心理の縦断と横断
田山録弥



 箇々の対立までは、誰でも行けるが、それから箇々の融合まで行く路が容易でない。対立を痛感するといふことは、既にかなりに深く自己の心理の縦断をやつたことではあるが、この縦断から横断に移つて行く間に、越え難い大きな谷がある。そしてこの谷を渉るには殊に玲瓏れいろう透徹した縦断の太い丈夫な綱が必要である。

 縦断にも、無限の度数があり、また無限の波動のリズムがあつて、絶えず一起一伏してゐる。寸進尺退すんしんせきたいのやうな場合も決してすくなくない。一理を究め得、一問を解き得て、それでほつとすると、自負心が生じないまでにも、原理としてその張り詰めたものが弛む形になつてゐるのであるから、余程そこがむつかしい。だから聖者はをしへを説くのに、深く増上慢を戒めてゐる。慢心一たび生ずれば、百の解決も千の究理も、忽ちその力を失つて了ふと言つてゐる。

 平等と差別との混乱は、この縦断に由つてかなりに統一せられ、整理される。外面的でなくて内面的であり得る。しかし、この統一乃至整理が、差別を認めない境に至るまでには、幾度か差別に就いてつまづかなければならない。つまり空、非空、相、非相の理が、外形に捉へられて、深い縦断を敢てしようとしつゝも、自由にその奥に入つて行くことが出来ないのである。

 この難境を突破して、始めて箇々の対立といふことを痛感するのであるが、この対立から、完全に他の認め得たことから、または他の中に自己を見、自己の中に他を見るといふことから、次第に箇々の融合といふ境を庶幾することが出来た。


 此処にAならばA、BならばBといふ人間がある。そのAなりBなりが、A、Bといふ箇の特色の方を色濃くせずに、寧ろ人間といふ全の方について重きを置くやうになるといふことは、この心理の自己の縦断といふ処から起つて来ることであつて、この境地に達することは、わけがないやうに見えて実は甚だ難かしい。我々は『われは人間なり』といふことを真に理解し、痛感すれば、それはもう立派な心理の縦断が出来てゐるのであるが、そこまで行つた人は甚だ尠い。世尊は、『われは人間なるが故に……』かう言つて、そこを高調してゐるが、この言葉には、実に立派な心理の縦断がその背景を成してゐることを私は思はずにはゐられない。

 箇から全に行く……。これは誰でもさうらしい。しかし、箇に包まれて死ぬまで全が出て来ないやうな人もある。若い中から全をよく透徹して見ることが出来るやうな人がある。これは矢張、その人々の天分の差で、何うも為方がないやうなものであるが、しかし大きな法則は、矢張そのなかにリズムを刻んで、絶えず波打ちつゝ動いてゐるのは事実である。

 私はあるところでかういふことを演説した。『私が、私の心の閲歴で平気でさらげ出して書くので、ある人は、私を目して厚顔無耻だと言つた。厚顔無耻! 私は考へた。実際厚顔無耻だらうか。否、否、決してさうではない。むしろ、私を目して厚顔無耻と言つた人が、却つて世間に捉られ、他に捉へられ、小さな箇を発足点とした社会道徳に捉へられてそしてさうしたことを言ふのである。自から自己の価値を小さくしてゐるのを知らないのである。かういふ人に限つて、自己の法身ほつしんなのを知らない。自己の全を知らない。従つて大きな意味に於ての芸術を知らない。自己を描いて決してその核心に達しない。或は言ふかも知れない。しんこんに痛感したものは、それを表面にさらげ出すのには余りに貴い……と、主張は私に取つては全く別だ。さう言ふのは、さういふ人が世間に、又は自己に捉へられた形であつて、普通の人間以上に一歩も出てゐないことを証明してゐるのである。何故さういふことをしたのが耻しいのか。また惜しいのか。またいけないのか。中心にやましいところがあるが為めか。余りにセンチメンタルなためにそれを表面に現はすのをはしたないと思ふのか。何故人間なるが故に、人間のしたことであるが故に……といふ風に考へて来ることが出来ないのか。私のしたことは単に私といふ名のもとにあるものがしたことではない。人間がしたのである。人間の喜を喜び、人間の悲みを悲しんでゐるのである。また人間の愁ひを愁ひてゐるのである。であるから、単に私といふ名のもとにあるものがしたことに止つてゐないから、それで万人に徹するのである。万人と共に共鳴することが出来るのである。これが即ち芸術の人間を救ふ道なのである、……』

 この『人間なるが故に』との提唱は、しかし実は容易に出来ないものである。何故かと言ふのに無暗に、この『人間なるが故に』をふり廻すと、其人は往々にして、その痛感の度数乃至心の閲歴の背景如何につて、その一身を危くすることがないとも限らないからである。完全に法身を知らずして法を説くことは、三尺の童子をして鋭利なる刃を振り廻はさしめるに均しいからである。


 人間なるが故に、人間は必ず一生の中に人間のすべきことをした。そしてそのしたといふことに由つて、種々なものを理解し、善事を理解し、また悪事を理解した。心と心との反響、気分と気分との交錯、ある処を圧したがために更にある処から押される形になるといふ原理、因果応報がただ仏者ぶつしやの方便のために説かれたもののみではないといふ細かい洞察、さういふものが次第に、一つ一つ日に面した氷の解けて行くやうに解けて来た。そしてかうした理解が、人間をして始めて人間とは如何なるものであるかを次第に明かに意識させた。此処に到つて、始めて、『人間なるが故に』の提唱が始まつて来る。そしてまたそこに大きな意義を持つて来る。従つて私は世尊が死に面して三七日間にこの法身を説いた形を殊に偉大であると思ふ。


 この『人間なるが故に』また、『人間のすることなるが故に』と高調すると、始めて心理は縦断から横断へと移つて行く。

 大きな平等の道がそこにあらはれ出して来る。其処には金も富もない。功名も耻もない。また美も醜もない。否あつても無いと同じ心理をかもして来てゐる。うまいものも拙いものも同じである。また自己の愛は即ち他の愛である。更に進んで、自己は即ち他である。また此処に至つて、始めて何物にも捉へられない玲瓏透徹した大慈悲心を持つことが出来た。我に捉へられざる、また欲せざる真の慈悲を人に施すことが出来た。


 然らば、ロシアのレニン一派のやつてゐるやうな横断は、何うかと言ふに、あれはまた『人間なるが故に』の提唱についての自覚乃至理解が深くないために、平凡な平等主義、主として外面の平等主義に堕してゐると思ふ、矢張また自己の心理の縦断を完全に行つてゐないのである。世間といふ平行線の中にゐて、一緒に立つて波を挙げてゐるといふ形である。単に知識として知つてゐるだけのことを横断に移したのみである。空想らしいところがあるのは止むを得ないではないか。


 古人の説いた性善説などが思ひ出されて来ることも、私に取つては不思議な気がした。実際、古人も矢張我々と同じところを通つて来たのだ。我々と同じく苦しんだのだ。縦も横も考へたのだ。私などにしても、此頃は、『人間は悪事をしないものだ』とつく〴〵思ふやうになつた。悪とは何ぞや。かう言ひたいと思ふ位であつた。我に悪なし、いづくんぞ他に悪あらんやである。

 しかし退いて考へて見ると、私などは随分この悪に苦しんで来た。自分の悪に、または他人の悪に……。猜忌さいき、嫉妬、疑惑、さういふものが常に全身を圧した。そして無中むちうに有を見るに苦んだ。時には魂も亡ぶやうな苦しみを苦んだ。しかしこれは今日考へて見れば自己の心理の縦断が完全に出来なかつたためである。自己の中に悪を見たがために、他の中にも悪を見出さなければならなくなつたのである。自己の猜忌、嫉妬、疑惑から発足して他人の中に猜忌、嫉妬、疑惑を見出したのである。自己は全く末法の子たる位置に自己を置いたのである。

 自己が信ずることが出来なくつて、何うして他人をして自己を信ぜしめることが出来やう。また自己が欲するものを捨て去らずして、何うして他人をして自己に欲することを捨て去らしめることが出来やう。これから思ふと、世尊が信にその根本を置いたのは、深い心理の縦断を痛感したためであるといふことがわかる。信ずることの出来なくなつた民の世を世尊は末法の世と言つてゐるではないか。

 この縦断は、哲学の認識論、仏教の識論、かうしたところから入つて行つて、更にその上に普通には見ることの出来ない、または思ふことの出来ない、説明することの出来ない、ある異常の識を加へるやうになつた。そしてそこから平等の本当の道は開けた。


 信ずるといふことの大きいことであるのを私は此頃つく〴〵思つた。信の一字、以て生きるに足るとすら思つた。

 しかし、私に取つては、他力から入つた信では物足らなかつた。それでも無論持たないよりは好いのであるが、何うもそれはぢき崩れ易い。倦み易い。詰らなくなり易い。何故と言へば、根本が確立してゐないからである。自己から築き上げて入つて行つたものでないからである。それには、何うしても、自分から発足して、世間にも思ふさま触れて、溺れず、捉へられずに、そこに細かい自己の心理の縦断を試みなければならない。

 純な心、誠実な心、それがこの縦断をやるについて、何んなに有効に役立つて来たかといふことを私は考へずには居られない。誠実にして悔ゆるところなし──これだけで人間は十分だ。これを守本尊にしてゐれば、生活の道などは何でもなかつた。


 法華経を読んで見ると、その経文を奉持し、誦読しようどくするものゝ功徳ばかりを説いてゐて、外形だけでは、ちよつと要領を得ないやうな気がするが、その奉持し、誦読するものゝ功徳の背景には、この信だの、誠実だの、純な心だの、真剣だの、一心だのといふものが一一いちいち深く背景を成してゐるのであつた。即ちこの経をと言つて、経文を重く見せたところに深い意義がある。その奥に世尊の苦しみがあり、行があり、人生があり、人間の魂がひそんでゐるのである。また不朽の生命が、法身が説かれてあるのである。

 実際『爾等思ひ煩ふ勿れ』である。また『焚くほどは風が持て来る木の葉かな』である。信に由つて、私は私の苦しみからのがるゝことが出来た。また欲する心を捨て去つたことに由つて、世間を救ふといふ心持ちを起し、真に芸術といふものゝ位置の如何を知ることが出来た。

 民主思想なども、実を言ふと、この心理の縦断と横断の深いところから入つて行かなければ、千言万語も徒爾とじであるのである。横からばかり見ずに、縦からも見なければならない。縦から言つて、人間には自然に民主思想、平等思想になつて来る時機があるのであるから……。

底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店

   1995(平成7)年410日発行

底本の親本:「毒と薬」耕文堂

   1918(大正7)年115

初出:「文章世界 第十三巻第四号」

   1918(大正7)年41

入力:tatsuki

校正:岡村和彦

2018年828日作成

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