童話
原民喜
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人ががやがや家のうちに居た。そこの様子がよくは解らなかった。誰か死んだのではないかしらと始め思へた。生れたのだと皆が云った。誰が生れたのか私には解らない。結局生れたのは私らしかっった。
生れてみると、私はものを忘れてしまった。魚や鳥やけだものの形で闇のなかを跳ね廻ったり、幾世紀も波や風に曝されてゐたのは私ではなかったのか。
私は温かい布に包まれて、蒲団の上に置かれた。それが私には珍しかったが、同時頼にりなかった。気持のいい時は何時までもさうして居たかったが、時々耐らなく厭なことがあった。家の天井とか、電燈とか、人間の声が私を脅した。眼が覚めて暗闇だと、また私は死んだのかなと思った。しかし、朝が来ると、私の周囲はもの音をたてて動くのであった。
私が母を覚えたのは大分後のことだった。母を知った瞬間は一寸不可解な気持だった。その顔は他人でもないし、私でもなかった、つまり突然出現した一つの顔であった。それから大分して後、父とか兄姉を識った。或る朧気な意識が段々私を安心せした。私一つがぽつんと存在するのではなく、私に似たやうなものが私の周囲にあって動く。しかし不思議なことに彼等はそれがあたりまへのやうな顔つきである。私は時々彼等の顔が奇異に見えた。
私の眼の前にある空間はもう不可避だった。空間にはさまざまの苦痛と快楽が混ってゐるやうに思へた。あまり長い間視凝めてゐると、眼が自然に瞬する。すると忽ち空間が新しくなった。が、次の瞬間にはやはりもとの空間だった。私はもう大分長い間生きて、生活にも慣れて来たやうだった。乳が足りて睡りが足りたので、恍惚と眼を空間に遊ばせてゐた。すると何処からか微風が走って来て、私の頬ぺたを一寸撫でた。私は微笑した。
母が私を抱いて家の外に出た。すると遽かに眼の前が明るくなった。そこは私にとって見馴れないものばかりだ。菜の花の上を蝶々が飛んでゐた。私の掌の指はそいつを見ながら動いた。すると蝶々は高く高く舞上った。くらくらする眩しい梢の方で葉が揺れた。私は蝶々が木の葉になってしまったのかと思って、掌を上に挙げた。が、掴めなかった。
私は池の鯉を見た。鯉は水のなかに気持よささうに泳いでゐた。
朝、夕、雀が訳のわからぬことを云って啼く。私以外のものは大概ものを云ふのに、私はものが云へないからもどかしい。ものが云へないのは壁や柱だが、時計は絶えず喋ってゐる。夜なんか特にガンと大きな響がしてびっくりさす。しかしそれが鳴り止むと、今度はチッキンチッキンと忙しい音が続く。逃げろ、逃げろ、とその音は急かしてゐるやうだ。どうして逃げなきゃならぬのか、何処へ逃げたらいいのかは解らないのだが、私は妙に絶望的な気持にされる。私の気持は熱に浮かされたやうになる。
大人が私に馬の絵を見せて、頻りにその真似をしてみせる。すると私も馬になったやうな気持がする。非常に速く走ったり、暴れたりすることはどんなに愉快か、私も自由に動いてみたい衝動で一杯なのだ。大人の腕によって私の身体が楽々と持運ばれて行く時、障子や、天井や、畳は私のほとりを動く。
障子や、天井や、畳が動かない時、その時は全体が何か一つの怪しい謎を秘めてゐるやうだ。特に夕方、電燈の点かぬ前がさうだ。現在の私は腥い塊りで、それが家のなかに置かれてゐる。家の上には暮方の空が展がってゐる。そして、それはすべて確なことだが、確なことほど朧気でならない。
熱が出て私は寝かされてゐた。何処かでしーん、しーんと不思議な音が続いた。眼を閉ぢてゐると、見たこともない老人が現れて来て、何か難しいことを云って私を責め出した。泣かうと思ふのに声は出ない。はっと思ふと、私と同じやうな子供が、実に沢山の子供達が左右から走って来ては衝突して倒れる。倒れても倒れても後から子供達は現れて来る。一頻り合戦が続いた後、一匹の馬が飛び出して来た。見れば皮を剥がれた馬で、真赤な肉をピリピリさせてゐる。
ふと気が着くと、私はまだ死んではゐなかった。母の手が私の額をぢっと抑へてゐた。私は何だか嬉しくなって、つるりと笑った。
ひとりで私は畳の上を這ひ廻ってゐた。そこに転がってゐるのは犬の玩具だが、私はもう珍しくはなかった。しかし、ふと犬の耳を引張ってみると、それは簡単に捩げさうになった。私は夢中になった。と、その時私を後から誰かが軽く抱き上げたので、犬の耳を持った儘、私は高く挙げられた。相手は巧みに私を抱きかへて、何か云った。見知らぬ女に抱かれたのだと気が着いても、私は別にむつがらなかった。女は私に頬をすり寄せた。それから私を畳へ下した。もう私は犬の耳へ気を奪られなかった。その女が家にゐる間、その女を私は不思議に感じた。私は作り変へられるのだらうか。
或朝、家の外を楽隊が通った。単純な、浮立つばかりのメロディが私を誘惑した。楽隊は皆を引連れて、山を越え、谷を越え、海を渡って、何処までも、何時までも続いて行くのだから、君にも従いて来給へと云ふ風だった。遠ざかって行く楽隊を見送って、私は耳の底にふわふわと動くものを感じた。もしやもう一度、楽隊は帰って来はすまいかと、毎日毎日私は待った。
底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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