尾崎紅葉とその作品
田山録弥




『色懺悔』『夏痩』あたりから、私は紅葉の作物を手にした。矢張、毎朝『読売』の一回を楽んだ方で、『おぼろ舟』のお藤『心の闇』のお粂などは、長い間忘れられないほどの印象を私の頭脳に残して居た。

 其頃『江戸紫』といふ雑誌が硯友社の人達の手に由つて発行されて居た。それを千駄木の鴎外漁史が評して、『われも紫の一本ゆゑにかの雑誌を愛読するものなり』といふ意味のことを書いた。紫の一本、無論それは紅葉を指して居た。

 文壇には其時分いろ〳〵な異つた流派があつた。根岸派、千駄木派、早稲田派、硯友社派、民友社派など、皆違つた思想と文章とを持つて、銘々めい〳〵志す方に向いて居た。雅俗折衷だの、言文一致だの、国文復興だのと、文体すらまだ一定しないやうな時代で、堅苦しい漢文調で小説を書いて居たものすらあつた。従つて文体の一定といふことがよく言はれた。美妙二葉亭の言文一致、西鶴を模倣したやうな紅葉露伴の雅俗折衷、落合直文や小中村義象こなかむらぎしやうを中心にした新しい国文調の文章、さういふものが段々に出来て行つた。其時分、文壇に出て行く人達は、先づ文体からきめてかゝらなければならないやうになつて居た。

 紅葉と露伴とは、西鶴から出て、やがて右と左に分れて行つたやうな光景を呈して来た。そして互に自分の持つて居る特色を発揮して来た。紅葉の文、露伴の想、かういふことが度々言はれた。

 紅葉ほど絢爛な文章を書いた人は其頃にはなかつた。かれの文章に対する苦心は惨憺たるものであつた。言葉の選択、辞句の排列、形容詞の配置など、かれほど文章に努力したものはないとさへ言はれた。かれは眺望に富んだ富士のよく見える山の手の明るい二階の一間で、いつも原稿紙を前にして、長い長い苦闘を続けた。



 人の心を動かすやうな筆、それを紅葉は、人情とか同情とかいふ境から得て来て居た。通俗な、普通な、水平線からは一歩も出て居ないやうな境に、かれはいつもかれの判断を置いて居た。

 寧ろその通俗な処に留つて居ることに常に心を用ひてゐたとさへ思はれる位だ。

夏痩なつやせ』といふ作が既にさうだ。作者は普通の習俗と妥協して、善を善とし、悪を悪とする平凡な道徳の境に留つてゐた。何とかいふ華族のお嬢さん──今の作者なら、それに力を籠めて描かうとするお嬢さんには眼も呉れないで、作者はそのお嬢さんの為めに犠牲になつた女達に同情の思を寄せてゐた。

『むき玉子』の女主人公ヒロインに対する円満な解決や、『おぼろ舟』のお藤に対する悲惨な哀れな読者の同情を促すやうな光景や、『焼継茶碗やきつぎちやわん』の何うすることも出来ない醜い妻の運命や──さういふ処に現はれた作者の主観は、弱い者の為めに泣き、美しく脆いものゝ為めに泣き、犠牲になつたものゝ為めに泣く普通の人間の普通の同情の涙に近いもので、それから作者は一歩も踏出してゐない。

『心の闇』はかれの前半期に於ける最もすぐれた作として許されてある。それは実際さうかも知れない。『焼継茶碗』だの、『心の闇』だのは、『伽羅枕きやらまくら』だとか、『紅白毒饅頭』だとかいふ模倣臭、俗気臭のある作品に比べては、余程構造に於て、命意に於て、純な処がある。新聞小説らしい処のないのが好い。

『心の闇』のお粂は、作者の書いた女性の中で最もすぐれたものだと言はれてゐる。それに作者は、当時にあつて、最も女性を描くことに長じたと言はれて居た。しかし女性を描くに長じたといふことは、今の作者達のやる描写と言ふことゝは丸で違つて居た。読者の好む女性、完全に理想化の施された女性──さういふ女性を創造することは、当時の批評家はさう言つて褒めて居た。

 お藤、お清、おくめ──作者の女性に対する好みは、矢張、優しい、内輪な、女らしい、犠牲に富んだ女であつた。現今の所謂自覚した女などは、作者のまだ夢にも描いて見ないものであつた。ノラのやうな女、マクダのやうな女、さういふものすら、作者は念頭に置いて居なかつたのである。

 しかし、かれの作物に──むしろ女性に、実際の面影が見えないとは言はれない。かれは無論、創造以上に、実際の社会から、さういふ女性を探し出して来た。かれの居た頃の明治の社会には、まださうした自覚しないやさしい弱い女が多かつた。親子の間の関係を大きな声で叫んだり、夫婦の間の不平不満を表面に出して言つたりするやうな女は殆どなかつた。桃割もゝわれに結つて、小胯こまたで、しほらしく歩くやうな女が多かつた。

 かれは花柳社会の女をもかなり多く書いて居る。そして、それは矢張形式に捉へられて、義理人情で縛られて、それから外へは一歩も出ることの出来ないやうな女である『三人妻』の才蔵のやうな女は、今では、花柳社会でも、前生紀の遺物のやうに思はれて残つて居る。



 二葉亭が書いた『浮雲』の言文一致はかれを促がして『二にん女房にようぼう』を書かしめた。

 かれは、美妙の『いちご姫』などに於ける言文一致に満足して居られなかつた。『浮雲』にも満足が出来なかつたらしかつた。『何うせ言文一致だから、もう少し自由に行かなくつては詰らない』かう言つたのを私は幾度も聞いたことがある。『二人女房』は言文一致に於けるかれの最初の試みである。

 流暢にして委曲を極めて居た。細かい処にもかなり入つてゐた。他の作者の企て及べないものであつた。しかし、これを『浮雲』と比べて見る。一は内容あつての描写である。他の文章を面白くする為めの描写である。従つて『二人女房』には、書き方の面白味、洒落れやうの面白味などが眼に立つて、却つてそれが為めに内容の意味が十分に現はれなくなつてゐるやうな処がある。

『浮雲』のやうな内容ある作品が其時代に出たといふことが不思議で、作者の考一つで人物を生かしたり殺したりすることの出来る時代には『二人女房』でもすぐれた立派な作品であつたに相違なかつた。

 それから後、かれは『紫』と『多情多恨』とを言文一致で書いた。

 言文一致とかれの『写実主義』とはいつも並行へいかうして行くやうに見えた。言文一致で書く時には、かれは大抵平凡な日常生活をその材料にした。『二人女房』がさうである。『紫』がさうである。『多情多恨』がさうである。それに、平凡な日常生活を描く時には、かれはつとめてそれを面白く色彩を着けて書かうとしたらしい。其処が『浮雲』の作者の真面目と違つてゐる処で、かれは『芸術は人をたのしましめざるべからず』といふ古いセオリーに全く捉へられて居たのである。

『紫』などは殊にさうした種類の誇張が甚しいやうに思ふ。正信偈せいしんげを読むお婆さんでも、医術開業試験を受けやうとする学生でも、作者が余りに玩弄し過ぎてゐるやうなところがある。

 けれどかれはかなり早くから、『写実』といふことには眼を開いた人だ。『焼継茶碗』を書いてゐる時分(明治二十四年)既にゾラの作などを読んでゐた。扇の襞を明けて見せて、かういふ風に陰から後から書いてゐるやうなところがあるのが豪いなどゝ褒めてゐた。けれど、かれは、西鶴に心酔して、それから得て来たものは西鶴の文章ばかりであつたと同じやうに、矢張ナチユラリズムの内容といふものよりは、この描き方などの方にのみ心を惹かれて居たらしかつた。

『多情多恨』になると、しかし、もう余程、その作者の色をつけた描写法からは離れて来てゐた。

 誰とだか忘れたが、ある時、かれは文章を論じて、『ドストイエフスキーの文章のまづいのは、文章は何うでも好い人の議論の弁護にはならない。ドストイエフスキーにして文章が上手ならば、一層すぐれた作者になる』とかう言つたことがあつたのを覚えてゐる。それほどかれは文章を重じてゐた。芸術──文章位に考へてゐた。若い人達の作などを見ても、二三枚読んで見て、『これは文章がなつてゐない』かう言つてすぐかたはらに置いた。

 だから、文体とか文章とかいふ方面に於ては、かれは常にあらゆる苦心をした。雅俗折衷、地の文と会話との関係、言文一致などゝ、かれが小説を新聞に公けにした時には、必ず何等かの新しい試みが施されてゐた。小説の文体と文章とが今日のやうに発展して行つたことについて、かれのあづかつた功は大きいものと言はなければならない。



『三人妻』に於て、かれはかれのある芸術の頂点まで行つた。

『伽羅枕』『紅白毒饅頭』それから『三人妻』といふ順序である。かれはその種の芸術に於て、かれの眼に映つた人生を描かうとした。西鶴が元禄時代を描いたやうに。またはゾラがフランスの生活を描いたやうに。

『写実』と言ふことは、兎にも角にも、紅葉其人の旗幟であつた。その写実が何んな写実であつたか、それは今此処で論ずる必要もないが、かれはかなりに実際の事実を重んずるといふ風があつた。ゾラを学んで、その書かうとする土地などによく出懸けて行つた。

 かれの明治の社会に対する見方は、西鶴の元禄時代に対する如く徹底したものではなかつた。かれの平凡なる道徳観は常にその聡明な眼と頭脳とを押へて十分な働きを為さしめないといふやうな憾みがあつた。それに西鶴のやうな徹底した判断を有するには、かれはまた余りに若かつた。かれが『三人妻』を書いたのは三十歳前後の時である。寧ろその年齢にして社会に対してのあれだけの知識のあつたのを異とすべきである。

『三人妻』はかれの文章中最も絢爛を極めたものである。其の鏤心彫骨るしんてうこつの努力は当時の文壇の話柄ともなつたものだ。『もうあれより先には、あの文章では出られない』などゝも言はれた。

『伽羅枕』は西鶴の一代女を真似た書き方をして居る。かれが最も西鶴に読耽つてゐた時代に書いたものだけあつて、文脈にも文致ぶんちにも西鶴らしい面影が到る処にある。しかし『一代女』と『伽羅枕』との比較は殆どその比較を為さないほど其内容に於て差違がある。『一代女』には性慾が大胆に描かれてある。モウパツサンやダンヌンチオなどの到達した以上に到達したと思はれるやうな処すらある。性慾の玩弄、それから起る疲労、さういふ境まで筆を進めてゐる。女の男に対する心理と生理、性慾を唯一の力強いものとしての人生の解釈、──其処には最早単に物語にして読んで居られないやうな一大悲痛が横つてゐる。『伽羅枕』には何処を探したつて、そんな心理はない。『伽羅枕』は一老女の単なる物語に留つてゐる。

 かれの芸術は、多くは興味中心から成立つてゐる。対照の面白味、事件の面白味、でなければ、文章の面白味を目的としてゐる。想像力の用ひ方なども、随分空想に近いやうな用ひ方をしてゐる。『面白くなければ駄目だ。現金なものサ。人が読んで呉れないからね』かう言つてかれはよく若い人達の作品を評した。

 かれに取つては、作の受ける受けないは大きな問題であつたらしい。かれは新聞の一回一回を面白く変化あらしめることに深い注意を払つた一人である。『紅白毒饅頭』などは、その意味に於ての好箇の新聞小説であつた。



 新聞小説を書く以上に、かれはある一種の芸術の憧憬を持つてゐたことは事実である。新聞小説は新聞小説として置いて、他に立派な自己の芸術を打建てやうといふ腹が段々出来て来た。イギリスやフランスの通俗作家の書いた翻案小説に長い努力の疲労を医しながら、かれは『多情多恨』を書かうと思ひ立つて居た。

 かれの名声の文壇を圧したのは、『三人妻』や『心の闇』を書いた頃で、明治二十五年乃至三十年時代である。三十年以後には、かれの作品に非難を加へるものが段々多くなつて来てゐた。『国民之友』には八面楼主人(湖処子)が居て、紅葉の想の枯れたことや、紅葉の小説の内容に乏しいことなどを盛に論じた。やゝ後れては、高山樗牛が『太陽』に拠つて、かれの作品を非難した。

 新しい時代がその時既にかれに肉薄して居た。かれは『文学界』『国民之友』『しがらみ草紙』『早稲田文学』などに養はれた若い人達の若い事業を超然として見てゐることが出来なくなつて居た。其頃起つた新体詩などには内心侮蔑を与へてゐながら、しかもそれを優遇しなければならないやうになつて居た。

 其頃、かれは久しくまとまつたものを書かなかつた。ボツカシオの飜案だの、中途で筆を絶つた作だの、門弟の作だのを『読売』に載せて居た。俳句の選者などをもしてゐた。紅葉の想は枯れた。さういふ声が高かつた。そこに『多情多恨』が出た。

『多情多恨は自家の米の飯だ』かれはかう自から表白して筆を執つた。

 若い人達は、其文章の例に似ず平淡なのと、抒情的分子の多いのに驚いた。其処では、かれはもはや『三人妻』や『紅白毒饅頭』の作者ではなかつた。つとめて自己の持つてゐるものを出さうとして居る熱心なる作家であつた。

『多情多恨』は二年にわたつて『読売』に掲げられた。しかし『三人妻』や『むき玉子』を書いた時代ほど、最早読者の心を動かすことは出来なかつた。無意味だの、冗長だのといふ批評が彼方此方に聞えた。

『多情多恨』は『紅葉全集』中最も卓れた作であることは今では誰も拒むことが出来ない事実である。この作で、作者は今まで達することの出来なかつた芸術の境に達した。『三人妻』が文章でのかれの頂点を示したと同じやうに、『多情多恨』はかれの芸術の最頂点を示してゐる。

 かれの芸術向上の途を辿つて見ると、かれは一作毎に次第に作者の小さい解釈と言ふやうなものから脱却して来て居る。

『二人女房』『紫』『多情多恨』次第に作者の興がつて筆を執る癖が抜けて来てゐる。世の中を静かに見るといふ心持が段々滲み出して来てゐる。まことを愛するの念が増して来てゐる。

『多情多恨』は性格描写に於ては、決して全く成功したとは言はれない。フロオベルの『感情教育センチメンタル、エヂユケーシヨン』などに比するには、規模も小さいし、解釈もまだ甚だ主観的に過ぎてゐる。しかし人生味の滲み出してゐる後半──殊に『花もなしに……』とさびしく結んだ芸術味は、明治文学にも余り多く見ることが出来ない好い匂ひである。

 徳川幕府末世に跋扈ばつこした多くの戯作の上に顕はれた不真面目な作者の臭味──さういふものから、かれは長い間脱却することが出来なかつたが、『多情多恨』の後半に至つて、作者は始めてそこからけて、新しい西洋の芸術の匂ひを示すことが出来た。

 葉山は作者自身の描写で、お種は作者の夫人の描写だ。従つて家庭に於ける描写は溌剌たる生気を見せてゐる。

 かれは趣味を生命として居た。それからかなり厳粛な道徳説を持してゐた。『青葡萄』を読むと、かれの人生に対し、世間に対し、友人に対し、門弟に対し、いかに押詰めた態度を持してゐたかといふことが解る。かれはまた人情と義理とを重んじた。義理と人情とを欠く奴は駄目だと言つた。それに、通人らしいところもあつた。何んなことをもわかりよく正義に解釈しやうとするやうな侠気をとこぎなところも持つてゐた。

 烈しい処もあつたが、やさしい処もあつた。その人間と人生を観る眼が、何物にも蔽ひかくされずに鮮かで明かであつたかといふことは疑問だが、直情径行な、天真爛漫な、他人に対して城府を設けないといふやうな紳士らしい処があつた。江戸生れの男らしい男──それは『多情多恨』の葉山に見るやうな男らしい男であつた。



『金色夜叉』は、かれの集中最も多く世間に知られてゐる作だ。お宮、貫一などゝいふ名は、『不如帰ほとゝぎす』の武男、浪子に於けるが如く、人口に膾炙くわいしやしてゐる。

『金色夜叉』を書いて居る時、作者は、

『何うせ、お芝居サ』

 かう言つて私に話した。『金色夜叉』は無論、新聞小説としてかれが筆を執つてゐたものである。『多情多恨』のやうな受けない作を書いた報酬として、止むを得ず筆を執つた種類に属するものである。現に西洋の通俗作家の飜案であつたことにちようしてもそれが解る。しかし、いつでもさうだが、かれはさうした俗受小説にも、自己の文章の努力を捨てることの出来ない作者であつた。で、その絢爛な文章と結構の通俗的に面白い内容とは、低級の読者の多い明治の社会の趣味に投ずることが出来た。『金色夜叉』はかれの晩年の真面目な著作としては甚だ飽足らないが、しかも世間的にはかれの名声を高めることが出来た作だ。

 かれが年若くして志をもたらしていたといふことは、此上もない文壇の恨事であつた。かれの如き精力家、かれのごとき体質を持つて、年末だ四十に至らずして逝いたといふことは不思議にさへ思はれる位である。机に対しての努力、無論それからかれの病は出たと言つて差支ないと私は思ふ。

 書斎の机の傍の長火鉢、香ばしい匂ひのする茶、贅沢な甘い菓子──それを私は思出さずには居られない。

 かれの文壇に於ける勢力は、かれが硯友社といふ作家の群を率ゐてゐたことが大きな基礎となつてゐた。そしてその硯友社には才能を持つた作家が多かつた。創作と謂へば、其時分は硯友社に指を屈したものであつた、民友社派でも、早稲田派でも、何うも創作家に乏しかつた。

 硯友社ほど団結力の堅かつた群は、其頃他に見ることが出来なかつた。紅葉と社同人との関係は、一面師弟のやうな関係があると共に、何事をも隠さない親友といふやうな風もあつた。艱難は互に助け、喜悦よろこびは倶にするといふやうな処もあつた。

 人を率ゐるの権威と才能とをかれは十分に持つて居た。

 かれはまた後進の為めに力を尽した。かれの門下に秀才が集つたのは、かれの名声に由つたばかりではなく、かれがそれ等秀才の為めに門戸を開いて遣ることに力を惜まなかつたといふことが、矢張大きな動機になつてゐる。かれは師を去る三尺その影を踏まずといふやうな干渉的な教育を其の門弟達に強ひたにも拘らず、門弟達は従順にその鞭と教へを受けて居た。その門弟達のゐる家塾には昔の師弟のやうな純な関係を見ることが出来た。



 若い人達の運動は『自由』に向つて行はれた。

 西洋に於ける八十年代の烈しい潮流は、其頃、海を越えてわが若い人達の頭に輸入されて来て居た。社会よりは箇人といふことも言はれゝば、芸術の独立といふことも言はれた。人間の血の滴る肌にもメスを当てゝ顧みないといふ意気だの、かれ悪魔たらば悪魔たるに甘んぜんといふ心持だの、犠牲博愛の無意義を説いて古い道徳を破壊しやうとする気分だのが、まだ芽を萠し始めたとまでは行かなくとも、少くとも四辺あたりにそれとなく充ち渡つて居た。

 一代の小説家尾崎紅葉が、不治の病を得て、病床にその身を横へた時は、若い人達がロシア文学フランス文学に向つて全速力を以て走りつゝある時であつた。モウパツサン、トルストイ、ツルゲネフ、ダンヌンチオの名が若い時代に若い溢るゝやうな泉を漲らして居る時であつた。

 箇人の生活、箇人の芸術、箇人の気分といふことの言はれ初めた時代に於て──箇人の道徳、箇人の自由といふ観念の徐々そろ〳〵芽を出し始めた時代に於て、かれは『死なば秋露のひぬまぞおもしろき』といふ感興かんきようを貴んだ旧式な辞世を残して、盛なる友誼と盛なる師弟の恩義と盛なる社交の空気との中に溘然かふぜんとしてこの世を去つて行つた。

底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店

   1995(平成7)年410日発行

底本の親本:「毒と薬」耕文堂

   1918(大正7)年115

初出:「太陽 第十八巻第九号 「博文館創業二十五週年紀念」増刊号」博文館

   1912(明治45)年613

※「翻案」と「飜案」の混在は、底本通りです。

※初出時の表題は「尾崎紅葉とその作物」です。

※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。

入力:tatsuki

校正:hitsuji

2019年927日作成

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