原民喜



 秋も大分深くなって、窓から見える芋畑もすっかり葉が繁った。田中氏は窓際の机に凭って朝食後の煙草をくゆらして、膝の上に新聞を展げてゐた。さうしてゐると、まだ以前の習慣が何処かに残ってゐるやうで、出勤前のそはそはした気持になるのだった。

 今、湯殿では妻が洗濯してゐる音が聞える、彼は不意とその方へ声が掛けたくなる衝動を抑へて、静かにぢっと耳を澄ました。すると気の所為か、妻は時々何か思案しながら洗濯してゐるやうに思へる。妻が何を考へてゐるのか、田中氏にはぼんやり解るやうな気もした。さう云へば二十と何年も一緒に暮してゐながら、今度のことがあって始めて妻の気持にも彼は段々関心を持つやうにされたのだった。二三日前、妻は彼がまだ寝てゐる枕頭に来て、ひそひそ泣いて、今更のやうに子供が欲しいと云ひ出した。やはり住み馴れた都会を離れて田舎の静かな処へ来ると、さう云ふ気持もするのかも知れない。彼ももう一度生れ変ってみたい念願が時々生じるのだが、社会に対してすっかり見切りをつけてしまった筈なのに、どうしてそんな馬鹿な野心が湧くのか不思議でもあった。しかし隠居してしまふにはまだ少し若かったし、何もしないでゐると却って早く死が追って来さうな妄想が湧くので、静かな暮しのなかにも憔慮が絶えなかった。

 田中氏の念想は何時の間にか飛躍して、不図さっき便所の隅で視た小さな情景を想ひ出した。蜘蛛の巣の糸に蟋蟀が引掛って宙にぶらさがったまま、四肢をピリピリ動かしてゐるのだった。彼はそれを眺めながら蜘蛛が悪いのか、蟋蟀が悪いのか結局判断出来なかったのでその儘にして置いたのだが、彼の運命もやや蟋蟀に似てゐるやうに思へた。だが、憤ったところでどうにもなりさうにはなかった。彼は近頃不図観相術の本を買って読んでみると、彼の顔にはもともとさうした不吉の相があったのに気づいた。してみると、あの事件も偶然ではなかったのか、辞職しよう、辞職しようと考へてゐるうちに、あの涜職事件は突発したのだった。毎日警察へ呼び出されたり、新聞に書き立てられたりして、さんざ世間の疑惑と冷笑を買った揚句、やっと無関係なことが証明された時には、すっかり彼の気持は変ってゐた。身の潔白が証明された以上、何故職に踏み留まらなかったのかと、彼の辞職を批難する友もあったが、さう云ふ友の意気は羨しいとしても、彼の眼には浮世のすべてが陰惨な翳に満たされてゐるやうに意へ出した。人の一生は悪夢か、と彼は時々さう口吟んだが、悪夢だと悟りきれない夢もまだ少しは持ってゐた。どうも此頃は殆ど毎日雨が降るので、余り運動も出来ない所為か、消化不良で夜毎怪しげな夢をみるのだった。その夢は決ったやうにあの事件と関係のあるものだった。忘れよう、忘れようとしてもあの時の記憶は空気のなかに溶け込んでゐて、呼吸をする度に現れて来た。今朝もやはり夢をみた筈だった、が、田中氏は今更夢のことを気にしてはゐなかった。が、たった今も膝の上に新聞を展げて、何か疑獄の記事が出てはゐまいかと自づからその方へ神経が尖り出すのであった。今日は全くさうした記事も出てゐなかった。

 不図、田中氏は二十年前のことを憶ひ出した。下役の者が持って寄越した歳暮を妻が足袋はだしのまま追駈けて行って返した時の情景である。あの頃から妻には苦労ばかり掛けて来たのだが、随分長い間一緒に暮しながら殆ど妻のことには関心も持てなかった。それが此頃では神経質なほど妻の一挙一動が気になる。起きるから寝るまで、炊事、裁縫、掃除、洗濯と次々に用事に追はれながら働いてゐる姿を視ると、かう云ふことをしてよくも二十年間耐へて来てくれたものだと感心するのであった。彼は人間としては妻の方が遙かに美質を備へてゐるのではないかと考へ出した。時として彼は突然妻のところへ行って何か優しい言葉でも掛けてみたい気になるのだったが、今更さうした表現は不自然でもあったし、彼の性格にも合ってゐなかった。しかし妻は何の娯しみがあって今日の日まで辛苦して来たのだらう、だから、妻が子供が欲しいと云ひ出した時、彼は妻が近日婦人科の診察を受けることに賛成してしまったのだった。だが、今の気分が生れて来る子供に反映するとすれば、子供も生れない方が幸ではあるまいか。人間社会を陰惨だと感じてゐる親の子供なら、子供も不幸になるかも知れなかった。彼はあらゆる虚妄に触れても動揺しない、一つの精神の高みに達したいと願った。生も死も一如と感じる宗教を求めて置き度かった。──田中氏にとって考へることがらは凡そ範囲が決まってゐた。だが、かうして朝の一時ひとときを黙想に費すのも何かの修行のやうだった。

 煙草を灰皿に捨てると、彼は立上って縁側に出た。庭の唐辛子が真赤に色づいて美しかった。薔薇や、菊は手入れが悪かったので虫に食はれてしまったが、一銭で三株買って植えた唐辛子だけが元気よく実ってゐるのも皮肉に似てゐた。それにも増して雑草は茂り放題になってゐた。立派な植物程、育ち難いものなのか──田中氏は気質の優しい甥が先日死んだと云ふ通知を受取った時の感想をふと思ひ出した。さう云ふ例なら彼の身辺に随分あった。だが、松の樹はどうだ、雨風に打たれながら老い寂びて高く聳える樹の姿を想ひ浮べた。出来れば彼も松の樹になり度いのだった。さう思って空の方を眺めると、今朝は珍しくも青空が高く澄み渡ってゐた。午後から散歩でもするかな、と田中氏は一人で決めると、また部屋に戻った。

 それから机について、禅宗の本を開いた。暫く精神を集中するつもりで活字を眺めてゐた。だが、この部屋には蠅が一匹ゐるのに気が着いた。蠅は田中氏が少し油断してゐると直ぐに肩の辺に来て留まった。追っても追っても同じことが繰返されてゐるうちに、田中氏は、新聞紙を丸めて蠅打にした。机に来た時、叩きつけたが、蠅は巧みに逃げてしまった。それからものの一分は静かであったが、また蠅はやって来た。田中氏の狙ひはまた失敗に帰した。そこで彼は立上ってどうでも蠅を殺すことに決めた。視ると蠅は天井に留まって、早くも彼の気配に感じたらしく呼吸をひそめてゐた。蠅一匹は躍気になってしまった己を彼は多少大人気ないと思った。だが蠅の動作は既に田中氏にいろいろの聯想を生ませてゐた。彼は天井に飛びついて、そいつを叩きつけた。すると蠅はもろくも死骸となって落ちて来た。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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