或新年の小説評
田山録弥
|
○
おくればせに新年と二月の小説を飛び〳〵に読んで見た。
正宗君の『催眠薬を飲むまで』は、またいつもの同じ題材だと思ひ〳〵読んで行つたが、最後の二頁に行つて、がらりと引くりかへされた。流石だと思つた。かういふ風に少年の自殺を見た形も面白いと思つた。たゞし、最後の二三の句に、少し色の濃すぎた、主観の言葉の入りすぎたところがあつて、やゝ自然らしい感じを傷つけたやうな気がした。『田舎者』は、旨くは書いてあるが、警句も沢山にあるが、一方の相手がイヤに超然としてゐるために──詳しく言へば、平行を保つてゐないために、単なる写生以上に芸術品らしいところが出て来なかつた。『姉の夢』は本がないので読まなかつた。
中村君の『人間の夜』にも矢張『田舎者』に見たやうな写生に堕したところがあつた。よくは書いてある。細い点にまで入つて行つて、観察、描写の上には非常な進境があるやうに思つたが、何うもかうした写生ばかりでは芸術として甚だ物足らない、もつと何かゞなければならないのではないかと思つた。
有島生馬君の作品は、今まで読んだことがなかつた。今度の『暴君へ』が始めてゞある。私は才の漲つた、割合に観察の細かい、気分の明るい感じを其処から得た。それに表現の方法などにも新しいところがあつた。たゞし、書く上に於て、かういふ書き方は非常に楽なものである。ある処では活動写真でも見てるやうな気がした。
高浜虚子氏の『落葉降る下にて』では、私は同じ年齢に共通したやうな共鳴を覚えた。よく書いてあると思つた。私などもかういふ風な心持を起したり感じを起したりすることはよくある。現に、私なども、かういふ点から人生を見るやうになつてゐる。しかし、この作は感想として、写生として面白いので、また意味があるので、芸術としては甚だ物足らないと思ふ。かういふ見方や心持が、他に入つて、他と自との交錯する上に完全に動いて行つて、それで出来たやうな作品を私は氏に期待したいと思つてゐる。
森鴎外氏の『高瀬舟』は始めの方の気分が面白い。それに、物語としてのコツをよくつかまへてゐる。しかし、読んで了つたあとでは、あまりに内容があつけないので物足らなかつた。氏の歴史物は、現代の欠陥を昔話しにして見たやうなところに、一種の面白味があるが、その為め、却つて感じを小さくしたり、不自然にしたりするところがないだらうか。『最後の一句』といふ作などにもさういふ欠点があつたと私は覚えてゐる。
上司小剣氏の作では、『雀の巣』と『巫女殺し』とを読んだ。『巫女殺し』はあつさりとしたものである。殺人を軽く見たところが作者の主意であるかも知れないけれど、唯、軽く見たゞけで、人間に対する理解がやゝ抽象的になりすぎてゐるやうな気がした。『雀の巣』は皮肉もあり、滑稽もあり、別に他の奇はないけれど、面白いと思つた。
北村清六氏の『一群の人々』は、前の『少年の自殺』が面白かつたので、注意して読んだ、そして失望した。この作には『一群の人々』は成ほどよく書いてあるけれど、唯それだけで『少年の自殺』に現はれたやうな渾然として芸術味がない。浮き上つてゐない。単なる写生以外に、何物をもそこから見出すことが出来なかつた。
小山内薫氏の『江島生島』は他の雑誌でちよつと書いて置いたから、此処には詳しく言はないが、この作の第一の欠点は、作者の江島に対する同化力理解力が十分に働いてゐないといふことである。作者にはまだ本当に江島の心持が飲込めてゐないと思ふ。さうかと言つて、作者がその性格を創造して、十分に読者に飲み込ませるだけの力も持つてゐなかつた。この作で面白いと思つたのは、唯、江島の父母及び江島の生立を描いたあたりだ。
徳田秋声氏の『兵営へ』は、もつと何か書かうとしたことが、十分に書かれずにお終になつたやうな気がした。人間はよく出てゐるけれども──単なる写生以上に深い理解が働いてゐるけれども、何うもこれでは物足らない。中央公論の二月に出た『窓』にも、矢張さうした憾みがある。
矢張これも中央公論の二月号に出た里見弴氏の、『題をつけない小説』は、読みかけて、えらい難かしい境に筆を着けたものだと思つて、かねて私もかういふ構図で筆を執りたいと思つてゐたことがあるので、一層さういふ気がした。しかし、読んで行くにつれて、すつかりその期待は裏切られた。読み終つて呆気に取られたやうな気がした。矢張空想だつた。しかもわるくこね廻した空想だつた。せめて、もうすこし素直であつたらばと思つた。小ヂユマの小説に、矢張、かういふ境を取扱つたものがあつたが──それはやゝ通俗がゝつたものだつたが、それでもこれよりは自然だつた。矢張、容易にかういふ境には筆は着けられないと私は思つた。
○
正月に書いた私の『をばさんの Image』に就いて、中村星湖君が言つたと同じ批評を、私は前田晁君からも聞いた。それはつまり老師の家出の原因を作者が解釈してゐなかつたといふことであつた。
私は考へて見た。成ほどさうかとも思つた。しかし再び考へて、無意識的にではあるが、その原因の解釈はつけてあると思つた。でなければ、何故をばさんは、光丸さまに行つて、罪障を感じて、手を仏の前に合はせたであらうか。老師即仏といふやうな境に、何故をばさんの心は行つたであらうか。そこに、微かながらも老師の家出の原因が解釈されてはゐないだらうか。
○
『読売』の一日一信で、秋声君が主観と脱落のことに就いて、何か言つて居たといふことを私に知らせて呉れた人があつた。私は『読売』を読んでゐないから、その本文は見てゐない。しかし、私の言つた自と他との関係、主観と客観との混り合ふ具合、さういふ点を主観が小さいと私が言つたといふ風に解釈してあつたといふことであつた。そして、脱落したものに、主観が小さいも大きいもあるものかといふ風に言はれたさうだ。私の意味は、さうではない。秋声氏の作は、文壇中、誰に比しても、脱落の気分が多い。主観と客観との混り具合が旨く行つてゐる。しかし、惜しいことには、まだ他に自が蔽はれるやうなところがあつて、生々としてゐない。そこが惜しいとかう言つたのである。主観が小さいの大きいのと言つたのではない。元来、主観が大きいとか小さいとか漫然言ふけれど、主観と言ふものは、さういふ風に言ふべきものではない。脱落と言ふことは、主観と客観との比較的融合した形を指して言ふのである。勿論、細かい、度数的のものである。
○
岩野君は、私の『絶壁』を指して、拙ない寓言だと言つた。寓言どころか、私はあそこに心理を書いたつもりだ。人間の心理の錯綜した形を表はさうとしたのだ。苦しい心理に突当つて、何うすることも出来ない心持を私は書いた。あれでも、私に取つては、寓言ではない。皆な私の熱い血と汗と苦悶とから出たものだ。あの中の一言一句にも、私は沢山な背景なり前景なりを持つてゐる。お望みなら、一々詳しく説明することも出来る。しかし表現の仕方が拙いから、寓言にしかなつてゐないと言ふなら、それも致方がない。
次に、武林無想庵君にいふ。小生意気なことを言ふものではない。私は私の考へた経験なり感想なりを言つてゐるのだ。敢てゲエテの真似をしなければ空間のことが考へられないといふ法はない。又、歴代の禅宗のことを研究した揚句でなければ、禅といふことが考へられないといふ法はない。私には私の空間があり、私の禅がある。君も苦んだことのある人間の一人なら、あんな太平楽を並べてゐないで、もつと真剣にやつたら好いだらう。そして真面目に考へた高徳へでも行つて教を乞うたら好いだらう。デカダンなんか、もう古いではないか。
○
真に独立の上にでなければ、新しい女の境地はないと言ふことを、痛切に新しい女達は考へなければならない。真の独立がなければ、何を言つたからとて、すべて力強い背景を持つて来ない。
○
帝劇でやつた御大典記念の『名和長年』は非常に当つたものださうだ。成ほど勤王とか愛国とか言ふ意味からはほろりとさせるやうなところがあるかも知れない。しかし、あの劇には、人間と言ふものは、少しも書いてない。況んや深い人間の心理をやである。唯、あるシーンと、ある情操とが浅い看客の眼を喜ばせるばかりである。
これについて、思ひ出すのは、露伴氏は何うしてもサイコロジストでないといふことである。曾て時事の紙上で、うその小説とか本当の小説とかいふことを言つてゐたが、あゝいふ大言壮語はつまらないことだ。
それからまた続いて思ひ出したことは、露伴氏はかういふ風なシインを描き出すことが好きだ。サイコロジカルではなしに、単純にさういふところを描き出すことが好きだ。『鬚男』といふ作があるが、あれにも、ちよつとかうしたところがある。長篠の戦前に、夕日のてり映えた下で、甲州の老将達が、慷慨悲憤するところがある。あれなども、矢張『名和長年』と同じものだ。ドイツの帝室戯曲家にでもありさうな作家である。
あれから比べると、あの後の黙阿弥の作の方が、何れほど性格的で、深いところがあるか知れなかつた。
○
谷崎氏の『鬼の面』といふ作を、私は毎日読んでゐる。此頃はやゝ面白くなつて来た。これでは、最初の誇大的な、無駄の多い煩瑣な描写を取りかへして、面白い舞台がひろげられて来さうだ。
最初は、夫人も、お玉も、壺井も、作者がつくり上げた人物としてしか出てゐなかつた。実際らしい性格は、何処にも見出すことが出来なかつた。壺井が急にダンヌンチオなどを読み出すところも変だつた。しかし、段々面白くなりつゝある。舞台のひらけて行く具合などにも、割合に老功なところがある。
この作者には、『飇風』以来、何処か不思議な畸形的なところがあるを私は見て来た。そこが好いやうでもあり、わるいやうでもあつた。しかし、今日考へて見ると、其処が矢張谷崎氏の特色だ。思ひ切つて塗抹するやうなところが氏の特色だ。
○
人間は孤独のさびしさに堪へかねて家庭をつくり、また家庭の煩累に堪へかねて孤独を求めてゐるやうなものだなどゝ私は此頃は考へてゐる。
夫婦と言ふものは、不思議なものだ。一緒にゐても、つらく、離れてゐても、つらいやうなものだ。
『かうして顔を見てゐるのが、辛い』かう私も妻も言つた。
生殖の済んだ後の夫婦の状態なども不思議なものだ。私はこの頃年を取つた夫婦の同棲してゐる形を観察して見てゐるが、若い時分に想像したのとは、全で違つたやうなことがあるので、をり〳〵驚かされる。
底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十一巻第三号」
1916(大正5)年3月1日
※初出時の表題は「シガーの吸殻」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。