おふくろ
原民喜



わたしはからくりめがねの夢になってしまふたのです

紺の筒袖と色黒ばばさんと

暗いカンテラと

お寺の甃石と

緋の着物に紅繻子の帯を締めた子娘と

さうして五厘の笛と

唐獅子と

わたしはお母さんに抱かれて居たいのです

風船玉が逃げぬやうにぢっと握ってゐたいのです

(銭村五郎)


 前吉は家へ帰って来ると、老眼鏡を懸けて新聞を読んでゐる、おふくろの肩を小突いた。と、力が余って、おふくろは横に倒れさうになった。

「何を無茶するか。」おふくろは一寸怒って前吉の腕を抓った。と、彼は暫く痛いのを我慢してゐたが、急に腕をはづして逆におふくろの腕を抓った。

「これ、痛いよ、お母さんを何と思ふのだ。」と、おふくろは前吉の脛をビシャビシャ叩いて悲鳴をあげる。

「俺だっていてえや。」と前吉はおふくろの頬ぺたに平手打ちを加へる。

 到頭、おふくろは眼鏡をはづして興奮し出した。

「お母さんにむかって何をするのさ、私は心臓が弱いからあんまり怒らすと死ぬるよ。」

 おふくろは形相を変へて眼には涙を滲ませる。

「ババア」

「婆がどうしましたか、こののら息子め、身体ばっかし大きななりして、まるで餓鬼ぢゃないか。」

「ええ、クソババア。」

「おのれ、まだよさぬか。」

 それから暫くは小競合ひが続いてゐたが、不意と前吉は黙って行ってしまふ。

 表に出て近所で煙草を買ふと、四五町さきの喫茶店へ入って、彼は無表情な顔で煙草に火をつける。おふくろはほんとにおこったのかしら……と彼は少しづつ気になる。しかし家へ帰ればまた喧嘩しさうなのですぐには帰れない。前吉はソーダ水をストローでかきまぜて、ぢっと考へ込む。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店

   1966(昭和41)年215日初版発行

入力:蒋龍

校正:伊藤時也

2013年124日作成

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