後光殺人事件
小栗虫太郎



  一、合掌する屍体


 前捜査局長で目下一流の刑事弁護士である法水麟太郎のりみずりんたろうは、招かれた精霊の去る日に、新しい精霊が何故去ったか──を突き究めねばならなかった。と云うのは、七月十六日の朝、普賢山劫楽寺の住職──と云うよりも、絵筆を捨てた堅山画伯と呼ぶ方が著名ポピュラーであろうが──その鴻巣胎龍こうのすたいりゅう氏が奇怪な変死を遂げたと云う旨を、支倉はぜくら検事が電話で伝えたからである。然し、劫楽寺は彼にとって全然未知の場所ではない。法水の友人で、胎龍と並んで木賊とくさ派の双璧と唱われた雫石しずくいし喬村の家が、劫楽寺と恰度垣一重の隣にあって、二階から二つの大池のある風景が眼下に見える。それには、造園技巧がないだけに、却ってもの鄙びた雅致があった。

 小石川清水谷の坂を下ると、左手に樫やはしばみの大樹が欝蒼と繁茂している──その高台が劫楽寺だ。周囲は桜堤と丈余の建仁寺垣に囲まれていて、本堂の裏手には、この寺の名を高からしめている薬師堂がある。胎龍の屍体が発見されたのは、薬師堂の背景をなす杉林に囲まれた、荒廃した堂宇の中であった。

 三尺四方もある大きな敷石が、本堂の横手から始まっていて、薬師堂を卍形に曲り、現場に迄達している。堂は四坪程の広さで、玄白堂と云う篆額てんがくが掛っているが、堂とは名のみのこと、内部なかには板敷もなく、入口にもお定まりの狐格子さえない。そして、残りの三方は分厚な六分板で張り詰められ、それを、二つの大池をつなぐ池溝が、馬蹄形になって取り囲んでいる。更に堂の周囲を説明すると、池溝は右手の池の堰から始まっていて、それが、堂の後方をすぎて馬蹄形の左辺にかかる辺り迄は、両岸が擬山岩の土堤になっている。樹木は堂の周囲にはないが、前方に差し交した杉の大枝が陽を遮っているので、早朝ホンの一刻しか陽が射さず、周囲は苔と湿気とで、深山のような土の匂いがするのだった。

 細かい砂礫を敷き詰めた堂の内部には、蜘蛛の巣と煤が鐘乳石のように垂れ下っていて、奥の暗がりの中に色泥の剥げた伎芸天女の等身像が、それも白い顔だけが、無気味な生々しさで浮き出していた。それに、石垣にあるような大石が、天人像近くに一つ転がっている所は、恰度南北物のト書とでも云った所で、それが何んとも云われぬ鬼気なのであった。

 法水の顔を見ると、支倉はぜくら検事は親し気に目礼したが、その背後から例の野生的な声を張り上げて、捜査局長の熊城くましろ卓吉が、その脂切った短躯をノッシノッシ乗り出して来た。

「いいかね法水君、これが発見当時その儘の状況なんだぜ。それが判ると、僕が態々わざわざ君をお招きした理由に合点が往くだろう」

 法水は努めて冷静を装ってはいたが、流石心中の動揺は覆い隠せなかった。彼は非度く神経的な手附で屍体をいじり始めた。屍体は既に冷却し完全に強直してはいるが、その形状は宛ら怪奇派の空想画である。大石に背をもたせて、両手に珠数をかけて合掌したまま、沈痛な表情で奥の天人像に向って端座しているのだ。年齢は五十五、六、左眼は失明していて、右眼だけをカッとみひらいている。燈芯のような躯の身長が精々五尺あるかなしかだが、白足袋を履き紫襴の袈裟をつけた所には、流石さすが争われぬ貫録があった。創傷は、顱頂骨と前頭骨の縫合部に孔けられている、円い鏨型の刺傷であって、それが非常なおでこであるために、頭顱の略々ほぼ円芯に当っていた。創傷の径は約半センチ、創底は頭蓋腔中に突入していて、周囲の骨には陥没した骨折もなく、砕片も見当らない。創傷を中心に細い朱線を引いて、蜘蛛糸のような裂罅れっかが縫合部を蜒り走っているが、何れも左右の楔状骨に迄達している。そして、流血が腫起した周囲を塗って火山型に盛り上り凝結している所は、宛ら桜実さくらんぼうを載せた氷菓アイスクリームそっくりであるが、それ以外には外傷は勿論血痕一つない。のみならず、着衣にも汚れがなく、襞も着付も整然としている。泥の附着も地面に接した部分にだけで、それも極めて自然であり、堂内には格闘の形跡は愚か、指紋は勿論その他の如何なる痕跡も残されていないのだ。

「どうだい、この屍体は、実に素晴らしい彫刻じゃないか」と熊城が、寧ろ挑戦的な調子で云った。

「何処から何処まで不可解ずくめなんて、ピッタリと君の趣味だぜ」

「なァに、驚く事はないさ。新しい流派イズムの画と云うやつは、とかくこう云ったものなんだよ」法水はやり返して腰を伸ばしたが、「だが、妙だな。この像の右眼だけが、盲目めくらなんだぜ。それに、像だけに埃が付いていないのは、どうしたと云うものだろう」と呟いた。

「それは、被害者の胎龍だけが、繁くこの堂に出入りしていたと云うからね。多分その辺に原因があるに違いないぜ。それから、今朝八時に検屍したのだが、死後十時間以上十二時間と云う鑑定だ。然し、傷口の中に羽蟻が二匹捲き込まれている所を見ると、絶命は八時から九時迄の間と云えるだろう。昨夜はその頃に、羽蟻の猛烈な襲来があったそうだよ」

「すると、兇器は?」

「それがまだ発見みつからんのだ。それから、この日和下駄は被害者が履いていたのだそうだ」

 堂の右端にある敷石から、そこと大石との間を往復している雪駄の跡があって、もう一つその右寄りに、二の字が大石の側迄続いているのだが、日和下駄はそこへ脱ぎ捨てられてある。(前頁の図を参照されたい)その間、検事は日和下駄の歯跡の溝を計っていたが、

「どうも、体重の割に溝が深いと思うが」

「それは暗い中を歩いたからさ。明るい所と違って、兎角体重が掛り勝ちになるからね」と法水は検事の疑念に答えてから、何んと思ったか、巻尺を足跡の辺で縦にすると、それがコロコロ左手に転がって行く。彼はそれを無言の中に眺めていたが、やがて熊城に、「君は、殺人が一体何処で行われたと思うね」と訊ねた。

「歴然たるものじゃないか」熊城は異様な所作に続く法水の奇問に、眼をパチクリさせたが、「とにかく見た通りさ。被害者は日和を脱いで大石に上ってから、やんわり地上に下りたのだ。そして、雪駄を履いた犯人が、背後から兇行を行ったのだよ。然し、屍体の形状を見ると、無論それには、破天荒な機構メカニズムが潜んでいる事だと思うがね」

機構メカニズム」検事は熊城らしくない用語に微笑みかけたが、「ウン、確かにある」と頷いて、「その一部が屍体の合掌さ。あれを見ると、絶命から強直迄の間に、犯人が余程複雑な動作をしたと見なけりゃならん。所が、そんな跡は何処にも見当たらないと来てるんだ」

 法水はそれには別に意見を吐かなかったが、再び屍体を見下ろして頭顱あたまに巻尺を当てた。

「熊城君、帽子の寸法サイズで八インチに近い大頭だよ。六五糎もあるのだ。無論手近の役には立たんけれども、兎角数字と云うやつは、推論の行詰まりを救ってくれる事があるからね」

「そうかも知れない」熊城は珍らしく神妙な合槌を打った。

「場所もあろうに、頭の頂天てっぺんに孔を空けられて、それでいて抵抗も苦悶もした様子がないなんて──。こんな判らずずくめの事件には、ひょっとすると、極くつまらない所に解決点があるのかも判らない。時に君は、手口に何か特徴を発見したかね?」

「たった、これだけのものさ。──尖鋭な鏨様のものが兇器らしいが、それも強打したのではなく、割合脆弱ぜいじゃくな縫合部を狙って、錐揉み状に押し込んだと云うだけだ。所が見た通り、それが即死に等しい効果を挙げているんだ」

 意外な断定に、二人は思わずアッと叫んだが、法水は微笑ほほえみながら註釈を加えた。

「その証拠には、尖鋭な武器で強打した場合だと、周囲に小片の骨折が起るし、創口きずぐちが可成り不規則な線で現われる。所が、この屍体にはそれがない。のみならず、糸のような亀裂の線が楔状骨に迄及んでいるのや、創口が略々ほぼ正確な円をなしているのを見ても、この刺傷が瞬間的な打撃に依るものではなく、相当時間を費して圧し込んだ──と云う事が判るよ。それから、頭蓋の縫合線を狙うと云う──極めて困難な仕事をなし遂げたと云う事も、一応は注目していいと思うね」

「それなら尚更、苦痛の表出がなけりゃならんが」検事は片唾を呑んで法水の言葉を待ったが、その時別人のような声で熊城が遮った。

「所で、君に最後の報告をして置こう」と彼は驚くべき二人胎龍の事実を明らかにしたのである。「信ずる信じないは君の判断に任すとして……。実は細君の柳江が昨夜十時頃に、薬師堂の中で祈念している胎龍の後姿を見たと云うのだがね」

「すると、それが屍体だか犯人の仮装だか、それとも、奇蹟が現われて、被害者がその時まだ生きていたのか……」と法水は、暫く明るい楓の梢を睨んでいたけれども、それには大して信を措かぬもののように、不図別な事を熊城に訊ねた。

「では、昨夜の事情を聴かせて貰おう」

「それは、宵の八時頃に被害者が薬師堂に上って、護摩を焚いたと云うのが始まりで、それなり本堂へ戻って来ず、今朝六時半になって寺男の浪貝久八がこの堂内で屍体を発見したのだ。それに、境内は四の日の薬師の縁日以外には開放されないのだし、建仁寺垣の内側にも、越えたらしい足跡はないし、周囲の家を調べてみても、不審な物音や叫び声は一向に聴かなかったと云う。また、胎龍と云う人物は、歌と宗教関係以外には交渉の少ない人で、怨恨等はてんで外部に想像されない許りでなく、この三月程の間は外出もせず、絶対に人と遇わなかったそうだよ。それでなくても、犯人寺内説を有力に証明しているのは、この雪駄が被害者の所有品だと云う事なんだ」そう云ってから、熊城は大仰な咳払いをして、「だから法水君、鳥渡考えただけでは、僕等は全然、この曲芸的アクロバチックな殺人技巧に征服されているようだ。けれども、その実質となると、たかが五から四を引くだけの、単純な計数問題に過ぎないのだよ」

 法水は真剣な態度で聴いていたが、

「勿論犯人は寺内にある。所で、君はいま、胎龍が三月許り誰にも遇わなかったと云ったね」と尤もらしい歯軋りをして、まるで夢見るように、視線を宙に馳せた。「すると、やはりあれかな。いや断じてそれ以外にはない」

「と云うと、何を考え付いたのだ?」

「大した事じゃないがね。僕は地史学者じゃないが、一つの骨片を発見したのだよ。それで、骨格の全貌だけでも想像付くと云うものさ」

「フム、そうすると」

「と云って、指紋のような直接犯人の特徴を指摘出来るものではない。今も云った通り、屍体の謎を貫いている凄まじい底流なんだ、つまり殺人技巧の純粋理論なんだが、その軌道以外には、この変種が絶対に咲かない事を記憶して欲しいと思うね」

「冗談じゃない」検事は眼を円くした。「僕等の発見は遂に尽きている筈だぜ。そして、流血の形態かたち一つだけでも、兇器の推定が困難な位だ。だがそれより、創傷きずの成因が君の説の通りだとすれば、当然この屍体に、驚愕恐怖苦痛等の表出がなけりゃならんがね」

 法水は検事を凝然じっと見返して、屍体の顔面を指差した。

「その解答がこれさ──つまり、一本の脈線なんだよ。屍体の謎が各自に分裂したものでない感じはしていても、今迄はそれに漠然とした観念しか持てなかったのだ。所が、そう云う不可解現象の象徴シンボルとでも云いたいものがある。顔面にその形体化したものが現われているよ。どうだろう、この表情は聖画等の殉教者特有のものではないだろうかね。先年外遊中に、シスチナ礼拝堂の絵葉書を寄越した君なんぞは、真先にミケランジェロの壁画『最終審判』で、何か憶い出して然るべきなんだぜ。ねえ、絶望と法悦? 確かに悲壮な恍惚状態と云えるじゃないか。そして、それから、僕の仮説セオリーが出発しているのだよ」

「成程」検事が思わず膝を打つと、

「すると、催眠術かね?」と熊城も思わず引き入られたように叫んだ。

「いや、催眠術じゃない。と云うのは、胎龍が三月も人と遇わなかったのでも判る! 当人に気付かれずに施術出来るような術者は、恐らく寺内にはあるまい。無論、数ヵ月前に暗示して置いた後催眠現象が発したのではないかと云う懸念があるけれども、それには、胎龍に豊富な催眠経歴が必要なんだよ」と法水は、まず入念に熊城の疑惑を解いてから、彼の説を語り始めた。

「所で僕の仮説セオリーと云うのは、至極単純な観察から出発している事なんだ。大体君達は、この屍体を見た瞬間に何か触れたものがあった筈だよ。この不可解な無抵抗無苦痛を現わすためには、肉体を殺す前に、まず胎龍の精神作用を殺さねばならない──とは考えなかったかね。然し、そう云う超意識状態を作り出すのは、到底単一な手段では不可能な事だ。第一レトルトや力学の中にも……、勿論脳に剖見上の変化を起させる方法なんて、絶対にあり得るものではない。すると、最後に一つ想像されるのが、心因性の精神障碍を発病させる行程プロセスなんだ。マア空想だと笑わないで呉れ給え。よく考えれば判る事だからね。で、その去勢法なんだが……、それに非常に複雑な組織が必要だと云うのは、胎龍の精神作用を徐々に変型して行った末の最後のものを、兇器の構造とピッタリ符合させなければならないからだよ。つまり、その行程が君の云う機構であって、その結論が僕の云った悲壮な恍惚なんだ。そして、長い道程と日数を費した揚句に、とうとう犯人の破天荒な意図が成功したのだ。さぞその間に、不思議な型の歯車が喰い合ったり、独楽こまのような活塞子ピストンが動いたりした事だろうが……、そうした末に作り出された超意識が、最終の歯車と噛み合って恐怖装置を廻転させたばかりでなく、更に兇行直前の状態を、兇器が下っても中断させなかったのだよ。どうだい熊城君、君はこの理論が判るかね。つまり、この事件を解く鍵と云うのが、二つの装置を結び付ける歯車の構造にあるのだがね。また、その中に、僕等の想像さえも付かないような、不思議な兇器が隠されていると云う訳さ」そう云い終ると、急に法水は力のない吐息をついて、

「だが、そこで問題なのは、絶命と同時に果して強直が起ったかどうかなんだよ。支倉君は強直前に犯人の手が加わったのではないかと云うけれども、僕には強直が同時でないと、屍体の合掌を説明する方法が全く尽きてしまうのだ」

 熊城は晦渋な霧のようなものに打たれて沈黙したが、検事は懐疑的な眼を見据えて、

「それで、僕はあれが気になるんだよ。ホラ、像の頭から右斜かい上に五寸程の所と、左右の板壁に二つと──それを直線で結び付けると恰度屍体の頸筋辺で結び付くんだが──節穴が三つあるだろう。元より作ったものじゃないけれども、あんな所から、非常に単純な仕組で、それでいて効果の素晴らしい、何か弛緩整形装置とでも云いたいものを、犯人は考案したのではないだろうか。勿論現在いまの所では空想に過ぎないのだが、実際もし強直がすぐ起っていなかったとすると、そう云ったものを当然欠いてはならないと思うよ」

「ウン、僕も先刻から気が付いているのだ。おまけに、どの孔の前にも蜘蛛の巣が破れている」法水は鳥渡当惑の色を泛べて云ったが、その顔をクルッと熊城に向けて、

「関係者を訊問して何か収穫があったかね」

「所が、動機らしいものを持った人物が一人もいない始末だが、その代り、どれもこれも、一目で強烈な印象をうける──宛然まるで仮面舞踏会なんだよ。然し、そう云う連中が、神経病患者の行列ではなくて、真実芝居しているのだとすると、その複雑さは君でも到底読み切れまいと思うがね。とにかく訊問してみ給え。恰度今し方、この傷口にピッタリと合う彫刻用の鏨が、同居人の厨川朔郎くりやがわさくおと云う洋画学生の室で発見された所なんだ」

 一同は本堂に向ったが、その途中、瀝青色をした大池の彼方に、裏手の雫石家の二階が倒影している。本堂の左端にある格子扉をあけると、四坪程の土間から黒光りした板敷に続き、次の陰気な茶の間を通って、廻り縁から渡り廊下で連なっているのが、厨川朔郎の室である。

 然し其処には、不似合に大きな柱時計と画布カンバスや洋画道具の外に、蔵書と蓋の蝶番が壊れた携帯蓄音機ポータブルがあるだけで、朔郎はこの室を捜索するために、柳江の書斎に移されていた。柳江の書斎は、茶の間から廻り縁に出ず、左折して廊下を少し行った所のドン詰まりの室で、その塀向うが寺男の浪貝久八の台所になっていて、朔郎の室とは小庭を隔てて平行している。また、その廊下は、廻り縁になる角から幾つもの室の間を貫通して、本堂の僧侶出入口で行詰まっていた。つまりどの室からも直接廊下伝いに来られるのだが、昨日から今日にかけて非常に気温が低いので、障子の間は真冬のように隙がなかった。

 二人の私服に挾まれて、画室アトリエ衣の青年が黙然とたばこを喫らしている。──それが厨川朔郎だった。二十四、五で美術学生らしい頭髪をし、整った貴族的な容貌の青年だが、肩から下には、炭坑夫とも見擬うような、隆々たる肉線が現われていた。

 彼は法水を見ると、莞爾にこっと微笑んで、

「ヤア、漸と助かりましたよ。実は、法水さんの御出馬を千秋の思いで待ち焦がれていた所なんです。全く熊城さんの無茶な推定にはやり切れません。鏨が一本発見された位の事や、僕の室の窓外にある裏木戸から薬師堂の前へ直接出られる位の事で、僕を犯人に擬すると云う始末ですからね。それに、鏨と云われて探してみると、もう一本あったのが何時の間にか紛失しているのですが、それをどんなに述べ立てても、僕を少しも信用してくれないのですからね。では、昨夜の行動を申上げましょうか」と云って、──四時に学校から戻って、それから室でゴーガンの伝記を読んでいて、七時に夕食に呼ばれ、九時頃蒟蒻閻魔の縁日に出掛けて十時過ぎに帰宅したと云う旨を、要領よく述べ立てた。その堂々たる弁説エロキューションと容疑者とは思われぬ明朗さには、一同の度胆を抜くものがあった。

 その間法水は外方そっぽを向いて、この室の異様な装飾を眺めていた。今入った板戸の上の長押には、土蜘蛛に扮した梅幸の大羽子板が掲っていて、振り上げた押絵の右手からは、十本程の銀色の蜘蛛糸が斜に扇形となって拡がって行き、末端を横手の円い柱時計の下にある、格子窓の裾に結び付けてあった。

「ハハァ、鉄輪の俥があった頃の趣味だね」と法水は初めて朔郎に声を掛けた。

「ええ、奥さんと云う方は、古風な大店の御新造ごしんぞさんと云ったタイプの人ですからね。それに、これは去年の暮私が頼まれて作ったのですが、蜘蛛糸は本物の小道具なんですよ」

「すると、君は背景描きをやっているのかい」そう云って法水が端の一本を摘むと、それは、紙芯に銀紙を被せた柔かい紐だった。

 その時窓外からボンと一つ、零時半を報らせる沈んだ音色が聴こえた。それは朔郎の室にふさわしくない豪華な大時計で、昨年故国に去った美校教授ジューベ氏の遺品だった。然し正確な時刻は、格子窓の上にある時計の零時三十二分で、その時計には半を報ずる装置はなかったのである。

 それから、朔郎の饒舌が胎龍夫妻の疎隔に触れて行って、散々夫人の柳江を罵倒してから、最後に頗る興味のある事実を述べた。

「そう云う風に、今年に入って以来の住持の生活は、全く見るも痛々しい位に淋しいものでした。それでこの三月頃には、時々失神した様になって持っていたものを取り落したり、暫く茫然としている事などもありましたし、その頃は妙な夢ばかり見ると云って、僕にこんなのを話した事がありましたっけ。──何んでも、自分の身体の中から侏儒の様な自分が脱け出して行って、慈昶君の面皰にきびを一々丹念に潰して行くのです。そして全部潰し終ると、顔の皮を剥いで大切そうに懐中に入れると云うのですがね。然し、その頃からこの寺に兆とでも云いたい雰囲気が濃くなって行きました。ですから、今度の事件も、その結果当然の自壊作用だと、僕は信じているのですよ。法水さん、その空気は、今にだんだんと分かって来ますがね」


  二、一人二役、──胎龍かそれとも


 朔郎を去らせてから引続きこの室で、柳江、納所僧の空闥と慈昶、寺男の久八──と以上の順で訊問する事になった。褪せた油単で覆うた本間の琴が立て掛けてある床間から、蛞蝓でも出そうな腐朽した木の匂いがする。それが、朔郎の言葉に妙な聯想を起すのだった。

「厨川朔郎と云う男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、疚しい所のない人間と云うものは、鳥渡した悪戯気から、つい芝居をしたくなるものだがね。それに……」

「いや、あの男はもっと他に知っている事があるんだぜ」検事はそう云って法水のりみずの言葉を遮ったが、法水は無雑作に頷いたのみで、

「ねえ熊城君」とたがねを示して、「これは兇器の一部かも知れないが、全部じゃない事だけは明らかだよ。と云って、兇器がどんなものだか、僕には全然見当が附かないのだが」

 それから、彼は窓の障子をあけて、土蜘蛛の押絵をあちこちから眺めすかしていたが、突然いきなり背伸びをして、右眼の膜を剥ぎ取った。

「ホホウ、恐ろしく贅沢なものだな。雲母マイカが使ってある。所が、左眼にはこれがないのだ。どうだね、光ってないだろう」法水がそう云った時に、静かに板戸の開かれる音がした──それが胎龍の妻柳江だった。

 柳江は過去に名声を持つ女流歌人で、先夫の梵語学者鍬辺来吉氏の歿後に、胎龍と再婚したのだった。恰好かたちのいい針魚さよりのような肢体──それを包んだ黒ずくめの中から、白い顔と半襟の水色とがクッキリと浮出ていて、それが、四十女の情熱と反面の冷たい理智を感じさせる。会話は中性的で、被害者の家族特有の同情を強いるような態度がない。寧ろ憎々しい迄に冷静を極めている。法水は丁重に弔意を述べた後で、まず昨夜の行動を訊ねた。

「ハァ、午後からずうっと茶の間に居りましたが、多分七時半頃で御座いましたでしょう。主人が雪駄を突掛けて出て行った様子で御座いましたが、程なく戻って来て、薬師堂で祈祷すると云い、慈昶を連れて出掛けましたのです」

「では、あの雪駄が すると、一端戻って来てから履いたのが日和なんですね」熊城は吃驚びっくりして叫んだ。てっきり犯人の足跡と呑み込んで、深く訊しもしなかった雪駄の跡が住持のものだとすると、一体犯人は、如何なる方法に依って足跡を消したのだろうか? それとも、接近せずに目的を果し得る兇器があったのだろうか? 然し、法水は更に動じた気色を見せなかった。

「ハハハハ熊城君、多分この矛盾は、間もなく判る筈だよ。それから奥さん、その時御主人の様子に、何か平生と変った点があったのをお気付きになりませんでしたか?」

「ハァ、別に最近の主人と変ったような所は御座いませんでしたが、どうした訳か、空闥さんの日和を履いてしまったので御座います。それから十五分程経って、慈昶が戻ったらしい咳払いを聴きましたけれども、空闥さんはその時、本堂脇の室で檀家の者と葬儀の相談をしていた様子で御座いました。主人は二、三日来咽喉を痛めて居りますので、黙祷と見えて読経の声も聴こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、毎夜の例で十時頃に、私が池の方へ散歩に参りました途中、薬師堂の中で見掛けましたのが、最後の姿だったので御座います」

「所が、その時とうに、御主人は玄白堂の中で屍体になってた筈なんですがね」

「それを私にお訊ねになるのは無理で御座いますわ」柳江には全然無反響だった。「決して、虚偽いつわりでも幻覚でも御座いませんのですから」

「すると、扉が開かれていた事になる」熊城が誰にともなしに云った。「慈昶はピッタリ閉めて出たと云うのだがね」

「屹度、護摩の煙が罩もったからだろう」法水は大して気にもせず質問を続けた。「所で、その時何か変った点に気が付きませんでしたか?」

「ただ、護摩の煙が大分薄いな──と思った位の事で、主人は行儀よく坐って居りましたし、他には何処ぞと云って……」

「では、帰りにはどうでした?」

「帰り途は、薬師堂の裏を通りましたので……。それから十一時半頃でしたが、主人の室の方で歩き廻るような物音が致しました。私は、その時戻ったのだと信じて居りましたのですが」

「跫音」法水は強い動悸を感じたような表情をしたが、「然し、寝室の別なのは?」

「それには、この二月以来の主人をお話しなければなりませんが」と柳江は漸と女性らしい抑揚になって、声を慄わせた。「その頃から、何か唯事でない精神的打撃をうけたと見えまして、昼間は絶えず物思いに耽り、夜になると取り止めのない譫言を云うようになりました。そして身体に眼に見えた衰えが現われて参りました。所が、先月に入ると、毎夜のように薬師堂で狂気のような勤行ごんぎょうをするようになったのです。ですから、自然私から遠退いて行くのも無理では御座いませんわ」

「成程……。所で、今度は頗る奇妙な質問ですが、長押にある押絵の左眼は、あれは、とうからないのですか?」

「いいえ」柳江は無雑作に答えた。「一昨日の朝は、確かにあったようでしたけども……。それに、昨日あの室には、誰一人入った者が御座いませんでした」

「有難う、よく判りました。所で」と法水は始めて鋭い訊き方をした。「昨晩十時頃に散歩に出たと云うお話でしたが、昨夜はその頃から曇って、非常に気温が低かったのですよ。確かそれは、散歩だけでなかったのでしょうね」

 その瞬間血の気がサッと引いて、柳江は衝動を耐えているような苦し気な表情をした。所が、法水はどうした訳か、その様子を一瞥しただけで、彼もまた深い吐息をつき、柳江に対する訊問を打ち切ってしまったのであった。

 柳江が去ると、熊城は妙な片笑いを泛べて、

「聴かなくても、君には判っているのだろう」

「サア」法水は曖昧な言葉で濁したが、「然し、似れば似たものさ。勿論偶然の相似だろうが、この顔が実に伎芸天女そっくりだとは思わんかね」

「それより法水君」検事が莨を捨てて坐り直した。「君は何故、押絵の左眼を気にしているんだ?」

 それを聴くと、法水は突然いきなり熊城を促して閾際に連れて行き、板戸を少し開いて云った。

「では、実験をする事にしようかな。昨夜、此の室にっそり侵入したものがあって、その時眼の膜がどうして落ちたかと云う……」

 そして、彼自身がまず閾の上に乗って力を加え、片手で板戸を押したが、板戸は非度い音を立てて軋った。所が、次に熊城を載せると、今度は滑らかに走る。と同時に、押絵を見ていた検事がウーンと唸った。

「どうだい。しきいの下った反動で長押の押絵がガクンと傾いたろう。そのはずみに剥れかかっていた膜が落ちたのだよ。熊城君は十八貫以上もあるだろうが、僕等程度の重量では、戸が軋らずに開く程閾が下らない。つまり、戸を軋らさせずこの室に入る事の出来る者は、熊城君と同量以上──即ち朔郎か或は二人分以上の重量でなければならないのだ」

 二人分──それは犯人と屍体とを意味する。果して一人か二人か? そして、此の室で何事が行われたのだろう? それとも眼膜剥落は、法水の推測とは全然異なる経路に於いて、起されたのではないだろうか? と様々な疑問が、宛ら窒息させん許りの迫力で押し被さって来る。が、その空気は間もなく空闥に依って破られた。この老達な説教師は、摩訶不思議な花火を携えて登場したのであった。

 空闥と云う五十恰好の僧侶には、被害者と略々ほぼ同型の体躯が注目された。僧侶特有の妙にヌラめいた、それでいて何処か図太そうな柔軟ものやわらかさで、巧みな弁舌を弄んで行くけれども、容貌は羅漢宛らの醜怪な相で、しかも人参色の皮膚をしている──その対照が非度く不気味なのだった。彼は問に応じて、──夕食後の七時半から八時頃迄の間は、檀家葛城家の使者と会談し、それから同家に赴いて枕経を上げ、十時過ぎ帰宅したと云う旨を述べ終ると、俄かに襟を正し威圧せん許りな語気になって、この事件の鍵は、俗人には見えぬのりの不思議にある──と云い出した。そして、眼を瞑じ珠数を爪繰って語り出したのは、仄暗い霧の彼方でぼっと燃え上った、異様な鬼火だったのだ。

 ──三月晦日の夜、月が出て間のない八時頃の事だった。突然慈昶と朔郎が駈け込んで来て、玄白堂に妖しい奇蹟が現われたと云うのである。それが、天人像の頭上に月暈の様な浄い後光がさしたとの事なので、ともかく一応は調べる事になり、胎龍と空闥の二人が玄白堂に赴いた。所が、堂の内外には何等異常がない許りか、試みに頭上の節穴から光線を落してみても、髪毛の漆が光るに過ぎない。そして、とうとう不思議現象の儘残ってしまったのだが、その翌日から胎龍の様子がガラリと変って、懐疑と思念に耽るようになったと云うのである。

「然し、朔郎は何んとも云いませんでしたよ」聴き終ると法水は、鳥渡皮肉な質問をした。

「そうでしょう。あの大師外道めは、誰かの念入りな悪戯だと云いますでな。てんで念頭にはありますまい。然し、科学とやらでは、どうして解く事が出来ましょうか。いや、解けぬのが道理なのですじゃよ」

「すると、像の後光はその時だけでしたか」

「いや、その後にもう一度、五月十日にありました。その時見たのは、つい先達せんだって暇をとった福と云う下女でしてな」

「今度のは何時頃でしたか?」

「左様、確か九時十分頃だったと思いますが、恰度その時私は時計の捻子を捲いて居りましたので、時刻は正確に記憶しとりますので」

 次の慈昶は最も他奇のない陳述で終り、一日中外出せず自室に暮していたと云うのみの事だったが、頭蓋がロムブローゾなら振るい付くだろうと思われる様な、一種特異な形状を示していた。法水は慈昶に対する訊問を終えると、胎龍の室に赴いて何やら捜していたが、再び戻って来ると、続いて寺男の浪貝久八を呼ぶように命じた。然し、その──怯々おずおずと入って来る老人を見ると、熊城は法水の耳に何やら囁いた。と云うのは……先刻の訊問中に久八が突然癲癇発作を起したために、夕刻の六時から八時半頃迄寺の台所で立働いていた──と云う以外には、聴き取っていない事と、それから、富裕な質屋のあるじである彼が、何故寺男の生活をしているかと云う理由だった。久八は、永年の神経痛が薬師如来の信仰で癒おったとか云うので、それ以来異常な狂信を抱く様になり、ついぞ此の一月退院するまで、郊外の癲狂院で暮していたのであった。所が、この薬師仏に仕える老人は、一々犯人の足跡を指摘して行った。

「確か十時半頃でしたか、誰が鎖を解いたものか、飼犬の啼き声が池の方でしますのでした。それで、捕えに行こうとして薬師堂の前を通ると、内部なかでは方丈様が御祈祷中らしく、後向きに坐ってお出でになりました」

「なに、君もか」瞬間、思わず三人の視線が合ったけれども、久八は無関心に続けた。

「所が、その時可笑しなものを見ましてな。縁日の晩にしか使わない赤い筒提灯が両脇に吊してありまして、二つ共に灯が入って居りました」

「ホウ、赤い筒提灯が」と法水は衝動的に呟いたが、その下から、眼を挙げて先を促した。

「それから池の畔に行ったのですが、真暗なので犬を深す事が出来ません。それで致し方なく、口笛を鳴らしながら彼此かれこれ三十分近くも蹲んで居りますうちに、向う岸の雫石さんの裏手辺りに誰かいたと見えて、莨の吸殻を池の中へ投げ捨てたのが眼に入りましたので。その癖、寺では莨喫みが儂一人だけで御座いますが」

「では、帰りにも提灯が点いていたかね?」

「いいえ、提灯どころか、扉が閉っていて真暗でしたが」

 それで、関係者の訊問が終了した。久八が去ると、法水はグッタリとなって呟いた。

「成程、動機と云えるものがない。それに、斯う云うダダッ広くて人間の少ない家の中では、元来不在証明アリバイを求めようとするのが、無理な話なんだよ」

「けれども、君の云う、機構メカニズムの一部だけは、判ったじゃないか」と検事が云うと、法水は鳥渡凄味のある微笑を泛べた。

「所が、いま全体の陰画が判ったのだよ。胎龍の心理が、どう云う風に蝕ばまれ変化して行ったかと云う……」

「フム、と云うのは」

「それはこうなんだ。実は、先刻胎龍の室を捜して、僕は手記めいたものを発見したのだ。勿論他には注目するに足る記述はないけれども、夢を書き遺してくれたので、大変に助かったよ。──五月二十一日に、近頃幾晩となく、木の錠前に腰を掛けた夢を見るのはどうした事だろうとある。それから六月十九日に、自分の一つしかない右眼を刳り抜いて、天人像に欠けている左眼の中に入れた──とあるのだよ。所で、僕はフロイトじゃないが、早速この夢判断をする事にした。実にそれが、胎龍の歪められて行く心理を、正確に描写してあるのだ。で、まず最初に、三月頃胎龍に時々起った失神状態と云うのを説明して置くが、それは、性的機能の抑欝から起る麻痺性の疲労なんだ。その証拠が、面皰にきび云々の夢で、それが充たされない性慾に対する願望だと云うのは、面皰を潰した痕が女性性器の象徴シンボルだからだよ。つまり、それに依って、柳江の方で、胎龍から遠ざかって行ったと云う事が判るだろう。それから、次の木の錠前だが、錠前もやはり女性性器を現わしている。然し、木と云う言葉は、結局木像を意味しているのではないだろうか すると、像の不思議な後光に打衝ぶつかって、初老期の禁ぜられた性的願望が、如何なる症状に転化して行ったか──その行程プロセスが明瞭になる。それは、彫像愛好症ピグマリオニズムスなんだよ。そうして、胎龍は精神の転落を続けて行ったのだが、勿論それに伴って、性的機能が衰滅する事は云う迄もない。で、その症状を自覚したのが一転機となって、その後の事が最後の夢なのだ。胎龍が自分の一つしかない眼を刳り抜いて天人像に捧げると云うのは、沙門の身であられもない尊像冒涜の罪業を冒した懲罰として、仏の断罪を願望としたからなんだ。ねえ、ジャネーが云ってるだろう。肉体にうける苦痛を楽しむよりかも、精神上の自己膺懲に快楽を感ずると云う方が、よりも典型的なマゾヒィストだと。そう云う風に非常に変った態だけれども、ともかく一種の奇蹟に対する憧憬とでも云えるものが、胎龍の堕ち込んだ最終の帰結点だったのだよ。すると、今年に入ってから胎龍の心理に起った変化が、此れで判然はっきり説明が付くじゃないか。そして、それが僕の想像する去勢法の行程を辿っているので、その間主要な点には、必ず外部から働き掛けたものがあったに相違ないのだ。だから、もう少し判って来れば、兇器の推定がつくと云う訳さ」

 云い終ると、法水は唖然とした二人を尻目にかけて、悠然と立上った。

「さて、空闥に案内して貰って薬師堂を調べる事にしよう」

 薬師堂の階段を上ると、中央には香の燃滓が山のように堆積している護摩壇があり、その背後が厨子形の帷幕とばりになっている。幕が開け放しになっているので、眼が暗さに慣れるにつれて、中の薬師三尊が、如何にも熱帯人らしい豊かな聖容を現わして来た。中央は坐像の薬師如来、左右の脇侍、日光月光は立像である。薬師三尊の背後は、六尺程の板敷になっていて、その奥の壇上には、聖観音の像と左右に四天王が二体宛載っている。堂内で採集した指紋には、勿論推理を展開せしめるものがなかった。

「何処を見ても、埃がないですね」と法水が、怪訝そうに空闥に云うと、

「縁日の前日が掃除日でして、未だ三日許りしか経ちませんのですから、足型が残ると云う程の埃はありません。その時、此の筒提灯の中も掃除しますので」

 そう云って、空闥が両手に提げて来たのは、伸ばした全長が人間の背丈程もあって、鉄板製の口径が七寸にも及ぶ、真紅の筒提灯が二つ。蝋燭は二つ共に、鉄芯が現われる間際まで燃えていて、其処で消したらしい。法水は、此の提灯から結局何も得る所はなかった。護摩壇前の経机には、右端に般若心経が積み重なっていて、胎龍が唱えたらしい秘密三昧即仏念誦の写本が、中央に拡げられてある。杵鈴を錘に置いて開かれている面と云うのは、「五障百六十心等三重赤色妄執火」と云う一節だった。

「この一巻を始めから唱えていたとすると、此処迄に何分位かかりますね?」

「左様、二、三十分ですかな」と空闥が答えた。

「すると、八時から始めたとして、八時三十分かな」検事が解った様な顔をすると、

「ウン、或は、此処で屍体にしたのを、玄白堂に運び込んだのかも知れない。筒提灯が一つ加わったので、遂々天秤が水平になっちまったよ」と熊城は当惑したように云ったが、その鼻先に、法水は小さな紙包を突き出して、

「これを鑑識課に廻して、顕微鏡検査をして呉れ給え。黒い煤みたいなものなんだが、薬師三尊のうちの、月光の光背にだけ附いていたんだよ」と云ってから、

「赤と赤、火と火!」と小声で、夢見るような呟きをした。

 薬師堂の調査を終ってから池畔に出ると、法水が何時の間にか喬村の許へ使を出したと見えて、一人の刑事が一通の封書を手に戻って来た。それには、走り書で次のような文章が認められてあった。

 ──胎龍君が殺害されたとは実に意外だ。だが、それ以上驚かされたのは、僕が何時の間にか事件中の一人になっていると云う事だ。君は、柳江が僕と結婚するために胎龍君の許を去りたがっている旨を告白したと云う。如何にも、それは事実だ。事実僕は柳江を愛している。そして、二人の関係は去年の暮以来続いているのだが、それが単純な思慕以上には、一歩も踏み出していない事を断って置きたい。勿論昨夜も十時頃だったと思うが、物干から下りて、十分許り池の畔で彼女に遇った。然し、幾ら世事に迂遠な僕でも、密会に均しい場所で誰が莨なんぞ喫うもんか! 以上君の質問にお答えしておく。独身の画描きに確実な不在証明のないと云う事は、万々承知の上だけれども、正直が最善の術策なり──と信ずるが故に……。

 読み終って、法水は悔む様な苦笑をした。

「友情を裏切って、カマをかけて……そして判ったのは、柳江が云えなかったものだけだったよ。態を見ろ法水!」

 それから、彼は独りで池の対岸に行き、水門の堰を調べてから、探し物でもする様な恰好で、俯向きながら歩いていたが、やがて一本の蓮の花を手に戻って来た。

「妙なものを見付けて来たよ」そう云って、花弁をむしり取ると、中には五、六匹の蛭が蠢いていた。

「堰近くにあったのだが、どうだ良い匂いがするだろう。タバヨス木精レセタ蓮と云う熱帯種でね。此の花は夜開いて昼しぼむのだよ。そして、閉じられた花弁の中に蛭がいたとすると、犯人が池の向岸で何をしたか解る筈だがねえ」

「……」検事と熊城は、莨の灰が次第に長くなって行くけれども、遂に答えられなかった。

「判らなければ、僕の方から云おう。犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時附近に水浸しになっていた木精蓮レセタばすの一本があったとしたらどうだろう。勿論血の臭気を慕って蛭が群集する事は云う迄もないが、それから間もなく、犯人は浮遊物を流すために水門の堰板を開いて水を流したのだ。すると、水面が下っただけ、木精蓮は空気中に突出する訳だろう。だから、朝になって花が閉じた時に、残った蛭が花弁に包まれてしまったのだ。だがそれは要するに、偶然現われた現象に過ぎない。堰板を開いた、犯人の真実とする目的と云うのは、玄白堂内の足跡を消すのにあったのだよ」

 ああ法水は、その水流から、何を掴み上げたのだろうか?

「判らなくては困るね。犯人でなくても、誰しも水準の異なった二つの池があれば、それを利用するだろうからね。つまり、此の池の水面を僅か程下げてから、玄白堂の右手にある、池と池溝との間の堰を切ったのだ。すると、池の水が水面の低い池溝の中へ一度に押し出すので、岩の尽きた堂の左側に来ると、ドッと地上に氾濫する。その水勢が地上の細かい砂礫を動かして、堂の左側から胎龍の背後にかけて、そこに残されている足跡を消してしまったのだよ。所が、僕が巻尺を転がして試した通りに、堂内は右手から左手にかけて勾配がついているのだから、雪駄と日和の痕がある辺までは、水が届かない。そして、あの辺は早朝だけ陽差が落ちるので、そうして濡れた跡が、屍体を発見する頃には遂に乾いてしまったのだよ」

「すると、いよいよ胎龍が何処で殺されたのか──判らなくなってしまう」熊城は瞳を据えて唇を噛んだが、検事は濃厚な懐疑を匂わせて、

「だが、犯人は何故莨を喫ったんだろうな。殺人を犯した人間が、誰が見ているかも知れないのに莨を喫うなんて……その心理が僕にはどうしても判らない。それとも、喬村が捜査官の心理を逆に利用しようとしたのかも知れないが、動機らしいものとそれだけでは、どうしても、喬村を縛る気が出ないじゃないか」

 検事は更に語を続ける。

「それから、謎はもう一つある。と云うのが、提灯の奇体な出没さ。十時に柳江が見てなかったものが、十時半には灯が入って下っていた。またそれが、十一時になると姿を消しているのだ。その三段階の出没に、一体どう云う犯人の意図が含まれているのだろう?」

「ウン、全くあれには惑殺されるよ」熊城も暗然となって呟いた。「それ迄僕は、てっきり犯人の変装だと信じていたのだが、あれに打衝って、その考えが根底から崩れてしまったよ。護摩の火の光だけなら、恐らく有効だろうがね。あのように、左右へ提灯を吊すとなると、莨の火と同様正体を曝露する惧れがある。と云って、それを屍体だとする事は、より以上現実に遠い話だからね。大体法水君、君の意見は?」

 然し法水には、何故か生気があった。

「所がねえ、僕は君達と違って、あの提灯を動かさずに観察して見たんだよ。提灯の中の蝋燭の火だけを凝然と瞶めていたのさ。すると、犯人の不思議な殺人方法が、何んとなく判って来るような気がして来たんだ。今に、天人像の後光と筒提灯との光との間に、一体どう云う不思議な機械が廻転していたものか──それが、屹度判る時期が来るに違いないよ。とにかく、今日は此れだけで打ち切って、僕によく考えさせて呉れ給え」

 そうして、事件の第一日は、謎の山積の儘で終ってしまったが、果して熊城は、柳江・喬村・朔郎の三名を拘引したのだった。


  三、二つの後光


 その夜法水のりみずに三つの方面から情報が集まった。一つは法医学教室で──創傷の成因では法水の推定が悉く裏書され、絶命時刻も七時半から九時迄と云うのに変りない事。次は熊城で──朔郎が失ったと云うもう一本の鏨が発見され、その個所が、久八が蹲んでいたと云う場所の直前五メートルの池中だったと云う事。そして最後に、法水が月光の光背から採取した黒い煤様のものが、略々円形をなした鉄粉と松煙であると云う事──それは、鑑識課に依って明らかにされたのであった。所が、翌朝熊城は力のない顔をして法水を訪れた。

「いま朔郎を放免した所なんだよ。彼奴に不在証明アリバイが現われたんだ。朔郎の室の垣向うが、久八の家の台所になっているだろう。八時半頃其処で立ち働いていた久八の孫娘が、朔郎が時計を直している音を聴いたと云うのだ。最初に八時を打たせて、それから半を鳴らせたので、自分の家の時計を見ると、恰度八時三十二分だったと云う。そこで、朔郎を訊して見ると、彼奴あいつ迂闊うっかりしていたと云って、躍り上った始末だ。勿論些細な点に至るまで、ピッタリ符合しているんだ。法水君、昨日朔郎の室の時計が二分おくんでいたのを憶えているだろう。そして、あの様に重い沈んだ音を出す時計と云うのが、寺には一つもないのだからね」

 然し、法水のどんより充血した眼を見ると、夜を徹した思索が如何に凄烈を極めていたか──想像されるのだが、そうして熊城の話を聴き終ると、その眼が俄かに爛々たる光を帯びて来た。

「そうかい。すると、遂々劫楽寺事件の終篇を書ける訳だな。実は、朔郎に不在証明アリバイが出るのを待っていたのだよ。ああ、それを聴いたら急に眠くなって来た。済まないが熊城君、今日は此れで帰ってくれ給え」

 その翌日だった。法水は開演を数日後に控えている、鰕十郎座の舞台裏に姿を現わした。午前中の奈落は人影も疎らで厨川朔郎は白い画室衣を着て、余念なく絵筆を動かしている。その肩口をポンと叩いて、

「やあ、お芽出度う。時に厨川君、君は昨日柱時計を修繕したのかい?」

「何んです? 僕には一向に呑み込めませんがね」朔郎は怪訝な面持で云った。

「でも、あの日から君の時計の時鳴装置が、どんな時刻にも、一つしか打たなくなった筈だがね。それが、今日君の留守中行ってみると、何時の間にか普通の状態に戻っているんだ。しかし、君は恐らく口を噤んでしまうだろうから、僕が代って云う事にしよう」と最初法水は、極めて平静な調子で云い出したのであったが、それにつれて、朔郎の唇に現われた痙攣が次第に度を昂めて行った。

「それには、最初準備行為が必要だったのだよ。君は自分の室の時計に綿様のものをって、時報を鳴らなくした筈だったね。そして、七時前に室を出て、裏木戸から薬師堂へ行ったのだが、それ以前に留守の室の時計と君の手に代るものを、柳江の書斎に作って置いたのだ。所で、君の偽造不在証明を分解しよう。まず柳江の書斎にある柱時計の長針と短針とに、安全剃刀の刃を一定の位置に貼り付けて置いたのだ。それから、時計の右手にある釘に糸を結び付けて、それを斜めに数字盤の円芯の上から、八時三十分以後に刃の合する点を通して、末端を自分の室から携えて行った携帯蓄音機の回転軸に縛り付けたのだ。蓄音機は前以って、扇形に張ってある蜘蛛糸の下へ、適宜な位置で据えてあったのだが、それにも細工がある。君は確か、速度を最緩にして、恰度二廻りで止まる程度に弾条ゼンマイをかけて置いたろう。それから、送音管を外して、それをさかさまに中央の回転軸に縛り付ける。すると、発音器サウンドボックスが俯向くから恰度卍の一本と同じ形になるのだが、それが済むと、愈停止器を動かして回転を始めさせたのだ。勿論それだけでは、糸が盤の回転を許さないのだが、そのうち八時三十分を少し過ぎると、両針に付けられた剃刀の刃が合うから、糸がプツリと切断される。そうして、回転が始まると、発音器サウンドボックスの針受が上の蜘蛛糸を弾いて、あの時計に似た沈んだ音響を立てたのだよ。つまり、最初の回転で八つ、二回目で一つ──それが三十分の報時に当ると云う訳だが、その二回で弾条ゼンマイの命脈が尽きてしまったのだ」

「どうかしてますね貴方は」朔郎は突然引っ痙れた声で笑った。「あんな絹紐から、どうしてそんな音が出ましょう?」

「成程、十本の中で両端の二本宛は単純な絹紐だよ。所が、中の八本は本物の小道具なんだ。土蜘蛛の糸にはもう二十年此の方、電気用の可熔線フューズを芯にして使っている。しかも、その中の一本には極く太目のものを君は芯にしているんだ。だから、最初八つ打ったのだが、七本の細い可熔線フューズはその場で切れてしまって、残った太目の一本だけが、二回目の時に、ボーンと一つ鳴ったって訳さ」

「いや、実に奇抜な趣向です。しかし、一体それは、貴方の独創なのですか」朔郎は膏汗をタラタラ流し、辛くも椅子の背で倒れるのを支えていたが、強いて嘲ける様な表情を作った。

「いや、君の鳥渡した手脱りからだよ。大体、弾条ゼンマイ全部すっかり弛み切れているなんて、使っている蓄音機には絶対にあり得る状態じゃない。君は兇行後に凡ゆるものを原形に戻して置いた許りでなく、故意に自分の口から出さず他人に云わせて、不在証明アリバイを極めて自然な様に見せかけ様としたのだ。だが、たった一つ、弾条ゼンマイを捲いて置くのを忘れたんだよ。僕はあの蜘蛛糸を見た時、此れなら不在証明を作れると直感したのだ。だから、それで不在証明が証明される様だったら、君が犯人だと信じていたのだよ」

「すると、もうそれだけですか?」朔郎は思わず絶望的にのけぞったが、なおも必死の気配を見せた。

「まだある。今度は像の後光だよ。然し、実に巧く月の光線を利用したもんだなア。月夜には頭上にある節穴から、約五分程の間だけ、像の後頭部に光が落ちる。それを知ったので、像に後光が現われた時刻を調べてみると、二回とも、節穴から月光が洩れる刻限に当っているらしい。それで、後光の全貌が判ったのだよ。つまり、最初の夜は、臭化ラジウムと硫化亜鉛とで作った発光塗料を、あらかじめ黒い布帽子に円く点在させておいて、それを像の後頭部に冠せ、その布帽子に長い紐をつけて、紐の末端を敷石の上に置いた鋲に結び付けて置いたのだ。そして、刻限を計って慈昶を誘い出したのだが、月の光が頭上に落ちている間はそれに遮られていたけれども、月の位置が動いて堂が真暗になると、発光塗料が螢光色の光円を作って、凄愴な擬似後光を発光させたのだよ。勿論慈昶は仰天して逃げ出したのだろうが、君は鋲を下駄で踏んでそれを引き摺って駈けながら、途中で取り外して懐中に入れたのだろう。どうだね、厨川君。──それから、兇行の夜になると、今度は胎龍の面前で後光を発光させたのだ、然しその時の順序は、前の二回とは反対で、擬似後光を胎龍の眼に触れるとすぐ、月光で消す様にしたのだったね──確か

 曝露された犯罪者特有の醜い表情は、遂の間に消え失せていて、朔郎の顔は白蝋の仮面さながらだった。

「だが、一体胎龍は、何処でどんな兇器で殺されたのだね? それから、屍体の状態とあの不可解極まる表情は? それ以外にも、此の事件には、数々の謎が含まれているのだが……?」と熊城は、一息入れる隙を法水に与えなかった。

「ウン」ゆったりと唇を濡して、法水の舌が再び動き始めた。

「では、厨川君の計画を最初から述べる事にするから、その中に現われて来るものを、よく注意していてくれ給え。所で此の事件は、三月晦日の天人像の怪異で幕が上るのだが、それ以前に、胎龍の語る夢を精神分析的に解釈して、最初の機会が熟するのを待っていた。そして案の状、投げた骰子さいに目が出たので、次第に、胎龍は、一昨日おととい僕が話した夢判断通りの径路を辿って、一路衰滅の道へ堕ちて行ったのだ。──つまり厨川君は、犯罪としては実に破天荒な、大脳を侵害する組織を作り上げたのだよ。また、胎龍から意識を奪って全く無抵抗にした原因と云うのも、実はそこにある事なんだ」

「………」朔郎は機械人形の様に頷いた。

「そして厨川君は、それ以外の三月余りの間を、絶えず夢を語らせては、その精神分析に依って、胎龍の脳髄中に成長して行く組織の姿を、冷然と見守っていた。と云う所迄が素描デッサンであって、あの日に愈絵筆ブラッシュ画板パレットを持ったのだよ。で、その手始めに、三度天人像に後光を現わしたのだ。胎龍はそれを超自然界からの啓示と信じて、やがて下ろうとする裁きに、畏怖と法悦の外何事も感じなくなってしまった。それが、所謂健否の境界なんだよ──精神の均衡が危くなって、将に片方の錘が転落しようとする。つまり、厨川君の作った組織が、僅か一筋の健全な細胞を残す迄に蝕い尽したのだが、それが表面平素と変らぬ様に見えたけれども、その実胎龍の内心には、空闥の日和下駄を無我夢中で引っ掛けた程に、凄惨な嵐が吹き荒れていたのだ。それから、胎龍は薬師堂に上って護摩を焚き、必死の祈願を込めて薬師如来の断罪を求めたのだ。所がその時、厨川君は薬師仏にも奇蹟を現わしたのだよ。突然如来の光背の辺で、後光が燦いたのだ」

「なに」熊城が思わず莨を取り落すと、

「ああ、貴方は実に怖ろしい人だ!」と呻く様に朔郎が嘆息した。然しながら、法水にとっては、その真相も、一つの事務的な整理に過ぎなかったのであった。

「所が、それが線香花火なんだよ。厨川君は、薬師仏の背後の壇上にある聖観音の首に、鏡をやや下向きに掛けて置き、薬師三尊の中の月光像の背後で、線香花火を燃やしたのだ。すると勿論その松葉火が鏡に映る訳だが、それを胎龍の座所から見ると、護摩の烟で拡大されて、恰度薬師仏の頭上で後光が閃いた様に見えたのだよ。と同時に、強烈な精神凝集コンセントレーションが起ると云う事は、心理学上当然な推移に違いないのだ。今に兜率天から劫火が下って薬師如来の断罪があるだろう──とそう云う疑念を、鋭敏な膜の様に一枚残しただけで、胎龍の精神作用を司どる瀕死の生体組織オルガニズム共が、一斉に作業を停止してしまったのだ。そうして、此の状態は、低い絶え絶えな経声と共に、恐らく数十秒の間続いた事だろう。その間に、厨川君は背後の物蔭に廻って、辛うじて聴き取れる経文の唱句をじいっと耳膜で数えながら、最後の──殺人具を最も効果的にする──或る一節に達するのを待ち構えていた。云う迄もなく、その時胎龍が唱えていた『秘密三昧即仏念誦』──それは、厨川君が平素から熟知していた。大体、経文には火に関する文字が非常に多いのだから、必ずしもそれに限った事はなかっただろうが、その『秘密三昧即仏念誦』は、多分暗誦出来る程に耳慣れがしていたに違いない。それで、線香花火を燃やすに適切な時間なども、予め錯誤せぬよう、目的の一節を基礎に算出する事が出来たのだったよ。所で、愈それが到来すると、俄然胎龍の悲壮な恍惚が絶頂クライマックスに突き上げられ、完全に現実から離脱してしまった。と同時に兇器が下されたのだよ。で、その一節と云うのは、経机の上で開かれていた『五障百六十心等三重赤色妄執火』と云う一句なので、その唱句が終った刹那に、突如胎龍の頭上に赤色妄執火が下ったのだ。と云うのは、背後から厨川君が例の赤い筒提灯を胎龍の頭上に被せて、それを次第に縮めて行ったからだ。胎龍のその時の状態では、てんで識別出来よう道理がない。そして、提灯の縮小につれて、妄執の火が次第に濃くなって行く。勿論胎龍はその刹那に火刑──とでも直感した事だろうが、それを反覆する余裕もなく、ひたすらこの恐怖すべき符合のために、脆弱な脳組織が瞬時に崩壊してしまったのだ。然し、それが超自己催眠とでも云う状態なのか、或は魅惑性精神病発作の最初数分間に現われる、強直性の意識混濁状態だったのか──孰れにしろ、その点は至極分明を欠くけれども………、兎に角斯うして、厨川君の侵害組織は遂に最後のピリオドを打つ事が出来、意識と全感覚の剥奪に成功したのだったよ。つまり、その結果実現された怪屍体の制作が、胎龍の大脳を、厨川君が理論的に歪め変形して行った結論だったのだ」

 それから筒提灯が何をしたか──法水の説明は、最終の截頭機ギロチンに及んで行った。

「そこで厨川君は、珠数の垂れを合掌している両手に絡めて置き、予め鋭利に研ぎ澄まして置いた提灯の鉄芯を顱頂部に当てて、それを渾身の力で押し込んだのだ。しかし胎龍は、焔々たる地獄の業火と菩薩の広大無辺な法力を、ホンの一瞬感じただけで、その儘微動もせず無痛無自覚のうちに死んで行ったのだよ。すると熊城君、その脳組織侵害法が君の所謂機構だったと云う事が判るだろう。それから僕が、その機構と殺人具とを繋ぐ不思議な型の歯車と云ったのが、取りも直さず、あの筒提灯だったのだよ」

「だが、どうしてそれと判ったね?」熊城は溜めていた息をフウッと吐き出して、汗を拭った。

「その一つは、厨川君は線香花火と月光像との間に、何か仕切を置くのを忘れたからだよ。線香花火は硝石と鉄粉と松煙の混合物だからね。そして、鉄粉は松葉火になって空気中に出ると、酸化して角が丸くなってしまうのだ。それから、もう一つは数字的な符合なんだよ。と云うのは、提灯の口金と胎龍の頭蓋との寸法サイズであって、刺傷痕と鉄芯が、双方の円芯に当っているからだ。勿論よく剃りの当った僧侶の頭蓋あたまなら、縫合部の位置に略々見当が附くだろうからね。そして、其処に偶然の一致があるのを、厨川君は発見したのだ。すると、それから考えると同じ事だけれども、喬村君と空闥の体躯が被害者そっくりだったと云う事や、また、柳江と伎芸天女の相似なども、たしかにあれは、自然の悪性な戯れに違いないのだよ。勿論玄白堂の板壁にある三つの孔なんぞも、その念入りの一つに過ぎないのだがね」

「成程」熊城は頷いて、眼で先を促した。

「で、此処迄判れば、屍体が絶命前の強直状態をその儘持続したと云う事が確実になる。事実、珠数の緊縛を解いて重心を定めたので、恰度祈祷中宛然の姿を保つ事が出来たのだ。おまけに、蝋受の皿がペッタリとかぶさったので、流血が略々火山型に凝結してしまったと云う訳なんだよ。さてそれから、薬師堂の扉を開け放して提灯を点し、目撃者を作った事は云う迄もないが、久八が通り過ぎたのを見定めると、今度は胎龍の日和下駄を履いて、坐像の屍体を玄白堂に運び入れたのだ。つまり、支倉君が少し溝が深いと云ったのは、その時の足跡なので、帰りは裸足はだしで石の上から左壁近くに跳び、その足跡をすぐ、池溝の堰を開いて消したのだ。そうして厨川君は、犯行の全部を終ったのだよ」

「成程、それで提灯を灯した理由が判る」

「ウン、あれには、すんでの事で瞞される所だった。全く自然な陰蔽方法だからな」法水はくすぐったそうに苦笑した。

「何しろ、血に染んだ個所と云うのが、鉄芯から蝋受皿の内側にかけてだけだろう。だから、その部分を洗ったにした所で、後で蝋燭を鉄芯の間際迄灯すから、尖鋭な槍先から下の不自然な部分が流れる蝋ですっかり隠されてしまう。併し、それを吊して人目に曝したのは、狡猾な擾乱手段に過ぎないのだ」

「すると、堰を切ったのも厨川だろう」

「そうだ。久八が堂の前を通ると、すぐに灯を消して池の畔へ出たのだ。それは、喬村君と柳江が毎夜会うのを知っていたので、それを利用して、僕等の視線を喬村君に向けようとしたからだ。所で厨川君は、最初に久八の犬の鎖を解いて池畔で放し、その鳴声に依って久八を誘き出してから、今度もまた向う岸で、線香花火を使ったのだよ。前以って血粉を混ぜたのを一本作って置いて、それに点火したのだが、血粉が溶けるので松葉火が出ず、一塊の火団となって池の中へ落ちたのだ。つまり、それが喫い終った莨を捨てたと見た、あの目撃談の正体なんだよ。しかしその時、厨川君は見当を付けて昼間のうち一本水浸しにして置いた、タパヨス木精蓮レセタばすの中へ落したのだよ。そうすると、血の臭気で蛭が集まって来る。そこへ、堰を開いて水面を低下したので、朝になって、残っていた蛭が花弁に包まれてしまったのだ。玄白堂内の足跡を消す以外に、厨川君には斯う云う陰険策があったのさ。多分僕を目標に計画した事なんだろうが、事実僕も、喬村君の影をどうしても払い切れなかったのだ」と云ってから、朔郎に向き直って、「然し、君は何故に喬村君を陥れようとしたのだね。それに胎龍を殺害した動機と云うのは? 幾ら僕でも、君の心中の秘密だけは判らんからね」

 朔郎は、囚われた犯罪者とは到底思われぬような、澄み切った瞳を向け、冷静な言葉で云った。

「僕は父の復讐をしたのです。父は胎龍と年雅塾の同門だったのですが、官展の出品で当選を争った際に、胎龍は卑怯な暗躍をして、父を落選させ自分が当選しました。父はそれを気に病んでから発狂し、一生を癲狂院で終ってしまいました。ですから子たる私は、どうしても眼で眼に酬いてやらねばならなかったのです。それから、喬村には理由はありません。ただ、動機と目される様な行為を続けていたので、それを利用したに過ぎなかったのでした」

 と云い終るが早いか、朔郎は突然身を飜えして、背後にある配電函キャビネットの側に駈け寄った。硝子がパンと砕けると同時に法水は思わず眼をつぶった。閃光が瞼を貫いて、裂く様な叫声を聴いたが、一瞬後の室内は、焦げた毛の臭が漂うのみで、さながら水底の様な静寂しずけさだった。顳顬こめかみに高圧電流をうけて、此の若い復讐者は再び蘇生する事がなかったのである。

底本:「二十世紀鉄仮面」桃源社

   1969(昭和44)年510日発行

入力:酔尻焼猿人

校正:土屋隆

2004年124日作成

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