父親
田山録弥
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多喜子は六歳の時に此処に来たことがあるさうであるけれども、さうした覚えは少しもなかつた。石段になつてゐるやうな坂の両側に宿屋だの土産物を売る店だのが混雑と並んでゐて、そのところところから温泉の町のしるしである湯気がぱつと白く夜の空気を隈取つた。
『不思議ね。ちつとも覚えてゐないわ』
『さう……』
姉の政子はそんなことは何うでも好いといふやうに素気なく言つて、ぐんぐん石段を登つて行つた。
しかし多喜子にはその覚えてゐないといふことが気になつた。いくら幼なかつたにしても、一度来たところならば何かしら覚えてゐさうなものである。何でもその時は父親は先きに来てゐて、それを母親と一緒に訪ねて来たといふことである。日影の暖かに当る硝子戸の下で蜜柑などを持つて遊びながら、長い長い汽車で此処までやつて来たといふことである。西洋人形のやうな眼をしてゐたので、誰でも皆なそれに目を留めて、『可愛いお嬢さん……おいくつです?』などと言つて声をかけたさうである。ことに、さつき通つた山裾の町では、その時分はまだ汽車がそこまで来てゐなかつたので、電車を下りて、そこで夕飯代りの蕎麦を食つたさうであるが、その時、猟銃を下げて獲物の小鳥を沢山に持つてゐた隣の若い田舎の男が後で父親の行つてゐる山の湯の宿の息子と知れて、いろいろ親切に世話をして呉れたさうであるが、さつきその町を電車で逸早くかすめて通る時にも、母親はその蕎麦屋を指してそれと教へて呉れたけれども、しかも多喜子には何等の記憶をも呼び起すことが出来なかつた。『不思議ね、ちつとも知らないわ……それでこの電車もその時からあつたのね?』大きなカアブをゑがいて不愉快な音を立ててギイギイと山をのぼつて行く電車を指して多喜子はそんなことを言つた。多喜子は今度の温泉行を姉以上に楽んでやつて来たことを繰返した。初めて行くところでないといふことが却つて多喜子に興味を誘つた。今は覚えてゐなくとも、ぢかにそこに行つて見れば、屹度思ひ出すに違ひない。眼が覚めたやうに思ひ出すに違ひない。かうかの女は思つた。しかし来て見ると案外だつたのである。山にも、川にも、電車にも、林の中の路にも、白く湯気の颺つてゐる町にも、何等の記憶を呼び起すことが出来なかつたのである。
『あゝ、あゝ』
夜の散歩から戻つて来て室に入ると、いきなりかう多喜子は言つた。
『何うしたの?』
母親は振返つた。
『だつて、ちつとも昔のことなんか思ひ出せないんですもの……。本当に私、来たのかしら?』
『そんなこと何うだつて好いぢやないか』
『だつて、私、気になるんですもの。宿屋は何処なの? 此の家ぢやないんでせう?』神経質の多喜子はそれがはつきりして来ない中は、何だか心持がそぐはないといふやうに、『その時の宿屋はもうないの?』
『あるにはあるけれど……』
『何うして泊らなかつたの?』
『そこよりも此処の方が好いんです……』
『さう……』
詰らなさうに多喜子は言つたが、『私、かう何だか怖くつて泣いたやうなことを覚えてゐるんだけども……。ぱたん、ぱたんと扉が動いたやうな?』
『それはあの湯滝の落ちてゐるところぢやないかえ?』
『さうかしら? その宿屋にも、さういふところがあつたの?』
『こゝの温泉は上から下へと落ちて来るのだから、何処の宿屋でも、あゝいふ湯滝があるのだよ』
ふと多喜子に思ひ出されて来たことは、浴槽に行く暗い廊下のやうなところだつた。向うから若い女の人が出て来て父親と何か話してゐたやうな場景がぼんやりながらその微かな記憶にのぼつて来た。『その時、父さんは何うしてその温泉場に行つてゐたの?』死んだ父親の話が出ると、この以前にも多喜子はいつもさう言つて聞いたのだ。けれども──父親が死んだのが温泉に行つたその翌年で、もはや十二年の年月を経過してゐるので、何の事もなくなつてゐるだらうと思つたけれども、その話になると、母親はいつもそれを別の方へと持つて行つた。さうでなければ、急に用事でも思ひ出したといふやうにして立上つた。強ひて聞かうとすると、『父さんはひとりで温泉に物を書きに行つてゐたんですよ。他の人なんか誰も行つてはしませんよ』かう真面目にぴたりと押へつけるやうに言つた。
しかし今も微かに記憶から呼び起されて来たやうに、山には、川には、またこの温泉場には、町のところどころに颺つてゐる白い湯気には、石段の両側に並んでゐる混雑した家並には、全く記憶がなかつたけれども、しかもさうした若い女の人か誰かがゐて、多喜子を抱いたり何かしたことはおぼろ気ながらに思ひ出されるやうな気がした。しかしそれが此の温泉場であつたか、それともまた何処か別な所であつたか、それははつきりとはしてゐなかつた。
多喜子はさつきも階下の浴槽に行く長い廊下で、その昔の記憶を嗅ぐやうに、その身の理解することの出来なかつた父親の死の秘密を嗅ぐやうに、またはそこに微暗くほの見えてゐる女の面影を見詰めるやうに、ぢつと暫しの間そこに立尽してゐたことを思ひ起した。さう言へば、その湯滝の落ちてゐるさまは、またそこに扉があつて、人の出たり入つたりする度に音を立てる形は、それはたしかにその身が一度目にしたことであるには相違ないと思つて、ぢつとそれを見詰めたことを思ひ起した。
『それで赤い肩かけを亡くしたところは何処なの?』
多喜子は訊ねた。
『それは、このすこし上の方ですよ』
『もつともつと上? 今行つたところよりも……』
『もつと先ですとも──』
『その時、私、何うして? 泣いて?』
『泣きもしなかつたけれども、大変むづがつてゐたよ』
『それで、その肩かけはたうとう亡くなつてしまつたの?』
『大騒ぎしてさがしたのだけれども、何処にも落ちてゐなかつた。──すぐ誰かに拾はれてしまつたんですね』
『それは深い谷のやうな所ではなかつた?』
それはこれまでもいつも話しに上るところであつたが、何故か今日はその記憶がいくらかはつきりして来たやうに多喜子には思はれ出した。たしかにその時も父親と母親とだけではなかつた。もうひとり女の人がゐた。若い女の人がゐた。その女の人が何の彼のと言つて多喜子のむづかつて泣くのをなだめて呉れた。多喜子はそれを此処に持出して見ようと一度は思つたけれども、母親はとてもそれを承認しないことを知つてゐるので、そのまゝ口を噤んで了つた。
翌日かれ等三人がその湯元に行つた時には、あたりは晴れて、輝しい日影がさし込んで来てゐた。緑葉の葉裏は風に光つて、谷の底では水の音が嗚咽のやうに微かに鳴つてゐた。しかも母親の言ふところでは、そのあたりもすつかり昔と変つてゐると言ふことであつた。そのやうに家屋が家屋に続いてなどはゐなかつたといふことであつた。それでもその赤い肩掛を落したのに気がついてそこから引返したところは、流石に母親も覚えてゐて、『あゝ此処だ! こゝで気が附いたのだ!』などと言つて、それを二人の娘に示した。
『さう此処なの? 多喜さん、覚えてゐて?』
姉の政子は別に何とも思はないやうに単純に言つた。
『さア』
多喜子はぢつと立尽した。成ほど深い谷がその前に展けてゐる。遠くから引いて来た樋からは、湯がこぼれて湯気が白く颺つてゐる。屈曲した谷の危いところには、勾欄が出来てゐて、向うに小さな橋がそれと指さゝれた。しかし多喜子ははつきりと覚えてゐなかつた。
湯元へと行く路は、橋からずつと左に入つて行つてゐた。それはさびしいところであつた。
昔はこの温泉場は向うにはなくて、このあたりに狭くるしく浴舎が何軒も建てられてあつたさうであるが、なるほどさうきけばそれと思はれないこともなかつた。何でもその赤い肩かけは、そこらで落したのに相違ないのであるけれども、逸早く誰かに拾はれて了つたと見えて、つひに何処にもそれを見出すことは出来なかつた。
『そら、そこに、湯の元があるだらう。そこで、柄杓で湯を掬つて飲んだり何かしたんだよ。覚えてゐないかねえ?』そこに湧き出してゐる湯壺を指して母親は言つた。
一週間ゐるつもりでやつて来たその四日目には、かれ等は籃輿を一挺頼んで、疲れたら代り代り乗るといふことにして、山の湖水のある方へと行つた。それは晴れた好い日で、輝かしい日の光線が眩ゆいほどにあたりを照つて、そこに心の秘密の影がこつそりかくれてゐやうなどとは夢にも思へないほどそれほどあたりが明るかつた。政子も多喜子も身軽な扮装で、母親の乗つてゐる籃輿の前後に附き添ふやうにしてのぼつて行つた。
『オ、蕨!』
『あ、こゝにもあつたわ』
二人はこんなことを言ひながら、やつと拳をひらき始めたやうな蕨を手に余るほど採りつゝ歩いた。山際では鳩がのんきさうにホウ、ホウと鳴いてゐた。子規も鶯も啼いた。
かれ等は何の苦労も心配もなささうに見えた。母親も大くなつた娘の方を見てのんきさうに笑つた。兎に角此処まで来た。暗い父親の死も多くの影響を娘の心にも起させずに此処までやつて来た。それにしてもその身は何んなに辛い生また死の心の境を通過して来たらう? と思つただけでも身が震はれるほどである。しかし、何も彼も今は過ぎた。あの女の話も世間から忘れられた。もう心配になることはない──籃輿の中にゐる肥つた母親はこんなことを考へた。
五月の山の路はのどかであつた。草は緑に茂つて、日は麗らかにあたりに照つた。何処か遠くで樵夫の木を伐つてゐる音があたりに谺をなして響いた。
政子と多喜子とは代り代りに手に持ちきれなくなつた蕨を籃輿の中に入れて行つた。『おゝ、沢山あるのね。取れるだけ取つて持つて行かうよ。宿でも蕨はまだめづらしい』こんなことを言つて、母親はその娘達の放り込んで行つた蕨を楽しさうに揃へた。何処まで行つても娘達は疲れて籃輿に乗らうなどとは言ひ出さなかつた。かれ等は元気よく先へ先へと歩いた。政子は何方かと言へば肥つてゐるので、坂に来ると、いくらか後れ勝になつたけれども、多喜子は少しも疲れたやうにも見えなかつた。やがて坂をものぼり尽した。ひろいひろい山の高原がその前にひらけた。
突然、多喜子の頭に呼び覚されたものがあつた。その時、多喜子は籃輿よりもずつと先に、政子よりも三四間先きに歩いて来てゐたが、その記憶の覚醒が来ると同時に石にでも打たれたやうにはつとして立留つた。かの女は確かにそこを見たことがあつた。そのひろびろとした草場。その中を真直に日に光つてつゞいて行つてゐる白い長い路。右に高く丸く聳えてゐる山。確かにかの女はそれを見た。否、そればかりではない、それと同時に今まで何を見ても、山にも、川にも、電車にも、谷に添つた路にも、柄杓のついてゐる湯元の湯壺にも、何にも思ひ出せなかつた記憶が流るゝやうに呼び起されて来た。多喜子は浴槽の廊下で思ひ浮べた若い女を再びそこに浮べて来ることが出来るやうな気がした。さうだ。たしかに、かの女は父親とその女との膝の中に挟まれて、矢張この籃輿でこの坂をこの高原にのぼつて来た。その時、此処でこの籃輿を下りた。何でもその時かの女は泣いたやうであつた。何うしても厭だ──と言つて泣いたやうだつた。その泣いたわけはわからない。何うして泣いたかわからない。いづれ六歳の子供のことであるから、母親がゐないとか何とか言つて泣いたのであらうが、その時、母親はそこにゐたか何うか、或は全くそこには来てゐなかつたかも知れない。そこに来たのは母親の手から父親とその女の手とに奪はれて来たのかも知れない。その泣いたのもその故であつたかも知れない。多喜子はその瞬間その父親と一緒にゐた若い美しい女の顔やら眉やらをはつきりと頭に浮べることが出来たと思つた。そしてその父親の死がその若い女に連関してゐるので、それで母親ばかりか、世間の誰でもが、そのことになるといつも全く沈黙して了ふのであると点頭けて来たやうな気がした。
底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
1926(大正15)年5月10日
初出:「令女界 第四巻第八号」
1925(大正14)年8月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2018年9月28日作成
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