしかつた。

月あかりで(石油がないので)不眠徹夜、追想したり反省したり句作したりする外なかつた!

┌生の歓喜か

└死の幸福か


 一月廿五日 時雨。


水底の魚のやうに自己にひそんでゐた。──

食べる物がなくなつた、──何もかも無くなつた。

Kから手紙が来ないのが気にかゝる、この気持はなかなか複雑だが。

空腹が私に句を作らせる、近来めづらしくも十余句!

夜、食べたくて飲みたくて街へ出かける、M屋で酒二杯、M店でまた二杯、そしてS屋でうどん二杯、おまけにうどん玉を借りて戻る。……

十三夜の月があかるかつた、私はうれしかつた。

月が酒がからだいつぱいのよろこび

お酒のおかげでぐつすりと寝た。

□人間は生れて最初が食慾で、そして老いて最後が食慾だ。

□貧乏は反省をよびおこす。

 食べるものも無くなると、本来の自分があらはれる。


 一月廿六日 晴。


小春うらゝかに梅の散る日。

熟睡したので身心やすらか。

朝飯はうどんで、昼飯はぬいて、夕飯は大根で、──それしかないので。──

正午のサイレンが鳴つた、今日もKからの手紙は待ちぼけか!

終日庵中独坐。

W老人が来て何かと話しかける、買ひかぶられてゐる私は返答に困つた。……

今夜は燈火のないことが私にたくさん句を作らせた、明け方ちかくまで睡れなかつた。

うつくしい月だつた、感慨にふけらざるをえなかつた。


 一月廿七日 晴。


身心沈静。

明暗、清濁、濃淡の間を私は彷徨してゐる、そして句を拾ふのだ、いや、句を吐くのだ!

やうやくKから手紙が来たのでほつとする、さつそく出かけて、払へるだけ払ひ買へるだけ買ふ。

ゆつくり飲んで食べる、理髪して入浴する。

四日ぶりに御飯を炊く、うれしかつた、ありがたかつた、おいしかつた。

生きてゐるよろこび、死なゝいでゐるうれしさ。

飯、飯、飯、酒、酒、酒だつた!

宵から快眠したので、夜中に眼をさまして句作、気に入つた句が作れた。

句、句、句でもあつた(前の文句に対して)。

   今日の買物

       (なか〳〵大きい)

一金四十五銭   ハガキ

一金六十銭    酒

一金壱円弐十銭  木炭

一金三十弐銭   なでしこ

一金六銭     蝋燭

一金六拾弐銭   米

一金十銭     うどん

一金六銭     鰯

一金九銭     味噌

一金拾五銭    ゴマメ


 一月廿八日 雨。


きのふけふ冬もいよ〳〵本格的になつたやうだ。

老の鼻水!

午後、街へ、油買ひに麦買ひに、そして一杯やつた、幸福々々。

新聞を見ると、政局不安は何う結着するか誰にも解らないらしい。

日本は何うなるか──何うすればよいか──誰もが考へて、そして誰もが苦しんでゐる問題である。

よく食べてよく寝た。

現実逃避ではない、現実超越である。

□詩人は現実よりも現実的である。

□現実にもぐりこんで、そして現実を通り抜けるとき詩がある。

 現実を咀嚼し消化し摂取して現実の詩が生れるのである。

□現実そのものは詩ではない。

 詩は現実の現実でなければならない。


 一月廿九日 曇──晴。


一切放下着、身辺を整理せよ、むしろ心内を清算せよ。

どこかで牛が鳴く、いつまでも長う鳴く、乳房が恋ひしいのか、異性が欲しいのか、──私も何だか泣きたくなる!

午後、中井君だしぬけに来訪。

その間の事情を知つてゐる樹明君も来訪。

ちりで飲む、話がはづんだ、──ルンペン、ポエム、人間、性慾、自然。……

──私は憂欝になる、身心不調だ、──冷酒をあほつて、下らないことをしやべつてごまかす。──

どこまでゆく遠山の雪ひかる

中井君が私の旧作を覚えてゐて、放浪の哀愁を語る、二人とも心地よく睡つた。


 一月三十日 晴。


朝日を部屋いつぱいみなぎらせところで、中井さんと朝酒を酌みかはす、別れてはお互に雲の如く風の如くいつまた逢るやら、逢へないやら、中井君よ、命長く幸多かれ。

へう〳〵として中井君は行く、私はぼう〳〵として見送る。……

それにしてもよく飲んだ、昨夜三人で二本、今朝二人で一本、その一本は中井君が絵を売つて、その金で買つてきてくれた酒だ、ありがたい酒かな、すまない酒かな。

小春のうらゝかさ、太陽の恩恵が身心にしみる。

春菊のうまさよ(そのうまさには私が栽培したといふ味もこもつてゐる)。

裏山を歩いて仏前に供へる花をさがす。

梅、水仙、青木、椿、みなどれもうつくしい。

暮れるころ、駅のポストまで出かける、我慢しきれなくてY屋に寄つて二三杯ひつかける、ほろ酔機嫌で戻つてすぐ寝る。

よく睡れたが、夢は怪奇なものだつた、何しろ幽霊があらはれたり猛獣が出てきたり、とてもあやしいものだつた、それはすべて私自身の卑怯醜悪だ!

新聞を見ると、宇垣大将は遂に大命拝辞(大将の官職をも辞退するといふ)、平沼枢相も拝辞、そして林大将大命拝受、これで政局は落ちつくらしい。

私は陸軍の誠意を信じる、熱情を尊ぶ、たゞ憂ふるところは専政、独裁、圧迫、等々である。

政党よしつかりしろ国民よ頑張れ

それはそれとして、私は私自身について考へる(私は人間の例外だ社会の疣だ)、──私の一切を句作へ、酒はさういふ私を精進させる動力である。

二三合で酔へる私であつたら、──と今夜もしみ〴〵考へたことである。

とにかく、今夜は七十三銭の幸福だつた。

生活をうたふとは果して何を意味するか、考ふべし。

 生活とは何か、考ふべし。

□実生活に於ける自他の問題。

           (個人と社会と国家)

 芸術内容としての自然人生。

□人生とは。

 芸術とは。

 詩とは。

 俳句とは。

□酒は仏だ、そして鬼だ、仏としては憎い仏、鬼としては愛すべき鬼だ。

わがまゝな不幸

 最後の我儘は何か──自殺だ

□自殺は弱者の悲しい武器だ


 一月三十一日 曇。


身心正常、このマラを見よ

午後、中村さん来庵、西蔵の線香を貰つた、さつそく一本を焚く、ほのかに伽羅の香がする。

いつしよに裏山をぶらつく、墓場の徳利を拾つたり、或は竹田小幅を売り飛ばした不孝話を聞く。

別れてから句作。

お茶漬さら〳〵うまい〳〵。

夜は婦人公論の新年号を読む、なか〳〵面白い。

□貧乏しても貧乏くさくなるな。

□小さい殻に閉ぢこもつてちゞこまるな。

□独りの酔を味はひ楽しむ。

 対山独酌。

□物がなくなつてその物の価値が解る。

 物そのものだけでその持味が解る。

□武士は食はねど──はよろしい。

 高楊枝──はよろしくない。

自己を味ふ

 自己観照

□泥酔のうれしさ、泥酔は一切を撥無する

□自から運転させない資本の持主、自から耕作しない田畑の持主、自己の才能を発揮させない人間──彼等は共に社会のダニだ。


 二月一日 曇──雨。


更始一新。

或は雨を聴き、或は書を読み、終日独坐。

孤独、沈潜──句作。


 二月二日 晴、時雨。


いよ〳〵身心安静なり。

たよりいろ〳〵、どれもうれしいが、Yさんから米代(酒代といふのだが、現在の場合では酒でなく米になつた)。

澄太君からルナアル日記を送つて貰つたのは、とりわけ、ありがたかつた。

午後、街のポストへ、ついでに入浴、それから一杯、──六日ぶりの風呂、三日ぶりの酒で、ユカイ〳〵。

ほろ酔機嫌で、うと〳〵してゐるところへ、Kさん来訪、お土産の餅はうまかつた、ことに草餅は。

林内閣まさに成立、とにかくめでたし。

物価騰貴、木炭の値上りは寒がりの私にはたこへる、白米が一升につき一銭あがつて、三十二銭(私はいまだ米を高いと思つたことはない)。

私は近頃何となく老人、ことにおぢいさんに心をひかれる、私自身がもうおぢいさん気分になつたからでもあらうか。

足が痛い、左足の関節のぐあいがよろしくない、不摂生がリヨウマチを招いたのだらう、私はそれをむしろ喜ぶ、歩行の不自由は(不能となつては困るけれど)私におちつきを与へるだらう、私は酔うて彷徨する悪癖に悩んでゐるからである、不幸な幸福とでもいふべきか。

私は私の孤独を反省する、それは孤高でなくて孤寒である、私は孤立を誇るほど思ひあがつてはゐないが迎合に甘んずるほど堕落してもゐない。

在るべきものが──無くてはならないものが──米が炭が石油が在る幸福と喜悦と、そして感謝。

私は幸福だ少くとも今日の私は幸福である

夜の明けしらむまで不眠、しかし今夜の私には読みたい本があり、灯火があつた。……

▣男は欲しくないが、子供が欲しいといふ女が出現しつつあるといふ。

 女は欲しがつて子供を欲しがらない男が存在することはたしかだ。

 これも現代相の一面である。

▣私の好きな食物は──

 酒と刺身と、それから

 私の好きな事は──

 読書句作


 二月三日 晴。


節分──春立つ日。

ルナアル日記を読む、そしてまづ感じたことは、──真実は言つてよいもの言ふべきものといふよりも言はずにはをれないものである──といふことであつた。

足が痛い、左の足が腫れてゐる、かしこまることができなくなつた、よろしい、歩くことがむつかしくなつたつてよろしい、それは日頃から私の望んでゐたところだ!

郵便は来なかつた、それは私をよつぽどさびしうする。

今日になつてもまだ賀状を書きつづけてゐる、それほどのんきでづぼらな私だ。……

午後、ポストまで出かけたついでに樹明君を訪ねる、今夜の八幡宮節分祭で出逢ふことを約束した。

寒鮒と馬肉とを貰うて戻る、有難かつた。

寒い、寒い、カンらしい寒気。

暮れて節分の鐘が鳴り出した、いろ〳〵考へさせる声だ、宮市の天満宮は賑ふだらう、思ひ出は甘酸つぱい哀愁だ。

八時頃から出かける、参詣人がつゞいてゐる、境内を探したが樹明君を見つけることが出来ない、約束の場所に約束の時間に一時間近くも待ちうけたが、たうとう逢へなかつた、逢へなかつたことは残念だが、逢はなかつた方がよいやうにも思ふ、とにかくこれからは夜の外出はやめることにしよう、寒くて、そして淋しくてやりきれないので、駅へまはつて(そこまで行かないとマイナスが利かない)、熱いのを数杯ひつかけて帰庵した。

身心共に寝苦しかつた。

┌生活的事実

芸術的真実

芸道

│芸のための芸

└芸そのものを磨く


┌君は都会人で都会にゐる

│都会の風物をうたひたまへ

└都会人としての君をうたひたまへ

┌私は田舎にゐる田舎者だ

│天然自然の田園をうたうて

└自分を出すより外ないではないか

┌君のビルデイングは私の草屋だ

└私の雑草は君のアドバルーンだらう


藪椿はまことに好きな花木だ、

 それに昔風の田舎娘を感じる、

 彼女は樸実だが野卑ではない。

事実を掘り下げてその底から真実を掴み取ることだ

□雲悠々と観る彼はいら〳〵してゐるのである、この気持が解らなければ、彼の作品はほんたうに味へない。


食べる物は何でもおいしくありがたく食べる私私は私を祝福する!

意志の代用としての肉体的缺陥

  (私の病は私を救ふ)


 二月四日 晴。


歩行困難、そして気分安静、──快い矛盾肉身おとろへて心気澄む、とでもいひたい境地である。

うらゝかな小鳥のうた、春が来たやうな微風。

それにしても、今日も郵便は来ないのか、さびしい、さびしい。

おいしい昼餉、樹明君ありがたう、私は天地人にお礼を申上げる。

麦飯をたらふく食べるからだらう、やたらに屁が出る、屁を放つてをかしくもない独り者だが、何だかのんびりする、屁は孤独な道化者か

髯が伸びて少々邪魔になりだした、気にかけるな、気にかゝるやうなら剃り落してしまへ。

そろ〳〵罰があたる頃だと思つてゐたら、左足の関節が痛みだした、しかし、私としては、痛みが激しくならないで起居不能にならない限りは、不幸でなくてむしろ幸福である(悲しい幸福、みじめな仕合でもあらうか)。

昼も夜も読書三昧、しづかな幸福であつた。

□ナムアミダブツ、ナムアミダブツとつぶやきつぶやき殺してゐる、殺しつつナムアミダブツといつてゐる、──それが人間といふものだ!

オモヒデはトシヨリのキヤラメル

□意志を忘れて来た男

 意志だけ持つてゐる女

老顔のよさは雨露に錆びた石仏のやうなものだらう、浮世の風雪が彼を磨いたのだらう。

□不幸な幸福──泥酔のやうな。

 幸福な不幸──悲しい健康。

□酒飲の楽しい矛盾

□故郷忘じ難し、そして留まり難し。

 血肉は離れて懐かしがるべし。

□私は社会のだ、にはなりたくない。

 にはなれさうもない。


□食べる物がなくなつたとき、Kさんが食べる物を持つて来て下さつた、Kさんありがたう、そして私は天地人に感謝する。

□食慾は人間最初の慾望で、そして最後の慾望だ、赤児は生れるとすぐ乳房を吸ひ、老人はいつでも何でも食べたがる。

世尊良久、まことにありがたい態度である。

□この生活、この心境はなか〳〵解つてもらへない、解るまでには三十年の痴愚を要するのか、私自身のやうに。

□世を捨てたなどゝうぬぼれてはゐない、世に捨てられたことをはつきり知つてゐる。

□老人はよく独り言をいふ、愚痴な人はよく独り言をいふ、独り者が独り言をいふのはあたりまへだ、愚痴で老いぼれの独り者が独り言をいふのは、あたりまへすぎるあたりまへだらう。


 二月五日 晴──曇。


けさはだいぶ関節炎がよくなつたらしい、それではかへつて困る、幸福な不幸から不幸な幸福へ転じては、いよ〳〵ます〳〵不幸になる!

もう蕗のとうが出てゐるさうな、それを聞いたゞけでも早春を感じる。

食後の散歩がてら、蕗のとうを探して近在をぶらつく、出てゐた、出てゐた、去年も出たところに出てゐた、よい蕗のとうだ、よい香気だ、さつそく佃煮にする、句にする。

麦がなくなつたので、久しぶりに米だけを炊く、飯の白さが身心にしみとほるやうであつた。

落ちついてゐるつもりだけれど、事にふれ折につけて動揺する(今日だつてさうだ)、自分によく解つてゐるだけそれだけ苦しい。

ぶらりぶらり家のまはりを歩いてゐると、うちの蕗のとうも落葉の中から逞ましいあたまをのぞけてゐる(黎々火君が持つて来て植ゑた秋田蕗である、自然生の蕗は毎年ずつとおくれて、貧弱なとうを出す)。

蕗のとうが咲いたのもおもしろい。

暮れてゆくけはひ、暮れ残る梅の花、何となく悄然としてゐるところへ樹明君から呼び出しの使者が来た、さつそく学校の畜舎部屋へ出かける、Iさん、Jさん、そして樹明君が車座になつて酒宴が開かれてゐる、私もその中へとびこむ、うまいうまい、ありがたい、ありがたい、酔ふた酔ふた、……それから街へ、……F屋へ、Sへ、Mへ、たうとうKへ……ぼろ〳〵どろ〳〵……何が何やらわからなくなつた、……それでも跣足で戻つて、ちやんと自分の寝床に寝てゐた、命をおとさなかつたのは不思議々々々。

泥酔のよろしさ、こんとんとしてぼう〳〵ばく〳〵、だが少々梯子を登りすぎましたね!

おでんのやうな句、そしてやつこ豆腐のやうな、或はビフテキのやうな句。

□冬ごもりの幸福──火燵、本、食物、そして煙草も酒も──それから──それ以上あると不幸になる!

□人生は割り切れないだらうが、割り切れるやうな場合もないではない、深い体験で算盤玉を弾く時。

芸術的真実は生活的事実から生れる

 事実にごまかされては真実はつかめない。

□現実にもぐりこんで、もぐりぬけたとき、現実をうたふことが出来る。

□雑音にも雑音としてのリズムがあることを味はゝなければならない。

□行き詰ることはよろしい、ホントウは行き詰る、ウソはだら〳〵歩く、時々地駄太ふむのもよろしい。


 二月六日 曇。


しつかりしろ! 山頭火!

足が痛い、善哉々々。

──もつと賢くなるか、それとも、もつと馬鹿になるか、とにかく中途半端がよろしくないのだ。

昨夜の今朝で、嫌な気持だ、地球よ、さつさと廻転しろ、山頭火よ、どし〳〵歩め。

心がむづ〳〵する、お天気もよくない、降るなら降れ、照るなら照れ。……

怠惰の安逸に浸る、放心はありがたい。

うつろのやうな肉体を火燵のぬくさにつゝんで読書、ルナアル日記を読みつゞける、だん〳〵落ちついてくる。

ルナアル日記はちようど父の死を語つてゐる。

貪る心が何よりも悪いと思ふ。

駄作、悪作、愚作、──せめて凡作を──傑作は出来ないから──もちろん、人生の、生活の、私の身すぎ世すぎである。

昨夜、貰つて来た馬肉(酔中でも遺失しなかつた)を煮る、佃煮にする、おもひで果てなし。

ハガキを貰つたから今日も賀状を書く、ノンキだね。

六時のサイレンが鳴つてから、学校の宿直室に樹明君を訪ねる、いつもにかはらぬ顔を見て安心した(チユウリツプの球根が身代りになつたらしい!)。飯をよばれ酒をよばれ、そして泊らせて貰ふ。

明るい電燈のあかりで、火鉢のあたゝかさで、めづらしく原稿──独語六枚──を書きあげる。

落ちついて、のんびりして、愉快になつた。

□何となく老人に心ひかれるやうになつた私は、私自身老人になつてゐた!

□彼は酒が好きな点では日本人としての幸福をめぐまれてゐるが、餅を好かないのは大いなる不幸だ。

□足を病んで足が二本あることをしみ〴〵有難いと思つた。

生地で生きなければ創造することは出来ない

□自殺は彼の最後の我儘だ。

□五日一草、十日一石といふ、私は一生一水でありたい。

□石の沈黙、藪の饒舌、そして人間の矛盾。

 太陽の愛撫、小鳥の明朗。


□いつも最後の晩餐だ。

 いつも最初の朝飯だ。

□独言は愚痴ともいへる。

空洞から生れる句、それは水のやうな、或は風のやうな句。

□一時の睡眠から永遠の睡眠へ──やつぱり催眠剤がよい、──酒を腹いつぱい飲んで、それから寝床に横はつて。──

□母の死……弟の死……祖母の死……父の死……さて、次の番は……どうやら順番が来たやうだ、いや、順番にしなければならないやうだ。……

□米櫃に米がある、酒徳利に酒があることは何といふ幸福だろう、反古籠に反古があることさへも。

□over value よりも under value

□酔ふ、遊ぶ、そして滅ぶ。……


 二月七日 曇。


暖かい雨、もう春が来たやうな。──

新聞を読んで、朝飯をよばれて、おとなしく帰庵。

ルナアル日記を読みつゞける、ゆつくりと落ちついて。

どこかで仔犬が鳴きわめく、と仔犬のいぢらしい姿態が眼前にうかびあがる。……

彼には盗癖があるらしい(N屋の店員)、すつかり嫌になる、彼の何でもない一挙動が私をこんなにも憂欝にする。……

樹明君来庵、酒を持つて──飲んで話してゐるところへ、Sさん来庵、酒と下物とを持つて──酔ふ、私は酔うて睡つてしまつた。

□遊蕩のための遊蕩のよろしさ!

□私には好悪はあるが美醜はない、浄穢不二にはなりきれないけれど愛憎はあつさりしてゐる。

感傷は反芻する

 孤独は散歩する。

 憂欝は中毒する

□空は風ふく。

 私は咳する。


 二月八日 晴。


風、風、風はほんたうにさみしい

昨夜の余得として、酒がある、カマボコがある、バツトがある、──ありがたく頂戴して今日の憂欝を消散せしめる。──

あるだけ飲んで食べて、そして寝る、としよりの、独りぼつちの怠けものの気楽さだ。

終日、風を聴く。──

何でもない事、その事が身心にこびりついて離れない不快、風が屋根の藁を吹き散らして貧乏な私を悩ます。……

私はリヨウマチのおかげで、おとなしく閉ぢ籠つてゐます、──といふやうな消息の文句はあまりおもしろくない。

たつたこれだけか! 私の一生は

□とにかく、花を見てゐると、或は月を仰いでゐると楽しい──少くとも腹は立たない!

 私の花であり私の月だ

□「遊ぶ」は「怠ける」ではない、前者は緊張、後者は弛緩。

□仏法のために仏法を修める。

 俳句のために俳句を作る

 たゞたゞ余念あるべからず。

物そのものになるなりきる

□作者は作者である限りヱゴイストであつてよい。


 二月九日 晴。


日本晴、まつたく春だ、朝寝したことも春らしかつた、蕗のとうをさがしあるくこともまた。

終日読書、読み労れるとそこらを歩く。

今日はほんたうに好い日だつた、観念的には日々好日といふけれど、実感としてはいつもさうとばかりはいへない、よつぽど出来てゐる人物でない限りは。

とりとめもない物思ひ、そこはかとない無常感、──私は弱虫、そしてなまけものだわい、強くなれ〳〵。

微笑する句(時々は微苦笑する)

怒号、悲鳴、溜息、欠伸。

呵々大笑はおもしろいが時代が許さないだらう。

慟哭もわるくないけれど感情が拒むだらう。

生活内容の豊富貧弱はともかくとして、生活態度を確立せよ

時代の空気を深く吸ひこめ、そしてすつかり吐き出せ。


 二月十日 晴──曇。


春、春、春、晴れると、すつかり春だ。──

早すぎる春、嘘のやうな春だ。

足が痛い、頭が痒い、多少いら〳〵する、物資が乏しくなつたからでもあらう、もう米も石油も煙草も乏しくなつた。

たゞ死なゝいだけ、それではつまらないやうにも考へ、また、それでよいやうにも思ふ。

とにかく小使銭がほしいな!

午後、ポストまで出かけたついでに湯にはいる、四日ぶりの外出、そして八日ぶりの入浴。──

お米買はうか 酒買ほか

石油にしようか 煙草にしようか

道ばたにはタカノツメとかいふ紫の小草が咲いてゐる、ぶらぶら歩いてゐるうちに、だん〳〵憂欝が軽くなる、途中一杯ひつかけた。

夜はまた出かけた、酔ひたくてたまらなかつたので、酔はずにはゐられなかつたので、……そして例によつて例の如し、マイナスにマイナスを加へ、愚劣に愚劣を重ねた、……こんとんとして何が何やら解らなくなつた。

□まことの作者は飛躍する、飛躍する作者は足踏する、爆発前の焦燥、緊張、苦悩、憂欝、それをぢつと堪へてゐなければならない。

□無能無力であることを自覚したが故に、その一筋につながることを体現したのである。


 二月十一日 曇──雨。


旧の正月元日、そして紀元節、建国祭。

茫々たり、たゞ茫々たり、何物もなし、何物もなし。

夕方、暮羊君来庵、招待されて訪問、うまい酒、うまい下物の御馳走を頂戴する、うれしかつた、快く酔うて、帰庵して熟睡した。

▣俳句性とは──

   内容に於て、随つて形式に於て

 □単純(最高限度の)

  緊張圧縮ではない)

 □主観の燃焼 即 印象の象徴化

  暗示(朦朧ではない、晦渋ではない)


 二月十二日 雨。


雨の漏る音、わびしい一日。

夜、樹明君来庵、御持参の酒を飲んだが、やつぱりわびしい一夜だつた。


 二月十三日 曇。


残つてゐるだけの酒を呷つて寝てゐる。

先々死々去々来々、それはそれでよいではないか、なぜこんなにこだはるのだ。……

冬、冬、冬、曇つて冬一人。

冬蠅が一匹、うるさくせつなく飛びまはる。


 二月十四日 晴、時々霙。


身心不快。

午後、樹明来訪、つゞいて暮羊君来訪、例の如く飲む、話す、笑ふ。……

雪、酒、そして飯がありました、ありがたう。


 二月十五日 雪、時々晴。


満目白皚々。

朝、妙な男が訪ねて来た、嫌な男だつた、悪い男とは思はないけれど。

昨日も今日も郵便は来ない。


 二月十六日 曇──晴。


倦怠、たゞ寒く、たゞ懶し。


 二月十七日 曇。


沈欝たへがたし。

私は虚病の虚病を病んでゐる。

今日も嫌な朝鮮人が来た。

燈火をなくして第三夜だ、暗黒裡の妄想!

七日の月があることはあつた。


 二月十八日 晴──曇。


春寒、めつきり春めいて来た。

身心やゝ落ちついて、めづらしくも朝寝。

碧梧桐氏逝去を今日知つた(新聞を見ないから)、哀悼にたへない、氏は俳人中もつとも芸術家肌であつたやうに思ふ、一事を続けてやれなかつたのも、弟子とはなれがちだつたのもそのためだ、未完成──惜しいけれど詮方のない、──永久の未完成といつたやうな性格だつた。

七日ぶり外出、そして四日ぶりに燈火を与へられた。

いつもケチ〳〵して、或はクヨ〳〵して、そして時々クラ〳〵して、──何といふみすぼらしい生活だらう、ひとり省みては自から罵るばかりだ。

いうぜんとして、山を観よ、雲を観よ、水を観よ、草を観よ、石を観よ。……


 二月十九日 晴れたり曇つたり。


身辺整理。

なづなが咲いてゐる、蕪も大根も咲かうとしてゐる。

Nさん来庵、水など汲んでもらふ、すみません。

風が出て来た、風はさみしい、何よりさみしい、いつもさみしい、やりきれない。

うつ〳〵として一日が過ぎる。


 二月廿日 晴、そして曇。


春寒、氷が薄く張つて小鳥が囀づる。

食べる物がなくなつたので梅茶ですます、それもよからう、とかく飲みすぎ食べすぎる胃腸を浄めるためにも、また、貪りたがる心をしづめるためにも。

それにしても食慾の正確さは! 胃袋の正直さは!

出かけて米を借りて戻る(樹明君に泣きつかないのは私の良心の名残だ)、すぐ炊いて食べる。

ほろよひ人生か、へゞれけ人生か、──私は時々泥酔しないと生きてゐられない人間だ!

椿赤く酔へばますます赤し

 (梅の白さよりも椿の赤いのが今の私にはほんたうだ)

曇つて寒く、山の鴉が啼く、さびしいな。

街へ出かけて、白米を借りて戻る、さつそく炊いて食べる、わびしいな。

六日ぶりの酒、十一日ぶりの入浴。

学校に寄つて新聞を読ませてもらふ、樹明君にはわざと逢はなかつた。

今日はだいぶ歩いたので、足が痛い、頭が重い。

   或る友への消息に

先日来、私は足部神経痛で、多少の起居不自由を感じます、いつそ歩行不随意になればよいと思ひます、さうなれば、しぜんしようことなしに身心が落ちつきませう。……


 二月廿一日 曇。


身心沈静、やりきれなくて湯田へ出かける。……


 二月廿二日 三日 四日 五日 六日 七日 八日


ぼう〳〵として、あるいは、しん〳〵として。

悲しい日、恥づかしい日、悩ましい日、切ない日。

草が芽吹き、鴉が啼き、人間が酔うてさまよふ。

┌飯と酒

│ 飯のありがたさ

└塩と味噌

  塩のよろしさ

 満腹と脱糞


 三月一日 曇。


春は来たが、私は冬だ。──

終日不動無言。

身心頽廃。

せめて美しく滅ぶべし。──


 三月二日 晴。


雲雀、菜の花、小虫がしきりに飛ぶ、──春だ。

放下着、一切放下着。

不思善不思悪、空々寂々。

午後、五日ぶりに外出する、無燈火にたへられなくなつたから。

Kさんから本を借り、コロツケを貰ふ。

三日ぶりに点燈、だいぶ落ちついて来た。

生きてゐればゐるだけ、私は私の無能無力を感じるだけである。……


 三月三日 雨。


春雨だ、間もなく花も咲くだらう。

亡母祥月命日。

沈痛な気分が私の身心を支配した。

……私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだらう。……

母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといへばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ。……

身辺整理。

矛盾は矛盾として。──

何事も天真爛漫に、隠さず飾らず、ムキダシで生きてゆけ。

物そのものになりきれ

 虚無ならば虚無そのものに。

□自然そのものをそのまゝ味はひ詠ふ。

□表現は現象を越えてはいけない。

 表現は現象に留つてゐてはいけない。

 この矛盾が作家の真実で解消する。

感覚を離れないで感覚以上のものを表現する

 それが作家の天分と努力とによつて可能となる。


 三月四日 曇。


身心平静。


 三月五日 晴。


外は春、内は冬。


 三月六日 曇。


雪もよひが雨になつた。

椿赤く思ふこと多し


 三月七日 晴。


茫々たり漠々たり、老衰あきらかなり。

緑平老よ、ありがたうありがたう。

五日ぶり外出、四日ぶり喫煙、七日ぶり飲酒、十日ぶり入浴。──


 三月八日 晴──曇。


沈欝たへがたし。

Nさん来訪、同道して山口へ。

二人の無用人! Mさんのところで少し借り、それから飲み歩く、九州へ渡れるだけは残して。

門司駅の待合室で夜明かし、岔水君を訪ねて小遣をせびり、黎坊に送られて八幡へ。


 三月九日 晴。


昨夜の延長。──

飾窓の花がひらいてゐるビフテキうまさうな

飲食店前即事である。

鏡子君、井上君、星城子君を訪ふ。

夜は或るデパート楼上の四有三君送別句会に出席。

さようなら雲が春らしい

鏡子居宿泊。

或る料亭で──

燈籠しづかなるかな酒のこぼるる

変質的脱線、飲んだ〳〵歩いた〳〵。

雲平君の厄介になる、ああ、ああ。(これは三月十二日の事実だつた!)

それから七階へ、星のきらめくを

鏡子居宿泊、白雲子、堤さん、星城子君来訪。

日本娘のよろしさ。


 三月十日 曇。


陸軍記念日。

おなじく。


 三月十一日 風雨。


鏡子君自慢の腕をふるつて記念写真撮影。

来訪者いろ〳〵。

更けて、来訪の星城子君に連れられて同氏宅へ。


 三月十二日 曇。


朝湯朝酒。

桜咲く前の荒生田公園風景、その中の一人として山頭火登場。

三月九日の記事最後の分はここに。──


 三月十三日 晴。


雲平居。

見おろす山から春めいた煙

雲平君夫妻の優待に身心をまかせる。

草青むところよい妻とよい子と

おのれを恥ぢるばかりである。


 三月十四日 曇。


雲平居。


 三月十五日 曇。


おなじく。

読書、執筆、揮毫。


 三月十六日 晴。


雲平居。

夜は菫雨居の海峡句会へ出席する。

俊和尚同宿。


 三月十七日


へうぜんとして直方へ飯塚へ、そしてKのところへ。

初めてSに面会する、まことに異様な初対面ではあつた!

父父たらずして子子たり、悩ましいかな苦しいかな。


 三月十八日 曇──晴。


緑平居へ転げ込む。──

ボタ山なつかしく草萌ゆる


 三月十九日 雨。


雀、鶯、草、雲。……

愛憎なし恩怨なし、そしてそして、──愚!

若松へ、多君を煩はして熊本へ。

逢うて別れてさくらのつぼみ

いつまた逢へるやら雀のおしやべり

熊本駅で一夜を明かす。


 三月廿日 晴。


朝、彼女を訪ねる、子に対する不平、嫁についての不腹を聞かされる、無理はないと思ふけれど、私は必ずしもさうとは思はない、それは多分に人間(女)の嫉妬がまじつてゐる。


 三月廿一日 晴。


酒、酒、酒、歩く、歩く、歩く。


 三月廿二日 晴。


元寛君を訪ね、同道して蓼平君を訪ふ。

酒と女と涙とがあつた! ──(前の頁へ)──


 三月廿三日


酔中晴雲なし!

義庵老師を慰める、奥さんが亡くなられて(よい奥さんとは考へなかつたが)めつきり弱つてゐられる。

午後の汽車で帰途に就く。

途中博多下車、諸芸大会観覧。

駅で夜明かし、宿料がないので。


 三月廿四日 晴。


小郡を乗り越してSを驚かす。

肉縁のうれしさいやしさ。

ほんに酔うて、ぐつすりと寝た。


 三月廿五日 曇。


風が吹く、さびしくせつなく。

やうやくにして帰庵、ほつとする。

樹明君徃訪。

ほろ〳〵ぼろ〳〵。──


 三月廿六日──卅一日


こんとんとして。──


 四月一日 晴──曇。


徹夜不眠、しゆくぜんとして寝床から起き上つた、あゝ、どんなに思ひ悩んだことか。

反省自覚。──

節度ある生活

小鳥がいろ〳〵来ては鳴く、鶯も鳴いてゐる。

私にも春が来てゐるのだが、何となやましい春

青春のなやみと老境のなやみ、だいたい、老境にはなやみなんどあつてはならないのだが。

身心共に貪るなかれ、たとへば微酔にあきたらないで泥酔にまでおちいることもホントウではない。

食慾減退、とても大きな胃袋の持主の私なのに。

蜂がしきりに鳴いてそこらを飛びまはる、おまへもまた落ちつけないのか。

街へ油買ひに、ついでに入浴、さつぱりした、のうのうした。

春、春、春、まつたく春だ。──

さくらもちらほら三分咲き、金鳳華咲いてこゝかしこ。

そして議会はとつぜん解散になつた。

何もかも動揺してゐる、私自身のやうに。

夕方、暮羊君来庵、先夜の脱線ぶりを互にぶちまけて笑ふ(私はむしろ泣く気持だ)。

人生はひつきよう泣き笑ひらしい。

招かれて、いつしよに行く、奥さんの手料理でほろ〳〵酔うて戻る。

自浄吾意、──そこに建て直しの鍵がある。

猫が虎のやうになる──なりきらないところに、そこに悲喜劇の科介があらはれるのだ。

今夜も眠れさうになかつたが、何となく気が明るく軽くなつて、明方ちかくなつて睡れた。

夜をこめて恋のふくろうのたはむれ、彼等は幸福だ、幸福であれ、といふのも人間の愚痴だらう。

□アルコールは離れがたない悪魔だ。

 酒を飲むことは、酔うて乱れることは、私の Karma だ。

狂か死かそれとも旅か(今の私を救ふものは)、或はまた疾病か

□死線を超えるごとに、彼は深くなる、それがよいかわるいかは別問題だ。

そこに偶然はない必然があるばかりだ

□時としてはよい種子も播け!

   今日の私の買物

一金十五銭  石油三合

一金十一銭  マツチ大函

一金十銭   ハガキ五枚

一金五銭   切手十枚


┌いとなみ──労働┐

│        ├たのしいはたらき

└たはむれ──遊戯┘


 四月二日 曇。


花ぐもりだらう、花のいぶきを感じる。

沈欝たへがたし、それを堪へるのが私の人生である。

どうやらかうやら、ぼうぜんたる気分からゆうぜんたる気分へ転換しつゝある。

天地人の春であれ。

掃除──洗濯──裁縫──なか〳〵忙しい。

やうやく句が出来るやうになつた、おちついて澄んできたのである、とにかくうれしい。

旅の樹明を思ひつゝ来庵を待つたが駄目だつた。

風、風、風、午後はいやな、さびしい風が吹いた。

夜中夢中で絶え入るほど咳きこんで困つた。

□一年は短かいやうだけれど、一生はずゐぶん長いやうに思ふ。

□俳句は(短歌も同様に)ひつきよう心境詩ではあるまいか。


 四月三日 晴。


神武天皇祭、日本的!

うらゝかな旗日。

早起沈静、よろしい〳〵。

春寒、春寒いね!

人事に囚はるゝなかれ。

昼寝はよろしい、夢はよろしくない。

花見のどよめきがきこえる、──あゝそれなのに、それなのに。──

Kへ手紙を書く。

──こけつまろびつ──とろ〳〵どろ〳〵──何が何やら。──

酒乱、醜態、あゝあゝ、……恥を知れ、恥を、……死んでしまひたい、……馬鹿、阿呆。

……………………

かへりみて死あるのみ

醜い生存

死ぬるまでは繰り返されるでもあらう悪行。

愚劣、醜悪、愚劣、醜悪。

死にたくても死ねない矛盾

矛盾に矛盾をかさねてゐる毎日毎夜。


 四月四日 晴曇不明!


昨夜の延長、宿酔ふら〳〵、湯田へ。

『健からの手紙、緑平老からの手紙、それを読んで恥ぢないならば、泣かないならば、ほんぜんとして本心に立ちかへらないならば、私は山頭火ではない、人間ではない(これは九日の朝のことである、私はどうかしてゐる)。』

湯田はよかつた、あたゝかい湯が私のつきつめた身心をほごしてくれた、うれしかつた。

安宿S屋に泊る、昼は遊園の猿を見た、そして夜は漫才大会へ行つた。

同宿五六人、罪のない猥談が面白かつた。

ほんたうに遊ぶ気分、さういふ気分になりたい。


 四月五日 晴。


歩いて戻つた、塘の桜は半分ばかり咲いてゐたけれど、私はうつ〳〵としてゐるばかりだつた。

留守中客来、敬君と樹明君とがやつて来て、一杯飲んで待つてゐたらしい。

その残物を頂戴する。

夜は暮羊君の宅に招待された、よい酒であつた、うれしい酒であつた。

『飢』

食べる物がない一日

水を飲む

遊園地の猿公

温泉浴


 四月六日


憂欝たへがたかつた、立つても居てもたへきれないものがあつた。……

Nさん来訪、いつしよに散歩、そして酒、酒、酒、みだれてあばれた。……

まつたく酒狂だ、虎でなくて狼だ。

……………………


 四月七日八日


身心バラ〳〵だ、夢とも現とも何ともいへない気分だ。


 四月九日 晴。


親しい友の手紙に鞭うたれて、湯田まで散歩。

一浴一杯、身心やゝ安定。

帰来して庵中独坐。


 四月十日 晴。


さくらがちる。

だん〳〵平静になる。

蕗の香、若布の香、御馳走々々々。


 四月十一日 晴。


山はドンチヤン、花見のまつ盛り。

私はぢつとして寝てゐるより外はない。

夕方散歩、よかつた、よかつた。


 四月十二日 晴。


いよ〳〵落ちついた、合掌。

春蝉の声を聞いた。

鴉がうたれて死んだ、むしろ私を殺してくれるとよいのに!

他人に頼るなかれ、自分を信ぜよ。

せめて晩年だけなりとも人並に生きたい。

ほんたうの句を作れ山頭火の句を作れ

人間の真実をぶちまけて人間を詠へ山頭火を詠へ

心を広く強く高く

横に広く──ではない。

縦に深く──である。

私の場合では。──


 四月十三日 晴──曇。


身心いよ〳〵安静、やうやく自分をとりもどした。

絶対禁酒はとうてい出来さうにもないが、節酒はどうやら出来さうである。

酒を味へ酒に敗けるな

克己克己克己克己が一切だ

慊らない、何もかも──私自身に対して、そして句作の場合は殊に。──

風、風、風だつた、日中吹き通して、夜中も吹きつゞけた。

屋根の一部が吹きとばされる。

桜も散つてしまつたらう。

まことに花時風雨多である。

風の中の散歩も一興だつた、山はいつもうれしいものである。

寝苦しかつた。……

貪らず、惴らず、乱れず。

心すなほに体ゆたかなり。


老人は老人らしく無能力者は無能力者らしく生きる──これが私を生かす生き方である


 四月十四日 曇──雨。


風、風、風、風はほんたうにさびしい、いやなものである。

句稿整理。

暮れて出かける、一杯二杯三杯、ぐんで〳〵になつたが、脱線とはいへなかつたが。……

   句作三境

……………………説明式

 事柄

……………………描写的

 自然人生の恣態

……………………表現

 真の具体化

  (門を入るは易く堂に上るは難し)


 四月十五日 晴。


朝酒二三杯。

学校に寄つて、樹明君、暮羊君を悩ました。

おとなしく帰庵して就床。


 四月十六日 曇。


茫然として草を観る、──そんな気持だつた。


 四月十七日 晴。


うらゝかだつた、落ちつけた。

木の芽草の芽のうつくしさ。

愚痴を去れ

塩の味を知つた(食べるものがなくなつて)。

よろしい、よろしい、よろしい。

窮すれば通ず──まつたくだ。──

窮しなければ通じない。


 四月十八日 晴──曇。


身辺整理、落ちついてすなほな日。

午後、久しぶりに樹明君来庵、宿酔の様子で、すぐ寝てしまふ、夕方になつて少しばかり飲む、二人としては近来にない、よい会合であつた。

私もおかげでぐつすりと睡れた。


 四月十九日 曇──晴。


今日もおだやかな一日だつた。

句稿整理、なか〳〵捗らないので困る。

暑くなく寒くなく、まさに好季節の好季節。

何十日ぶりかで句作気分になつた、山頭火はまだ山頭火を失つてはゐなかつた!

腹工合がよくないので散歩、たうとう湯田まで歩いた、一浴して、そして一杯ひつかけて帰つた、まことによい散歩だつた。

シヨウユウライスよりもソルトライスがうまい! このうまさは貧乏しないと、飢えないと解らない。


 四月廿日 晴──曇。


季節のよろしさ、晩秋初冬ほどではないけれど、生き残つてゐるよろこびをよろこばせてくれる。

句稿整理。

松蝉がそこらで鳴く。

裏山を歩く、蕨でも採るつもりだつたが、それは見つからなくて、句を二つ三つ拾つた。

午後また近郊散歩。

溜息──春のなげき、天にも地にも私にも。

今日は村の観音祭らしく、地下の老若男女が御馳走を持つて山へ行く、──それを眺めてゐて、私は何か寂しかつた。

無感傷主義の境地に入れたら、どんなに落ちつけるだらう、……そして、……この身心のドライをどうしたらよいか。……

寝苦しかつた。

私はどこかへ移らう(湯田が望ましい)、居は気を移すといふ、新らしい土地で新らしく生活しよう。

   今日の買物

一金十銭   酒一杯

一金十銭   鰯十四尾

一金五銭   廻転焼三つ

一金十銭   バス代

一金十五銭  石油三合


 四月廿日 曇。


今日も句稿整理、といふよりも、身心整理といふべきであらう。

午後、ポストまで出かける。

米がなくなつた(むろん、いつものやうに銭はない)、I商店から二升だけ借りてくる、途上で蕨を買つた、一杷五銭也。

鰯もうまい、蕗もうまい、蕨もうまい、海のもの山のもの畑のものしみじみ味へば何でもうまい

それにしても私は私の大食を嘆く、何といふ大きいそして強い私の胃袋だらう

蒸暑かつた、夏が近いことをおもはせる。

日が長く夜が短かい、私はその日夜を持て余してゐる、罰あたりの不幸者め


 四月廿二日 雨。


早起、身辺整理。

規律ある生活、──それが正しい生活だ、人間は節制をなくしてはならない、孔子でさへも、我れ七十にして己の欲するところに従うてその矩を踰えず、といはれたではないか、この事が六十近くなつて初めて解つた。

矛盾だらけの私である、私の日々の生活は矛盾に矛盾を積み重ねて行くやうなものだ。

無坪兄から見事な壺を頂戴した、兄その人に触れたやうな気がした。

雨はしんみりと落ちつかせてくれる、今日はおだやかな好日であつた。

昨日の蒸暑さにひきかへて今日は肌寒かつた。

煙草もなくなつた、喫はないでこらへた。

離愁

□人間性に根ざす流浪性

□孤立と集合

□人間は人間の中

□ルンペンの悲哀


 四月廿三日 曇──晴。


沈静、多少の憂欝。

妙な人間が来た、彼は唖だつた、頭髪だけはキチンと分けて古オーヴアを着てゐる、彼に対して、私は何となく不愉快を感じた、悲しい事実だが、私は此頃多少ヒネクレて浮かないのである。

めつたにないことであるが、今日の私は頭脳が重苦しいので、裏山を散歩する、山はいつもよろしいな、何の木かの若葉を折つて来て活けた。

松蝉が家ちかく下りて来て、しきりに鳴く、初夏の声だ。

誰か来たと思つて出て見たら、K屋の老主人だつた。──

雑草ふみわけたま〳〵来れば借金取で

微苦笑する外なかつた。

旅に出たいと思ふ。──

むろん、昨年のやうなプチブル的な旅は嫌だ、嘘だ、繰り返したくない。

以前のやうに、行乞流転して、そのまゝ消えてしまふやうな旅でなければならない。

かなしいかな、私の身心はあまりに物臭になつてゐる、意力をなくしてしまつてゐるのだ。──


 四月廿四日 曇──雨。


まことにおだやかな天、地、人、──私であつた。

貪ることなかれ貪ることなかれ

句稿整理、どうやらかうやらかたづきさうになつた。

午後は散歩、農学校に寄つて新聞を読ませて貰ふ、樹明君に逢うて、悲しい話を聞く(彼の窶れた顔はまともに見てはゐられなかつた、みんな酒のためだ、人事とは思はれない)、私も悲しくなつて、急いで戻つた。

今日も蕗を煮た、そのほろにがさは何ともいへないうまさだ、此頃が蕗の旬だらう。

米は、むろん、なくてはならないが、石油もなければならない、米と石油とこの二つさへあれば私は死なずにゐられる

いつまでも睡れなかつた、アブラが切れたからだらう。

去来集を読む。

明け方、とろ〳〵したとおもつたら、とても嫌な夢を見た。……

善良なる愚人ではいけない。

賢い善人でなければならない。

この人を見よ──

何といふ愚人の醜さだらう!


日光と水とそして塩と草と、これだけは私の生活にもなくてはならないものである。


 四月廿五日 雨。


いやな夢から覚めて、そのまゝ起きて御飯を炊く。

すこしく食べてふかく考へよ

一切にささへられた人生一切にはたらきかける生活貫いて流れるもの──それだ、それだ。

青梅が大きくなつてゐる、春菊は花をつけて食べらられなくなつたので、生花にする。

やつぱり人間はヱゴイストだ

健からの手紙は私に涙を流させ、緑平老への手紙は私に汗を流させた。……

街へ出かけて、払へるだけ払つてまはる、払ひたい、払はなければならない半分も払はないのに、また無一文になつてしまつた。

M店で二杯、K屋で二杯ひつかけた、ほろ〳〵とろ〳〵、戻つて御飯にする、若布がおいしかつた。

樹明君から来信、今晩は宿直だからやつて来たまへ、久しぶりに飲んで話さう、といふ、訪ねるまでの時間内に湯屋で髯を剃る。

私の大食が樹明君を驚かした、私はとかく食べすぎ飲みすぎて困る、だいたい根性が卑しいからでもあるが、放浪がさうさせたのでもある。

愉快な一夜だつた、ほろ酔人生の一場面だつた。

樹明君は早くから鼾をかいてゐる、私はおそくまで睡れなかつた、私には邪気が多いらしい。


 四月廿六日 晴。


早く起きて、そのまゝ戻る。

藪風がさわがしく、そゞろ肌寒い。

身心安静、珍重々々。

斎藤さんからなつかしいたよりがあつた、野蕗君からも近々訪問するといふうれしいたより。

午後は散歩、仁保津方面を歩きまはつた、ちようど氏神様の御年祭で、河原にテントを張り余興などいろ〳〵あるましい、男も女もおぢいさんもおばあさんも子も孫も、どつさり御馳走を携へて集つてくる、村のピクニツク、うらやましかつた。

自己闘争記

酔ひざめの記


 四月廿七日 晴。


句稿整理、完成、ほつとする。

揮毫、いつものやうに、悪筆の乱筆

空罎、古雑誌、襤褸を売る、五十銭!

さつそく街へ、K店で少々借りて湯田へ、例のS屋に泊る、一宿二飯で四十六銭。

湯はよいなあと嘆息の欠伸を洩らしつつ。

樹明君が不在中に来てくれたらしい、こんな置文句があつた。──

また散歩(これは私)

ケツコウ〳〵 ハルダモノ

午後四時 樹来

アゲ二切タベタ

庵のニホヒガシタ


 四月廿八日 曇。


朝湯朝酒(朝々はないが!)。

八時帰庵、野蕗君を待つ。

昼御飯を食べてから散歩がてら、駅まで出迎へたが、失望々々。

笹鳴、ずゐぶん下手糞な鶯だ、でも日にましうまくなる、勉強々々、私の句作もそのやうに。


 四月廿九日 晴。


日本晴、天長節、万歳万々歳。

春寒、なか〳〵寒い。

節度正しい生活平凡にして真実

樹明君から来信、一献傾けたいから用意して置いてくれとの事、さつそく在中の五十銭銀貨二枚を持つて街へ出かける、酒、魚、御馳走を拵らへる、三時頃から六時頃まで、めでたきさかもり。

かういふ会合でなければならない、おかげで、のんびりとした。

感激興奮ではない。

観念から俳句は生れない。

俳句は体験から生れなければならない。


 四月三十日 曇──雨。


身心平静、何よりのよろこびである。

旧の三月廿日、秋穂はお大師まゐりで賑ふのだが、かういふお天気では人出が減るだらう、私も見合せた(小遣銭もないから)。

ほんたうの信心には雨も風もないけれど。──

待つてゐるものが来ない。

しめやかな雨。

午後、ポストへ、ついでに入浴。

一杯ひつかけてほろ〳〵、ぐつすりと寝た。

御飯がおいしい──食べるものが何でもうまい──それは人生の幸福中の幸福である。


 五月一日 雨。


早起、身辺整理。

ありがたい手紙が二つ、緑老から、黙君から、それは涙のこぼれる手紙だつた。

秋穂まゐりが出来ないので湯田へ行く、お大師様の御利益よりも温泉のそれがテキメンだつた。

払ふべきもの払へるだけ払ふたうれしさ。


 五月二日 三日 雨──曇──晴。


湯田滞在。

時計を売つて、酒と菓子とをルンペン君に奢つた、みんないつしよにうたうて笑つた。


 五月四日 五日 晴。


帰庵。

がつかりして寝つゞけた。──

何物にも囚はるゝなかれ

殊に自己に対して


 五月六日 晴。


五月、あゝ五月。

やつと寝床から起きあがつた。──

灯火なし、眠れない、苦しかつた。


 五月七日 曇。


身心不安、食慾減退。

樹明君から来信、よい事があるといふ、夕方から出かける、御馳走を頂戴する、敬君待つても来らず、泊る。


 五月八日 晴──曇──雨。


未明帰庵。

父の第十七回忌、ひとりさびしく読経し回向する、私はほんたうに不孝者であることを痛感した。……

身心沈静、やりきれなくて街へ出かけて酔ふ。

春雷、身心ぐた〳〵になつて、それでも戻つて来た。

味ふこと

     (酒を飲む態度)

酔ふこと


 五月九日 雨。


起きあがれない、……寝床にもぐりこんだまゝで悶えるばかりだ。

敬君来庵、酒と下物を持参、飲んで話してゐるうちに、だいぶ身心がやすらかになつた、友はありがたいもの、酒はうまいもの。

今日は樹明君を待つたがたうとう来てくれなかつた。


 五月十日 晴。


すこし落ちついて来た、よく食べてよく睡れた。


 五月十一日 十二日 十三日 曇。


こんとんとして何物もなし。──


 五月十四日 曇。


一切放下着、流るゝまゝに流れよう

……………………

なりきれなりきれ何でもよいからそのものになりきれ

樹明君を訪ねて飯米を貰うて戻る、南無樹明大明神!

午後、Nさん来庵、夕方、樹明君来庵。

粗末にするな自分を──

悉有仏性を信ずるからには


にはなれるが、にはなか〳〵れない。


死中の生

地獄の極楽


求むるな貪るな

酔を酒を


無執着無抵抗


 五月十五日 十六日 十七日 十八日


湯田滞在、山口行乞。

まるでムチヤクチヤだつた、それはムチヤクチヤだつたけれど、私としては一切を投げだして死生の境を彷徨したものだつた

断──空──暗──明──黙


 五月十九日 廿日 廿一日 廿二日


老いてます〳〵醜し


 五月廿三日 曇──雨。


早起、身辺整理。

無、無、空、空。──

午後、樹明君来てくれて酒を買うてくれる、ありがたい、ほろ酔機嫌で湯田へ行く、ほんに温泉は身心をしづめてくれる、ありがたい。


┌つゝましく、くよ〳〵せずに

└すなほに、けち〳〵せずに


 五月廿四日 雨。


バス代がないから(昨夜はY店の主人に切手を銭にかへて貰つて宿料を払ふたのだが)はだしで歩いて戻つた、よかつた。

斎藤さんから近著東洋人の旅が来てゐた、さつそく読み初めた。


 五月廿五日 晴。


終日読書。

新緑がいよ〳〵うつくしい、鶯がよい声でうたふ。

東洋人の旅はなつかしい読物だつた、著者と膝を交へて語るやうな親しさを味つた、フインランドの旅、アイルランドの旅が殊によいと思ふ。

澄めば濁り、濁ればまた澄む。

明暗の境

澄みきれ

合掌──無我


 五月廿六日 曇。


いつものやうにきちんとKから送金、ありがたいぞ。

買物いろ〳〵、払へるだけ払ひ、買へるだけ買ふ。

また湯田へ。──


 五月廿七日 曇。


滞在。

酔うてゐる、落ちついてゐる。……


 五月廿八日 曇。


今日も歩いて帰庵。


 五月廿九日 晴。


Nさん来訪、しばらく話してから、いつしよに米屋まで出かける、M店でちよいと一杯ひつかけました。

身心沈静、落ちついて読む。

投げだせ、投げだせ、投げだすより外に私の助かるみちはない。

□枯淡な句と幼稚な句とは一見して同一なものゝやうに思はれる、その距離は紙一枚に過ぎないかも知れない、しかし、──しかしである、作者は幼稚を脱して枯淡に徹するまでに数十年の血みどろな精進をつゞけて来たのである。

自然に即して思想が現はれる、思想を現はすやうに自然を剪栽するのではない、──これが私の現在の句作的立場である。


 五月三十日 晴。


早起、身辺整理、久しぶりに身心明朗。

暮羊君久々にて来庵、病気全快は何より、例の如く無駄話、ついていつて雑誌を借り酒を貰うて戻る(君はまだ飲んではいけないさうで)。

十二時頃、樹明君来庵、旦へ行かうといふ、同行はSさんKさんたち(旦は、私の第二の故郷である、そこの鯛を食べ酒を飲むことは楽しい)、お仲間入したいけれど会費三円が出来ない、K店で借らうとしたが、月末でどうにもならないさうである、残念ながら参加中止、帰庵して、例の一本を傾けた、寂しかつたが、けつきよくは、よかつた、よかつた、酔ひました、ほろ〳〵とろ〳〵、そして湯田へまた参りました(Y店で壱円借りまして)、熱い湯、熱い湯、熱い湯に浸ると、身心が蕩けるやうに快い。

哲学から句は生れないけれど、句には哲学があつてもかまはない。

私は私の私であれ


 五月三十一日 曇。


午前帰庵。

留守に、樹明君が酔つぱらつて来たらしい。

アルコールを止揚せよ、先づ焼酎を止めろ、酒は日本酒に限る、燗してちびり〳〵飲むべし、時としてぐい〳〵ビールを呷るもよからう。

水がうまい、水を飲んで胃腸を洗ふ、いや身心を洗ふ。


 六月一日 晴。


更新第一歩

草のめざましさ、小鳥のほがらかさ。

Kからの酒を頂戴する。

今日は今日のお天気、今日は今日の事をなせ。

死線を越えて無我境を行く

身辺整理、発熱の気味で。──

芸術的自信はなかるべからず、断じて自惚はあるべからず。


自己矛盾──自己嫌忌──自己破壊──


 六月二日 晴──曇。


青い朝が動いてゐる、暁のすが〳〵しさ、みづ〳〵しさ、身心清澄、創作衝動を感じる。

鶉衣を読む、うまいことはうまいが、あまりにうまい。

洗濯、草苅、何といふ役に立たない肉体だらう!

石油買ひに出かける、ついでに入浴。

やるせない手紙をSに送る、あゝ。

数日ぶりに新聞を見る、予期の如く林内閣は退却した、そして大命は近衛公に降下し、公は拝受した、これで行き詰つてゐる非常時も非常時として安定するだらうと誰もが予期してゐる。

国家は国民の社会である。

朝晩はまだ春だが、日中はまつたく夏だ。

ありがたくおいしく御飯をいたゞいた。

旅、旅、旅に出たい、そしてワガママをたゝきつぶしたい(かなしいかな、私は行乞の旅をつゞける元気をなくしてしまつてゐる)。

不眠、しようことなしの徹夜読書、アブラが切れたのだらう。

東の空が白むのを待ちかねて起きる。──

詩人は謙虚でなければならない、見よ慢心せる俳人のいかに多きことよ。

増上慢はネコイラズみたいなものだ。

『飯と酒と水』

  (父親の出奔、帰郷、家出)

『半自叙伝』

『うさきのころも』


 六月三日 曇。


沈静。──

下の家の主人が来て草を刈つてゐる、朝風にそよぐ青草をさくり〳〵と刈りすゝむ心持は快いものであらうと思ふ。

今日もまた、郵便も来ないのか!

午後、ポストまで出かけたついでに、農学校の畜舎に寄つて新聞を読む、至るところ近衛内閣万歳である、誰もが暗さに労れてゐるのだ。

けふも発熱の気味、からだのどこかに異変が起つてゐるらしい、それもよからう、仕方がないが、どうか痛まないやうに。……

蒸暑い、柿の青い葉が時々落ちる。

二夜分ねむれた、いやな夢を見たけれど。

放てば手に満つ

此語句に道元禅師の真骨頂が籠つてゐる、おのづから頭がさがる。


昨日は昨日の夢。

今日は今日の現実。

明日は晴か曇か、それとも雨か。


 六月四日 晴。


好い季節だ(いつでも好季節といふのは観念としてゞある)。

好すぎる季節だ。

おいしい御飯そのものだ。

句稿を整理しつゝ、自分の未熟なのに呆れ、懈怠がちであるのを恥ぢた、おい山頭火しつかりしろよ

午後は畑仕事、すぐ掌にマメが出来る、まことに〳〵情ない肉体ではある。

夜は芭蕉を読む、芭蕉の物品は読めば読むほど味がふかい、と今更のやうに感じ入つたことである。

──遂に無芸大食にして終る──自弔の一句である。

卑しい夢を見た、私の内心には、人を疑ひ人を虐げる卑しさがあるのだ、恥づべし、鞭つべし。

後記──

□柿の葉のうつくさはないが──

 柿の蔕、柿膓

□ひとりの句二つについて──

□旅の句、吟行句

□「他人の午蒡で法事をする」

 御礼申上げる


 六月五日 曇──雨。


梅雨近し。

第五句集柿の葉、やうやく脱稿、さつそく大山君に送つてほつとする、パイ一やるところだが、銭がないし、借るところもないし、やつとY屋で一杯ひつかける、この一杯には千万無量の味があつた。

割り切れない人生、どうやらかうやら、へゞれけ人生からほろゑひ人生へ。──

大根を播く、時知らず大根といふ名はわるくない。

私の生活態度はあまりに安易であつた、生活内容が貧弱になるのもあたりまへだ。

今晩は一碗の御飯しかない、お茶を熱くして蕗を味はひつゝ食べた。

夜になつて雨、落ちついて読書。

私の立場としては、

広くよりも深く

よりもを求める。

乞食することは、今の私として、詮方もないが、いはゆる乞食根性には落ちたくない、これは矛盾だらうか、否、否、否。


 六月六日 雨、終日終夜降りつゞけた。


梅雨らしく降る、雨もわるくないけれど、方々の雨漏りには困る。

朝飯なし! 渋茶ですます。

ポストへ、I店で米を借りる、胡瓜も安くなつた、大五銭小二銭、小を二本買ふ。

捨猫がしきりに鳴く、鳴いて鳴いて鳴きつくして死ぬるだらう、私はどうすることも出来ない。

自然といふものについて考へる。……

またポストへ、ついでに入浴、そしてM屋に寄つて一杯ひつかける、K店で煙草を借る、なでしこが切れてはぎを借る、十三銭の浪費である。

身辺を整理した気持好さで、アルコールのおかげでぐつすりと眠れた。

こらへる、──私はこらへなければならない、こらへることのできない私を呪ふ。

未熟と未完成とは別物だ

芸術に国境なししかし民族の血肉はある、そのどちらも真だ。

感傷は反芻する──と、ルナアルは日記に書いてゐるが、私の感傷は反噬する

自信をなくした日、こんな寂しいことはない、そのときほど、自分をみじめと思ふことはない。


 六月七日 雨、雨、雨。


五時起床、熟睡の朝の軽快。

──とかく功利的に動きたがる──省みて恥づかしい。

落ちついて読書、生きてゐるよろこびを感じる、飛躍前の興奮を感じる、うつぼつとして句作衝動が沸き立つ。

句が作れなくなつたとき酒が飲めなくなつたときその時こそ私の命が終る時である

甘えるな、甘えるな──媚びるな、媚びるな──自分を甘やかすな他人に媚びるなと自から戒める言葉である。

日々の二つの幸福。──

何でもおいしく食べられる、何を食べてもうまい

感情を偽らないこと、すなほにひたむきに感情を表白することが出来る(勿論、比較的に)。

第二日曜六月号到来、はつらつたるものがある、さつそく牧句人へ手紙を書く。

夕方、ポストへ、それから豆腐屋へ寄つて二丁借りてくる(酒屋へは寄れなかつた)。

豆腐の味、──淡如水如飯。

夜、心臓がしめつけられるやうに苦しくなつたので、いそいで句帖と日記とを書きつけたが何事もなかつた。

いつも覚悟は持つてゐるけれど、かういふ場合の、孤独な老人はみじめなものだらう!

昨夜は宵からあんなによく睡れたのに、今夜はいつまでも睡れない、うつら〳〵してゐるうちに、いつとなくみじか夜は明けてしまつた。……

俳句は──自由律俳句はやさしくてそしてむつかしい。

門を入るは易く、堂に上るは難く、そして室に入るはいよ〳〵ます〳〵難し。

句はむつかしい、特に旅の句はむつかしい、と句稿を整理しながら、今更のやうに考へたことである。

時代は移る、人間は動きつゞけてゐる、句に時代の匂ひ、色、響があらば、それはその時代の句ではない。

貫き流るゝもの、──それは何か、問題はこゝによこたはる。

○その花が何といふ名であるかは作者には問題ではない、作者は花そのものを感じるのである、しかし、その感動を俳句として表現するときには、それが何の花であるかをいはなければならない(特殊な場合をのぞいて)、こゝに季感の意義があると思ふ。

○都会人にビルデイングがあるやうに田園人には藁塚がある、しかし、煎茶よりもコーヒーに心をひかれるのが、近代的人情であらう。

○俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい(短歌も同様に)、一句一句に作者の顔が刻みこまれてある、その顔が解らなければその句はほんたう解らないのである。

把握即表現である、把握が正しく確かであれば表現はおのづからにして成る、さういふ句がホントウの句である。


 六月八日 雨。


降つた降つた、降る降る。

武二君へ手紙を書く、層雲経営について。

ありがたし、多々君の手紙、ほんたうにありがたかつた、君の温情が私の身心にしみとほつた。

ポストへ、そして買物いろ〳〵、これだけあれば当分凌げる。……

身辺整理、私の変質的発作は整理出来ないものだらうか、否、きつと整理してみせる。

つゝましくすなほな日であつた。

午後、またポストへ、ついでに入浴、髯を剃り爪を切り、さつぱりした。

樹明来信、宿直だから来遊を待つ、おもしろいニユースがあるといふ。

六時のサイレンを聞いてから出かける、ニユースといふのはKさんの事だつた(彼に幸福あれ)、いつものやうに夕飯をよばれ(無論、般若湯も!)十時頃帰庵。

今日の新聞記事、──無想庵が巴里に於ける話は悲しかつた。

今日は茄子と胡瓜とを植ゑた。

人の短を説く勿れ己の長を語る勿れ合掌

層雲はましく第二期に入つた、今後の運動は若い人々のはたらきである、第一期の仕事に残つてゐるものがあるならば、それは老人たちのつとめである。

層雲俳句に対していつも慊らなく感じることは、野性味のないことである(野心的な句はさうたう見うけるが)、小さいナイフのやうな句ばかりで大鉈のやうな句がない。


 六月九日 曇──晴。


やつと霽れた。

天地荘厳──私は沈欝。

──せめて、余生をなごやかに送りたいと思ふ。

菜を漬ける、何といつても食料品として最も安価なのは塩だ(私は一年間に十五銭の塩を使ひきれない)。

読書はよいな、今日も悠々として書を読んで暮らした。

石油買ひがてら散歩、或る畠の畔からコスモスの苗を抜いて来て植ゑる、この秋は庵のまはりが美しいだらう。

途上に句はいくらでも落ちてゐる、それを拾ひあげることが出来るのは俳句的姿勢だ。

心いよ〳〵深うして表現ます〳〵直なり、──この境地は句に徹しようと不断に精進するものでないと、よく解るまい。

塩鮭のあたま

あのルンペンはどうしてゐるだらうか。


飲みすぎることは自制しえないこともないが、さて食べすぎることは自然に任す外ない。

私は日本人であることを喜ぶ、現代に生れたことを喜ぶ、俳句を解することを喜ぶ。

老醜たへがたいものがある!

二郎! お前は此一筋を持たない無能無才だつた、つながるものゝないお前は自殺するより外なかつたのだ! ああ。


 六月十日 晴。


時の記念日。

早起、掃除も御飯も日記書入も何もかもすんでから、六時のサイレンが鳴つた。

なか〳〵寒い、ドテラをかさねる。

自然にぢかに触れること、──作者にとつては、その事が何よりも大切である。

裏藪で今年最初の筍を見つけた。

ほんたうに日が長い、終日無言、読んで楽しむ。

啄木鳥が来た、お前も寂しい鳥だ。

   今日の買物

一金五銭    菜葉一把

一金三十四銭  ハガキと切手

一金十六銭   醤油四合

一金三銭    酢一合

一金十銭    酒一杯

一金九銭    花王石鹸

一金十銭    塩鯖一尾

一金十五銭   石油三合

一金十三銭   若布五十匁

一金九銭    味噌百匁


 六月十一日 晴──曇、入梅。


未明起床、身心清澄。

──完全に私は私をとりもどした山頭火はたしかに山頭火の山頭火となつたのである。──

落ちついて読んだり書いたり。

藪を探して小さい筍二本貰つた、さつそく煮て食べた、うまかつた。

昼御飯をすましてからポストへ、ついでに学校に寄つて、樹明君に会ふ、新聞を読み、豚と豚の仔を観る。

豚! 十匹近い仔! そこに自然の或る姿を発見する!

小西さんからよい返事があつた、早く快くなりたまへ。

あるだけの米──五合あまり──を炊く。

──芸に遊ぶ──現在の私はこの境地にゐる。

まことに嫌な夢を見た、私にはまだそんなに未練があり執着があるのか、そんなにも私は下劣醜悪な人間なのか、──悲しくも淋しい一夜であつた。

┌自然

│       人間認識

└歴史(社会)

   (時代)

┌自然 ┌物 ┌有限 ┌存在

└人間 └心 └無限 └実在

観る──認識する──描く、詠ふ、奏でる


 六月十二日 曇──少雨──晴。


沈静。──

午前、ポストへ、一杯ひつかける、味噌を買ふ、財布には一銭銅貨が二つしか残つてゐない。

梅雨らしく晴曇さだまらず、それでよろしい。

午後、晴れたので散歩、山越えして伊藤さんを訪ねる、幸にして在宅、二時間ばかり話して帰る、小さい壺と、そして白米一升を貰つて(米を無心したときは内心恥ぢ入つた)。

伊藤さんは交れば交るほど味の出てくる人物らしい、私と意気投合するかも知れない(私と同様に独居生活で、そして息子自慢だ、君は外に働きかけんとし、私は内に潜みがちになるが)、とにかくうれしい訪問であつた。

夕方、暮羊君来訪、しばらく話す。

早く寝床に入つたが寝苦しかつた。

私の場合では、貧乏はむしろ有難い、若し私が貧乏にならなかつたならば、一生、食物のうまさを知らなかつたらうし、また、飲んだくれて早死してしまつたらうから。……

貧楽である。

⟁私の生活態度を食物の場合で説明すると、──いふところのうまい食物でも食べる人間が健全でなければ、うまいと味ふことは出来ない、それと同様に、いはゆるまづい物、いや、うまくない食物でも身心が調うてゐれば、おいしく、ありがたく味ふことが出来る、──それが人生の味だ。

与ふれば与へらる、捨てると拾はせられる。

することさすこととなつてかへつてくる。

──行乞僧の言葉  ┌なる

          └する


 六月十三日 晴──曇。


旧端午、日曜、日々好日だけれど、今日は好日中の好日だ、誰かお団子をくれないかな。

──堪へきれないから飲みまはる、飲みまはるからいよ〳〵ます〳〵堪へきれなくなる──かういふ愚かな弱さはいのちがけで、からうじて揚棄したことである。

朝、ポストへ、途中、一杯やりたかつたがぐつとこらへた、こらへるより外なかつたからでもあるが。

正午のサイレンが鳴つて、樹明君来訪、つゞいて暮羊君も──、そして始まらなければならない酒が始まりました! 極楽々々

今日も鷹が裏山でしきりに啼く。

暮羊君から、古い夏帽子を頂戴した、感謝々々。

夜、K店でバス代宿銭を借りて湯田へ。

S屋に泊る、隣室で犬も喰はない夫婦喧嘩がうるさかつた、私は酔うて熟睡。

句作雑感

  ──実作者の言葉


 六月十四日 曇。


のんびりとして朝湯、そして朝酒。

バスで、九時頃帰庵、やつぱり庵がよろしいな。

私は湯が好き、温泉浴を何よりも好いてゐる、うれしい時かなしい時、さびしい時、腹が立つた時、むしやくしやする時、私は温泉へはいる、──私がしば〳〵湯田へ行くゆゑんである。


 六月十五日 晴。


或は空梅雨かも知れない、なか〳〵降らない。

つつましい一日だつた、考へることも食べることも!

午後、湯田へ行く、途中はまつたく夏日風景であつた。

泰山木の花を観て、緑平老を懐かしがつた。

裏藪の筍がによき〳〵のぞきはじめた、当分、筍のうまさを満喫することだらう。

読書にも倦いて、そこらを散歩する、もう地虫が鳴いてゐる、イチハツ、ツツジ、ダリヤ、等々をもらうて戻る。

寝苦しかつた、それだけ私はなつてゐないのだ。

□俳句は態度の文学といはれる、動かしがたい至言である、だから道としての俳句といふものがまた成り立つ。

□年中行事の一つとして、春の彼岸に行はれるといふ日のお伴はおもしろい、土落しなども。

□生死──行乞、犬──無心無我──


 六月十六日 晴れたり曇つたり、ちよんびり降つたり。


机を北窓に移す。

初めて蚊帳を吊る。

みんみん蝉も最初の唄をうたつたやうだつたが。

筍がぞく〳〵出初めた、今までは毎日蕗を食べたが、これからは毎日筍を食べることだらう。

蕗から筍へ、──私の季節のうつりかはりである。

待つものが来ない、失望落胆。

飢が私をして学校の米を貰はしめた、樹明君に対しても(私自身に対しても)心苦しいといつたらなかつた。

いつまでかうした生活がつゞくのか、私はどこまでだらしがないのだらう。

飯ほどうまいものはない、私たちのやうな日本人には。

腹いつぱい食べて、空を仰げば、今日の日輪かゞやく。

W老人からトマト苗を分けて貰つて植ゑつける、五本、いつしよに薯やら葱やら貰つた、感謝。

──魚売の声よそにふけ青嵐──これは也有翁の閑居吟であるが、私の場では、

豆腐屋のラツパも寄らない青葉若葉

である、呵々。


 六月十七日 曇──晴。


早起、なか〳〵降らない。

ぼつ〳〵田植が始つた。

亡弟二郎の祥月命日(私の推定日)、読経焼香して彼の冥福を祈つた、彼はまことに不幸な正直な人間であつたが。──

樹明君へ告白の手紙を書く、かういふ手紙を今日書いたといふことも何かの因縁だらう。

午後は散歩、三時間あまり、新町から椹野川土手へ、途中、S老人の店で一杯借りる、月草を折つて戻る、昼顔は見つからなかつた。

米がなくなつた、煙草もなくなつた、石油もなくならうとしてゐる、生命だけが、幸にして或は不幸にして、なくならない!


 六月十八日 晴。


早起して身辺整理、悪筆を揮ふたのもその一つ。

一度、学校まで出かけたが、樹明君に逢ひにくゝて新聞を読んだゞけで戻つた、そしてまた出かけて、やうやく樹明君に逢ふ、君はいつものやうに万事飲み込んでゐて、米をくれる、酒を魚を御馳走してくれた。

最初の酒と魚とはほんにありがたかつた、おいしかつた、F屋での散財はおもしろかつたけれど、つまらなかつたと思ふ。

とにかく私は今月になつて初めて刺身を食べ、三月ぶりに芸者と遊ぶほどののんきさを持つたのである。

まさに樹明大明神! 南無樹明菩薩!


 六月十九日 曇。


朝寝。──

何しろ一時過ぎて帰つて来て、それから水を汲むやら米を磨ぐやら、……とやかくするうちに東の空が白みだした、……そして寝床にはいつた。

今朝、考へて、やつぱり昨夜は飲みすぎだつたと思ふ、今までのやうにダラシなくはなかつたけれど、浪費は浪費として反省すべきものがあると思ふ、すまなかつた、〳〵。

落ちついて読書。


 六月廿日 晴。


ちつとも降らない梅雨季。

Zさんがやつて来て、窓の筍──若竹になりつゝあつたのを切り採つた、私の朝夕の楽しみを奪はれて、私は憤慨した、Zさん、自然人生に対してデリカシーを持つてゐない人間は軽蔑すべきかな。

門外不出、終日無言。


 六月廿一日 晴。


いよ〳〵降らない。

ポストへ、そしてまた湯屋へ。

途中、Oさんの豚小屋を見物した、彼等は食べて寝て、そして子を生んで、最後は屠られるのである、彼等がガツ〳〵食べてゐる有様や、数多くの仔にせがまれてゐる有様を見てゐると、何となくアンタンたるものを感じる、人間だつて、けつきよくは、おんなじ宿命を負はされてゐる!

のそり〳〵と藪から蟇が出て来た、お前も一匹、さびしいか、私は一人、さびしいよ。

──酒なし煙草なし、毎日、白粥をすすつてゐる、昨日も今日も、そして明日もまた。──

夜、久しぶりにNさん来訪、月のさしこむ縁で話す、タバコを喫はせて貰つた。

小遣銭のない生活はよろしくありませんね。


 六月廿二日 晴。


まづしく、つゝましく、わびしく。

散歩、面談の用事が出来て谷川君徃訪、ついでにNさん徃訪、酒と飯とをよばれる、画賛を書かされる、それから沙魚釣、釣れないので、鰕と蜆貝とをあさつて戻つた。

谷川君来訪、酒と魚とを持つて──酔うて二人は街を飲み歩いた、──酔中彷徨の果ては──脱線しないで無事帰庵、──よかつた、よかつた。


 六月廿三日 曇。


昨夜の延長だ、酒、酒、恥、恥、夢、夢。


 六月廿四日 晴。


終日無言行。

おとなしく読書。

反省がちく〳〵身心を刺す。……


 六月廿五日 曇。


身心沈静。

Kから、いつものやうにきちんときまつた手紙が来た。

さつそく出かけて、払へるだけ払ひ、買へるだけ買ふ。

Kよ、ありがたう、ありがたう。

借金を返した気持は何ともいへない。

午後、またポストへ出かける、そして湯田まで思はず行つてしまつた。

酒と温泉とに対しては私はグニヤグニヤフニヤフニヤだ!

Kさんから菊正一本頂戴した、悪筆の代償として。

S屋に泊る、アルコールのおかげで、温浴のおかげで、そしてまた同宿連中のあけつぱなしのY談のおかげで、ぐつすりと睡れた。


 六月廿六日 雨、雨。


宿酔。──

何だか身心が変調なので、いそいで帰庵。

フラフラする。──


 六月廿七日 雨、雨、雨。


臥床、読書、自己を省察して冷汗を流す。


 六月廿八日 曇、時々晴。


畑仕事、胡瓜やトマトに垣をこしらへてやる。

昨日も今日も閑居、読書三昧、無言行。

酒なく煙草なく燈火なし。……


 六月廿九日 曇、そして雨。


朝、いつぞやの花売爺さんが来て、縞萱を所望した、代金として八銭くれていつた。

ポストへ、一杯ひつかける、石油を買ひ煙草を買ふ、みんなカケである。

くちなしの花を活ける、くちなしの花はよいかな。

Jさんが筍をすぽり〳〵と切る、彼の所有だから文句はいへないけれど、人間には審美的感情がないと困るな!

降る〳〵、降れ〳〵、梅雨は梅雨らしく降るのがよいとは思ふけれど、屋根の漏るには閉口する、家だけではない私までが漏るやうな。──

五年前──私がこゝに住みついてから揷木した夾竹桃が最初の花を持つた──その頃の自分が考へられる、私の身心は荒んでしまつた。

当分は禁足の事。──

──奇妙な夢を見た、それはまことにグロテスクな夢だつた、私の胸には悪獣が穴籠りしてゐるらしい。

┌求むるなかれ

│貪るなかれ

└持つなかれ

┌没我

│忘我

└無我


 六月三十日 雨。


今日も郵便が来ない、さらにさびしい日である。

先日から新聞を購読してゐる(今日までとてもどこかで読まして貰つてゐたが)、新聞といふものはすでに私たちにとつては、生活の必需品となつてゐる、私は酒を飲むやうに新聞を読むのである。

読売はなつかしい新聞だ、今日此頃の読売は新興の意気ハツラツとしてゐる。

終日読書、まことに日が永い、いや、私には夜さへも短かくはないのだ!

また夢を見た、──旧友S君に邂逅して愉快に談笑した、これも老情のあらはれだらうか。

夢のない人生は寂しすぎる


 七月一日 曇──晴。


早起、沈静。

今年も半分過ぎ去つてしまつた。

菜園を眺めて、今更のやうに大地と太陽とのありがたさを思ふ。

午後ポストへ、ついでに入浴、M屋で一杯、うれしいうれしい、暑い暑い。

大阪毎日新聞による、黒龍江畔風雲急らしい、どうぞ戦争にならないやうにと人民のために祈る。

私は不死身に近い肉体の持主だが、病的健康とでもいふのだらうか、あんなにムチヤクチヤで、こんなにガンキヨウである。

きり〴〵すが鳴きだした、金亀虫カナブンが初めてやつてきた(地虫はすでに鳴いてゐたが)。

毎日、しづかなあまりにしづかな日がつゞく、こんなではいつカンシヤクがバクハツするかもわからない、用心々々。

疳癪は必ずしも騒がしい時うるさい場合にのみ起るものではない。

蟻が塩物に集まつてゐた、まことに辛いものにも蟻である(だつて甘いものなんかないではないかなどと、よ、逆襲することなかれ!)。

夕方、さびしいから、そこらをぶらつく、やつぱり慰まない、人間は人間の中人間には人間がおもしろい

几董、沼波、大魯の句を鑑賞する。

不眠、今夜はとても蚊が多い、二度も三度も蚊を焼いた、老いたるかな、山頭火!

今夜の夢は妙だつた、自動車がこんがらがつて、私もつきとばされたが。──

物を尊ぶ。──

貨幣にごまかさるゝなかれ。

金銀にまよふなかれ。

米を、酒を、水を、魚を味へ。

物そのものの味。──


 七月二日 晴──曇。


今朝は私も早く起きたが新聞の配達も早かつた。

落ちついて読書、其角、嵐雪鑑賞。

午後は裏山を逍遙する、心臓の弱さを痛感する。

小松二本、俳句二章を拾ふた。

すつかり夏日風景になつた。

岔水君から奥さんお手製の折紙を送つて来た、曰く鮹の道、曰くコン助、曰くピヱロ、これも庵中無聊を慰めてくれる。

夕方、Nさん来庵、閑談暫時、ほいなくそのまゝさよならをする。

句作の道は、生活の純化にある。

志すところは無我境逍遙である。


 七月三日 好晴。


眼が覚めるとすぐ起きた、火を焚きつけたり掃除したりしてゐるうちに明けてきた。

読書三昧。

其角の作はうまいとは思ふけれど、芭蕉の句のやうに身にせまり心をうつものがない、私は其角を好かない、去来を好く。

──みんないつしよに──草も木も虫も鳥も──朝の歌をうたはう。──

まことに好季節、私は夏を礼讃する、夏は貧乏人でも暮らしよい、年寄でも凌ぎよい。

──どうせ野ざらしの私であらうことは覚悟してゐる、せめて野の鳥や獣のやうに死にたいものである。──

菜園に肥料を与へたり害虫を殺したりする、何かと考へさせられることが多い。

──私のやうな人間が、涼風に臥してのんびりしてゐることは、ほんたうに勿躰ない、省みて慎しまなければならない私である。──

自堕落に身を持ちくづした私で、さういふ私だつたから、規律の尊さが身にしみてきたのであらう。

午後はそゞろあるき、ポストを口実にしてM店まで出かけて一杯二杯、ほんにサケノミはいやしい。

凝心はよい、時には放心もよい。

夢いろ〳〵、夢は覚えてゐてもすぐ忘れてしまふからうれしい。


 七月四日 曇つたり晴れたり。


曇ると梅雨はまだすまないと思ひ、晴れると梅雨はもうあがつたなと思ふ、──人間の気分のうごきは妙なものである。

閑寂をしみ〴〵味ふ。

菜園観賞。──

郵便が来ない、寂しいなあ。

ありつたけの米──三合ばかり──を炊く。

畑人よ、そんなに馬を叱るな。

山の方で鳶がしきりに鳴く、哀切な声だ。

一杯やりたいなと考へてゐるところへ、どうだらう、敬君来訪、いつしよに出かける、樹明不在、F屋で飲む、S君も仲間入、そこへまたどうだらう、樹明君加入、ビール、サイダー、酒、トマト、刺身、バナナ、ゲイシヤガール、アアソレナノニ、──それから、それから、それから、……十時頃ダツトサンで帰庵、敬君宿泊、ぐつすり睡れたが不快なものがあつた。


 七月五日 曇、時々雨。


二人とも朝飯なしでお茶をすする。

敬君は九時のバスで県庁へ、私は読書。

身心重苦しい、死なゝいから生きてゐる、──といつたやうな存在。

飯がない、米がない、袋を持つて、学校に樹明君を訪ね、米を貰つてくる、これで当分は安心。

甘草(カンゾウ?)が咲いてゐたので生ける、忘れ草といふ名は気に入つた、何もかもみんな忘れてしまへ。

暑い、蒸暑い、遠く雷鳴、いよ〳〵梅雨もあがるらしい。

無知の世界か、無恥の生活か。──

放下着、──善悪是非も利害得失も生死有無もいつさいがつさいみんないつしよに。──

菜園にて──

山頭火が猿葉虫を殺しつゝ、「外道め」

猿葉虫は殺されつゝ(叫ぶだらう!)「人間の奴め」

宇宙は生々流転する、──昨日の彼は明日の私だらう。

嵐雪の句はうまくて好きである。


 七月六日 曇。


明けるのを待ちかねて起きる、虫がしきりに鳴いてゐる、流転の相として一切を観ずる、万物は変化のあらはれである。

郵便は来たけれど、──失望。──

ポストへ、焼酎一合、豆腐二丁。

パイ一の世界はうれしい!

時知らず大根を播く、こんどはうまく大根になつてくれるやうに。

久しぶりに豆腐を味ふ。

蠅を打つにも、全心全力で打てば、めつたに打ちそこなうことはない。

みん〳〵蝉が鳴きだした、まだ短かくて下手だが私の好きな声だ。

寝苦しい。……

┌くよ〳〵せずに事を運べ。

└けち〳〵せずに物を尊べ。


 七月七日 曇──晴。


七夕祭、山口は賑ふだらう、湯田へ行きたいがバス代なし。

正法眼蔵拝読。

I家の人から馬鈴薯を貰ふ、私は薯類をあまり好かないけれど、それを下さる人情をありがたく頂戴する。

ハダカになりだした、世の中ハダカでよいわいな。

午後、油買ひに、いつものおぢいさんおばあさんの店で、焼酎一杯ひつかける、十二銭天国だ。

まことにこれやこの酒仏飯仏そして水仏

夜は芭蕉俳句鑑賞。

芭蕉はやつぱり偉大な詩人であつたと痛感する。

泥落し

 農村年中行事の一つとして


 七月八日 晴、時々驟雨。


夏の朝のよろしさ、みん〳〵蝉のよろしさ。

身辺整理、掃除したり洗濯したり。

昼も夜も漫読する。

午後、夕立らしく降る、雷鳴はげしく、二句おとしていつた。

街の風呂にはいつて欝魂を洗ふ。

暑い、暑い。

夕御飯はシヨウユウライス!

ほんに、ほんに、ぐつすりと寝た、近頃めづらしい熟睡だつた。

○魂の詩

○印象を離れないで印象を超えたるものの表現──暗示──象徴


 七月九日 曇、雨をり〳〵。


澄み徹る寂しさ。──

其中一人、まつたく無言。


 七月十日 曇、微雨。


鼠がやつてきたらしい、庵主自身食べるものは此頃は塩だけしか残つてゐないのに。……

塩を味ふ飯そのものの味

落ちついて読書。

北支那の形勢不穏、私は人知れず憂慮する。

桔梗がいちはやく一輪咲いた。

めづらしく裏山からホトトギスの声。

午後、ポストへ、ついでに入浴、ぢつとこらへてゐたがこらへきれなくなり、M店へまはつてちよいと一杯!

夜、Nさん来訪、くらがりで閑談しばらく。


 七月十一日 曇。


おもひだしたやうに時々ふる。

早起、日記をつけてゐるところへ、樹明君がさうらうとしてやつて来た、その素振があたりまへでない、また脱線沈没したのだらう、かなしくなる、しばらく寝たり起きたりしてゐたが、さうらうとして帰つていつた、さびしいな。

此頃は郵便も来ないのか!

プチブル奥さんの会話を聞くともなく聞く、──このごろは食べられないで困ります、食べい食べいといはれるんですけど、──私は考へる、──私は食べられて困る、なるたけ小食でありたいと思ふのに大食して困る、──どちらがほんたうか、どちらが幸福か。──

新聞を読んでゐると、自殺者心中者が多いのに胸をうたれる、生きてゐる生甲斐のある世の中でもないけれど、死んでしまへばそれまでだ。

午後、ポストへ、ついでにすこし散歩する、新町へまはつて、ちよつくら一杯!

あまり寂しくて、やりきれないので、澄太君と緑平老とへたよりを書く。

夜はしづかに寝た。

私の境涯は──

山頭火即俳句だ

俳句即山頭火とはうぬぼれていないが(それほど省察を忘れてはゐない)。


 七月十二日 雨、そして晴。


降つた降つた、漏つた漏つた。

今日も塩だけで。──

鬼百合を活ける。

午後は晴れた。

I店で米を借りる、M店で一杯。

とかく気持が虚無的になる虚無に徹するより外はあるまい

┌自然    ┌人間

└人生    └虫

  ┌象徴的把握┐

印象│     │生活感情

  └写実的表現┘


 七月十三日 晴──曇。


朝の光──蛙の合唱、蝉の歌、きり〴〵すのうた。

盆が来た、とてもさびしい盆である。

衆生の恩を思ふ、それを忘れさへしなければ堕落し切ることはない。

裏山逍遙。

ほどよい枯竹が見つかつたので火吹竹をこしらへる、ずゐぶん現代ばなれの所作だ。

夜は芭蕉再鑑賞。

寝苦しかつた、いつまでも睡れなかつた。

飯と塩、それだけで今日も暮らした。


 七月十四日 曇、時々降る。


何よりも早く起きた、そして。──

朝は正法眼蔵拝読。

さびしいな、こらへきれないで出かける、Mで酒を、Kで煙草を借りて戻る、ありがたい。

言はむすべ為むすべ知らに極りて貴きものは酒にし有るらし(大伴旅人)

今日、読んだものの中で、この歌に心をひかれた。

初めてうちの胡瓜を食べる、うまかつた、うれしかつた。

先日から塩飯を食べつゞけてゐるので(時々般若湯を飲むけれど)、身清浄心寂静を感じる。

北支の形勢はいよ〳〵切迫した、それは日本人として大陸進出の一動向である、日本の必然だ、それに対して抵抗邀撃するのは支那の必然だ、ここに必然と必然との闘争が展開される、勝つても負けてもまた必然当然であれ。

夕方、Iさん来庵、四方山話をする。

草刈さんに家のまはりの草──通行を妨げる──その草を刈つて貰ふ。

夜は寒山詩を読む、彼の信念はよく解る、共鳴するけれど、彼の独善的態度には賛じがたい、私は彼の詩のやうな句は作りたくない。

今夜も寝苦しかつた、老情でもあらう!


 七月十五日 雨、曇、晴。


暗いうちに起きて、何やかやしてゐるうちにやうやく明るくなつた。──

たうとう塩もなくなつた! まさに今年無錐其地だ!

藪蚊には困る、私一人にあつまつて私を落ちつかせない、あゝ藪蚊藪蚊、藪蚊をキズにして何両!

午後、湯屋へ、そこでしばらくの生をたのしむ。

敬君来庵、樹明君徃訪、……酒、酒、酒、……それから、それから、それからだつた、──それで、よろしい、よろしい、よろしい。

空観──

実相無相、生死去来真実相。


 七月十六日 曇。


早起、けさはにぎやかだ、樹明君敬君が泊つてゐる、飲みつかれ歩きつかれて死んだやうに寝てゐる。

樹明君は早朝出勤、敬君はゆつくりして帰宅。

私は街へ、一杯また一杯ひつかける。

理髪入浴、みんなマイナスだ。

どうも飲み足らない、といふよりも、昨夜からの酒が身内に滞つて欝結してゐる、また街へ出かけて飲み歩く、幸か不幸かT君に逢ふ、いつしよに飲む、とうたう酔ひつぶれてしまつた、それでも戻ることは戻つた、いつ、どうして戻つたかは覚えないが!

近来めづらしいヘベレケぶりであつた。

綜合単純化

虚心


 七月十七日 曇。


昨日の今日である、終日独坐無言行。

豚小屋の豚のいやしさ、切手を飲みあるくだらしなさ。

初茄子(私には)二つ三銭、あまりうまくなかつた。

熟睡はうれしかつた。


 七月十八日 曇。


草庵無事。

寒山詩鑑賞、多少の反感をそゝられる、それは私の偏見だらうか。


 七月十九日 晴。


朝風のすが〳〵しさよ。

花月草紙を読む、常識読本とでもいはうか。

物事すべてつゝましく生きること

熊蝉が、むかうの方で、ちよいと鳴いた、今夏最初の声である。

午後──学校へ──米屋へ──酒屋へ。

米はありがたく酒はうまし、私の目下の慾望はどうかして、米一斗酒一斗備へたいことである、その願求がなか〳〵実現されない、そこがかへつてよいところだらう。

物価騰貴──日用品が高くなるのは私にもこたえることである。

北支風雲ます〳〵急、これも私にこたえる。

このスランプを救ふものは旅の外にはない、とも考へる、夏のをはりからまた四国へでも渡らう。

アルコール二十銭のおかげで、ぐつすりと寝た。

地獄極楽、それが人生だ。


 七月廿日 また曇る、晴れさうにもある。


土用入。

けさは朝寝だつた、起きて間もなく六時のサイレンが鳴つた。

新聞が来た、郵便が来た、さてそれから。──

熊蝉が鳴く、真夏の歌だ、油蝉も鳴きだした、それは残暑の声だらう。

胡瓜の花は好きな花だ。

夾竹桃はうつくしい、花も葉も、あまり好きではないが。

めづらしく裏山で蜩が鳴く、かな〳〵かな〳〵好きなうたである、かつこうが好きなやうに。

夕飯を食べたところへ谷川君来庵、お土産として酒魚ありがたし。

酔はない私は酔へる彼を見送ることが出来た、彼を通して、私は私の片影を観た!

しばらく滞在してゐた鼠も愛想を尽かして去つたらしい。

晴れて良い月夜になつた。


 七月廿一日 晴。


正法眼蔵拝読。

胃のぐあいが何となくよろしくない、やつぱり飲みすぎだつた。

今日はかなり暑かつた、いよ〳〵本格的な夏だ。

午後、樹明君来庵、つゞいて暮羊君も、──酒すこし、トマトがうまかつた、雑談してめでたく解散、あつぱれ〳〵!

逍遙遊


 七月廿二日 晴。


熟睡の朝のよろしさ、夏のよろしさ。

柿の葉後記を書きあげて澄太君に送る、これで当面の要件が一つ片づいた、まだ二つ残つてゐる、──屋根修繕と揮毫。

蚊にも蜘蛛にも困るが、蟻にも困る、蠅には困らない、ほとんどゐないから、ことしは油虫が少ないので助かつてゐる。

ちよつとポストまで、汗びつしよりになつた、庵は涼しい、極楽々々。

陰暦六月十五日、とても良い月だつた、放哉の句をおもひだした。

こんなよい月をひとり見て寝る


 七月廿三日 晴。


妙な夢見がつゞく、身心がみだれてゐることを知る。

夏は夏らしく私は私らしく

身辺整理、──洗濯、裁縫、等々。

徒然草鑑賞、兼好法師は楽翁よりも段ちがひの文人だ。

午後、寝ころんで読書してゐるところへ電報来、後藤さんが帰省の途次立寄るといふ、六時の汽車で来て下さつた君を駅に迎へてうれしかつた、同道して一応帰庵、それからまた同道して山口へ行く、途中湯田で一浴、一杯ひつかけさせて貰ふ、そして周二君を訪ねる、三人で街を歩いて、蕎麦とビールとの御馳走になり別れて戻つた。

『二人寝る夜ぞたのもしき』といつた風に寝た。


 七月廿四日 曇──晴、また曇つて時々雨。


三時頃目が覚めて四時過ぎ起床。

後藤さんは早朝出立、ほんたうにすまなかつた、いつもこれほどではないのに、こんどばかりは文字通りに何のおかまひも出来なかつた、ほんたうにすまなかつた、いろいろお世話になつた、ありがたかつた。

今日も徒然草鑑賞、うまい、おもしろい。

後藤さんから句集代の前金を貰つたので、街へ出かける。

醤油四合──十六銭

焼酎一合──十二銭

豆腐二丁──六銭

ハガキ十枚──二十銭

 その他──

感謝々々、湯田温泉へ行きたいな(昨夜、ちよつと一ヶ月ぶりで行つたことは行つたけれど)。

うたゝ寝から覚めると、どこかでレコードがうたつてゐる、何といふあはれつぽい唄だらう、ぢつとして聞いてゐられないので、そこらを歩きまはる、さみしいなあ!

今日は小郡の管絃祭、誰もが仕掛花火見物に出かけるらしい、私はひとり蚊帳の中に寝ころんで、打揚花火を見たり月を眺めたりした。……

蒸暑い晩だつたが、ぐつすりと寝た。


 七月廿五日 曇。


雨風となつた。──

Kから来信、ポストへ出かける。

街で、払へるだけ払ひ、買へるだけ買つた、そして飲めるだけ飲んだ!(といつたところで、解つたものだ、コツプ酒の十杯も飲んだらうか)

湯田へ、──たうとう散歩がそこまで延びた、いつものS屋に泊つた。

そこで、不愉快な事件にぶつかつた、私は酔うてゐたけれど、ぐつとこらへた、人間はあさましいものだと思つた、彼も私も誰も。


 七月廿六日 雨──曇。


酒でごまかして一日をすごした。

酔うて戻つた。……


 七月廿七日 降つたり、曇つたり。


身心不調、身動きも出来ないほど疲労してゐる。


 七月廿八日 雨──曇。


すべて隠遁的に。──

孤独と沈黙との生活にかへれ


 七月廿九日 曇。


沈欝たへがたし。

四日ぶりに出かける、そしてW屋で一杯ひつかける。

北支の風雲がたうとう爆発した、悲痛であるが、詮方のない事実である。

現実的現実に直面せよ


 七月三十日 雨。


毎日毎夜、万歳々々の声がきこえる、出征将士を見送る声である、その声が私の身心にしみとほる。

夕方、あまりさびしいので、暮羊君を訪ねる、ビールと水密桃の御馳走になる、感謝々々、おかげで、よい睡眠をめぐまれた。


 七月三十一日 晴。


どうやら晴れさうな、人も樹木もよろこびうごく。

貧乏はつらいかな、銭がないために、人間はどんなに悩み苦しむことか。──

この寂しさはどうしたのだらう!

塩と胡瓜とを味ふ、塩はありがたい、それをこしらへてくれる人に感謝する、胡瓜はうまい、それを惜しみなくめぐんでくれる自然に感謝する。

モウパツサン短篇集を読む、モウパツサンはわるくないと思ふ、チヱーホフほど親しくは感じないけれど。

先月はあれほど緊縮して暮らした、今月もこれほどつましく生活費を切り詰めた、しかし赤字つゞきである(もつともちよい〳〵一杯ひつかけるから、それが浪費といへばいへるけれど、私にあつては、酒は米につぐ生活必需品である!)。

かうして生きてゐてどうなるのか、どうすればよいのか、今更のやうに、自分の無能無力が悲しかつた、腹立たしい。

乞食になりきれない弱さ、働いて食べる意力のないみじめさ。

改めて書き遺すこと


丈草

性くるしみ学ぶ事を好まず、感ありて吟じ

人ありて談じ、常はこの事打わすれたる如し。

(去来、丈草誄)

春雨やぬけ出た儘の夜着の穴

大原や蝶の出て舞ふ朧月

鶯や茶の木畠の朝月夜

白雨に走り下るや竹の蟻

 時鳥啼くや湖水のささ濁り

 行秋や梢にかかる鉋屑

・蜻蛉の来ては蠅とる笠の中(旅中)

・虫の音の中に咳き出す寝覚かな

 幾人か時雨かけぬく瀬田の橋

 ほこ〳〵と朝日さしこむ火燵かな

 水底の岩に落つく木の葉かな

・物かけて寝よとや裾のきり〴〵す

 連のある処へ掃くぞ蟋蟀

・淋しさの底ぬけて降る霙哉

 交は紙衣のきれを譲りけり(貧交)

    はせを翁の病床に侍りて

 うづくまる薬の下の寒さかな

・朝霜や茶湯の後のくすり鍋(無名庵)

    宗長、三井寺にて

 夕月夜うみ少しある木の間かな

  俳諧勧進帳     奉加乞食路通

 いね〳〵と人にいはれつ年の暮

 草臥て烏行くなり雪ぐもり

 草枕虻を押へて寝覚めけり

 ┌五句三十一音、短歌形式(五七五七七)     ┌奇数形式

短│三句十七音、俳句形式 (五七五)       │ うたはぬ形式

形│四句二十六音、俗謡形式(七五七五─七七七五) └偶数形式

式│       今様─               うたふ形式

 └六句三十八音、旋頭歌形式(五七七─五七七)

長┌小長歌(七句から十五句)

歌│中長歌(十六句から五十句)

 └大長歌(五十一句以上)

     ┌抒情詩

 ┌主観詩┤   │

詩│   └思想詩│

歌│       ├叙景的抒情詩

 │   ┌叙事詩│

 └客観詩┤   │

     └叙景詩

底本:「山頭火全集 第八巻」春陽堂書店

   1987(昭和62)年725日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2009年1021日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。