スケツチ
田山録弥
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何うも大袈裟の議論が多い。やれ国民的自覚とか、国民的同化とか、読んで見れば一応は筋道はわかつてゐるが、要するに筋で、肉でない。内容は頗る貧弱で、抽象的の断定ばかり下してゐる。かういふ抽象論は、明治以来何遍文壇に繰返されたか知れないけれど、遂に遂にある風潮を捲き起す為めに役に立つことはない。
何故さうかと言ふに、根本でないからである。或は外国の模倣か、でなければ世間並の雷同か、でなければ単なる智識を基礎としてゐる議論であるからである。小説でも同じであるが、筋なんかいくら立派でも仕方がない。我々はその細かい内容と肉とをこそ貴べ、誇大的な筋などは何とも思つてゐない。
処が筋はわかるが、この肉の内容は、容易に具象的に人間にわかるものではない。単なる智識──読書や学問から得た智識だけでは、到底わからない。訳はわかつても、細かい理解が出来ない。そしてまたこの理解が、年齢により経験によつて無限に度数のあるものである。三十歳の人の自覚と五十歳の人の自覚とでは、非常に相違があるのである。
小説、評論に限らず、何んな学問でも、この肉が必要なのだ。細かに入つて行つた気分と事実とが必要なのだ。それが旨く描いてさへあれば、人はそこから口これを言ふ能はず筆これを記す能はざる新しい気分と事実とを享け入れることが出来るのである。
小説も評論も零細煩瑣に堕したといふ非難の声があるが、その非難の声が却つてこの筋を主張し、抽象論を主張する傾向があるのは、私は賛成することが出来ない。
小説が零細、煩瑣になつた事実は、私もそれを認める。しかしそれは、その内容即ち肉に深く入つて行かうとして、たま〳〵それが他にそれて行つたのであつて筋論や抽象論よりは、まだしも増しだと言はなければならない。
筋論者、抽象論者は、その論をするに先つて、先づ実際の人間の生活に触れて見るが好い。また、それほど大きな自信があるならば、乞ふ隗より始めよで、忠実にドシドシやつて行つて見るが好い。唯、大刀を振かざしたゞけでは、何の役にも立たない。
社会と個人の関係などに就いても、大分真面目に議論をしてゐた人があつた。しかしそれでもまだ学問や読書から来た単なる智識で物を言つてゐるやうなところが大変にあつた。社会と個人との問題を解釈するに当つて、社会学だとか心理学だとか云ふものは役には立たないとは言はないが、それは個人の経験と心理とにぴたりと合つた時にばかり役立つので、古来の無数の智識の単なる堆積だけでは、到底徹底した考を持つことは出来ないものである。
例を言つて見ると、宗教は古来大慈大悲を理想としてゐるといふ。又、博愛慈善を提唱するをそのつとめとしてゐるといふ。これは昔から幾多の大聖が皆な言つてゐることであつて、終局はそれに相違ないのかも知れないが、まだそれに達しないものがそれを言ふのは、所謂形式に捉へられたもので、本当の生活といふ意味から言ふと、甚だ物足らない。本当に大慈大悲の心願が起らない中に、宗教はかうしたものだと言つてきめて了ふのは、宗教のために、個人が蔽はれて了つた形で、個人から本当に出て行つたまことの考であるといふことは出来ない。個人は飽までも自己の心理のまことを基礎にして進んで行かなければならない。
社会と個人の問題なども、非常に議論が多く、且また難問題ではあるが、個人を本として、それから実際に社会に触れて、具象的材料を沢山にゝぎつて、そして自分でそれを自分の坩堝に入れて、そして考へて見たのでなければ、徹底した考を何うしても持つことが出来ない。
私の考では、日本人はまだ個といふものゝ価値と資格とを本当に知つてゐない。自分の根本を知ることが足りない。日本人はもつと自分々々を深く掘つて見なければならない。社会問題とか、家庭問題とか、其他種々の問題に頭を突込む先に、自己に関する根本をもつと〳〵深く掘つて見なければならないのである。一体、日本は昔からさういふ点に於ての教育が欠けてゐる。日本人は社会といふものや国家といふものに余りに多く捉へられすぎてゐる国民である。それも、根本に一度入つてそして出て来たのなら、格別だが、何うも自覚的に一度根本に入つて行つたとは思はれない。
日本人はよく妥協をする。そしてまたよく謙遜の徳をたゝえる。社交的にも円満を期することを以て其の能事としてゐる。あるところまでは行くが、それから先──つまり自分の身が危くなるといふところまでは決して進んで行かない。さうかと言つて、退いて自己の発展を他日に期するといふやうな智もない。要するに好加減に世間を渡つてゐる人が多い。だから其証拠には、自殺者などゝいふものも、唯困るから死ぬので、思想的に根本的に自殺するやうな人が少ない。従つてロシヤやドイツや、フランスのやうな生々とした青年も大人も見ることが出来ない。
これといふのも、教育の方法が間違つてゐるからである。私の知つてゐる限りでは、日本の教育は妥協的、第三者的、相談的であつて、個人的根本的でない。小学校の教科書を見れば、それが一番よくわかるが、それは多くは文部省の人達が寄り集つて、かういふことはいけない、あゝいふことはいけないと言ふ風に、つまらないことにつまらない頭脳をなやまして、此処を削り彼処を削つて、出殻のソツプのやうにして了つたものを小学生徒に読ませてゐる。従つて中に書いてある事実も、極く表面の上つ面の事実で、深いことは少しも書いてない。ロシヤの読本や、ドイツの読本などに比べて見ると、この教育方法のいかに妥協的で表面的であるかといふことがわかる。
従つて社会問題なども根本的でない。烈しくない。強くない。真剣でない。個人が社会はと言ふやうな深いところまで入つて行つてゐない。活気がないのも止むを得ないことである。
箇の研究は、全の研究であるといふことを忘れてはならない。
自己を外にして、真の人間の研究が何うして出来るか。自己が経験したことでなければ、他人のいかなる悲劇も本当に理解が出来ない。子を失つた者でなければ、子を失つたものゝ悲しみは本当に知ることが出来ない。男女の悲しい辛い心理を味つたものでなければ、他人の男女の細かい話は、聞いても筋しかわからない。自己の拡大は、是に於て他の拡大であるといふことをつく〴〵感ぜずには居られない。
客観的要素の多い詩人は、広くはなるが、深くはならないのもそのためである。主観的詩人の作品が人の肺腑に触れ易いのもまたそのためである。
『自然主義の誤りを正す』といふ論の「六」か「七」かを一回読んだ。そしてかういふことを考へた。N君なども漸く自然主義といふことについて本当に考へ始めたなと思つた。それほど自然主義は世間から誤解されてゐたのであつた。
誰がフロオベルを平面的、単なる描写的と言つたものがあるか。また誰が『ボヷリー夫人』を単に幻滅といふ風に見たものがあるか。平面的描写と言ふことは、フロオベルやゾラなどの描写からもつと先に出やうとした運動であつたのだ。自然主義の作家の中では、中でもゴンクウルが一番進んでゐて、その書き方見方が平面らしい趣を持つてゐた。それはドイツの徹底自然主義がゴンクウルあたりに影響された形を見てもわかるのである。
また、フロオベルの虚無とか幻滅とか言ふことは、フロオベルの持つた全体の思想から言ふのであつて、ブルウジクエも曾てこれを論じてゐたし、メレジコウスキーもこれを論じてゐた。『シンプル・ハート』の中に流れた愛といふことをN君は言つてゐたが、その時分には、フロオベルや『ボヷリー夫人』や『感情教育』を書いた時から見ると、ぐつと宗教に面したやうな心持になつて来てゐたのである。それでもまた虚無のところが非常にある。
『ボヷリー夫人』にあらはれた無遠慮な解剖『感情教育』の全編に漲つた退屈な気分、さういふものをN君は見落してはならない。
それから、『ボヷリー夫人』は、其時代、作者の生きてゐた時代の人々を書いたものであると言つてゐるが、あれなどは当り前のことで、今更言ふほどのこともない位のものだ。
次に、私はかういふことを考へた。『ボヷリー夫人』はフロオベルは後には見るのもイヤだと言つてゐたさうだが、成ほどあの作には、四十以前の若い無遠慮な気分が流れてゐて、問題にしなくつても好ささうなものも非常に問題にしてゐるやうな処があつた。『シンプル・ハート』を書く時分になつて、さういふ風に作者が考へたのも尤もだと点頭かれた。
何うも人は小説を書くにしても、議論を書くにしても、主観に捉はれすぎて困る。
ロマン・ロオランの評伝なども、生々とはしてゐるが、一面そこが価値だと言ふ人があるかも知れないが、何うも余りに多く自分に引つけすぎてゐはしないか。あのトルストイの評伝を読んで見ても、あれはロマン・ロオラン自身の評伝で、トルストイはもつと別な人ではないかといふやうな気がする。あまりに解釈にすぎたやうな気がする。
しかし又一方から言ふと、それがあの評伝の生々とした価値のあるところで、一概に捨てゝ了ふわけには行かないが、もう少し客観的手法が多くつて好いと私は思つた。つまり主観に偏りすぎたのである。
無論、自分が言ふのだから、それで好いのに違ひない。しかし折角書いたものが、当人にあまり似て居ないと言はれるのは、作者に取つて、心地の好いものではない。ぴたりと合ふところまで作者は努力して見なければならない。
これに限らず、私は、主客のバランスの旨く取れてゐない作品乃至評論の多いのを今の文壇に見る。自分を現はさうとするのは好いが、自分の主観に捉へられたのは余り褒めたことではない。
運命と言ふものは、箇々並存の境に至つて、始めて本当の意味をつけて来る。運命が運命でなくなる。運命だなどゝ言つてゐられなくなる。
運命は運の好いとかわるいと言ふことでなくなつて来る、従つて、真の自由がそこから始まる。運命などゝいふことを考へてゐる中は、まだ人間は本当に押詰められてゐないのである。本当に人間といふものに触れてゐないのである。好いことをすれば、好い運命が来る。わるいことをすればわるい運命が来る。この好いわるいに捉へられてゐるのである。
箇々並存の境は、さういふ境ではない。好いとかわるいとか言ふ境ではない。要するに唯するのである。未来永刧、唯するのである。そして並び存してゐるのである。我は我が為さんとすることを為しさへすれば、それで足りるのである。
私はある人に言つた。それは窮地にすつかり押詰められて右にも左にも行くことの出来ないやうな人であつた。『しかし君かういふことだけは確かだ。君も人間だ。個人だ。他人は何と言はうが、世間は何と言はうが、君は君のライフを完成しなければならない。自分の為なければならないことを為なければならない。それを君はしたか。しない? それだからいけないのだ。それだから苦しくなるのだ。それだから自己がなくなつたやうな気がするのだ。運命が気になり出すのだ。傍目もふらずに、驀直に進むより外仕方がない』
そしてこの箇々並存の世界は、無論善悪を超脱してゐる。好いからする、わるいからしないといふ境ではない。又得だからする、損だからしないといふ境でもない。自己のしたいと思ひ、すべきと信じたことは、何でもやつて行くことが出来る。そしてその全責任を自分で帯びることが出来る。
人の一生の中で、最も恐ろしいのは、疲労と退屈とだ。いくら張り詰めてゐても、疲労と退屈とは、屹度襲つて来る。隙さへあれば襲つて来る。そして人はこれに捉られると、必ず何等かの形で自由を失ひ、且つ他から圧迫される形になる。享楽は疲労から起つて来る一種の状態である。
それからまたこの疲労と言ふものが、矢張自然の法則に従つて、リズムを刻んで我々に迫つて来るやうな気がする。私の思想上の変遷などを飜へつて考へて見ても矢張さういふ風であつた。
そして張詰めてゐる心には、一層強くこの疲労と退屈とが襲つて来る。
四十にして惑はず、五十にして天命を知る。かう孔聖は言つたが、今にして始めてその言葉の意味の深いのを知つた。惑はずといふことは、自己の根本の設立である。世間で言ふ底をぬいて了ふことである。何も彼も大抵はわかつて、恐るゝところがない。悔ゆるところがない。かういふ心持である。
天命を知るは、生死を知ることである。自他の間には問題が残らなくなつて、その上に自然の法則の確乎として動いてゐる形を知ることである。
此間ちよつと信濃の富士見に遊んだ。かねて噂にはきいてゐたが、成ほど好いところだ。日本でも、かうしたひろい雄大な高原の眺望は、越後の赤倉と此処とより他にないと思ふ。
そこでは、小川平吉氏の別荘のあるあたりが殊に好い。八ヶ岳を左に、駒ヶ岳を右に、富士をその真中に見た眺望は、忘やうとしても忘れられない。
汽車で通ると、日野春の停車場が好いだけで、小淵沢も、富士見も、さう大して目をひかないが、一度、富士見の停車場の向ふの丘陵の上に立つて、こんなところがあつたかと思はれるやうな広い眺望がその前に展開された。
丘の上には、測候所があつた。
それに、富士見といふ村の名のもとにあるところ〴〵の村落は、いかにも山村らしい感じを持つてゐて好かつた。気風もまた淳樸であつた。
私は一夜を小川氏の帰去来荘にすごした。硝子戸を四面にはめた明るい好い別荘で、藪の中には、赤い山躑躅などが咲いてゐた。杜宇が人を掠めるやうにして鳴いた。
蕨、山独活、もつと早ければ、たらの芽などもあるといふことであつた。秋は、到る処の松林に初茸が出た。
赤倉に比較すると、温泉はかれにあつて、山はこれかれに勝ること数等である。俗塵にもまた遠く離れてゐた。
山村の人達はよく働いた。手を束ねて遊んでゐるやうな青年は何処にも見出されなかつた。私の行つた頃は、丁度田に肥料を入れる山の草の刈込で忙しかつた。人達は一家を挙げて、朝早くから、馬をつれて、遠い山へと出かけた。子供は馬の背にくゝりつけて行つた。
質素な単純な生活が私を喜ばせた。かういふ山に住んだ人達は、野性の植物や畠のものなどを食物にして、生魚や肉類などは食はうともしなかつた。富んだ人達も多くは働いて暮した。
金も持たずに坐食してぴらしやらしてゐる都会の人達の生活に比べて、何といふ自由な、暢気な、活動に富んだ本当の生活であつたであらうか、私は一夜を村の青年の家にすごした。
甲府の盆地、それと接して郡内の地方、実に暑いところだと私は思つた。甲府は盛暑は東京よりも暑いときいたが、実際である。中でも桂川の沿岸は殊に暑かつた。
上諏訪にもちよつと行つて見た。此処も矢張暑かつた。甲府に比べれば、それでも凉しいだらうけれど、湖水のある山の上とは何うしても思はれなかつた。そこでは、私達は、湖に面した二階の一間で、若い人達を相手に、凉しい風に吹かれながら、三時間ほど寝ころんで遊んだ。町に面した方は、湖は浅くつて碧の色が鮮でなかつた。
桂川の谷では、到る処で鮎が取れた。与瀬、上野原、猿橋、大月、暑いけれども、ちよつと下りて見たいやうな気もした。
タゴールの来朝は、ちよつとめづらしい。しかし、その歓迎者に、文学者小説家が一人も入つてゐないのは不思議なやうな気がした。実際、タゴールの詩なり哲学なり脚本なりを読んでゐる階級──比較的タゴールを理解してゐる階級の人々が一人もその中に入つてゐないのも面白い現象だ。タゴールも多少呆気に取られたであらうと思ふ。
タゴールの大学での演説は、新聞で見たのだから、はつきりしたことは言へないが、あまりにすぐれた説もなかつたやうに思ふ。日本に対して言つたことも、ちとお座なりすぎてゐる。かうした抽象的の演説よりも、もつと独創的のことを言つて欲しかつた。亜細亜人の使命などゝ言ふことよりも、もつと深い根本的のことが聞き度かつた。
底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
1918(大正7)年11月5日刊行
初出:「太陽 第二十二巻第九号」
1916(大正5)年6月28日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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