出発
原民喜



 吉池の不機嫌は母と衝突してみてわかった。

 着物のことになると如何して女と男は意見が違ふのだらう。

 意見が違ふと云ふことはそんなに人間の感情を害ねるものだらうか。

 人間はむしろ感情を損ひたいと云ふ感情に支配されることがありはすまいか。

 吉池はAからZまで自分の不機嫌を種々様々に分解してみた。だが、何よりも大切なのは早く不機嫌を取消すことであった。自分が主賓として招かれてゐる今夜の宴会に、憂鬱な顔をして出席するのは都合が悪かった。ところが吉池は一歩宴会の席に入ると、今迄心配してゐた不機嫌は本能的に影を消したのである。

 しかし宴会がはねて自分の家に帰ると、吉池は今度は新しい虚無感に把はれてしまった。課長は自分の会社から出征軍人の出たことを非常に名誉に思ふと云って演舌した。芸者は吉池に盃を誘めて戦地に行ったら消息をくれと握手を求めてきた。妹は弾丸除けのお守り袋を縫ってくれた。人間の厚意と云ふものは単純でしかないのに、如何してそれらのことが自分には素直に亨け入れられないのだらう──吉池は自分が外部から実に巧妙にいろいろと翻弄されてゐるやうな気がした。こんなひがみが発生するのは心に張りがあって、有機体が未知の経験の予感に対して、漠然ではあるが緊張してゐるためであらう。しかし、それだけでは吉池の頭が全体として統一されてゐないから物足りなかった。吉池は自分の行く異邦の果てを空間的に考へてみて、もっとセンチメンタルになりたかった。深く魂を動かす何か信念とか空気とかが欲しかった。

 吉池は大切なことを忘れてゐたのをその時になって気がついた。自分の日頃愛好して止まぬ音楽を何故今夜は聴かうとしなかったのだ。それは出発に際して、送別会の演舌や弾丸除けのお守りよりも、もっと内面的に何か力強いものを与へてくれるかも知れない。そこで彼は蓄音機の螺旋を巻いて、ベートーヴェンの第五交響楽をかけた。しばらく彼はそれを聴いてゐたが、彼は思はず中途であくびを洩らした。退屈だな、音楽も──吉池は今度は大あくびをした。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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