初冬の記事
田山録弥
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また好きな初冬が来た。今年は雨が多いので、勤めに出かける人などは困つたらうと思ふ。しかしその雨の故か、今年の紅葉の色は非常に好い。私の庭のばかりでない、何処に行つても、濃やかな紅の色彩が何とも言はれない。梧桐の葉などは、いつもならば、黒くしなびてカラ〳〵と一風に散つて了ふのであるが、今年はそれすら美しく黄ばんだ色を見せてゐる。
山茶花が厚い深い緑葉の中に隠見してゐるさまも絵に似てゐる。雨に好し、晴に好し、朝に好し、夕暮に好しといふのは此花である。彼岸以後は一雨毎に寒くなつて行くと言ふが、この寒くなつて行く具合が好い、気分が好い。『寒いなア、馬鹿に寒くなつたな、火燵でもやるかな』などと言つて、塞いで置いた炉を明ける。丁度其時分、今年の夏を過した富士見の高原あたりでは、雪が凄じく降り頻つてゐたのである。上諏訪にも十五日には雪が降つた。此間、富士見のK君が来た時には、『もう八ヶ岳は半分雪だ』と言つてゐたが、今ではすつかり真白になつて了つたのであらう。
ある日は、午後から雨になつた。女の児達は蝙蝠傘は持つて行つてゐるが、降りが強いので、帰るのが大変だらうなどと言つて母親が心配した。姉が九つで、妹が八である。と、妹が先に雨をついて帰つて来た。姉の下駄を持つて行つてやると約束したと言つて、自分で持つて行つてやる。それと行違ひに姉が帰つて来た。今度は姉が妹のことを心配した。そして又迎ひに行つた。そしてまた行違ひになつた。姉は降頻る雨の中を泣きながら帰つて来た。姉妹の情などと言ふものは面白いものだ。
始めて早稲田に講演に行つた時も、かなりに烈しい風雨であつた。電車まで行く間が億劫なので、車で行くことにした。路は遠いが、抜弁天の方から行く方が好いと最初に私は車夫に注意した。それにも拘らず、車夫は大久保の方の近路を選んだので、戸山の原を抜ける時には、車は全く泥濘の中に陥つて、につちもさつちも行かなくなつて了つた。車を下りて歩かうにも、足駄の丈が立たない。腹は立つし、気は焦々するし、車夫の頓間を罵つて見たが何うも仕方がない。こんな馬鹿々々しいことがあるかと思ひながら、仕方がないので、足袋をぬいで、跣足になつて、満洲の路かとも思はれるやうな深い泥濘の中を五六町歩いて行つた。あとで私は人々と話した。『車はもう時代おくれだ。もう十年も経つと、車はなくなつて了ふであらう。第一、道路からして車の為めの路ではなくなつてゐる。車が交通の中心を成してゐる時分には、市でもせつせと道路の修繕をやつたが、今ではそれにさう重きを置かなくなつて了つた。従つて、路の高低などが一致しなくつて、車の乗り心地が頗ぶるわるい。車はもう駄目だ』
話をするのが下手なので、多少気にしたが、それでも聞く人は静かに聞いて呉れたので嬉しかつた。自分なんかは、何にも知つてやしない。何にも研究はしてはしない。仕方がないので、例の社会と自己の話などをした。根本の話などをした。そしてそれを内面描写の方へ持つて行つた。
社会と自己のことに就いては、自分はかなり細かい経験をした。それなのに、S君あたりから、単に単純に大ざつぱに言つてゐると思はれるのは遺憾だ。或はS君などの年齢は社会が気になりすぎる時代であるので、さう思はれるかも知れない。それならば何うも致し方がない。
近頃は大抵家で暮した。富士見にゐた時分から心がけてゐた長篇『一兵卒の銃殺』を今年の中に仕上げて、来年早々本にしたいと思ふので中々忙しい。それに、自分に兵営生活をしたことがないので、かなりに研究したつもりであるが、テクニツクや特殊の気分さが難かしい。何うも兵隊さんの気分が出て来ない。それで、筆も進まぬ勝で困つた。
しかし覘つたところは別にあるのであるから、さういふことは余り気にしなくつても好いとも思つた。運命、ハメ、罪悪、さういふ方面の心理を描いて見たいと思つて筆を執り始めた作だから……。
で、一日は大抵それに潰されて了ふ。それに、他に、『旅』といふ本の校正をしてゐる。中々忙しい。
ある時は、かういふ歌を詠んだ。『家々は未だ眠りて河岸のかもめの群に朝日先づさす』といふ歌だ。鴎といふものは面白い。朝日の微かにさし始めたところに、何十羽と限りなく集つて、楽しさうに白くなつて泳いでゐる。見てゐると、羽を動かしたり何かしてゐる。丁度絵のやうである。それが急に慌だしく羽摶きをしたと思ふと、一斉に飛び上つて、そして遠く離れ離れに飛んで行つた。その飛立つた時の白い翼の一斉のきらめきが何とも言はれず美しかつた。却つて其方の方が歌になると思つて考へたが、何うも巧く纏らなかつた。
一夜は穹窿に似た大きな芝居の群の中に妻と二人で椅子に腰かけて見てゐた。型ばかり成立つたやうな芝居、つゞいて女学生上りの細君のやうな細川忠興の妻を見た。甘い芝居であつた。私の一番嫌ひな家庭的の芝居であつた。去年の『名和長年』といひ、これといひ、頗るあきたらない作者の態度だ。又、見物の態度だ。これから比べると、外国の芝居が羨しい。鬼怒川畔の男女の悲劇は、人情味に圧れて、折角の凄いところが出て来ないのを遺憾に思つた。昔見た時には、もつと凄味が多かつたと思つた。これから思ふと、先月見た『きられお富』の方が余程好い。
窪田空穂君の『鳥声集』といふ歌集は、風邪を惹いて寝てゐる床の上で見た。『濁れる川』に比べて、理屈の少くなつたのを非常に好いと思つた。それに単純なところが好い。しかもたゞの単純でなしに、複雑を通つて来た単純が好い。何うにもならない世相だ。かういふ風に君も段々感じて来たらしい。そしてそこから本当の独創が生れて来たらしい。鉛筆で、一つ〳〵印をつけて、好い歌に邂逅すると、声を立てゝ吟じて見た。
大杉君の事件も、男の立場として同情に値ひしないではない。主義の犠牲だなどといふ人もあるが、私はそれほどには思はないが、兎に角深く考へて見なければならないことだ。主義、思想などといふ境よりもつと深く入つて考へて見なければならないことだ。主義、思想、それも肝心だが、それより先がもつと肝心だ。斯した女の張り詰めた心も同情するに足りる。作をするなら何うしてもこの女の方が主人公だ。それを内田君が、『裏店の嚊のやうな無恥な行為』と言つたのは、理解出来兼ねる。君が曾て文士の生活について言つた散漫な議論も矢張さういふ調子と同じ調子ではなかつたか。同じ人間だ。もつと深く考へて見ることが我々には必要ではないか。
相馬君、片上君、吉江君、この三君のことなどもをり〳〵私の胸に上つて来た。ふとある時、この三君が、誰が一番自分に本当の生活をしてゐたらうかと思つて見た。私の考では、形は違つてゐても、矢張相馬君が一番本当の生活をしてゐるのではないかと思ふ。学問も好い。研究も好い。しかし人間は本当に目覚めて来れば、学問や研究などは何でもない。学問や研究は対社会的には好いかも知れないが、自己といふ上には何の効もないといふことを考へて来るであらう。
忙しいので、今月はねつから小説を読まずに暮した。谷崎君の『病蓐の幻想』と中村孤月氏の『人の生活』と、加能君の『醜き影』とこの三つを読んだきりだ。谷崎君の作は、深味、凄味などと言ふものが足りないが、内面的の作として鳥渡異色がある。平凡でなかつた。孤月君の作は、理智に捉はれることを気にしてゐながら、矢張理智に捉へられてゐる。醜い頬や皮膚を気にする形も、もう少し病的であつて欲しかつた。加能君の作は、自己描写がまだ楽である。人情的である。もつと辛い自己描写であつて欲しい。しかし子供が一人ある位のさうした生活と気分とは、直に受け入れることが出来た。
ある日は、私が家のすぐ裏にある葛葉稲荷の人達がたづねて来た。この稲荷は、私が此処に住んでから一年ほどして出来た宮だが、長い間その経営振を見て来てゐるので、いろ〳〵な点に於て同感が出来た。聞くと、此社は由緒ある神社で、維新前までは、京都の七条にあつて、天社宮と言はれて、歴代の天皇の勅願書や、有名な武将の祈願書などを沢山に蔵してゐるといふことであつた。それが潰れて了つたのを再興したのであるといふことであつた。五十位の中老の刀自が熱心な熱心な敬神家で、この勤行のさまは、人の心を動かすに足りるものがあつた。七年以来、一朝として水浴離を取らない朝はなかつた。神に捧げた心、昔の由緒ある宮の再興に捧げた半生といふ形であつた。今度『神の元』といふ小雑誌を拵へるので、それに子供の慈愛を元にした小説を私に書けといふことであつた、私は喜んでそれに書くつもりだ。
月の初めには、朝鮮の平安北道にゐる軍人の弟が突然やつて来た。弟は大隊長をしてゐた。新たに二箇師団出来たので、今までゐたところの兵隊を連れて、今年の春其処に行つたのだ。かれのゐるところは、江界と言つてそれはえらいところである。今夜帰つて来たのは、妻の父が死んだので、それで国に置いた妻子に逢つたり何かするために帰つて来たのだが、その江界からは、国のH市まで半月の月日を要するのであつた。かれはそこから深夜に十五六里を馬で飛ばして、鴨緑江の舟の出るところまで行つて、それから五日間その河舟の中で暮して、そして漸く新義州の汽車に乗つて、一直線に此方へとやつて来たのであつた。半月の遠い路を、妻の父の死と妻子に逢ふためとに帰つて来た形は面白いと私は思つた。私は一度弟のゐる間に、朝鮮に行つて見たいと思つた。安州から江界まで六日かゝるといふことである。又、咸興の方から行くと、十日かゝるといふことである。えらいところに、大隊が置かれてあつたものだ。
弟の話に由ると、鴨緑江を下るのが非常に好いと言ふことである。とても内地では見られない。富士川などの比ではないさうである。両岸の絶壁の迫つた中に、水量の多い河の流れてゐるさまは、何うしても大陸的だ。それに、紅葉が何とも言はれず好かつた。かう言つて弟は話した。
雨が降つたり、曇つたり、日が照つたりする間に、秋は暮れた。冬が来た。山に囲まれた故郷の病院にゐる水野仙子のことなども気にかゝつた。大分好いといふ手紙が来たので、いくらかは安心してゐるものゝ、これから寒くなつて体に触らなければ好いと思つた。『娘』といふ小説などを私は思ひ出してゐた。ある夜は、宵の中に、慌たゞしく半鐘が鳴つて、見ると、裏の硝子窓が真赤になつてゐた。F工場が焼けるのであつた。幸ひ風がないので、危険はなかつたが、火の子は一面に私の家の近所へと靡いて来た。私は丁度一緒に酒を飲んでゐたS君と、裏から下駄を突かけて急いで見に行つた。凄じく燃え上る火の光が、其処等に並んで見てゐる人達の顔を赤く照した。
底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十一巻第十二号」
1916(大正5)年12月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2019年10月28日作成
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