磯清水
田山録弥
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二人はよく裏の松林の中を散歩した。そこにはいろいろな花が下草に雑つて刺繍でもしたやうに咲いてゐた。黄い小さな花、紫色をした龍胆に似た花、白く叢を成して咲いてゐる花、運が好いと、真紅な美しい撫子の一つ二つをその中から捜すことは出来た。波の音は地を撼すやうに絶えずきこえて来てゐた。下には海水浴をする人達のために構へられた旅舎が二軒も三軒も連つてゐるのが見えた。
『正夫さん! ほら……』
五六歩後れた袖子はかう言つてその後姿を此方に見せて歩いて行つてゐる正夫を呼んだ。正夫は振返つた。
『ほら!』
袖子の手には小さくはあつたけれども、ゆかりの色の濃やかな桔梗の花が掲げられてあつた。
『ほ! 桔梗?』
『好いでせう?』
『何処にあつたの? ほ、こいつは素的だ──』
『好い色でせう?』
『本当だ……』
正夫は袖子の手からそれを取つて見たが、すぐかへして、
『好いのがあつたね、そんなのは中々ありやしないよ。何処にあつたの?』
『そこにあつたのよ』袖子は嬉しげに後を振返るやうにして、『色が好いのね?』
『本当だ。こんなに濃いのは滅多にありやしない……』
『私、ひよいと見たのよ。さうすると、葉のかげになつてこれがあるぢやないの? 私胸がドキドキしたわ。だつて、こんな好い色の桔梗がこの山の中にあるとは思はなかつたんですもの……』
『僕におくれよ』
『あとであげるわ』
二人は猶花を探しつゝ歩いた。しかしその中には労れたといふやうにして、その他に撫子の三つ四つ、白い花の二つ三つを併せて持つたまゝ、いくらか崖のやうになつてゐるところに立留つた。そこからは海が一目に見わたされた。白色灯台を持つた半島がずつと海の中に突出してゐて、その岸の絶壁を縫つてゐる沢山な岩石の上に波がさゝらのやうになつて白く砕けてゐるのが手に取るやうに見えた。
この海岸の一角は全くかれ等のものであると言つて好かつた。かれ等は夏の初から来た。まださう大勢避暑客のやつて来ない中から来た。しかもかれ等の上には恋のエンヂエルはまだその竪琴を弾き出さうとはしなかつた。かれ等は静かに無邪気に話した。パウルとヹルジニイのやうにして話した。
全くこの海岸はかれ等のものだつた。二人は何処へでも出かけた。松林をずつと向うに越して弓弦を張つたやうになつてゐる沙浜に波の白く寄せてゐるあたりまでも行つた。大きな岩の一つ海中に立つてゐるあたりへも出かけた。其処に行けば海が何う見え、彼処に行けば何う半島が眺められるかといふことをもかれ等はよく知つてゐた。かれ等は夜は旅舎の前の広場に出て、大きな灯台の灯が怪鳥の翼のやうに廻転するのをぢつと眺めた。
小豆貝といふ美しい貝があつた。それは普通の人の通る沙浜には打寄せて来てゐなかつた。それを袖子が持つてゐるので、一緒に避暑に来てゐた袖子の母親は、
『こんな貝何処にあるの?』と訊いた。
『え? 向うの長崎の鼻? あんなところまで行つたの? 誰れと? 正夫さんと? あぶないよお前、波に浚はれたら何うするの?』
『大丈夫よ』
『それは正夫さんと二人なら大丈夫だらうけれども……。あまり遠くまで行くのではないよ』
『大丈夫よ』
『あ!』
かう言つて立留つた袖子の顔の色は夥たゞしく変つてゐた。青い赤い銀色の斑を持つた三四尺ばかりの蛇は、小さな首を持ち上げながら草の上をするすると気味わるく動いて行つてゐた。
正夫も立留つた。ぢつとそれを見詰めた。二人とも暫しは口もきけなかつた。するすると滑つて行つた蛇の後半部には、夏の日影がキラキラと美しく光つた。
『まア、気味がわるい……』
『大丈夫だよ』
『でも──』
『蛇つていふ奴は、此方でさへ構はなければ何でもないものだよ』
『でもこわいわ……』袖子の顔の色はまだもとにかへらなかつた。『もう、帰りませうか?』
『そんなこと言はないで、行かうよ。もういくらもない』正夫は小松の並んだ中にうねうねと曲りくねつて通じてゐる細い路を仰ぐやうにして見て、『袖ちやん、随分臆病ね』
『だつて、怖いんですもの……まだ震へてゐるわ』
『もうぢきだよ』
かれ等は今日は半島の中央部に聳えてゐるA山──山と言つても百二三十米ぐらゐしかないのだが、以前から登らう登らうと言ひながら、またその山の上の眺望の美しいのを聞いて常にあくがれてをりながら、今までついぞそれを実行せずにゐたのを、今日しも急に思ひ立つてやうやうやつて来たのであつた。かれ等は既にその八分通りをのぼり尽して来てゐた。かれ等は松原から甜瓜のころがつてゐる山畠を越し、山の裾のやうになつてゐるところを通り、それからちよつと小松の生えてゐる草原の露を踏わけ踏わけやつて来たのであつた。
『怖いのね?』
『大丈夫だと言ふのに──』
男がぐんぐん登つて行くので仕方がなしに袖子も続いた。
『あゝ!』
少し行つたところで、袖子はまた声を立てた。
正夫はもどつて来たが、『何うしたの? 蛇? うそだらう。うそだよ。そんなに蛇がゐるもんかね。葉の動いたのは風だよ。だつてその正体を見たといふわけぢやないんだらう?』
『でも──』
『臆病だな。そんなに臆病では、とても世の中はわたれはしないぜ!』
『さう?』袖子はあとからついて歩きながら、
『でも、正夫さん、世の中つていふもの知つてゐるの?』
『それは知つてゐるサ』
『何時知つたの?』
『ずつと前から知つてるよ』正夫はわざと強く押しつけるやうに言つた。
『うそばつかり言つてるのよ。世の中なんか知りもしないくせに──。臆病だつて世の中はわたれてよ』
そんなことを言つてゐる中に、曲りくねつた草原を下に、小松原を下に、やがてその山のいたゞきにある小さな石の宮のあるところへとかれ等は登つて行つてゐた。
そこには陸軍の三角測量台が立つてゐた。正夫はそのまま、器械体操をやるやうにしてその上へと飛び上つたが──そこは石の宮のあるところよりは、ぐつと視界が広く、大河の海に落ちるさまも、赤ちやけた絶壁の長く連つてゐるさまも、半島をぐるりと取巻いて鼎の沸くやうに波の打寄せて来てゐるさまも、灯台の松原の上にぬけ出て立つてゐるさまも、何も彼も一目に見えるので、後には自分一人でそれを貪り看てゐるのに堪へぬといふやうに、袖子がとても駄目といふのをきかずに、その身も一度下りて、手を引いたり、肩を押して体を半ば抱くやうにしたりして、たうとうその上まで引き上げた。そして二人はその二つの顔をその三角測量台の上に並べてさも嬉しさうにして眺めた。
いつの年に難破して流れよつたかわからない一本マストの船──それから浜づたひに始めは細かい滑かな砂であつたのが、次第に小石雑り、岩石雑りになつて、打寄せて来る波にがらがらと音を立てるのを面白く、またはそこらに小さな蟹が、岩から岩へとチヨロチヨロと何疋ともなく走つて行くのをつかまへようとしたりなどして、正夫は新しい麦稈帽子に白地の絣、袖子は浅黄模様の中形地の袖を紐で襷の様に結び、友禅メリンスの腰巻の色をあたりにみせつゝ、何んのこともないやうに──唯、磯づたひの面白さに全く心を奪はれたといふやうにして、時には砂に塗れた藁草履をボシヤリと水の中に入れたりしてたどつて行つたが、ふとそこに、岩と岩との間に、美しい清水の滾々として湧き出してゐるのを、その湧き出して来てゐる水の明るい日影にチラチラとプラチナの線の様に動いてゐるのを、水の中にある小石が或は白く或は黒く、或は青く、くつきりと見えてゐるのを彼等は見出した。
『清水! 清水!』
正夫は我を忘れたやうにして言つた。
『まあ綺麗ね……』
さう袖子が言つた時には、正夫は已に麦藁帽子を傍の石の上に置いて、両手で傍の岩をつかんで、顔をその清水の上へと落してゐた。
『つめたい?』袖子が訊いた。
正夫はぬれた顔を挙げながら、『あゝ、冷たい。氷のやうだ!』
『私も飲むわ』
袖子も何も彼も忘れた様に、娘としてのたしなみも羞耻も忘れてしまつたかのやうに、矢張同じやうにその岩に両手をかけて顔をその水の上に伏せるやうにした。
後に結んだ髪が静かに動いた。袖子は容易に口をその水から離さなかつた。
暫くして上げた顔のところに正夫は半巾を出した。
『難有う』
それを取つて、ぬれた顔を拭いて、後れ毛を二三度煩ささうにかき上げてから袖子は言つた。
『好い水ね。氷のやうね。すつかり生きかへつた様な気がするわ』
『本当だ……』
『こんなところにこんな好い清水が湧き出してゐるとは知らなかつたのね』
『本当に……』
清水は静かに滾々として湧き出してゐる。日影がチラチラする……。二人はぢつとしてそれを見詰めた。
『何うしたの?』
灯台の此方の浜のところに、大勢の人が集つてゐるのを、何事かと見に行つた正夫に袖子はかう訊いた。
正夫はすぐには答へなかつた。
『あなたなんか見ない方が好いよ』
『何なの? 一体?』男の顔がいつもに似ずわるく暗いのにその身も誘はれたといふやうに、
『え? 本当に何なの?』
『人が死んでゐるんだよ』
『人が? 女? 男?』
『心中だよ』
言ひたくはないが仕方がないと云ふやうにして正夫は早口に言つた。
『心中?』正夫の予想とは反して、袖子は俄かにそれに興味を持つたといふやうにしてそのまゝその方へと踵を進めた。しかたなしに正夫もあとから続いた。
それは岩角をちよつと下りたやうなところだつた。朝だつた。露がまだ深く草の上に置いてゐた。
何でも、もう少しさつき上の茶屋の爺がそれを発見したらしく、大岩のこちらに紐でしつかりとくゝつたまゝ、その二つの死屍がたぷたぷと波に弄れてゐたといふことであつた。まだ巡査も何もやつて来なかつた。その茶屋の上さんだの男だの爺だのがその周囲を取廻いてゐるだけだつた。女の顔は打伏になつて、髪が長く乱れてゐるのにひきかへて、男は鬚のある顔を上に、胸がはたけて、白地の浴衣がぴたりとぬれてくつついてゐるのを袖子は見た。
さういふものを目にしたのは袖子は生れて始めてだつた。かの女は何とも言へなかつた。
そのくせ、その光景は深く強くかの女の心を動かした。袖子はぢつと見詰めた。それは話にはきいてゐたが、こんなことが本当に眼の前にあらうとは袖子は夢にも思つてゐなかつたのである。その打伏した顔! 長く乱れた髪!
『もう行かう!』正夫は促した。
それにもかゝはらず袖子は猶ほそこに立つてゐた。喪心したやうにして立つてゐた。無理やりに此方につれて来られた時は、涙が一杯にたまつてゐた。それが人生だらうか。その身などにはわからない人生だらうか。
袖子はしたゝかにすゝり上げて泣いた。いくらなだめてもなだめても泣いた。色の濃い美しい撫子の花が露にぬれてゐても、それを採らうともせずに……。
底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
1926(大正15)年5月10日
初出:「令女界 第四巻第九号」
1925(大正14)年9月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2017年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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