光籃
泉鏡花
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田舎の娘であらう。縞柄も分らない筒袖の古浴衣に、煮染めたやうな手拭を頬被りして、水の中に立つたのは。……それを其のまゝに見えるけれど、如何に奇を好めばと云つても、女の形に案山子を拵へるものはない。
盂蘭盆すぎの良い月であつた。風はないが、白露の蘆に満ちたのが、穂に似て、細流に揺れて、雫が、青い葉、青い茎を伝つて、点滴ばかりである。
町を流るゝ大川の、下の小橋を、もつと此処は下流に成る。やがて潟へ落ちる川口で、此の田つゞきの小流との間には、一寸高く築いた塘堤があるが、初夜過ぎて町は遠し、村も静つた。場末の湿地で、藁屋の侘しい処だから、塘堤一杯の月影も、破窓をさす貧い台所の棚の明るい趣がある。
遠近の森に棲む、狐か狸か、と見るのが相応しいまで、ものさびて、のそ〳〵と歩行く犬さへ、梁を走る古鼠かと疑はるゝのに──
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
小豆あらひと云ふ変化を想はせる。……夜中に洗濯の音を立てるのは、小流に浸つた、案山子同様の其の娘だ。……
霧の這ふ田川の水を、ほの白い、笊で掻き〳〵、泡沫を薄青く掬ひ取つては、細帯につけた畚の中へ、ト腰を捻り状に、ざあと、光に照らして移し込む。
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
おなじ事を繰返す。腰の影は蘆の葉に浮いて、さながら黒く踊るかと見えた。
町の方から、がや〳〵と、婦まじりの四五人の声が、浮いた跫音とともに塘堤をつたつて、風の留つた影燈籠のやうに近づいて、
「何だ、何だ。」
「あゝ、行つてるなあ。」
と、なぞへに蘆の上から、下のその小流を見て、一同に立留つた。
「うまく行るぜ。」
「真似をする処は、狐か、狸だらうぜ。それ、お前によく似て居らあ。」
「可厭。」
と甘たれた声を揚げて、男に摺寄つたのは少い女で。
「獺だんべい、水の中ぢや。」
と、いまの若いのの声に浮かれた調子で、面を渋黒くニヤ〳〵と笑つて、あとに立つたのが、のそ〳〵と出たのは、一挺の艪と、かんてらをぶら下げた年倍な船頭である。
此の唯一つの灯が、四五人の真中へ入つたら、影燈籠は、再び月下に、其のまゝくる〳〵と廻るであらう。
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
髪を当世にした、濃い白粉の大柄の年増が、
「おい、姉さん。」
と、肩幅広く、塘堤ぶちへ顕はれた。立女形が出たから、心得たのであらう、船頭め、かんてらの灯を、其の胸のあたりへ突出した。首抜の浴衣に、浅葱と紺の石松の伊達巻ばかり、寝衣のなりで来たらしい。恁う照されると、眉毛は濃く、顔は大い。此処から余り遠くない、場末の某座に五日間の興行に大当りを取つた、安来節座中の女太夫である。
あとも一座で。……今夜、五日目の大入を刎ねたあとを、涼みながら船を八葉潟へ浮べようとして出て来たのだが、しこみものの鮨、煮染、罎づめの酒で月を見るより、心太か安いアイスクリイムで、蚊帳で寝た方がいゝ、あとの女たちや、雑用宿を宿場へ浮れ出す他の男どもは誰も来ない。また来ない方の人数が多かつた。
「おい、お前さん。」
と、太夫の年増は、つゞけて鷹揚に、娘を呼んだ。
流の案山子は、……ざぶりと、手を留めた。が、少しは気取りでもする事か、棒杭に引かゝつた菜葉の如く、たくしあげた裾の上へ、据腰に笊を構へて、頬被りの面を向けた。目鼻立は美しい。で、濡れ〳〵として艶ある脛は、蘆間に眠る白鷺のやうに霧を分けて白く長かつた。
「感心──なか〳〵うまいがね、少し手が違つてるよ。……さん子さん、一寸唄つてお遣り。村方で真似をするのに、いゝ手本だ。……まうけさして貰つた礼心に、ちゃんとした処を教へてあげよう。置土産さ、さん子さん、お唄ひよ。」
「可厭、獺に。……気味が悪いわ、口うつしに成るぢやないの。」
と少いのが首とともに肩を振る。
「獺に教へれば、芸の威光さ。ぢやあ、私が唄ひながら。──可いかい、──安来千軒名の出た処……」
もう尤も微酔機嫌で、
「さあ、遣つて御覧よ。……鰌すくひさ。」
「ほゝゝ。」
と娘は唯笑つた。
月にも、霧にも、流の音にも、一座の声は、果敢なき蛾のやうに、ちら〳〵と乱るゝのに、娘の笑声のみ、水に沈んで、月影の森に遠く響いた。
「一寸、お遣りつたら。」
「ほゝゝ。」
「笑つてないでさ、可いかい。──鰌すくひの骨髄と言ふ処を教へるからよ。」
「あれ、私はな、鰌すくふのでござんせぬ。」
「おや、何をしてるんだね。」
「お月様の影を掬ひますの。」
と空を仰いで言つた。蘆の葉の露は輝いたのである。
「月影を……」
「あはゝ、などと言つて、此奴、色男と共稼ぎに汚穢取りの稽古で居やがる。」
と色の黒い小男が笑出すと、角面の薄化粧した座長、でつぷりした男が、
「月を汲んで何にするんだ。」
「はあ、暗の夜の用心になあ。」
此奴は薄馬鹿だと思つたさうである。後での話だが──些と狐が憑いて居るとも思つたさうで。……そのいづれにせよ、此の容色なら、肉の白さだけでも、客は引ける。金まうけと、座長の角面はさつそくに思慮した。且つ誘拐ふに術は要らない。
「分つた〳〵、えらいよお前は──暗夜の用心に月の光を掬つて置くと、笊の目から、ざあ〳〵洩ると、畚から、ぽた〳〵流れると、ついでに愛嬌はこぼれると、な。……此の位世の中に理窟の分つた事はねえ。感心だ。──処でな、おい、姉え。おなじ月影を汲むなら、そんなぢよろ〳〵水でなしに、潟へ出て、そら、ほつと霧のかゝつた、あの、其処の山ほど大きく汲みな。一所に来な、連れて行くぜ。」
女太夫に目くばせしながら、
「俺たちは、その月を見に潟へ出るんだ。──一所に来なよ、御馳走も、うんとあらあ。」
「ほう、来るか〳〵、猫よりもおとなしい。いまのまに出世をするぜ、いゝ娘だ、いゝ娘だ。」
と黒い小男が囃した。
娘は、もう蘆を分けて出たのである。露にしつとりと萎へた姿も、水には濡れて居なかつた。
すぐ川堤を、十歩ばかり戻り気味に、下へ、大川へ下口があつて、船着に成つて居る。時に三艘ばかり流に並んで、岸の猫柳に浮いて居た。
(三界万霊、諸行無常。)
鼠にぼやけた白い旗が、もやひに搦んで、ひよろ〳〵と漾ふのが見えた。
「おや〳〵、塔婆も一本、流れ灌頂と云ふ奴だ。……大変なものに乗せるんだな。」
座長が真さきにのりかゝつて、ぎよつとした。三艘のうちの、一番大形に見える真中の船であつた。
が、船べりを舐めて這ふやうに、船頭がかんてらを入れたのは、端の方の古船で。
「旦那、此方だよ。……へい、其は流れ灌頂ではござりましねえ。昨日、盂蘭盆で川施餓鬼がござりましたでや。」
「流れ灌頂と兄弟分だ。」
「可厭だわねえ。」
「一蓮托生と、さあ、皆乗つたか。」
と座長が捌く。
「小父さん、船幽霊は出ないこと。」
と若い女が、ぢやぶ〳〵、ぢやぶ〳〵と乗出す中に、怯えた声する。
兀げたのだらう。月に青道心のやうで、さつきから黙り家の老人が、
「船幽霊は大海のものだ。潟にはねえなあ。」
「あれば生擒つて銭儲けだ。」
ぎい、ちよん、ぎい、ちよんと、堤の草に蟋蟀の紛れて鳴くのが、やがて分れて、大川に唯艪の音のみ、ぎい、と響く。ぎよ、ぎよツと鳴くのは五位鷺だらう。
「なむあみだぶつ。あゝ、いゝ月だ。」
と寂しく掉つた、青道心の爺の頭は、ぶくりと白茄子が浮いたやうで、川幅は左右へ展け、船は霧に包まれた。
「変な、月のほめやうだな、はゝゝ。」
と座長は笑ひ消しつつ、
「おい、姉や、何うした。」
と言ふ。水しやくひの娘は、剥いた玉子を包みあへぬ、あせた緋金巾を掻合せて、鵜が赤い魚を銜へたやうに、舳にとぼんと留つて薄黒い。通例だと卑下をしても、あとから乗つて艫の方にあるべき筈を、勝手を知つた土地のものの所為だらう。出しなに、川施餓鬼で迷つた時、船頭が入れたかんてらの火より前に乗つて、舳にちよこなんと控へたのであつた。
実は、此は心すべき事だつた。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐も、可恐き星の光も、皆、ものの尖端へ来て掛るのが例だと言ふから。
やがて、其の験がある。
時に、さすがに、娘気の慇懃心か、あらためて呼ばれたので、頬被りした手拭を取つて、俯むいた。
「あら、きれい。」
「まあ、光るわねえ。」
安来ぶしの婦は、驚駭の声を合せた。
「一寸、何、其の簪は。」
銀杏返もぐしや〳〵に、掴んで束ねた黒髪に、琴柱形して、晃々と猶ほ月光に照映へる。
「お見せ。」……とも言はず、女太夫が、間近から手を伸すと、逆らふ状もなく、頬を横に、鬢を柔順に、膝の皿に手を置いて、
「ほゝゝゝゝ。」
と、薄馬鹿が馬鹿笑に笑つたのである。
年増は思はず、手を引いて、
「えゝ、何だねえ、気味の悪い。」
生暖い、腥い、いやに冷く、かび臭い風が、颯と渡ると、箕で溢すやうに月前に灰汁が掛つた。
川は三つの瀬を一つに、どんよりと落合つて、八葉潟の波は、なだらかながら、八つに打つ……星の洲を埋んだ銀河が流れて漂渺たる月界に入らんとする、恰も潟へ出口の処で、その一陣の風に、曇ると見る間に、群りかさなる黒雲は、さながら裾のなき滝の虚空に漲るかと怪まれ、暗雲忽ち陰惨として、灰に血を交ぜた雨が飛んだ。
「船頭さん〳〵。」
「お船頭々々。」
と青坊主は、異変を恐れて、船頭に敬意を表した。
「苫があるで。」
「や、苫どころかい。」
「あれ、降つて来た、降つて来た。」
声を聞いて、飛ぶ鷺を想つたやうに、浪の羽が高く煽る。
「着けろ、着けろ、早くつけてくれ。」
昼は潟魚の市も小さく立つ。──村の若い衆の遊び処へ、艪数三十とはなかつたから、船の難はなかつた。が、堤尻を駈上つて、掛茶屋を、やゝ念入りな、間近な一ぜんめし屋へ飛込んだ時は、此の十七日の月の気勢も留めぬ、さながらの闇夜と成つて、篠つく雨に風が荒んだ。
侘しい電燈さへ、一点燭の影もない。
めし屋の亭主は、行燈とも、蝋燭とも言はず、真裸で慌て惑つて、
「お仏壇へ線香ぢや、線香ぢや。」
と、ふんどしを絞つて喚いた。
恁る田舎も、文明に馴れて、近頃は……余分には蝋燭の用意もないのである。
「……然うだ、姉え。恁う言ふ時だ、掬つた月影は何うしたい。」
と、座長の角面がつゞけ状に舌打をしながら言つた。
「真個だわ。」
「まつたくさ。」
太夫たちも声を合せた。
不思議に、蛍火の消えないやうに、小さな簪のほのめくのを、雨と風と、人と水の香と、入乱れた、真暗な土間に微に認めたのである。
「あゝ、うつかりして忘れて居ました。船へ置いて来た、取つて来ませう。」
「ついでに、重詰を願ひてえ。一升罎は攫つて来た。」
と黒男が、うは言のやうに言ふ間もあらせず、
「やあ、水が来た、波が来た。……薄馬鹿が水に乗つて来た。」
と青坊主がひよろ〳〵と爪立つて逃げあるく。
「お仏壇ぢや、お仏壇ぢや、お仏壇へ線香ぢや。」
「はい、取つて来ましたよ。」
と言ふ、娘の手にした畚を溢れて、湧く影は、青いさゝ蟹の群れて輝くばかりである。
「光を……月を……影を……今。」
と凜と言ふと、畚を取つて身構へた。向へる壁の煤も破めも、はや、ほの明るく映さるゝそのたゞ中へ、袂を払つてパツと投げた。間は一面に白く光つた、古畳の目は一つ一つ針を植ゑたやうである。
「あれ。」
「可恐い、電。」
と女たちは、入りもやらず、土間から框へ、背、肩を橋にひれ伏した。
「ほゝゝ、可恐いの?」
娘は静に、其の壁に向つて立つと、指をしなやかに簪を取つた。照らす光明に正に視る、簪は小さな斧であつた。
斧を取つて、唯一面の光を、端から、丁と打ち、丁と削り、こと〳〵こと〳〵と敲くと、その削りかけは、はら〳〵と、光る柳の葉、輝く桂の実にこぼれて、畳にしき、土間に散り、はた且うつくしき工人の腰にまとひ、肩に乱れた。と見る〳〵風に従つて、皆消えつつ、やがて、一輪、寸毫を違へざる十七日の月は、壁の面に掛つたのである。
残れる、其の柳、其の桂は、玉にて縫へる白銀の蓑の如く、腕の雪、白脛もあらはに長く、斧を片手に、掌にその月を捧げて立てる姿は、潟も川も爪さきに捌く、銀河に紫陽花の花籠を、かざして立てる女神であつた。
顧みて、
「ほゝゝ。」
微笑むと斉しく、姿は消えた。
壁の裏が行方であらう。その破目に、十七日の月は西に傾いたが、夜深く照りまさつて、拭ふべき霧もかけず、雨も風もあともない。
這へる蔦の白露が浮いて、村遠き森が沈んだ。
皎々として、夏も覚えぬ。夜ふけのつゝみを、一行は舟を捨てて、鯰と、鰡とが、寺詣をする状に、しよぼ〳〵と辿つて帰つた。
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
ざぶり、 ざぶり、 ざぶ〳〵、 ざあ──
「しいツ。」
「此処だ……」
「先刻の処。」
と、声の下で、囁きつれると、船頭が真先に、続いて青坊主が四つに這つたのである。
──後に、一座の女たち──八人居た──楽屋一同、揃つて、刃を磨いた斧の簪をさした。が、夜寝ると、油、白粉の淵に、藻の乱るゝ如く、黒髪を散らして七転八倒する。
「痛い。」
「痛い。」
「苦しい。」
「痛いよう。」
「苦しい。」
唯一人……脛すらりと、色白く、面長な、目の涼しい、年紀十九で、唄もふしも何にも出来ない、総踊りの時、半裸体に蓑をつけて、櫂をついてまはるばかりのあはれな娘のみ、斧を簪して仔細ない。髪にきら〳〵と輝くきれいさ。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「苦楽」
1924(大正13)年5月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「鰌すくひ」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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