背後
原民喜
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重苦しい六時間の授業が終って、侃は一人で校門を出る。午後三時の秋の陽光が、静かな狭い小路の屋根や柳に懸ってゐる。ここまで来ると、彼は吻とするのだ。或る家の軒下には鶏が籠に入れられて、大根の葉を啄んでゐる。向ふの日棚では赤い縁の蚊帳が乾してある。だが侃が今歩いてゐる左側には、昨日の雨に濡れたままの、苔をつけたコンクリートの壁が、まだ暫くは続いてゐる。壁越しに見える校舎の亜鉛の棟の尖端が、まだ彼の視野にある。さうして、彼がまだすっかり解放されきらないうちに、意地悪く背後から三人の同級生によって追付かれた。彼等は侃の背後まで来ると、急に歩調を緩めて、彼の背に対ってぶつぶつと罵倒を浴せ掛けるのだ。侃は振向かうともしないで、無抵抗のまま歩く。三人の声で、それが誰であるか、彼には直ぐ解る。一人は丈のひょろ高い裁判長の息子、一人は何時も洟水を啜る教授の息子、もう一人は眼鏡を懸けた少佐の息子なのだ。
「あいつは今日英語の時間にほんの一寸笑ったよ。」と教授の息子が珍しがる。
「笑ふとも、猫かぶりの悪党さ。澄まして、大人しくして、偉いつもりなのか知らないが、あんな奴世の中へ出たって、精々山賊の乾児にしかなれないよ。」裁判長の息子は辛辣に宣告する。
「だけど何だって奴、僕達と口きかないのかね。あれで一体何か面白いのかなあ。」と少佐の息子は首を傾けて云ふ。「奴、今に厭世自殺するぜ、首縊ってよ。」
「死んぢゃへ。あんな奴生きてない方がずっと有益さ。」と裁判長の息子は云ふ。
「死んぢゃへ、死んで幽霊になって化けて来やがれだ。」と教授の息子は興がる。しかし、彼はさうした罵声を背後に受け取りながらも、依然として知らない顔をしてゐるのだ。
侃はその春、そこの中学校に転校すると、奇妙に友達と云ふものを持ち損ねた。始め一寸した行違ひから、そのクラスで勢力のあった裁判長の息子の機嫌を損じたため、彼は卑劣な悖徳漢として、クラス中に宣伝され、そして一人の味方も持てなかった。
夏の休みが一時、不愉快な記憶を拭ってくれた。だが、再び学期が始まると、事情は更に悪くなってゐた。侃は誰とも口をきかない、陰鬱な生徒になってしまった。かうして、さきざき四年間、沈黙で押通せるとしても、その結果がどうなるか。彼が他日社会へ出た時、社会は彼をまた今のやうに批難するやうになりはすまいか。侃は人と親めぬ己の性格にさまざまの不安と恐怖を感じながら、此頃懊悩し続けてゐた。如何して人と打解けることが出来ないのか、それはどんな馬鹿でさへ心得てゐる造作もないことではなかったか、その簡簡なあれが如何して君には出来ないのか……。
「やい、何時まで澄ましてるのだい、返事ぐらゐしねえか。」と裁判長の息子は声を荒げた。
「ぶん撲ちゃはうか。」と教授の息子は侃の後頭部に対って拳固を擬した。しかし、無気味な沈黙に対って、その拳固はしばし躊躇ってゐる。
一瞬、侃は向き直って、彼等に組附かうかとも思ふ。捨身でかかれば三人位には負けないだらう。喧嘩をすれば却って和解も出来るかも知れないのだ。返事をしろ? と、背後では三つの敵意が挑みかかる。しかし、彼は素知らぬ顔で、黙々と歩いた。
底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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