伯爵の釵
泉鏡花
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一
此のもの語の起つた土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守尚ほ高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱いた、北陸の都である。
一年、激しい旱魃のあつた真夏の事。
……と言ふと忽ち、天に可恐しき入道雲湧き、地に水論の修羅の巷の流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰ではない。
恁る折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、此の土地に七日間の興行して、全市の湧くが如き人気を博した。
極暑の、旱と言ふのに、たとひ如何なる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、──諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥に満々と水を湛へ、蝋燭に灯を点じたのを其の中に立てて目塗をすると、壁を透して煙が裡へ漲つても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。
こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、恰も此の轍だ、と称へて可い。雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇は宛然褥熱に対する氷の如く、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎らして剰余あつた。
膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、挙つて座中の明星と称へられた村井紫玉が、
「まあ……前刻の、あの、小さな児は?」
公園の茶店に、一人静に憩ひながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつゝ、偶と思つた。……
髷も女優巻でなく、故とつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒した意気造。形容に合せて、煙草入も、好みで持つた気組の婀娜。
で、見た処は芸妓の内証歩行と云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても可い風采。
また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇は昨日楽に成つて、座の中には、直ぐに次興行の隣国へ、早く先乗をしたのが多い。が、地方としては、此まで経歴つた其処彼処より、観光に価値する名所が夥い、と聞いて、中二日ばかりの休暇を、紫玉は此の土地に居残つた。そして、旅宿に二人附添つた、玉野、玉江と云ふ女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛も恁うした身には苦にならず、町中を見つゝ漫に来た。
惟ふに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であらう。落人の其ならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度、ハツと隠れ忍んで、微笑み〳〵通ると思へ。
深張の涼傘の影ながら、尚ほ面影は透き、色香は仄めく……心地すれば、誰憚るともなく自然から俯目に俯向く。謙譲の褄はづれは、倨傲の襟より品を備へて、尋常な姿容は調つて、焼地に焦りつく影も、水で描いたやうに涼しくも清爽であつた。
僅少に畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目を睜つて、鯨に乗つて人魚が通ると見たであらう。……素足の白いのが、すら〳〵と黒繻子の上を辷れば、溝の流も清水の音信。
で、真先に志したのは、城の櫓と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈すると云ふ、景勝の公園であつた。
二
公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々に名を呼ばれた茶店がある。
紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、紅い襷で、色白な娘が運んだ、煎茶と煙草盆を袖に控へて、然まで嗜むともない、其の、伊達に持つた煙草入を手にした時、──
「……あれは女の児だつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。」
──と思ひ出したのは其である。──
で、華奢造りの黄金煙管で、余り馴れない、些と覚束ない手つきして、青磁色の手つきの瀬戸火鉢を探りながら、
「……帽子を……被つて居たとすれば、男の児だらうが、青い鉢巻だつけ。……麦藁に巻いた切だつたらうか、其ともリボンか知ら。色は判然覚えて居るけど、……お待ちよ、──と恁うだから。……」
取つて着けたやうな喫み方だから、見ると、もの〳〵しいまでに、打傾いて一口吸つて、
「……年紀は、然うさね、七歳か六歳ぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては些と綺麗過ぎるから女の児──だとリボンだね。──青いリボン。……幼稚くたつて緋と限りもしないわね。では、矢張り女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……尤もおさげに結つてれば……だけど、其処までは気が付かない。……」
大通りは一筋だが、道に迷ふのも一興で、其処ともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から瓜、茄子の畠の覗かれる、荒れ寂れた邸町を一人で通つて、まるつ切人に行合はず。白熱した日盛に、よくも羽が焦げないと思ふ、白い蝶々の、不意にスツと来て、飜々と擦違ふのを、吃驚した顔をして見送つて、そして莞爾……したり……然うした時は象牙骨の扇で一寸招いて見たり。……土塀の崩屋根を仰いで血のやうな百日紅の咲満ちた枝を、涼傘の尖で擽ぐる、と堪らない。とぶる〳〵ゆさ〳〵と行るのに、「御免なさい。」と言つて見たり。石垣の草蒸に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むく〳〵と動出しさうなのに、「あれ。」と飛退いたり。取留めのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。
低い山かと見た、樹立の繁つた高い公園の下へ出ると、坂の上り口に社があつた。
宮も大きく、境内も広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、拝殿の裏崕には鬱々たる其の公園の森を負ひながら、広前は一面、真空なる太陽に、礫の影一つなく、唯白紙を敷詰めた光景なのが、日射に、やゝ黄んで、渺として、何処から散つたか、百日紅の二三点。
……覗くと、静まり返つた正面の階の傍に、紅の手綱、朱の鞍置いた、つくりものの自の神馬が寂寞として一頭立つ。横に公園へ上る坂は、見透しに成つて居たから、涼傘のまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……其処に屋根囲した、大なる石の御手洗があつて、青き竜頭から湛へた水は、且つすら〳〵と玉を乱して、颯と簾に噴溢れる。其手水鉢の周囲に、唯一人……其の稚児が居たのであつた。
が、炎天、人影も絶えた折から、父母の昼寝の夢を抜出した、神官の児であらうと紫玉は視た。ちら〳〵廻りつゝ、廻りつゝ、彼方此方する。……
唯、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、宛然、石に刻んだ形が、噴溢れる水の影に誘はれて、すら〳〵と動くやうな。……と視るうちに、稚児は伸上り、伸上つては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。──
紫玉はズツと寄つた。稚児は最う涼傘の陰に入つたのである。
「一寸……何をして居るの。」
「水が欲しいの。」
と、あどけなく言つた。
あゝ、其がため足場を取つては、取替へては、手を伸ばす、が爪立つても、青い巾を巻いた、其の振分髪、まろが丈は……筒井筒其の半にも届くまい。
三
其の御手洗の高い縁に乗つて居る柄杓を、取りたい、と又稚児が然う言つた。
紫玉は思はず微笑んで、
「あら、恁うすれば仔細はないよ。」
と、半身を斜めにして、溢れかゝる水の一筋を、玉の雫に、颯と散らして、赤く燃ゆるやうな唇に請けた。ちやうど渇いても居たし、水の潔い事を見たのは言ふまでもない。
「ねえ、お前。」
稚児が仰いで、熟と紫玉を視て、
「手を浄める水だもの。」
直接に吻を接るのは不作法だ、と咎めたやうに聞えたのである。
劇壇の女王は、気色した。
「いやにお茶がつてるよ、生意気な。」と、軽く其の頭を掌で叩き放しに、衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、扨てやがて此の茶屋に憩つたのであつた。──
今思ふと、手を触れた稚児の頭も、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、幾干か茫としたものかも知れない。
「娘さん、町から、此の坂を上る処に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言ふ、お社です。」
「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答へた。
「何神様が祭つてあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい傍に、蓮池に向いて、(じんべ)と言ふ膝ぎりの帷子で、眼鏡の下に内職らしい網をすいて居る半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、其から向直つて、丁寧に辞儀をして、
「えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばお司りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替へて上げぬかい。」
紫玉は我知らず衣紋が締つた。……称へかたは相応はぬにもせよ、拙な山水画の裡の隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。
心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜も扮した、劇中女主人公の王妃なる、玉の鳳凰の如きが掲げてあつた。
「そして、……」
声も朗かに、且つ慎ましく、
「竜神だと、女神ですか、男神ですか。」
「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、恰も此の問を待構へたやうに、
「其の儀は、とかくに申しまするが、如何か、孰れとも相分りませぬ。此の公園のづツと奥に、真暗な巌窟の中に、一ヶ処清水の湧く井戸がござります。古色の夥しい青銅の竜が蟠つて、井桁に蓋をして居りまして、金網を張り、みだりに近づいては成りませぬが、霊沢金水と申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、貴方様が御意の浦安神社は、其の前殿と申す事でござります。御参詣を遊ばしましたか。」
「あ、否。」と言つたが、すぐ又稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。
森々たる日中の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの槐榎の暗い影が樅楓を薄く交へて、藍緑の流に群青の瀬のある如き、たら〳〵上りの径がある。滝かと思ふ蝉時雨。光る雨、輝く木の葉、此の炎天の下蔭は、恰も稲妻に籠る穴に似て、もの凄いまで寂寞した。
木下闇、其の横径の中途に、空屋かと思ふ、廂の朽ちた、誰も居ない店がある……
四
鎖してはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出て些とは客が寄らうも知れぬ。店一杯に雛壇のやうな台を置いて、最ど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の附元に、流星の髑髏、乾びた蛾に似たものを、点々並べたのは的である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の機関とは一目視て紫玉にも分つた。
実は──吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の廂合の幕から倒にぶら下り、見越入道は誂へた穴からヌツと出る。雪女は拵への黒塀に薄り立ち、産女鳥は石地蔵と並んで悄乎彳む。一ツ目小僧の豆腐買は、流灌頂の野川の縁を、大笠を俯向けて、跣足でちよこ〳〵と巧みに歩行くなど、仕掛ものに成つて居る。……如何はしいが、生霊と札の立つた就中小さな的に吹当てると、床板がぐわらりと転覆つて、大松蕈を抱いた緋の褌のおかめが、とんぼ返りをして莞爾と飛出す、途端に、四方へ引張つた綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉にぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其で市が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ歩行く波張が切々に、藪畳は打倒れ、飾の石地蔵は仰向けに反つて、視た処、ものあはれなまで寂れて居た。
──其の軒の土間に、背後むきに蹲んだ僧形のものがある。坊主であらう。墨染の麻の法衣の破れ〳〵な形で、鬱金も最う鼠に汚れた布に──すぐ、分つたが、──三味線を一挺、盲目の琵琶背負に背負つて居る、漂泊ふ門附の類であらう。
何をか働く。人目を避けて、蹲つて、虱を捻るか、瘡を掻くか、弁当を使ふとも、掃溜を探した干魚の骨を舐るに過ぎまい。乞食のやうに薄汚い。
紫玉は敗竄した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息を漏らした。且つあはれみ、且つ可忌しがつたのである。
灰吹に薄い唾した。
此の世盛りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴るが如き影に、框も自然から浮いて高い処に、色も濡々と水際立つ、紫陽花の花の姿を撓わに置きつゝ、翡翠、紅玉、真珠など、指環を三つ四つ嵌めた白い指をツト挙げて、鬢の後毛を掻いた次手に、白金の高彫の、翼に金剛石を鏤め、目には血膸玉、嘴と爪に緑宝玉の象嵌した、白く輝く鸚鵡の釵──何某の伯爵が心を籠めた贈ものとて、人は知つて、(伯爵)と称ふる其の釵を抜いて、脚を返して、喫掛けた火皿の脂を浚つた。……伊達の煙管は、煙を吸ふより、手すさみの科が多い慣習である。
三味線背負つた乞食坊主が、引掻くやうにもぞ〳〵と肩を揺ると、一眼ひたと盲ひた、眇の青ぶくれの面を向けて、恁う、引傾つて、熟と紫玉の其の状を視ると、肩を抽いた杖の尖が、一度胸へ引込んで、前屈みに、よたりと立つた。
杖を径に突立て〳〵、辿々しく下闇を蠢いて下りて、城の方へ去るかと思へば、のろく後退をしながら、茶店に向つて、吻と、立直つて一息吐く。
紫玉の眉の顰む時、五間ばかり軒を離れた、其処で早や、此方へぐつたりと叩頭をする。
知らない振して、目をそらして、紫玉が釵に俯向いた。が、濃い睫毛の重く成るまで、坊主の影は近いたのである。
「太夫様。」
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前の土間に、両膝を折つて居た。
「…………」
「お願でござります。……お慈悲ぢや、お慈悲、お慈悲。」
仮初に置いた涼傘が、襤褸法衣の袖に触れさうなので、密と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘に目を遣つた。
立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘も静に視て居る。
五
少時すると、此の旱に水は涸れたが、碧緑の葉の深く繁れる中なる、緋葉の滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池の汀を歩行いて居た。こゝに別に滝の四阿と称ふるのがあつて、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸を鎖さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事に成る。紫玉はあの、吹矢の径から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣りに翳しながら、袖を柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処で抜いた白金の鸚鵡の釵、其の翼を一寸抓んで、晃乎とぶら下げて居るのであるが。
仔細は希有な、……
坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願と言ふのが金でも米でもない。施与には違ひなけれど、変な事には「お禁厭をして遣はされい。虫歯が疚いて堪へ難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状に掌で抱へて、首を引傾けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰れて居る。其の目からも、ぶよ〳〵とした唇からも、汚い液が垂れさうな塩梅。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たれうとても、恁までの苦悩はございますまいぞ、お情ぢや、禁厭うて遣はされ。」で、禁厭とは別儀でない。──其の紫玉が手にした白金の釵を、歯のうろへ挿入て欲しいのだと言ふ。
「太夫様お手づから。……竜と蛞蝓ほど違ひましても、生あるうちは私ぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明に照らされますだけでも、此の疚痛は忘られませう。」と、はツはツと息を吐く。……
既に、何人であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所謂禁厭の断り悪さは、金銭の無心をされたのと同じ事──但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴女様の膚の移香、脈の響をお釵から伝へ受けたいのでござります。貴方様の御血脈、其が禁厭に成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は止む事を得ず、手に持添へつつ、釵の脚を挿入れた。
喘ぐわ、舐るわ! 鼻息がむツと掛る。堪らず袖を巻いて唇を蔽ひながら、勢ひ釵とともに、やゝ白やかな手の伸びるのが、雪白なる鵞鳥の七宝の瓔珞を掛けた風情なのを、無性髯で、チユツパと啜込むやうに、坊主は犬蹲に成つて、頤でうけて、どろりと嘗め込む。
唯、紫玉の手には、づぶ〳〵と響いて、腐れた瓜を突刺す気味合。
指環は緑紅の結晶したる玉の如き虹である。眩しかつたらう。坊主は開いた目も閉ぢて、懵とした顔色で、しつきりもなしに、だら〳〵と涎を垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」──
不思議な光景は、美しき女が、針の尖で怪しき魔を操る、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸を殺して固唾を飲んだ。
……「あゝ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がつくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪尖を頂く真似して、「恁やうに穢いものなれば、くど〳〵お礼など申して、お身近は却つてお目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻ぢるやうに杖で立つて、
「お有難や、お有難や。あゝ、苦を忘れて腑が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨いで、蹌踉状に振向いて、「あの、其のお釵に……」──「え。」と紫玉が鸚鵡を視る時、「歯くさが着いては居りませぬか。恐縮や。……えひゝ。」とニヤリとして、
「ちやつとお拭きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙を、余儀なく一寸逡巡つた。
同時に、あらぬ方に蒼と面を背けた。
六
紫玉は待兼ねたやうに懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径へ行きましたか、坊主は、と訊いた。父も娘も、へい、と言つて、大方然うだらうと言ふ。──最う影もなかつたのである。父娘は唯、紫玉の挙動にのみ気を奪られて居たらう。……此の辺を歩行く門附見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足で居ました、と言つたので、旅から紛込んだものか、其も分らぬ。
と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々眉を顰めた。抜いて持つた釵、鬢摺れに髪に返さうとすると、呀、する毎に、手の撓ふにさへ、得も言はれない、異な、変な、悪臭い、堪らない、臭気がしたのであるから。
城は公園を出る方で、其処にも影がないとすると、吹矢の道を上つたに相違ない。で、後へ続くには堪へられぬ。
其処で滝の道を訊いて──此処へ来た。──
泉殿に擬へた、飛々の亭の孰れかに、邯鄲の石の手水鉢、名品、と教へられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。何の座敷も寂寞して人気勢もなかつた。
御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひら〳〵と一つ、葉ばかりの燕子花を伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍遙した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。
すべて旧藩侯の庭園だ、と言ふにつけても、贈主なる貴公子の面影さへ浮ぶ、伯爵の鸚鵡を何とせう。
霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追ふやう、立処に坊主の虫歯を癒したは然ることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝つて、袖にも移りさうに思はれる。
紫玉は、樹の下に涼傘を畳んで、滝を斜めに視つゝ、池の縁に低く居た。
滝は、旱に爾く骨なりと雖も、巌には苔蒸し、壺は森を被いで蒼い。然も巌がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄じく響くのは、大樋を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠に灌ぐと聞く、戦国の余残ださうである。
紫玉は釵を洗つた。……艶なる女優の心を得た池の面は、萌黄の薄絹の如く波を伸べつゝ拭つて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に挿さうとすると、些と離したくらゐでは、耳の辺へも寄せられぬ。鼻を衝いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
雫を切ると、雫まで芬と臭ふ。たとへば貴重なる香水の薫の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言ひやうのない悪臭が蒸れ掛るやうに思はれたので。……
「えゝ。」
紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振振つた。
「ぬしにお成りよ。」
白金の羽の散る状に、ちら〳〵と映ると、釵は滝壺に真蒼な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽よ。卿は熱帯の鬱林に放たれずして、山地の碧潭に謫されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の獲ものに競ふか、静なる池の面に、眠れる魚の如く縦横に横はつた、樹の枝々の影は、尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、一時に皆揺動いた。
此に悚然とした状に、一度すぼめた袖を、はら〳〵と翼の如く搏いたのは、紫玉が、可厭しき移香を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、尚ほ且つ飜々とふるひながら、衝と飛退くやうに、滝の下行く桟道の橋に退いた。
石の反橋である。巌と石の、いづれにも累れる牡丹の花の如きを、左右に築き上げた、銘を石橋と言ふ、反橋の石の真中に立つて、吻と一息した紫玉は、此の時、すらりと、脊も心も高かつた。
七
明眸の左右に樹立が分れて、一条の大道、炎天の下に展けつゝ、日盛の町の大路が望まれて、煉瓦造の避雷針、古い白壁、寺の塔など睫を擽る中に、行交ふ人は点々と蝙蝠の如く、電車は光りながら山椒魚の這ふのに似て居る。
忘れもしない、眼界の其の突当りが、昨夜まで、我あればこそ、電燭の宛然水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
あゝ、一翳の雲もないのに、緑紫紅の旗の影が、ぱつと空を蔽ふまで、花やかに目に飜つた、唯見ると颯と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の種々の影に映つた。
蓋し劇場に向つて、高く翳した手の指環の、玉の矜の幻影である。
紫玉は、瞳を返して、華奢な指を、俯向いて視つゝ莞爾した。
そして、すら〳〵と石橋を前方へ渡つた。それから、森を通る、姿は翠に青ずむまで、静に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ重つた不意の出来事に、心の騒いだのは争はれない。……涼傘を置忘れたもの。……
森を高く抜けると、三国見霽しの一面の広場に成る。赫と射る日に、手廂して恁う視むれば、松、桜、梅いろ〳〵樹の状、枝の振の、各自名ある神仙の形を映すのみ。幸ひに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。又……人の往来ふさへ殆どない。
一処、大池があつて、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るやうに目に留つた。
真白な顔が、揃つて此方を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
一人が最う、空気草履の、媚かしい褄捌きで駆けて来る、目鼻は玉江。……最う一人は玉野であつた。
紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な処で、と言ひたいわね。見ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を悪戯をして居るの、お前さんたち。」
と連立つて寄る、汀に居た玉野の手には、船首へ掛けつゝ棹があつた。
舷は藍、萌黄の翼で、頭にも尾にも紅を塗つた、鷁首の船の屋形造。玩具のやうだが四五人は乗れるであらう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩に庵の見える、船主の料理屋には最う交渉済で、二人は慰みに、此から漕出さうとする処だつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから仔細ない。但、一ヶ所底の知れない深水の穴がある。竜の口と称へて、此処から下の滝の伏樋に通ずるよし言伝へる、……危くはないけれど、其処だけは除けたが可からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して仕誼を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、彼処ですわ。」と玉野が指す、大池を艮の方へ寄る処に、板を浮かせて、小さな御幣が立つて居た。真中の築洲に鶴ヶ島と言ふのが見えて、祠に竜神を祠ると聞く。……鷁首の船は、其の島へ志すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
「乗らうかね。」
と紫玉は最う褄を巻くやうに、爪尖を揃へながら、
「でも何だか。」
「あら、何故ですえ。」
「御幣まで立つて警戒をした処があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「否、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言つて立てたんださうですの、此の旱ですから。」
八
岸をトンと盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより巧に棹さす。大池は静である。舷の朱欄干に、指を組んで、頬杖ついた、紫玉の胡粉のやうな肱の下に、萌黄に藍を交へた鳥の翼の揺るゝのが、其処にばかり美しい波の立つ風情に見えつゝ、船はする〳〵と滑つて、鶴ヶ島をさして滑かに浮いて行く。
然までの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらゐな間で、島へは棹の数百ばかりはあらう。
玉野は上手を遣る。
さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれて何処ともなしに波紋が起つた、其の所為であらう。あの底知らずの竜の口とか、日射も其処ばかりはものの朦朧として淀むあたりに、──微との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直に立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を転へて、夢のやうに一寸二寸づゝ動きはじめた。
凝と、……視るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつゝ、其の円い線の合する処で、又スースーと、一寸二寸づゝ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣は遙に、不思議に、段々汀を隔るのが心細いやうで、気も浮かりと、紫玉は、便少ない心持がした。
「大丈夫かい、彼処は渦を巻いて居るやうだがね。」
欄干に頬杖したまゝ、紫玉は御幣を凝視めながら言つた。
「詰りませんわ、少し渦でも巻かなけりや、余り静で、橋の上を這つてゐるやうですもの、」
とお転婆の玉江が洒落でもないらしく、
「玉野さん、船を彼方へ遣つて見ないか?……」
紫玉が圧へて、
「不可いよ。」
「否、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を敲けば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が然う言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。
成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、納涼ながら酒宴をする時、母屋から料理を運ぶ通船である。
玉野さへ興に乗つたらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だつて、こんな池で助船でも呼んで覧たが可い、飛んだお笑ひ草で末代までの恥辱ぢやあないか。あれお止しよ。」
と言ふのに、──逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木ほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面にぴたりとついたと思ふと、罔竜の頭、絵ける鬼火の如き一条の脈が、竜の口からむくりと湧いて、水を一文字に、射て疾く、船に近づくと斉しく、波はざツと鳴つた。
女優の船頭は棹を落した。
あれ〳〵、其の波頭が忽ち船底を噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽り、其の形に煽るや否や、人の立つ如く、空へ大なる魚が飛んだ。
瞬間、島の青柳に銀の影が、パツと映して、魚は紫立つたる鱗を、冴えた金色に輝かしつゝ颯と刎ねたのが、飜然と宙を躍つて、船の中へ堂と落ちた。其時、水がドブンと鳴つた。
舳と艫へ、二人はアツと飛退いた。紫玉は欄干に縋つて身を転はす。
落ちつゝ胴の間で、一刎、刎ねると、其のはずみに、船も動いた。──見事な魚である。
「お嬢様!」
「鯉、鯉、あら、鯉だ。」
と玉江が夢中で手を敲いた。
此の大なる鯉が、尾鰭を曳いた、波の引返すのが棄てた棹を攫つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ〳〵と流れて行く。
九
「……太夫様……太夫様。」
偶と紫玉は、宵闇の森の下道で真暗な大樹巨木の梢を仰いだ。……思ひ掛けず空から呼掛けたやうに聞えたのである。
「一寸燈を、……」
玉野がぶら下げた料理屋の提灯を留めさせて、さし交す枝を透かしつゝ、──何事と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視て居るから、
「まあ、そんな処から。」
「然うだねえ。」
紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、髷に手を遣つて、釵に指を触れた。──指を触れた釵は鸚鵡である。
「此が呼んだのか知ら。」
と微酔の目元を花やかに莞爾すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭ですよ。」
と仰山に二人が怯えた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を怯しては不可い。滝壺へ投沈めた同じ白金の釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰つて、立ちながら操るのだが、馴れたもので、あとを二押三押、屋形船へ来ると、由を聞き、魚を視て、「まあ、」と目を睜つた切、慌しく引返した。が、間もあらせず、今度は印半纏を被た若いものに船を操らせて、亭主らしい年配な法体したのが漕ぎつけて、「これは〳〵太夫様。」亭主も逸時く其を知つて居て、恭しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引かけて居たが、扨て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛りませう。」とて、……及び腰に覗いて魂消て居る若衆に目配せで頷せて、「恁やうな大魚、然も出世魚と申す鯉魚の、お船へ飛込みましたと言ふは、類希な不思議な祥瑞。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、恁やうな心嬉しい事はござりませぬ。尚ほ恁くの通りの旱魃、市内は素より近郷隣国、唯炎の中に悶えまする時、希有の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣草木に到るまでも、雨に蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の利益、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝ひに、此の鯉魚を肴に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げたう存じまする。先づ風情はなくとも、あの島影にお船を繋ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着の法然頭は、最う屋形船の方へ腰を据ゑた。
若衆に取寄せさせた、調度を控へて、島の柳に纜つた頃は、然うでもない、汀の人立を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑にはいたしますまい。略儀ながら不束な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直つて真魚箸を構へた。
──釵は鯉の腹を光つて出た。──竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡である。
「太夫様──太夫様。」
ものを言はうも知れない。──
とばかりで、二声聞いたやうに思つただけで、何の気勢もしない。
風も囁かず、公園の暗夜は寂しかつた。
「太夫様。」
「太夫様。」
うつかり釵を、又おさへて、
「可厭だ、今度はお前さんたちかい。」
十
──水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺の白鷺池、
じんじやうきよゆうにすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しく清むとかや。
「お待ち。」
紫玉は耳を澄した。道の露芝、曲水の汀にして、さら〳〵と音する流の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、微に唄ふ声がする。
「──坊さんではないか知ら……」
紫玉は胸が轟いた。
あの漂白の芸人は、鯉魚の神秘を視た紫玉の身には、最早や、うみ汁の如く、唾、涎の臭い乞食坊主のみではなかつたのである。
「……あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思ふ時、掻消えるやうに音が留んで、ひた〳〵と小石を潜つて響く水は、忍ぶ跫音のやうに聞える。
紫玉は立留まつた。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
──日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿こと〴〵しや、何処にて舞ひて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳百日の旱の候ひけるに、賀茂川、桂川、水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、──
聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
──有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給ふべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、其験もなかりけり。又或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、──
「御坊様。」
今は疑ふべき心も失せて、御坊様、と呼びつゝ、紫玉が暗中を透して、声する方に、縋るやうに寄ると思ふと、
「燈を消せ。」
と、蕭びたが力ある声して言つた。
「提灯を……」
「は、」と、返事と息を、はツはツとはずませながら、一度消損ねて、慌しげに吹消した。玉野の手は震へて居た。
──百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり。静一人舞ひたりとても、竜神示現あるべきか。内侍所に召されて、禄おもきものにて候にと申したりければ、とても人数なれば、唯舞はせよと仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と言ふ白拍子を、──
燈を消すと、あたりが却つて朦朧と、薄く鼠色に仄めく向うに、石の反橋の欄干に、僧形の墨の法衣、灰色に成つて、蹲るか、と視れば欄干に胡坐掻いて唄ふ。
橋は心覚えのある石橋の巌組である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くだう〳〵と鳴つて、風の如くに響くが、掠れるほどの糸の音も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしや〳〵と折つて、坊主頭を、がく、と俯向けて唄ふので、頸を抽いた転軫に掛る手つきは、鬼が角を弾くと言はば厳めしい、寧ろ黒猫が居て顔を洗ふと言ふのに適する。
──なから舞ひたりしに、御輿の嶽、愛宕山の方より黒雲俄に出来て、洛中にかゝると見えければ、──
と唄ふ。……紫玉は腰を折つて地に低く居て、弟子は、其の背後に蹲んだ。
──八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、扨こそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給りけると、承り候。──
時に唄を留めて黙つた。
「太夫様。」
余り尋常な、ものいひだつたが、
「は、」と、呼吸をひいて答へた紫玉の、身動ぎに、帯がキと擦れて鳴つたほど、深く身に響いて聞いたのである。
「癩坊主が、ねだり言を肯うて、千金の釵を棄てられた。其の心操に感じて、些細ながら、礼心に密と内証の事を申す。貴女、雨乞をなさるが可い。──天の時、地の利、人の和、まさしく時節ぢや。──こゝの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴、練衣、烏帽子、狩衣、白拍子の姿が可からう。衆人めぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高く顕し、大空に向つて拝をされい。祭文にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣り、雷を放ち、雨を漲らすは、明午を過ぎて申の上刻に分毫も相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰嶽を重ねて爛れた奥に、白蓮の花、玉の掌ほどに白く聳えたのは、四時に雪を頂いて幾万年の白山ぢや。貴女、時を計つて、其の鸚鵡の釵を抜いて、山の其方に向つて翳すを合図に、雲は竜の如く湧いて出よう。──尚ほ其の上に、可いか、名を挙げられい。……」
──賢人の釣を垂れしは、
厳陵瀬の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧の水とかや。──……
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒く成つて人が湧いた。煉瓦を羽蟻で包んだやうな凄じい群集である。
かりに、鎌倉殿として置かう。此の……県に成上の豪族、色好みの男爵で、面構も風采も巨頭公に良似たのが、劇興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を贔屓した、既に昨夜も或処で一所に成る約束があつた。其の間の時間を、紫玉は微行したのである。が、思ひも掛けない出来事のために、大分の隙入をしたものの、船に飛んだ鯉は、其のよしを言づけて初穂と言ふのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使を走らせたほどなのであつた。──
車の通ずる処までは、最う自動車が来て待つて居て、やがて、相会すると、或時間までは附添つて差支へない女弟子の口から、真先に予言者の不思議が漏れた。
一議に及ばぬ。
其の夜のうちに、池の島へ足代を組んで、朝は早や法壇が調つた。無論、略式である。
県社の神官に、故実の詳しいのがあつて、神燈を調へ、供饌を捧げた。
島には鎌倉殿の定紋ついた帷幕を引繞らして、威儀を正した夥多の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。
あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき立女形に対して目触りだ、と逸早く取退けさせ、樹立さしいでて蔭ある水に、例の鷁首の船を泛べて、半ば紫の幕を絞つた裡には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて籠つた。──雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶人の奏楽一順して、ヒユウと簫の音の虚空に響く時、柳の葉にちら〳〵と緋の袴がかゝつた。
群集は波を揉んで動揺を打つた。
あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、階に劃られて、二条の紅の霞を曳きつゝ、上紫に下萌黄なる、蝶鳥の刺繍の狩衣は、緑に透き、葉に靡いて、柳の中を、する〳〵と、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の燈の影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天女が斜に流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
烏帽子もともに此の装束は、織ものの模範、美術の表品、源平時代の参考として、嘗て博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什物であつた。
扨て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために記すべき振事は更にない。渠は学校出の女優である。
が、姿は天より天降つた妙に艶なる乙女の如く、国を囲める、其の赤く黄に爛れたる峰嶽を貫いて、高く柳の間に懸つた。
紫玉は恭しく三たび虚空を拝した。
時に、宮奴の装した白丁の下男が一人、露店の飴屋が張りさうな、渋の大傘を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕れた。──此は怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害つて、何うやら華魁の道中じみたし、雨乞には些と行過ぎたもののやうだつた。が、何、降るものと極れば、雨具の用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破と言はばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であつた。
──然ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。──
あはれ、身のおき処がなく成つて、紫玉の裾が法壇に崩れた時、「状を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」──わツと群集の騒いだ時、……堪らぬ、と飛上つて、紫玉を圧へて、生命を取留めたのも此の下男で、同時に狩衣を剥ぎ、緋の袴の紐を引解いたのも──鎌倉殿のためには敏捷な、忠義な奴で──此の下男である。
雨はもとより、風どころか、余の人出に、大池には蜻蛉も飛ばなかつた。
十二
時を見、程を計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足許に低き波の如く見下しつゝ、昨日通つた坂にさへ蟻の伝ふに似て押覆す人数を望みつゝ、徐に雪の頤に結んだ紫の纓を解いて、結目を胸に、烏帽子を背に掛けた。
其から伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯と捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、宛然金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したやうで、雲も竜も其処から湧くか、と視められた。──此だけは工夫した女優の所作で、手には白金が匕首の如く輝いて、凄艶比類なき風情であつた。
さて其の鸚鵡を空に翳した。
紫玉の睜つた瞳には、確に天際の僻辺に、美女の掌に似た、白山は、白く清く映つたのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いづれ後刻の事にして、其のまゝ壇を降つたらば無事だつたらう。処が、遠雷の音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前鯉魚の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のやうに白山の眉に飜るであらうと信じて、須叟を待つ間を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行いた。が、此は鎮守の神巫に似て、然もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思はんほども憚られて、腋の下に衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰のはじめとも言はう。
気をかへて屹と成つて、もの忘れした後見に烈しくきつかけを渡す状に、紫玉は虚空に向つて伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具の竹蜻蛉のやうに、晃々と高く舞つた。
「大神楽!」
と喚いたのが第一番の半畳で。
一人口火を切つたから堪らない。練馬大根と言ふ、おかめと喚く。雲の内侍と呼ぶ、雨しよぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒謗罵詈は雷の如く哄と沸く。
鎌倉殿は、船中に於て嚇怒した。愛寵せる女優のために群集の無礼を憤つたのかと思ふと、──然うではない。這般、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想ひ出した。……
雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕げ。」
紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
一度、駆下りようとした紫玉の緋裳は、此の船の激しく襲つたために、一度引留められたものである。
「…………」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁に豆烏帽子で傘を担いだ宮奴は、島になる幕の下を這つて、ヌイと面を出した。
すぐに此奴が法壇へ飛上つた、其の疾さ。
紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする処を、圧へて、そして剥いだ。
女の身としてあられうか。
あの、雪を束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな状は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃の鬼一口の犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のづまで引めくつたのが、苦り切つたる顔して、つか〳〵と、階を踏んで上つた、金方か何ぞであらう、芝居もので。
肩を無手と取ると、
「何だ、状は。小町や静ぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」
手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかゝる氷のやうな練絹の、紫玉の、ふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
十三
「口惜しい!」
紫玉は舷に縋つて身を震はす。──真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮の如く漾ひつゝ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みも成らず、──金方の計らひで、──万松亭と言ふ汀なる料理店に、とに角引籠る事にした。紫玉は唯引被いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行恁くては面白かるまいと、やけ酒を煽つて居たが、酔倒れて、其は寝た。
料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深更の然も夏の夜の戸鎖浅ければ、伊達巻の跣足で忍んで出る隙は多かつた。
生命の惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船は、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺動いて、萎れつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかへて、皓々として雫する月の露吸ふ力もない。
「えゝ、口惜しい。」
乱れがみを毮りつゝ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間に痩せた指は細く成つて、右の手の四つの指環は明星に擬へた金剛石のをはじめ、紅玉も、緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。
何うでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜の口は、水の輪に舞ふ処である。
こゝに残るは、名なれば其を誇として、指にも髪にも飾らなかつた、紫の玉唯一つ。──紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗いて、千尋の淵の水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢の白鷺の影さへ宿る、櫓と、窓と、楼と、美しい住家を視た。
「ぬしにも成つて、此、此の田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を掴んで、池に倒に身を投じた。爪尖の沈むのが、釵の鸚鵡の白く羽うつが如く、月光に微に光つた。
「御坊様、貴方は?」
「あゝ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、然までの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品ぢや。」
坊主は、欄干に擬ふ苔蒸した井桁に、破法衣の腰を掛けて、活けるが如く爛々として眼の輝く青銅の竜の蟠れる、角の枝に、肱を安らかに笑みつゝ言つた。
「私に、何のお怨みで?……」
と息せくと、眇の、ふやけた目珠ぐるみ、片頬を掌でさし蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆゑに、恥入るか、もの嫉みをして、前芸を一寸遣つた。……さて時に承はるが太夫、貴女は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言はば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
紫玉は巌に俯向いた。
「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。──われらの手品は何うぢやらう。」
「えゝ、」
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。
「貴方なら、貴方なら──何故、さすらうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を圧へた。
「面目ない、われら、此処に、高い貴い処に恋人がおはしてな、雲霧を隔てても、其の御足許は動かれぬ。呀!」
と、慌しく身を退ると、呆れ顔してハツと手を拡げて立つた。
髪黒く、色雪の如く、厳しく正しく艶に気高き貴女の、繕はぬ姿したのが、すらりと入つた。月を頸に掛けつと見えたは、真白な涼傘であつた。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打つたね。──雨と水の世話をしに出て居た時、……」
装は違つた、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢の稚児に、寸分のかはりはない。
「姫様、貴女は。」
と坊主が言つた。
「白山へ帰る。」
あゝ、其の剣ヶ峰の雪の池には、竜女の姫神おはします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スツと畳んで、貴女が地に落した涼傘は、身震をしてむくと起きた。手まさぐり給へる緋の総は、忽ち紅の手綱に捌けて、朱の鞍置いた白の神馬。
ずつと騎すのを、轡頭を曳いて、トトトト──と坊主が出たが、
「纏頭をするぞ。それ、錦を着て行け。」
かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るやうに、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる曠野の中をタタタタと蹄の音響。
蹄を流れて雲が漲る。……
身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称ふる練兵場。
紫玉が、たゞ沈んだ水底と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。──
雨を得た市民が、白身に破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰の光景が見せたい。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「婦女界」
1920(大正9)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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