原民喜



 彼はその女を殺してしまはうと決心しながら、夜更けの人足も薄らいだK──坂を登ってゐた。兇器にするか、何にするか、手段はまだ考へてゐなかった。が、その烈しい憤怒だけで、彼は女の首を完全に絞めつけることが出来さうだった。

 ふと彼は考への途中で、夜店の古本屋の爺さんを何気なしに眺めた。爺さんは一人ほくほくしながら店をしまってゐた。人のいい、実になごやかな笑顔が彼を見た。爺さんは今何が嬉しいのだらう、しかし彼も同時に何だか知ら胸の裡が嬉しくなった。彼は穏かに下宿に帰って睡た。


 その夜、彼は爺さんの夢を見た。爺さんはニヤニヤ笑ひながら、「俺は知ってるぞ、君はあの女を殺す気だね。」と何度も繰返し繰返し云った。目が覚めると、彼の脊筋はじっとりと冷汗に濡れてゐた。

 翌日の夕方、彼はまたふらふらとK──坂を登って行った。恰度夜店が出る時刻で、昨日の爺さんも同じ処で古本を並べてゐた。彼は爺さんを一目見るや否や、わーと泣き出したい衝動に駆られた。が、兇器は夢中で爺さんの脇腹を抉ってゐた。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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