花束
田山録弥
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順吉は今でもはつきりとその時のさまを思ひ出すことが出来た。右に石垣、その下に柳の大きな樹が茂つて、向うに橋がある──その橋も、殿様のゐる頃には大小を挟んだ侍が通つたり、騎馬の武士が蹄を鳴して勇しく渡つて行つたりしたもので、昔は徒士や足軽の子供などはそこに寄りつけもしなかつたものであつたが、城に草が生えるやうになつてから全く廃たれて、ぎぼしは盗まれ、欄干は破れ、橋板もところどころ腐つて、危くつてとても渡つて行くことが出来ないぐらゐになつてゐた。それにも拘らず、そこらに遊びに来てゐる子供達は、却つてその橋のぐらぐら動くのを面白がつて、わざと欄干の上をわたつたり、ところどころ大穴の明いてゐる橋板を踏み鳴して向うに行つたり、それも倦きて、忽ち裸になつて、その下の綺麗な水にザンブと身を跳らせたりした。何うしてあそこがあんなに面白かつたか。何うして母親にあれほど行つてはならないと厳しく戒められながら平気でそこに出かけて行つたか。それは今の順吉にもちよつともわからなかつたけれども、兎に角夏から秋にかけて、昼過には、子供達は大勢そこに集つて行つたものだつた。『また、お前、千貫橋に行つたね。うそを言つたつて、すぐわかるよ』順吉が帰つて行くと、母親や姉はかう言つて水を浴びて綺麗になつてゐるその顔を眺めた。
ある時、順吉の顔を見ながら母親が言つた。
『お前、千貫橋は怖いんだよ。あそこには昔から主がゐるんだよ』
『主つて……?』
『主ツて、お前、太い、太い、四斗樽のやうな大蛇サ……』
『そんなものはゐやしないやい……』
『ゐるんだよ、昔からさう言つてゐるんだもの……。殿様のゐる時分にも、度々その主が人を呑んだんだもの……。体はなくつて大小だけ橋の下に落ちてのこつてゐたこともあるんだもの……』
『うそだい……』もう好加減大きくなつてゐる順吉は、容易にさうした嚇かしを信じなかつた。
『だつて、お前、本当だよ』
傍にゐた姉も真面目な顔の表情をしてかう附け加へた。
そればかりではなかつた。母親はその他にも不思議なことや恐しいことがその千貫橋のあたりに沢山巴渦を巻いてゐると話した。あの水の綺麗なのも、あたりが何となくさびしいのも、あそこが魔の場所だからだと話した。『さうだらう……。お前だつてさう思ふだらう。何処かあの柳の下なんか気味がわるいだらう。それがその証拠だよ。だから行くんではないよ』母親はかう附け足した。
それはそこに行かせないために、さう母親が言ふのであることはわかつてゐても、それでもそれが全くさうであるとは順吉には思へなかつた。しかしそのあたりの荒れ切つたさまや、草が生え放題に生えてゐるさまや、柳が風に靡いてゐるさまや、そこに綺麗な水がさらさらと石畳の上を流れて、果ては次第に深い壺のやうになつてゐるさまは、幼い心にも多少の無気味を誘はないでもなかつた。順吉は眼をまじまじとさせて、そのあたりのさまをその前に浮べた。
それは順吉などの家のあるところからは三四町離れて、石高の多い侍達の住んでゐる方から遊びに来る子供達の群であつたが、その中にお園といふ九歳ばかりの色の白い女の児がゐて、いつも十二三になる兄と一緒にそこにあそびにやつて来るのを例としてゐた。その兄といふのは、きかぬ気の、いたづら盛りの、よく裸になつて泳いだり、喧嘩をしたり、餓鬼大将になつたりしてゐたが、その兄と順吉とは仲好で、学校の方でもいつも一緒になつて遊んでゐたが、しかも順吉の心は寧ろその色白のやさしい妹の方に偏つてゐて、わるいいたづらをしながらも──橋の欄干をわたつて行くにも、また深い壺のやうになつてゐる淵の方へと泳いで行くにも、また強い仲間にわざと喧嘩を吹きかけるにも、常にその傍にその女の児を予想してゐないことはなかつたのであつた。その美しい眼とその濃い眉とを順吉は今でもはつきりとその眼の前に浮べることが出来た。
その千貫橋から少し此方に来ると、そこに土手があつて、いつも日がよく当つてゐたが、そこでお園と呼ばれたその女の児は、もう一人の同じ年ぐらゐの女の児と、いつも一緒に持つて来た花などを並べて遊んでゐたことを順吉は鮮かに覚えてゐる。それは何うした時だつたか、またいつもその傍にゐないことのない、時にはいつもそのゐるのを邪魔にすら思つたことのあるその兄が、何うしてその時はゐなかつたか、はつきりとそれは記憶してはゐないが、兎に角その女の児二人と一緒に、その土手の下のところから、向うに見えてゐる倉庫の方へと行つて見たことがあつたのをかれは今でも覚えてゐる。
『あそこまで行つて見よう!』
かう順吉から誘つたが、二人の女の児達はぐづぐづしてゐて、始めは容易にそれに従はうとはしなかつた。
『だつて、あんなとこまで?』
一人の方の女の児は、かう言つてそのお園といふ女の児と顔を見合せた。
『………………』
お園といふ女の児は黙つて笑つてゐた。
『すぐだよ』
『でもねえ……』
女の児達はぐづぐづしてゐた。
『何も怖いものなんかありやしないやい。唯、蔵があるばかりだい……。臆病だなア……』
と、お園といふ女の児は、さう言はれたのに激したやうな表情をして、
『臆病ぢやありやしない──さ、それなら、行きませう』
今度はお園の方が先に立つて、もう一人の女の児を促した。
『でも』
まだ動かぬのを、
『だつて、私、臆病ぢやない。サ、行きませう』
と言つてその袖を取つた。為方なしにその女の児も歩いた。
それはその橋のところから三四町ぐらゐしかなかつた。草が高く高く茂つて、ところに由つては人の肩を埋めるぐらゐであつたけれども、それでもその倉庫への路は、細く曲くねつてつゞいて行つてゐた。
順吉達はやがてその倉庫のあるところへと行つた。そこには建物が二つあつて、何でも殿様のゐる頃には、具足や槍や鉄砲などが入れられてあつたらしく、その他にもまださうした建物があつたと思はれるやうな跡もそこらに残つてゐるのを見かけた。
順吉はそこまで女の児を伴れては来たけれども、何となく自分から無気味になつて、そのぴつしやりと盲目の眼のやうに閉められた扉──それもその上半部が金網になつてゐる扉の前へ進むことが出来ないで立ちつくしてゐると、
『何うしたの?』
かうお園といふ女の児は促して、『でも、此処まで来れば、もう臆病ぢやないの?』
『それは臆病ぢやない……』
さう言はれたので満足したといふやうに、お園は平気で、自分から先きに立つて、その倉庫の扉の前のところへと行つた。それに誘はれて順吉もそのあとから続いた。もう一人の方の女の児も続いた。
順吉はその扉の上半部の金網に成つてゐるところから、足を一杯につま立てて、辛うじてその中を覗いて見た。女の児は二人とも背が低いので、先きにお園でない方の女の児を、つぎにお園を抱き上げてそれを覗かせてやつた。
重いのをやつと下におろして、
『見えたらう?』
『………………』
お園は黙つて点頭いた。
『何があつたえ?』
『何にもなかつた……』一人の方の女の児が口を出した。
『でも、日影がさしてゐたらう!』。
『さうよ、日影が──』
お園は言つた。
何処からさし込んで来てゐるのかわからなかつたけれども、明るい午後の日影が、塵埃くさいガランとした空気の中に、くつきりと線を成して落ちてゐたのを順吉は今でもはつきりとその眼の前に浮べることが出来た。
ある日のことだつた。順吉はその千貫橋の方からずつと此方の方へと来て遊んでゐた。やつぱり晴れた美しい秋の日であつた。
もう水泳の季節ではないので、誰も水の中には入つて行かなかつた。橋の上の遊びにも倦んだ。かれ等は今は阜斯を追つたり、草の上で相撲を取つたり、いくさごつこをしたりしてゐた。その日もお園はその女の児と来てゐた。
順吉達は自分の遊びに心を奪はれて、全く何も知らずにゐた。かれ等は達磨のやうに彼方此方に転つたり、帯をつかまへて引張り合つたり、一つにかたまつて馬乗になつてゐるその大将を上から引摺り下したりなどしてゐた。誰も全く何も知らずにゐた。
ところが、さつき云ふことをきかないために仲間はづれにされた源太といふ男の児が、さびしさうに、またつまらなさうに、向うの方へと歩いて行つてゐたが、それが突然走つて来て、『大変だ! 大変だ!』と叫んだ。
皆はそつちを見た。しかし別に変つたことも何もなかつた。これはてつきり源太めが仲間外れにされて、それを口惜しがつて、それでそんなことを云つて皆をおどかすのだらうと思つた。皆はまた組みつ解れつした。
『大変だ! 大変だ!』源太は遠くで叫んだ。
近寄つて来もせず、さうかと云つて、その叫ぶことをもやめないので、お園の兄はいくらか気になつたといふやうに、常にその手下にしてゐる政公といふ子をそつちに見せてやつた。此方で見てゐると、政公の走つて行くのがはつきりと手に取るやうに見える。急いで走つて行くのが、段々その距離が短くなつて源太の立つて叫んでゐるところへと近寄つて行くのが、そこに行き着いて源太と政公とが何か話してゐるのが、否、話してゐるかと思つたらすぐまた政公が飛んで引返して来たのが、その政公が走りながら同じやうに、『大変だ! 大変だ!』と叫んでゐるのが、此方からもお園の兄と他の二三人が急いで走つて行つたのが、政公とお園の兄とがすれ違ふと、ちよつと立留つたがすぐ向うへ走つて行つたのが手に取るやうに見えた。
『何だ? 何だ?』
此方でも皆立上つた。
『大変だ! 大変だ!』
政公は同じやうに叫びながら此方へと走つて来た。
『何うした! 何うした!』
順吉は走り寄つた。
『大変だ! お園ちやんが?』
『お園ちやんが何うした?』
政公は走つて来たので、はアはアと苦しげに呼吸をつくだけで、急にはその言葉をつゞけることが出来なかつた。
『え、何うした?』順吉はいきまいて問うた。
『お園ちやんが壺に落ちた!』
『えツ!』
その次の瞬間には、順吉は夢中で走つてゐた。否、そこにゐたすべての子供達は皆わーツと云つてあとから走つた。
順吉が千貫橋近く行つた時には、お園の兄は既にその壺の淵のところへと走つて行つてゐるのが見えた。柳の下には、もう一人の方の女の児が花束を手にしたまゝ、白い顔を上にして、声を立てて泣いてゐるのがはつきり午後の明るい日影の中に見えてゐた。順吉は驀地に走つた。
その女の児の傍を掠めながら、『何うしたんだ!』と順吉は訊いた。
『お園ちやんが──?』
『何うした?』
振返つて壺のあたりを指しながら、『向うの……向うの花を取らうとして……そして落つこつた!』あとは唯泣きじやくつた。
順吉は急いでその壺のところへと走つた。
壺のやうになつてゐる淵には、今しも丁度裸に成つて跳り込んだお園の兄が、その向うの深みのところに浮いてゐる──衣の裾もまくれ、白い両足もあらはに、ふうわりと唯水の上に置かれてでもあるやうになつてゐるそのお園の方へと急いで近寄つて行つてゐるところであつた。かの女はその上の崖のところにある美しい花に心を惹かれて、それを取らうとして、足を滑らして、毬のやうにその深淵へと墜落したのであつた。順吉はぢつとそこに立尽したことを思ひ起した。花束を手にしたままぐつたりとして兄の膝に抱かれたお園の屍──それは今だに順吉の眼にはつきりと残つてゐる。
底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
1926(大正15)年5月10日
初出:「令女界 第五巻第五号」
1926(大正15)年5月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2017年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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