北京の一夜
田山録弥
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突然私は犬の凄じく吼える声が夜の空気を劈いてきこえて来るのを耳にした。私にはすぐわかつた。それは平塚領事夫妻の伴れて来てゐた犬に相違なかつた。あの長平丸の一等船室の下のところで、箱の中に入れられて、頻りにさびしがつて吼えてゐたあの大きなドイツ種の犬に……。
私は微笑した。矢張此処に来て泊つてゐるな! と思つた。つゞいて私の心はさうして遠くに行く夫妻のことでまた暫し満たされた。愈々小説的シインになつて行くやうな気がした。犬は頻りに吼えた。かなりに更けてゐる夜の空気を震はすばかりにして吼えた。
私は電気のぽつつりついてゐる卓の前の椅子にひとり淋しく腰をかけてじつとしてゐた。心をあつめるやうにじつと一ところを見詰めてゐた。旅情が脈々として起つて来た。今まで曾て味はつたことのない外国人としての寂寥がひしと私の胸を襲つて来た。
私の傍にベツドがあつて、その此方には、腰をかけると好い心持に凹むクツシヨンの大きい低い椅子が置かれてあつた。右の壁に寄せては、斜になつた卓の上に、インキ壺だの、ペンだの、硯箱だの、電報用紙や旅舎の名の入れてある用箋などの入れてある四角な竹細工の箱だの、小さな支那式の幅ツ広い算盤だのが置かれてあつて、その側に、私の手さげの鞄が風呂敷包と一緒にさびしく調和せずに置かれてあるのを私は目にした。そしてそれ等のものゝ上には夜の静けさが──夜の空気を透して落ちて来る電気の光線の静けさが遍ねく行きわたつてゐるのを見た。私は何とも言はれない気がした。
犬は猶頻りに吼えた。
戸外では矢張蒙古風が吹荒れてゐるらしく、をり〳〵屋角を掠めて行く気勢が、硝子窓を、硝子窓に垂れ下つたカアテンを隔てゝ微にきこえた。
私は今北京にゐる。世界の謎の都会北京にゐる。かう思つただけでも私の心は好奇心に、または寂しさに震えた。津浦線の事件だの、京漢線の汽車にすら乗ることを危ぶんでゐた人達のことだのが、またしても私の頭を遶り出した。『困つたなア、大丈夫でせうかなア! 誰だつて命は惜いですからな! 山寨に幾日も捕虜になつてゐるやうな目にも逢ひたくないからな!』かうその人達が真剣に言つてゐたことが思ひ出された。
それからそれへと際限のない空想に耽つてゐたが、いくらそんなこと考へたつて為方がない、寝ようと思つて、そのまゝベツドの中にもぐり込んだ。幸ひに私は疲れてゐた。私はすぐぐつすりと眠つた。
底本:「定本 花袋全集 第二十七巻」臨川書店
1995(平成7)年7月10日発行
底本の親本:「海をこえて」博文館
1927(昭和2)年11月25日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:岡村和彦
2020年3月28日作成
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