伯爵の釵
泉鏡花



        一


 のものがたりの起つた土地は、清きと、美しきと、二筋ふたすじ大川おおかわの両端を流れ、真中央まんなかに城の天守てんしゅほ高くそびえ、森黒く、ほりあおく、国境の山岳は重畳ちょうじょうとして、湖を包み、海に沿ひ、橋と、坂と、辻の柳、いらかなみの町をいだいた、北陸の都である。

 一年ひととせ、激しい旱魃かんばつのあつた真夏の事。

 ……と言ふとたちまち、天に可恐おそろしき入道雲にゅうどうぐもき、地に水論すいろん修羅しゅらちまたの流れたやうに聞えるけれど、決して、そんな、物騒ぶっそう沙汰さたではない。

 かかる折から、地方巡業の新劇団、女優をしゅとした帝都の有名なる大一座おおいちざが、此の土地に七日間なのかかんの興行して、全市の湧くが如き人気を博した。

 極暑ごくしょの、ひでりと言ふのに、たとひ如何いかなる人気にせよ、湧くの、えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、──ことわざに、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥おおだらい満々まんまんと水をたたへ、蝋燭ろうそくを点じたのをの中に立てて目塗めぬりをすると、壁をとおして煙がうちみなぎつても、火気を呼ばないで安全だと言ふ。……火を以て火を制するのださうである。

 こゝに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるが如き演劇は、あたかも此のてつだ、ととなへてい。雲はけ、草はしぼみ、水はれ、人はあえぐ時、一座の劇は宛然さながら褥熱じょくねつに対する氷の如く、十万の市民に、一ざい、清涼の気をもたらして剰余あまりあつた。

 はだの白さも雪なれば、ひとみつゆの涼しい中にも、こぞつて座中ざちゅうの明星とたたへられた村井紫玉むらいしぎょくが、

「まあ……前刻さっきの、あの、小さなは?」

 公園の茶店ちゃみせに、一人しずかいこひながら、緋塩瀬ひしおぜ煙管筒きせるづつ結目むすびめ解掛ときかけつゝ、と思つた。……

 まげ女優巻じょゆうまきでなく、わざとつい通りの束髪そくはつで、薄化粧うすげしょう淡洒あっさりした意気造いきづくり形容しなに合せて、煙草入たばこいれも、好みで持つた気組きぐみ婀娜あだ

 で、見たところ芸妓げいしゃ内証歩行ないしょあるきと云ふ風だから、まして女優の、忍びの出、と言つても風采ふう

 また実際、紫玉は此の日は忍びであつた。演劇しばい昨日きのうらくに成つて、座の中には、直ぐに次興行つぎこうぎょう隣国りんごくへ、早く先乗さきのりをしたのが多い。が、地方としては、これまで経歴へめぐつた其処彼処そこかしこより、観光に価値あたいする名所がおびただしい、と聞いて、中二日なかふつかばかりの休暇やすみを、紫玉は此の土地に居残いのこつた。そして、旅宿りょしゅくに二人附添つきそつた、玉野たまの玉江たまえと云ふ女弟子も連れないで、一人でそっと、……日盛ひざかりうした身には苦にならず、町中まちなかを見つゝそぞろに来た。

 おもふに、太平の世の国のかみが、隠れて民間に微行びこうするのは、まつりごとを聞く時より、どんなにか得意であらう。落人おちうどそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさへ、我名わがなを呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、其の都度つど、ハツと隠れ忍んで、微笑ほほえみ〳〵通ると思へ。

 深張ふかばり涼傘ひがさの影ながら、面影おもかげは透き、色香いろかほのめく……心地ここちすれば、たれはばかるともなく自然おのずから俯目ふしめ俯向うつむく。謙譲のつまはづれは、倨傲きょごうえりよりひんを備へて、尋常じんじょう姿容すがたかたち調ととのつて、焼地やけちりつく影も、水で描いたやうに涼しくも清爽さわやかであつた。

 僅少わずかたたみへりばかりの、日影を選んで辿たどるのも、人は目をみはつて、くじらに乗つて人魚が通ると見たであらう。……素足すあしの白いのが、すら〳〵と黒繻子くろじゅすの上をすべれば、どぶながれ清水しみず音信おとずれ

 で、真先まっさきこころざしたのは、城のやぐらと境を接した、ふたつ、全国に指を屈すると云ふ、景勝けいしょうの公園であつた。


        二


 公園の入口に、樹林を背戸せどに、蓮池はすいけを庭に、柳、ふじ、桜、山吹やまぶきなど、飛々とびとびに名を呼ばれた茶店ちゃみせがある。

 紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋と言ふのであつた。が、あかたすきで、色白いろじろな娘が運んだ、煎茶せんちゃ煙草盆たばこぼんそでに控へて、までたしなむともない、其の、伊達だてに持つた煙草入たばこいれを手にした時、──

「……あれは女のだつたか知ら、其とも男の児だつたらうかね。」

 ──と思ひ出したのは其である。──

 で、華奢造きゃしゃづくりの黄金煙管きんぎせるで、余りれない、覚束おぼつかない手つきして、青磁色せいじいろの手つきの瀬戸火鉢せとひばちを探りながら、

「……帽子を……かぶつて居たとすれば、男の児だらうが、青い鉢巻はちまきだつけ。……麦藁むぎわらに巻いたきれだつたらうか、其ともリボンか知ら。色は判然はっきり覚えて居るけど、……お待ちよ、──とうだから。……」

 取つて着けたやうなみ方だから、見ると、もの〳〵しいまでに、打傾うちかたむいて一口ひとくち吸つて、

「……年紀としは、うさね、七歳ななつ六歳むっつぐらゐな、色の白い上品な、……男の児にしては綺麗きれい過ぎるから女の児──だとリボンだね。──青いリボン。……幼稚ちいさくたつてと限りもしないわね。では、矢張やっぱり女の児か知ら。それにしては麦藁帽子……もっともおさげにつてれば……だけど、其処そこまでは気が付かない。……」

 大通りは一筋ひとすじだが、道に迷ふのも一興で、其処そこともなく、裏小路うらこうじへ紛れ込んで、低い土塀どべいからうり茄子なすはたけのぞかれる、さびれた邸町やしきまちを一人で通つて、まるつきり人に行合ゆきあはず。白熱した日盛ひざかりに、よくも羽が焦げないと思ふ、白い蝶々ちょうちょうの、不意にスツと来て、飜々ひらひら擦違すれちがふのを、吃驚びっくりした顔をして見送つて、そして莞爾にっこり……したり……うした時は象牙骨ぞうげぼねの扇で一寸ちょっと招いて見たり。……土塀の崩屋根くずれやねを仰いで血のやうな百日紅さるすべり咲満さきみちた枝を、涼傘ひがささきくすぐる、とたまらない。とぶる〳〵ゆさ〳〵とるのに、「御免なさい。」と言つて見たり。石垣の草蒸くさいきれに、ててある瓜の皮が、けてあしが生えて、むく〳〵と動出うごきだしさうなのに、「あれ。」と飛退とびのいたり。取留とりとめのないすさびも、此の女の人気なれば、話せば逸話に伝へられよう。

 低い山かと見た、樹立こだちの繁つた高い公園の下へ出ると、坂ののぼくちやしろがあつた。

 宮も大きく、境内けいだいも広かつた。が、砂浜に鳥居を立てたやうで、拝殿はいでん裏崕うらがけには鬱々うつうつたる其の公園の森をひながら、広前ひろまえは一面、真空まそらなる太陽に、こいしの影一つなく、ただ白紙しらかみ敷詰しきつめた光景ありさまなのが、日射ひざしに、やゝきばんで、びょうとして、何処どこから散つたか、百日紅の二三点。

 ……覗くと、静まり返つた正面のきざはしかたわらに、べに手綱たづなしゅくら置いた、つくりものの自の神馬しんめ寂寞せきばくとして一頭ひとつ立つ。横に公園へあがる坂は、見透みとおしに成つて居たから、涼傘ひがさのまゝスツと鳥居から抜けると、紫玉の姿は色のまゝ鳥居の柱に映つて通る。……其処そこ屋根囲やねがこいした、おおいなる石の御手洗みたらしがあつて、青き竜頭りゅうずからたたへた水は、つすら〳〵と玉を乱して、さっすだれ噴溢ふきあふれる。其手水鉢そのちょうずばち周囲まわりに、ただ一人……其の稚児ちごが居たのであつた。

 が、炎天、人影も絶えた折から、父母ちちははの昼寝の夢を抜出ぬけだした、神官のであらうと紫玉はた。ちら〳〵廻りつゝ、廻りつゝ、彼方此方あちこちする。……

 、御手洗は高く、稚児は小さいので、下を伝うてまはりを廻るのが、宛然さながら、石に刻んだ形が、噴溢ふきあふれる水の影に誘はれて、すら〳〵と動くやうな。……と視るうちに、稚児は伸上のびあがり、伸上のびあがつては、いたいけな手を空に、すらりと動いて、伸上つては、又空に手を伸ばす。──

 紫玉はズツと寄つた。稚児は涼傘ひがさの陰に入つたのである。

一寸ちょっと……何をして居るの。」

「水が欲しいの。」

 と、あどけなく言つた。

 あゝ、それがため足場を取つては、取替とりかへては、手を伸ばす、が爪立つまだつても、青いきれを巻いた、其の振分髪ふりわけがみ、まろがたけは……筒井筒つついづつ其のなかばにも届くまい。


        三


 其の御手洗みたらしの高いふちに乗つて居る柄杓ひしゃくを、取りたい、と又稚児ちごう言つた。

 紫玉は思はず微笑ほほえんで、

「あら、うすれば仔細わけはないよ。」

 と、半身はんしんを斜めにして、あふれかゝる水の一筋ひとすじを、たましずくに、さっと散らして、赤く燃ゆるやうな唇にけた。ちやうど渇いても居たし、水のきよい事を見たのは言ふまでもない。

「ねえ、お前。」

 稚児が仰いで、じっと紫玉をて、

「手をきよめる水だもの。」

 直接じかくちつけるのは不作法だ、ととがめたやうに聞えたのである。

 劇壇の女王にょおうは、気色けしきした。

「いやにおちゃがつてるよ、生意気な。」と、軽く其のつむりてのひらたたぱなしに、広前ひろまえを切れて、坂に出て、見返りもしないで、てやがて此の茶屋にいこつたのであつた。──

 今思ふと、手を触れた稚児のつむりも、女か、男か、不思議に其の感覚が残らぬ。気は涼しかつたが、暑さに、幾干いくらぼうとしたものかも知れない。

ねえさん、町から、此の坂をのぼところに、お宮がありますわね。」

「はい。」

「何と言ふ、おやしろです。」

浦安うらやす神社でございますわ。」と、片手をたたみに、娘は行儀正しく答へた。

何神様なにがみさまが祭つてあります。」

「お父さん、お父さん。」と娘が、ついそばに、蓮池はすいけに向いて、(じんべ)と言ふひざぎりの帷子かたびらで、眼鏡めがねの下に内職らしいあみをすいて居る半白はんぱくの父を呼ぶと、急いで眼鏡をはずして、コツンと水牛すいぎゅうたたんで、台に乗せて、其から向直むきなおつて、丁寧に辞儀をして、

「えゝ、浦安様は、浦安かれとの、其の御守護ぢやさうにござりまして。水をばおつかさどりなされます、竜神りゅうじんと申すことでござります。これの、太夫様たゆうさまにお茶を替へて上げぬかい。」

 紫玉は我知われしらず衣紋えもんしまつた。……となへかたは相応そぐはぬにもせよ、へたな山水画のなかの隠者めいた老人までが、確か自分を知つて居る。

 心着こころづけば、正面神棚かみだなの下には、我が姿、昨夜ゆうべも扮した、劇中女主人公ヒロインの王妃なる、玉の鳳凰ほうおうの如きが掲げてあつた。

「そして、……」

 声もほがらかに、つつましく、

「竜神だと、女神おんながみですか、男神おとこがみですか。」

「さ、さ。」と老人はひざを刻んで、あたかも此の問を待構まちかまへたやうに、

「其の儀は、とかくに申しまするが、如何いかがか、いずれとも相分あいわかりませぬ。此の公園のづツと奥に、真暗まっくら巌窟いわやの中に、一ヶ処清水しみずく井戸がござります。古色こしょくおびただしい青銅の竜がわだかまつて、井桁いげたふたをしてりまして、金網かなあみを張り、みだりに近づいては成りませぬが、霊沢金水れいたくこんすいと申して、此がために此の市の名が起りましたと申します。此が奥の院と申す事で、えゝ、貴方様あなたさま御意ぎょいの浦安神社は、其の前殿まえどのと申す事でござります。御参詣おまいりを遊ばしましたか。」

「あ、いいえ。」と言つたが、すぐ又稚児ちごの事が胸に浮んだ。それなり一時いちじ言葉が途絶とだえる。

 森々しんしんたる日中ひなかの樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前にそびゆる。茶店ちゃみせの横にも、見上みあげるばかりのえんじゅえのきの暗い影がもみかえでを薄くまじへて、藍緑らんりょくながれ群青ぐんじょうの瀬のある如き、たら〳〵あがりのこみちがある。滝かと思ふ蝉時雨せみしぐれ。光る雨、輝く、此の炎天の下蔭したかげは、あたか稲妻いなずまこもる穴に似て、ものすごいまで寂寞ひっそりした。

 木下闇こしたやみ、其の横径よこみち中途なかほどに、空屋あきやかと思ふ、ひさしちた、たれも居ない店がある……


        四


 とざしてはないものの、奥に人が居て住むかさへ疑はしい。其とも日が暮れると、白い首でも出てとは客が寄らうも知れぬ。店一杯いっぱい雛壇ひなだんのやうな台を置いて、いとど薄暗いのに、三方さんぽう黒布くろぬの張廻はりまわした、壇の附元つけもとに、流星ながれぼし髑髏しゃれこうべひからびたひとりむしに似たものを、点々並べたのはまとである。地方の盛場さかりばには時々見掛みかける、吹矢ふきや機関からくりとは一目ひとめて紫玉にも分つた。

 まことは──吹矢ふきやも、ばけものと名のついたので、幽霊の廂合ひあわいの幕からさかさまにぶら下り、見越入道みこしにゅうどうあつらへた穴からヌツと出る。雪女はこしらへの黒塀くろべいうっすり立ち、産女鳥うぶめどり石地蔵いしじぞうと並んで悄乎しょんぼりたたずむ。ひと小僧こぞう豆腐買とうふかいは、流灌頂ながれかんちょう野川のがわへりを、大笠おおがさ俯向うつむけて、跣足はだしでちよこ〳〵と巧みに歩行あるくなど、仕掛しかけものに成つて居る。……如何いかがはしいが、生霊いきりょうふだの立つた就中なかんずく小さなまと吹当ふきあてると、床板ゆかいたがぐわらりと転覆ひっくりかえつて、大松蕈おおまつたけを抱いた緋のふんどしのおかめが、とんぼ返りをして莞爾にこり飛出とびだす、途端に、四方へ引張つたつなが揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉いちどきにぐわんぐわらん、どんどと鳴つて、其でいちが栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたひ歩行ある波張なみばり切々きれぎれに、藪畳やぶだたみ打倒ぶったおれ、かざりの石地蔵は仰向あおむけにつて、視たところ、ものあはれなまでさびれて居た。

 ──其ののき土間どまに、背後うしろむきにしゃがんだ僧形そうぎょうのものがある。坊主ぼうずであらう。墨染すみぞめあさ法衣ころもれ〳〵ななりで、鬱金うこんねずみよごれた布に──すぐ、分つたが、──三味線しゃみせんを一ちょう盲目めくら琵琶背負びわじょい背負しょつて居る、漂泊さすら門附かどづけたぐいであらう。

 何をか働く。人目を避けて、うずくまつて、しらみひねるか、かさくか、弁当を使ふとも、掃溜はきだめを探した干魚ほしうおの骨をしゃぶるに過ぎまい。乞食こじきのやうに薄汚うすぎたない。

 紫玉は敗竄はいざんした芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息ためいきらした。つあはれみ、且つ可忌いまわしがつたのである。

 灰吹はいふきに薄いつばした。

 此の世盛よざかりの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑せみの声もしたたるが如き影に、かまち自然おのずから浮いて高いところに、色も濡々ぬれぬれ水際立みずぎわだつ、紫陽花あじさいの花の姿をたわわに置きつゝ、翡翠ひすい紅玉ルビイ、真珠など、指環をめた白い指をツト挙げて、びん後毛おくれげを掻いた次手ついでに、白金プラチナ高彫たかぼりの、翼に金剛石ダイヤちりばめ、目には血膸玉スルウドストンくちばしと爪に緑宝玉エメラルド象嵌ぞうがんした、白く輝く鸚鵡おうむかんざし──何某なにがしの伯爵が心をめたおくりものとて、人は知つて、(伯爵)ととなふる其の釵を抜いて、あしを返して、喫掛のみかけた火皿ひざらやにさらつた。……伊達だて煙管きせるは、煙を吸ふより、手すさみのしぐさが多い慣習ならいである。

 三味線背負しょつた乞食坊主が、引掻ひっかくやうにもぞ〳〵と肩をゆすると、一眼いちがんひたとひた、めっかちの青ぶくれのかおを向けて、う、引傾ひっかたがつて、じっと紫玉の其のさまると、肩をいたつえさきが、一度胸へ引込ひっこんで、前屈まえかがみに、よたりと立つた。

 杖をこみち突立つきたて〳〵、辿々たどたどしく下闇したやみうごめいてりて、城のかたへ去るかと思へば、のろく後退あとじさりをしながら、茶店ちゃみせに向つて、ほっと、立直たちなおつて一息ひといきく。

 紫玉のまゆひそむ時、五けんばかりのきを離れた、其処そこや、此方こなたへぐつたりと叩頭おじぎをする。

 知らないふりして、目をそらして、紫玉がかんざし俯向うつむいた。が、濃い睫毛まつげの重く成るまで、坊主の影はちかづいたのである。

太夫様たゆうさま。」

 ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前めさき土間どまに、両膝りょうひざを折つて居た。

「…………」

「おねがいでござります。……お慈悲じひぢや、お慈悲、お慈悲。」

 仮初かりそめに置いた涼傘ひがさが、襤褸法衣ぼろごろもそでに触れさうなので、そっと手元へ引いて、

「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘おやこに目をつた。

 立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘もしずかに視て居る。


        五


 少時しばらくすると、此のひでりに水はれたが、碧緑へきりょくの葉の深く繁れる中なる、緋葉もみじの滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池はすいけみぎわ歩行あるいて居た。こゝに別に滝の四阿あずまやとなふるのがあつて、はしを掛け、飛石とびいしを置いて、枝折戸しおりどとざさぬのである。

 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻こもどりする事に成る。紫玉はあの、吹矢ふきやみちから公園へ入らないで、引返ひきかえしたので、……涼傘ひがさ投遣なげやりにかざしながら、そでを柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処あすこで抜いた白金プラチナ鸚鵡おうむかんざし、其の翼を一寸ちょっとつまんで、晃乎きらりとぶら下げて居るのであるが。

 仔細は希有けうな、……

 坊主が土下座どげざして「お慈悲、お慈悲。」で、おねがいと言ふのがかねでも米でもない。施与ほどこしには違ひなけれど、変な事には「お禁厭まじないをしてつかはされい。虫歯がうずいて堪へがたいでな。」と、成程なるほど左のほおがぷくりとうだばれたのを、堪難たえがたさまてのひらかかへて、首を引傾ひっかたむけた同じ方の一眼いちがんが白くどろんとしてつぶれて居る。其の目からも、ぶよ〳〵とした唇からも、きたなしるが垂れさうな塩梅あんばい。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五すん釘を打たれうとても、かくまでの苦悩くるしみはございますまいぞ、おなさけぢや、禁厭まじのうてつかはされ。」で、禁厭まじないとは別儀べつぎでない。──其の紫玉が手にした白金プラチナの釵を、歯のうろへ挿入さしいれて欲しいのだと言ふ。

太夫様たゆうさまお手づから。……竜と蛞蝓なめくじほど違ひましても、しょうあるうちはわしぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明おひかりに照らされますだけでも、此の疚痛いたみは忘られませう。」と、はツはツと息をく。……

 既に、何人なんぴとであるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所謂いわゆる禁厭まじないの断りにくさは、金銭の無心むしんをされたのと同じ事──ただし手から手へ渡すも恐れる……落してかんざしを貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴女様あなたさまはだ移香うつりが、脈のひびきをお釵から伝へ受けたいのでござります。貴方様あなたさま御血脈おけちみゃく、其が禁厭まじないに成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口をひらいた中へ、紫玉はむ事を得ず、手に持添もちそへつつ、釵のあし挿入さしいれた。

 あえぐわ、しゃぶるわ! 鼻息はないきがむツとかかる。たまらず袖を巻いて唇をおおひながら、いきおひ釵とともに、やゝしろやかな手の伸びるのが、雪白せっぱくなる鵞鳥がちょう七宝しっぽう瓔珞ようらくを掛けた風情ふぜいなのを、無性髯ぶしょうひげで、チユツパと啜込すすりこむやうに、坊主は犬蹲いぬつくばいに成つて、あごでうけて、どろりとめ込む。

 、紫玉の手には、づぶ〳〵と響いて、腐れたうり突刺つきさ気味合きみあい

 指環は緑紅りょくこうの結晶したる玉の如きにじである。まぶしかつたらう。坊主はひらいた目も閉ぢて、ぼうとした顔色がんしょくで、しつきりもなしに、だら〳〵とよだれを垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」──

 不思議な光景ようすは、美しき女が、針のさきで怪しき魔をあやつる、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶店ちゃみせの娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸いきを殺して固唾かたずを飲んだ。

 ……「あゝ、お有難ありがたや、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包しゃみせんづつみ、がつくりと抜衣紋ぬきえもん。で、両掌りょうて仰向あおむけ、低く紫玉の雪の爪尖つまさきを頂く真似して、「やうにむさいものなれば、くど〳〵お礼など申して、お身近みぢかかえつてお目触めざわり、御恩は忘れぬぞや。」と胸をぢるやうにつえで立つて、

「お有難や、お有難や。あゝ、を忘れてが抜けた。もし、太夫様たゆうさま。」と敷居をまたいで、蹌踉状よろけざま振向ふりむいて、「あの、其のおかんざしに……」──「え。」と紫玉が鸚鵡おうむる時、「歯くさが着いてはりませぬか。恐縮おそれや。……えひゝ。」とニヤリとして、

「ちやつとおきなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙ふところがみを、余儀よぎなく一寸ちょっと逡巡ためらつた。

 同時に、あらぬかたおもてそむけた。


        六


 紫玉は待兼まちかねたやうに懐紙かいしを重ねて、伯爵、を清めながら、森のこみちきましたか、坊主は、といた。父も娘も、へい、と言つて、大方うだらうと言ふ。──う影もなかつたのである。父娘おやこただ、紫玉の挙動ふるまいにのみ気をられて居たらう。……此の辺を歩行ある門附かどづけ見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足はだしで居ました、と言つたので、旅から紛込まぎれこんだものか、其も分らぬ。

 と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々ちょいちょいまゆひそめた。抜いて持つたかんざし鬢摺びんずれに髪に返さうとすると、、するごとに、手のしなふにさへ、も言はれない、な、変な、悪臭わるぐさい、たまらない、臭気においがしたのであるから。

 城は公園を出る方で、其処そこにも影がないとすると、吹矢ふきやの道をのぼつたに相違ない。で、あとへ続くには堪へられぬ。

 其処そこで滝の道を訊いて──へ来た。──

 泉殿せんでんなぞらへた、飛々とびとびちんいずれかに、邯鄲かんたんの石の手水鉢ちょうずばち、名品、と教へられたが、水の音よりせみの声。で、勝手に通抜とおりぬけの出来る茶屋は、昼寝のなかばらしい。の座敷も寂寞ひっそりして人気勢ひとけはいもなかつた。

 御歯黒蜻蛉おはぐろとんぼが、鉄漿かねつけた女房にょうぼの、かすかな夢の影らしく、ひら〳〵と一つ、葉ばかりの燕子花かきつばたを伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍遙しょうようした昔の幻を、さびしく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。

 すべて旧藩侯きゅうはんこうの庭園だ、と言ふにつけても、贈主おくりぬしなる貴公子の面影おもかげさへ浮ぶ、伯爵の鸚鵡おうむなんとせう。

 霊廟れいびょうの土のおこりを落し、秘符ひふの威徳の鬼を追ふやう、立処たちどころに坊主の虫歯をいやしたはることながら、路々みちみち悪臭わるぐささの消えないばかりか、口中こうちゅうの臭気は、次第に持つ手をつたわつて、そでにも移りさうに思はれる。

 紫玉は、樹の下に涼傘ひがさたたんで、滝を斜めにつゝ、池のへりに低く居た。

 滝は、ひでりしかく骨なりといえども、いわおには苔蒸こけむし、つぼは森をかついであおい。しかいわがくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音のすさまじく響くのは、大樋おおどいを伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠うちぼりそそぐと聞く、戦国の余残なごりださうである。

 紫玉はかんざしを洗つた。……えんなる女優の心を得た池のおもは、萌黄もえぎ薄絹うすぎぬの如く波をべつゝぬぐつて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪にさうとすると、ちっと離したくらゐでは、耳のはたへも寄せられぬ。鼻をいて、ツンとくさい。

「あ、」と声を立てたほどである。

 しずくを切ると、雫までぷんにおふ。たとへば貴重なる香水のかおりの一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほどが広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、はては指環の緑碧紅黄りょくへきこうこう珠玉しゅぎょくの数にも、言ひやうのない悪臭あくしゅういきかかるやうに思はれたので。……

「えゝ。」

 紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振ひとふり振つた。

「ぬしにお成りよ。」

 白金プラチナはねの散るさまに、ちら〳〵と映ると、かんざし滝壺たきつぼ真蒼まっさおな水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽せんきんよ。おんみは熱帯の鬱林うつりんに放たれずして、山地さんち碧潭へきたんたくされたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議のものにきそふか、しずかなる池のに、眠れるうおの如く縦横じゅうおうよこたはつた、樹の枝々の影は、尾鰭おひれを跳ねて、幾千ともなく、一時いちどきに皆揺動ゆれうごいた。

 此に悚然ぞっとしたさまに、一度すぼめた袖を、はら〳〵と翼の如くたたいたのは、紫玉が、可厭いとわしき移香うつりがを払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、飜々はらはらとふるひながら、飛退とびのくやうに、滝の下行く桟道さんどうの橋に退いた。

 石の反橋そりはしである。いわと石の、いづれにもかさなれる牡丹ぼたんの花の如きを、左右に築き上げた、めい石橋しゃっきょうと言ふ、反橋そりはしの石の真中に立つて、一息ひといきした紫玉は、此の時、すらりと、も心も高かつた。


        七


 明眸めいぼうの左右に樹立こだちが分れて、一条ひとすじ大道だいどう、炎天のもとひらけつゝ、日盛ひざかりの町の大路おおじが望まれて、煉瓦造れんがづくりの避雷針、古い白壁しらかべ、寺の塔などまつげこそぐる中に、行交ゆきかふ人は点々と蝙蝠こうもりの如く、電車は光りながら山椒魚さんしょううおふのに似て居る。

 忘れもしない、眼界がんかいの其の突当つきあたりが、昨夜ゆうべまで、我あればこそ、電燭の宛然さながら水晶宮の如く輝いた劇場であつた。

 あゝ、一翳いちえいの雲もないのに、みどりむらさきくれないの旗の影が、ぱつと空をおおふまで、はなやかに目にひるがえつた、見るとさっと近づいて、まゆに近い樹々の枝に色鳥いろどり種々いろいろの影に映つた。

 けだし劇場に向つて、高くかざした手の指環の、玉のほこり幻影まぼろしである。

 紫玉は、ひとみを返して、華奢きゃしゃな指を、俯向うつむいてつゝ莞爾にっこりした。

 そして、すら〳〵と石橋しゃっきょう前方むこうへ渡つた。それから、森を通る、姿はみどりに青ずむまで、しずかに落着いて見えたけれど、ふたかさなつた不意の出来事に、心の騒いだのはあらそはれない。……涼傘ひがさ置忘おきわすれたもの。……

 森を高く抜けると、三国さんごく見霽みはらしの一面の広場に成る。かっる日に、手廂てびさししてながむれば、松、桜、梅いろ〳〵樹のさま、枝のふりの、各自おのおの名ある神仙しんせんの形を映すのみ。幸ひに可忌いまわしい坊主の影は、公園の一ぼくそうをもさまたげず。又……人の往来ゆきかふさへほとんどない。

 一処ひとところ大池おおいけがあつて、朱塗しゅぬりの船の、さざなみに、浮いたみぎわに、盛装した妙齢としごろ派手はでな女が、つがい鴛鴦おしどりの宿るやうに目にとまつた。

 真白な顔が、そろつて此方こっちを向いたと思ふと。

「あら、お嬢様。」

「お師匠ししょうさーん。」

 一人がう、空気草履くうきぞうりの、なまめかしい褄捌つまさばきで駆けて来る、目鼻は玉江たまえ。……う一人は玉野たまのであつた。

 紫玉は故郷へ帰つた気がした。

「不思議なところで、と言ひたいわね。けんぶつかい。」

「えゝ、観光団。」

「何を悪戯いたずらをして居るの、お前さんたち。」

 と連立つれだつて寄る、みぎわに居た玉野の手には、船首みよしへ掛けつゝさおがあつた。

 ふなばたあい萌黄もえぎの翼で、かしらにも尾にもべにを塗つた、鷁首げきしゅの船の屋形造やかたづくり玩具おもちゃのやうだが四五人は乗れるであらう。

「お嬢様。おめしなさいませんか。」

 聞けば、向う岸の、むらはぎいおりの見える、船主ふなぬしの料理屋には交渉済こうしょうずみで、二人はなぐさみに、此から漕出こぎださうとするところだつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束おぼつかなさに念を押すと、浅くてさおが届くのだから仔細ない。ただ、一ヶ所そこの知れない深水ふかみずの穴がある。たつくちとなへて、から下の滝の伏樋ふせどいに通ずるよし言伝いいつたへる、……あぶなくはないけれど、其処そこだけはけたがからう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出かけだして仕誼ことわりを言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。

「あれ、彼処あすこですわ。」と玉野がゆびさす、大池おおいけうしとらかたへ寄るところに、板を浮かせて、小さな御幣ごへいが立つて居た。真中の築洲つきずつるしまと言ふのが見えて、ほこら竜神りゅうじんまつると聞く。……鷁首げきしゅの船は、其の島へこころざすのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。

「乗らうかね。」

 と紫玉はつまを巻くやうに、爪尖つまさきそろへながら、

「でも何だか。」

「あら、何故なぜですえ。」

「御幣まで立つて警戒をしたところがあつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」

いいえ、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断ふだんは何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞あまごいだと言つて立てたんださうですの、此のひでりですから。」


        八


 岸をトンとすと、屋形船やかたぶねは軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたよりたくみさおさす。大池おおいけしずかである。ふなばた朱欄干しゅらんかんに、指を組んで、頬杖ほおづえついた、紫玉の胡粉ごふんのやうなひじの下に、萌黄もえぎあいまじへた鳥の翼のるゝのが、其処そこにばかり美しい波の立つ風情ふぜいに見えつゝ、船はする〳〵と滑つて、鶴ヶ島をさしてなめらかに浮いて行く。

 までの距離はないが、月夜には柳がけむるぐらゐなで、島へは棹のすう百ばかりはあらう。

 玉野は上手あじる。

 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとしたしずかな水も、棹にかれて何処どこともなしに波紋が起つた、其の所為せいであらう。あの底知らずのたつくちとか、日射ひざし其処そこばかりはものの朦朧もうろうとしてよどむあたりに、──そよとの風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直まっすぐに立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置をへて、夢のやうに一すん二寸づゝ動きはじめた。

 じっと、……るに連れて、次第に、ゆるく、柔かに、落着いてを描きつゝ、其のまるい線のがっするところで、又スースーと、一寸二寸づゝ動出うごきだすのが、何となく池を広く大きく押拡おしひろげて、船は遠く、御幣ごへいはるかに、不思議に、段々みぎわへだたるのが心細いやうで、気もうっかりと、紫玉は、便たより少ない心持ここちがした。

「大丈夫かい、彼処あすこは渦を巻いて居るやうだがね。」

 欄干らんかん頬杖ほおづえしたまゝ、紫玉は御幣を凝視みつめながら言つた。

つまりませんわ、少し渦でも巻かなけりや、あんましずかで、橋の上をつてゐるやうですもの、」

 とお転婆てんばの玉江が洒落しゃれでもないらしく、

「玉野さん、船を彼方あっちつて見ないか?……」

 紫玉がおさへて、

不可いけないよ。」

いいえ、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手をたたけば、すぐに誰か出て来るからつて、女中がう言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。

 成程なるほど、島を越した向う岸のはぎの根に、一人乗るほどの小船こぶねが見える。中洲なかずの島で、納涼すずみながら酒宴をする時、母屋おもやから料理を運ぶ通船かよいぶねである。

 玉野さへきょうに乗つたらしく、

「お嬢様、船を少し廻しますわ。」

「だつて、こんな池で助船たすけぶねでも呼んでたがい、飛んだお笑ひ草で末代まつだいまでの恥辱ぢやあないか。あれおしよ。」

 と言ふのに、──逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木うきほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水のおもにぴたりとついたと思ふと、罔竜あまりょうかしらえがける鬼火ひとだまの如き一条ひとすじみゃくが、たつくちからむくりといて、水を一文字いちもんじに、く、船に近づくとひとしく、波はざツと鳴つた。

 女優の船頭はさおを落した。

 あれ〳〵、其の波頭なみがしらたちま船底ふなぞこむかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三じゃくあとへ引いて、薄波うすなみ一煽ひとあおり、其の形に煽るやいなや、人の立つ如く、空へおおいなるうおが飛んだ。

 瞬間、島の青柳あおやぎに銀の影が、パツとして、うお紫立むらさきだつたるうろこを、えた金色こんじきに輝かしつゝさっねたのが、飜然ひらりと宙をおどつて、船の中へどうと落ちた。其時そのとき、水がドブンと鳴つた。

 みよしともへ、二人はアツと飛退とびのいた。紫玉は欄干らんかんすがつて身をはす。

 落ちつゝどうで、一刎ひとはねねると、其のはずみに、船も動いた。──見事なうおである。

「お嬢様!」

こい、鯉、あら、鯉だ。」

 と玉江が夢中で手をたたいた。

 此のおおいなる鯉が、尾鰭おひれいた、波の引返ひっかえすのがてたさおさらつた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ〳〵と流れて行く。


        九


「……太夫様たゆうさま……太夫様。」

 と紫玉は、宵闇よいやみの森の下道したみち真暗まっくらな大樹巨木のこずえを仰いだ。……思ひけず空から呼掛よびかけたやうに聞えたのである。

一寸ちょっとあかりを、……」

 玉野がぶら下げた料理屋の提灯ちょうちんめさせて、さしかわす枝を透かしつゝ、──何事なにごとと問ふ玉江に、

「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」

 と言ふ……お師匠さんが、樹の上をて居るから、

「まあ、そんなとこから。」

うだねえ。」

 紫玉は、はじめて納得したらしく、ひとみをそらす時、まげに手をつて、かんざしに指を触れた。──指を触れた釵は鸚鵡おうむである。

「此が呼んだのか知ら。」

 と微酔ほろよいの目元をはなやかに莞爾にっこりすると、

「あら、お嬢様。」

可厭いやですよ。」

 と仰山ぎょうさんに二人がおびえた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者をおびやかしては不可いけない。滝壺たきつぼ投沈なげしずめた同じ白金プラチナの釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。

 池で、船の中へ鯉が飛込とびこむと、弟子たちが手をつ、立騒たちさわぐ声が響いて、最初は女中が小船こぶねで来た。……島へ渡した細綱ほそづな手繰たぐつて、立ちながらあやつるのだが、れたもので、あとを二押ふたおし三押みおし屋形船やかたぶねへ来ると、よしを聞き、うおを視て、「まあ、」と目をみはつたきりあわただしく引返ひきかへした。が、もあらせず、今度は印半纏しるしばんてんた若いものに船をらせて、亭主らしい年配としごろ法体ほったいしたのがぎつけて、「これは〳〵太夫様たゆうさま。」亭主も逸時いちはやく其を知つて居て、うやうやしく挨拶あいさつをした。浴衣ゆかたの上だけれど、紋の着いた薄羽織うすばおりひっかけて居たが、て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二しゃく貫目がんめかかりませう。」とて、……およごしのぞいて魂消たまげて居る若衆わかいしゅ目配めくばせでうなずかせて、「やうな大魚たいぎょしかし出世魚しゅっせうおと申す鯉魚りぎょの、お船へ飛込とびこみましたと言ふは、類希たぐいまれな不思議な祥瑞しょうずい。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳ごじんとく。続きましては、手前あずかりまする池なり、所持の屋形船やかたぶね烏滸おこがましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分ふくぶん徳分とくぶん未曾有みぞう御人気ごにんきの、はや幾分かおこぼれを頂戴ちょうだいいたしたも同じ儀で、やうな心嬉しい事はござりませぬ。くの通りの旱魃かんばつ、市内はもとより近郷きんごう隣国りんごくただ炎の中にもだえまする時、希有けう大魚たいぎょおどりましたは、甘露かんろ法雨ほううやがて、禽獣きんじゅう草木そうもくに到るまでも、雨に蘇生よみがえりまする前表ぜんぴょうかとも存じまする。三宝さんぽう利益りやく四方しほう大慶たいけい。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝こころいわひに、此の鯉魚こいさかなに、祝うて一こん、心ばかりの粗酒そしゅ差上さしあげたう存じまする。風情ふぜいはなくとも、あの島影しまかげにお船をつなぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋おもやの方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着もんつき法然頭ほうねんあたまは、う屋形船の方へ腰をゑた。

 若衆わかいしゅ取寄とりよせさせた、調度を控へて、島の柳にもやつた頃は、うでもない、みぎわ人立ひとだちさえぎるためと、用意のむらさきの幕を垂れた。「神慮しんりょ鯉魚りぎょ等閑なおざりにはいたしますまい。略儀ながら不束ふつつか田舎いなか料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直つて真魚箸まなばしを構へた。

 ──かんざしこいの腹を光つて出た。──竜宮へ往来おうらいした釵の玉の鸚鵡おうむである。

太夫たゆう様──太夫様。」

 ものを言はうも知れない。──

 とばかりで、二声ふたこえ聞いたやうに思つただけで、何の気勢けはいもしない。

 風もささやかず、公園の暗夜やみよさびしかつた。

「太夫様。」

「太夫様。」

 うつかり釵を、又おさへて、

可厭いやだ、今度はお前さんたちかい。」


        十


──水のすぐれおぼゆるは、

西天竺せいてんじく白鷺池はくろち

じんじやうきよゆうにすみわたる、

昆明池こんめいちの水の色、

行末ゆくすえひさしくむとかや。

「お待ち。」

 紫玉は耳をすました。道の露芝つゆしば曲水きょくすいみぎわにして、さら〳〵と音するながれの底に、聞きも知らぬ三味線しゃみせんの、沈んだ、陰気な調子に合せて、かすかうたふ声がする。

「──坊さんではないか知ら……」

 紫玉は胸がとどろいた。

 あの漂白さすらいの芸人は、鯉魚りぎょの神秘をた紫玉の身には、最早もはや、うみしるの如く、つばよだれくさい乞食坊主のみではなかつたのである。

「……あの、三味線は、」

 夜陰やいんのこんな場所で、もしや、と思ふ時、掻消かききえるやうに音がんで、ひた〳〵と小石をくぐつて響く水は、忍ぶ跫音あしおとのやうに聞える。

 紫玉は立留たちどまつた。

 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々いんいんとして響くと、

──日本一にっぽんいちにてそうろうぞと申しける。鎌倉殿かまくらどのこと〴〵しや、何処いずこにて舞ひて日本一とは申しけるぞ。梶原かじわら申しけるは、一歳ひととせ百日ひゃくにちひでりそうらひけるに、賀茂川かもがわ桂川かつらがわ水瀬みなせ切れて流れず、筒井つついの水も絶えて、国土こくどの悩みにて候ひけるに、──

 聞くものは耳を澄ましてそでを合せたのである。

──有験うげんの高僧貴僧百人、神泉苑しんせんえんの池にて、仁王経にんおうきょうこうたてまつらば、八大竜王はちだいりゅうおう慈現じげん納受のうじゅたれたまふべし、と申しければ、百人の高僧貴僧をしょうじ、仁王経を講ぜられしかども、其験そのしるしもなかりけり。又或人あるひと申しけるは、容顔ようがん美麗びれいなる白拍子しらびょうしを、百人めして、──

御坊様ごぼうさま。」

 今は疑ふべき心もせて、御坊様、と呼びつゝ、紫玉が暗中あんちゅうすかして、声するかたに、すがるやうに寄ると思ふと、

を消せ。」

 と、びたが力ある声して言つた。

提灯ちょうちんを……」

「は、」と、返事と息を、はツはツとはずませながら、一度消損けしそこねて、あわただしげに吹消ふきけした。玉野の手は震へて居た。

──百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験そのしるしもなかりけり。しずか一人舞ひたりとても、竜神りゅうじん示現じげんあるべきか。内侍所ないしどころに召されて、ろくおもきものにてそうろうにと申したりければ、とても人数ひとかずなれば、ただ舞はせよとおおせ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と言ふ白拍子しらびょうしを、──

 を消すと、あたりがかえつて朦朧もうろうと、薄く鼠色ねずみいろほのめく向うに、石の反橋そりばし欄干らんかんに、僧形そうぎょうすみ法衣ころも、灰色に成つて、うずくまるか、とれば欄干に胡坐あぐらいてうたふ。

 橋は心覚えのある石橋いしばし巌組いわぐみである。気が着けば、あの、かくれだきの音は遠くだう〳〵と鳴つて、風の如くに響くが、かすれるほどの糸のも乱れず、唇をあわすばかりの唄もさえぎられず、嵐の下の虫の声。が、形はいちじるしいものではない、胸をくしや〳〵と折つて、坊主頭を、がく、と俯向うつむけて唄ふので、うなじいた転軫てんじんかかる手つきは、鬼がつのはじくと言はばいかめしい、むしろ黒猫が居て顔を洗ふと言ふのに適する。

──なから舞ひたりしに、御輿みこしたけ愛宕山あたごやまかたより黒雲くろくもにわか出来いできて、洛中らくちゅうにかゝると見えければ、──

 と唄ふ。……紫玉は腰を折つて地に低く居て、弟子は、其の背後うしろしゃがんだ。

──八大竜王はちだいりゅうおう鳴渡なりわたりて、稲妻いなずまひらめきしに、諸人しょにん目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏あんおんなりければ、さてこそ静のまいに示現ありけるとて、日本一と宣旨せんじたまわりけると、うけたまわそうろう。──

 時に唄をめて黙つた。

太夫様たゆうさま。」

 余り尋常じんじょうな、ものいひだつたが、

「は、」と、呼吸いきをひいて答へた紫玉の、身動みじろぎに、帯がキと擦れて鳴つたほど、深く身に響いて聞いたのである。

癩坊主かったいぼうずが、ねだりごとうけごうて、千金せんきんかんざしてられた。其の心操こころばえに感じて、些細ささいながら、礼心れいごころ内証ないしょうの事を申す。貴女あなた雨乞あまごいをなさるがい。──てんの時、の利、ひとの和、まさしく時節じせつぢや。──こゝの大池おおいけ中洲なかすの島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……はかま練衣ねりぎぬ烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ白拍子しらびょうしの姿がからう。衆人しゅうじんめぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高くあらわし、大空に向つてはいをされい。祭文さいもんにも歌にも及ばぬ。天竜てんりゅう、雲をり、らいを放ち、雨をみなぎらすは、明午みょうごを過ぎてさる上刻じょうこく分毫ふんごうも相違ない。国境の山、赤く、黄に、みねたけを重ねてただれた奥に、白蓮びゃくれんの花、玉のたなそこほどに白くそびえたのは、四時しじに雪を頂いて幾万年いくまんねん白山はくさんぢや。貴女あなた、時を計つて、其の鸚鵡おうむの釵を抜いて、山の其方そなたに向つてかざすを合図に、雲は竜の如くいて出よう。──ほ其の上に、いか、名を挙げられい。……」

──賢人かしこびとつりを垂れしは、

厳陵瀬げんりょうらいの河の水。

月影ながらもる夏は、

山田のかけいの水とかや。──……


        十一


 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒く成つて人がいた。煉瓦れんが羽蟻はありで包んだやうなすさまじい群集である。

 かりに、鎌倉殿かまくらどのとして置かう。此の……県に成上なりあがりの豪族、色好いろごのみの男爵で、面構つらがまえ風采ふうつき巨頭公あたまでっかちようたのが、劇興行しばいこうぎょうのはじめからに手を貸さないで紫玉を贔屓ひいきした、既に昨夜ゆうべ或処あるところ一所いっしょに成る約束があつた。其のの時間を、紫玉は微行びこうしたのである。が、思ひも掛けない出来事のために、大分の隙入ひまいりをしたものの、船に飛んだこいは、其のよしをことづけて初穂はつほと言ふのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使つかいを走らせたほどなのであつた。──

 車の通ずるところまでは、う自動車が来て待つて居て、やがて、相会あいかいすると、ある時間までは附添つきそつて差支さしつかへない女弟子の口から、真先まっさきに予言者の不思議がれた。

 一議に及ばぬ。

 其ののうちに、池の島へ足代あじろを組んで、朝はや法壇が調ととのつた。無論、略式である。

 県社の神官に、故実こじつの詳しいのがあつて、神燈しんとうを調へ、供饌ぐせんを捧げた。

 島には鎌倉殿の定紋じょうもんついた帷幕まんまく引繞ひきめぐらして、威儀を正した夥多あまたの神官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。

 あの、底知れずの水に浮いた御幣ごへいは、やがて壇に登るべき立女形たておやまに対して目触めざわりだ、と逸早いちはや取退とりのけさせ、樹立こだちさしいでてかげある水に、例の鷁首げきしゅの船をうかべて、なかむらさきの幕を絞つたうちには、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位くんいの人々が、さかずきを置いてこもつた。──雨乞あまごいに参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。

 伶人れいじんの奏楽一順して、ヒユウとしょう虚空こくうに響く時、柳の葉にちら〳〵と緋のはかまがかゝつた。

 群集は波をんで動揺なだれを打つた。

 あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、きざはししきられて、二条ふたすじべにかすみきつゝ、うえむらさきした萌黄もえぎなる、ちょうとり刺繍ぬい狩衣かりぎぬは、緑に透き、葉になびいて、柳の中を、する〳〵と、容顔美麗なる白拍子しらびょうし。紫玉は、色ある月の風情ふぜいして、一千の花のともしの影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。

 花火の中から、天女てんにょななめに流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。

 烏帽子えぼしもともに此の装束しょうぞくは、おりものの模範、美術の表品ひょうほん、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什物じゅうもつであつた。

 て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のためにしるすべき振事ふりごとは更にない。かれは学校出の女優である。

 が、姿は天より天降あまくだつたたええんなる乙女おとめの如く、国を囲める、其の赤く黄にただれたるみねたけつらぬいて、高く柳のあいだかかつた。

 紫玉はうやうやしくたび虚空なかぞらを拝した。

 時に、宮奴みやつこよそおいした白丁はくちょうの下男が一人、露店の飴屋あめやが張りさうな、しぶ大傘おおからかさたたんで肩にかついだのが、法壇の根にあらわれた。──此はしからず、天津乙女あまつおとめの威厳と、場面の神聖をそこなつて、うやら華魁おいらんの道中じみたし、雨乞あまごいには行過ゆきすぎたもののやうだつた。が、何、降るものときまれば、雨具あまぐの用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉がかついだ装束は、貴重なる宝物ほうもつであるから、驚破すわと言はばさし掛けてらすまいための、鎌倉殿の内意ないいであつた。

 ──ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。──

 あはれ、身のおきどころがなく成つて、紫玉のすそが法壇に崩れた時、「ざまを見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込とびこめ。」──わツと群集の騒いだ時、……たまらぬ、と飛上とびあがつて、紫玉をおさへて、生命いのち取留とりとめたのも此の下男で、同時に狩衣かりぎぬぎ、緋のはかまひも引解ひきほどいたのも──鎌倉殿のためには敏捷びんしょうな、忠義な奴で──此の下男である。

 雨はもとより、風どころか、あまりの人出に、大池おおいけには蜻蛉とんぼも飛ばなかつた。


        十二


 時を見、ほどを計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足許あしもとに低き波の如く見下みおろしつゝ、昨日きのう通つた坂にさへありの伝ふに似て押覆おしかえ人数にんずを望みつゝ、おもむろに雪のあぎとに結んだむらさきひもいて、結目むすびめを胸に、烏帽子えぼしを背に掛けた。

 其から伯爵のかんざしを抜いて、意気込んで一振ひとふり振ると、……黒髪のさっさばけたのが烏帽子のきん裏透うらすいて、宛然さながら金屏風きんびょうぶに名誉の絵師の、松風をすみで流したやうで、雲も竜も其処そこからくか、とながめられた。──此だけは工夫した女優の所作しょさで、手には白金プラチナ匕首あいくちの如く輝いて、凄艶せいえん比類なき風情ふぜいであつた。

 さて其の鸚鵡おうむを空にかざした。

 紫玉のみはつたには、たしか天際てんさい僻辺へきへんに、美女のに似た、白山はくさんは、白く清く映つたのである。

 毛筋けすじほどの雲も見えぬ。

 雨乞あまごいの雨は、いづれ後刻ごこくの事にして、其のまゝ壇をくだつたらば無事だつたらう。ところが、遠雷えんらいの音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台にれた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前まのあたり鯉魚りぎょ神異しんいを見た、怪しき僧の暗示と讖言しんげんを信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣のそでのやうに白山のまゆひるがえるであらうと信じて、須叟しばしを待つを、法壇を二廻ふたまわ三廻みまわり緋のはかまして輪に歩行あるいた。が、此は鎮守ちんじゅ神巫みこに似て、しかもなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。

 群集の思はんほどもはばかられて、わきの下につめたき汗を覚えたのこそ、天人てんにん五衰ごすいのはじめとも言はう。

 気をかへてきっと成つて、もの忘れした後見こうけんはげしくきつかけを渡すさまに、紫玉は虚空こくうに向つて伯爵の鸚鵡おうむを投げた。が、あの玩具おもちゃ竹蜻蛉たけとんぼのやうに、晃々きらきらと高く舞つた。

大神楽だいかぐら!」

 とわめいたのが第一番の半畳はんじょうで。

 一人口火くちびを切つたからたまらない。練馬大根ねりまだいこんと言ふ、おかめとわめく。雲の内侍ないじと呼ぶ、あめしよぼを踊れ、と怒鳴どなる。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒謗ざんぼう罵詈ばりいかずちの如くどっく。

 鎌倉殿かまくらどのは、船中に於て嚇怒かくどした。愛寵あいちょうせる女優のために群集の無礼をいきどおつたのかと思ふと、──うではない。這般この、好色の豪族は、はやく雨乞のしるしなしと見て取ると、日のさくの、短夜みじかよもはやなかばなりししゃ蚊帳かやうちを想ひ出した。……

 雨乞のためとて、精進潔斎しょうじんけっさいさせられたのであるから。

げ。」

 紫幕むらさきまくの船は、矢をるように島へ走る。

 一度、駆下かけおりようとした紫玉の緋裳ひもすそは、此の船の激しく襲つたために、一度引留ひきとめられたものである。

「…………」

 と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁はくちょう豆烏帽子まめえぼしからかさかついだ宮奴みややっこは、島になる幕の下をつて、ヌイとつらを出した。

 すぐに此奴こいつが法壇へ飛上とびあがつた、其のはやさ。

 紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとするところを、おさへて、そしていだ。

 女の身としてあられうか。

 あの、雪をつかねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれなさまは、月を祭る供物くもつに似て、あらず、旱魃かんばつ鬼一口おにひとくち犠牲にえである。

 ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。

 赤ら顔の大入道おおにゅうどうの、首抜きの浴衣ゆかたの尻を、しちのづまでひきめくつたのが、にがり切つたる顔して、つか〳〵と、きざはしを踏んであがつた、金方きんかたなんぞであらう、芝居もので。

 肩を無手むずと取ると、

「何だ、ざまは。小町こまちしずかぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」

 手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日れつじつに裂けかゝる氷のやうな練絹ねりぎぬの、紫玉の、ふくよかな胸を、酒焼さかやけの胸に引掴ひっつかみ、毛脛けずねに挟んで、

「立たねえかい。」


        十三


口惜くやしい!」

 紫玉はふなばたすがつて身を震はす。──真夜中の月の大池おおいけに、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮すいれんの如くただよひつゝ。

「口惜しいねえ。」

 車馬しゃばの通行をめた場所とて、人目の恥に歩行あゆみも成らず、──金方の計らひで、──万松亭ばんしょうていと言ふみぎわなる料理店に、とにかく引籠ひっこもる事にした。紫玉はただ引被ひっかついで打伏うちふした。が、金方きんかたは油断せず。弟子たちにもむねを含めた。で、次場所つぎばしょの興行くては面白かるまいと、やけ酒をあおつて居たが、酔倒えいたおれて、其は寝た。

 料理店の、あの亭主は、心やさしいもので、起居たちいにいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深更しんこうしかも夏の戸鎖とざし浅ければ、伊達巻だてまき跣足はだしで忍んで出るすきは多かつた。

 生命いのちおしからぬ身には、あやつるまでの造作ぞうさも要らぬ。小さな通船かよいぶねは、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺動ゆりうごいて、しおれつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面影おもかげは、昼の空とは世をかへて、皓々こうこうとしてしずくする月のつゆ吸ふ力もない。

「えゝ、口惜しい。」

 乱れがみをむしりつゝ、手で、砕けよ、とハタとふなばたを打つと……時のせた指は細く成つて、右の手のつの指環は明星になぞらへた金剛石ダイヤモンドのをはじめ、紅玉ルビイも、緑宝玉エメラルドも、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅うすくれないに、浅緑あさみどりに皆水に落ちた。

 うでもなれ、左を試みに振ると、青玉せいぎょく黄玉こうぎょくも、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……たつくちは、水の輪に舞ふところである。

 こゝに残るは、名なれば其をほこりとして、指にも髪にも飾らなかつた、むらさきの玉ただ一つ。──紫玉は、中高なかだかな顔に、深く月影に透かして差覗さしのぞいて、千尋ちひろふち水底みなそこに、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干らんかんと、あれ、森のこずえ白鷺しらさぎの影さへ宿る、やぐらと、窓と、たかどのと、美しい住家すみかた。

「ぬしにも成つて、この、此の田舎いなかのものども。」

 すがる波に力あり、しかと引いて水をつかんで、池にさかさまに身を投じた。爪尖つまさきの沈むのが、かんざし鸚鵡おうむの白くはねうつが如く、月光にかすかに光つた。


御坊様ごぼうさま貴方あなたは?」

「あゝ、山国やまぐに門附かどづけ芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、までの事もない。昨日きのうから御目おめに掛けた、あれは手品ぢや。」

 坊主は、欄干にまが苔蒸こけむした井桁いげたに、破法衣やれごろもの腰を掛けて、けるが如く爛々らんらんとしてまなこの輝く青銅の竜のわだかまれる、つのの枝に、ひじを安らかにみつゝ言つた。

「私に、何のおうらみで?……」

 と息せくと、めっかちの、ふやけた目珠めだまぐるみ、片頬かたほおたなそこでさしおおうて、

「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚めざましい人気ゆゑに、恥入るか、ものねたみをして、前芸まえげい一寸ちょっとつた。……さて時にうけたまはるが太夫たゆう貴女あなたは其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞あまごいをせよ、と言はば、すぐに優伎わざおぎの舞台に出て、小町こまちしずかも勤めるのかな。」

 紫玉はいわや俯向うつむいた。

「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。──われらの手品はうぢやらう。」

「えゝ、」

 と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身にみた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。

「貴方なら、貴方なら──何故なぜ、さすらうておいで遊ばす。」

 坊主は両手で顔をおさへた。

面目めんぼくない、われら、に、高いとうとところに恋人がおはしてな、くもきりを隔てても、其の御足許おあしもとは動かれぬ。!」

 と、あわただしく身を退しさると、あきれ顔してハツと手を拡げて立つた。

 髪黒く、色雪の如く、いつくしく正しくえんに気高き貴女きじょの、つくろはぬ姿したのが、すらりと入つた。月をうなじけつと見えたは、真白ましろ涼傘ひがさであつた。

 ひざと胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、しろやかなる手尖てさきを軽く、彼が肩に置いて、

「私をつたね。──雨と水の世話をしに出て居た時、……」

 よそおいは違つた、が、幻の目にも、面影おもかげは、浦安うらやすみや、石の手水鉢ちょうずばち稚児ちごに、寸分のかはりはない。

「姫様、貴女あなたは。」

 と坊主が言つた。

白山はくさんへ帰る。」


 あゝ、其のけんみねの雪の池には、竜女りゅうじょ姫神ひめがみおはします。

「お馬。」

 と坊主が呼ぶと、スツとたたんで、貴女きじょが地に落した涼傘ひがさは、身震みぶるいをしてむくと起きた。手まさぐりたまへる緋のふさは、たちまくれない手綱たづなさばけて、朱のくらいた白の神馬しんめ

 ずつとすのを、轡頭くつわづないて、トトトト──と坊主が出たが、

纏頭しゅうぎをするぞ。それ、にしきを着て行け。」

 かなぐり脱いだ法衣ころもを投げると、素裸すはだかの坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧こんぺきなるいわおそばだがけを、翡翠ひすい階子はしごを乗るやうに、貴女きじょは馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫びょうぼうたる曠野ひろのの中をタタタタとひづめ音響ひびき

 蹄を流れて雲がみなぎる。……

 身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水れいたくこんすいの、巌窟がんくつの奥である。うしろは五十万坪ととなふる練兵場れんぺいじょう

 紫玉が、たゞ沈んだ水底みなそこと思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。──

 雨を得た市民が、白身はくしん破法衣やれごろもした女優の芸の徳に対する新たなる渇仰かつごう光景ようすが見せたい。

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会

   1991(平成3)年325日初版第1刷発行

   1995(平成7)年109日初版第5刷発行

底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店

   1940(昭和15)年発行

初出:「婦女界」

   1920(大正9)年1

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2009年510日作成

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