一少女
田山録弥
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私達が北満洲に行つた時の話ですが、あのセミヨノフ将軍の没落した後のロシアの避難民のさまは悲惨を極めたものだつたさうです。何でもハルビンも危険だといふので、手に手を取つて松花江の氷の上をわたつて、陸続として長春から吉林の方へ入つて来たのださうですが、それは惨めなものだつたさうです。私達は国境近いところから、何処の町に行つても大きな包を負つて跣足で歩いてゐるロシア人を多く見ました。かれ等の中には、支那の苦力に交つて労働してゐるものもあれば、杜の中に乞食でも住むやうなバラツクをつくつて、そこで日向ぼつこなどをしてゐる光景を私達はよく路傍で見かけました。それでもその時分はもう初夏に近い頃でした。何と言つても暖かい日影はあたりに漲つてゐました。野にはアカシヤの白い花が咲き、杜には緑の濃い絵具をまき散してゐました。蕨なども生えてゐました。従つてさういふ人達も、私達には決して悲惨とばかりは見えませんでした。自然の中に更に小さく展げられた絵か何ぞのやうにさへ見えたほどでした。
私達を乗せて吉林のあちこちを見物させて呉れた馬車の馭者をしてゐた男も、その避難民の一人で、何でもセミヨノフ将軍づきの騎兵大尉だつたといふことでしたと公署の役人の一人は言ひました。
『だから、先生、馬を取扱ふことは名人です……、何と言つてもコザツクの馬を平生取扱つてゐましたから……。さうです、先生達困つてゐるんです。公署で、食はせて十八円でつかつてゐるんですから……』
『十八円!』
私達はその金の額に由つても、いかにさういふロシア人達の困つてゐるかゞわかるやうな気がしました。吉林では私はことにさういふ多くの人を見ました。ツルゲネフの小説の中にでも出て来るやうな人達。髪を箒のやうにして、破れた帽子一つ被らずに、ぼろ〳〵になつた服を着て歩いてゐる背の高い人達。大きな包を負つてやつと歩けるくらゐな子供を伴れてゐる女達。ハルビンでは、いくら避難民でもまだ身装を崩さないものをも沢山見かけたのに、此処では、さういふ人達は捜しても見つからないほどでした。
『あれで、あゝいふ人達も、皆な身分のあるやうな人なんですから……』
一緒に長春からやつて来たIさんは言ひました。
『内部をきいて見ると、随分惨めださうです。それに、支那人が狡いですから、かなりひどい眼に逢つてゐるらしいです。ロシア避難民救護本部などと言つて、表面だけは非常に世話をしてゐるやうに見せかけてゐますけれども、支那人は随分ひどいことをしてゐるさうですから……』
『さうでせうな』
Iさんも心から同情するやうに言つた。
『何しろ、去年の冬は、惨憺たるものでした。スンガリイの氷の上を隊を成してわたつて歩いて来たんですから……』
『あなたはその時ゐましたか?』
『いや、私は春になつてから此方へ来たんですけれども、公署でも見たものが沢山あります。靴も破れて韈だけで歩いて来た女などもあつたさうです。凍えて死んだ子供をそのまゝ背負つてゐたものも何人かあつたさうです──』
『ふむ──』
私達はかう言つて、その時のさま──幾重にも折れ曲つてゐる松花江の氷の上を其処に一隊、かしこに一隊といふ風にして命から〴〵逃げ避けて来た人達のさまをそれとはなしに眼の前に描くのでした。
松花江の流が遠い支那の奥地から来て、龍潭山の麓を繞つて、それからずつと吉林の市街の瓦甍を取巻いて、帯のやうに美しく流れてゐるさまが、北山公園の上から手に取るやうに眺められるのでした。そしてその下流は、長白山脈を右にした、襞の多い、皺の多い山地の中へと徐かに日に輝いて流れて行くのを私達は見ました。
『ハルビンのあるところまで、この川に添つて下れば、余程ありますかね?』
『かなりありますね。三四十里、もつとありますかね?』
これはIさんだ。
『もつとありませうよ。陸地で真直に行つてもそれぐらゐあるんですから……。川が非常に曲つてゐますから……』
『さうですか? 曲つてゐますか』
口へは出して言はなかつたけれども、誰の心にもその川の氷の上をジプシイのやうにしてわたつて来たロシア避難民のことが思はれたのでした。母親は子を負ひ、息子は老いた親の手を取つて、破れた靴で、またはその靴もなしに韈だけで、三日も四日もその氷の上をわたつて来たといふその人達のことが──。
『向う側に行つて見ますか?』
川に添つた公署で休憩してゐた時、かうIさんが言ひました。
『さうですな。厄介ぢやないんですか?』
私が言ひますと、
『ちつとも……。ねえ、君』向うに椅子に腰かけてゐる若い公署長心得の方を向いて、『舟はいくらもあるね?』
『あるとも……すぐ支度させます』ちよつとそこにゐた役員に目配せしましたが、その役員の立つて行くのを見送つてから、
『でも、行つても別に面白いこともないでせうけども……』
『でも、まだいくらかゐるにはゐるだらう?』
『避難民かね?』
若い公署長心得はIさんの方を見ました。すぐ言葉をついで、
『もう、大分ゐなくなつたね。もう沢山はゐないよ』
『でも、Tさんなんか御覧になつて置く方が好う御座んすよ。……何かの参考になるかも知れない』Iさんはかう言つて私の方を見ました。
舟の用意は手間を取りませんでした。そのまゝ私達は川の岸へと下りて行きました。そこには舟はあつたにはあつたが、何んな舟があつたと思ふ。あのアイヌのカノオを思ひ出させるやうな舟。細くつて長い〳〵舟。おとなしく真中に蹲踞つてゐないとすぐひつくり返りはしないかと思はれるやうな舟。そればかりではありません。或は丁度その時が舟が多く入つて来てゐない時なので、それでさう思はれたのかも知れませんが、段々漕ぎ出して行つて見ると、全く原始的な感じで、舟もなければ筏もなく、唯、岸に連つた人家の影がさびしく水の面に落ちてゐるといふだけでした。それに、川も静かに〳〵流れて、ともすれば、何方が上流だか下流だかわからなくなるくらゐです。それに、深いところもごくわづかで、一町ほども向うに近くと、もう浅い洲がところ〴〵に出来てゐて、をり〳〵舟がそれにつかへるといふ始末です。
『ほ、成ほど、ロシア人がゐるね?』
『あれが避難民だね?』
『女なんかもゐるぢやないか』
やがてかういふ言葉が私達の口に上りました。岸には午後の日の当つた疎らな林がをり〳〵バラツクを点綴させて連つてゐました。藪だの萱原だのが次第にはつきりして来ました。
成ほど多くは残つてゐませんでしたけれども、それでもそこに一つ、彼処に一つといふ風にバラツクが建てられてあつて、中には貧しいとは言ひながら、草色に塗つたペンキの家などもいくつか見かけました。林のあたりには洗濯して日影のある中に乾かして了はなければならないシヤツやらズボン下やら上着やらが手のとゞく限りの枝にかゝつてゐて、その持主らしい若いロシア人が五人も六人もそこらをブラ〳〵歩いてゐました。大きな獰猛な犬が此方を見て吠えたりしました。否、その若いロシア人達も始めは気にでも懸けるやうに私達の舟から上つて行くのを立留つて見てゐたりしましたが、やがて他事がないといふことがわかると、また始めやつてゐたやうに、あるところからあるところまで歩いては戻り歩いては戻りしてゐるのを見ました。
『あいつ等、上衣を洗つたんで寒いんですよ。それであゝして歩いてゐるんですよ……』
かうIさんが言ひました。
『あゝ、もう三分一も残つてゐない』これは公署の役人でした。
公署の役人の話では、冬中は尠くともそこらだけでも二三百家族は住まつてゐたといふことでした。よく焚火などをしてゐたといふことでした。『何しろ、避難民と言つても、身分がある人が多かつたですから、一層気の毒でしたよ。帝政時代には貴族だつたといふ人の家族なども幾人か来てゐました。軍人なども随分ゐましたよ。何うも、人間といふものも、国があんな風になるとあゝも落ちぶれるものかと思ふと、日本なんか難有いと思ひましたよ。日本の国民は、何処に行つたつて、まだあんな惨めな目には逢つてゐませんからね』こんなことを話しながら、その役人達は、林から林へと縫つて建てられてあるバラツクの方へと私達を伴れて行きました。
女達や男達が大勢そこらに出てゐました。窓から首を出してゐる女もあれば、犬を伴れてゐる男の児もありました。大抵は跣足でした。靴なぞ穿いてゐるものは稀にしかありませんでした。アンペラで囲つて纔かに雨風を凌いでゐるといふやうな家もありました。
私には遠い昔の移住民のさまでも眼にしたやうに思はれました。エジプトとかベネチヤとかいふ漂浪者の群のやうにも。またはトロバアドルの取残された民族のやうにも。その癖、さういふ人達は、避難の中にありながらも、出来るだけのことをしたいといふやうに、草色に、または白色に、樺色に扉や壁をペンキで塗つたり、自分で絵を書いたカアテンを日に向つた小窓に下げたり、何処か近くの野から採つて来た白い花を、ビイル壜にさしたり、イエスの像を板壁に打ちつけてその前で祈祷してゐたりするのでした。Iさんは行く〳〵それを私に指して、『ね、不思議な気がするでせう。ロシア人は、あまり教育のないものでも趣味に富んでゐまして、いろ〳〵なことをしますよ。何しろひどく難儀をしてゐる中でも、かういふ風にして住んでゐるんですから』などと言ひました。
皆なは川の岸近くに留つて、さう深くは入つて来ませんでしたが、私とIさんとは、成るたけ詳しくそれを見たいと思つたので、ずつと奥の方まで行つて見ました。
そこで私はその少女を見たのです。その美しい少女を。美しい眼を持ち、綺麗な顔をしてゐた少女を。さうした辛酸の中にゐながらも少しも面やつれもせずに輝くやうに美しかつた少女を。
その少女は小さな窓から顔を出してゐました。
Iさんが急に立留りました。
『ほ──』
『………………?』
私は通り過ぎたのをまた二三歩戻つて来ました。
『ほ、綺麗な子がゐるぢやありませんか?』
さう言はれた時には、私の眼にもその美しい少女の顔は映つてゐました。
『本当ですね』
『何うです? あの眼は?』
『本当に──』
『マドンナのやうぢやありませんか。ふむ──』I君は烈しく打たれたといふやうにぢつと立尽して、『こんな美しい子は見たことはありませんよ』
かう言ひながら、I君はずつとその小窓の方へと近寄つて行きました。それを見ても、その少女は別に恐れるといふでもなく、人見知りをするでもなく、いくらか微笑を含んで、ぢつと此方を、日本人をなつかしむといふやうにして眺めてゐるのを私達は見ました。
I君はいくらかロシア語が出来るので、その傍に寄つて、何か頻りに二言三言言つてゐましたが、やがて此方へと戻つて来ました。
『何うしました──』
『本当に美しい子だな──』I君は猶ほ残り惜しいといふやうに振返りながら、『こんなところにあんな美があらうとは思ひもかけませんでしたね。全くマドンナだ! 君、こゝからかうしてあの窓を見た形は、全く名画中のものですね。何処かにさういふ絵がありはしませんでしたかね』
『本当ですね』
私も振返りました。二三歩歩いて、
『それで何んて云つてゐました』
『唯、名をきいただけです……、Susana つていふんださうです』
『スザナ! 好い名ですね』
私はまた振返つて見ました。私はその後あちこちを旅し、支那にも行けば、朝鮮にも行きましたが、さうした艱難を背景にしたその少女の姿は、いつまでも私の眼の中に刻まれてはつきりと残つてゐました。Susana ──私は今でもさう言つて呼びかけたいくらゐです。
底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
1926(大正15)年5月10日
初出:「令女界 第五巻第三号」
1926(大正15)年3月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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