雉子日記
堀辰雄
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去年の暮にすこし本なんぞを買込みに二三日上京したが、すぐ元日にこちらに引っ返して来た。汽車がひどく混んで、私はスキイの連中や、犬なんぞと一しょに貨物車に乗せられてきたが、嫌いなスティムの通っていないだけでも、少し寒くはあったが、この方がよっぽど気持が好いと思った。
すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。
ハウス・ゾンネンシャインと云う、いかめしい名の、独逸人の経営しているパンションが、近頃釜の沢の方に出来て、そこは冬でも開いていると云うことを、夏のうちから耳にしていたが、私がそれを見たのはついこの間のこと、──クリスマスを前に、二三日続いて、ひどい大雪があった。そう、このへんでも五〇糎位は積った。そんな大雪がからりと晴れあがるや否や、鬱陶しく閉じこめられていた追分の宿から、私はたまらなくなって飛び出して、膝まで入ってしまうような雪の中を、停車場まで歩いて、それから汽車に乗って、軽井沢に来たが、ここでも軽便を待つのがもどかしく、勝手知った道なので、近道をしようとして野原を突切ったのはいいが、茅なんかの埋まっているところは体が半分位雪の中に入りそうになったり、いきなり道傍から雉子が飛び立ったりして、何度も立往生せざるを得なかった。やっと別荘のちらほらとある釜の沢の方に出たら、道もよくなり、いましがた通ったらしい自動車の轍さえ生ま生ましくついている。どこかの別荘に来た奴のだなと思いながら、その轍を辿っていったら、やがて山にかかると、それが消え失せ、その代りに男女の足跡らしいのが入り乱れてついているので、更にそれを追って行くと、釘づけになった数軒の別荘の間から、私の前に突然、緑と赤とに塗られた雛型のように美しい三階建のシャレエが見え出した。南おもては一面の硝子張りだが、それがおりからの日光を一ぱいに浴びながら内部の暖気のためにぼうっと曇り、その中から青々とした棕櫚の鉢植をさえ覗かせている。──近づいて標札を見ると、「Haus Sonnenschein」とある。ふん、こいつだなと思って、私はその家の前を何度も振り返りながら、素通りして、裏の山へ抜けようとしかけたが、頭上の大きな樅の木からときおりどっと音を立てて雪が崩れ落ちてくるのに目が開けられないほどなので、又、引っ返してきた。その時ふいに、クリスマスに来たいと言ってきた阿比留信にこんなところに泊まらせてやったら愉快がるだろうと気まぐれに思い立って、そのままずかずかと裏木戸から這入って、台所を覗いて見ると、ストオヴの側で白いエプロンをかけた日本人の若い娘が卓の上に水仙の花を惜しげもなく一ぱい散らかして、いくつかの花瓶にそれを活けていたが、私の意を伝えると、きのう主人夫婦も横浜から来たばかりで、何でも、もうクリスマスには大ぜいな客があるように申しておりましたけれども、……まあ、中へおはいりになってお待ち下さい、と人懐こそうに私の方をまじまじと見ながら、そう言い置いて、奥へ引っ込んでいった。私はもうそんなことはどうだっていいんだと云ったような、ぼうっとするような気持で、好い匂いのするストオヴに頬を赤くしながら、真白いエナメル塗りの台所の一隅に片寄せられてある、男と女の長靴から、さかんに湯気が立ちのぼっているのを見入っていた。……
いま、私の暮している追分ときた日には、村中で商いをしているのは、村はずれの居酒屋みたいなのと、煙草や駄菓子なんか売っているのと、たった二軒。──正月こっちへ来てから、無精を極め込んで、一度も髭をあたらずにいたが、或る日、ぶらりと軽井沢まで汽車に乗って理髪店に行った。軽井沢の町だって、いまは大抵の店は何処かへ店ごとそっくり荷送されでもしそうな具合に、すっかり四方から荷箱同様の板を釘づけにされている。唯二三軒、うす汚ない雑貨店みたいのが、いまでも店を開いているが、そんな店先にもクレエヴンやペル・メルの罐が店ざらしになっているのは、さすがに軽井沢らしい。郵便局の横町にある理髪店に飛び込んで髭をあたって貰う。南を向いた店先には一ぱい日がさし込んでいる上に、ストオヴを自棄に焚いているので、苦しいくらい熱い。この店は夏場は五つか六つ鏡が並べてあった筈だが、いまはたった二個、──そうして他の鏡のあった場所は、何処かの別荘のお古らしい、バネの弛んでいそうなベッドが占領している。ここでこの親方は、客の来ない時は昼寝でもしているのだろう。──私の向っている凸凹のある鏡には、筋向うの、やっぱり釘づけにされた、そして横文字の看板だけをその上にさらし出している、肉屋と、支那人の洋服屋が映っている。おや、何だか見覚えのある奴が通るぞ。なあんだ、テニス・コオトの番人か。やあ、こんどは自動車が通る。毛唐の奴らが鮨づめになっていやあがる。ふふん、さてはハウス・ゾンネンシャインの連中だな。鏡の中に映らないが、自動車が何か引きずってゆく音がする、何だい? と訊いたら、橇ですよ、と親方は無雑作に答える。
それからいそいで理髪店を飛び出すと、きっとゴルフ場へでも行って橇で遊ぶのだろうと思って、そっちへ行って見ようと、まだ雪の大ぶ残っている町の裏側の「水車の道」へはいって聖パウロ・カトリック教会の前まで行きかけたけれど、道は悪し、なんだか面倒くさくなって、その筋向うの裏口からホテルに飛び込んで、お茶を飲まして貰う。勿論、客なんか一人もいない。そこで軽便の出るまで、ホテルの娘と無駄口をききながら、ストオブに噛じりついていた。
追分の宿に帰ったら、思いがけず田部重治さんが来ていられた。越後の湯沢とかへ兼常さんやなんかとスキイに行かれたお帰りだとか。皆と高崎で別れて、お一人だけわざわざこちらに寄られた由。──茶の間の大火燵の上で、鳥鍋をつつきながら、誠ちゃん(宿の主人)も加わってよもやまの話。──田部さんは本当に追分がお好きらしい。ことにこんな風に一杯聞こし召されようものなら、誰に向っても、追分のいいことを繰返し繰返し語られる。僕なんぞはもういい加減耳に胼胝が出来てもよさそうな筈だが、一向聞き倦きもせずに、にこにこしながら会槌を打っているのだから、これも不思議だ。
たかが浅間山の麓で、いくぶん徳川時代の古駅の俤をそのまま止めているというよりほかに何の変哲もない、こんな寥しい村が、一体何でそんなにいいのだろう? と他の人が聞いていたら、思うかも知れない。
この間、辻村伊助の「スゥイス日記」を読んでいたら、リルケがその晩年を送りながら「ドゥイノ悲歌」を書いたシャトオ・ド・ミュゾオのある、ロオヌ河のほとりの、ラロンという村なんぞは、汽車で素通りしている。ああいう旅行者にとっては、取るに足りないような寒村が、かえって詩人にとっては仕事をよく実らせてくれるのかも知れないのである。
浅間山だけがすっかり雪雲に掩われ、その奥で一人で荒れているらしく、この山麓の村なんぞには、日が明るく射しながら、ちらちらと絶えず雪の舞っているようなことがある。そんな時なんぞ、どうかして不意にその雲の端が村の上にかかると、南に連なった山々のあたりにはくっきりと青空が見えながら、村全体が翳って、ひとしきり吹雪く。と思うと、すぐ又、ぱあと日があたってくる。ここでは、そんなような空合いの日がかなり多い。
田部さんがリュックを背負って帰って行かれた七日の夕方も、そんな雪催いだった。途中の落葉松林のはずれまでお見送りして、其処から一人で帰ってきながら、私はこの村にこうして一人で気儘にいられるのを幸福に思わなければならないのかな、と考えたが、それにはいささか、半信半疑だった。
それから二三日立ってから、去年の夏この村で知合いになった英夫君が、正月になったら送ってくれと云って頼んで置いた空気銃を東京からわざわざ持って来てくれた。
翌日、一日じゅう二人で空気銃をもって森の中を駈歩いた。森の中はまだ雪が相当深い。これは狐の、これは兎の、それからこれは雉子か山鳥かどっちかだ、と雪の上に印せられている色んな足跡を、この間教えられたばかりのをおぼつかなく思い出しながら、そんなことを言い合っている間にいきなり私達の行手から飛び立つ鳥どもの羽音に、空気銃を手にしていることなんぞちょっと思い出せない位に、びっくりしたりしている、即製の猟人たちの間抜けさ加減! 一日じゅうの獲物といったら、たった頬白が一羽。……
その翌日、英夫君は二時の汽車で帰るというので、昼飯を早目にすませてから、お別れに村の西のはずれの、分去のところまでぶらっと散歩に行った。馬頭観音やなんかはまだ雪の中にしょんぼりとしている。二人でその傍に佇んで、しばらく浅間山の方を眺めていると不意に思いがけなく私達の頭上を、一羽の青味を帯びた大きな鳥が翼を水平に拡げたまんま、すうと低目に飛び過ぎた。やあ、雉子だ、雉子だ、と私達が言い合う暇もないうちに、街道の向うの小さな松林の中に、突然よろめくようになって、その雉子は下りて行った。いそいで私達もその林の中へ躍り込んで見ると、もう飛ぶ力のなくなっているらしいその雉子は、難なく英夫君の手で生捕りにされた。
何処も怪我はしていないようだが、大方鉄砲打ちに翼でもやられて、やっとここまで山の中から逃げて来たのかも知れない。雄だから、綺麗な尻尾をしていた。空気銃でも持ってきていたら、それで射とめたのだと宿に持ち帰って威張れようが、あいにく手ぶらなので、へんな恰好で、そのままそれをぶらさげて帰った。
英夫君に東京へお土産にしたまえと勧めたが、帰るのはもう一日延ばして、こっちでそれを皆と一緒に食べて行きたいと云って聞かなかった。
雉子はまだ辛うじて生きている。それを不自然な殺し方はしたくないので、宿の老犬ジャックを連れて、裏の林へ行って、その雉子を放したら、昔猟犬だったジャックはその逃げようとする雉子を巧みに追い廻しながら、要領よく噛み殺し、羽だらけになった口に銜えたまま、それを私達のところへ持って来てくれた。
雉子は悪食だから、肉が臭いと聞いていたが、鍋にしてもそれほどいやな臭いはしなかった。が、なんだかすこし無気味で、あんまりうまいとも思わなかった。
英夫君が帰京してから、こんどは私は一人で毎日のように空気銃を手にして、ジャックを連れては、殆ど二三日おきぐらいに降るのでますます雪の深くなった森の中を愉快そうに歩きまわっていたが、少しその度が過ぎたと見え、とうとう十日ほど前から風邪を引いて、いくじなく寝込んでいるていたらくである。枕もとにはお義理のように横文字の本を堆高く積んであるが、見ているのは大抵例の「スゥイス日記」か、ベデカアのスゥイス案内書位なものである。
この前の日記に、私はリルケが晩年住まっていたシャトオ・ド・ミュゾオのある村をラロンと書いて澄ましていたが、実はラロンはリルケの墓のある村の名で、同じヴァレェ州の同じロオヌの川沿いながら、ミュゾオのあるのはそれより少し下流に位している、シェルという小さな町から更に上方へ入った、葡萄畑なんぞの真ん中らしい。そしてそのミュゾオもシャトオとはほんの名ばかり、むしろ十三世紀頃に出来た小さな塔のようなものであるらしい。
一九二一年の秋のことである。それまでスゥイス中を転々としながら、長い間中絶されている「ドゥイノ悲歌」を再び続けるべく、そのために外界と遮絶して、全く一人きりになっていられるような隠れ場所を捜しあぐねていたリルケは、遂に伊太利との国境にもはや近いヴァレェ州にやって来て、その何処かプロヴァンスや、また西班牙の或る物をさえ思わせるような一帯の風物を一目見るや、此処こそ自分の求めている場所と信じて、その町の一つのシェルに暫く滞在し、附近を捜しまわったがそれも空しく、とうとうその町をも立ち去ろうとする間際になって、偶然或る飾窓に売物に出ている一つの塔の写真を認めた。それは彼の或る友人の寝台の上の壁に以前から掛っていた絵の中の古い館だった。そしてそれがミュゾオだったのである。それを彼はその同じ友人の世話によって漸く手に入れることが出来た。
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「恐ろしい山々の荒漠たる風物の中に全く孤立せる小さな館。……私はこれまでかかる孤独な存在、かかる沈黙との極度の親密を想像だに出来なかった。親愛なるリルケよ、あなたは純粋時間の中に閉じ籠っているように私に思えた……」と、その頃其処を訪れたポオル・ヴァレリイは書いている。
翌年の二月である。十年前の、一九一二年ドゥイノにて着手せられ、一九一四年以来殆ど全く中絶していた「ドゥイノ悲歌」は遂にそのシャトオ・ド・ミュゾオにおいて完成せられた。しかもそれは僅か二三日で出来上ったのである。
それを書き上げた夜半、リルケはもうペンを握る力もない位に疲労しながら、眠る前にその出版者キッペンベルクにその完成を知らせてやった手紙には甚だ人の心を打つものがあるが、その一節に曰く、「……私は冷たい月光の中に出て行きました。そして小さなミュゾオを大きな獣のように愛撫してやりました……かかるものを私に授けてくれた、その古い壁を。それからまたあの破壊されたドゥイノをも。」(ドゥイノは大戦中に伊太利軍のために破壊された。)
それから数日と立たない裡に引続いて又、その支流とも云うべき小さな作品が殆ど求めずして出来た。「オルフォイスに捧ぐるソネット」と呼ばれる五十余篇のソネットがそれである。
それまでもとかく健康のすぐれなかったリルケは、その仕事の過労のためにいよいよ健康を損ねてゆき、その後殆どそのミュゾオに居ついたまま、僅かな詩作と、二三の翻訳をしたくらいで、遂に一九二六年十二月の末に死んで行った。死んだのは、しかし、その愛するミュゾオではなく、発病後強いて移されたレマン湖畔のモントルウの療養所である。
病名は壊血症というものだそうだが、その病気の直接の原因になったと云われる、いかにもリルケの最後らしい、美しい挿話を、私はつい最近読んだ。
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或る日、リルケはミュゾオを訪れることを予め約束してあった一人の婦人を待っていた。その婦人は約束の時間よりもやや遅れてやって来たが、それを待っている間、リルケはその客に与えようとして、庭に出て薔薇を摘んだ。(ミュゾオの庭には、詩人が自分の手で百株ばかりの薔薇を植えていたのである。)その時その薔薇の棘が彼の手を傷つけた。そしてその何でもなかったような小さな傷が次第に悪化して行って、遂に壊血症の原因になったと云うのである。「つねに女性の偉大さと薔薇の美しさとを説いていた詩人はかくして一女性のために摘んだ薔薇の一つに刺されて死んで行ったのである。その最後がいかに痛ましくあったとは云え、それはリルケがかれ独自の死を死すべく選んだものであった、」とその話の筆者は云う。
そのミュゾオの館の庭には、いまでも詩人の手植の薔薇が咲いているそうである。私が他日スゥイスにも行けるような身の上になれたら、何よりも先に、そのミュゾオの館と、それから詩人の墓のあるラロンの村とを訪れることだろう。
が、それはいつのことやら……。私はそれよりか今は、本はとっくに買い込んで置きながら、まだ手をつけていない、そしてリルケ自身も「長い、時としては骨の折れる読書」と云うその「ドゥイノ悲歌」を何とかして克服せんことをこそ思うべきであろう。
「雉子日記」のなかで、私は屡々ミュゾオの館のことを持ち出したが、それについて富士川英郎君から非常に興味のあるお手紙を頂戴した。「ミュゾオの館」というのは、御承知のようにリルケがその晩年を過した瑞西のヴァレェ州にある古い château のことである。その見もしない château のことなんぞを私はいろいろと知ったか振りをして書いて見たのであるが、富士川君の注意によって、二三此処に訂正して置きたいと思うのである。
先ず、その château du Muzot の読み方である。私はそれを普通にシャトオ・ド・ミュゾオと発音していた。ところが富士川君の注意によると、リルケ自らが一九二一年七月二十五日にマイリ・フォン・トウルン・ウント・タクジス・ホオエンロオエ夫人に宛てた手紙のなかにそれを Muzotte と発音してくれと書いてあるのだそうである。恐らくそれがその地方特有の呼び方なのであろう。勿論、Muzotte は富士川君も言われるように、仏蘭西式にミュゾットと発音するのだろう。従って私の用いていた「ミュゾオの館」は「ミュゾットの館」と訂正されなければならない。
以上はその館のほんの名称のことだが、富士川君はその名称のことから更に、その前述の手紙の中でリルケがいろいろとその館の構造や由来について詳しく語っている由、まだその手紙を見ていない私に懇切に書いてきてくれたのである。──それによって私はもう一つ訂正して置いた方がいいと思う箇所を発見したが、私はその詩人の愛していた古い館をただ漠然と十三世紀頃のものと書いていたが、その頃から残っているのはその建物の根幹だけで、それから何度も建て直され、現存している天井や家具の多くは十七世紀頃のものらしい。それからリルケがその館のさまざまな歴史を書いているうちに、こんな話があるそうである。
十六世紀の初め頃に、その館に Isabelle de Chevron という娘が住まっていた。その娘は Jean de Montheys という男と結婚した。が、それから一年立つか立たぬうちに、マリニャンの戦いが起り、その夫はそれにはかなく戦死してしまった。若い寡婦になったイザベルは再びミュゾットの館に引き取られた。やがてそのうちに彼女の前に二人の求婚者が現われた。そしてその二人は決闘して、お互いに刺し合って二人とも死んでしまった。その夫の戦死には耐えることの出来たイザベルも、それには耐え得ずして遂に発狂してしまったのであった。そして夜毎にミイエジュにある二人の求婚者の墓まで、薄い衣をまとったまま彼女はさまよって行くのだった。そして或る冬の夜、彼女はその墓場に息絶えていた……
リルケは死ぬとき遺言して、そのイザベル・ド・シュヴロンの眠りを妨げてはいけないから、ミュゾットの近くのその墓地には自分を葬らないようにして貰いたいと言ったといわれる。……リルケの墓のあるラロンが、もう殆どシンプロンにも近い位、ずっとロオヌの谷を遡ったところにあることは、私が前にも書いたとおりである。その墓の写真が、去年の「インゼルシッフ」のクリスマス号に載っていたそうだが、それもまだ私は見る機会を得ていないのである。
底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
1969(昭和44)年11月12日発行
1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
2010年9月14日修正
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