島からの帰途
田山録弥



 KとBとは並んで歩きながら、

『向うから見たのとは、感じがまたまるで違ふね?』

『本当だね……』

『第一、こんな大きな、いろいろなもののあるところとは思はなかつた。医者もあれば、湯屋もある。畠もある。野菜だツて決して少い方ではない。立派な別天地だ……。こゝなら配流の身になつても好いね?』

『一月ぐらゐ好いね……』

『いや、僕はもつと長くつても好い。一年ぐらゐかういふ世離れたところにじつとしてゐたい? 世の中の覊絆きづなからすつかり離れて?』

『本当だ……それが出来れば結構だけども……。とても出来さうにもないね? さうでなくつてさへ、何ぞと言ふと、都に帰りたくなるんだからね……』

 かう言つたBの言葉がKの胸にはかなりに強く響いた。そんなことを口にこそ出して言つてゐるけれども、常に、一刻も忘れられずに、その心が都に向つて靡いて行つてゐる身であることをKは思ひ起した。現に、昨夜の日記にも、かの女を思つた五行の詩を書きつけたことを思ひ起した。

『でも出来ないことはないと思ふね?』

 Kはわざとその心の底の秘密をかくすやうにして言つた。

『さうかな……? 君に出来るかな? 出来ればえらいな……』Bは笑つて、『本当にかういふところに来てゐれば、僕のためにはなるな』

 二人の歩いてゐるところは、それは丁度島の脊梁に当つてゐるやうな路だつた。右にも左にも海は見えた。凄じく鳴つて押寄せて来て、そして脆く砕けて行つてゐる波濤が見えた。遠くに帆が一つ漂つてゐるのが見えた。

『あれがT島かね?』

『さうだ……』Kはかねて一度来たことがあるので、そこらのことによく通じてゐた。

『かなり遠いね?』

『三里はあるね。何しろ、あの島は三重県だから、巡査でも、ポストでも、皆なT島の町からやつて来るんだからね? 場合に由ると、一週間も交通の絶えることがあるさうだ……』別にBは訊きもしないのにKはかう話した。

『B島はあの向うにちよつと見える奴かね?』

 Bは指さした。

『さうだ。あれがS島だ。あれから志州の鳥羽までは、まだ二里ぐらゐあるんだからな……』

『小船で渡るんぢや中々大変だね?』

『何あに、こゝいらの漁師達は何とも思つてゐないらしいね。風さへ好けりや、ぐんぐん、漕ぎ出して行くからな……。何でもこゝから鳥羽まで六里あるさうだが、ポストはS島に一ヶ所、T島に二ヶ所寄つて、それから毎日此処までやつて来るんだからね?』

『えらいこツたな』

 脊梁のやうなところを少し下りると、路は次第に、かれ等の昨夜やつて来た浜の方へと折れ曲つて行つてゐた。そこには人家はごたごたと上から下へ階段をなしてつくられてゐるのが見えた。医者の家の硝子ガラス窓が午後の日にピカツと光つた。そしてその向うには、かれ等の此夏やつて来てゐる伊良湖の鼻の長く海中に突き出してゐるのがはつきりと手に取るやうに指さゝれた。

 かれ等は昨夜十時過に、『何うだね、神島に行く舟があるがね? 行かれるかね?』かう誘はれて、蚊帳の中で眠るばかりになつてゐた身をむつくり起して、慌てゝ二人は浜に出て来たことを繰返した。凪だと言つてゐたけれども、波の音は矢張凄じかつた。不安に思つたのはBばかりではなかつた。Kも『大丈夫かね?』などと訊いてゐた。その時Bにはある暗い心が起つた。(舟が顛覆する……そして皆一度に沈んで了ふ……。暫くして、自分だけ浮き上つて助かる……さうすれば? さうすれば?)こんなことをBは考へたことを繰返した。かれはその時以来、Kの日記をひそかに見た時以来、何んなに深く苦んだか知れなかつたことを思ひ起した。その日記に書いてあるかの女といふのは、多喜子のことではないか? 自分の愛してゐる多喜子のことではないか? それはまだはつきりとはわかつてゐないけれども──何うもそれに相違ないらしかつた。Bは何んなに苦しんだか知れなかつた。かれはすつかり眼の前が暗くなつて了つたやうな気がした。今まで明るかつた海山もわびしく辛くなつて来るやうな気がした。

 BはKが自分に比べていかに優勝の位置にその身を置いてゐるかをよく知つてゐた。Kは大学生の中でも出来るのできこえてゐる方であり、弁才にもすぐれてゐれば、男振をとこぶりに於ても、とてもかれにその競争者となる資格のないのをBはよく知つてゐた。多喜子としても、自分とKとを比べたら無論Kを選んだに相違なかつた。Bは深く苦んだ。いつそ東京に帰つて了はうかなどとすら思つた。

 一昨日のことだつた。BはKに言つた。

『僕は帰らうかな?』

『何うして? まだ、来て一週間もたたないぢやないか?』

『でも……』

『何うかしたのかえ?』

『ちよつと用事のあることを忘れてゐたんだ……』

『おかしいな、何うかしたのかえ? わけがあるなら、話し給へ?』

『別に、わけなんかありやしないけどもね?』

『折角来たんぢやないか? 今月一杯ゐるツていふ予定だつたぢやないか? 何か気にでもさはつたことでもあるのかえ?』

『そんなことはない──』Bは強くそれを否定した。

 昨日は昨日で、KはBの顔をじつと見てゐたが、

『いやに悄気しよげてるね?』

『さうかえ──』

『何うしたんだらう? 何うも変だ……。気分でもわるいのかえ?』

『いや──』

 Bは唯かう言つたきりだつた。かれはその暗い舟の中を思ひ起した。船尾ともの方にぽつつり一つついてゐる灯火、それを波が揉むやうに動かすと共に、えいしよえいしよといふ船頭達の懸声が闇に響きわたつてきこえた。中でも恐ろしかつたのは、十町ほどの間、潮が凄じく青く光つて、舟は底から小山の上にでも持ちあげられたやうに見えた。それをやつと通り越して、神島の浜に着いた時には、KもBもほつと呼吸をついたのであつた。

 かれ等は島の寺で一寝入し、南瓜の実の汁と沢庵とで朝飯をすませ、九時頃からあちこちと島の見物に出懸けた。かれ等は島の南のはづれにある大きな鐘乳洞にも行けば、鵜の鳥の糞の一面に白く附着してゐる岸壁をも伝つた。長い砂浜からずつと脊梁を成してゐる細い路をもたどつた。そこにある高い嶮しい絶壁を並んで二人して通る時には、Bの胸には多喜子のことがことに強く浮んで来た……。(そんなことを考へるものではない……考へるだけでも罪だ?)さうは思ひながらも、そのKの体がまりか何ぞのやうにその絶壁の下に落ちて行くさまをかれは想像した。

 そしてその絶壁をやつと此方へ出て来た時、Bはほつと溜息をついた。Kよりもかれの方が却つて危険な路に冷汗の出るのを覚えた。これで、やつとさうした過失に陥ることから免れることが出来たと思つた。そしてその一方では、辛い悲しい感情がほとばしるやうにBの全身を揺がした。

 かれ等は村へ出て、そこで医者のもとを訪れた。それは半は崖に凭つてつくられてあるやうな家で、その薬局からは、明るい海が一目に見わたされた。凉しい風は絶えず窓から入つて来た。医者はまだ若く、漸く去年後期の免状を取つたばかりであつた。『こんな島に来たくはなかつたですけれども……村長からやかましく言はれましてな。村長の世話になつてゐるんですから、何うも断るにも断りきれませんでな……』かう笑ひながらその医者は話した。Kはいかにもその家が気に入つたと言ふやうに、窓のところに行つて長い間立つて眺めてゐたりしたが、

『これは好いね? 理想的だね? こゝに恋人ラバアを得て、一緒に住むなら、僕は決してそれを辞退しないね。さうすれば、巧名も富貴も何にも要りやしないよ。甘んじて僕は此処に引込むね?』

 此方に歩を運びつゝ、莞爾にこ〳〵しながらKは言つた。

『さういふ女があれば好う御座んすけども……。それは理想だけですな』若い医者はかう言つて笑つた。

『さうですかな? とても出来ないことですかな? 女の方で居られなくなりますかな?』

『さうでせうな、まア?』

『でも、お互ひに本当に思ひ合へば、さういふこともないだらうと思ふけども──』Kの胸に多喜子の思ひ出されてゐるのがはつきりとBにもわかつた。Bは黙つてゐた。

『馬場君、君は何う思ふね?』

 それとは知らずにKはかう訊ねた。

『さア』

『僕は出来ると思ふがね? かの女だつて恋を本当につかめば、さういふ気になるだらうと思ふがね? そら、モウパツサンに「幸福」といふ小説があつたね。あゝいふ風に、すつかり世離れて恋にのみ生きるといふのも好いね?』

『……』Bは何も言ふことは出来なかつた。

 暫くして、船頭が崖の下から声をかけた。その言ふところに由ると、何うも空の加減があやしくなつた! 早く帰らないと帰れなくなるといふことであつた。で、二人は急いでそこを辞して海岸の方へと行つた。

 船は急いで何も彼も置いて、そのまゝ帰途にと就いたのであつたけれども──現に一緒にやつて来て矢張一緒に帰つて行く筈の小学校の教員をすら、そのゐるところがわからないので、置き去りにして来たほどそれほど急いで出かけて来たのであつたけれども、しかもそれすら、夏の午後に突如だしぬけに起つて来た暴風雨の早さには及ぶことが出来なかつたのであつた。島を出て十町ほどして大粒の雨がぽつりぽつりと落ち出して来たが、それから二十分ほど経つと、あたりはすつかり凄じい光景になつて、波濤と風雨とが一つに大きな巴渦ともえうづをつくり、三人の船頭がよいしよよいしよと叫んで櫓をあやつつてゐるにも拘らず、舟は渡合どあひの潮に乗せられてくるくる廻つて行くやうになつた。

『よいしよ、よいしよ!』

 船頭達の顔には、つぶてのやうな雨が横しぶきに凄じく当つた。

 BもKも仰向に寝てゐた。何うすることも出来なかつた。体のぐしよぬれになることなどは、最早問うてゐる場合ではなかつた。かれ等は杭に縋り柱に縋つた。ともすると、舟が山の上から谷底に落ちるやうな気持がした。Bは昨夜あんなことを思つた、その自然の報酬だと思つた。かれの願つた通りの凄じい海になつて行つたけれども、かれもそのための苦しみのわけ前を受けなければならないのであつた。場合に由れば、かれもKと同じくこの海に溺れて死んで了はなければならないのであつた。それでもBは多喜子を思つた。この凄じい光景はかれの多喜子に行く唯一の道だ! といふ風にかれは考へた。

『一つの試験だ!』かうBは考へた。Kとかれと、果して何方が余計にかの女を思つてゐるか。何方が本当にかの女を愛してゐるか。それを試みるためのこの不意の暴風雨である! 何方が勝つか。何方が最後までこの災厄と戦ふか。何方が最後にその美しい眉と髪とを得るか。かうBはその凄じい風雨と怒濤と潮流との中で思つた。舟は上から下へと落ちまた底から上へとのぼつた。あたりには鼠色の空の大きな翼が落ちてゐるだけで、島の影も岬も鼻も何も彼も見えなかつた。凄じい渡合の潮の中を船は驀地まつしぐらに流されて行つた。たうとう舟は沈没して了つた。Bが波の上に顔を出した時には、もうKの姿は見えなかつた。船頭の姿も見えなかつた。かれは一生懸命に泳いだ。今こそ努力すべき時だ! と思つた。多喜子の姿がかれの眼の前に浮んで来た。しかしそれも瞬間であつた。大きな波が忽ちかれを浚つて行つた。

底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店

   1995(平成7)年210日発行

底本の親本:「草みち」宝文館

   1926(大正15)年510

初出:「女性 第二巻第四号」

   1922(大正11)年101

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:津村田悟

2018年127日作成

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