閑談
田山録弥
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私のこれまでに見て来たところでは、芸術をやるものは多くは無であるやうである。無為、無目的、無慾──従つて多くは虚無的傾向を持つてゐる。かれは金にも眼を呉れない。栄華にも心を奪はれない。社会の慣習にもさう多くの注意を払はない。従つて辞令に巧みでもなければ、情誼にも捉はれない。思ふことはドシドシ言つて了ふし、いやなことはいつでも正直にいやだと言つて了ふ。要するに、普通社会から見れば非常に我儘である。我儘者である。現に私なども今だに我儘者として親類や知己から呆れられてゐる。『もう、あの年になつたんだから好加減に治りさうなもんだがな』かう到るところで言はれてゐる。
ところが、私はその反対で、その我儘があればこそ! その性急があればこそ! その無形があればこそ! と実はその治らないことを自分の生命にしてゐるのである。それだから今でも女にも惚れることも出来れば、小説を書くことが出来ると思つてゐるのである。或は多少我田引水かも知れないが、子供の時の心持の今でもそのまゝに残つてゐるのを寧ろ貴とくも喜ばしともしてゐるのである。
これが世間並に平らにされて了つて、栄華を欲したり金を欲したりしたらオヂヤンである。他の眼色を見ることばかりが巧くなつたり、人にだまされぬことばかりが上手になつては、それは経路や閲歴の奴隷になつたことでさうなつたが最後、その物を見る眼は霞み、その物を判断する定規は曲り、何んなにすぐれたことでも、はつきりとその瞳には映らぬことになる。さうなることは堪らない。所謂物のわかりの好い爺になることは私には堪らない。矢張怒る時には怒りたい。泣く時には泣きたい。笑ふ時には笑ひたい。苦労人とか世間人とか言ふ名を奉られて、泣きたい時にも泣かずにゐるやうなハメには陥りたくない。
大抵の人は六分七分で韁を抑へてゐる。八分と出て行かない。何故といふのに、それは損だからである。黙つてゐる方が得だからである、つまり理智が万能の自然を圧した形である。それも場合に由てはわるくはあるまい。私でもさういふ風に身を持してゐる場合もあらう。しかし私の願ひとしては、もつと正直に出て行きたい。思ふまゝを言ひたい。はつきりとした態度を取りたい。しかしさうした態度を取つたために、他から意見されたことが度々ある。さういふ時には、きつとかう言はれる。『あなたは性急だからいけない』『あなたは正直だからいけない』『馬鹿正直といふことがあるからね。あまり正直なのも名誉にはならないよ』かう言はれると、私はいつもしよげて黙つて了ふ。
私もその六分七分の韁の好いことを知らぬではない。自分に取つて得であることをも知つてゐる。しかし何うしても私にはそれが出来ない。私は何処まで行つても私しきやない。変らない。世間並に平らにされない。
私の今まで見て来たところでは、芸術に携つてゐる人は、大抵皆なさうであるといふ気がする。我儘でそして虚無であると思ふ。
私には岩野のやうに出来ない。また島崎君のやうにも出来ない。しかし大ざつぱな考方ではあるが、私は昔からこの二人を両極に置いて眺めて来た。何方かと言へば、私は島崎君の方に偏つてゐるにはゐるが、岩野の持つてゐるものにも共鳴することは十分に出来た。岩野の中から私はあの性急と正直さとをさがし出した。あのわが儘をさがし出した。馬鹿正直と言はれても平気で出て行つたその男らしさをさがし出した。例の帝国主義などといふものは附焼刄だが、あの勇敢な心持には十分に共鳴が出来た。
島崎君はそれとは全く反対だ。あゝも違ふかと思はれるくらゐに反対だ。それでゐて島崎君にも例の芸術的虚無は過分にある。否、芸術的虚無をしつかり保持してゐる形は、当代無比と言つて好くはないかと思ふ。
国木田は幾度も幾度も芸術を捨てかけた。『だつて、君食へんからね。いくら芸術でも、食へんぢや困る』かう言つて報知新聞の市政記者になつたり、民声新聞の主筆になつたりした。全く一年ぐらゐ筆を執らないでゐたこともあつた。しかもいざとなると、『矢張駄目だよ、君。つくづく世間がイヤになつたよ。芸術だ! 芸術だ! 何と言つたつて芸術が僕の最後のかくれ家だ。君。君に逢つてかうして話してゐると、全く気がのうのうするからね。策略、陥穽の世界から全く離れて了つてゐるんだからな。芸術の世界はいゝな!』かう言つて再び筆を取り上げた。
秋声君などでも私は随分長く知つてゐる。その努力とその保持とを見て知つてゐる。硯友社から自然主義に跨る時代のあの真面目さなどは、ことに深く敬意を払ふ価値がある。秋声君には軽く突離す方面と堅く把握する方面との二つがあるが、その堅く把握する形を私は非常に好いと思ふ。
正宗君も芸術的虚無を非常に多分に持つてゐる。突放してゐるやうに見えながら、実は非常に強くつかんでゐるのである。何うかすると、あの小さい体から燃えるやうな皮肉が出て来る。近頃では、何方かと言へば文壇を馬鹿にしてゐるやうな感じがするが、それは何うしたことか。多作のためにさういふ風に見えるのかも知れないが──。今月読んだものでは、婦人公論に書いたものが面白かつた。
谷崎君が『黒髪』の序文で近松秋江君を古兵と呼びかけてゐるが、あれなんかも実際その通りだ。たしかに近松君は古兵だ。非力で、痩せて、ちよつと見たところではすぐにも何うかなりさうに思はれるが、それで中々ねばりが強い。腰が強い。何の彼のと言はれてゐる中に、十分にその自己を発揮して、その存在をあざやかに刻みつけた。私は昔から知つてゐるだけに、ことにその感が深い。
里見君なぞを見てゐると、いかにも羨ましい。いかにも張詰めてゐる。少しも凝滞するところがない。何でもその眼の前に来るものは面白いものばかりだといふやうに見える。その好奇心を惹かないものはないといふやうに見える。自分だつて、あゝいふ時代があつたんだ──あらゆることに触れて行くことの強い快楽を持つてゐた時代があつたんだ。さう思ふとさびしい。
菊地君とはかけ違つて逢つたことがないから、はつきりしたことは言へないのを遺憾とする。久米君は多摩川で逢はない前には、もつと堅い感じのする人だらうと思つてゐたが、何うして! 何うして! 話は旨いし、酒は飲むし、春雨ぐらゐは踊るし、一緒に遊びに行つて見てゐてもいかにも面白さうなのが気持が好い。宇野君は書いたものと実際とでは凡て感じが違つてゐるのを私は見た。実際では、真面目だし、本当だし、議論などにもしつかりしたところがあつた。話も旨かつた。
佐藤春夫君には、以前に一度逢つて、つい此間また逢つた。初めに逢つた時とは見違へるほど静かに落附いた感じを受けた。尖つてゐたデカタンのやうなところも余程内部的になつたやうな気がした。瀟洒にもなつた。
底本:「定本 花袋全集 第二十三巻」臨川書店
1995(平成7)年3月10日発行
底本の親本:「花袋随筆」博文館
1928(昭和3)年5月30日
初出:「随筆 第二巻第八号」
1924(大正13)年9月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:岡村和彦
2019年2月22日作成
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