幼き日
(ある婦人に與ふる手紙)
島崎藤村



        一


 私の子供が初めて小學校へ通ふやうに成つた其翌日から、私は斯の手紙を書き始めます。昨日の朝、吾家では子供の爲に赤の御飯を祝ひました。輝く燈火の影に夜更しすることの多い都會の生活の中でも、子供ばかりは夜も早く寢、朝も早く起きますから、弟の方も兄と一緒に早く床を離れました。兄は八歳やつつ、弟は六歳むつつに成ります。お人好しの兄に比べると弟はなか〳〵きかない氣で、玩具でも何でも同じ物が二つなければ承知しないといふ風です。ところが其朝に限つて、兄の方には新しい鞄や、帽子や、其他學校用のものが買つて宛行あてがはれてあるに引きかへ、弟のためには子供持の雨傘と、麻裏草履としか有りません。弟は地團駄ぢだんだ踏んで、ぐづり始めました。兄と一緒に朝の膳に對つても、兄が晴々しい顏附で赤の御飯をやつて居る側で、弟は元氣もなく、不平らしく萎れて、不承々々に箸を執り始めました。そのうちに不圖ふと思ひ附いたやうに、食事中自分の膳を離れて、例の新しい雨傘を取りに立つて行きました。それを大事さうに自分の膳の側に置いて、それから復た食ひ始めました。家のものが皆な可哀さうに思つて笑ふと、弟は自分の爲たことを嘲り笑はれたと思つたかして、やがてその雨傘を元の場所へ仕舞に行つて、今度は好きな御馳走も食はずに泣き續けました。

 學校までは二三町あります。そこへ通ふ子供は馬車や自轉車などのはげしく通る廣い道路を越して、町を折れ曲つて行くのです。昨日の朝は家のものが一人いて、近所の子供や親達と一緒に學校へ行きました。今朝は送りにだけ行つて、試みに獨りで歸らせることにしました。

『兄さんは最早もう解つたやうな顏をして居ました。獨りで歸つて被入いらつしやいツて言ひましたら、ウンなんて──』

 隨いて行つた娘は斯樣こんなことを言つて學校の方に居る子供の噂さで持切つて居ました。昨日學校の教場で家のものの姿が見えなく成つたと言つて泣いたといふ話などもして笑ひました。

 斯の兄の方の子供は、性來弱々しく、幾度か醫者の手を煩はした程で、今日のやうに壯健ぢやうぶらしく成らうとは思ひもよりませんでした。皆なの丹精一つで漸く學校へ通ふまでに漕附けたのです。それを思ふと斯兒は朝晩保護の役目を引受けて呉れた親類の姉さん達や下婢をんな餘程よつぽど御禮を言はねば成りません。學校の終る頃には、家のものは皆な言ひ合せたやうに門口に出て、獨りで歸つて來る子供を待受けました。

『ア、兄さんが歸つて來た、歸つて來た。』と一人が言ふと、近所の人も往來に出て眺めて、

『まるで、鞄が歩いて來るやうだ。』と申しました。

 學校歸りの子供は鞄を肩に掛け、草履袋を手に提げ、新しい帽子の徽章を光らせながら、半ば夢のやうに家の内へ馳込かけこみました。

 地方に居て絶えず私や私の子供のために心配して居て下さる貴女に、私は斯のことを書き送りたいと思ひます。貴女が着物を作つて送つて下すつたりした一番年少したの女の兒も、今では漁村の乳母の家で、どうにか斯うにか歩行の出來るまでに成人したことを申上げたいと思ひます。

 貴女もやがて二人の子の親とか。左樣さう言へば、四五日前に私はめづらしい蜜蜂が斯の町中の軒先へ飛んで來たのを見かけました。あの黒い、背だけ黄色な、大きな蜂の姿を斯ういふ花の少い場所で見かけるとは實にめづらしいことです。それを見るにつけても、貴女が今住む地方の都會の空氣や、貴女がお母さんの家の方の白壁、石垣、林檎畠や、それから私が自分の少年の時を送つた山の中の日あたりなどを想ひ起させます。人の幼少な頃──貴女は自分の子供等を見て、その爲すさまを眺めて、それを身に思ひ比べた時、奈樣どんな感じを起しますか。すくなくも私達の眼前めのまへに、それが幼稚な形にもせよ、既に種々雜多なことが繰返されて居るでは有りませんか。

 私達が子供の時分、相手にするものは多く婦人です。私達は女の手から手へと渡されたのです。それを私は今、貴女に書き送らうと思ひ立ちました。斯の手紙は主に少年の眼に映じた婦人のことを書かうと思ふのですから。


        二


 私の側に今居る兄弟の子供が八歳と六歳になることは貴女に申上げました。彼等幼少をさないものを眼前めのまへに見る度に、自分等の少年の時と同じやうなことが矢張この子供等にも起りつゝあるだらうか。丁度自分等も斯樣な風であつたらうか。左樣思つて私は獨りで微笑むことが有ります。

 私が今住む場所は町の中ですから、夕方になると近所の子供が狹い往來に集ります。路地々々の子供まで飛出して來て馳け𢌞る。時には肴屋の亭主がうるさがつて往來へ水を撒いて歩いても、そんなことでは納まらない程の騷ぎを始める。吾家うちの子供も一緒に成つて日の暮れるのも知らずに遊び𢌞ります。夕飯に呼び込まれる頃は、家の内は薄暗い。屋外そとから入つて來た弟の方は燈火あかりの下に立つて、

『もう晩かい。』

 と尋ねるのが癖です。

 早く夕飯の濟んだ黄昏時たそがれどきのことでした。私は二人の子供を連れて町の方へ歩きに行つたことが有りました。夕空に飛びかふ小さい黒い影を見て、あれは何かと兄の方が尋ねますから、蝙蝠かうもりだと教へますと、子供等はめづらしさうに眼を見張りました、瓦斯ガスや電燈の點いた町の空に不恰好な翼をひろげたものの方を眺めて居りました。斯の子供等の眼に映るやうな都會の賑やかな灯──左樣いふたぐひ光輝かゞやきは私の幼少ちひさい頃には全く知らないものでした。夕方と言へば、私は遠い山の彼方に燃えるチラ〳〵したかすかな不思議な火などを望みました。それは狐火だといふことでした。夜鷹と言つて、夕方から飛出す鴉ほどの大きさの醜い鳥が、よく私達の頭の上を飛び𢌞りました。それが私の子供の時を送つた故郷の方の空でした。

 私は自分の少年時代のことを御話するついでに、眼前めのまへに居る子供等のことも貴方に書き送らうと思ひます。私達が忘れて居て、平素ふだん思出したことも無いやうなことまで胸に浮ばせるのは、この子供等です。遠く過去つた記憶を辿つて見ると、私達の世界は朦朧としたもので、五歳いつつの時には斯ういふことが有つた、六歳むつつの時には彼樣あゝいふことが有つた、とは言へないやうな氣もします。種々な相違した時のことが雜然ごちや〳〵一緒に成つて浮び揚つて來ます。そのくせ、極く小さな事で、忘れないで居るやうなことは、それが昨日あつたと言ふよりはつい今日あつたことのやうに、明瞭はつきりと、しかも微細な點まで、實に活々と感ぜられるのですが……

 ある日の夕方も、私は弟の方の子供の手を引きながら散歩に出掛けました。斯の兒はナカ〳〵理窟屋で、子供のやうな顏附をして居ないといふところから、家に居る姉さん達から『こどな』といふ綽名あだなを頂戴して居ます。大人と子供の混血兒あひのこといふ意味です。種々な問を起したがる年頃で、それは何處から覺えて來るともなく、『隨分滑稽だ』とか、『一體全體、譯は何だい』とか、柄にも無いやうな口眞似をしては皆なを笑はせる。往來を歩いて居ても、直に物が眼につくといふ風です。

『ア、一本の脚の人が彼樣あんなところを歩いてら。』

 と二本の杖に身を支へながら行く人の後姿を見つけて、それを私に指して見せました。

 電車通りの向側には、よく玩具を買ひに行く店があります。子供はその店の方へ行けと言つて、駄々をこねて聞入れませんから、私も持餘して、

『買つて、買つてツて……買つてばかり居るぢやないか。そんなに父さんは金錢おあしがありやしないよ。』

 漸くのことで子供を言ひすかしまして、それから橋のたもとの方へ連れて行きました。そこに煙草と菓子とを賣る小さな店があります。小さな硝子張ガラスばりの箱に鯛などの形した干菓子の入つたのが有りましたから、それを二箱買つて、一つを子供の手に握らせると、それで機嫌が直つて、私の行く方へ隨いて來ました。軟かな五月の空氣の中で、しばらく私は町の角に佇立たゝずんで、暮れ行く空を眺めて居りました。

『父さん、何してるの──あの電燈でんきを勘定してるの。』

『アヽ。』

『そんなこと、ツマラないや。』

 子供に引張られて、復た私は歩き𢌞りました。

最早もう御飯だ。早くお家へ歸らう。』

 と言つて、吾家近くまで子供を連れて歸りかけた頃、何を斯の兒は思ひついたか、しきりに御飯と御膳の相違ちがひを比べ始めました。父のが御膳で、自分のが御飯だとも言つて見るやうでした。

『御飯と御膳と違ふのかい。』

 と私が笑ひますと、子供は可羞はづかしさうにして笑つて、

『知らない。』

 と言ひ放ちながら、急に家の方へ馳出かけだして行つて了ひました。

 恐らく斯の兒の強情なところは私の血から傳はつたものでせう。しかし私は斯の兒ほど泣き易くはありませんでした。丁度弟の方の子供ぐらゐな年頃のことでした。ある晩、私は遊友達の問屋の子息むすこと喧嘩して、遲くなつて家の方へ歸つて行きました。叱られるなといふことを豫期しながら。果して、家の門を入つて田舍風な小障子のはまつた出入口のところまで行くと、私が問屋の子息を泣かせたことは早や家の方へ知れて居りました。やかましい問屋のお婆さんがそれを言附けに捩込ねぢこんで來たといふことでした。で、私は懲らしめの爲に、そのまゝ庭に立たせられました。薄暗い庭から見ると、玄關の方も裏口の方も皆な戸が閉つて、唯小障子の明いたところだけ燈火あかりが射して居る。私は夏梨の樹の下に獨りで震へながら、家のものが皆な爐邊ろばたに集つて食事するのを眺めました。日頃默つて居る兄の顏などは、私の仕たことに就いて非常に腹でも立てたやうに、餘計におそろしく見えました。其晩に限つて、誰も救ひに來て呉れるものが有りません。斯の刑罰は子供心にも甘んじて受けなければ成らないやうなものでした。私は皆なの夕飯の終る頃まで、心細く立ち續けました。

 斯ういふ時に、私の側へ來て言ひなだめたり、皆なに御詫をして呉れたりしたのは、お牧といふ下婢をんなです。目上の兄達が奧の方へ行つた後で、お牧は私の膳を爐邊へ持つて來て勸めて呉れましたが、到頭其晩は食ひませんでした。

 私の生れた家では、子供に一人づゝ下婢を附けて養ふ習慣でして、多くは出入のものの娘から取りました。私に附いたお牧は髮結の家の娘でした。理髮店といふものは未だ私の故郷には無かつた頃ですから、お牧の父親が髮結の道具──あの引出の幾つも附いた、鬢着油などのにほひのする、古い汚れた箱をげてよく吾家うちへ出入したことや、それからの穢い髮結が背後うしろに立つて父のあごなどをゴシ〳〵とやつたことは、未だに私の眼に着いて居ます。お牧の父親と言へば土地でも有名な穢い男でした。その娘に養はれると言つて、よく私はひとから調戲からかはれたものです。でも、お牧は乳を呑ませないといふばかりで、其他のことは殆ど乳母同樣に私を見て呉れました。

 母や祖母などは別として、先づ私の幼い記憶に上つて來るのは斯の女です。私は斯の女の手に抱かれて、奈樣どんな百姓の娘が歌ふやうな唄を歌つて聞かされたか、そんなことはよく覺えて居りません。お牧は朴葉飯ほゝばめしといふものをこしらへて、庭にあつた廣い朴の木の葉に鹽握飯しほむすびを包んで、それを私に呉れたものです。あのいきの出るやうな、うまい握飯の味は何時までも忘れられません。青い朴葉の香氣かをりも今だに私の鼻の先にあるやうな氣がします。お牧は又、紫蘇しその葉の漬けたのをたけのこの皮に入れて呉れました。私はその三角に包んだ筍の皮が梅酸うめずの色に染まるのを樂みにして、よく吸ひました。

『姉さん、何か。姉さん何か。』

 と言つて、私の子供は朝から晩まで娘達に菓子をねだつて居ります。どうかすると兄弟とも白い砂糖などを菓子の代りに分けて貰つて居ます。それを見て、私は自分の幼少ちひさい時分に、黒砂糖の塊を舐めたことを思出しました。

 私がお牧の背中におぶさつて、暗い夜道を通り、寺の境内まで村芝居を見に行つたことは、彼女の記憶から離せないものの一つです。顏見世の晩で、長い柄のついた燭臺に照らして見せる異樣な人の顏、異樣なかづら、異樣な衣裳、それを私はお牧の背中から眺めました。初めて見た芝居は、私の眼には唯ところ〴〵光つて映つて來るやうなものでした。丁度、眞闇まつくらなところにゆらぐ不思議な人形でも見るやうに。

 これほど親しいお牧では有りましたが、しかし彼女のあかぎれの切れた指の皮の裂けたやうな手を食事の時に見るほど、可厭いとはしいものも有りませんでした。お牧の指が茶碗の縁に觸ると、もう私は食へませんでした。子供の潔癖は、特に私にははなはだしかつたのです。お牧ばかりでは有りません。私の直ぐ上は銀さんといふ兄貴で、この銀さんが洗手盥てうづだらひを使つた後では私はかほも洗へませんでした。銀さんは又、わざ〳〵私を嫌がらせようとして、面白半分に盥の中へ唾を吐いて見せたりなどしたものでした。

 私の生れた家には太助といふ年をとつた家僕も居りました。この正直な、働くことの好きな、獨身者ひとりもの老爺ぢいさんは、まるで自分の子か孫のやうに私を思つて呉れました。恐らく太助が私を愛して居たことは、お牧の比では無かつたのでせう。不思議にも、それほど思つて呉れた老爺と、朝晩抱いたりおぶつたりして呉れたお牧と、何方どちらを今でも思出すかといふに、矢張私はお牧の方に言ひ難いなつかしみを感じます。でも私は太助が好きでした。爐邊は廣くて、いつも老爺の坐る場所はあがはなの方ときまつて居りましたが、そこへ軟かい藁を小屋から運んで來まして、夜遲くまで私の穿く草履などを手造りにして呉れたのも、この太助です。それから大きな百姓らしい手で薪を縛る繩などをゴシ〳〵とひながら、種々なお伽話や、むじなの化けて來た話や、畠の野菜を材料たねにした謎などを造つて、私に聞かせるのを樂みにしたのも、この太助です。それを聞いて居るうちに私は眠くなつて、老爺の側で寢て了ふことも有りました。

 太助の働く小屋は裏の竹藪の前にありました。可成かなり廣い屋敷の内でしたから、そこまで行くには私は梨、林檎などの植ゑてある畠の間を通り、味噌藏の前を過ぎ、お牧がよく水汲に行く大きな井戸について石段を降りますと、その下の方に暗い米藏が有りまして、それに續いて松薪だの松葉の焚附だのを積重ねた小屋が有りました。太助は裏山の方から獨りで左樣いふものを運んで來るのでした。その小屋の内で、一日薪を割る音をさせて居ることも有りました。

 小屋に面して古い池が有りました。棚の上の葡萄の葉は青く淀んだ水に映つて居りました。石垣のところには雪下ゆきのしたなどがあのばたきするやうな白い小さな花を見せて居りました。そこは一方の裏木戸へ續いて、その外に稻荷が祭つてあります。栗の樹が立つて居ます。栗の花が枝から垂下る時分には、銀さんが他の大きな子供と一緒にあの枝から栗蟲を捕つて來たものですが、それを踏み潰すと、緑色の血が流れます。栗蟲のからだから、銀さん達は強い糸の材料を取つて、魚を釣る道具に造りました。その原料を酢に浸して、小屋の前で細長い糸に引延して乾すところを、私はよく立つて見て居りました。栗のいがが又、大きく口をく頃に成りますと、毎朝私達は裏の方へ馳附かけつけて行つたものです。そして風に落された栗を拾はうとして、樹の下を探し𢌞つたものです。それを人の知らない中に集めて置いて、小屋の前で私に燒いて呉れたり、母屋おもやの爐邊の方まで見せに持つて來て呉れたりしたのも、太助でした。

 何かにつけて私はイヂの汚ないやうなことばかり覺えて居ります。けれども、ずつと年をとつた人と同じやうに、少年の私にはそれが一番樂しい欲でした。斯樣なことを私は最初に貴女に御話するからと言つて、それを不作法とも感じません。種々な幼少をさない記憶がそれに繋がつて浮び揚つて來ることは、爭へないのですから。ついでに、太助が小屋から里芋の子を母屋の方へ運んで行きますと、お牧がそれに蕎麥粉を混ぜて、爐の大鍋で煮て、あのあかぎれの切れた手で芋燒餅といふものをこしらへて呉れたことも書いて置きませう。芋燒餅は、私の故郷では、樂しい晩秋の朝の食物くひものの一つです。私は冷い大根おろしを附けて、燒きたての熱い蕎麥餅を皆なと一緒に爐邊で食ふのが樂みでした。口をフウ〳〵言はせて食つて居るうちに、その中から白い芋の子が出て來る時などは、殊に嬉しく思ひました。


        三


 昨日きのふ一昨日をとゝひはこの町にある榊神社の祭禮で、近年にない賑ひでした。町々には山車だし、踊屋臺などが造られ、手古舞てこまひまで出るといふ噂のあつた程で、鼻の先の金色に光る獅子の後へは同じ模樣の衣裳を着けた人達が幾十人となく隨いて、手に〳〵扇を動かし乍ら、初夏の日のあたつた中を揃つて通りました。それ獅子が來た、御輿が來たと言つて、子供等は提灯の下つた家の門を出たり入つたりしました。

『御祭で、どんなに嬉しいのか知れません──』

 と姉さん達は斯の子供等のことを言ひましたが、兄の方は肩に掛けた襷の鈴を鳴らして歸つて來て、後鉢卷などにして貰ひ、黄色い團扇うちはを額のところに差して、復た町の方へ飛び出して行くといふ風でした。提灯に蝋燭の火が映る頃から、二人とも足袋跣足たびはだしにまで成つて、萬燈まんどうを振つて騷ぎ𢌞りました。

 私も祭らしい日を送りました。町に響く太鼓、かつがれて通る俵天王たるてんわう、屋臺の上の馬鹿囃ばかばやし、野蠻な感じのする舞──すべて、子供の世界の方へ私の心を連れて行くやうな物ばかりでした……

 毎年のやうに私は出して着る袷が二枚あります。母の手織にしたもので、形見として殘つて居るのは最早それだけです。私は十五年の餘も大切に保存して居ります。それが又、私の持つて居る着物の中で、一番着心地の好い着物なのです。短い袷時に、私はそれを取出すのを樂みにして居りますが、それを着た時は妙に安心して居られるやうな氣もします。その中一枚はあまり見苦しく成つたと言はれて、今年からは寢衣ねまきにして着ることにしました。

 私の母は斯うした手織縞をよく丹精したものです。私が子供の時分に着た着物は大概母の織つたものでした。私の生れた家は舊本陣と言つて、街道筋にあつて、ずつと昔は大名などを泊めたのですから、玄關も廣く、その一段上に板の間がありました。そこから廣い部屋々々に續いて居ました。その板の間の片隅にはたが置いてありました。私が表の方から古い大きな門を入つて玄關前の庭に遊んで居りますと、母が障子の影に腰掛けて錯々せつせをさの音をさせたものでした。

 頬の紅い、左の眼の上に黒子ほくろのあつた母のことを言へば、白い髮を切下げて居た祖母ばゝのことも御話しなければ成りません。祖母は相應に名のある家からとついで來た人で、年はとつても未だシツカリして居りました。尤も私の覺えてからは腰は最早すこし曲つて居りましたが。一體、私は七人の姉弟きやうだいのうちで一番の末の弟で、私の直ぐ上が銀さん、それから上に二人姉があつたさうですが、斯の人達は幼少ちひさくて亡くなりましたさうです。その上に兄が二人あつて、一人は母の生家さとの方へ養子に參りました。一番年長うへが姉です。姉は私がまだ極く幼少い時に嫁に行きましたから、殆んど吾家うちに居たことは覺えません。長兄の結婚は漸く私が物心づく頃でした。あによめを迎へてから、爐邊は一層賑かで、食事の度に集つて見ると可成大きな家族でした。その頃から私は祖母に隨いて、毎晩隱居所の方へ泊りに行くやうに成りました。そこは井戸に近い二階建の離れ家で、階下したは物置やら味噌藏やらに成つて居ました。暗いところを行くのですから、私は祖母と一緒に提灯つけて通ひました。

 私の家では、生活くらしに要る物は大概は手造りにしました。野菜を貯へ、果實このみを貯へることなどは、殆んど年中行事のやうに成つて居ました。母は若い嫂を相手にして、小梨の汁などで糸をよく染めました。茶も家で造りました。茶摘といへば日頃出入の家の婆さんまで頼まれて來て、若葉をホイロに掛けて揉む時には男も一緒に手傳ひました。玄關前の庭の横手には古い椿の樹がありましたが、その實から油をも絞りました。私は母や嫂の織つた着物を着、太助の造つた草履を穿いて、少年の時を送つたのです。

 例のお牧に連れられて、映し繪を見に行つた晩のことでした。旅の見世物師が來て、安達あだちはらだの、鍋島の猫騷動などを映して見せ、それでいくらかの木戸錢を取りました。障子に映つた鬼婆、振揚げた出刃庖丁、後ろ手にくくし上げられた娘、それから老女に化けた怪しい猫の幻影まぼろしなどは、夢のやうな恐怖を誘ひました。家へ戻つて行つても、私は安心しませんでした。

祖母樣ばゝさま、お前さまは眞實ほんたうの祖母樣かなし……一寸背後うしろを向いて見さつせれ……』

『これ、何を馬鹿言ふぞや。』

 母や嫂は側に居て笑ひました。その頃から私は『人浚ひとさらひ』に浚はれて行くといふ恐怖なども感じて、祖母と二人ぎり寂しい隱居所の方へ行く時には、寢床の中に小さくなつて寢たことも有りました。お化より何より、『人浚ひ』が私には一番恐しかつた。それは夜鷹の鳴く日暮方にでも通るもので、一度浚はれたら、兩親の許へ歸つて來ることが出來ないやうにも思はれました。

 すこし見慣れないものが有ると、私は子供心に眼をとめて見ました。そして不思議な恐怖に襲はれることが有りました。太助がよく働いて居た木小屋の前を通り拔けて、一方の裏木戸の外へ出ますと、そこには稻荷が祭つてあります。葉の尖つたひゝらぎ、暗い杉、巴丹杏はたんきやうなどが其邊に茂つて居まして、木戸の横手にある石垣の隅には見上げるほど高い枳殼からたちが立つて居ました。あの棘の出た幹の上の方に、ある日私は大きな黒い毛蟲の蝶を見つけました。田舍で荒く育つた私の眼にも、その蝶ばかりは薄氣味の惡いほど大きかつた。そして毒々しい黒い翅を震はせて居ました。私は小石を拾つて投げつけようとしましたが、恐ろしくなつて、そのまゝ母屋の方へ逃げて歸つたことが有りました。

 斯の手紙を書きかけて置いて、私は兄弟の子供を連れながら河岸の方まで歩きに行つて來ました。榊神社の境内まで行くと、兄の方はぷいと腹を立てゝ家の方へ歸つて了ひましたから、私は弟の方だけ連れて、河岸へ出ました。船宿などのゴチヤ〳〵並んで居るところです。投網とあみも乾してあります。そこで私は小船を借り一人の子供を乘せて水の上を漕ぎ𢌞つたこともあります。河岸へ行く度に、子供はそれを言出して、復た船に乘りたいと強請ねだりましたが、今日は止さして、一緒に柳並木の下を歩きました。ふと私は十二三ばかりの獅子を冠つた男の兒が本所の方へ歸つて行くのに出逢ひました。

『オイ、そこンところで一つ遣つて見て呉れないか。』

 私は呼び留めまして、袂から二錢銅貨を二つ取出して渡しました。

『御覽、角兵衞だよ。』

 と小聲で言つて聞かせますと、子供も石の柵に倚凭よりかゝつて眺めました。

 人通りの少い靜かな柳のかげで、雪袴ゆきばかまのやうなものを穿いた少年が柔軟やはらかな身體を種々に動かして見せた。兩足で首を挾む、さかさ蜻蜓返とんぼがへりする、自由自在にやりました。少年は細い瘠せた、曲藝の爲に成長しとなれないやうな身體をして居ました。

『おあしを持ちながら遣るのかい。そこに置いたら可いぢやないか。私が見てるから大丈夫だ。』

 と私が言ふと、少年はそれも左樣だといふ顏附で笑つて、手に一ぱい握り締めて居た銅貨を柳の根元のところに置いて、復た一つ二つ藝を遣りました。身體の中心を兩手だけで支へて、土の上を動き𢌞りなぞして見せました。

 斯ういふ少年に稼がせて世渡りするらしい日に燒けた女がそこへ通りかゝりました。間もなく少年は掌の土を拂ひ、赤い布で頭の上の小さな獅子を包んで、その女の後を追ひました。

『兄さんも來れば可いのに、お獅子が見られるのに。』

『ネ、角兵衞見たつて、左樣言つてやりませう。』

 私は弟の方の手を引いて歸りました。

 家の門口まで行くと、兄の方が飛んで來て、獅子を見せなかつた不平を頻りに並べました。弟は又、身振手眞似をして兄を羨ましがらせました。

『ア、好いナア。』

『來れば可いぢやないか。』

『何故兄さんは一緒に行かなかつたの。お獅子が見られたのに。』

『父さん、そのかはり蜜豆買つて──』

『蜜豆なんか止せ。』

 私は子供を連れて家へ入り、茨城の方から貰つたばかりのちまきを分けて呉れました。青い柔かな笹の葉で面白く包んであつて、越後粽の三角なのとも異り、私の故郷の方で造るのとも違ひました。子供の甘さうに食つて居る傍で、私はその笹の葉を笛のやうに鳴らして聞かせました。

 今笑つて居る、直に復たぐづり出す、一度泣出したら地團太ぢだんだ踏むやら姉さん達に掻附くやら、容易には納まらないのが弟の方の子供です。何故子供といふものは、もつと自然に育てられないのかしら──何故斯う威かしたり欺したり時には殘酷な目にまで逢はせなければ育てられないのかしら──私は時々そんなことを思ひます。頭の一つもブン擲らずに濟ませるものなら、成るべく私はそんな眞似もしたくない。左樣思つて控へて居りますと、『貴方がたの父さんは御砂糖だと見えますネ』などと人々には笑はれる。しまひには世話するものまで泣いて了ふ。見るに見兼ねて、何時でも私がそこへ出なければ成らないやうなことに成ります。どうかすると私は憤怒の情に驅られて、子供を叱責する前に、激しく自分の唇を噛むことも有ります。憐むべき Domestic Animal……なにしろ弟の方の子供は丁度今が荒々しい、手に負へない盛りですから……

 どれ、私の生れた家の方へ貴女の想像を誘つて行つて、舊い屋敷をお目に掛けませう。

 母がよく腰掛けたはたの置いてある板の間は、一方は爐邊へ續き、一方は父の書院の方へ續くやうに成つて居ました。斯の板の間に續いて、細長い廂風ひさしふうの座敷がありまして、それで三間みまばかりの廣い部屋をぐるり取圍とりまくやうに出來て居りました。斯の部屋々々は以前本陣と言つた頃に役に立つたので、私の覺えてからは、奧の部屋などは特別の客でもある時より外に使はない位でした。別に上段の間といふのが有りました。そこは一段高く設けた奧深い部屋で、白いへりの疊などが敷いてあり、昔大名の寢泊りしたところとかで、私が子供の時分には唯床の間に古い鏡や掛物が掛けてあるばかりでした。父はそこを神殿のやうにして、毎朝神樣を拜みましたから、私も眼が覺めると母に連れられて御辭儀に行つたものです。それほど父は嚴格な、神信心な人でした。髮なども長くして、それを紫の紐で束ねて、後の方へ垂れて居ました。上段の間を隔てゝ、くつろぎの間といふのも有つて、そこが兄の居間に成つて居りました。村の旦那衆はよくそこへ話しに集りました。仲の間は明るい光線の射し込む部屋で、母や嫂が針仕事をひろげたところでした。障子を明けると、細長い坪庭を隔てゝ石垣の下に叔母の家の板屋根などが見え、ずつと向ふの方には遠い山々、展けた谷、見霞むやうな廣々とした平野までも望みました。丁度私の田舍は高い山のはづれで、一段づゝ石垣を築いて、その上に村落を造つたやうな位置にあります。私の家はその中央なかほどにありました。叔母の家といふはお霜ばあといふ女に貸してありましたが、心易く私の家へ出入した人でした。そこから通つて來るには是非とも坂道の往來を上らなければなりませんでした。

 お霜婆はてか〳〵した禿を薄い髮の毛で隱して居るやうな女でした。若い女中を一人使つて、女ばかりで暮して居ました。どうして斯樣な人が叔母の家を借りて居たのか、皆目かいもく私には解りませんでしたが、かく村の旦那衆がよく集るところではありました。お霜婆は私を可愛がつて呉れましたから、私も遊びに行き〳〵しまして、半ば自分の家のやうに心易く思つた位でした。旅の飴屋が唐人笛などを吹いて通ると、きつとそれを呼んで、棒の先にシヤブるやうにした水飴を私に買つて呉れたのも、斯の婆さんでした。しかしお霜婆の可愛がりやうは、太助やお牧などと違つて、どこかうるさいやうなところが有りました。どうして、ナカ〳〵御世辭ものでした。

 斯のお霜婆に就いて、私は片意地な性質を顯はしました。お霜婆の家でも毎年蠶を飼ひましたが、ある時私は婆さんの大切にして居る蠶に煙草のやにめさせました。斯の惡戲いたづらは非常に婆さんを怒らせました。その時から私は婆さんと仲違なかたがひして、婆さんの家の前はけて通り、婆さんが家へ來て言葉を掛ける時でも私は口も利かなく成つて了ひました。子供ながらに私はそれを六十日の餘も續けました。

 そのうちに村の祭が來ました。私は銀さんとお揃ひで黒い半被はつぴを造つて貰ひました。背中に家の紋を白く見せたものでした。火の用心の腰巾着もぶら下げました。折角せつかく祭の仕度が出來た、仲直りがてらお霜婆に見せて來るが好からう、と兄が言つて、嫌がる私を無理やりに背中に乘せ婆さんの家へかつぎ込みました。兄に置いて行かれた後で、婆さんが何と言つても私は聞入れませんでした。私は足をバタ〳〵させて泣きました。婆さんも手の着けやうが無いといふ風で、一層腹を立てまして、復た私を無理やりに背中に乘せ、家の方へ送り返しに來ました。

 斯樣な風で、容易に私の心は解けませんでした。到頭お霜婆の方から私の好きな羊羹を持つて仲直りに來ました。其時私は裏の井戸のところに立つてお牧が水を汲むのを見て居りましたが、お霜婆の仲直りに來たことを聞いて、お牧に隨いて母屋の方へ行きました。斯の婆さんと以前のやうに口を利くやうに成る迄には、大分私には骨が折れました。


        四


『もし〳〵龜よ、龜さんよ、

世界のうちにお前ほど、

歩みの遲鈍のろいものは無い──』

 無邪氣な唱歌が私の周圍まはりに起りました。私は二人の子供を側へ呼びまして、

『さあ、お前達は二人とも龜だよ。父さんが兎に成るから。』

『父さんが兎?』と兄の子供は念を押すやうに私の顏を覗き込みました。

『アヽ、龜と兎と馳けくらべをしよう。いゝかい、お前達は龜だから、そこいらを歩いて居なくちやいけない。』

 お伽話の世界の方へ直に子供等は入つて行きました。二人とも龜にでも成つた氣で、揃つて手を振りながら部屋の内を歩き𢌞りました。

『龜さんはもう出掛けたか。どうせ晩まで掛るだらう……』

 と私は子供等に聞えるやうに言つて、『こゝらで一寸、一眠りやるか……』

 私が横に成つて、グウ〳〵鼾をかく眞似をすると、子供等は驚喜したやうに笑ひ乍ら、私の周圍まはりを𢌞つて居りました。そのうちに、私は半ば身を起して、大欠おほあくびしたり兩手を延ばしたりして、眠から覺めたやうに四邊あたりを見𢌞しました。

『ヤ、これは寢過ぎた……』

 と私は失策しくじつたやうに言へば、子供等は眼を圓くして、急いで床の間の隅に隱れました。私は龜の在所ありかを尋ね顏に、わざ〳〵箪笥の方へ行つて見たり、長火鉢の側を𢌞つたりしました。

『兎さん、こゝよ。』

 と子供等が手を打つのを、私は聞えない振をして、幾𢌞りか𢌞りながら漸くのことで龜の隱れて居るところへ行きました。其時、子供等は勝誇つたやうな聲を揚げて、喜び騷ぎました。

 どうかすると私は斯樣な串談じやうだんをして、子供を相手に遊び戲れます。斯ういふ私を生んだ父は奈樣どんな人であつたかと言へば、それは嚴格で、父の膝などに乘せられたといふ覺えの無い位の人でした。父は家族のものに對して絶對の主權者で、私等に對しては又、熱心な教育者でした。私は父の書いた三字經を習ひ、村の學校へ通ふやうに成つてからは、大學や論語の素讀を父から受けました。あの後藤點の栗色の表紙の本を抱いて、おづ〳〵と父の前に出たものです。

 父の書院は表庭の隅に面して、古い枝ぶりの好い松の樹が直ぐ障子の外に見られるやうな部屋でした。赤い毛氈まうせんを掛けた机の上には何時でも父の好きな書籍が載せてありましたが、時には和算の道具などの置いてあるのを見かけたことも有ります。父はよく肩が凝ると言ふ方でして、銀さんと私とが叩かせられたものですが、肩一つ叩くにも只は叩かせませんでした。歴代の年號などを暗誦させました。しまひには銀さんも私も逃げてばかり居たものですから、金米糖こんぺいたうを褒美に呉れるから叩けとか、按摩賃を五厘づゝ遣るから頼むとか言ひました。

『享保、元祿……』

 私達は父の肩につかまつて、御經でもあげるやうに暗誦しました。

 何ぞといふと父が私達に話して聞かせることは、人倫五常の道でした。私は子供心にも父を敬ひ、畏れました。しかし父の側に居ることは窮屈で堪りませんでした。それに父が持病のかんでも起る時には、夜眠られないと言つて、紙を展げて、遲くまで獨りで物を書きました。その蝋燭を持たせられるのが私でしたが、私は唯眠くて成りませんでした。

 斯うした嚴格な父の書院を離れて、仲の間の方へ行きますと、そこには母や嫂が針仕事をひろげて居ります。私は武者繪の敷寫しなどをして、勝手に時を送りました。母達の側には別に小机が置いてあつて、隣の家の娘がそこで手習ひをしました。おぶんさんと言つて、私と同年で、父から讀書よみかきを受ける爲に毎日通つて來たのです。父を『お師匠樣』と呼んだのは斯のばかりでなく、村中の重立つた家の子はあらかた父の弟子でした。中には隣村から通つて來るものも有りました。

 私は今、町の湯から歸つて、斯の手紙のつゞきを貴女に書いて居ります。八歳やつつばかりに成る近所の女の兒が二人來て、軍艦や電車の形を餘念なく描いて居る私の子供の側で、『あねさま』などを出して遊んで居ります。そのさまを眺めると、私が隣の家の娘と遊んだのは丁度そんな幼少をさない年頃であつたことを思出します。

 お文さんのところは極く懇意で、私の家とは互に近く往來ゆきゝしました。風呂でも立つと言へば、互に提灯つけて通ふほどの間柄でした。相接した裏木戸傳ひに、隣の裏庭へ出ると、そこは暗い酒藏の前で、大きな造酒の樽の陰には男達が出入して働いて居たものです。新酒の造られる頃、私は銀さんと一緒によく重箱を持つて、『ウムシ』を分けて貰ひに通ひました。この隣の『ウムシ』、それから吾家で太助が造る燒米などは、私が少年の頃の好物でした。私は又お文さんと一緒に、庭の美濃柿の熟したのを母から分けて貰ひ、それに麥香煎むぎこがしを添へ、玄關のところに腰掛けて食ふのを樂みとしました。

 貴女は『オバコ』といふ草などを採つて遊んだことが有りますか。お文さんはあの葉の纖維に糸を通して、機を織る子供らしい眞似をしたものです。私が裏の稻荷側いなりわき巴旦杏はたんきやうの樹などに上つて居ると、お文さんはその下へ來てあの葉を探しに草叢の間を歩き𢌞りました。斑鳩いかるが來て鋭い聲で鳴いた竹藪の横は、私達がよく遊び𢌞つた場所です。そこでえのきの實を集めるばかりでなく、時には橿鳥かしどりの落して行つた青いの入つた羽を拾ひました。

 私が祖母と二人で毎晩泊りに行く隱居所に對ひ合つて、土藏がありました。暗い金網戸の閉つた石段の上は、母が器物うつはものを取出しに行つて、錠前をガチヤ〳〵言はせたところです。私は母に連れられて、土藏の二階に昇り、父の藏書を見たこともあります。古い本箱が幾つも〳〵積み重ねてありました。斯の土藏の下には年をとつた柔和な蛇が住んで居ました。太助などは『ぬし』だと言つて、誰にも手を着けさせずに大事にした置きました。その『主』が頭を出して晝寢をして居る白壁の側、土藏の前にある柿の樹の下あたりは、矢張私達の遊び場所でした。甘い香のする柿の花が咲くから、青いへたの附いたむだな實が落ちるまで、私達少年の心は何を見ても退屈しませんでした。

 お牧は井戸から水を擔いで土藏について石段を上つて來ます。斯の柿の樹のあるところから、更に石段を上つて母屋の勝手口へ行くまでが、彼女の水汲に通ふ路でした。その邊は舊本陣時代の屋敷跡といふことでしたが、私が覺えた頃は既に桑畠で、林檎や桐などが畠の間に植ゑてありました。隣の石垣の上には高い壁が日に映つて見えました。それがお文さんの家でした。

 私達が子供の時分には、妙に暗い世界が横たはつて居りました。多勢村のものが寄集まつて一人の眼隱した男を取圍とりまいて居る光景ありさまを一寸想像して見て下さい。激昂した衆人の祈祷の中で、その男の手にした幣帛ぬさが次第に震へて來ることを想像して見て下さい。其時は早やある狐の乘移つたといふ時で、非常に權威ありげな聲で、神の御告といふものを傳へます。どうかすると斯の狐の乘移つた人は遠い森を指して飛び走つて行くことも有りました。私は又、村の小學校で、狐がついたといふ生徒の一人を目撃しました。その少年は顏色も變り手足を震はして居ました……

 斯ういふ不思議なことが別に怪まれずにあるやうな、迷信の深い空氣の中で、私は子供の時を送つたのです。何等かの自然の現象で一寸解釋のつきかねるやうなことは、知らない生物いきものの世界の方へそれを押しつけてありました。山には狼の話が殘り、畠にはむじなや狸が顯はれ、暗くなれば夜鷹だの狐だのの鳴聲のするのが私の故郷でした。それほど私達の幼少をさない時の生活は禽獸とりけものの世界と接近したものでした。蜂の種類も多くありました。殊に地蜂と言つて、五層も六層も土の中に巣を造るのは、土地で賞美される食料の一つでした。兄達は蛙を捉へて來て、その皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、地蜂の親の餌を探しに來るのを待受けたものです。蛙の肉に附けて置いた紙のきれで、それをくはへて飛んで行く蜂の行方を眺めると、巣の在所ありかが知れました。小鳥の種類の豐富なことも故郷の山林の特色です。もちや網で捕れるつぐみひはの類はおびたゞしい數でした。雀などは小鳥の部にも數へられないほどです。子供ですら馬の尻尾の毛で雀のわなを造ることを知つて居ました。

 私達は、同じ年頃の子供ばかりで遊ぶ時には、まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃わきには『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りたざるを持つて行つてかじかをすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色ときいろの腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。

 何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風ひさしふうの小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。

 お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少をさない隣の家の娘のことを御話するのです。有體ありていに言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……

 ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣にほひのする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來ゆきゝをしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長うへの少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。

 其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。

 お文さんは相變らず吾家うちへ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしませんでした。

 御承知の通り、狹い田舍では大抵の家が遠い親類の形に成つて居ます。左樣いふ家の一つに、丁度お文さんと同い年ぐらゐな娘がありました。惡戲いたづら好きな學校の朋輩は、その娘の名と私の名とを並べて書いて見たり、課業を終つて思ひ〳〵に歸つて行く頃には、杉の樹のあるお寺の坂の上あたりから、大きな聲で呼ばつたりしたものです。

 それを聞くと私は、

『糞をくらへ。』

 といふ風で、吾家を指して歸りました。

 それから九歳こゝのつの秋に東京へ遊學に出掛けるまで、私の好きなことは山家の子供らしい荒くれた遊びでした。次第に私は遠く行くやうに成つて、男の友達と一緒に深い澤の方まで虎杖いたどりの莖などを折りに行き、『カルサン』といふ勞働の袴を着けた太助の後に隨いて、松薪まつまきの切倒してある寂しい山林の中を歩き𢌞り、路傍みちばたに『』でも見つけると、それを生でムシヤ〳〵食ひました。太助とは、山の神のほこらのあるところへ餅を供へにも行つたことが有ります。都會の子供などと違ひ、玩具も左樣さう自由に手に入りません。私は竹と半紙で『するめ紙鳶だこ』を手造りにすることを覺えました。それを村はづれの岡の上へ持つて行つて、他の子供と競爭で揚げました。『シヨクノ』──東京の言葉でいふ『ネツキ』は、最も私の心を樂ませた遊びです。木は不自由しない村ですから、私は太助の鉈序なたついでに、強さうな木の尖端さきを鋭く削つて貰ひました。どうかすると霜枯れた田圃側には、多勢村の少年が群がつて、斯の『シヨクノ』を土の中に打込んで遊びました。私の父はヤカマしいので、斯ういふ遊びに勝つても、表から公然と擔ぎ込む譯に行きません。左樣いふ時に、都合の好いのはお霜婆の家でした。

 銀さんと私とがいよ〳〵上京とまつた頃は、母の織る機がいそがしさうに響きました。母は私の爲にヨソイキの角帶を織りました。なにしろ私はまだ田舍の小學校で僅か學んだばかりで、小さな旅の鞄に金米糖を入れて呉れるからと言はれて、それを樂みに遊學の日を待つほどの少年でした。


        五


 旦那樣はじめ、お子樣がた御變りもなき由、殊に此節は幼い二人を相手に樂しい日を送つて居らるゝとか。先頃子供のところへ贈つて下すつた御地の青い林檎は斯のあたりの店頭みせさきにあるものと異なり樹からぎ取つたばかりのやうな新鮮を味ひました。御蔭で子供も次第に成人して參ります。函館の老爺ぢゝ上京の節も、孫達の顏を眺めて、たまに出て來て見ると大した違ひだと申した位です。私がたはむれに弟の方の子供を抱き上げて見て、更に兄の方を抱き上げながら大分重くなつたと申しましたら、兄の子供はさも嬉しさうに首をすくめて笑ひました。

『重くなつたと言はれるのが、そんなに嬉しいの?』

 と側に居る娘も笑ひながら言ひました。

 毎日長い黐竿もちざをを持つて町の空へ來る蜻蜓とんぼを追ひ𢌞して居た兄の子供も、復た〳〵夏休み前と同じやうに鞄を肩に掛けて、學校へ通ふやうに成りました。近所の毛筆屋ふでやの子で眼のパツチリとした同級生が毎朝誘ひ合せては出掛けますが、ある夕方、その子が遊びに來て門口から私の家を覗きました。瓦斯ガスとか電燈とかで明るい屋並の中に、吾家うちではまだ洋燈ランプを用ひて居ます。

『洋燈を點けてるのかい──隨分舊弊だねえ。』

 とその八つに成る毛筆屋の子が申しました。流石さすが都會に育つ子供はマセた口の利きやうをすると思ひました。

 八月の末から九月の初へかけて毎年のやうに降る大雨が今年は一時にやつて來て、乾き切つた町々を濡らしました。隅田川も濁つて灰汁あくを流したやうに成りました。狹い町中とは言ひながら、早や秋の蟲が縁の下の方でしきりに鳴きます。冷々ひや〳〵とした部屋の空氣の中でその鳴聲を聞きながら、毛筆屋の子に笑はれた洋燈の下で、私は斯の手紙を書き續けます。

 少年の私が銀さんと一緒に東京へ遊學することに成りました時は、銀さんが數へ年の十二、私が九つでした。まだ他にお文さんの二番目の兄さんも眼の療治のために同行することに成りました。

 その日も近づいた頃、銀さんは裏の梨の樹の下あたりに腰掛けて、兄貴に東京行の頭を刈つて貰ひました。村には理髮店といふものも無い時でしたから、兄貴が襷掛で、掛る布も風呂敷か何かで間に合せて、銀さんの髮を短くはさみました。私の方はまだ一向な子供でしたから、髮も長く垂下げたまゝで可からうと言はれました。私はそツと家を拔け、子供心にも別れを告げるつもりで、裏道づたひにお牧の家をさして歩いてまゐりました。私は人に見つからないやうにと、くらゐ苦心して竹藪の側や田圃中の細い道なぞを通つたか知れません。何故といふに、村で一番不潔な男を親に持つたそのお牧の手に養はれたといふことは、絶えず私がひとから調戲からかはれる材料に成つて居ましたから。私は調戲はれると言ふよりはなぶられるやうな氣がして、その度に堪へ難い侮辱はづかしめを感じて居りました。で、隱れるやうにしてお牧の家まで歩きました。丁度お牧の父親も家に居る時で、例の油染みた髮結の道具などが爐邊に置いてあつたかと覺えて居ます。お牧の家の人達は非常に喜びまして、私のために鍋で茶飯をいて呉れました。私が茄子なすが好きだからと言つて、皮のまゝ輪切にしたやつを味噌汁にして呉れました。その貧しい爐邊で味つた粗末な『おみおつけ』は、私に取つて一生忘れられないものです。それから三十年あまりの今日まで、どうかして私は彼樣あゝいふ味噌汁を今一度吸ひたいと思つて、幾度同じやうに造らせて見るか解りませんが、二度と彼の味を思出させるやうなのには遭遇であひません。

 片田舍のことですから、私達が東京へ發つ前には毎晩のやうに親しい家々から客に呼ばれました。私は銀さんと一緒にお文さんの家へも呼ばれて行つて、鷄肉とりつゆで味をつけた押飯あふはん(?)の馳走に成りました。何かにつけて田舍風の饗應を取替とりかはすといふことは、殊に私の村では昔から多い習慣のやうに成つて居ました。

 出發の前の朝、祖母は私達を爐邊に据ゑまして、食事しながら種々なことを言つて聞かせました。今朝は言ふ、そのかはり明日の朝は何事なんにも言はない、そんなことを言つて、長いこと私達を側に坐らせて置いて、別離わかれの涙を流しました。其晩、私は父の書院へも呼び附けられて、五六枚ほど短册に書いたものを餞別として貰ひました。それは私が座右の銘にするやうにと言つて呉れたので、日頃少年の私をつかまへて口の酸くなるほど言つて聞かせた教訓を一つ〳〵文字に表はして書いたものでした。私はその全部を記憶しませんが、父があの几帳面な書體で認めた短册の中には、あり〳〵と眼に浮んで來るのもあります。

『行ひは必ず篤敬。云々。』

 兄に引連れられて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を發ちました。坂になつた驛路の名殘の兩側には、それぞれ屋號のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒々々田舍風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つきの手傳ひなどに來る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人達までいづれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送つて呉れました。九月の日のあたつた村はづれまで送つて來て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、澤を越して行きますと、あざ峠と言つて一部落を成したところがあります。その邊まで私達に附いて來て名殘を惜む人もありました。おかしらの家のある峠を離れて、私達は旅らしい山道に上りました。

 その頃は京濱間より外に鐵道といふものも無く、私達の故郷から東京まで行くには一週間もかゝるほど不便な時でした。それに大きな谷の底のやうな斯の山間やまあひを出て、馬車にでも乘れるといふ處まで行かうとするのには、是非とも高い峠を二つだけは越さなければ成りませんでした。

 全く方角も解らなく成つて了つたやうな、知らない道を三日も四日も歩いた後で、私は銀さん達と一緒に左樣いふ峠のしかも險しい石塊いしころの多い山道にさし掛りました。私は風呂敷包を襷にして背中にしよひ、洋傘かうもりを杖につき、あへぎ喘ぎその坂を攀ぢ登りましたが、次第に歩き疲れて、お文さんの兄さんや銀さんから見ると餘程後れるやうに成りました。日は暮れかけて、山の中は薄暗く見えるやうに成つて來ました。

『金米糖を呉れなけりや、歩けない。』

『呉れるから、歩け。』

 私は兄と斯樣な押問答をして、路傍みちばたの石に腰掛けては休み〳〵、復た出掛けました。そのうちに金米糖どころでは無くなつて來ました。私には歩けなく成りました。何となくお腹まで痛く成つて來ました。私は洋傘をそこへ投出して動かずに居たこともあります。すると兄が私の傍へ來て、私の帶へ手拭を結はへ附けまして、それで私を引き立てました。

 斯の骨の折れる山道を越して、やつとのことで峠の下まで歩いて行きますと、澤深い温泉宿のやうな家々の灯が私の眼に嬉しく映りました。そこが中仙道の沓掛くつかけであつたかと覺えて居ます。

 何處から馬車に乘つたかといふことも、ハツキリとは記憶しません。唯、前の方へ突進する馬車と……時々馬丁べつたうの吹き鳴らす喇叭らつぱと馬を勵ます聲と……激しく動搖ゆすれる私達の身體とがあるばかりでした。

 狹い車の上で復た日が暮れました。暗い夜の道を後に殘しては私達は乘りつゞけに乘つて行きました。斯の馬車の旅で私達は一人の女の客とも道連に成りました。矢張東京まで行く客で、故郷に殘して置いて來た私の母などよりはずつと若い人でしたが、私達の村にでも居さうな、田舍風な婦人ではありました。旅の包の中から菓子を取出して、それを紙包にして私に呉れたりなどしました。しまひには私も斯の小母さんのやうな人に慣れて、その膝の上に抱かれました。そして馬車に搖られて眠く成つて來ると、そのまゝ寢て了つたことも有りました。

『追剥だ。追剥だ。』

 といふ聲を聞きつけて、急に私は眼を覺ましました。馬車が何處を通るのか、皆目それは私には解りませんでしたが、闇に振る馬丁べつたうの烈しい鞭の音と、尋常たゞならぬ車の上の人達の樣子とで、賊といふことだけは知れました。馬車が疾驅してその場所を通過ぎた後で、氣の荒い馬丁は手綱をゆるめて、賊が馬の脚へ來て掛らうとしたとか、斯の邊の夜道は物騷だとか、確かに自分の一鞭は手答へがあつたとか、兄達に話し聞かせて笑ひました。復た馬車は暗黒やみの中を衝いて進みましたが、それが夜道へ響けて可恐おそろしい音をさせました。

 夜が明けてから、私達は田舍町の中を乘つて通りました。高い竹梯子の上で宙乘をする消防夫の姿が馬車の上から見えました。そこは上州の松井田でした。

 烏川を越した時の記憶は未だによく殘つて居ます。私達は馬車を降りまして、皆な歩いて渡りました。あの邊の廣濶ひろ〴〵とした白い光つた空は、まだ私の眼にあります。客だけ下して置いて、河原から水の中へ引き入れた馬車の音を、まだ私は聞くことが出來るやうな氣がして居ます。

 斯の旅はすつかりで矢張七日ほどかゝりました。私は馬車に乘つたまゝ半分夢のやうに東京へ入りました。その馬車が着いたところは萬世橋でしたが、あの頃の廣小路のさまは殆んど尋ねることも出來ないほど變つて了ひました。今でも寄席や旅人宿は殘つて居ます。あの並びに馬車の着くところが有りまして、その前の並木の陰で私達は車から下りたかと思ひます。


        六


 落着く先は姉の家でした。長兄に引連れられて山の中から出て來た私達兄弟の少年は、はじめて大きな都會の空氣に觸れ、日頃故郷の方でよく噂の出る姉とも一緒に成ることが出來たのです。前にも御話しました通り、姉は私が覺えの無いほど極く幼少ちひさな時分に嫁入した人でした。

 田舍者が多勢で押掛けて來た姉の家は、銀座の裏側にあたる閑靜な町の角にあつて、灰色な圓柱の並んだ、古風な煉瓦造りの一つでした。二階には四間ばかりの部屋がありました。その一室ひとま硝子窓ガラスまどから町の裏側の屋根だの物干だのの見えるところが私達兄弟の勉強部屋によからうと言はれて、そこで私は銀さんと一緒に新規な机を並べ、夜はその部屋で二人枕を並べて寢ました。田舍に居た頃とは違ひ、こゝでは茶の出る時間も午後と定つて居て、甥と一緒に茶うけの豆せんべいなどを買ひに行き、廣い爐邊でノンキに食事をしつけたものが今度は姉の家の祖母おばあさんや姉夫婦の側にかしこまつて、銀さんと御取膳で食ふことに成りました。

『どうだ、是がオサシミだ。』

 と姉に言はれて、私は初めてオサシミといふものを口に入れて見たことを覺えて居ます。姉が馳走振に取つて呉れた新鮮な魚肉よりも、故郷の方で食べ慣れた鹽辛い鮭の方が私の口にひました。一年に一度づゝ年取の晩の膳についた鹽鰤しほぶりの味などは私には忘れられないものでした。

 その頃の姉はまだ若く見える人で、物の言ひ方なども、ハキ〳〵として居て、私の知らないことは深切に教へて呉れ、萬事につけて私をいたはつて呉れました。斯の愛情は少年の私には難有いものでした。私の故郷の習慣で、他の朋輩を呼ぶには『わりや』と言ひ、自分のことは奈樣どんな目上の人の前でも、『おれ』でしたが、その時都會の少年のやうに言葉遣ひを習ひ、『君』とか『僕』とかいふ言葉も姉からをそはりました。

 姉が私の爲に種々と注意をして呉れたことは、次の一例を御話しただけで解らうと思ひます。子供の時分に私はよく鼻液はなが出ました。それを兩方の袖口で拭きましたから何時でも私の着物には鼻液が干乾ひからび着いて光つて居りました。そればかりでなく、着物の胸のあたりをも汚したものです。姉はそれを見て取つて、私が食事の時に茶碗を胸に當てることは止せと言ひましたが、自然とついた癖は直さうと思つても容易に直りませんでした。何時の間にか私の茶碗は胸のところに當つて居ました。そこで姉は一計を案出しました。四角に切つた鐵葉ブリキきれに紐を着けまして、食事の度に私に掛けさせることにしたのです。

『御飯!』

 といふ聲を聞くと、私は客があるか無いかを第一に思ひました。姉の家の人達は兎も角も、知らない客の前でブリキを自分の首に掛けるほどキマリの惡いことは有りませんでした。全く、ブリキの前垂には私も弱らせられました。でもその御蔭で、カチリと茶碗の音がする度に自分でも氣が着いて、着物を汚す癖は直つて行きました。

 姉の夫といふは背の隆い、立派な威嚴のある人でした。國から出て來て、一時は大藏省の官吏にも成りました。斯の人と兄とは極く親しい間柄で、私のことも親身の弟のやうに見て呉れ、私のために數寄屋河岸にある小學校を選んで呉れました。斯の人は又、鷹揚にあごを撫でながら私を前に置いて論語の素讀を授けて呉れたり、閑暇ひまな時には東京の町々だの公園だのを見せに連れて歩いて呉れました。私は未だに斯の人が當時流行はやつた獵虎らつこの帽子を冠つた紳士らしい風采を覺えて居ます。それから觀兵式の日に連れられて行つて、初めて樽柿といふものを買つて宛行あてがはれたことなどを覺えて居ます。その頃のことを思出すと海の見える座敷で海苔の香氣にほひを嗅いだことが私の幼い記憶に浮び揚つて來ます。なんでも其日は姉の家のものが皆な揃つて外出して、私はめづらしい處で一緒に食事をしたやうに思ひますが、それが品川邊の料理屋であつたか何處であつたかは、よく覺えません。唯海苔の香氣の記憶だけ、しかも鼻の先へ匂つて來るやうに殘つて居ます。そんな風にして私は諸方はう〴〵へ連れられて行きました。

 姉夫婦の傍には私は一年あまりしか居りませんでしたが、しかしその間に受けた愛情は少年の私の心に深く刻み着けられました。それからずつと後に成つて、姉の夫の身の上には種々な變化が起り、その行ひには烈しい非難を受けるやうな事もありました。さういふ中でも、猶私が周圍の人のやうには姉の夫を考へて居なかつたといふは、全く斯の少年の時に受けた温い深切の爲で──丁度、それが一點の燈火ともしびの如くに私の心の奧に燃えて居たからであります。

 素朴な私の田舍の家と違ひ、姉の家にはまた別の空氣がありました。そこの祖母おばあさんは名古屋風の趣味を持つた人で、綺麗に片附けた下座敷へ琴を取出して時々なぐさみに掻鳴しました。甥は私よりは三つも下の少年でしたが、謠曲うたひの文句などを諳記して居て、斯の祖母さんの側でよく歌ひました。

 二階座敷で時折樂しい酒宴さかもりのあつたことも、客を款待もてなすことの好きな姉の夫の氣風をあらはして居りました。同じ銀座の町の近くには、矢張同郷の豐田さんといふ人が住んで居て、折につけて呼ばれて來ました。その使に行くのが何時でも私でした。ゆつくり酒を酌みかはすといふ夜などは、豐田さんは興に乘つて歌ひ出すことが有りました。いかめしい顏附に似合はない豐田さんの洒落しやれは皆なを笑はせました。姉の夫もすゞしい好い音聲で故郷の方の俗謠などを歌ひましたが、その聲には私は聞きれる位でした。

 斯うして寛濶な家庭の中でも、姉は物のキマリの好いことを悦んでそれを私に話して聞かせたものです。例へば、日曜毎に訪ねて來る同郷の青年があるとか、その青年が甥のところへ買つて持つて來るものは鹽煎餅と定つて居るとか、それを缺かしたことが無いとか、そんなことまで姉の心を悦ばせました。

 銀さんと私とは姉の家から同じ小學校へ通ひましたが一年ばかり經つうちに銀さんの方は學校を退いてしまひました。銀さんは學問よりも商業で身を立てるやうにと姉夫婦から説き勸められて、日本橋のある紙問屋へ奉公に行くことに成りました。國から二番目の兄に養父が上京した節、銀さんも御店おたなの方から暇を貰つて逢ひに來たことが有りました。その時は皆な揃つて記念の寫眞を撮りました。その中で銀さん一人は商人らしい前垂掛で撮れて居ます。

 姉が年寄から子供まで連れて夫と一緒に歸國する前には、種々なことが有りました。ある日、私は姉に言ひ附けられて、今迄行つたことの無い家へ使に出掛けたことを覺えて居ます。姉は祖母さんに内證で、箪笥の中から自分の着物を取出して風呂敷包にして私に背負はせました。私の行つた先は店頭みせさきに暗い暖簾のれんの掛つた家です。番頭が居まして、私が背負つて行つた着物を一枚々々ひろげて見て、通ひ帳の中へ御金を入れて私に渡しました。私は子供心にもいくらか斯の意味を悟りました。姉のところへ引返してから、斯ういふ使はもう御免だと言つて、姉を笑はせたことが有りました。さういふ中でも、姉は祖母さんの膳にだけ新しいオサシミをつけました。祖母さんの好きな物は何よりオサシミでしたから……

 姉と一緒に居た間、私は殆んど忿怒いかりといふものも知らなかつたほど自分の少年らしい性質が延びて行つたことを感じます。甥の下にはまだ頑是ぐわんぜない年頃の姪が一人ありました。その姪は姉が東京に家を持つてから生れた子供です。あの日、私が學校から歸つて來て自分の机のところへ行つて見ますと大事に〳〵して置いた新しい洋綴の帳面には目茶苦茶に何か書き散してありました。斯の亂暴な行ひは直に小さな姪のいたづらと知れましたが、そのために自分の忿怒いかり奈何どうすることも出來ませんでした。私はその帳面を引裂いて了ひました。口惜しかつたと思つたことは、その時ぐらゐのものです。一體に姉は清潔好きれいずきでしたから、私は姉を悦ばせようと思つて表や庭の掃除をよくやりました。ある時、二階の硝子窓の外にある露臺へ夏の雨が來ました。私はその雨降の中へ出て、汚れたトタンの上を洗つて、姉を悦ばせたことも有りました。どうかすると姉は夫や子供と共に寢室を離れないで居る朝などには、早起の祖母さんが階下したでブツ〳〵言ひます。さういふ時に、姉を呼び起しに行くのは私の役𢌞りでした。

 姉の家族が故郷へ向けて出發した日のことは、まだいくらか私の眼にあります。白い髮の祖母さんから、子供まで、皆な國まで買切の人力車くるまに乘つて出掛けました。姉の居た家には鷲津さんが入ることに成りました。で、私は親身の姉の手から『鷲津の姉さん』と呼ぶ人の手に渡されたのです。

 鷲津さんの家族はたつた親子二人ぎりでした。禿頭に細いチヨン髷を結つて居た老爺おぢいさんと、その娘にあたる獨身の姉さんと。斯の老爺さんは私達の隣國の舊藩士で、過去つた時代には相應の高い地位に居たとやら。多藝な人で、和歌の添削などをするかたはら、その家へ移つて來てからは碁會所の看板を掛けました。鷲津の姉さんはまた女でも可成に碁の打てる人でしたから、部屋々々に毛氈まうせんなどを敷き、重い碁盤を置き、客が來ればその相手に成りました。

 一人東京に殘されました少年の私の身に取つては、斯の同じ家の内が全く別の世界のやうに成りました。姉は私のことを鷲津さんによく頼んで置いて歸つて行つたのですが、最早私の周圍には以前のやうな注意を拂つて呉れる人は居りませんでした。私はそれを感じました。のみならず、私は周圍の冷淡な人達に對して自分の少年らしい感情を隱すやうに成りました。たま〳〵學校から歸つて來て見ると、老爺さんは鏡に向つて眉間みけんこぶを氣にして居ます。なんでも其瘤は非常に大きなニキビの塊だといふことでした。どうして、年は取つてもなか〳〵の洒落ものでしたから、到頭老爺さんは剃刀を取出して、自分でそのニキビの塊を切りました。そんなことを見る度に、私は斯の年甲斐のない老人に對してさげすみの念を抱きました。

 斯ういふ家庭の空氣でしたから、自然と私の心は屋外そとの方へ向ひました。私も早や東京へ出たての時のやうに髮などを長く垂れ下げて、黄八丈の羽織をヨソイキに着るやうな少年ではありませんでした。毎朝數寄屋河岸へ通ふ途中で一緒に成る男や女の學校友達の顏は、私には親しいものと成つて來ました。その頃普通教育は男も女も合併の時分で、私は一方に炭屋の子息むすこさんと席を並べ、一方には時計屋の娘やある官吏の娘などと並んで腰掛けました。斯の官吏の娘の家は私達が住むと同じ町の並びにありました。姉妹きやうだいで學校へ通つて居ました。何がなしに私はその家の前を通るのを樂みにして、私が居る家と同じ型の圓柱、同じ型の窓を望んでは、そこに同級の女の友達が住むことを懷しみました。その頃は又、學級の編成の都合かして、生徒を上の組へ飛ばせるといふことが有りました。その時、私は炭屋の子息さんと時計屋の娘と三人で上の組にみ入れられましたが、官吏の娘だけは元の組に殘りました。休みの時間に、時計屋の娘が先生の前に來て、自分一人昇級するのをブツ〳〵言ふものが有ると言つて、訴へたことを覺えて居ます。私は氣のたかぶつた時計屋の娘よりも、シヨゲた官吏の娘の方を可哀さうだと思つたことも有りました。

 鷲津の姉さんは色の淺黒い、瘠ぎすな、男性的の婦人でそれに驚くほど氣の短い性質を有つて居ました。その性急せつかちなことは、鍋に仕掛けた芋でも人參でも十分煮えるのを待つて居られないといふ程でした。早く煮て、早く食つて、早く膳を片附けて了ひたい……それが姉さんの癖でしたから、私も學校の方へ氣がかれる時などは、生煮なまにえの物でも何でもサツサと掻込んで、成るべく早いことをやりました。それでも姉さんには急き立てられました。そんな風にして私は一年ばかりも斯の婦人に養はれましたが、二番目の兄が國から上京して斯のさまを見た時は、私のために心配し始めた位でした。鷲津の姉さんの早く、早くで、しまひには私は青く成つて了ひました。


        七


 私は極く早い頃から臆病な性質をあらはしました。銀さんは國に居る頃から私と違ひまして、木登りの惡戲いたづらから脚に大きなとげなどが差さつても親達に見つかる迄はそれを隱して居るといふ方でしたが、私はひとの身體の疼痛いたみを想像するにも堪へませんでした。東京へ修業に出て來てからも、二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中入前あたりには妙に私は心細く成つて來るのが癖でした。斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋やどやに日を送りましたから、私もよく銀座邊の寄席へは連れられて行きましたが、騷がしい樂屋の鳴物だの役者の假白こわいろだのを聞いて居ると、何時でも私は堪へ難いほどの不安な念に襲はれました。その度に、私は兄一人を殘して置いて、寄席から逃げて歸り〳〵しました。それほど私は臆病でした。

 一方から言へば私は八歳の昔に早や初戀を感じたほどの少年で(そのことは既に貴女に御話しましたが)、その私が鷲津の姉さんのやうな家庭の空氣の中に置かれて、種々な大人の淫蕩みだらを見たり聞いたりしながら、しかも少年らしい多くの誘惑から自分を護り得たといふのも、一つは斯の臆病からだと自分で思ひ當ることが有ります。

 二番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好みませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豐田さんの家の方へ引取られて、豐田さんの監督の下に勉強することに成つたのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。

 貴女は十一二といふ年頃をお母さんの側で奈何どんな風に送つたでせうか。私は全く獨りで──母からも、姉からも離れて──早くから他人の中へ投げ出されたやうなものでした。それが私に取つての修業といふものでした。私はいかにせば、鷲津の姉さんのやうな性急で氣むづかしい人を喜ばすであらうかと、そんなことに心を碎きました。一旦等閑なほざりにされた私は豐田さんの方へ引移つて、思はぬ深切と温い心とを見つけたのです。

 豐田さんと言へば、姉が東京に居ました時分にはよく私も使に行きましたからそこの細君や隱居さんは全く知らない顏でもありませんでした。姉の家から細い路地を曲つて行くと、鼈甲屋べつかふや、時計屋などのある銀座の裏通りの町、そこにある黒い土藏造りの豐田さんの家、鐵格子のはまつた窓などは、私には既に親しいものでした。私は豐田さんのことを小父さん、隱居さんのことをお婆さんと呼ぶやうに成りました。細君は本來なら小母さんと呼ぶべきでしたが、豐田さんとは大分年も違つて居ましたし、兄でも姉でも斯の人ばかりは豐田の姉さんと言ひましたから、私もそれに倣つて姉さんと呼びました。

 例の往來に面した鐵格子の箝つた窓──私に取つては忘れることの出來ない朝に晩に行つた窓──その窓の下にある三疊ばかりの小部屋に私は鷲津さんの家から運んで行つた自分の机を置きました。壁によせて、抽斗ひきだしの附いた本箱をも置きました。抽斗の中には上京の折に父が餞別に書いて呉れた座右の銘なぞが入れてあります。たまには私は幾枚かある其短册を取出して見ます。『温良恭謙讓』と一行に書いたのがあれば『勉強』とか『儉約』とかの文字をいくつも書き並べたのもあります。私は器械的に繰返して見て、寧ろ父の手蹟を見るといふだけに滿足して、復た紙に包んで元の抽斗の中へ藏つて置きました。國許の父からはよく便りがありました。父は村の中の眺望ながめの好い位置を擇んで小さな別莊を造つたとかで、母と共に新築の家の方へ移つたことや、その建物から見える遠近をちこちの山々、谷、林のさまなどを書いてよこしました。其頃から漸く私も父へ宛てゝ手紙を書くやうに成りました。時には豐田の小父さんがニコ〳〵しながら私の机の側へ來まして、

『お父さんのとこ奈樣どんな手紙を書いたか、お見せ。そんなことを隱すもんぢや無い。』

 と言ひますから、私が學校の作文でも書くやうに半紙に書きつけた手紙を出して見せますと、小父さんは笑つて、それを奧の方に居るお婆さんや姉さんのところへ持つて行つて讀んで聞かせたりなどしました。『むう、斯の手紙はなか〳〵好く出來た』なんて小父さんは私を勵ました後で、是處は斯う書けとか、彼處は彼樣あゝ直せとか言つて呉れました。道さん──ホラ、お文さんの直ぐ上の兄さん──からもめづらしく便りがありました。私は窓の下にその幼友達の手紙を展げて、何度も〳〵繰返し讀みました。二年あまり半分夢中で都會に暮して來た私の心は田舍々々した日のあたつた故郷の田圃側の方へ歸つて行きました。しばらく忘れて居てめつたに平素ふだん思出さないやうなことが、しかも一部分だけ妙に私の頭腦あたまの中に光つて來ました。例へば、お牧がよく水汲みに行つた裏の深い井戸の中へ、ある夏の日のこと兄が手製のレモン水を罎詰にしまして、細引に釣して冷したことが有りました。私はそのレモン水の罎を思出しました。私は又、道さんだの問屋の子息だのと一緒に遊び𢌞つた村の裏河づたひの細道、清水のふね、落雷のために裂けた高い杉の幹、それから樂しい爐邊の火に映るお文さんのお母さんの艶々とした頬邊ほつぺたなどを遠く離れて居てしかもあり〳〵と見ることが出來ました。私は道さんへ宛てゝ少年らしい返事を出しました。その返事は道さんから父の方へ𢌞つたと見えて、父が私の書いた手紙を批評して寄したことが有りました。

 覺束ないながらも私が故郷へ文通するやうに成つてから、父は話をするやうに種々な事を手紙で知らせて來ました。ある時、私は父から受取つた手紙を讀んで行くうちに、若い嫂の懷姙といふことにブツカリました。『行ひは必ず篤敬』などと餞別の短册に書いて呉れる父のことですから、其手紙も至極眞面目に、私にも喜べといふ意味でした。しかし私は『あゝ左樣か、姉さんに赤んぼが出來たのか』では濟ませませんでした。何故と言ふに、大人には左樣いふ言葉は何でも無くても、少年の私は初めてそれを見つけたのですから。しかも父の手紙の中に見つけたのですから。私は自分の身のまはりに何とも言つて見やうの無い世界のあることを感じ始めました。

 例の窓からは往來を隔てゝ時計屋の店頭みせさきが見えます。白い障子の箝硝子はめガラスを通して錯々せつせと時計を磨いて居る亭主の容子ようすが見えます。その窓の下へは時折來て聲を掛ける學校の友達もありました。斯の少年は級は私より一つ上でしたが、家が三十間堀で近くもあり、それに毎日同じ道を取つて學校へ通ひましたから、自然と心易く成りました。『六ちやん』『六ちやん』と言つて學校でも評判な元氣の好い生徒でした。六ちやんが横町を𢌞つて誘ひに來る朝などは、私は豐田のお婆さんに詰めて貰つた辨當を持つて、一緒に連立つて彌左衞門町の廣い通りへ出、丸茂といふ紙店の前を過ぎ、(あの紙店では私達はよく清書の『おとりかへ』をして貰つたり黄ばんだ駿河半紙を買つたりしました。)それから數寄屋河岸について赤煉瓦の學校へ通ひました。どうかすると六ちやんと二人で辨當の空箱を振りくりながら歸つて來て、往來の眞中へぶちまけたことも有りました。

 豐田の姉さんは性來多病で──多病な位ですから怜悧りこうな性質の婦人だとひとから言はれて居ました──起きたり臥たりしてるといふ方でしたから、直接ぢかに私の面倒を見て呉れたのは主にお婆さんでした。

『お婆さん、霜燒しもやけかゆい。』

 そんなことを言つて夜中に私が泣きますと、お婆さんは臥床ねどこからからだを起して、傷み腫れた私の足を叩いて呉れました。

 斯のお婆さんは私に、行儀といふものを見覺えなければ成らないと言つて、種々な細い注意を拂ふことを教へました。客の送迎おくりむかへは私の役𢌞りでしたが、私はお婆さんに言ひ附けられた通り客の下駄を直し、茶などもよく運んで行きました。

『江戸は火事早くわじばやいよ。』

 これがお婆さんの口癖でした。お婆さんに言はせると、東京は生馬いきうまの眼でも拔かうといふ位の敏捷な氣風のところだ、愚圖々々して居ては駄目だ、第一都會の人は物の言ひ方からして違ふ──よくそれを私に言つて聞かせたものでした。姉さんも笑ひながら、

『そりや、お前さん、東京の人の話は「何」で通るからネ。ちよいとあの何を何して下さいナ──あの何ですが──それでお前さん、話がもうちやんと解つて了ふんだからネ。えらいよ。』 

 斯樣な風に言つて聞かせました。地方から出て來た斯の姉さんでもお婆さんでも、小父さんを助けて、都會で自分等の運命を築き上げようとする健氣けなげな人達でした。

 めづらしく姉さんの氣分の好い日が續いて、屋外そとへでも歩きに行かうといふ夕方などは、お婆さんは非常に悦びました。その頃、尾張町の角のところには毎晩のやうに八百屋の市が立ちました。私は靜かに歩いて行く姉さんやお婆さんの後に隨いて、買物に集る諸方はう〴〵の内儀さんだの、市場の灯だの、積み重ねた野菜と野菜の間だのを歩き𢌞るのを樂みにしました。銀座の縁日の晩などには、よくまた小父さんに連れられて行つたものです。乞食の集つて居るやうな薄暗いところから急に明るい群集ひとごみの中へ出ることは、妙に私の心をそゝりました。小父さんは夜見世をひやかすのが好きで、私を連れては種々な物のごちや〳〵並んだ露店の前を眺め〳〵歩きました。

 斯の手紙を書きかけて居るうちに、私は今一寸こゝで、姉の家や鷲津さんの家を振返つて見たいやうな心が起りました。といふはあの二軒の家に有るもので、豐田さんの家には無いものがあります。私の生れた家にも無いものです。私が姉の家に居る頃、あそこの祖母おばあさんが時々なぐさみに琴を鳴らしたことを貴女に御話しましたらう。小さな甥までが謠曲うたひの一ふしぐらゐは諳記そらんじて居ることを御話しましたらう。鷲津さんの家が矢張それで、しめやかな小唄でも口吟くちずさんで見るやうな聲が老人としよりの部屋から時々れて聞えました。左樣いふ音樂の空氣といふものは豐田さんの家の方へ移つてからは、バツタリ無くなりました。

 何故私が斯樣なことを御話するかといふに、あの甥の一生を考へ、豐田さんの家に殘つた人達のことを思ひ、又今日までの私自身の生涯を辿つて見るに、斯の家に附いた空氣は何處までも同じやうに流れて行つて居ますから、それは實に爭はれないものだと思ひます。私の父はあれでもいくらか横笛を吹いたといふことですが、私の兄弟で好い耳を持つて居るやうなものは一人も居りません。あの甥の造つた家庭には、別に樂器を置かないまでも、何處かに音樂の空氣の流れた好ましいところが有りました。あの甥の一生がそれでした。私は自分自身がもうすこし寛濶であつても好いと思ふことは度々ですが、しかしそれを奈何することも出來ません。私が今住む家は殆んど周圍まはりを音樂で取繞とりまかれて居るやうなところにあります。表へ出れば一中節の師匠、裏へ行けば常磐津の家元、左樣いふ町の中に住ひながら、未だに私は自分の家へやはらかな空氣を取入れることも出來ずに居ります。

 それから比べて見ますと、繪畫に趣味を有つことは──私はその性質を身に近い女達にも、自分の子供にも見つけることが出來るやうに思ひます。私自身にも繪畫を好むことは天性に近いやうな氣がします。少年の時代から、いくらか進んだ普通教育を受けるまで、私は最もそれを得意にしました。斯の傾向かたむきはずつと早い頃からあらはれまして、豐田さんの家へ行つて二年目に成る頃には、私は柔い鉛筆と畫學紙を携へて、築地の居留地の方までも鉛筆畫を作りに出掛けたことがあります。豐田のお婆さんは私が何をするかと思つて、ある日、私の行く方へ一緒に歩いて來ました。私はお婆さんを橋の畔に立たせて置いて、築地邊の景色を寫しました。私は又、參謀本部の方までも行つて、あの建物を寫した鉛筆畫を一枚作りました。それは粗末な子供らしいもので有りましたが、兎も角も、御手本に據らないで、自分で見たまゝを畫にしようと骨折つたものでした。小父さんに勸められて私は左樣いふ小さな製作の一つを國の方へ送りました。父から來た手紙の中には、『貴樣は繪畫を學ぶが好からうと思ふ』といふ意味のことを書いて寄したことも有りました。

 お婆さんや姉さんが私のために注意して居て呉れたことは、銀さんの着物の世話まで屆いたのを見ても解ります。私達兄弟の少年は二人だけ東京に殘つて居てもめつたに逢ふやうな機會は有りませんでした。なにしろ銀さんは御店おたなずまひの身で、宿入の時より外には豐田さんの家へも來られませんでしたから。で、銀さんの着物の洗濯でも出來た時には私の方から持つて行きました。日本橋の本町です。風呂敷包をかゝへながら紙問屋の店頭みせさきまで行きますと、そこに居る番頭が直ぐ私を見つけまして、小僧にそれと知らせたものです。銀さんは前垂の塵埃ほこりを拂ひながら、奧の藏の方から出て來て、庭で荷造りする人達の間などを通りましてそれから私の方へ來ました。私の口から言つては可笑しいやうですが、銀さんも大きく成りました。それに髮などを短くしまして、すつかり御店風おたなふうに成りました。私達二人は店の横手の日のあたつた土藏のところに倚凭よりかゝりながら、少年らしい簡單な言葉を交換とりかはすのみでした。

 私は勤奉公する銀さんから自分の自由な身を羨み見られるのがツライと思つたことも有り、時にはいそがしさうな店頭の樣子を眺めて、碌に話もせずに別れて來ることが有りました。左樣いふ時には、私達は唯ニツコリ顏を見合せるに過ぎませんでした。銀さんも亦默つて私の手から洗濯着物を受取つて、御店の方へ引込んで行つて了ひました……

 ある日、豐田さんの家では田舍から女の客を迎へました。お霜婆がめづらしく訪ねて來たのでした。お霜婆は散々さん〴〵國の方の話をして、豐田のお婆さんや姉さんから私達兄弟のことも聞取りました。御蔭で國への土産話が出來た、それを別れ際まで掻口説かきくどきました。他人の家で修業する身には、舊い出入の女も客だと思ひましたから、私はお霜婆の下駄を揃へて置きました。

『まあ、俺の履物まで直して下すつたさうな──』

 と言つて、お霜婆は私の方を見て、ホロリと涙を落しました。

 舊い馴染が歸つて行つた後で、お霜婆の話の中に、『俺が──俺が──』と言つたことは私の耳に殘りました。私の故郷では、目上の者に對しても、女でも『俺』です。

 斯の手紙のついでに、私は田舍言葉のことをこゝに書きつけませう。一概に田舍言葉と言ひますけれども、鄙びた言葉づかひが柔軟やはらかに働いて東京言葉では言ひ表はせないやうな微細な陰影かげまでも言ひ表はせるのが有ります。

 私の故郷の方の言葉では大きいといふことを三段に形容することが出來ます。それから助動詞などにも古い言葉の殘つたのが有つて、面白く、細く、しかも簡潔な働きをして居るのに氣がつくことが有ります。田舍言葉と言つても、粗野なばかりでは有りません。

 左樣言へば、都へも寒い雨がやつて來ました。斯の空には御地の山々は雪でせうか。貴女がたは例の炬燵を持ち出したでせうか。


        八


 私は巣の入口のみを貴女に御話して、まだ奧の方はお目に掛けませんでした。豐田さんの住居は二棟の二階建の家屋から出來て居て、それが高い引窓から明りを取るやうにした板敷の廊下で結び着けてありました。中央の廊下から奥の二階へ通ふことも出來、臺所の方へ𢌞ることも出來ました。奧の下座敷が豐田の小父さんや姉さんやお婆さんの居間でした。客でもあると、小父さんは煙草盆を提げて土藏造の内の部屋へ出掛けて來ます。その暗い部屋の外が玄關で、私の机が置いてあるのもそこなれば、私がよく行つた往來の見える窓もそこにありました。斯樣な風に、私の勉強する部屋はいくらか奧の方と離れて居ましたから、そこで私は種々な少年らしい遊戲を考へ出しました。私は國に居てよく木登りをしたやうに、その土藏造の部屋の入口へ兩脚を突張りまして、それを左右の手で支へて、次第に高く登つて行くことを企てました。手を放せば、トンと私は入口の階段の上へ飛び降りることが出來たのです。朝に晩に大人に見つからないやうにしてはよく登りましたが、ある時私の手が滑つて堅い階段のところでひどく背骨を打つたことがありました。しばらくの間私は身動きすることも出來ませんでした。これに懲りて次第にその遊戲も止めるやうに成つて行きました。

 もつと危い遊戲を考へ出したこともあります。それは土藏の二階へ昇る梯子が二段に成つて居た爲に、私は下から逆さに昇つて行くことを企てたのです。これは梯子が足を掛け易く出來て居たからでもありました。しかし斯の危い戲れよりも安全で、もつと少年の私の心を喜ばせたのは、低い梯子から高い梯子へ昇らうとする中途の袋戸棚の上から、さかさにでんぐり返しを打つことでした。ある日も人の居ない時を見て、袋戸棚の上へ身體を寢かし、足の方から段々高く持ち上げて見事に疊の上へ立つたと思ひましたら、そこに豐田の小父さんが笑ひながら立つて見て居て、ひどく私は赤面したことが有りました。

 山家育ちの私は、時には小父さんから、叱られるやうな惡戲をもやりました。ある時私は手頃な小刀を得ました。國に居ればなたや鎌で立木の枝を拂つたり皮を剥いたりしたやうに、私は唯譯もなくその小刀を試みたくて成りませんでした。で、入口の格子の中に閉める戸へ行つてそれを試みました。大きなフシ穴を一つり拔いて了つた頃に、小父さんが來て見て呆れまして、

『貴樣はもつと悧好りかうな奴だと思つたら、存外馬鹿だナ。』

 と言つて叱られました。斯ういふ惡戲をした時でも、小父さんは實に寛大で、私に好く言つて聞かせるだけでした。私は斯の善良な主人から手荒い目などには一度も逢つたことが有りません。それだけ又た少年の心にも深く斯の小父さんを尊敬しました。

 ある日、私は表の方から馳出かけだして來まして、格子を開けて上らうとする拍子にあががまちに激しく躓きました。私の身體は飛んで玄關に轉げました。

『馬鹿め、上から下へ轉がり落ちるつてことは有るが、下から上へ轉がり落ちる奴が有るかい。』

 斯う言つて、小父さんは笑ふやうな人でした。

 斯の小父さんは手細工が好きで、銀座の夜店からのこぎりかんなの類を買つて來まして閑暇ひまな時には種々な物を手造りにしました。大工の用ひるやうな道具箱までも具へて有りました。小父さんの器用なことは天性で、左樣いふ道具を使つて餘念もなく箱を組立てたり板を削つたりする間がまた小父さんの一番樂しみな心の落ち着く時のやうに見えました。私は小父さんから厚い木の片で『コンパス』の入物を造つて貰つたことも有ります。

 奧座敷の縁先にはタヽキの池が有りました。そこには澤山金魚が飼つて有りまして、姉さんも氣分の好い時にはその縁先に出て、長い優美な尻尾を引きながら青い藻の中に見え隱れする魚のさまなどを眺めては病を慰めたものでした。小父さんは好く身體の動く人でしたから、その池に臭い泥でも溜ると、一番先きに立つて水を替へたり掃除をしたりしました。左樣いふ時には私も小父さんの手傳ひで手桶に半分ばかり入れた水を裏の井戸から池の方へ運ぶことが出來るやうに成りました。

 家の裏は丁度銀座通の裏側にあたる路地でした。もし私が父に勸められたやうに畫家にでも成つて居たら、彼樣いふ路地を畫いたらうと思ふほどゴチヤ〳〵した面白味のあるところでした。家々の下婢をんなが水汲みに集るのもそこでしたし、番頭や職人などが朝晩に通ふのもそこでしたし、豐田さんの家の裏には小屋なども造りつけて有りまして時々薪を割る音のするのもそこでした。まるで私は小鳥かなんどのやうに、唯譯もなくその間を歩き𢌞りました。時には路地の奧の方までも入つて行つて、活版屋の裏に堆高うづだかく積重ねてある屑の中から細い活字を拾ふのを樂しみにしました。丁度私が國に居た頃、えのきの實を拾ひに行つて其下に落ちて居た橿鳥かしどりの羽を見つけたやうに。

 話はいろ〳〵に飛びますが、こゝで私は子供と着物のことをすこし書きつけたいと思ひます。少年時代の神經質は妙に着物などにも表はれると思ひます。私はどつちかと言へば頓着しない方で、着ろと言はれる物を着て學校へ通ひました。羽織や袴がすこしぐらゐ汚れても着慣れた物でさへあれば滿足しました。豐田のお婆さんは私の學校の方の成績を褒めまして、ある時私のために黒ずんだ黄八丈の羽織を仕立て直して呉れました。それは國の方に居る母が手織にした物でした。私が持つて居る羽織では上等の物でした。ところが黄八丈などを着て學校の式に出る友達は一人も居ません。私はそれを思ふと、何となく人に嘲戲からかはれさうな氣がして、氣羞かしくて堪りませんでした。お婆さんはわざ〳〵式に間に合はせる積りで夜業よなべまでして仕立て直して呉れたのでしたが、到頭私は強情を言ひ張つて、その羽織を着るだけは許して貰つたことが有りました。

 父が私に逢ふのを樂みにして一度上京しましたことは、私に取つて忘れ難いことの一つです。何故かと言ひますに、それぎり私は父に逢ひませんから。

 豐田さんの家の奧の二階は廣い靜かな座敷で、そこに父は旅の毛布ケツトやら荷物やらを解き、暫時しばらく逗留しました。豐田のお婆さんの亡くなつた連合つれあひだの、親戚にあたる年老いた漢學者だの、其他豐田さんの身のまはりの人で父の懇意な人は澤山ありまして、國に居る頃は父もまだ昔風に髮を束ねまして、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るやうな人でしたが、その旅で名古屋へ來て始めて散髮に成つた話などを私に聞かせました。私は心の中で、お父さんも大分開けて來たと思ひました。

『あれは彼樣あゝと、これは斯樣かうと──』

 そんなことを父はよく獨語ひとりごとのやうに言つて、自分の考へを纏めやうとするのが癖でした。

 奧の二階からは廣い物乾場を通して町家の屋根、窓などが見られます。父は旅の包の中から桐の箱に入つた鏡を取出しましたから、

『お父さん、男が鏡を見るんですか。』

 と私が尋ねますと、父は微笑んで、鏡といふものは男にも大切だ、殊に斯うして旅にでも來た時は、自分の容姿ようすを正しくしなければ成らないと私に話しました。

 父は隨分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を殘しましたが、しかし子としての私の眼には面白いといふよりも氣の毒で、異常なといふよりも突飛に映りました。斯の上京で私はそれを感じたのでした。私の學校友達の六ちやんの家へも父が訪ねて行かうと言ひますから、私は一方には嬉しく思ひながら、一方には復た下手なことをして呉れなければ可いがと唯そればかり心配して、三十間堀の友達の家へ案内して行きました。六ちやんの家ではお母さんが後家さんで六ちやん達を育てゝ居ました。訪ねて行くと、先方さきでも大層喜んで呉れましたが、別れ際に父は六ちやんのお母さんからお盆を借りまして、土産がはりに持つて行つた大きな蜜柑をその上に載せました。やがてツカ〳〵と立つて、その蜜柑を佛壇へ供へたといふものです。斯ういふ父の行ひが少年の私には唯奇異に思はれました。私は父の精神の美しいとか正直なとかを考へる餘裕はありませんでした。何でも早く六ちやんの家を辭して豐田さんの方へ父を連れて歸りたいと思ひました。

 父は私の通ふ學校を見たいと言ひますから、數寄屋河岸の方へも案内しまして赤煉瓦の建物を見せました。河岸に石の轉がつたのが有りましたら、子供の通ふ路に斯ういふ石は危いと言つて、父はそれを往來の片隅に寄せたり、お堀の中へ捨たりするやうな人でした。

 父が逗留の間に舊尾州公の邸をも訪ねました。その時、私も父に伴はれて、以前の尾張の殿樣といふ人の前に出ました。父は私が學校で作つた鉛筆畫の裏に私の名前などを書いたものを尾州公の前に差出しました。私は廣い御座敷に身を置いて燈火あかりの影で大人の話をするのを聞いたのと、歸りに御菓子を頂いて來たのとその他に今記憶して居ることも有りません。父は又淺草邊の鹿といふ飮食店へも私を連れて行つて、そこの主人あるじ内儀かみさんに私を引合せました。

『斯樣なお子さんが御有りなさるの。』と内儀さんは愛相よく言つて、父と私の顏を見比べました。私は内儀さんばかりでなく多勢の女中からジロ〳〵傍へ來て顏を見られるのが厭でした。鹿の子の主人は地方出で、父とは懇意な人でした。

 その時の私の心では、私は矢張郷里の山村の方に父を置いて考へたいと思ひました。私は一日も早く父が東京を引揚げて、あの年中榾火ほたびの燃えて居る爐邊の方へ歸つて行つて、老祖母おばあさんやおつかさんや、兄夫婦や、それから太助などと一緒に居て貰ひたいと思ひました。久し振の上京で、父は東京にある舊い知人を訪ねたり、亡くなつた人の御墓參をしたりしまして、間もなく郷里の方へ戻つて行きましたが、後で國から出て來た人の話には、餘程私が嬉しがるかと思つて上京したのに、子供には失望したと言つて、父が郷里へ戻つてから嘆息してひとに話しましたとか。斯の手紙で私が今貴女に御話して居るのは、銀座の大倉組の角にいた白い強い電燈の光が東京の人の眼に珍しく映つた頃のことです。尾張町の角にあつた日々新聞社の前に花瓦斯はなガスの點く晩などは、私は豐田さんの家の人達に隨いて、明るい夜の銀座通を歩きに行きましたものです。


        九


 豐田さんの家で可愛らしい赤兒あかんぼが生れるまでは、私は土藏の中の部屋でお婆さんの側に寢かされましたが、赤兒が生れてからはお婆さんの代りに下婢をんなが土藏の方へ來て寢ることに成りました。とても子供があるまいと言はれて居た豐田の小母さんは男の兒が生れたので、急に家の内の光景さまが變つて賑かに成つて來ました。それにしても下婢と同じ部屋に私を寢かして可からうか、と注意深いお婆さんがそれを言ふと、

『お婆さん──あんな子供ぢや有りませんか。』

 と小父さんが笑ひました。

 私は奧の部屋の炬燵にあたりながら、眠たい耳に斯の話を聞いて居ました。小父さんの言ふ通り、私はまだ子供でした。でもお婆さん達の話が分らないほどの子供では有りませんでした。

 こゝまで書きつけて來ますと、豐田さんの家へ來て奉公して居た種々な下婢が私の眼に浮びます。あるものは目見えに來たかと思ふと直に暇を取つて行つたのもありましたし、あるものは又隨分長いこと好く勤めたのもありました。左樣いふ下婢と私との隔りは最早あのお霜と私との隔りでは無くなつて來ました。私には無智な彼等の言ふことや爲ることが分つて來ました。私が玄關の小部屋に机を控へて勉強して居りますと、彼等の一人が主人の子供を抱いて來て、窓の外を見せながらよく當時の流行唄はやりうたを歌ひました。そんな唄を歌つて居ることが奧へ知れようものなら、直に御目玉を頂戴するほど豐田さんの家では嚴しかつたものですから、それを主人に聞えないやうに、窓のところへ來ては歌ひましたのです。

 私は誘惑され易い年頃になりました。もし私に性來の臆病と、一種の自尊心とが無かつたら、早く私は少年らしい好奇心の捕虜とりこと成つたかも知れません。で、私は下婢が傍へ來て樂しさうに歌ふみだらな流行唄などに耳を傾て、氣は浮々とさせることを感じながら、一方には左樣いふ女と碌に口も利かないほど彼等を憎み蔑視さげすむやうな心を持つて居ました。

 私がよく行く窓の外には種々雜多なものが通りました。一頃流行はやつたパン屋が太鼓を叩いて來ますと、奧の方に居る小母さん達までその音を聞きつけて、往來の見える窓側の鐵の格子から眺めました。

『パン屋のパン、

木村屋のパン──』

 風變りなパン屋夫婦の洋裝、太鼓や三味線の音などは人の氣を浮き立たせました。あのパン屋はもとは相應な官吏であつたとか、細君はそれしやの果だとか、どうして夫婦ともナカ〳〵の洒落者だとか、小母さん達は窓側で互の眼前めのまへを通る藝人の噂をしました。町々の子供等ばかりでなく、大人まで爭つて呼びとめては買つたものでした。それパン屋が來たと言へば、窓の外の狹い往來は人だかりがして、何となく私の幼い心をそゝりました。

 豐田さんの家である年の節句か何かの折に草餅を造つたことをも、私はこゝに書きつけて置きたいと思ひます。何故といふに、田舍に居る身内のものから遠く離れた私には、左樣いふ草餅の香氣にほひなどを嗅ぐほど可懷なつかしい思をさせるものが有りませんでしたから。尤も、草餅と言つても、もちぐさのたりない都では田舍で食べるほど青いシコ〳〵としたのは出來ません。これでもつと草が多く入つて居て、餅の合せ目から田舍風のアンコが這出したら、そんなことを思ひました。

 臺所に近い奧の部屋ではお婆さんや小母さんが下婢をんなを相手にしてその草餅をこしらへる、私は出來たのを重箱に入れて貰つて近所へ配りに行きました。見ると、お婆さん達はねた餅を手頃にちぎつては、それを掌で薄べたく圓く延ばして居りますから、

『お婆さん、僕の田舍では其樣な風にしません。』

 と私は餘計なことながら、郷里くにの方で母などが造つて居たのを思出して、母は小皿にちぎつた餅を宛行あてがつてその上で延ばすといふ話をしました。

 お婆さんは成程とは思つたやうでしたが、

『えゝ、斯の子は──ほんとにベンカウなことを言ふ子だ。』

 と叱るやうに言つて見せました。『ベンカウ』とは矢張私達の田舍で使ふ言葉で、まあ生意氣と言つたら近いかも知れませんが、すつかり意味の宛嵌あてはまる東京言葉は一寸思ひ當りません。

 私の學資は毎月極めて郷里くにから送つてよこして呉れるといふ風には成つて居ませんでした。これには私は多少の不安を感じて居ました。すると、ある時のこと長兄の許から手紙が來て、金は纏めて豐田の小父さんの方へ送つたから買ひたい物があらば買へ、苦しい中でも貴樣達は東京へ出してあるのだから、その積りで勉強せよ、と言つて寄しました。幾度いくたび私はその手紙を繰返し讀んで見て、兄の言葉に勵まされたか知れません。丁度、故中村正直氏の書いたナポレオンの小傳が私の手に入りました。傳記らしい傳記で私が初めて讀んだのは恐らくその小册子です。中でも、ナポレオンの青年時代のことは酷く私の心を動かしました。私は例の日光の射し込む窓の下で獨りその小傳を開いては感激の涙を流すやうに成りました。

 斯ういふ物に感じ易い私の少年時代が一方では極く無作法な荒くれた時でも有りました。姉がまだ東京に居ました頃、あの家の二階の袋戸棚の前へ幼い甥を呼びつけて、その戸棚の中に入れて置いた燒饅頭やきまんぢゆう何日いつの間にか失くなつたことを責めたことが有りました。私はそれを見て、心の中で甥の行ひを笑つたり憐んだりしました。どうでせう、その私が豐田さんの家へ來てからは甥を笑へなく成りました。私は白状します、どうかすると私はお腹が空いて空いて堪らないことが有りました。さういふ時には我知らず甥と同じ行ひに出て、煮付けた唐辛たうがらしの葉などはよくつまみました。私は又、自分の空腹を滿す爲でも何でもないのに、酒屋へ使に行つた歸りなどには往來で酢の罎をかしげて、人知れずそれを舐めて見たりしました。

 注意深い豐田のお婆さんでも左樣々々は氣が附きません。私はそれを好い事にして、ある日、酒屋から酒を買つて戻りました。煮物にでも使ふのでしたらう。小父さんはあまり酒をやらない方でしたから。私が持つて歸つた罎の酒は減つて居ました。

『高い酒屋だねえ。』

 とお婆さんに言はれた時は、思はず私は紅く成りました。

 午後の三時は毎日私の樂みにした時でした。物のキマリの好い豐田さんの家では、三時といふときつと煎餅なり燒芋なりが出ました。あのウマさうにいきの出るやつを輪切にした水芋か、黄色くホコ〳〵した栗芋かにブツカる時には殊に嬉しく思ひました。夏にでも成ると、土藏の廂間ひあはひから涼しい風の來るところへ御櫃おひつを持出して、その上から竹のすだれを掛けて置いても、まだそれでも暑さに蒸されて御櫃の臭氣にほひが御飯に移ることがあります。儉約なお婆さんは、それを握飯むすびに丹精して、醤油で味を附けまして、熱い火で燒いたのをお茶の時に出しました。いかに三時が待遠しくても、しまひにはその握飯の微かな臭氣が私の鼻に附いて了ひました。折角せつかく丹精してこしらへることを思ふと、お婆さんの氣を惡くさせたくない。私の癖として、人が惡い顏をするのを見ては居られません。そこで私は握飯の遣り場にこまつて、玄關の小部屋の縁の下へそツと藏つて置くことにしました。土藏造で床も高く出來て居ましたから。斯の人の知らない倉庫を暮の煤拂すゝはらひには開けなければ成りませんでした。その時は實はハラ〳〵しました。

 私の生れた家では子供に金錢おかねは持たせない習慣でした。それが癖に成つて、私は東京へ出て來てからも自分で金錢を所有したことは少く、餘分なものは家の人に預けました。時とすると豐田さんへ來る客から土産がはりとして包んだ金錢を貰つたことも有りましたが、それよりか珍しい風景の彩色した版畫でも貰つた時の方が私には難有かつたのです。私は子供の時分から金錢に對しては淡泊な方でした。で、私は唐辛の葉の煮たのなどは摘んでも、ひとの所有する金錢を欲しいといふ心は起りませんでした。ところが、それが全く私に無いとは言へません。有ります。私は別に何を買ひたいでは無し、それで居ながら不圖さういふ心に成つたのです。その一時の出來心で私の爲たことは、知られずに濟んだとは言へ、今だに私は冷汗の流れるやうな心地こゝろもちが殘つて居ます。

 ある物語の中に、私はあの當時のことを思出して書きつけて見たことも有りました。

『小母の寢床はもう其時分から敷いて有つた。すこし小母が氣分の好い時には、池の金魚の見えるところへ人を集めて、病を慰める爲に花札はなを引いた。其時自分は雨だの日の出だのを畫いてある札を持つて見て、「青たん」とか「三光」とかいふことを始めて習つた。よく臺所の方では、小母の爲に牛肉のソップをこしらへた。儉約な祖母おばあさんはそのソップかすへ味を附けて自分等にも食はせたが、しまひにはそのにほひが鼻へ着いて、誰も食ふ氣に成れなかつた。仕方が無いから、祖母さんはそれを乾して三時の茶といふと出した。そのソップを製へる爲に生の牛肉を細かくさいに切つて、口の長い大きな徳利とくりへ入れる。是がまた一役で、氣の長いものでなければ勤まらなかつた。丁度奧の二階には、小父の親戚に當る年老いた漢學者が親子連で來て世話に成つて居て、結句牛肉の切り役は斯の温厚な白髮の老先生に𢌞つた。老先生が眼鏡を掛て、階下したで牛肉を切つて居る間は、奧の二階は閑寂しんとして居る。そこには先生の書籍ほんが置並べてある。机の上には先生の置き忘れた金錢かねがある。その金錢を十錢許り盜んだものがある──この盜みをしたものが自分だ……』

 金錢を置き忘れる位の老先生のことですから、斯の私の行ひも別段詮議されずに終つたのでせう。慚愧ざんきの情はずつと後に成つてその年老いた漢學者の沒する頃までも續いて居ました。私が老先生の靈前へと思つて、香奠を封じた手紙を書いた時にも、活々と胸に浮んだのはそのことでした。假令たとへ金錢は僅かでも、私には全く左樣いふ心を起したことが無いとは言へないのですから。

 金錢はあまり欲しいとは思はなかつたが、品物は欲しいと思つた。私は斯ういふ言ひ𢌞しをして自分の少年時代に爲たことを辯解しようとも思ひません。取りましたから取りました。どういふものか、ふいとそんな量見に成りました。それが私の幼い日の中で掻消すことの出來ない記憶の一つとして殘つて居るのです。

 それから同じ物語の續きとして、もう一つ私は書きにくいことを書きました。

『尾張町の夜店には野菜の市があつて、家の人が買ひに出掛けたものだ。自分もよく隨いて行つた。そこには少年の眼を引き易いやうな繪本を商ふ店もある。美しい表紙畫の草雙紙が數多あまたそこには並べてある。何がなしにその草雙紙が欲しく成つて、何度も〳〵其前を往つたり來たりして、しまひに混雜に紛れて一册懷中ふところに入れた少年がある──斯の少年が、自分だ。其時自分は捕まりさうにして、命がけで逃げた。草雙紙は置場所に困つて、どぶの中へ裂いて捨てた。もしの時捕つたら、自分の生涯は奈何どんな風に成つて行つたらう……』

 左樣です。確かに斯ういふことも有りました。ナポレオンの傳記を讀んで感激の涙を流すといふことと、夜見世に並べてある草雙紙を懷中に入れるといふことと、それが私の少年時代には同時に起つて來たのです。私は自分の爲たことに恥ぢ恐れて、二度とそんな行ひはすまいと心に堅く誓ひました。

 斯ういふことを貴女に書き送るとは自分の愚かを表白するに當ります。けれども好いと思ふことでも惡いと思ふことでも、唯それだけでは私には漠然としたものでした。愚かな私は何事でも自分でつて見た上でなければ、眞實ほんたうにその意味を悟ることが出來ませんでした。

 銀座の夜見世と言へば、夜風の樂しい夏の晩などは私もよく豐田の小父さんに隨いて歩きに出掛けましたものです。こゝで私は物に好き嫌ひの激しい少年時代のことを一寸書き添へようと思ひます。その情の激しさは淡泊で洒落しやらくな大人の思ひもよらないことが有ると言ひたい位であります。私達の着る物でも、食べる物でも、すべての上にそれが表れて居ます。例へば芋の莖の酢煮すにに青豆を添へたのは、いかにも夏らしい總菜で、豐田さんの家でもよく造りましたし、今では私は食物に嫌ひな物があまり有りませんから、膳に上れば食べもします。ところが私の子供の時分には、どうしてもそれが食べられませんでした。

 斯の好き嫌ひの激しい子供らしさから、ある時、私はめつたに怒つたことの無い豐田の小父さんを怒らせました。丁度あの海水浴に冠るやうな縁の廣い麥藁帽子が流行つて來た時でした。小父さんの積りでは、輕くて少年の冠り物に好いと思つたのでせう。私にも一つ買つて遣らうと言つて呉れました。私の心では、どうしても彼の夏帽子を冠る氣に成れない。それよりか帽子なしの方がまだ好ましい。何故そんなら彼の流行の輕い麥藁帽が嫌ひだかと言ふに、それは私には説明が出來ません。唯、蟲が好かなかつたまでです。そこで私は小父さんに言出しかねて、尾張町邊の夜見世の前へ誘はるゝまゝに隨いて行きました。『どうだ、是は貴樣に丁度好からう』と小父さんは店先で擇びまして、私の頭に合ふか奈何どうかと冠せて見ました。私は内々買つて貰ひたくないのですから、これはすこし大きいの、いやこれは堅過ぎるの、種々なことを並べて、到頭強情を言ひ通して了ひました。

『貴樣に帽子を買つて遣ることは懲りた』と人の好い小父さんが何日いつに無い調子で言ひましたが、それほど少年時代の好き嫌ひは大人の心に通じかねる、名のつけやうの無いものかとも思ひます。

 斯の手紙を書きつゞける前に、年老いた姉を見舞ふため、雪深い郷里の方まで一寸行つて來ました。姉のことは既に貴方に御話しました。あの若かつた姉が今年は最早五十八歳です。七人あつた姉弟きやうだいのうち姉は一番の年長者、私はまた一番末の弟にあたります。


        十


 斯の手紙を書き初めたのは昨年四月のことでした。私も長々と話し續けました。少年の日──私達に取つて二度とは來ない──その時代のことで御話すべきことは、まだ〳〵澤山あるやうに思ひます。書生を愛した豐田さんの家には幾人いくたりとなく身を寄せた同郷の青年があつて、その一人々々の言つたこと爲したことが幼い私の上に働きかけたことや、あるひは豐田さんの家は一頃それらの人達の一小倶樂部クラブを見る趣を成して夜になると私も土藏の中の部屋に机を並べ、同じ洋燈ランプの下に集り、話を聞き、一緒に勉強し、どうかするとおさへきれないほどの居眠りが出て年長としうへの人達からよく惡戲されたことなど、御話したいと思ふことはいろ〳〵ある。私は自分の机の上──墨汁すみやインキで汚れたり小刀でゑぐり削られたりした机の上の景色、そこに取出す繪、書籍、雜誌などのことをくはしく御話して見たら、それだけでも自分の少年時代を引出すに十分だらうとは思ひます。私は貴女に年老いた漢學者のことを御話しましたらう。豐田さんの家の奧二階でしばらく暮したあの老夫婦のこと、私が英學を始めた時分のこと、それから私の十三の年に父は郷里の方で死にましたこと、その前に父から私によこした手紙の中には古い歌などを引合に出して寸時も忘れることの出來ないといふやうな濃情の溢れた言葉が書き連ねてあつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。

 私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心──左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目わきめもふらずに、錯々せつせと自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。

 私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ〳〵した中で、子供は皆な寢沈まりました。


「微風」──終

底本:「藤村全集第五卷」筑摩書房

   1967(昭和42)年310日初版発行

   1978(昭和53)年830日愛蔵版発行

初出:「婦人畫報」

   1912(明治45)年5月~1913(大正2)年4

※「幼き日」は、後に著者自身により、「生ひ立ちの記」と改題された。経緯は以下の通りである。「幼き日」は1912(明治45)年5月から1913(大正2)年4月にかけて婦人画報に掲載された。初めは、「ある婦人の與ふる書」の原題で掲載、「七」から「幼き日」に改題した。後に全集が発行されるとき、「生立ちの記」さらに文庫発行の際に「生ひ立ちの記」に改題された。

入力:Nana ohbe

校正:林 幸雄

2004年811日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。