田舎からの手紙
田山録弥




 なつかしきK先生、

 ゴオと吹きおろす凩の音に、又もや何等の幸福も訪れずに、夕暮がさびしくやつてまゐりました。遠くには、高社山こうしやざんの白皚々とした頭を雲の上にあらはし、はかなく栄える夕日を浴びて、永遠に黙つて悲惨な色を出して輝いてをります。飛び行く烏はカアの一声を残して、小牛の寝ころんだやうな形をした三峰の山のかげへとその姿をかくして了ひました。──うら悲しい思ひと、夕の冷気に襲はれて、思はず身ぶるひを致しました時、白く枯れた萱の葉の音が一しきりさびしく響き渡りました。アヽ、今は冬は真盛まつさかりです。K先生、私はつい此間ひよつとして、先生の書かれた『重右衛門の最後』と『秋晴』の二篇を手に入れて、しみじみと味ひました。今更先生のことが頻りに考へられて来ます。重右衛門や、武井米三さん。あゝ重右衛門がやたら無性に『マツチ一本お見舞ひ申しませうかな』と言つて人をおどかし、米や金を取つては生活を立てゝゐた、それにはいかなる警察も舌を巻き、村の人は村の人できよときよとして唯恐怖におびえてゐた。月影うら哀しい夜、人々の怒りはつひに栄輔さんの蓮池に重右衛門の死体を物凄く浮ばせた。自然の子重右衛門! その村に居りながら、先生の筆によつて始めてその真相を知つたやうなわけで、誠にお恥しい次第であります。

先生の御存じの米三さんは、私の親父なども親しく教へを受けた方で、一時は随分人望の高い人で御座いました。しかし浮世の小夜嵐の習ひ、遂に不帰の客となられ、一家の悲痛まことに人を泣かせずには置きませんでした。しかし、年の経つた今では、令息清蔵君が私と一緒に、村の小学校で夜学などに精を出され、米三さんのお父さんは至極丈夫で、グチヤ〳〵した目をしながらも、一生懸命に農事に精励されてをります。又米三さんのお上さんもお達者で、元のやうに男さわぎもなされずに、専心清蔵さんの養育に心を尽してをられまして、今では割合に豊かな生活をしてをられます。

なつかしきK先生、

生れつき文を綴ることの下手な私は、とても先生に御覧になれるやうな文章は書けないのであります。何うかお汲みとり下さいませ。虎之助さん、『秋晴』の主人公の虎之助さん、髪ふり乱し、飯も食はず、末期の水も飲まずに逝かれた狂人虎之助さん、それは先生も御存じですが、年ふりて大正の今日此頃では、長男の秀雄君が矢張同じく清蔵君や私達と一緒に夜学にやつて来まして、その持つてゐる算盤の裏のずつと下にさがつた処には、小さく長野興業館持主渡辺虎之助と書いてあるのを見まして、益々『秋晴』といふ小説が面白く感じられました。何といふ慕はしい記念では御座いませんか。虎之助さんが黒の紋附羽織に頭髪かみのけ黒々と気取られた時分のことが何となく眼に見えるやうな気が致して為方しかたがありません。それが今、墓、塔婆、村の寺は寂然として声もないといふことを考へると、暗涙に咽ばずには居られないやうな心地が致します。しかし先生に鬼とまで書かれ、狂人虎之助さんも一目置いたお袋さんは、今だに健全で暮らしてをられ、お上さんは其後、虎之助さんの弟の凉助さんと、女が好いので若く見えるものだから、睦しく暮して居られ、子供衆も段々大きくなつて来ました。写真でもお送りしませうか。ところが私は剣舞が好きで、それを青年会や同窓会でよくやりますが、不思議なことには、私が不断借りてつかつてゐる刀、それは言ひ伝へでは、何でも其昔、虎之助さんが先生から譲つて頂いたとか、貰つたとか申すものださうで、まことうそか知りませんが、息子の秀雄さんがさう申しました。とにかく秀雄君の言葉ですから、本当なら、お返事を下さいませ。

なつかしきK先生、

谷深き信州は北の里での小さいAといふわが村にも、積雪一丈のさびしい冬が訪れまして、人は皆な寒さうな顔をして、終日炬燵にかじりついてゐるといふ有様であります。米や味噌を負つて、渋や田中の温泉へ人々は群を成して行く頃となりました。耳をもつんざくやうな風は、高い山から絶えず吹下してゐます。斑尾山、飯綱山、黒姫山、野尻湖、又は飯田町、長野市など、大正文化の今日もやはり昔のまゝの姿です。さらば、なつかしきK先生、三国一の善光寺参拝かた〴〵昔を偲ぶ虎之助さんの墓でも見に御出かけになりませんか。何もありませんけれども、蕎麦でも御馳走いたします。それから又近くに沢山温泉がありますから、その案内も致します……。

時の流れは止め度もなく流れる──人は生れたり死んだりして、谷間の杉の木は森々と茂る。人々の胸には、重右衛門も消え、虎之助さんも大方失せて、大正の今日、電信柱は引かれ、電灯はかゞやき、山中のわが村にも、二十世紀の文明がいつか流れ込んで来ました。根津栄輔さんが村長になられたことや、その栄輔さんが家の財産をつかひ果したことや、其他書きたいことはまだ沢山ありますけれど、余り長くなりますのでこの辺で筆をとめます。

一月  日
S、   T、
K先生



 かういふ手紙がある朝郵便箱の中に入つてゐた。Kは炬燵に当りながらそれを読んだ。初めは例の田舎の文学好きの青年の気紛れに書いた手紙と馬鹿にして読んだが、それが段々引つけられて、それを読み終つた時には、不思議な一種の追懐がうしほのやうに起つて来るのを感じた。深雪みゆきに埋められた山村が眼の前に見えると同時に、人生の舞台に現はれてそして消えて行つた人達や、泣いたり笑つたりしたことや、何時の間にかさうした時代はすぎ去つて、今度は若い人達がかれ等と同じやうなことをやり始めてゐることが、意味深く追懐の周囲を繞つた。

 妻の益子が其処に来たので、

『面白い手紙が来たよ』

 かう言つてKはそれを見せた。

 しかし、その手紙を読んだだけで妻にわかるのは、そこに米三と書いてある人のことだけで、あとはKが思つてゐるほど深く益子の心を惹かなかつた。この前にも、その話は、その山村の話は、Kは度々益子にして聞かせてはゐるのだけれど、何うも話だけでは、しつくりとそれを理解する訳には行かなかつた。

『米三さんのお上さんは、それではまだ家にゐるんですね』

『さうさ』

『だつて男か何かあつたんぢやないんですか』

『田舎ぢや男一人位知らん顔をして持たせて置くんだよ。子供は育てゝゐるんだし、働き者だし、その位のことは、舅達も大目に見て置くんだよ』

『さうですかね……田舎は面白いですね』

『でも、此手紙にも書いてある。此頃では男遊びもしないで一生懸命に清蔵つていふ子を育てゝゐると書いてあるから、もうさういふ真似もせずに堅くなつたんだらう。もうお婆さんだからな』

『さうね、私なんかよりは年は上なんだから』かう益子は言つたが、急に、『一体、そんな手紙を誰がよこしたんです?』

『かういふ青年さ』Kは封筒の裏をかへして見せて、『その米三君の子息の清蔵と遊び友達だつて言ふから、二十一二の青年さ。それが僕の『重右衛門の最後』だの『秋晴』だのを読んで、それで思ひ出して書いてよこしたんだよ。僕等がその村に行つたり、米三君や虎之助君が東京に出て来たりした年に、もうぢきなるんだよ、その少年達も──』

『さうですかね。米三さんの息子が、そんなに大きくなりましたかね……。お婆さんになる訳ですね』

 かう言つて益子は笑つた。

 益子が十九の春、Kの許に嫁いで来た時、その米三君は、国語の検定試験を受けるために、田舎から出て、Kの家に寄寓してゐた。米三君は其時もう三十一二だつた。学問のことより他は何にも構はないやうな人で、田舎の上さんの色の褪せたシヨオルを平気で東京の市中を着て歩いた。学校に行くにもひやめし草履をぺた〳〵穿いてはよく出かけた。今でも何うかするとその逸話が時々出る位だから、若い米三君はK夫婦に取つては面白い人であつたに相違なかつた。K夫婦の新婚の夜は、米三君はすぐ下のKの兄の家でしたゝかに酔つて、遅くなつてから帰つて来て、若夫婦と一間隔てた上り端の三畳に小さくなつて寝た。表の戸をあけて、何か口の中に言ひながら、帰つて来た時のことをKは今猶ほ覚えてゐる。

 K夫婦の新婚当座の甘い夜毎の睦言を他所に、米三君はその狭いあがはなの三畳でおそくまでこつ〳〵勉強した。寒い夜には焼芋を買つて来て、それをごそ〳〵と音させながら袂から出したりした。時には益子に方丈記などを教へた。

『好い人でしたね、米三さんは……。今、生きてゐると面白いんだけれども……』

 かう益子はをり〳〵思ひ出すやうにして言つた。

 その時には、屹度その米三君が田舎の細君と一緒に写した写真の話、それが米三君がいかにも若く美男子に、細君がいかにも田舎臭くふけて写つてゐるので、隠して何うしてもそれを自分の妻だとは言はなかつた話、夜中に余り鼠が勝手で騒ぐので、丸裸のまゝ闇に立つて行つて、マツチをスツとすると、それに驚いて、鼠がする〳〵とかれの全裸体まるはだかを肩から下へ滑り下りた話、それから若い時分に、惚れた隣村の娘をのぞきに行つて、過つて溝に落ちて、半身濡鼠になつてすご〳〵帰つて来る途中、冬なので、着物が氷つて、𧘕𧘔のやうになつた話などをしてはよく笑つた。

 それにつゞいて、Kはまた田舎の馬部屋に隣接した一間を思ひ出した。それは米三君を始め、代々主人が始めて結婚した夜に寝るところであるが、そこではかれ等は終夜馬の羽目板を蹴る音を聞くといふ話で、それがまたかれ等の話の種になつた。しかし考へると、それも笑へなくなつた。米三君の死んだ後は男が矢張こつそりそこに忍んで行つて、其処が上さんとの歓楽の庭になつたに相違ないからである。またその子息の清蔵君が成人した後には、其処が新婚の楽しい一夜をすごす室となるからである。そして馬は矢張依然としてその羽目板を蹴るに相違ないからである。其処まで考へて来ると、Kは笑つて好いか、また悲しんで好いかわからないやうな気がした。



 刀の話がまたKの心を動かした。

 その刀──手紙をよこした青年が、虎之助君の子息から借りて、青年会の席上などで剣舞をやるといふ刀、それは確か関兼英の銘のある刀である。さう大してすぐれた業物でもないが、また飾なども立派ではないが、それをKは、日清戦役当時、虎之助君の従征の餞別として、九段下の刀剣商に行つて、わざ〳〵買つて贈つた。

 Kはその時分のかれの若い姿を心に思ひ浮べることが出来た。また初めての外国との戦争に緊張された当時のありさまをも描くことが出来た。Kはその時分二十五六であつた。何も餞別に贈るものがない、さうかと言つて、書生の身では大したことも出来ない。為方がないので、安刀でも買つて贈らうと思つて、そして九段の下へと出かけた。それは大きな刀剣商であつた。今はもうなくなつたが、構なども大きく、店も立派であつた。そこでKは非常に高価な刀を見せられて困つた。二三円のものが欲しかつたのだが、そんなものは一つもなかつた。為方がないので、帰らうと思つたが、それも余り芸がないので、遂に、その話をすると、戦争の気分に誘はれていくらか昂奮してゐた主人は、『さういふわけですか。それなら一つ安いのを上げませう。その代り、飾りはありませんよ』かう言つて立つて奥から一本の刀を持出して来た。

『これはこれで中々好いんですよ。多い関の中でも好い方です』かう言つて、刀剣譜などを見せて呉れた。Kは喜んでそれを譲つて貰つて、そしてそれを抱えて、丁度麹町のいろは牛肉店の奥のところに宿割やどわりをさせてゐた虎之助君を訪ねて贈つた。

 虎之助は非常に喜んで、

『これは好い、これは好い』

 と言つて、鞘を払つて、りう〳〵とそれを振廻した。

『その刀なんですか』

 かう傍から益子は言つた。

『さうだよ……。だから面白いぢやないか。その刀をその子供達が得意がつて振廻してゐるんだから面白いぢやないか』

『本当ですね』

『時が経つと、面白いことが段々出て来るな』

『もう何年になるでせう?』

『二十五六年になるよ』

『早いもんですね』

 益子はじつと考へ込んだ。かの女の眼には米三君の顔が再び描き出された。

『一体、さういふ人達と何うして懇意になつたんです?』

『それがまた面白いんだよ。俺が十六で東京に出て、英語を習ひに、麹町の番長の塾に行つた。さうさな。何処に当るかな。今の富士見軒のある通の裏あたりかな。すつかりあそこいらは変つて了つたんでちよつと見当がつかないが、何しろあそこいらだ。そこは小さな塾だつたけれども、そら、森文部大臣を刺した西野文太郎といふ人がゐてね。あの人が英語の先生で、よくスペルリングなぞを教はつたものだが、そこにある日のこと、突然田舎丸出しの書生が三人英語を習ひに来た。野暮な襟巻なんかをして……。それがその連中なんだよ』

『さう言へば、いつかきいたことがあるやうだ……』

『いく度も話すには話したさ……。そしてそれが、その三人が四谷の塩町の柳のある湯、それは今でもあるがね。そこの主人が矢張国のものだと言ふので、そこの二階に下宿してゐて、帰り路が一所なので、つい懇意になつたのだよ』

『不思議ですね』

『本当に考へると不思議だ』

 かう言つてKは遠い昔を振返るやうな表情をした。

 かれは雪に埋れた山村が眼の前に浮んで来るやうな気がした。広い日本の土地に、そこだけが、その山村だけが殊に深くかれに印象されて残つて見えて来るといふことも不思議な気がした。かれ等三人は、その深雪の山の中から、若い熱い心、田舎にうづもれ果てゝ了ふのを慨く若い熱い心に促されて、お互にしめし合せて、いくらかの金を持つて、深夜から暁にかけて、積雪を踏んで故郷を出て来た。矢張いつの時代にも平凡と単調とに満足されぬ心持と世間を知りたい若い好奇心とは、さうした山の中にも巴渦うづを巻いてゐるのであつた。米三君は中でも殊に学問好で、その時分既に七言絶句を作つて、故郷を出る雄志を詠じたりしてゐた。虎之助君は絵が旨かつた。かれ等はKに自分の故郷の山や川の話をしてきかせた。

 その山村、雪に埋れた山村の烟、さうした処にも、矢張人の世の悲劇はあつて、いろ〳〵な人がいろいろな思ひを抱いていろ〳〵に生活してゐるのであつた。かう思ふと、Kは重右衛門の放火騒ぎのあつた時に、半月ほど其処に行つて滞在してゐた頃のことが思ひ出された。

 かれの滞在してゐたのは、三人の中で一番金持である栄輔君の家であつた。それは丁度村の西の高い山寄になつてゐるやうなところで、其処からはゴタ〳〵した田や畠やらを隔て、長い鯨の脊のやうな三峰を隔てゝ、千曲川の彼方の高社山の丸い姿が手に取るやうに見えてゐた。Kは其処で漢詩を考へたり歌を詠んだりした。髪の毛の長い蒼白い顔をしたかれの痩せた姿は、時には柱に凭り、時には机に向ひ、また時には退屈して其処等を埒もなくほうつき歩いた。近く見える杉の杜、例の重右衛門の火事騒ぎの時には、赤い火の焔と物凄い黒い烟とが黒い杜のかげに渦き上つたのであるが、時の間に米三君も虎之助君も其処に墓を築いて、一堆の土と化して了はうとはその時誰が思つたであらうか。

 それに、その頃には、栄輔君の父親も元気で、何彼とKを歓待した。流石は一代に富をつくつた人だけあつて、世の中も知り、人情も知り、物事もよくわかるといふ方で、村のことから家事のことまで、すべて一人で切つて廻した。栄輔君が東京に脱走したり、柄にもない志を立てたりして金を使つても、さう大して小言こごとも言はないやうであつたが、しかし家の財産は少しも栄輔君の自由にはまだならなかつた。その父親は若い時は、矢張重右衛門のやうに、村でも持余されたほどの放埒者であつたといふ。また困つて鎮守の賽銭箱の銭を盗んだので、村の人々に指弾されたといふ。家柄の虎之助君は、その金持面が憎いと言つては、よくKにそんなことを話したが、しかし前生にさうしたことがあつたとしても、栄輔君の父親には、兎に角すぐれた精神があるのをKは見た。父親は矢張村に満足してゐられない一人であつた。一茶の句に、『椋鳥と呼ばるゝ今日の寒さかな』といふのがあるが、その椋鳥の一人になつて、父親は江戸に出て、質屋だの、金貸だのゝしもべとなつて、そして若い時を勇ましく働いたのであつた。そして五十先になつて、村に帰つて、前生を笑ふ人達を見返つてやるほどの金持となつた。

 別れて帰る時に、丁寧に草津から伊香保の方へ出て行く路をその父親は教へて呉れたが、その親切は今だにKの頭に歴々あり〳〵と思ひ出されて来た。



 滞在中、重右衛門の出来事の他に、もう一つ話があつた。それはいつか書かうと思つて今日までその機会がなくつて終つたことであるが、あの日のこと、ふと村の川に添つた百姓家の農夫の行方が不明になつた。何うも行方がわからない。東京とか他郷とかへ出て行つた形跡は無論ないし、さうかと言つて他に家出をするやうな原因もない。金も田地もかなりにある家で、子供も十ほどになる男の児がゐる。人々は不思議に思つて、いろ〳〵とさがして見たが、何処にもその踪跡は認められなかつた。

 ところが、こゝに唯一つ人々の首を傾けさせたことがある。それはその上さんに男があるといふことである。勿論、そんなことは田舎ではよくあり勝のことで、長い間公然の秘密といふやうな形になつてゐた。だから、それで、そればかりのことで、死ぬとか、踪跡を晦ますといふことはない筈である。しかし人々はそれにくつ附けてゞも考へなければ、何うしても原因がわからないので、『それを苦に病んだんぢやねえかな』といふことになつた。と、段々その農夫の生活状態が明かになつた。農夫はその十になる男の児を非常に可愛がつてゐたが、行方のわからなくなる二三日前、その男の児さへ自分の本当の子ではないといふ風に考へて来たらしかつた。

 それからは、野良にも出ず、飯も食はず、一間に入つたきりで、人の顔をも見るのも厭だといふ風にしてゐたといふことであつた。結果として、これはどうしても踪跡を晦したのではない。何処か山の中にでも行つて死んだに相違ない。かうときまると放つては置けないので、村中の家から一人づゝ出て、そして隊を組んで、近所の山の中、林の中を捜索するといふことになつた。人々は旗見たいなものを造つたり、古いほら貝を持出したり、寺のかねを借りて来たりして、そして山から山をさがして歩いた。村のあるところはさう大して深い山でもないが、その北はM岳が聳えてゐて、その麓から半腹にかけては、深い密林があつたり、熊や猪がゐたりするやうなところなので、探しても探しても容易にその踪跡を見出すことが出来なかつた。捜索隊は終には尋ねあぐんで、止むなくその事業を中止した。

 米三君も虎之助君もその隊には入らなかつたが、栄輔君は、一日拠なく狩り催されて、三里ほども山の中を歩いて、日のくれ方にヘト〳〵になつて帰つて来た。

『どうもえらい山ですぜ。あんなに、M岳が深いとは思はなんだ。あれぢやいくらさがしてもわからねえ筈だ』

 かう言つて、栄輔君は崖や石にかまれた草鞋を縁側のところに脱いだ。

 Kが滞在中には、つひにその話は解決がつかなかつたが、二三年して、米三君が上京して来た時の話では、その翌年とか、雪消えの後、村の一人が枯枝を集めに山の中に行つてゐると、ふと前に、その前に、黒いものが下つてゐる。ギヨツとして後退したが、よく〳〵眼を定めて見ると、それはその農夫であつたといふことであつた。

 Kはその時分、ツルゲネフのものなどを愛読してゐたので、その話が一種サイコロジカルな小説でゝもあるやうな気がして、それをロシアの百姓達に引比べて考へたりなどした。それから暫く経つた後には、その話が、モウパツサンの『モツシユウ、パラン』などゝ結び附けて考へられた。

 米三君の死、それなどもまたこの農夫の縊死と似かよつてゐるところがありはしないだらうか。

 尠くとも米三君は、男女問題に苦しんだ人であつた。かれはいつもKに話した。『田舎にゐて、嬶と同居してゐたつて、面白いことなんかありやしない。それに、百姓になるには運わるく非力な小柄な人間に生れたから駄目だ』いつもかうかれは言つた。米三君の出京は、学問といふこともあつたが、それ以上に家庭問題がかれを悩ましたに相違なかつた。上さん対男の問題が非常にかれを悩ましたに相違なかつた。かれは何うかして、その田舎の境遇から脱却して、東京に生活するたつきを得たいと思つた。

 米三君は何ういふ風にして死んで行つたか。噂では、肺になつたといふことであつたが、果してさうか何うか。再び田舎の辛い生活の中に入つて行かなければならない運命が、かれに死を齎す原因となつたのではなかつたか。

 それからまだ一つ面白いことがある。それは村を貫いて流れてゐるM川の橋の袂にある雑菓店兼水車業の爺の話だ。この爺は、その頃六十位であつた。それは前に言つた、四谷塩町にある柳の湯の主人であつた男だが、矢張若い頃から江戸へ出て稼いでそして多少の産をつくつた人であつた。その上さんはお力と言つて、爺の年に比して老ひ去つたのに比べて、非常に若い小柄の女であつた。出は矢張この村のものださうだが、娘時分から東京の八町堀あたりに出てゐたので、何処となくあかぬけがして、いきな江戸風の女であつた。Kがその村を最初にたづねた時には、かれ等は去年とか東京の家をたゝんで、故郷に金を持つて帰つて来てゐて、小綺麗な家をつくつて、そこで田舎には似合はしからないやうな生活を営んでゐた。上さんはよく三味線などを弾いた。

 そこには、滞在中、Kはよくあそびに出かけた。

 と、上さんは、今の生活をこぼして、

『Kさん、是非、近い中に、東京に行きますよ。山の中はもうこり〴〵……こんなくらしをして生きてゐたつて生き甲斐はありません。まだ、東京に行つて、湯屋の株を買へば、いくらでも立派に暮して行けますからね』

『でも、折角、田舎に楽をしに帰つて来たんぢやありませんか』

『ところが、楽どころか、もう本当にいやです』

 かう染々言つた。かの女は東京を引あげて来る時に、いやだといふのを、爺にだまされて、『なアに一二年保養に国に行くんだ』と言つて、そして伴れて来られたのであつた。ところが二三年して、その爺は死んで了ひ、また四五年経つた後には、ふつふつ厭だと言つて田舎の中年の男に情婦などが出来て、遂には川畔かはばたの店をも閉めて了つたといふ話であつた。Kは雪の降り頻つた夜にその女の三味線を聞いたことなどを思ひ起した。



 虎之助君を思ひ出すと、上野の停車場附近の旅舎と、神田のお成街道の左側の奥にある黒い門と、愛宕下町の三階の高等下宿の一間とがKの眼に浮んで来た。少年のよこした手紙にあるやうに、黒の紋附羽織に頭髪かみ黒々と気取つた時代で、しかもその虎之助君の周囲には、いつも女が取巻いてゐるのをKは見た。かれは面倒な学問などをしてゐては、とてもまどろしくつて為方がないと思つた。かれはその時分流行つた化学染色術といふものに心を移して、かなり沢山な金をつぎ込んで、Nといふ山師からその染色の伝授をして貰つた。かれは二十一二で、すつかり世間にも、欲にも、女にも捉へられて了つた。かれがその山師の家に寄寓してゐる頃には、殆ど毎夜のやうに吉原に行き、それでも満足が出来ないで、附近の筆屋の娘と関係を結んで、これが、後には長野まで追かけて行つたといふことであつた。

 しかし、中でも一番フレツシな印象を今日までKの頭に残してゐるのは、愛宕下町の三階の高等下宿で、今もその家だけはあるであらうが、そこにゐた二十六七の婀娜つぽい妾ともつかずまた商売をした人ともつかない背の高い美しい女であつた。あの女は何うしたであらうか。あの人を悩殺せずには置かないあの大きな眼は何うしたであらうか。今でもKははつきりとその三階の一間を思ひ出すことが出来た。案内を上り端で乞うと、屹度その妹とも覚しき矢張綺麗な娘が出て来て、そしてかれを三階へと案内して行つた。と、二階の階梯はしごを上つたところに大きな姿見があつて、それにきまつてかれの頭髪かみの延びた蒼白い神経質な顔が映る。それがKには何となくきまりがわるかつた。殊に、娘の顔が先に映つて、それにつゞいてかれの顔が映るのがきまりがわるかつた。で、また三階への階梯を上る。と、上には六畳の一間、三方がらりと明放した小綺麗な一間があつて、そこに、その眼の大きな美しい年上の女と虎之助君とが誰れが見ても夫婦気取と言つたやうにして暮してゐた。

 友禅モスリンの大きな派手な座蒲団を女はいつもKに勧めた。

 今日考へて見ても、あゝした女が、何うして虎之助君のやうな男を相手にしたかといふことはちよつとわからないが、しかし虎之助君の方にも、大分不良な分子があり、青年期に発達する同化力乃至はジゴマ式の手管のやうなものがあつて、そしてさうした分にすぎた美しい女をその傍に引附けてゐたのかも知れなかつた。虎之助君は、その頃は、もう決して田舎者ではなかつた。着物、持物も立派だつたし、態度にも何処となく鷹揚なところがあつたし、田舎の豪農のやうな顔をしてゐれば、人も誰も疑はないやうなところもあつたので、それでさうした幕を打つことが出来たのかも知れなかつた。Kはそこでよく一緒に花札を手にしたりした。

 何でもその女と虎之助君と一緒に写した写真がある筈だ。それには女が非常に婀娜つぽく、虎之助君がいやに色男らしく写つてゐたが、それを若いKは眼を睜るやうにして見たことがあつた。その写真が今日まで、その田舎の写真箱の中にでも残つてゐて、それを再び眼にすることが出来たら、それこそ何んなに面白いであらうなどゝKは思つた。

 しかし、虎之助君のさうした径路を踏むやうになつたのも、皆なそれ〴〵理由のあることで、三人の中で、一番才走つてゐたかれは、都会人との同化力も強く、野心も多く、好奇心もさかんに、田舎になぞ埋れてゐては詰らないといふ腹もあれば、昔栄えて今は元のやうでない家運の挽回と言ふことにも常に心を寄せてゐたので、それでさうした事業と言ふ方にまつしぐらに進んで行つて、そして取りかへしのつかない深淵に陥つたのであつた。

 人間と言ふものは、不思議なものだ。早く死ぬにしても、おそく死ぬにしても、皆なやるだけのことはやつて死んで行くものだ。虎之助君にしても、後半生の悲惨の死の前生には、さうしたはなやかな生活があつたのだ。またさういふ美しい女がかれと一緒に呼吸してゐたのだ。それから日清戦役後の数年、村人に相手にされず腹立たしく世を送つた数年、檻の中に動物のやうな咆哮をして送つた数年、そして最後に悲惨な悲惨な死がその魂をつれて行つた。

 しかし、かれが長野に、興業館といふ化学染色術の新事業を起した時分は、実際それは盛なものであつた。村の人々は皆なかれを信じて、その資本の株主となつた。かれは殿様のやうにして、やわらか物に、いつも車といふいきほひで、長野と故郷との間を往来した。村の娘達は皆な目を睜つてかれを目送した。

 その時分に使用した多くの算盤の中の一つである算盤、裏に長野興業館主持主と書いてある算盤、その算盤をその一人子の清蔵君が夜学の机の上に持つて来て、それで珠算を習つたり何かしてゐるといふことを考へると、Kは過ぎ去つた月日と、更に新しく成長して来た少年達の時代を思はずにはゐられなかつた。

『新時代万歳!』

 かうKは叫ばずにはゐられない。

 またその新時代のために、健全であれかしと言ふ希望を抱かずにはゐられなかつた。手紙を寄せた少年よ。またその少年と同学同窓の清蔵君、また小米三君よ。君達の前にも、やがてさうした時代が時を移さずやつて来るであらう。さうした人生の波は凄じく押寄せて来るであらう。さうして君達もまた虎之助君や米三君と同じやうに、さまざまの運命に遭逢するであらう。歓楽もやつて来るだらう。悲哀もやつて来るだらう。銘々に持つた各自の運命は、静かに君達の前に歩み寄つて来るだらう。そして、悲しいにつけ嬉しいにつけ、または辛いにつけ、兎に角に真に生きたといふ気がするだらう。少年の頃に考へたロマンチツクな世界とは丸で違つた世界を発見するであらう。米三君の味はつたやうな悲劇も段々わかつて来るであらう。虎之助君の悲惨な最期も、心から同感することが出来るやうになるであらう。川添ひの雑菓店の上さんの心もよく飲み込めて来るであらう。また林中に縊死した老農の心も、火を放けて歩いた重右衛門の心も染々と深く考へられるであらう。そしてその時分も矢張同じやうに雪は積るだらう。大きな氷柱つらゝは軒に下るだらう。なつかしき少年達よ。Kはかう思つて、長い手紙をまた繰返して読んだ。



 三国一の善光寺参拝旁、昔を偲ぶ虎之助の墓でも見にお出でになりませんか。何もありませんけれど蕎麦でも御馳走しますからと、かう手紙には書いてある。Kは益々なつかしさを感じた。

 Kは米三君または虎之助君からも、矢張同じやうにして誘はれたのであつた。善光寺の戒壇めぐり、その話を虎之助君はよくKにしてきかせた。米三君はまた米三君で、『善光寺のトウ〳〵念仏とをからとを申せば必金仏かなぼとけになる』かういふ唄があるのを、呼吸いきをつかずに一呼吸に言へるか言へないかと言つて、一生懸命にそれをやつて見せて、KやKの妻の益子を笑はせた。現に、Kも益子もその唄を覚えてゐて、何うかすると、秋の長夜などに、子供等と一緒にそれをやつて笑つたりするのであつた。

 Kは米三君と栄輔君とに案内して貰つて、始めて善光寺に参詣したのであつた。それは野尻湖から戸隠へ上つた帰りで、何でも門前のE屋といふ先生達の泊りつけの旅舎にとまつた。そしてあくる日は、記念だからと言つて、裏道の、田圃を見晴した二階づくりの写真屋で、手札形の写真を一枚つた。その写真は今でもKの写真箱の中にあるが、子供達はをり〳〵それをひつくり返して、『え、これが父さん、さうかな。似てるかな』と言つて、その昔を不思議さうにして想像するのであつた。

 それに、その地方での有名な蕎麦切、それもKは度々御馳走になつた。栄輔君の上さんは、殊に上手ださうで、滞在中、よくそれを拵へては食はせて呉れた。Kはもう一度行つて、今度はその少年達のつくつて呉れる蕎麦を御馳走になつたら、一層愉快であらうと思つた。

 しかし、Kに取つては、その山村は、その雪に埋れた山村は、決して昔の旧い印象、青年時代に行つて見た印象ばかりではなかつたのである。その手紙を呉れた少年達は、Kが五六年前、雪の降頻る中を衝いて、栄輔君をその家に訪ねて、一夜をそこにすごしたことを知らなかつた。またその時川の畔の雑菓店の上さんに逢つて来たことをも知らなかつた。

 その時は、Kは前の夜に、栄輔君の許に電報を打つて置いて、暁近く、牟礼の停車場で汽車を下りた。寒い寒い朝だつた。それに、まだ早いので、停車場前の店は何処でも戸を閉めて、ちよつと休みたいと思つても、何処にもさうしたところを発見することが出来なかつた。為方がないので、Kは青年時代に通つたうろ覚えの路を川に添つたり崖に添つたりして歩いた。黒姫の雄大の雪のながめは何とも言はれなかつた。しかし、途中からは、俄かに吹雪になつて、倉井といふ村を通る時分には、蝙蝠傘も何の役に立たず、全身風雪に埋められるやうにしてKは歩いた。

 それにしても、倉井のSといふ金持は何うしたであらうか。今も矢張金持で栄えてゐるであらうか。そこの息子が、矢張その時代に米三君や虎之助君と同じやうにして東京に出て来たことがあつたが、突然Kの家にたづねて来たので、Kの母親が心配して、宿屋へ案内してやつたことなどがあつたが、その宿屋は今も猶ほ東京にあるが──

 で、Kは何うやら彼うやら、そのなつかしい村へと入つた。しかし、栄輔君の家をさがすのが容易でなかつた。同じやうな家がそこにも此処にもあつた。聞いても聞いてもわからなかつた。そんな筈ではなかつたが、すぐわかるところにある筈だと思つたが、新しい家が沢山出来たゝめか、それとも昔の記憶がおぼろげになつたためだか尠くとも栄輔君の家をさがし当てるまでに小一時間もかゝつた。

 漸くわかつて入つて行つた。その田池、例の重右衛門の死んだ田池は依然として元のまゝで、その周囲には深く雪が埋めるやうに積つてゐた。

 案内を乞ふと、出て来たのは、忘れもしない栄輔君の上さんだ。

 上さんも覚えてゐたらしく、

『東京のKさんですね。まア……』

 かう言つて迎へた。

 栄輔君もやがて出て来た。お互に年を取つて、なかば白頭しらがになつてゐたけれども、それでも気分は変らなかつた。元気な調子でKを迎へた。

 三人の中では、この栄輔君が一番平凡であつただけ、それだけ常識にも富んでゐて、その時まで別に変つたこともしなかつたのである。また東京に出ることも、他の二人に比べては、至つて少なかつたのである。尠くともかれはその父親の貯へた財産で、楽に、または威張つて一生を送るだけの余裕を持つてゐたのであつた。

 しかし、矢張、人生の烈しい潮流の中にゐては、有為転変は免るゝことが出来なかつたのか、少年の手紙に由ると、その父親の残した財産をも、村長になつたり、何かして、すつかり亡くして了つたといふではないか。

 けれど、Kの五六年前に訪ねて行つた時には、家の中に、何処かさびしいところがあつて、何となく元気が昔のやうではないと思つたが、しかし、さうした衰運が早くもその家を襲つてゐるとは夢にもKは思はなかつた。Kは雪に埋れた家の中で、炬燵に当りながら、地酒を御馳走になつたり、蕎麦を打つて貰つたりして、楽しく、且つ何事もなしに一夜をそこにすごした。

 あくる朝、Kは、

『米三君や虎之助君の墓に、お詣りして行きたいもんだがな』

 かう栄輔君に言ふと、

『行けるずらか?』

『何うして?』

『雪が深いで……』

『そんなに深いかね』

『冬は駄目でさ。すつかり埋つて了ふだで。折角行つても、墓は何処だか、ちよつくらわかりにくいずら?』

『さうかね』

『へい、もう冬は山は駄目でさ。何処に行くつたつて、雪だでな。まア、四月にでもならなけりや──』

 為方がないので、Kは寺へ行くことを思ひとまつた。

 しかし、かれは墓を知らないのではなかつた。米三君が死んだ翌年、Kは北国の旅の帰途に、柏原駅で下りて、一茶の墓や跡をたづねて、それから山越しに此処に来た。それはひどい路だつた。それと言ふのも、丁度雨あがりか何かであつたゝめで、二里の路に、旅に出る前に買つた赤靴も何も彼もめちや〳〵にして了つた。ハネは洋服のズボンの上まで上つた。その時は栄輔君は生憎不在で、米三君の家に行つて、上さんに案内して貰つて、寺の奥の土饅頭の前に立つた。

 その時分は、まだ虎之助君は生きてゐて、檻の中で、終日凄じい咆哮をつゞけてゐたといふことであつた。

『粂公は何うしたね』

 ふと思ひ出して、Kは栄輔君に訊いた。

『丈夫でさ』

『金でも儲けたかね』

『余り儲けもしねえずら!』

『矢張、あそこにゐるかね』

『えゝ』

『上さんは?』

『矢張丈夫で働いてゐまさ』

『よく辛抱が出来るね。たしか、東京の練馬のもんだね』

『さうずら?』

 この粂公と言ふのも、矢張、米三君が上京してゐる時分に、よくKの家にやつて来た村の衆の一人であつた。米三君は、Kの家に同居する前に、その粂公の家にゐて、そこから学校に通つた。それは牛込の原町の奥になつてゐるやうなところで、三間しかない小さな家だつたが、一時は牛乳業に成功して、何うか彼うかその方で一家を経営して行けさうに見えた。上さんになつた練馬生れの女といふのは、その時分、近所の、かれがよく牛乳を朝毎に配達して行く軍人の宅か何かに奉公してゐたものであるが、仇口を言つたり手を握つたりしたのが元でいつとなく互ひに思ひ合つて、米三君がそこに下宿してゐた時分には、ひまを見ては、よくその家にとやつて来てゐた。従つてそこでも二三度落合つて口をきいたことがあつた。

『イヤ、何処に行つても、若い男と女のいちやつきばかり、勉強も何も落附いてしてゐられやしない』

 かう米三君はやつて来てはよくKにこぼした。

 粂公はその女と一緒になつてから、牛乳の方も旨く行かないので、一時、国から資本を融通して、貸蒲団などをしてゐたが、それも思はしくないので、つひに田舎に帰ることになつた、その時、上さんは、そんな山の中の田舎に一生燻つて暮す位なら、離縁を貰ひたいと言ふので、一悶着起つて、米三君が仲に入つて困つたことがあつた。その上さんが二十年の後も猶ほこの山の中に働いてゐると思ふと、Kは不思議な気がせずにはゐられなかつた。さま〴〵の人生だ。実際さま〴〵の人生だ。

『子供は?』

『もう五人だ、たしか』

『そんなになつたかな』

『早いもんですよ』

 Kは考へて、

『奴にも逢つて見たいな』

『逢つたつて、何うにもならねえずら?』

『困つてゐるのかね』

『二三年前、温泉を始めるんだなんて、人に損をかけて……碌でもねえことばかりしてるだよ』

『温泉とは面白いね、そんな望みのあるところがこの近所にあるのかね』

『何アに、ちやらのほこでさ』

『しかし面白いぢやないか、それは』

『もう少し何うにかなつてゐりや、好いずらが、鉱泉だで、沸かさねえぢや何うにもならないだで』

『家も拵へたのかね』

『拵へたがね、すつかり手を焼いちやつた』

 Kは粂公からつゞいて、矢張その時分にやつて来た金貸をしたといふ大きな男を思ひ出した。

『そら、大きな眼鏡をかけてゐた……』

『誰ずらな』

 栄輔君にもちよつと思ひ出せないといふ風であつたが、いろ〳〵Kが話すと、漸くそれとわかつたらしく、

『あゝ、それぢや定公だらう?』

『定と言つたかな何でも、小金を持つてゐて、利子も安く、取立も厳しくないので評判が好かつたのが、ある夜、賭博に負けて、それからすつかり自暴やけになつて、村にゐて威張つてゐたのが急に威張れなくなるのが辛いと言つて、東京に来て、然るべき妾でもさがして、一為事始めたいとその時分言つてゐた男だが……』

『それぢや定だ』

『何うしたね、今』

『何うしたかな。何でも五年ほど前に、長野にゐるツて言つたが、今は何処に行つたか誰も知るまい』

『かうした狭い村にも、いろ〳〵なことがあるんだな』

 かうKは言はずにはゐられなかつた。

 帰る時には、栄輔君は、途中まで送つて行くからと言つて、外套などをはをつて、そして一緒に歩いて来た。幸ひにその日はよく晴れて、冬にはめづらしいと言はれるほどの好い天気であつた。M川は美しく日に光つて流れた。

 雪のキラ〳〵する山際の路を段々此方へとやつて来たが、ある曲り角に来た時、栄輔君は立留つて、

『それが、粂公のやつた温泉でさ』

『何れが?』

『これ、向うの隅に家が一軒見えるでせう。あれがさうです。此処等は、昔から湯が出る湯が出るつて言はれたところで、冬も雪の積り方が少いところですが、何うもやつて見りや矢張駄目ですよ』

『それでも少しは温泉が出るのかね』

『出るには出ます。何アに、始めた時は、大騒ぎでしたよ。県庁まで分析を願ひ出たり何かしたんですよ。それに一時は流行りましたな。A村に温泉が湧き出したなんて、長野の新聞までが大袈裟に書いたり何かしましたよ』

『折角それまでやつたんなら、何うにか行きさうなもんだつたがな』

ぬるいから駄目でさ。これが、本当の湯なら、それは大変ですがな』

『で、先生、いとゞない金をなくしたつて言ふ訳ですな』

『なアに、先生は何うせないんだから、損をしやうにも、しやうがねえが、そのために、身代を半分もへらした奴は二三人はありますよ。先生旨いからな、口が……』

『虎之助君の時のやうに、旨く乗せられたつていふ訳ですな』

『あれほどもないけども……』

『君も損をした一人ですか』

『まア、少しは損をしましたな』

 かう言つて栄輔君は笑つた。

 で、二人は段々その家のあるところへ近づいて行つた。成ほどそのあたりは雪も少く、土なども見えて枯れた芦などが縦横に折れ伏してゐたりした。Kは栄輔君に誘はれて、その浴舎──浴舎と言つてもさう大して大きいものではないが、兎に角其処に一時は村の人々が集つていろ〳〵義太夫なんか声張り上げて唄つたであらうと想像される家が、すつかり荒廃して、浴槽の中には、赤銅色をした水が一杯にさびしく湛えられてゐるのをKは目にした。

『一体、いつの事です?』

 かうKは訊いた。

『昨年、もう一昨年になるけども……』かう答へて、少し考へて、『何うも、村のものは、何かめづらしいことをしたがつて困るんですよ。何うも、他の村と違つて、さうした人間が多いと見える』

『何うもさうらしい』

『貴方などが御覧になつても、さうでせう。それから比べると、芋川や倉井のものはもつと地道に稼いで働いてゐますがな』

『矢張、田舎に落附いて、ぐづ〳〵してゐられないやうな人間の多く出るところだね……』

『わるい気風ですな』

 かう言つて栄輔君は其処から出て来た。

 村のはづれのところまで行つて、そこでかれ等は別れた。



 低い丘陵の中に深雪しんせつに埋れて冬を過ぎて行くA村のさまは、その手紙を貰つて五六日経つた後にも、猶ほをり〳〵Kの頭に思ひ出された。

 不思議な縁のやうにも考へられゝば、また特色を持つた人達の住んでゐる村のやうにも考へられた。或は始終そこに住んでゐたなら、始終でなくとも一年にせめて一度位そこに往来する機会があつたなら、さう際立つてめづらしくも思はず、米三君や虎之助君のことなども、別に興味を惹かなかつたかも知れないのであるが、たまさかにをり〳〵触れて見るといふことが、いつもKの印象を呼びさまして、広い人生のあるあらはれをまざ〳〵と眼の前に見るやうな心持を起させると見える。Kは麹町の英語の塾での遭逢などを再び頭に繰返した。

 手紙はかんでわからないけれど栄輔君の家産を蕩尽したことにも、何か一つの物語がありさうにKには思はれた。また子供といふものを持たない栄輔君の上さんの身の上にも、深い涙が包まれてゐるやうにも思はれた。牟礼、芋川、倉井、殊に牟礼停車場附近でその旅の途中に見た酌婦達の生々とした生活、炬燵板の上に相面あひづらしてキヤツキヤツと騒ぐ白粉をつけた女、さうしたものと相連繋した物語があるのではないか。或は栄輔君は、地道な、常識的な、平凡な、堅いと言はれた栄輔君は、今の年になつて、そして始めて、米三君や虎之助君の体の中に流れた血の逆流して来たのを感じたのではないか。金の番人として、親から子へ、またその子から孫へといふ、平凡なリズムを踏むことをつまらないと思つて来たのではないか。ことに、子供といふ、ものゝ味を知らない身の上であつて見れば、そのKの想像も、決して理由のない想像ではないのである。

 誰が幸福なのか、誰が不幸なのか、また誰が天才なのか、誰が常識なのかさういふことは一概に簡単に言つて片附けて了ふことは出来ない。従つて米三君の死も、虎之助君の死も単に不幸だと言つて了ふことは出来ない。一生立つて見なければわからない。完全にすぎ去つて了つて見なければわからない。現に幸福の人の随一と言はれた栄輔君だつて、今になつては何うなつて行くかわからない身の上になつたではないか。手紙をよこした少年乃至その少年達だとて、矢張さうだ。不思議な人生だ。悠々とした人生だ。

『少年達に幸福あれ──』Kはかう思つて、再びその雪に埋れた山村を頭に描いた。

底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店

   1995(平成7)年210日発行

底本の親本:「百日紅」近代名著文庫刊行会

   1922(大正11)年1218日発行

初出:「新小説 第二十三年第二号」

   1918(大正7)年21日発行

入力:tatsuki

校正:津村田悟

2019年730日作成

青空文庫作成ファイル:

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