アカシヤの花
田山録弥
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一
たしか長春ホテルであつたと思ふ。私はその女の話をBから聞いた。しかし、それはその女を主としての話ではなしに、その長春の事務所長をしてゐるS氏の話が出た時に、Bは画家らしいのんきな調子で、莞爾と笑ひながら言つたのであつた。「君、Sさんは、あゝいふ風に堅い顔をしてゐるけれどもね。あれで中々隅に置けないんですよ」
「さうかね?」かう言つた私には、五十近い、それでゐて非常に若くつくつてゐる、頭髪を綺麗にわけたS氏の顔が浮んだ。
「つい、此間まで、大連の本社で庶務課長をしてゐたんだがね?」
「庶務課長! Sさんが──? それぢや、今、Y氏がやつてゐる役だね?」
「さうだ。あ、君もあそこに行つて見ましたね。S氏はあそこについ半年ほど前までゐたんですよ。そのあとに、今のY氏が行つたんですよ」
「庶務課長から此処の事務所長では、左遷ですね?」
「まア、さういふわけですね。S氏も好い人ですけれどもね。それは親切で、趣味が深くつて、絵のこともわかるし、僕などには非常にいゝ人なんですけれどね──」Bは少し途切れて、「それ、君、庶務課に行くと、あの室の隅にタイピストがあるでせう?」
「え……」
「あの今ゐる女ぢやないですけれどもね。Sさんは、そのタイピストを可愛がつてね。たうとう孕ませて了つたもんですからね?」
「ふむ?」と私はいくらか眼を睜るやうにして、「あゝいふところにもさういふことがあるのかね? ふむ? 面白いね? つまり、さうすると、今ゐる女の前にゐた女をやつたわけですね?」
「さうですよ」
「さうかな……。さういふことが沢山あるんですかね?」
かう言つた私の眼には、その大きな石造の建物の中の一室──卓を二脚も三脚も並べた、電話の絶えず聞えて来る、クツシヨンの椅子の置いてある、その向うに後姿を見せてタイピストがカチカチやつてゐる一室のさまがはつきりと浮んだ。
「それで何うしたね? 今では囲つてでもあるのかね」
「いや、本社から此方に来る時、すつかり解決をつけて来たらしいね。何でも、もう女も子供を産んだとか言つた──」
「よく早く解決が出来たね?」
「だつて、困るからなア──」Bは笑つて、
「そこに行くと、あゝいふ人達は、金があるから、何うにでもなる……」
「さうかな──」
私はじつと考へに沈んだ。思ひがけない人生の一事実といふことではなかつたけれども、一種不思議な心持を私は感じた。「ふむ!」と言つて私はまた頭を振つた。
「それでその女は別品かね?」
「ちよつと色が白いだけですよ」かう言つてBは笑つた。
二
それだけでそのことはすつかり忘れてゐた。
私とBとはハルピンに行き、蒙古に行き、吉林に行き、それから引返してもう一度大連へと戻つて来たが、そこに三四日ゐて、今度は本社の人達にも別れを告げて、朝鮮から帰国の途に就かうとしてゐた。Bも安東まで送つて行かうと言つて、一緒に夜の十時の汽車に乗らうとした。
直行なら六時のもあつたのであるけれども、熊岳城の温泉を素通りにするのは惜しいので、一度そこで下りやうと言ふので、それでわざわざその汽車を選んだのであるが、割合に混雑してゐて、プラツトフオムは乗客やら見送人やらで一杯になつてゐた。「いやに込むぢやないか? 誰か大官でも立つのかね?」見送に来て呉れた本社の人達もそんなことを言つてゐたが、ふと私は私の前に夜目にもそれとわかるほど白粉をつけて盛装してゐる大きな丸髷の美しい女を見た。一緒に伴れ立つた背の高い背広の外套の男は、ソフトをかぶつて、大きな鞄などを持つてゐた。
突然、Bは小声で私に囁いた。
「来てるよ、君……」
「え?」
何が来てゐるのか私にはさつぱりわからなかつた。
「え──……?」
私は繰返して問うた。
Bは今度は私の耳に口を寄せて、向うを顎で指すやうにして、「そら? いつか言つた? Sさんの?」
「あ、さう──?」多分その女……そのS氏の子供を生んだ女だらうとは思つたが、大丸髷に結つてゐる上に、傍に伴れの男がゐるので、いくらか腑に落ちないやうな気分を私は持つた。汽車はまだそこにはやつて来てゐなかつた。電灯の光の微かにさしわたつてゐるプラツトフオムのところには、大勢の人達が混雑して、その他にも二人づれの男女達が三組も四組もあつた。「この汽車は温泉行きには便利だからね。何うしてもペエアが多いね?」こんなことを見送つて来た本社の社員のひとりが言つた。やがて明るい電灯に車内を照させた汽車が静かにレエルを滑るやうにして入つて来た。
皆なが先を争つて乗つた。
私達も座席を取るため、旅鞄を持込むために慌てたりして、暫しはそのことを忘れてゐたが、ふと気が附くと、Bはその女の背の高い男と何となくそぐはないやうな変なギコチない挨拶をしてゐた。暫くしてから、私達は食堂へと行つた。
「驚いた! 驚いた! えらいことがあるもんだな?」
Bは卓につくといきなり言つた。
「何うしたんだ!」
「あの女があいつの嚊になるとは思はなかつたな?」
「あれが、それ、S氏の子供を生んだ女だツて言ふんだらう?」
「さうです──」Bは哄笑して、「あは、は、思ひがけないことがあるもんだな? 新婚旅行ですよ。我々と一緒に熊岳城で下りるんですぜ!」
「君は知つてゐるのかえ? あの男を?」
「知つてゐますとも──あれは君、僕等と同じく刷毛や絵具を弄る奴ですよ」
「へえ?」私は驚いたが、「だつて、本社には君だけぢやないんですか、刷毛を持つものは?」
「あれは、君、旅客課の慰藉掛と言つてね、満洲に来て働いてゐる若い青年達に画を教へるために、本社から嘱託されてゐる男なんですよ。……僕等は別に交際もしてゐないから、詳しいことは知りませんけれどもね、何でも、つい一月ほど前に、細君が情夫と遁げて、先生、えらく失望してゐるといふ話でしたよ。それが何うでせう? もうちやんとあゝいふ風に出来上つたんですからな。君、世の中は、何も心配することはないといふ気がしますね?」
「大いに祝すべしぢやないか? 君、二人とも新しい生活に入つたんだもの…………」
「それはさうですよ」
Bはまた哄笑した。
「これから二人して、真面目に新しいライフに入らうと云ふんだ。大いに祝して好いさ。…………しかし、それにしてもひよんなところに出会したもんだな。向うではえらい奴と一緒になつたと思つてゐるだらう?」こんなことを私は言つた。しかし、次第に私は笑へなくなつた。私はそこに人生を感じた。恋を感じた。Sさんのさびしさを感じた。その前生を白粉と丸髷で塗りかくして、さうして温泉に出懸けて行く女のさびしさを感じた。また新しい女を得た喜悦はあるにしても、妻を他に奪はれた男の心の佗しさを感じた。汽車は明るい車室の連続を長蛇のやうにあたりを際立たせて、闇の中を、荒凉とした満洲の野の闇の中を轟々として走つて行つてゐたが、しかも私はその中に更にくつきりとその大きな丸髷を見せて終夜一睡もせずに起きてゐるその女を見た。
三
徐かに夜は明けて来た。私は車窓の明るくなつて来るのを感じた。曠い野に銀のやうな霧が茫とかゝつて、山も丘もぼんやりとぼかしのやうに空に彫られてあるのを私は感じた。それにしても何といふ静かさだつたらう。何といふ穏かさだつたらう? これはとても内地などでは見たり感じたりすることの出来ないものであつた。また満洲でも、五月の末から六月の初めでなければ見ることの出来ないものであつた。露はしつとりと草や木の緑の上に置いた。秋のやうに深く濃やかに置いた。汽車はさうした静けさの中を驀地に走つた。
その黎明の茫とした夢のやうな空気の中に、最初の私の発見した停車場の名は白い板に万家嶺 Wan-chia-ling と書いてある字であつた。「お、もう万家嶺だ! もうあと二つしきやない」かう思つた私は身を起した。その時にもその大きな丸髷は暁の光の雑つた灯の中にくつきりとあらはれて見えてゐた。
「おい、君、もう熊岳城だよ」九寨駅を通り過ぎてから、私はBを揺り起した。「もうさうかね?」とBは言つていきなり身を起した。車窓の外には霧が白く流れた。「好いな? 朝は?」
Bは画家らしくあたり見廻したが、小声で、「先生、終夜、あゝして起きてゐたね」と囁いた。
私も笑つて見せた。
大連を立つて来る時には温泉行きの二人連が幾組かゐたが、皆な湯崗子行きだと見えて、そこで下りたのは私達とその二人と他に二三人の旅客があるだけであつた。私達は大きな鞄を一時預けにしたりして、いくらか手間取つてゐる間に、その二人は逸早く苦力に鞄をかつがせて、それを先に立てて、あとから並んで歩いて行つた。アカシヤの花の匂ひが茫とした黎明の空気に著るしく漲り渡つた。
あとから歩きながら、
「わるくないね、君」
「さうですな…………」妻子を国に置いて本社の独身者の寮舎に起臥してゐるBは、いくらか皮肉な調子で、「一晩中あの女は起きてゐましたよ。幾度目を覚まして見ても、あの女の白い顔が見えてゐました。先生眠いでせう! 宿について、湯に入つて、ぐつすり旦那さんと一寝入り──本当にわるくありませんね?」
「本当に羨しいわけだね…………」
私達はいくらか疲れたやうな、人なつかしいやうな、またかうした時に傍に自由になる美しい髪でもあつたなら、それこそ何んなに好いだらうといふやうな気持に微かに体を揺ぶられながら、徐かにレエルを此方から向うへとわたつて行つた。黎明と言つてもまだほんのしらしら明けで、草木も野も山も総て全く眠りから覚めてはゐないやうに見えた。しんとしたアカシヤの緑葉の並木の中には、狭いレエルを持つた一条の連頭路が真直に真直に続いてゐるのが見わたされた。
それでも汽車に馭してゐる温泉行きの軌道車は、驢馬を二疋つけて、既に十分に支度を整へてそこに待つてゐた。私達は今度は互ひに膝と膝とを触れ合はせて坐らなければならないやうな形になつた。で、私とその女とが向き合つた。Bとその背高い男とが斜に顔を合はせるやうになつた。
馭者がその背に鞭を当てると、二頭の驢馬は、その小さな耳を聳だゝせながら、いくらか下り加減な真直な道を驀地に走つた。アカシヤの並木は並木に続き、野は野に続き、その向うに歪子山といふ不思議な形をした岩山に霧のかゝつて行くのが見えた。私達は何も話さなかつた。唯黙つてアカシアの花の咽ぶやうに匂つて来るのを嗅いだ。
温泉ホテルは、しんとして全く緑葉の中に埋め尽されたかのやうにその屋根やらヹランダやらを微かに見せてゐた。此処までやつて来ても、まだ朝日の昇るのには間があるほどそれほど朝は早かつた。でも、幸ひなことには、本社の人達が昨夜私達のために電報を打つて置いて呉れたので、上さんも女中も起きてゐて呉れて、すぐ私達を奥の一室へと案内した。
「あなた方は、あちらのお伴れさまとは違ひますのですね……」私達の上つて行く背後で、かうした声がしてゐたが、何でもその人達は、その廊下の向うの一室に案内されたらしかつた。
一風呂浴びて好い心持で私が戻つて来てゐると、すぐつゞいてあとから出て来たBは、「先生方、湯にも入らずにすぐ寝て了つたらしいですね。草履が二足ともちやんと並べたまゝになつてゐましたよ」こんなことを言つて笑つた。
底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「東京 第一巻第一号」実業之日本社
1924(大正13)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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