滑走
原民喜
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雁江の病室には附添ひの看護婦がゐた。彼女と同じ位の年輩だったが、看護婦の方が遙かに大人びてゐた。長い患ひが、この頃やうやく癒えて来ると、雁江は身体だけでなく心までがすっかり変って来るやうな気がした。病室には早咲きのシクラメンがあった。看護婦は四六時中雁江の部屋にゐた、もう一カ月あまりその部屋の空気を一緒に呼吸して来たのだった。病気に罹ると云ふことを雁江はもともと厭でなかった。父がまだ生きてゐる頃など父の愛情が急に濃く細かに感じられた。女学校時代も卒業後も友達が持てなかった雁江は、それでなくても現実の脅迫が強すぎた。病床に就いてしまへば、それがともかく逃避出来た。雁江は満たされない感情のためにも、いくぶん虚無的な、生命を弄びたがる傾向があった。傍の眼には大人しすぎる、沈鬱な女であったが、内部には柔い夢想が育まれてゐた。ただ、何処かに障碍があって、彼女は環境と和合出来なかった。そのため、日常生活と云ふものは彼女にとって、厭らしい重荷であった。彼女は結婚のことを考へると、更に悲観的になった。男性は一面彼女を最も脅す存在であった。崇高な男と云ふものは実在しさうになかった。男は彼女を傷けるためにゐた。雁江は絶海の孤島に生きてゐた。
その孤島へ始めて訪れて来たのが今度の看護婦だった。絹江と云ふ看護婦は、始めて彼女を普通の人として取扱った。雁江の方にも随分譲歩があったにはあった。人から口をきかれた時、大概短い返事でぽつんと突放す癖のある雁江が、絹江から始めて口をきかれた時には、病気の所為もあったが、努めて長い言葉を用いた。それに雁江は相手がやはり努力して口をきいてゐるのを見てとった。人扱ひに慣れたこの女が、雁江に対してもどかしさうにしてゐるのを見た時、雁江はふと微笑を感じた。それから二人の友情は長い間、或るもどかしさを以って進んだ。雁江には人と口がきけるのが珍しかった。絹江はある日、自分の恋人の話をして聞かせた。その看護婦に附文する男が五指を出でると聞いた時、雁江は耳まで赤面してしまった。すると、絹江もそれに気づいて、済まなささうな表情をして黙ってしまった。雁江は今度は自分の方から好んでその話を聞きたがった。異性の話から二人の友情はまた少し接近した。雁江は聞かされる側ではあったが、それでも絹江にまだ真実の恋人はないと告白された時には吻と安心した。二人は一緒に一人の異性を恋しはすまいかと云ふをかしな考へが生じて、雁江は面白さうに笑った。
退院後も絹江の方から暇な時にはよく訪ねて来た。二人は狭い田舎の街や郊外を散歩した。キネマや、喫茶店や、汁粉屋へ入ることを雁江は慣れた。絹江は細巻の煙草をいたづらに吸ったりした。一年足らずのうちに雁江はすっかり外貌を改めた。雁江は前から漠然と希望してゐた上の学校へ入学することをその頃になると本気で主張した。義理の母とは衝突もあったが、ともかく叔母を頼って上京することになった。絹江も将来上京してまだ学問する筈だったので、一足さきに雁江の方が行って待つと云ふ約束だった。出発の日に絹江が見送りに来て呉れなかったのは物足りなかった。しかし上京すると直ぐに絹江から便りがあった。絹江は彼女の居なくなったのを無性に淋しがってゐた。感情に飢えてゐた雁江は直ぐに長い返事を書いた。
やがて学校が始まると、雁江は直ぐに友達を作った。雁江の動作は何彼につけて能動的になった。自分から働きかければ、すべては手を開いて呉れ道は開かれる──と思った。慣れない環境を怖れないで、勝手に進んで行った。雁江達にとって、学校はとにかく社交場となった、そしてそれは街にまで延長されてゐた。流行とか、尖端とか云ふものを彼女は意識的に愛好した。陰鬱な女学校時代の内攻癖がすっかり解放されて、自分に自分で反逆して行くことが嬉しかった。病弱だった身体は不思議に元気づいて来た。友達同士の紹介で男の友達も容易に出来た。男性は雁江にとって面白いものとなった。
夏休みが来て雁江が田舎へ帰ると一番に絹江が訪ねて来た。絹江は手紙で、あなたも前とは随分変ったでせう、それも止むを得ないことでせうと云ってゐたが、今眼の前に雁江を迎へた、絹江の方は幾分沈み勝ちになったところもあったが、前と変らなかった。雁江は服装や、化粧や、言葉や、態度を見せびらかせた。絹江はもしかすると結婚するかも知れないと打明けた。いい人でも出来たのかと思って、雁江は、おめでたうと云ふと、さうではなかった。家の事情から止むを得ず、ある男のところへ嫁ぐのだと聞かされた。
秋になって学校が始まった時、雁江は絹江の結婚の通知を受取った。何か裏切られたやうな寂しさや、あの女も案外、古風な平凡な女だったのかと云ふ感慨やで、雁江は頻りに反撥を欲した。ダンスホールや酒場などの空気に浸ることを覚えた。学問はもうどうでもよかった。叔母の眼を誤魔化しては男の学生と新宿で逢った。その学生は彼女の腕を執って巧みに氷の上を滑走させてくれた。
絹江からは以前と同様によく手紙が来た。絹江は不幸な結婚生活の愚痴をありのまま綴って、貧乏に耐へて行く悲しみを底にたたへてゐた。雁江は自分の方が勝ったと思へた。それらの手紙は境遇に従順すぎたり、純情すぎるものの不幸を雁江に教へて呉れるやうなものであった。男の友達は入替っては出来た。しかし雁江は異性よりも、浪費に今は夢中であった。金を浪費することの無邪気な悦びと、浪費した後の嘆きとが彼女の生活の振幅であった。彼女は活々と金を欲しがった。女学校時代、金は何か卑しいもののやうに評価されてゐたのが、今は金の華やかさにすっかり感嘆した。しかし義理の母の方からは送金額が多すぎることを批難して来た。叔母とも衝突が重なった。何故、浪費してはいけないのだらう、一生に一度しかない華やかな時期ではないか、雁江は自分が働いてゐないために浪費が批難されてゐると意った。それなら働けばいい、と雁江は単純に結論をつけた。そして叔母の家を飛出した。
それから一年後、雁江は絹江の死亡通知を受取った。爛れた生活を脊負ひながら雁江は、外見はますます明朗であった。淋しく死んで行った不幸な友のことを憶ふのも、秋雨のなかを酒場の方へ歩いて行って、秋雨を淋しがるのと似てゐた。酒場のレコードは今日も憂鬱な音を立ててゐた。絹江は嘗て彼女に二人の友情は恋に似てゐたと告白したことがある。あれが恋と云ふものかしら、と雁江は懐った。今の私にはあなたの気持はぴったりしない、しかし長い生涯にはあなたのことを憶ひ出して心を締めつけられることがあるかも知れない──雁江はそんな風に考へた。
底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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