忘れもの
原民喜


 ポストのところまで歩いて行くと、彼はポケットから手紙を取出した。そして何だか変だとは思ひながら、ポストの口へ入れて行ったが、指を離した瞬間、はっと気がついて顔を歪めた。切手がまだ貼ってなかったのだ。馬鹿。あの手紙を受取る里の親達は嘸、馬鹿と彼のことを云ふだらう。結婚して半年、まだ職に就けない彼なのだ。そして今日も職のことで先輩を訪はねばならない日だった。焦々しながら、ぼんやりしてゐた。

 自動車や電車に轢かれる人の大部分は、金の心配をして歩いてゐる人間だ──と誰かが云った。気をつけなければいけなかった。今日も職のことはすらりと駄目になったが、そのかはり、君の細君へとどけて呉れ給へと、先輩は鮎の佃煮を彼に渡した。その包みを左手に持って電車に乗ったのだが、夕刊を読むために網棚にその包みを放った。そして一駅乗り過して周章てて降りた時、左手には新聞だけ持ってゐた。彼は重苦しい気分で大廻りして家へ戻った。

 妻は大分前から彼の帰りを待ち詑びてゐた。「大変よ、今日、始めてわかったの。」と、それから後は彼の耳に何か囁いた。その瞬間、彼も大変な表情をした。これもまた忘れものには違ひなかった。しかし忘れものと、妊婦と、一体何の関係があるのか、と彼はぼんやり憤りに満ちてゐた。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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