註文帳
泉鏡花
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剃刀研 十九日 紅梅屋敷 作平物語 夕空 点灯頃
雪の門 二人使者 左の衣兜 化粧の名残
剃刀研
一
「おう寒いや、寒いや、こりゃべらぼうだ。」
と天窓をきちんと分けた風俗、その辺の若い者。双子の着物に白ッぽい唐桟の半纏、博多の帯、黒八丈の前垂、白綾子に菊唐草浮織の手巾を頸に巻いたが、向風に少々鼻下を赤うして、土手からたらたらと坂を下り、鉄漿溝というのについて揚屋町の裏の田町の方へ、紺足袋に日和下駄、後の減ったる代物、一体なら此奴豪勢に発奮むのだけれども、一進が一十、二八の二月で工面が悪し、霜枯から引続き我慢をしているが、とかく気になるという足取。
ここに金鍔屋、荒物屋、煙草屋、損料屋、場末の勧工場見るよう、狭い店のごたごたと並んだのを通越すと、一間口に看板をかけて、丁寧に絵にして剪刀と剃刀とを打違え、下に五すけと書いて、親仁が大目金を懸けて磨桶を控え、剃刀の刃を合せている図、目金と玉と桶の水、切物の刃を真蒼に塗って、あとは薄墨でぼかした彩色、これならば高尾の二代目三代目時分の禿が使に来ても、一目して研屋の五助である。
敷居の内は一坪ばかり凸凹のたたき土間。隣のおでん屋の屋台が、軒下から三分が一ばかり此方の店前を掠めた蔭に、古布子で平胡坐、継はぎの膝かけを深うして、あわれ泰山崩るるといえども一髪動かざるべき身の構え。砥石を前に控えたは可いが、怠惰が通りものの、真鍮の煙管を脂下りに啣えて、けろりと往来を視めている、つい目と鼻なる敷居際につかつかと入ったのは、件の若い者、捨どんなり。
手を懐にしたまま胸を突出し、半纏の袖口を両方入山形という見得で、
「寒いじゃあねえか、」
「いやあ、お寒う。」
「やっぱりそれだけは感じますかい、」
親仁は大口を開いて、啣えた煙管を吐出すばかりに、
「ははははは、」
「暢気じゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。」
「一言もござりませんね、ははははは。」
「見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落して行く奴アありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと同一で、たちまち鳶トーローローだい。」
「こう、憚りだが、そんな曰附の代物は一ツも置いちゃあねえ、出処の確なものばッかりだ。」と件ののみさしを行火の火入へぽんと払いた。真鍮のこの煙管さえ、その中に置いたら異彩を放ちそうな、がらくた沢山、根附、緒〆の類。古庖丁、塵劫記などを取交ぜて、石炭箱を台に、雨戸を横え、赤毛布を敷いて並べてある。
「いずれそうよ、出処は確なものだ。川尻権守、溝中長左衛門ね、掃溜衛門之介などからお下り遊ばしたろう。」
「愚哉々々、これ黙らっせえ、平の捨吉、汝今頃この処に来って、憎まれ口をきくようじゃあ、いかさま地いろが無えものと見える。」と説破一番して、五助はぐッとまた横啣。
平の捨吉これを聞くと、壇の浦没落の顔色で、
「ふむ、余り殺生が過ぎたから、ここん処精進よ。」と戸外の方へ目を反す。狭い町を一杯に、昼帰を乗せてがらがらがら。
二
あとは往来がばったり絶えて、魔が通る前後の寂たる路かな。如月十九日の日がまともにさして、土には泥濘を踏んだ足跡も留めず、さりながら風は颯々と冷く吹いて、遥に高い処で払をかける。
「串戯じゃあねえ、」と若い者は立直って、
「紺屋じゃあねえから明後日とは謂わせねえよ。楼の妓衆たちから三挺ばかり来てる筈だ、もう疾くに出来てるだろう、大急ぎだ。」
「へいへい。いやまた家業の方は真面目でございス、捨さん。」
「うむ、」
「出来てるにゃ出来てます、」と膝かけからすぽりと抜けて、行火を突出しながらずいと立つ。
若いものは心付いたように、ハアトと銘のあるのを吸いつける。
五助は背後向になって、押廻して三段に釣った棚に向い、右から左のへ三度ばかり目を通すと、無慮四五百挺の剃刀の中から、箱を二挺、紙にくるんだのを一挺、目方を引くごとく掌に据えたが、捨吉に差向けて、
「これだ、」
「どれ、」
箱を押すとすッと開いて、研澄ましたのが素直に出る、裏書をちょいと視め、
「こりゃ青柳さんと、可し、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。」
「大丈夫、」
「確かね。」
「千本ごッたになったって私が受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、」
「なあに、間違ったって剃刀だあ。」
「これ、剃刀だあじゃあねえよ、お前さん。今日は十九日だぜ。」
「ええ、驚かしちゃあ不可え、張店の遊女に時刻を聞くのと、十五日過に日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年は閏がねえ。」
「いえ、閏があろうとあるまいと、今日は全く十九日だろうな。」と目金越に覗き込むようにして謂ったので、捨吉は変な顔。
「どうしたい。そうさ、」
「お前さん楼じゃあ構わなかったっけか。」
「何を、」
「剃刀をさ。」
謂うことはのみ込めないけれども、急に改まって五助が真面目だから、聞くのも気がさして、
「剃刀を? おかしいな。」
「おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵何楼でも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに寄越したのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえと危えよ。」
ますます怪訝な顔をしながら、
「何も変なこたアありやしないんだがね、別に遊女たちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、遣れるもんなら楼に居るだけ残らずというのよ。」
「皆かい、」
「ああ、」
「いよいよ悪かろう。」
「だってお前、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。」
五助は苦笑をして、
「洒落じゃあないというに。」
「何、洒落じゃあねえ、まったくの話だよ。」と若いものは話に念が入って、仕事場の前に腰を据えた。
十九日
三
「昨夜ひけ過にお前、威勢よく三人で飛込んで来た、本郷辺の職人徒さ。今朝になって直すというから休業は十七日だに変だと思うと、案の定なんだろうじゃあないか。
すったもんだと捏ねかえしたが、言種が気に入ったい、総勢二十一人というのが昨日のこッた、竹の皮包の腰兵糧でもって巣鴨の養育院というのに出かけて、施のちょきちょきを遣ってさ、総がかりで日の暮れるまでに頭の数五百と六十が処片づけたという奇特な話。
その崩が豊国へ入って、大廻りに舞台が交ると上野の見晴で勢揃というのだ、それから二人三人ずつ別れ別れに大門へ討入で、格子さきで胄首と見ると名乗を上げた。
もとよりひってんは知れている、ただは遁げようたあ言わないから、出来るだけ仕事をさせろ。愚図々々吐すと、処々に伏勢は配ったり、朝鮮伝来の地雷火が仕懸けてあるから、合図の煙管を払くが最後、芳原は空へ飛ぶぜ、と威勢の好い懸合だから、一番景気だと帳場でも買ったのさね。
そこで切味の可いのが入用というので、ちょうどお前ん処へ頼んだのが間に合うだろうと、大急ぎで取りに来たんだが、何かね、十九日がどうかしたかね。」
「どうのこうのって、真面目なんだ。いけ年を仕って何も万八を極めるにゃ当りません。」
「だからさ、」
「大概御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に船頭衆が大晦日の船出をしねえというような極ったんじゃアありません。他の同商売にはそんなことは無えようだが、廓中のを、こうやって引受けてる、私許ばかりだから忌じゃあねえか。」
「はて──ふうむ。」
「見なさる通りこうやって、二百三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一挺どうしようと云うのも無えてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。紛失するなんてえ馬鹿げたことはない筈だが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつ失くなります。」
「何が、」と変な目をして、捨吉は解ったようで呑込めない。
「何がッたって、預ってる中のさ。」
「おお、」
「ね、御覧なせえ、不思議じゃアありませんかい。私もどうやらこうやら皆様で贔屓にして、五助のでなくッちゃあ歯切がしねえと、持込んでくんなさるもんだから、長年居附いて、婆どんもここで見送ったというもんだ。先の内もちょいちょい紛失したことがあるにゃあります。けれども何の気も着かねえから、そのたんびに申訳をして、事済みになり〳〵したんだが。
毎々のことでしょう、気をつけると毎月さ、はて変だわえ、とそれからいつでも寝際にゃあちゃんと、ちゅう、ちゅう、たこ、かいなのちゅ、と遣ります。
いつの間にか失くなるさ、怪しからねえこッたと、大きに考え込んだ日が何でも四五年前だけれど、忘れもしねえ十九日。
聞きなせえ。
するとその前の月にも一昨日持って来たとッて、東屋の都という人のを新造衆が取りに来て、」
五助は振向いて背後の棚、件の屋台の蔭ではあり、間狭なり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見て厭な顔。
四
「と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっち凹み、先方様むくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、検べたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。」
「へい、」と言って、若い者は巻煙草を口から取る。
五助は前屈みに目金を寄せ、
「ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお喜乃さんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいって帰ったッけ、翌日の晩方、わざわざやって来て、
(どうしたわけだか、鏡台の上に、)とこうだ。私許へ預って、取りに来て失せたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。
鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子の桟なんぞに乗っかってる内があるッさ。
浮舟さんが燗部屋に下っていて、七日ばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へ入っちゃあ不可えと固く留められていたのを、悪汗が酷いといって、中引過ぎに密ッと這出して行って湯殿口でざっくり膝を切って、それが許で亡くなったのも、お前、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。
その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんの楼のじゃあねえ、確か喜怒川の緑さんのだ、どこへどう間違って行くのだか知れねえけれども、厭じゃあねえか、恐しい。
引くるめて謂や、こっちも一挺なくなって、廓内じゃあきっと何楼かで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でも私が研澄したのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。
溌としちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀を扱わねえことを知っていそうなもんだと思うが、楼でも気がつかねえでいるのかしら。」
「ええ! ほんとうかい、お前とは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?」と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目を睜ると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。
「ええ、もし、」
「はい。」と目金を向ける、気を打った捨吉も斉しく振向くと、皺嗄れた声で、
「お前さん、御免なさいまし。」
敷居際に蹲った捨吉が、肩のあたりに千草色の古股引、垢じみた尻切半纏、よれよれの三尺、胞衣かと怪まれる帽を冠って、手拭を首に巻き、引出し附のがたがた箱と、海鼠形の小盥、もう一ツ小盥を累ねたのを両方振分にして天秤で担いだ、六十ばかりの親仁、瘠さらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。
捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなもの謂で、
「何だ、」
「はい、もしお寒いこッてござります。」
「北風のせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。」
「へへへへへ、」と鼻の尖で寂しげなる笑を洩し、
「もし、唯今のお話は、たしか幾日だとかおっしゃいましたね。」
五
五助は目金越に、親仁の顔を瞻っていたが、
「やあ作平さんか、」といって、その太わくの面道具を耳から捻り取るよう、挘ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、
「飛んだ、まあお珍しい、」と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、
「作平さん、かね。」と低声で口の裡。
折から、からからと後歯の跫音、裏口ではたと留んで、
「おや、また寝そべってるよ、図々しい、」
叱言は犬か、盗人猫か、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと蓮葉にしめたが、浅間だから直にもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気勢。
「唯今。」
「帰んなすったかい、」
「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、
「もうそんな時分かな。」
「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」
という時、二枚立のその障子の引手の破目から仇々しい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。蓋し昼の間寐るだけに一間の半を借り受けて、情事で工面の悪い、荷物なしの新造が、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
「少し立込んだもんですからね、」
「いや、御苦労様、これから緩りとおひけに相成ます?」
「ところが不可ないの、手が足りなくッて二度の勤と相成ります。」
「お出懸か、」と五助。
「ええ、困るんですよ、昨夜もまるッきり寐ないんですもの、身体中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん堪らないから、もう一枚下へ着込んで行きましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりと遣る。
さらぬだに震えそうな作平、
「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」
「はッくしょい、ほう、」と呼吸を吹いて、堪りかねたらしい捨吉続けざまに、
「はッくしょい! ああ、」といって眉を顰め、
「噂かな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身替を立てる間奥の一間で長ッ尻と来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って行くよ。途中で自然からこの蓋が取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台辞あり。
五助はまめだって、
「よくそう謂いなせえよ、」
「十九日かね、」と内からいう。
「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰を伸してずいと立った。
「希代だわねえ。」
「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、振かえて、荷を下し、屋台へ天秤を立てかける。
捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、
「おッと十九日。」
という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯を堆く積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、日向をのッしりと曵いて通る。向うの路地の角なる、小さな薪屋の店前に、炭団を乾かした背後から、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けて行く。大音寺前あたりで飴屋の囃子。
紅梅屋敷
六
その荷車と子守の行違ったあとに、何にもない真赤な田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。
途端にちりりんと鈴の音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、
「危い、」と声かけてまた一輛、あッと退ると、耳許へ再び、ちりちり!
土手の方から颯と来たが、都合三輛か、それ或は三羽か、三疋か、燕か、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。
棒立ちになって、捨吉茫然と見送りながら、
「何だ、一文も無え癖に、」
「汝じゃアあるまいし。」
「や、」
「どうした。」
「へい、」
「近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、汝、桐島のお消に大分執心だというじゃあないか。」
「どういたしまして、」
「少しも御遠慮には及ばぬよ。」
「いえ、先方へでございます、旦那にじゃあございません。」
「そうか、いや意気地の無い奴だ。」と腹蔵の無い高笑。少禿天窓てらてらと、色づきの好い顔容、年配は五十五六、結城の襲衣に八反の平絎、棒縞の綿入半纏をぞろりと羽織って、白縮緬の襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二上屋藤三郎という遊女屋の亭主で、廓内の名望家、当時見番の取締を勤めているのが、今向の路地の奥からぶらぶらと出たのであった。
界隈の者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の突当、通の長屋並の屋敷越に遠くちらちらとある紅は、早や咲初めた莟である。
捨吉は更めて、腰を屈めて揉手をし、
「旦那御一所に。」
「おお、これからの、」
という処へ、萌黄裏の紺看板に二の字を抜いた、切立の半被、そればかりは威勢が可いが、かれこれ七十にもなろうという、十筋右衛門が向顱巻。
今一人、唐縮緬の帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、後前に寮の方から路地口へ。
捨吉はこれを見て、
「や、爺さん、こりゃ姉さん、」
「ああ、今日はちっとの、内証に芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下拵に来てみると、困るじゃあねえか、お前。」
「へい、へい成程。」
「お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから厭だと謂うわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩暈をされたり、虫でも発されちゃあ叶わねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳優というと目の敵にして嫌うから、そこで何だ。客は向へ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、」
「へい、へい、へい、成程、そりゃお前さん方御苦労様。」
「はははは、別荘に穴籠の爺めが、土用干でございますてや。」
「お前さん、今日は。」とお辻というのが愛想の可い。
藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研屋の店を覗込んで、
「よくお精が出るな。」
「いや、」作平と共に四人の方を見ていたのが、天窓をひたり、
「お天気で結構でございます。」
「しかし寒いの。」と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪形にずッと眗して、
「筑波の方に雲が見えるぜ。」
七
「嘘あねえ。」
と五助はあとでまた額を撫で、
「怠けちゃあ不可いと謂われた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。
実際また我ながらお怠け遊ばす、婆どんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もう叶わねえ。
人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、飲けで稼ぐという奴あ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、」と振向いて呼んでみたが、
「もうお出懸けだ、いや、よく老実に廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬燵に当ってよ、その障子を開けりゃ可い、はらんばいになって休んで行きねえ。」
「そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に入って、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀の失せるという日は、確か十九日とかいわしった、」
「むむ、十九日十九日、」と、気乗がしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、
「そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、」
五助は身を捻って、心覚、後ざまに棚なる小箱の上から、取下した分厚な一綴の註文帳。
膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指の尖でずッと一わたり、目金で見通すと、
「そうそうそう、」といって仰向いて、掌で帳面をたたくこと二三度す。
作平もしょぼしょぼとある目で覗きながら、
「日切の仕事かい。」
「何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一挺私が気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、」
「それは邪魔をして気の毒な。」
「飛んでもねえ、緩りしてくんねえ。何さ、実はお前、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を更めて、砥石を洗って、ここで一挺念入というのがあるのさ、」
「気に入ったあつらえかの。」
「むむ、今そこへ行きなすった、あの二上屋の寮が、」
と向うの路地を指した。
「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の秘蔵女さ。
そりゃ見せたいような容色だぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の内証で育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。
お蔭で命を助かった位な施を受けてるのがいくらもあら。
藤三郎父親がまた夢中になって可愛がるだ。
少姐の袖に縋りゃ、抱えられてる妓衆の証文も、その場で煙になりかねない勢だけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの容色が佳いから天窓を下げるのが口惜いとよ。
私あ鐚一文世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでお前、その少姐が大の贔屓。
どうだい、こう聞きゃあお前だって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。」
八
「ところで御註文を格別の扱だ。今日だけは他の剃刀を研がねえからね、仕事と謂や、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄除の別火にして、お若さんのを研ごうと思って。
うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。
一体十九日の紛失一件は、どうも廓にこだわってるに違えねえ。祟るのは妓衆なんだからね、少姐なんざ、遊女じゃあなし、しかも廓内に居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。
まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと誰方か取りにござる。いや作平さん、狐千年を経れば怪をなす、私が剃刀研なんざ、商売往来にも目立たねえ古物だからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。
そういやあ作平さん、お前さんの鏡研も時代なものさ、お互に久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。」
その箱と盥とを荷った、痩さらぼいたる作平は、蓋し江戸市中世渡ぐさに俤を残した、鏡を研いで活業とする爺であった。
淋しげに頷いて、
「ところがもし御同様じゃで、」
「御同様⁉」と五助は日脚を見て仕事に懸る気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶の中で砥石を洗いながら、慌てたように謂返した。
「御同様は気がねえぜ、お前の方にも曰があるかい。」
「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、私は広徳寺前を右へ寄って、稲荷町の鏡研、自分達が早や変化の類じゃ、へへへへへ。」と薄笑。
「おやおや、汝から名乗る奴もねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。
「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌の姿じゃわ、羅宇屋の方はまだ開けたのが出来たけれど、もう貍穴の狸、梅暮里の鰌などと同一じゃて。その癖職人絵合せの一枚刷にゃ、烏帽子素袍を着て出ようというのじゃ。」
「それだけになお罪が重いわ。」
「まんざらその祟に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」
「何か剃刀の失せるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の差配人さんが、前の溝川の橋を渡って、蔀を下した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃の御催促。万年町の縁の下へ引越すにも、尨犬に渡をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼、一刻も猶予ならぬ立退けでござりましょう。その儀ならば後とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂うたらば。
差配さん苦笑をして、狸爺め、濁酒に喰い酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋を踏外そうという風かい。溝店のお祖師様と兄弟分だ、少い内から泥濘へ踏込んだ験のない己だ、と、手前太平楽を並べる癖に。
御意でござります。
どこまで始末に了えねえか数が知れねえ。可いや、地尻の番太と手前とは、己が芥子坊主の時分から居てつきの厄介者だ。当もねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕輪の浄閑寺へ廻って、以前御贔屓になりましたと、遊女の無縁の塔婆に挨拶をして来やあがる。そんな奴も差配内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。忰は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩行かねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと砥にあてたが、哄然として、
「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」
作平物語
九
「ところで聞かっしゃい、差配さまの謂うのには、作平、一番念入に遣ってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐中から、朱総つき、錦の袋入というのを一面の。
何でも差配さんがお出入の、麹町辺の御大家の鏡じゃそうな。
さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。憚ってお名前は出さぬが、と差配さんが謂わっしゃる。
その御大家は今寡婦様じゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が少い時よ。
誰もこの迷ばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花主の方に深いのが一人出来て、雨の夜、雪の夜もじゃ。とどの詰りがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより他に、何の望もなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
遊女は自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情人の顔じゃ。窶れりゃ窶れるほど、嬉しいような男振じゃが、大層髭が伸びていた。
鏡台の前に坐らせて、嗽茶碗で濡した手を、男の顔へこう懸けながら、背後へ廻った、とまあ思わっせえ。
遊女は、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延鏡が鏡立に据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。
うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊女が死のうという気じゃ。
あなた、私の心が見えましょう、と覗込んだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯向けにして、男がぴったりと自分の胸へ押着けたと。
何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背後ざまに弾ねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には怨がある。母様によく肖た顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男泣。
遊女はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩せた指で、剃刀を握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然逆手に持直して、何と、背後からものもいわずに、男の咽喉へ突込んだ。」
五助は剃刀の平を指で圧えたまま、ひょいと手を留めた。
「おお、危え。」
「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦人じゃあなかった。俺あ遊女の名と坂の名はついぞ覚えたことは無えッて、差配さんは忘れたと謂わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴とした旗本のお嬢さんで、お邸は番町辺。
何でも徳川様瓦解の時分に、父様の方は上野へ入んなすって、お前、お嬢さんが可哀そうにお邸の前へ茣蓙を敷いて、蒔絵の重箱だの、お雛様だの、錦絵だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合、という深い交情であったげな。
牛込見附で、仲間の乱暴者を一人、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利なお嬢さんじや、廓でも一時四辺を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴。」
「ほい。」
十
「男はまるで油断なり、万に一つも助かる生命じゃあなかったろうに、御運かの。遊女は気がせいたか、少し狙がはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
私はどちらがどうとも謂わぬ。遊女の贔屓をするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦人が、仕損じは、まあ、どうじゃ。」
「されば、」
「その代り返す手で、我が咽喉を刎ね切った遊女の姿の見事さ!
口惜しい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余所の婦人に見せるのは口惜しい! との、唇を噛んだまま、それなりけり。
全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、吃とした心になったのじゃげな。
容子で悟った遊女も目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真如の月かい。生命の親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて総つき錦の袋入はその筈じゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の児よりも可愛がっておいでなさる、甥御が一方。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣物になさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女狂、つまり悪所入などをしなさらぬようにというのじゃ。
作平頼む、と差配さんが置いて行かれた。畏り奉るで、昨日それが出来て、差配さんまで差出すと、直に麹町のお邸とやらへ行かしった。
点火頃に帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと心から辞退をしたけれども、いや先方様でも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御維新になって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一、ちょうど昨日の話で今日、更めてその甥御様に送る間にあった、ということで、研賃には多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。
頂きます頂きます、飲代になら百両でも御辞退仕りまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜一晩。
ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
お連合の今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心懸も天晴なり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも可いわい。その研手に私をつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可し。戒のためと謂うて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女の身になって御覧じろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
迷じゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、他の婦人に見せるのが厭さに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
それを考えれば酒も咽喉へは通らぬのを、いやそうでない。魂魄この土に留まって、浄閑寺にお参詣をする私への礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、私に一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、煽るほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
私の顔色の悪いのは、お憚りだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。
夕空
十一
時に五助は反故紙を扱いて研ぎ澄した剃刀に拭をかけたが、持直して掌へ。
折から夕暮の天暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大鷲の嘴のごとく田町の空を差覗いて、一しきり烈しくなった往来の人の姿は、ただ黒い影が行違い、入乱るるばかりになった。
この際一際色の濃く、鮮かに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の硝子窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の切目からとばかりの間、夕陽が映じたのである。
剃刀の刃は手許の暗い中に、青光三寸、颯々と音をなして、骨をも切るよう皮を辷った。
「これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。」といって少し鬱ぐ。
「そこで久しぶりじゃ、私もちっと冷える気味でこちらへ無沙汰をしたで、また心ゆかしに廓を一廻、それから例の箕の輪へ行って、どうせ苔の下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。
お極りでお前ン許へお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あと前はよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。
何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。
五助さん、お前の許にもそういうかかり合があるのなら、悪いことは謂わぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。
つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。」と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰を延そうとする。
トタンにがらがらと腕車が一台、目の前へ顕れて、人通の中を曵いて通る時、地響がして土間ぐるみ五助の体はぶるぶると胴震。
「ほう、」といって、俯向いていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、
「作平さん、お前は怨だぜ、そうでなくッてさえ、今日はお極りのお客様が無けりゃ可いが、と朝から父親の精進日ぐらいな気がしているから、有体の処腹の中じゃお題目だ。
唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、お前、言種に事を欠いて、私が許をかかり合は、大に打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうして堪るものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代までは祟ります、むむ祟るとも。
串戯じゃあねえ、どの道何か怨のある遊女の幽霊とは思ったけれど、何楼の何だか捕えどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ叶わねえ。
そうしてお前、咽喉を突いたんだっていったじゃあねえか。」
「これから、これへ、」と作平は垢じみた細い皺だらけの咽喉仏を露出して、握拳で仕方を見せる。
五助も我知らず、ばくりと口を開いて、
「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」
「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ真直に棒を引く。
「うう、そして真赤か。」
「黒味がちじゃ、鮪の腸のようなのが、たらたらたら。」
「止しねえ、何だなお前、それから口惜いッて歯を噛んで、」
「怨死じゃの。こう髪を啣えての、凄いような美しい遊女じゃとの、恐いほど品の好いのが、それが、お前こう。」と口を歪める。
「おお、おお、苦しいから白魚のような手を掴み、足をぶるぶる。」と五助は自分で身悶して、
「そしてお前、死骸を見たのか。」
「何を謂わっしゃる、私は話を聞いただけじゃ。遊女の名も知りはせぬが。」
五助は目を睜ってホッと呼吸、
「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」
十二
作平も苦笑い、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」
「目に見えるようだ。」
「私もやっぱり。」
「見えるか、ええ?」
「まずの。」
「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同一でも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆弱い遊女のなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中間を一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
作平さん、こうなりゃお前が対手だ、放しッこはねえぜ。
一升買うから、後生だからお前今夜は泊り込で、炬燵で附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
そうかといって、宿場で厄介になろうという年紀じゃあなし、無茶に廓へ入るかい、かえって敵に生捉られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから堪るめえじゃねえか、恐しい。名代部屋の天井から忽然として剃刀が天降ります、生命にかかわるからの。よ、隣のは筋が可いぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な鮪を取っておかあ、船頭、馬士だ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じず悄げたりけり。
作平が悦喜斜ならず、嬉涙より真先に水鼻を啜って、
「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿を据えては例のお花主に相済まぬて。」
「それを言うなというに。無縁塚をお花主だなぞと、とかく魔の物を知己にするから悪いや、で、どうする。」
「もう遅いから廓廻は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」
「むむ、それもそうさの。私も信心をすみが、お前もよく拝んで御免蒙って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一走が可いぜ。とても独じゃ遣切れねえ、荷物は確に預ったい。」
「何か私も旨え乾物など見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、
「こんなに人通があるじゃないかい。」
「うんや、ここいらを歩行くのに怨霊を得脱させそうな頼母しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留むようだ。」
作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」
五助慌しく。
「白いものか、禁物々々。」
点灯頃
十三
「はい、はい、はい、誰方だい。」
作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行くさきも薄暗いが、さて見廻すと居廻はなおのことで、もう点灯頃。
物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより疾く洋燈をと思う処へ、大音寺前の方から盛に曳込んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々という音に、地鳴を交えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢があった。
五助はわざと大声で、
「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように呟いたが、
「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」
耳を澄して、
「畜生、この間もあの術で驚かしゃあがった、尨犬め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然で、蒲団を引被るとトントンだ、誰方だね、黙りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病づらを下げて、極の悪い思をしたか知れやしねえ、畜生め、己が臆病だと思いやあがって、」と中ッ腹でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、亀の子這。
じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて躙り上ると、件の障子を密と開けたが、早や次の間は真暗がり。足をずらしてつかつかと出ても、馴れて畳の破にも突かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を伸すとそのまま取れる柄杓だから、並々と一杯、突然天窓から打かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
首を出して眗わすと、がさともせぬ裏の塵塚、そこへ潜って遁げたのでもない。彼方は黒塀がひしひしと、遥に一並、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、森として三味線の音もしない。ただ遥に空を衝いて、雲のその夜は真黒な中に、暗緑色の燈の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立ったようなのは、二上屋の常燈である。
五助は半身水口から突出して立っていたが、頻に後見らるるような気がして堪らず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを透すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外の人どおり。
やがて旧の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這いなどして掻探り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、先刻ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女お若の剃刀を、どこへか置忘れてしまったのであった。
「懐中へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾にして、扱帯の上あたりで褄を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮かな鼻筋の通った、真白な頬に鬢の毛の乱れたのまで、判然と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居にも支えそうなのが、じっと此方を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼ざめた掌に、毒蛇の鱗の輝くような一挺の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
五助はがッと耳が鳴た、頭に響く声も幽に、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、
「不浄除けの別火だとさ、ほほほほほ、」
わずかに解いた唇に、艶々と鉄漿を含んでいる、幻はかえって目前。
「わッ」というと真俯向、五助は人心地あることか。
「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに廓が見えるぜ。」
とこの際戸外を暢気なもの。
「や! 雪だ、雪だ。」と呼わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と哄とばかりになだれて通る。
雪の門
十四
宵に一旦ちらちらと降ったのは、垣の結目、板戸の端、廂、往来の人の頬、鬢の毛、帽子の鍔などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の梢も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草屋の店の灯、おでんの行燈、車夫の提灯、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが群って、真白な灯取虫がばたばた羽をあてる風情であった。
やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒下駄の痕も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに凹を残すのみ、車の轍も遥々と長き一条の名残となった。
おうおうと遠近に呼交す人声も早や聞えず、辻に彳んで半身に雪を被りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く顕れた巡査の姿、研屋の店から八九間さきなる軒下に引込んで、三島神社の辺から大音寺前の通、田町にかけてただ一白。
折から颯と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面を撫でてあたかも篩をかけたよう、一様に平にならして、人の歩行いた路ともなく、夜の色さえ埋み消したが、見る見る垣を亙り、軒を吹き、廂を掠め、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼に拡がって、ざっという音烈しく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た。
紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の状も、旭とともに霜より果敢なく消えるのであろうけれど、丑満頃おいは都のしかも如月の末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚々の陣を敷くとあやまたるる。
さればこそ、高く竜燈の露れたよう二上屋の棟に蒼き光の流るるあたり、よし原の電燈の幽に映ずる空を籠めて、きれぎれに冴ゆる三絃の糸につれて、高笑をする女の声の、倒に田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、空を行く外道変化の囁かと物凄い。
十二時疾くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。
吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の門を静に音信れた者がある。
トン、トン、トン、トン。
「はい、今開けます、唯今、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け交りのやや周章てた声して、上框から手を伸した様子で、掛金をがッちり。
その時戸外に立ったのが、
「お待ちなさい、貴方はお宅の方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、
「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口吻である。
その間になお声をかけて、
「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」
「へい、……、」ちと変った言ぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。
小留のない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて降しきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。
十五
「杉、爺やかい。」とこの時に奥の方から、風こそ荒べ、雪の夜は天地を沈めて静に更け行く、畳にはらはらと媚めく跫音。
端近になったがいと少く清しき声で、
「辻が帰っておいでかい。」
「あれ、」と低声に年増が制して、門なる方を憚る気勢。
「可かったら開けて下さい、こっちにお知己の者じゃあないんです、」
「…………」
「この突当の家で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」
「はい、あの誰方様で、」
「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」
「お開けよ。」
「…………」
「こっちへさあ。可いわ、」
ここにおいて、
「まあ、お入りなさいまし。」と半ば圧えていた格子戸をがらりと開けた。框にさし置いた洋燈の光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。
同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外套を被た人の姿を映して、余の明は、左手なる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を交えた紅梅にうつッて、間近なるはその紅の莟を照した。
けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本斑布の櫛でもない。濃いお納戸地に柳立枠の、小紋縮緬の羽織を着て、下着は知らず、黒繻子の襟をかけた縞縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦袢と、指に輝く指環とであった。
部屋働のお杉は円髷の頭を下げ、
「どうぞ、貴下、」
「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む勢。中折の帽子を目深に、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研出したような沓脱石も、一面に雪紛々。
「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、吻とする呼吸をついて、
「ああ、乱暴だ。失礼。」と身震して、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを拭ったが、年紀のころ二十三四、眉の鮮かな目附に品のある美少年。殊にものいいの判然として訛のないのは明にその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御左、矜羯羅童子を夢枕に見るような心になり、
「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり見惚れていたのが、慌しく心付いて、庭下駄を引かけると客の背後へ入交って、吹雪込む門の戸を二重ながら手早くさした。
「直ぐにお暇を。」
「それでも吹込みまして大変でございますもの。」
と見るとお若が、手を障子にかけて先刻から立ったままぼんやり身動もしないでいる。
「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」
お若は莞爾して何にも言わず、突然手を支えて、ばッたり悄れ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳許に颯と紅。
髷の根がゆらゆらと、身を揉むばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。
客は手持無沙汰、お杉も為ん術を心得ず。とばかりありて、次の室の襖越に、勿体らしい澄したものいい。
「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」
十六
「いいえ、貴下失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕立ましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結城の棒縞の寝ね子半纏。被せられるのを、
「何、そんな、」とかえって剪賊に出逢ったように、肩を捻るほどなおすべりの可い花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々しい、背から苦もなくすらりと被せたので、洋服の上にこの広袖で、長火鉢の前に胡坐したが、大黒屋惣六に肖て否なるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。
「どうしてこんな晩に、遊女がお帰しなすったんですねえ、酷いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも飛でもない、火をお吹きなすっちゃあ不可ません、飛でもない。」
と什麼こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の嘴にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を顰めて、澄して、雪のような頬を火鉢のふちに押つけながら、
「消炭を取っておいで、」
「唯今何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐さんのお部屋でついお心易立にお炬燵を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」
「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾する。
「それでも今夜のように、ふらふら睡気のさすったらないのでございますもの。」
「お極だわ。」
「可哀相に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現でございましたの。」
「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が可うございますわ。構やしません、そんな遊女は一晩の内に凍砂糖になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を廓なる母屋の客と思込んだものであろう。
「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」
「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」
「別に隠しなんぞするものか。
しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が咎めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや渡に舟なんで、どうも凍えそうで堪らなかった。」
と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を瞻りながら、
「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお澗をつけましょうか。」
「召あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
「どうして、酒と聞くと身震がするんだ、どうも、」
と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方に目の覚めるようなお若の姿とを屹と見ながら、明い洋燈と、今青い炎を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
「私を変だと思うでしょう。」
十七
「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう可いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」
「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑む。
「ええと、ここを出て突当りに家がありますね、そこを通って左へ行くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから直に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。
「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、
「確か廓へ入ろうという土手の手前に、こっちから行くと坂が一ツ。」
打頷けば頷いて、
「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車が支えたのでやっと目が覚めたんだ。」
この日脇屋欽之助が独逸行を送る宴会があった。
「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
もっとも待たしておく筈の腕車はあったんだけれども、一体内は四ツ谷の方、あれから下谷へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」
「まあ、お危うございます、」
「ちっと擦剥いた位、怪我も何もしないけれども。
それだもんだから、辻車に飛乗をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
お話のその土手へ上ろうという坂だ。しっくり支えたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺は真白だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を劃って電燈が映ってるし、今度行こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
それで、御本人はまさしく日本の腕車に乗ってさ、笑っちゃあ不可い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯もんだ、と言うんです。
四ツ谷へ帰るんだッてね、少し焦れ込むと、まあ宜うがすッさ、お聞きよ。
馬鹿にしちゃ可かん、と言って、間違の原因を尋ねたら、何も朋友が引張って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ遣ってくれ、といって乗ったそうだ。
遣ってくれと言うから、廓へ曳いて来たのに不思議はありますまいと澄したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから宅まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を上って四ツ谷くんだりまでこの雪に行かれるもんじゃあない。
箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸の方とかで泊り込という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然靴だから飛び下りたさ。」
二人使者
十八
欽之助は茶一碗、霊水のごとくぐっと干して、
「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、掏られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔覚じゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児になったんだから、こりゃ自分の身体はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐くなったんです。
ただ車夫に間違えられたばかりなら、雪だっても今帷子を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
気になるのは、昼間腕車が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定って、杯の遣取が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
灯がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩を越して玄関へ出て見ると、叔母の宅に世話になって、従妹の書物なんか教えている婦人が来て立っていました。
先刻奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨日出来上って参りましたものですから、それを貴下にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの児のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋達におつき合で、他ならば可いが、芳原へでも行くと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
何でも広徳寺前辺に居る、名人の研屋が研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱紗包から、錦の袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一呼吸ついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓で道楽をして、命にも障る処を、そのお庇で人らしくなったッてね。
私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生命がなくなるとばかり信じてるんだ。
その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、少い豪傑が手放で揃ってる、しかも艶なのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人魂を押つけられたように気が滅入った。
しかもお使番が女教師の、おまけに大の基督教信者と来ては助からんねえ。」
打微笑み、
「相済まんがどうぞ宅の方へお届けを、といって平にあやまると、使の婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴君を心から思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と謂った。こりゃ誰だって、全くそう。」
十九
「しかし土手下で雪に道を遮られて帰る途さえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を持して寄越すってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕車の破れたのも、車夫に間違えられたのも、来よう筈のない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、悚としたんだね。
もっとも、その時だって、天窓からけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」
我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
「こんな扮装だから困ったろうじゃありませんか。
叔母には受取ったということに繕って、密と貴女から四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、少い夜会結のその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
あとは大飲。
何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
それからね。
何でも来た方へさえ引返せば芳原へ入るだけの憂慮は無いと思って、とぼとぼ遣って来ると向い風で。
右手に大溝があって、雪を被いで小家が並んで、そして三階造の大建物の裏と見えて、ぼんやり明のついてるのが見えてね、刎橋が幾つも幾つも、まるで卯の花縅の鎧の袖を、こう、」
借着の半纏の袂を引いて。
「裏返したように溝を前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」
それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍見がてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄漿溝が折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁切って刎橋の架ったままのがあった。
「そこの処に婦人が一人立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
近づく人に白鷺の驚き立つよう。
前途へすたすたと歩行き出したので、何だか気がさしてこっちでも立停ると、劇しく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引返して来て、またするすると向うへ走る。
続いて歩行き出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦人は刎橋の処で。
私は歩行き越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
そうするとその婦人がこう彳んだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして哀さったらなかったから。
私は二足ばかり引返した。
何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て遁げないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が欲い。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に聞惚れたお若は、不意に口へ出した、心の声。
「傍へ寄って見ると、案の定、跣足で居る、実に乱次ない風で、長襦袢に扱帯をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人だ。
脊の高いね、恐しいほど品の好い遊女だったッけ。」
二十
「その婦人に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに屹と女に向けた。
お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その遊女が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友にも知れてはならず、新造などにさとられては大変なので、昼から間を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、内証に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込んだのを機にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直に知れますが、あれ、あんなに犬が吠えて、どうすることもならないから、生命を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓のこと、一大事ででもあるようだから、直にことづかった品物があるんです。
ただ渡せば可いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路もそこだというもの。そのまま別れて遣って来ると、先刻尋ねました、路地の突当りになる通の内に、一軒灯の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人がまだ立っていて、こっちへ指をしたように見えたけれども、朧気でよくは分らないから、一番、その灯を幸。
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺の声で教えてくれた。
何、一々委しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明い灯を見ると、何だか雪路のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に肱を張って、左の胸に高く取った衣兜の中へ手を入れた。──
固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦めながら、少し仰向いて、考えるらしく銀のような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、生命がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言を疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜を探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ外套の方だった、」と片膝立てたので。
杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
と差俯いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭わず、大切に抱くようにして持って来た。
敷居の上へ斜に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄としたよう。
二十一
「可うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
探しあぐんで、外套を押遣って、ちと慌てたように広袖を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄れてじっと考えた時、お若は鷹揚に些も意に介する処のないような、しかも情の籠った調子で、かえって慰めるように謂った。
お杉は心も心ならず、憂慮しげに少年の状を瞻りながら、さすがにこの際喙を容れかねていたのであった。
此方はますます当惑の色面に顕れ、
「可いじゃアありません、可かあない、可かあない、」
と自ら我身を詈るごとく、
「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生命にもかかわる。」と、早口にいってまた四辺を眗した。
「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、渠を庇うようにして言う。
「私も更めちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」
お若はちょいと頷いて、
「杉、」
「ええ、」
「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込ませる。
「ええ、成程、貴下、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊女は、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔色の、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」
と勢よくそれにした。
「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少姐さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」
「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金子らしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手尖に触るるは袂落。修学のためにやがて独逸に赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将松島主税の令夫人を持って、ここに擲って差支えのない金員あり。もって、余りに頼効なき虚気の罪を、この佳人の前に購い得て余りあるものとしたのである。
問われてお杉は引取って、
「ちっとばかりお金子です。」
欽之助は嬉しそうに、
「じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら遣って可いのを持っているから。」と思込んで言った。
「飛んでもない、貴下、」と杉。
お若は知らぬ顔をして莞爾している。
此方は熱心に、
「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか極が悪いんだ、夜々中見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」
「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小遣が沢山あるわ、銀のだの、貴下、紙幣のだの、」といいながら、窮屈そうに坐って畏まっていた勝色うらの褄を崩して、膝を横、投げ出したように玉の腕を火鉢にかけて、斜に欽之助の面を見た。姿も容も、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも蟠のない言葉はあるまい。
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、少年は呆れたような目をしながら、今更顔が瞻られた、時に言うべからざる綺麗な思が此方の胸にも通じたので。
しかも遠慮のない調子で、
「いずれお詫をする、更めてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一番、腕車の世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴染があるでしょう、御近所ならば私が一所に跟いて行くから、お前さん。」
杉は女の方をちょいと見たが、
「あなた何時だとお思いなさいます。私どもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
あれあの通、まだ戸外はあんなでございますよ。」
少年は降りしきる雪の気勢を身に感じて、途中を思い出したかまた悚とした様子。座に言が途絶えると漂渺たる雪の広野を隔てて、里ある方に鳴くように、胸には描かれて、遥に鶏の声が聞えるのである。
「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
私どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
御自分じゃちゃんとしてお在遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確じゃないようにお見受申します。
お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託り下さいましたものも失せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷下だりまで、そりゃ十年お傭つけのような確な若いものを二人でも三人でもお跟け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下のお身体に恙のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
そしてお若さんもお炬燵へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」
「実はどういうんだか、今夜の雪は一片でも身体へ当るたびに、毒虫に螫れるような気がするんです。」
と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」
お杉大明神様と震えつく相談と思の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚して眠そうである。
はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
「夜が明けると直お帰んなさるんなら厭!」
「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然上着の衣兜の口を、しっかりとつかまえて、
「こうして、お引留めなさいましな。」
二十三
寝衣に着換えさしたのであろう、その上衣と短胴服、などを一かかえに、少し衣紋の乱れた咽喉のあたりへ押つけて、胸に抱いて、時の間に窶の見える頤を深く、俯向いた姿で、奥の方六畳の襖を開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
襖の内には炬燵の裾、屏風の端。
背片手で密とあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広室に顕れると、二室越二重の襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の傍なるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台洋燈がついてるので、あかりは青畳の上を辷って、お若の冷たそうな、爪先が、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
この灯がさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして透して見ると、火鉢には真鍮の大薬鑵が懸って、も一ツ小鍋をかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶々しく結った円髷の、その斑布の櫛をまともに見せて、身動きもせずに仮睡をしている。
差覗いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍泣の声がした。
しばらくすると、密とまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣桁の亙。
お若は力なげに洋袴をかけ、短胴服をかけて、それから上衣を引かけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び密と爪立つようにして、間を隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、衣の縞も見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の衣兜。
しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、
「ああ、厭だっていうんだもの、」と絶入るように独言をした。あわれこうして、幾久しく契を籠めよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!
お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へ冷りと中り、総身に針を刺されたように慄と寒気を覚えたのを、と見ると一挺の剃刀であった。
「まあ、恐いことねえ。」
なお且つびっしょり濡れながら袂の端に触れたのは、包んで五助が方へあつらえた時のままなる、見覚えのある反故である。
お若はわなわなと身を震わしたが、左手に取ってじっと見る間に、面の色が颯と変った。
「わッ。」
というと研屋の五助、喚いて、むッくと弾ね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡研の作平、もやい蒲団を弾反されて寝惚声で、
「何じゃい、騒々しい。」
五助は服はだけに大の字形の名残を見せて、蟇のような及腰、顔を突出して目を睜って、障子越に紅梅屋敷の方を瞻めながら、がたがたがたがた、
「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」
「貧乏神が抜け出す前兆か、恐しく怯されるの、しっかりさっししっかりさっし。」といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。枕頭には大皿に刺身のつま、猪口やら箸やら乱暴で。
「いや、お前しっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しい祟だぜ、一方ならねえ執念だ。」
化粧の名残
二十四
「とうとうお前、旗本の遊女が惚れた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同一理窟で、お若さんが、さ、さ、先刻取り上げられた剃刀でやっぱり、お前、とても身分違いで思が叶わぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を遣ってら、」
「何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。」
「はて、しかし夢か、」とぼんやりして腕を組んだが、
「待てよ、こうだによってと、誰か先刻ここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。」
「おお、」
作平も膝を叩いた。
「そういやあある。お前は酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとして私あ寐られん、一時半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、確に聞いた、しかも少い男の声よ。」
「それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。
お前、何でも遊女に剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、小桶に沸ざましの薬鑵の湯を打ちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀を啣えたと思いねえ。硝子戸の外から覗いてた、私が方を仰向いての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、邪慳に引つかんだ、顔色ッたら、先刻見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、疾く行って留めねえと。」
「そして男を殺すとでもいうたかい、」
「いや、私が夢はお前の夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日研立の、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になって堪るめえ。
処へ夜が更けて、尋ねて行くものがあるから、おかしいぜ、此奴、贔屓の田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけて行くつもりだっけ、例の臆病だから叶わねえ、不性をいうお前を、引張出して、夢にも二人づれよ。」
「やれやれ御苦労千万。」
「それから戸外へ出ると雪はもう留んでいた、寮の前へ行くとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。
いよいよ変だと思うから大声で喚いてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の渡船を呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。
どこか開く処があるめえかと、ぐるぐる寮の周囲を廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。
はて変だわえ、今時分と、そこへ行って覗いた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をして凄いように美しい顔を見ると、目を泣腫らしています、ね。どうしたかと思う内に、鹿の子の見覚えある扱一ツ、背後へ縮緬の羽織を引振って脱いでな、褄を取って流へ出て、その薬鑵の湯を打ちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して手拭を突込んで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。
それですっぱりと顔を拭いてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでも悚とするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがお前、
(五助さん、これでしょう、)と晩方遊女が遣った図にそっくりだ。はっと思うトタンに背向になって仰向けに、そうよ、上口の方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた遊女そのままだから、キャッといったい。」
二十五
されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪の夜に、お若が紅梅の寮に宿ったについての、委しい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋の女に殺させると叫んだのも、覚際にフト刺戟された想像に留まったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた名残とばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく少い声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小腋に引きそばめた臆病ものの可笑さよ。
戸外へ出ると、もう先刻から雪の降る底に雲の行交う中に、薄く隠れ、鮮かに顕れていたのがすっかり月の夜に変った。火の番の最後の鉄棒遠く響いて廓の春の有明なり。
出合頭に人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
「お早うがすな。」と澄して土手の方へ行った。
積んだ薪の小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、幽にそれかと思う足あとが、心ばかり飛々に凹んでいるので、まず顔を見合せながら進んで門口へ行くと、内は寂としていた。
これさえ夢のごときに、胸を轟かせながら、試みに叩いたが、小塚原あたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如月の雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜ると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう喘いでいた。逡巡をする五助に入交って作平、突然手を懸けると、誰が忘れたか戸締がないので、硝子窓をあけて跨いで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真鍮の大薬鑵。蓋と別々になって、うつむけに引くりかえって、濡手拭を桶の中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような流が、網を投げた形にびっしょりであった。
上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、明を目的に駆けつけると、洋燈は少し暗くしてあったが、お杉は端然坐ったまま、その髷、その櫛、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
ただいつの間にか、先刻欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結城の半纏を被せかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
五助、作平は左右より、焦って二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
「おいらんが、遊女が、」と切なそうにいった。
半纏はお若が心優しく、いまわの際にも勦ってその時かけて行ったのであろう。
後にお杉はうつつながら、お若が目前に湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の方へ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦朧として雪ぢらしの部屋着を被た、品の可い、脊の高い、見馴れぬ遊女が、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、屹と睨まれて身動きが出来ないのであったと謂う。
とこういうべき暇あらず、我に復るとお杉も太くお若の身を憂慮っていたので、飛立つようにして三人奥の室へ飛込んだが、噫。
既に遅矣、雪の姿も、紅梅も、狼藉として韓紅。
狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼吸があったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
男は深疵だったけれども気が確で、いま駆つけた者を見ると、
「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」
といったので、五助作平、腰を抜いた。
この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同一枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
しかし馬車で乗つけたのは、昨夜伊予紋へ、少将の夫人の使をした、橘という女教師と、一名の医学士であった。
その診察に因って救うべからずと決した時、次の室に畏っていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺書がある。
橘は取って披見した後に、枕頭に進んで、声を曇らせながら判然と読んで聞かせた。
この意味は、人の想像とちっとも違わぬ。
その時まで残念だ、と呼吸の下でいって、いい続けて、時々歯噛をしていた少年は、耳を澄して、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼白な面を和げながら、手真似をすること三度ばかり。
医学士が頷いたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を擡げ、天地紅の半切に、薄墨のあわれ水茎の蹟、にじり書の端に、わか〓(「参らせ候」のくずし字)とある上へ、少し大きく、佳い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を瞑った。
一座粛然。
作平は啜泣をしながら、
「おめでてえな。」
五助が握拳を膝に置いて、
「お若さん、喜びねえ。」
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年5月10日作成
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