不思議な鳥
田山録弥
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実行と芸術との問題は、今でも新しい問題であらねばならぬ。実行と芸術とは離るべからざるものであつて、そして猶且つ離れなければならないものである。それは実行のあるところに、必ずしも芸術があると限つてゐないからである。また実行がなくとも芸術はいくらでも立派に成立するからである。だから芸術に於ては閑文字だからと言つて捨て去ることは出来ない。また無内容だからと言つて、これはすぐれた作品でないと言ふことは出来ない。
不思議な鳥、今そこにゐたかと思ふと、すぐ何処かに飛んで行つて了ふといふやうな、さうかと思へば、いつまでもいつまでも一つの枝に留つてゐるやうな、また、現にそこに留つて居りながら、ある人には見え、ある人には見えないといふやうな、さうした不思議な鳥、その鳥に私は微妙な芸術を発見した。
いくら学問をしても駄目だ。いくら修養を積んでも駄目だ。また、いくら経験をしても駄目だ。立派な意見や議論を持つてゐて、内容がどんなに充実してゐても駄目だ。──その不思議な鳥が作者の頭に入つて来ない中は、作者の眼に見えない中は、また作者の心に棲まない中は。
天才といふものの中に、その鳥が棲んでることもあれば、平凡な頭の中に、一時その鳥が棲んでゐることもある。何うも容易に端倪することが出来ない。
力だけで芸術が出来ると思ふ人もあるやうだが、それは大変な間違である。力は唯それを助けるばかりである。
ある時代には、頭も心もすべて夥しくリアリスチツクになるものである。ちやんとした事実の証拠がなければ、あらゆるものに点頭くことが出来ないといふのが即ちその時代である。これは、個人の一生の中にもあると共に、大きな歴史の潮流の中にもある。さういふ時代には、人間は夥しく物質的になつて、好奇心といふやうなものが絶えずその車を廻す油として役立つものである。さういふ時代に出来た芸術は、力はあるが、感じが疎く、印象もさう大して深くはない。
ある時私は言つた。
『何うも、リアリスチツクなものは面白くなくなつた。事実はいくら繰返しても同じだ。平凡だ。何うも、それだけでは物足らない。実際でも、さうだから、芸術では、ことにさうだ』
『それだけ、中心から傍に廻避したといふ形ですね』
かう相手は言つた。
『さうだ……確かにさうだ。あらゆることに興味がなくなつたのだ。あらゆることに好奇心がなくなつたのだ。しかし、私はそれを悔まない。また、そのため、私の芸術が衰へたとも思はない。何故なら、さうした超越した境にも、すぐれた芸術があると思ふから──』
『実際、あるかしら?』
『それはある。現に私などにしても、リアリスチツクな心持を抱いてゐた時には、リアルでさへあれば、それでよかつた。それがドキユメントだつた。ところが、今はさうでない。事実だから、仕方がないなどと私は言つてゐない。事実以上に、更に大きな創造に向つて、私達は進まなければならないと思つてゐる。芸術上にも、また実際上にも──。私の『残雪』などにも、無論さういふ心持はあるつもりだ、島崎君の『新生』にも、さういふところがある』
『さうすると、それは、宗教的といふことですか』
『さうぢやない……。さういふよりも、もつと具体的に考へなければならない。真剣で、真面目で考へれば、何うしても、其処まで行かなければならないんだから……。世間にあるもののために破壊されないやうな境まで行くことが、即ち自己の創造といふことなのだから』
『ちよつと難かしいですな』
『さうだらう。難かしいだらう。しかしそれはいくらも例がある。独歩が恋を失つてから本当の恋を考へるやうになつたのもその一例だし、『新生』の主人公がああした事実をあそこまで押し進めて行つたのも、その好い例だ。リアリスチツクな心持では、とてもあそこまで入つて行くことが出来ない』
『さうですかな』
世の中のために破壊されないやうなものでなければ、折角、恋をしたつて、恋をした効がないといふものだ。ところが、世間では、リアリスチツクな世間では、さうでない。唯、恋だけすれば好いと思つてゐる。浮気であつても、軽薄であつても構はないと思つてゐる。だから、何うしても深いところに達しない。花火線香のやうにチラと燃えてそして瞬く間に消えて行つて了ふ。これでは駄目だ。
『けれど、いくら真剣にならうとしても、相手が浮気では、真剣になれやう筈がないぢやありませんか』
『そんなことはない』
『何うしてです?』
『真剣になるといふことは、相手の模様を見て、それからなるといふやうなものではないですからな』
『ぢや、相手はどんな不真面目でも、此方でさへ真剣になれば好いと言ふんですか?』
『それはさうとも……』
『ぢや、馬鹿を見ても為方がないんですね?』
『ところが、不思議だ。さういふ風に、真剣になれば決して馬鹿を見ないから。向うから、本当になつて出て来るから……。そこだて。そこに自他の細かい心理があるんだよ。また仏教で言ふ因果律のやうなものの基礎的心理があるんだよ』
『どうも、しかし、そこは容易に信ぜられませんね。何うも危なつかしいやうな気がしますな』
『つまりリアリスチツクな頭だからだ。リアルにばかり執してゐるからだ。智の鏡を磨いて見ないからだ。空といふことを研究しないからだ。==先づわれから愛せよ==この語の意味は、誰でも知つてゐるだらうけれども、これを本当に経験するといふことは難かしいことだからね』
『さうですかな』
智と空とから生れ出して来る自己創造──。
盗みをすれば、一生盗をしなければならないといふ心理、心中の仕損ひすれば、またそのくり返しをやらなければならないといふ心理──細かく考へて来ると、恐ろしいものだ。悲しいものだ。あはれむべきものだ。
いろいろなことのわかつて来るといふことは、ひとり手にその人の考へ方が教訓的になつて行くといふことだ。
いろいろなことのわかつて来ない中は、好奇心がその翼をひろげて、あらゆるものをさまざまに色彩づけて考へたり見たりするものだが、一度、それがその底に入つて行くと、どんなめづらしいものも、面白いものも、皆な平凡なものになつて了ふ。かう思つて来ると、平凡も怪奇も実は同じだといふことになりはしないか。
野はまた春になつて来た。青い草の萌える、満ちた川水の流れる、霞の被衣のやうにほのかに靡く春に──。桃の花の白いのが、春の日影の中にくつきりと出てゐるさまは何とも言はれなかつた。書斎の前の海棠の花からは、終日長く蜂のぶんぶん唸つてゐるのがきこえて来た。
ただこと歌がいけないと同じやうに、景色歌がいけないといふことを、私の歌の師匠は絶えず言つた。つまり、芸術は写生でないことを極説してゐたのである。さうかと思ふと、一方では、『何うも、これは実際ぢやありませんな。実際でないものは駄目ですな。ちよつとは本当らしく見えても、すぐ箔が剥げて了ひますからな』と言つた。これで見ると、写生が非常に重んじられてゐて、前に言つたことと矛盾してゐるやうに思はれるけれども、決してさうでない。この矛盾したやうで、矛盾しないところに、本当の細かい芸術があるのであつた。
それは技巧とか、腕とか言ふものがひとり手に伴れて行くやうな境地であつた。技巧と言ふと、内容を全く眼中に置かないもののやうに、今の批評家達は考へてゐるけれども、技巧といふものは、決して内容と離れて存在してゐるものではなかつた。二つのものが一つになつたところに、本当の技巧とか腕とか言ふものがあるのであつた。だから、矢張技巧を磨くことは必要だ。技巧を磨けば、ひとり手に内容も磨かれて行く。内容を豊富にすれば、ひとり手に、技巧も豊富に自由になつて行く。
ある作は長く書いたために、価値が出て来ることがある。またある作は、短く書いたがために、すぐれたものとなることがある。
何んなに表現の方法は拙くとも、その持つた天分はその作中におのづからあらはれて来てゐるものである。従つていくら文章が巧く、表現の方法が上手でも読むものに何うしても堪られないやうな作があると共に、文章が拙いに拘らずぐんぐん引張られて行くやうな作がある。本当に考へると、旨い拙いといふことは、容易に言ふことが出来ないやうなものだ。
静かに落付いて書くことが必要だ。世間に触れるものもわるくはないが、余りそれに捉へられないやうにすることが必要だ。世間に出る出ないよりも、本当に自己を打立てるといふことが必要だ。芸術は、世間のためよりも自己のため、かう思つて専念にそれに従ふのが必要だ。今のやうな社会には──今のやうな変遷の多い、混沌とした社会には。
曾ては文壇は、権威ある批評家に由つて保護された。しかし今は……。
余りに騒々しいとは思はないか。余りに移気だとは思はないか。また余りに標準なさすぎるとは思はないか。勿論、さうしたものは、結局が、大した影響をわが芸術に及ぼすことはないであらうとは思ふけれども──。
底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十五巻第五号」
1920(大正9)年5月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:岡村和彦
2018年1月27日作成
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