曇天
原民喜


 放蕩の後の烈しい哀感が街中に慄へてゐるやうな日だった。

 浅草を過ぎ上野まではバスで、上野から省線で田町へ来ると、遙かなる旅でもして来たやうだった。疲れてはゐたが何か興奮してゐた。光本は下宿に帰って夜具を敷いて寝たが、すぐに目が覚めてしまった。自分の首に安白粉の匂ひが残ってゐて、それが耐らなく彼を訶んだ。青ざめた顔をして今日は誰にも識った人間に遇ひたくはなかった。彼は何処かへ逃避したい気持で一杯だった。ふと彼はキネマの闇が恋しくなった。

 芝園館へ行ってみると満員であった。光本は疲れた身体を観衆に押狭まれながら立ってゐた。映画はキイトンの喜劇であった。観衆は時々どっと笑った。光本は自分が一寸も笑はないのに気がついた。どうしてあんなことが可笑しいのかと思へるやうな処でも、観客はわーと笑った。彼は笑へない自分を自分でみじめだと思ひ始めた。すると昨夜の記憶が時々兇暴な刃物のやうに脳裡に閃いた。

 ふと、前の席にゐるらしい婆さんが何でもない処でワハと笑ひ出した。すると一同はそれがをかしいとみえて、くすくす笑った。婆さんは図に乗って、また暫くするとワハと笑った。すると観客はまた従いて笑った。婆さんは完全に笑ひをリードしてしまった。流石に光本も今は微笑を浮かべるのであった。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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