草みち
田山録弥




『此方の方に来たことはあつて?』

『いゝえ』

『でも、小さい時には遊びに来たことはあるでせう? そら上水じやうすゐの岸で、つばなや何か取つたことがあるぢやないの?』

『さうだつたかしら?』

 妹の種子は考へるやうにして言つた。

『あなた忘れつぽい人ね。そら、四国にゐる姉さんがまだ家にゐた時分よ。よく一緒に行つたぢやないの? ほら、あのふとつた喜代子さんといふ姉さんのお友達と一緒に──?』

『さうかしら?』

『忘れつぽい人ね?』

 常子は呆れたやうに、はふりつけるやうに言つて、そのまゝ静かに歩いた。かれ等の前には肥つた半白の父親と背の低い丸髷の母親とが並んで歩いて行つてゐた。田舎の街道は車や荷馬車で混雑してゐて、自動車がやつて来る度に、白い埃がぱつとあたりに漲るやうにあがつた。道の両側には、新たに建てたらしい二階の長屋が、まだ半分は空屋で長く〳〵続いてゐた。空地には草などが深く繁つてゐた。

 父親も母親も何か頻りに話し合ひながら並んで歩いて行つてゐるのが、あとから行く種子達にもそれとわかつた。をりをり父親は母親の方を見た。母親も何か頻りに熱心に話した。

 姉の常子の方には、その両親の話してゐることの何であるかが少しはわかつたが──また父親が例の感慨深い口吻くちつきで、姉の最初の恋愛の失敗について、その結果を言ふではないにしても、半分はそのために幼いものの生命を短くしたことを話し出してゐるのであるのがわかつたが、種子には何が何だか少しもわからなかつた。今朝朝飯を終へて、机のところでぼんやりしてゐると、父親が傍にやつて来て、それ! 早く支度をしろ! お前も一緒に行くのだ! とだしぬけに言つた。何処に行くのか? と思つたら、七年前に死んだ多喜子の墓に行くのだといふことであつた。多喜子の墓! 今までにはついぞさうしたことは言ひ出されたためしがなかつた。否、かれ等の家の内に於ては、多喜子といふ名は小さな声でしか話されなかつた。その話が出さうになると、いつも母親は手を振つてそれをとめた。種子は不思議な気がした。その多喜子の墓におまゐりに行くのなどはめづらしいと思つた。『さうですとも、一度ぐらゐお詣りに行つても好いと思ひますわ。何もあの子がわるいといふのではないのですもの……。さういふ不仕合な運命のもとに生れて来たのがわるいだけなんですもの……』こんなことを母親の言つてゐるのをも種子は耳にした。

 その時のことは何が何だかわからなかつたが、姉のことが新聞に書かれて、その顔が大きく出てゐたのを種子は子供心にも薄々覚えてゐる。家でも大騒ぎをして、親類の人達が大勢出たり入つたりしたのを覚えてゐる。母親の泣いたのを覚えてゐる。否、その多喜子が何処かで生れて、それが時々田舎の里親らしい女にれられて家にやつて来たのを覚えてゐる。しかも種子はその時以後、姉に逢つたことはないのである。縁があつて姉はその後四国の人に嫁ぎ、今では幸福に暮してゐるのは知つてゐるけれども──。



 種子は家を出て少し此方に来た時、母親の手から新聞紙で包んだ花を持たせられた。そこにはゑぞ菊とダリアとシネラリアとがまじり合つてゐた。田舎で花もないだらうと言ふので、それでわざ〳〵母親が今朝庭から刈取つて集めて来たのである。種子は電車に乗る少し此方こつちでそれを常子に代つて持つて貰つた。かれ等は二つ違ひであつたけれども、妹の方がほつそりとして背が高いので、ちよつと見ては何方が姉だかわからないくらゐであつた。二人はお揃ひの一重帯をしめてゐた。

 田舎の方に滅多に出て来たことのない種子に取つては、あたりの物がすべてめづらしかつた。そこに川がある。橋がある。土手の草藪の中には白い花が咲いてゐる。それは卯の花だといふ。かと思ふと、この頃流行の文化式の小さなペンキ塗の家がそこにも此処にもある。若いハイカラな細君が子供を抱いて歩いてゐる。土手が長く長く続く。牛のごろ〳〵と寝ころんでゐる牧場が見える。かれ等はさういふところを通つて、少くとも電車の停留場を五つか六つ越してそして下りた。

 常子の方はそれでもはつきりと多喜子を覚えてゐた。それは可愛い、肥つた、下ぶくれの子だつた。尠くとも三度や四度は里親が伴れて来た。

『さう……』その話が出ると常子は長くそれを引張るやうにして、『何うしてでせうね? 何うしてさう覚えてゐないんでせうね? 私はよく知つてゐるのに──』

『だつて、私、八つか、九つぐらゐですもの……。かすかに知つてはゐるけども、それも本当に微かよ』

『さう──?』

 電車を下りて少し此方に来た時、二人はこんな話をした。かれ等は父母のあとを十間ほど離れて歩いた。やがて賑かな通りがひらけた。八百屋の店の前には胡瓜が山のやうに積まれてある。その隣には魚屋がある。わるくなまぐさい臭気があたりに漲りわたつて臭かつた。小さな活動小屋には色の褪せたのぼりが二三本立つてゐた。少し行くと、また自動車が向うから来た。白い埃が烟のやうに颺つた。



 気が附くと、父親と母親とは此方が遅いのでそこに立つて待つてゐた。

『何うしたの?』

『だつて、お前達、馬鹿にのんきね。もう少し早くお歩きな──』

『だつて──』

 常子はさう言つたが、しかもその理由は言はなかつた。今度はかれ等はすぐ父親と母親とのあとについて歩いた。

『此処等は随分変りましたね……』母親はかう言つたが、『此処に林があつたと思つてゐましたがね?』

『それ、そこが切つたあとだ──』父親はかう言つて、グラウンドになつてゐる広場を指した。

『あゝ、こゝに林があつたんですね?』

『ずんずん変つて了ふね……。何うなる世の中だかわからんツていふ気がするね』父親の胸には何んなに悲しいことも、何んなに歎かはしいことも、また何んなに耻しいことも、死ぬる生きるの騒ぎも、あの人でなければ何うしてもイヤだと言つた恋の執着も、世間に対して顔向けも出来ない耻辱も、何も彼も、長い年月の中には静かに埋められて行くといふことが、今日の墓参に相応ふさはしくしづかにその心を繞つた。それに引かへて、母親は段々と年頃になつて行く二人の娘のことを考へてゐた。総領の姉ではあゝしたことで一方ひとかたならぬ苦しみを甞めさせられたが、あとには何うかさういふことがないやうに──今度こそはさういふ悪魔が入つて来るのを見落さないやうにと何遍も何遍も繰返しつゝ歩いた。

 しかも二人ともその思つてゐることは口に出さなかつた。

『本当に一年とは言へませんわ。ぐん〳〵変つて行つて了ひますね?』

『本当だよ。今に、こゝいらも皆な人家になつて了ふよ。寺も人家の中になつて了ふよ。つい昨日だと思ふのに、もう七年になるのだからね……』

『本当ですね』

 林に添つて曲つて行つてゐた道も、今は全く露になつて、少し行くと、その寺の屋根も、山門も、墓地もはつきりそこに手に取るやうに見えた。『さうなの? その寺なの?』などと種子は言つた。

 父親や母親の感慨無量なのに引きかへて──また常子の心持の次第に少女らしい感傷的な心持に落ちて行くのに引かへて、種子の眼にはあたりのものが、すべて何の意味もなしに、何の背景もなしに、唯、Blank Page として映つた。かの女はさびしい田舎寺を見た。小さな山門を見た。そこらに無雑作に五つ六つ置かれてある地蔵仏を見た。庫裡くりでは何か村の相談事でもあるかして大勢人が出たり入つたりしてゐるのを見た。種子達はずつと此方に来て、その庫裡の方へと母親が入つて行つてそこから出て来るのをぢつとして待つてゐた。父親も感慨深さうな顔をして立つてゐた。

 暫くすると、閼迦桶あかおけを片手に持つた母親は、その庫裡から出て来た。右の手の線香から烟が静かに颺つてゐるのが見えた。

 急いで此方へと寄つて来た母親は、

『矢張会か何かがあるのね。お寺の勝手元でも大騒ぎをしてゐましたよ。お赤飯なんかたいてゐましたよ』

『お寺でお赤飯は面白いな』

 父親はこんなことを言つて笑つた。

『この通りでしたね?』

 かう母親は言つて、桶と線香とを持つたまゝ、曲つて墓地に入つて行くのを、常子は後から行つて、線香の方を代つて持つてやつた。種子の眼には、夏のどんよりと曇つた日の光線の中に、繕はない垣や傾いた石塔の佗しく連つてゐるのが映つた。遠くで電車の通つて行く気勢けはひがした。

 少しだら〳〵と下りたやうなところに来て母親は立止つた。

『此処だよ!』

『さう……』先に行つた常子は戻つて、『さうでしたかね。私はもうと先だと思つた……。さう、さう、此処だわね?』

 種子の眼には小さな石塔が映つた。つゞいて其傍に立てられてある小さな地蔵さまが映つた。五坪ほどの墓地はがらんとして、草などが生えてゐた。種子は花を持つたまゝぼんやり立つてゐた。

 母親と父親とは、そのあたりを掃除したり、花をさすための穴をそこらにある竹切で掘つて見たりしたが、土が堅くつてとても深く掘れさうにもないので、そのまゝあきらめて、石塔の花立のところに一束にしてその持つて来た花を挿した。種子には何が何だかわからなかつた。何うしてかう母親がその墓の前に長く手を合はせてゐるか、堪らなく悲しいやうに涙を流してゐるか、また父親がいつもの厳しさにも似ず、手を合せて、矢張同じやうにしてそこに佇立たゝずんでゐるかがわからなかつた。種子は唯黙つてそこに立つてゐた。

『本当に不運な子でしたねえ──。あんなことがなければ、里になぞやらなくつても好かつたのに──』

『本当だ──』

 父親も母親も黯然としてゐた。

『さア、お前達もお詣りしておくれ! 喜ぶだらうから──』

 暫くしてからかう母親が言つた。それでも常子はいくらかその児を知つでゐるので、手を合はせて此方へ戻つて来た時には、その眼は涙に潤つてゐた。種子にはそれが不思議だつた。本当に悲しいんだらうかと種子は思つた。

 種子には唯小さな石塔があるだけだつた。その小さな石塔が持つて来た沢山の花になかばうづもれてゐるのがあるだけだつた。ダリアの黄。シネラリアの薄くれなゐ。えぞ菊の紫。それが注いだ水にしたゝかに濡れそぼちて、そのあるものは泣きでもしたかのやうにだらりと頭を下げてゐた。急に理由わけなしに種子は悲しくなつて来た。かの女はその悲しさを押へるために全身の力をその身に集めなければならなかつた。かの女は徐かに手を合せた。

 しかし唯それだけだつた。此方へともどつて来た時には、全く以前の種子になつてゐた。母親はぢつとその顔を見た。

『まア、これで好かつた──』

『本当ですね……。一度はお参りしなくつてはと思つてゐたんですから──』

『不思議なもんだな……人間といふものは……。落附いて了へば、何でもないんだな。一生かゝつて拭つても拭ひきれない泥を塗られたと思つたが、そんなことはなかつたんだな』

『でも、あの時は──』

『まア静かにして置け!』父親は急に手でそれを遮つて、『さうした魂が再び墓の中から出て来ないとも限らないから……。そつとして置くに限る……。そつと──』

『本当ですね──』母親も黙つて了つた。



 帰りは寺の傍を通つて、上水の土手の方へと出て行つた。種子は元気よく先に立つた。草藪には朝露がいくらか残つてゐるので、母親は裾をまくつて一歩々々下駄を持ちあげるやうにして歩いてゐた。『これは大変だね』などといふ声も後で起つた。しかも種子はそんなことを眼中に置いてはゐなかつた。かの女は誰をもあとにして、その勾配の高い土手を一散に上へ上へとのぼつて行つた。

 水が脈を立てゝ心持よく流れてゐるあたりまでかの女はその足をめなかつた。種子はそこに行つて始めてほつと呼吸いきをついた。

底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店

   1995(平成7)年210日発行

底本の親本:「草みち」宝文館

   1926(大正15)年510日発行

初出:「若草 第一巻第一号」

   1925(大正14)年101

入力:tatsuki

校正:小田代歩美

2013年116日作成

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