寫眞と思ひ出
──私の寫眞修行──
南部修太郎
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寫眞も、この頃は猫も杓子もやるといふ風な、はやり物になつて、それに趣味を持つなどゝいふのが變に當たり前過ぎる感じで、却て氣がひけるやうなことにさへなつてしまつた。が、いつだつたか、或る雜誌にのつてゐたゴシツプによると、文藝の士の余技の内玉突と寫眞とでは私が筆頭ださうだ。
無論、そんなことで筆頭などゝ認められても、格別嬉しくもないが、そも〳〵私が寫眞を初めたのは、十一二の時分のことで、年號にすれば、明治三十五六年、流行物どころかしろうとに寫眞など寫せるものではないといふやうな考へのある時代だつた。
ところで、どういふ譯で、そんな子供の私が寫眞などはじめるやうになつたかといへば、その頃私は、三宅克巳氏著の「少年寫眞術」なる一書を手に入れたのだ。それは、子供向きに寫眞の沿革から撮影、現像、燒付の法、それに簡單な暗箱の作り方までを説明してある。たしか博文館發行の少年理科叢書の一册だつたかと思ふ。それを讀むことによつて、私は寫眞に對する子供らしい好奇心と興味とを大に刺戟されたのであつた。
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當時、私の一家は長崎に住んでゐた。その長崎には、下岡蓮杖翁と並んで、日本寫眞界の元祖である上野彦馬翁が同じく住んでゐた。これは偶然「少年寫眞術」の沿革史の一節にも書いてあることだつたが、うちで寫眞を寫すといふと、いつもその上野寫眞館へ出かけたもので、その頃翁は直接撮影塲に出るといふやうなことはなかつたが、頭のすつかり銀髮になつた、額の廣い、あごの角張つた翁の顏を、この人が寫眞の元祖だといふ風な一種の敬意を以て眺めたことが、うつすりと私の記憶に殘つてゐる。──が、さて、その一書によつて深く寫眞熱をあふられた私は、何よりも寫眞機がほしくてたまらない。母はもとより私の望みなら先づ大概は聞いてもらへた祖父母にも盛んにせがんで見たが、
「子供に寫眞など寫せるものではない」
そんなことで、到底相手にされなかつた。それに子供だましの寫眞器の二三円でも、當時では、可なりの贅澤品に違ひなかつたし、然るべき寫眞器など、無論買つてもらへるはずもなかつた。
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仕方なくそれは諦めたが、その頃から割合に手先の器用な私だつたので、「少年寫眞術」の説明に從つて、私はとう〳〵寫眞器自作を志た。
薄板を組合せて名刺形の暗箱をこしらへる。内部を墨で塗る。眼鏡屋から十五錢ばかりで然るべき焦點距離を持つ虫眼鏡を買つて來て竹筒にはめ込んだのを、一方の面にとりつける。それに蓋をつける。最も苦心したのは、乾板を入れる裝置の處だつたが、とに角一週間ほどの素晴らしい苦心で、それが、どうにか出來上つた。
それから或る日、町中を探し歩いてやつと見つけたのが、藥屋が主の寫眞材料店、名刺形の乾板の半ダース、現像液に定着液、皿、赤色燈、それだけは懇願の末、祖母から資金を貰つたのだつたが、胸を躍らせながら、押入へもぐり込んで乾板を裝置して、庭の景色などを寫してみた一枚、二枚、三枚。
しかし、夜を待つて、また押入の中での現像の結果は、乾板の黄色い面がまつ黒になつてしまふばかり。とう〳〵二ダースの乾板を無駄にしたが、影像は全く膜面に現れて來なかつた。
「そおれ御覽なさい……」
といふ母や祖父母の聲、不平はモデルにした妹達や女中までから來た。私はすつかり、しよげた。資金ねだりにも、祖母は、さう〳〵いゝ顏は見せなくなつた。が、根が負ず嫌ひでもあつたし、またさうなると、今までの苦心努力の報いられなかつた悔しさから、成功への要求が逆に強くなつた。そして、撮影法にも、現像法にも、無論手製の裝置にも改善を加へて更に何枚かを試みたが、あゝ、それは何といふ狂喜だつたか?
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或る日の午後縁側に坐らせた學校友達の一人を寫してみた乾板に遂にうつすりとそれらしい影像が現れた。押入の暗闇で赤色燈に現像皿をかざしてみながら、いかに私は歡喜の笑みを浮かべたことであらうか?それからけふまでもう二十余年、私の長い寫眞物語りのペエジにも悲喜こも〴〵の出來事が繰返されたが、あの刹那にまさる嬉しさがもう再びあらうとは思へない。
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その後間もない十二年の歳の秋に、私は三つ時分からの持病の喘息に新しい療法が發見されたといふので、母と共にはる〴〵上京したが、その時三月近く滯在してゐた母の實家で若い叔父が寫眞をやつてゐた。それは今から思へば、七八円程の安價な組立寫眞器だつたが、それを見、また景色にしろ人物にしろ相當立派に寫し出されてゐるPOP印畫を眺めた時、私は嫉妬に近い羨ましさを感じ、かつはどれほど寫眞熱を刺戟されたか分らなかつた。そして叔父からいろ〳〵教へを受けると同時に、いよ〳〵長崎へ歸るといふ時に、さん〴〵母にせびつて漸く買つてもらつたのが二円五十錢の、至極簡單ながら速寫裝置もある箱形の輕便寫眞器だつた。その買つた店といふのが、新橋の博品館の隣の今は帽子屋になつてゐる雜貨店で、狹い銀座通にはまだ鐡道馬車が通ひ、新橋品川間が電車になつたばかりの頃だつた。本石町の小西と淺沼、今川小路の進々堂──それらが當時の有名な店だつたが、とにかく東京にも寫眞器屋などはまだ數へるほどしかなかつたやうに思ふ。
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三十八年の春に一家が東京へ住み移るやうになつてから、やがて二度目に買つてもらつたのが、前のにちよつと毛のは〓(変体仮名え)たくらゐの五円ばかりの箱形寫眞器、少し寫眞の〓(こと)が分りかけて來た私にはとても不滿でたまらない程度のものだつた。そして、いゝ寫眞器に對する憧憬は日に日に高まるばかりだつたが、さう手易く買つてもらへる筈のものでもなかつた。
で、仕方なく小西、淺沼、進々堂あたりから寫眞器の目録を取りよせたりして、いはば高根の花のいゝ寫眞器の挿繪や説明などを讀むことによつて、氣持を慰さめてゐた。プレモ、オオトシヤツタア、ソルントンシヤツタア、フオルカルプレンシヤツタア、カアルツアイス、百分の一、千分の一、テツサア、アナスチグマツト──さういふ寫眞用語がいかに歴亂として私の腦裡を動き、いかに胸躍るやうな空想を描かせ、いかに儚ない慰樂を與へたことか?
「さうだ貯金をしよう、貯金を……」
或る日、私はそれ等の目録を眺めながら、せめて百分の一秒ぐらゐまでのシヤツタア裝置のある三四十円の寫眞器を買はうと思ひ立つて、さう心をきめた。そして、月々きまつてもらふお小遣ひを少しづゝ郵便貯金にし初め、いつも祖母がくれるお中元お歳暮の金も今までのやうに無駄には使はないことにした。
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その貯金が二十円あまりになつた中學二年生の夏、それと同額ぐらゐの足し前を祖母にせがんで漸く理想に近い寫眞器を買つたそれは可成り明るいアナスチグマツトレンズに百分の一秒まで利くオオトシヤツタア裝置を持つプレモ形の二枚掛寫眞器で、その取框に中框を使つて大概手札乾板ばかりで寫してゐたが、處女撮影から寫る寫る、立派に寫る。五段伸の三脚の上に立てゝ黒布をかぶりながら焦點を合せる時の私の滿足と嬉しさ、とまた誇らしさとはいひやうもなかつた。そして、家の中での人物撮影は、いふまでもなく日曜日には可成り重いそれの鞄をかついで郊外へ撮影に行く。
旅行の時にはもう戀人のやうな伴侶で、撮影、現像、燒き付の技量も自然と巧くなつて、學校での展覽會では得意な出品物であり、常陸の海岸で朝鰹船の出かけを寫した印畫を或る專門家に見せた時には、どうしてもそれが中學三年生の素人である私の撮影、現像、燒き付にかゝるといふことを信じてもらへなかつた。
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三田の文科生になつてからは、さすがに寫眞熱もさめてしまつたが、旅行の時だけは、もう可なり古びた上に舊式になつたその寫眞器を相變らず伴侶にしてゐた。手慣れてゐるばかりでなく、割によく寫る寫眞器で、一ダースが一ダース、めつたに失敗もないといふやうなことが、買ふまでの苦心の思ひ出と相俟つて、それは私に長い愛着を持たせてゐたのである。が、大正九年の秋、たま〳〵ヨーロツパから歸つて來た親戚の人からイーストマンの葉書判の寫眞器をみやげにもらつた。それは裝置が新しく便利だといふ以外には、所持のプレモと大して變りもないものだつたが、大正十一年の支那旅行の時には、それを肩にして行つた。ところが、支那では税がかゝらないので、知り合ふ在留日本人達は、みんな立派な器械を持つてゐる。いつもその點では氣がひけたが、印畫を見せてもらふと安心した。撮影の技量では自分が露骨にうまいなと思はせられたからである。
しかし、やがて贈り主の悲しき形見になつたその寫眞器は、支那の旅から歸ると間もなく、或る文學青年の詐欺にかゝつてうしなはれた。最近廣津和郎氏が「さまよへる琉球人」といふ作の主人公にした青年がどうもその青年と同一人らしいので、私はちよつと驚いてゐる。
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中學時分に買つた寫眞器も、その少し以前或る寫眞好きの友達に贈つてしまつたので、それ以來暫く私の手元には寫眞器の影がなくなつてしまつたがその翌年のこと、私は偶然ある人から、やゝ身にあまるやうなのを讓り受けることが出來た。英國製で、シイ・テツサア四・五鏡玉、千百六十分の一秒まで利くシヤツタア付の、手札形レフレツクス、素人用としては殆どこの上ないものといつて差支へないのだが、それで一時盛返した熱も今は又すつかりさめきつて、それは空しく押入の奧でほこりにまみれてゐる。
あの手製の暗箱をこしらへた頃、毎日目録を眺めては樂しんでゐた頃、汽車の疾走などを大騷ぎで寫して喜んでゐた頃、それらを思ひ返すと、私の胸には何かしら變な寂しさが湧いてくる。假に今のレフレツクスのやうなのが、そのころの私に授けられてゐたとしたら?
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しかし、いろ〳〵合せて、もう千余枚を數へる印畫のアルバムを時折繰眺めるのは、樂く愉快である。そこには私及び私の周圍をなした人達や旅の風景などの過去の一面々々が、あざやかに記録されてゐる。
一體私は、この頃流行のいはゆる藝術寫眞には、何の感興も持たない。あの變に氣取つた、いかにも思はせ振な、しかも一種の型にはまつた印畫のとこがいゝといふのであらう?
要するに、寫眞の本領は、興味はさういふ意味の記録を、いひ換れば、過去を再現して、思ひ出の樂さや回想の懷かしさを與へるところにある。そして、印畫の價値や面白味は、遂にそれ以上に出るものではないと私は思ふ。
底本:「サンデー毎日」大阪毎日新聞社
1926(大正15)年6月27日発行
初出:「サンデー毎日」大阪毎日新聞社
1926(大正15)年6月27日発行
※つぶれ、かすれでルビの濁点、半濁点の有無を判定できないところがありました。訂正注記、ママ注記することは避けて、見えた通りに入力しました。
※「変体仮名え」は、「江」をくずした形です。
※「変体仮名え」と「こと」の外字注記中の数字は、「ページ-段数-行数」です。
入力:小林 徹、小林 誠
校正:富田倫生
2011年5月1日作成
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