一室
田山録弥
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「行きますか?」
片語の日本語でかう李が言ふと、
Hは、
「何うします?」と言つて私の方を見た。
「ちよつと見るだけ見たいんだが、さういふわけには行きませんか」
「それは行きますとも……」
「買つて見るなどといふ興味は無論ないんですから──」
「好う御座んす……」
Hはブロオクンな支那語で何か頻りに李に話した。李も手真似をして頻りに何か言つてゐたが、やがてそれが飲み込めたといふやうにして点頭いて見せた。
自動車は私達をのせて動き出した。それは露天市場を見物に行つた帰途であつた。狭い小崗子の通りの方へと私達は向つて行つた。
「支那の妓は何うも日本人には向きませんな……」
これはTだ。
「そんなことはありますまい。廉くつて、親切で、一度はまり込むと、生涯忘れられないといふぢやありませんか?」
「さういふ人もあるかも知れませんけれども、何うも汚なくつていやだね。不愉快だね。H君は何うだえ?」
「僕もイヤだね?」
「しかし、それは始めの中だけでせう。深くなれば、同じことでせう。色恋は汚ないものぢやないですか? また汚ない方が好いつていふぢやないですか?」
「変態性慾の方ならさうかも知れないでせうけれど──」
私達はそのまゝ黙つた。
自動車はいつか細い狭い通りを此方から向うへ抜けやう抜けやうとして努力してゐた。庇の低い混雑した店屋が暫し続いたかと思ふと、今度は高い塀のやうなものがあらはれて、それがずつと狭斜らしい感じのする巷路へと入つて行つた。
ある一構への家屋の前で自動車はぴたりと留つた。李を先きに皆なは下りた。
私の眼には、中庭を二階で囲つたやうな家が映つた。入口までずつと石を敷きつめたやうな家が映つた。狭斜は狭斜でも、下等なところらしく、入口が二たところもあつて、その上のところに妓の名の書いた札のかかげられてあるのを私達は見た。一つは張鳳と書いてあつた。もう一つの方は張飛郷と書いてあつた。見事な小楷だつた。
「女郎屋かね? こゝは?」
私は訊いた。
「いや、芸者屋です──」
「ちよつと女郎屋のやうな感じがするぢやないか」
こんなことを言ひながら、私達は李のあとについて、その手前の張飛郷と書いてある方の家へと入つて行つた。
やり手らしい五十先の肥つた丈の低い女が出て来て、何か頻りに李と話してゐたが、余り好い客でないといふことがわかると、いくらか落胆したといふやうな様子で、迎へ入れるには入れても、余りちやほやしなかつた。室は八畳ぐらゐの広さで、炕の上に茶湯台がひとつ置かれてあつた。奥には三畳ぐらゐの寝室があつて、枕の並べ置いてあるのが白い幔幕の間からそれと覗かれた。
「何うも、これが──この寝室が感じが好くないね。何処に行つても皆これだからな」
「本当だね。矢張、先生方は寝る専門なんだなあ!」
TとHとはこんなことを言つてその室を覗くやうにした。
「これだけかね?」私はあつけないといふやうな調子で、「此処で酒でも飲んで、あとは寝るばかりかね?」
「さうです……殺風景なもんですよ。先生方の女買ひといふものは?」
これはHである。
「しかし折角来たんだ。これで帰るのも余り曲がないね。ひとつ歌でもうたはせて見るかな?」こんなことを言つてゐると、其処に十七と十五ぐらゐの背の低い小さな決して奇麗とは言へない女がチヨコチヨコ入つて来た。
「これが張飛郷か張鳳かね? えらいこつたね? それに丸で子供ぢやないか。こんなものが相手になるかね?」
かう私が言ふと、Hは説明した。
「支那人はかういふ小さいのが好きなんですよ。もう二十五六になると、老娘として相手にされやしません。小さい、弱々しいものを酷めるやうにして可愛がるといふのが、かれ等の性慾ですよ。だから小さければ小さいほど好いんです、……」
「さうですかね?」
李は、「それでは歌はせますか」と念を押してから、ちよつと戸外へと出て行つたが、今度入つて来た時には、胡弓を持つた師匠──妓が歌ふ時にはいつもそのために奏楽する師匠を伴れてやつて来た。かれはそこにその位置を占めるとそのまゝ、何も言はずにすぐ胡弓を弾き出した。
柄に似合はず、またその初めの感じの汚なかつたに似合はず、それにつれて歌ひ出した妓の声は、冴えた見事なセンチメンタルなものだつた。何処からかうした声が出るかと思はれるほどそれほど声が美しかつたばかりではなく、一種支那でなければ味ふことの出来ない哀愁をこめた旋律が、その暗い狭い汚い一室に巴渦を巻くやうに漂ひわたつた。私は急にそこに芸術のエンヂエルが下りて来たやうな感じに撲たれた。
それは何処の国にもそれ相応に独殊な歌の旋律はあるだらう。ロシアにはロシアの旋律があり、フランスにはフランスの旋律があるだらう。日本にも日本特有の旋律があるだらう。しかも、このセンチメンタルな歌声は? 絶えんとしてわづかに続くと言つたやうな、または身も魂もそれに打込んで了つたといふやうなその悲しい美しい恋の曲は! 実際、これは支那でなければ味はふことの出来ないものではなかつたか。
歌曲の終るのを待つて、
「好いな……。矢張、支那だな。何んな場末でも、支那は支那だな。本家だな! といふ気がするな。啇女不レ知亡国恨、隔レ江猶唱後庭花、多恨な杜樊川でなくとも、これをきくと涙を誘はれるよ」
「本当ですな、わるく感情的ですな」
「これで好い心持になつた──」
汚い茶湯台も、不愉快な寝室も、低い天井も、薄暗い空気も、何も彼もすつかり忘れて了つたやうに私は愉快になつた。成ほどこれでは酒なんかいらないわけだ。酒よりもかうした歌の方がもつともつと蠱惑的だ。……もつともつと肉体的だ……。
「もうひとつやれ! もうひとつ……。今度はお前がやれ!」
私はかう小さい張鳳に言つた。
張鳳はきまりがわるさうに炕のところに身を寄せたが、今度は椰子といふ木片と木片とを合はせたやうな単純な楽器を手に持つて、それを合はせたり離したりして、それから起る音の旋律に節を合はせつゝ頻りに声を立てゝ歌つた。私は次第に何とも名状し難いセンチメンタルな心持になつて行つた。私の体はその歌の旋律に強く緊めつけられるやうな感じを受けた。ひとり手に涙が絞り出されて来た。
底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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