妖魔の辻占
泉鏡花
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一
伝へ聞く……文政初年の事である。将軍家の栄耀其極に達して、武家の代は、将に一転機を劃せんとした時期だと言ふ。
京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿(仮)の御館の内に、一日偶と人妖に斉しい奇怪なる事が起つた。
其の年、霜月十日は、予て深く思召し立つ事があつて、大納言卿、私ならぬ祈願のため、御館の密室に籠つて、護摩の法を修せられた、其の結願の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞の入らない、日暮方と云ふのに、滞りなく式が果てた。多日の精進潔斎である。世話に云ふ精進落で、其辺は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構の夕餉の支度が出来た。
其処で、御簾中が、奥へ御入りある資治卿を迎のため、南御殿の入口までお立出に成る。御前を間三間ばかりを隔つて其の御先払として、袿、紅の袴で、裾を長く曳いて、静々と唯一人、折から菊、朱葉の長廊下を渡つて来たのは藤の局であつた。
此の局は、聞えた美女で、年紀が丁ど三十三、比野の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤を引いて引籠つて居たのが、此の日修法ほどき、満願の御二方の心祝の座に列するため、久しぶりで髪容を整へたのである。畳廊下に影がさして、艶麗に、然も軟々と、姿は黒髪とともに撓つて見える。
背後に……たとへば白菊と称ふる御厨子の裡から、天女の抜出でたありさまなのは、貴に気高い御簾中である。
作者は、委しく知らないが、此は事実ださうである。他に女の童の影もない。比野卿の御館の裡に、此の時卿を迎ふるのは、唯此の方たちのみであつた。
また、修法の間から、脇廊下を此方へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀を持つ扈従もなしに、唯一人なのである。御家風か質素か知らない。此の頃の恁うした場合の、江戸の将軍家──までもない、諸侯の大奥と表の容体に比較して見るが可い。
で、藤の局の手で、隔てのお襖をスツと開ける。……其処で、卿と御簾中が、一所にお奥へと云ふ寸法であつた。
傍とも云ふまい。片あかりして、冷く薄暗い、其の襖際から、氷のやうな抜刀を提げて、ぬつと出た、身の丈抜群な男がある。唯、間二三尺隔てたばかりで、ハタと藤の局と面を合せた。
局が、其の時、はつと袖屏風して、間を遮ると斉しく、御簾中の姿は、すつと背後向に成つた──丈なす黒髪が、緋の裳に揺いだが、幽に、雪よりも白き御横顔の気高さが、振向かれたと思ふと、月影に虹の影の薄れ行く趣に、廊下を衝と引返さる。
「一まづ。」
と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手を膝に垂れた時、早や其の襖際に気勢した資治卿の跫音の遠ざかるのが、静に聞えて、もとの脇廊下の其方に、厳な衣冠束帯の姿が──其の頃の御館の状も偲ばれる──襖の羽目から、黄菊の薫ともろともに漏れ透いた。
藤の局は騒がなかつた。
「誰ぢや、何ものぢや。」
「うゝ。」
と呻くやうに言つて、ぶる〳〵と、ひきつるが如く首を掉る。渠は、四十ばかりの武士で、黒の紋着、袴、足袋跣で居た。鬢乱れ、髻はじけ、薄痘痕の顔色が真蒼で、両眼が血走つて赤い。酒気は帯びない。宛如、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、慌てゝあとへ退かうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、垂々と血の滴るばかり抜刀の冴が、脈を打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、切尖が、じり〳〵と上へ反つた。
局は、猶予はず、肩をすれ違ふばかり、ひた〳〵と寄添つて、
「其方……此方へ。」
ひそみもやらぬ黛を、きよろりと視ながら、乱髪抜刀の武士も向きかはつた。
其をば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は静々と紅の袴を廊下に引く。
勿論、兇器は離さない。上の空の足が躍つて、ともすれば局の袴に躓かうとする状は、燃立つ躑躅の花の裡に、鼬が狂ふやうである。
「関東の武家のやうに見受けますが、何うなさつた。──此処は、まことに恐多い御場所。……いはれなう、其方たちの来る処ではないほどに、よう気を鎮めて、心を落着けて、可いかえ。咎も被せまい、罪にもせまい。妾が心で見免さうから、可いかえ、柔順しく御殿を出や。あれを左へ突当つて、ずツと右へ廻つてお庭に出や。お裏門の錠はまだ下りては居ぬ。可いかえ。」
「うゝ。」
「分つたな。」
「うーむ。」
雖然、局が立停ると、刀とともに奥の方へ突返らうとしたから、其処で、袿の袖を掛けて、曲ものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。荒き風に当るまい、手弱女の上﨟の此の振舞は讃歎に値する。
さて手を取つて、其のまゝなやし〳〵、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、一曲り曲つて出ると、杉戸が開いて居て、畳の真中に火桶がある。
其処には、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、渠を抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、余所目には手負へる鷲に、丹頂の鶴が掻掴まれたとも何ともたとふべき風情ではなかつた。
折悪く一人の宿直士、番士の影も見えぬ。警護の有余つた御館ではない、分けて黄昏の、それぞれに立違つたものと見える。欄間から、薄もみぢを照す日影が映して、大な番火桶には、火も消えかゝつて、灰ばかり霜を結んで侘しかつた。
局が、自分先づ座に直つて、
「とにかく、落着いて下に居や。」
曲ものは、仁王立に成つて、じろ〳〵と瞰下した。しかし足許はふら〳〵して居る。
「寒いな、さ、手をかざしや。」
と、美しく艶なお局が、白く嫋かな手で、炭びつを取つて引寄せた。
「うゝ、うゝ。」
とばかりだが、それでも、どつかと其処に坐つた。
「其方は煙草を持たぬかえ。」
すると、此の乱心ものは、慌しさうに、懐中を開け、袂を探した。それでも鞘へは納めないで、大刀を、ズバツと畳に突刺したのである。
兇器が手を離るゝのを視て、局は渠が煙草入を探す隙に、そと身を起して、飜然と一段、天井の雲に紛るゝ如く、廊下に袴の裙が捌けたと思ふと、武士は武しや振りつくやうに追縋つた。
「ほ、ほ、ほ。」
と、局は、もの優しく微笑んで、また先の如く手を取つて、今度は横斜違に、ほの暗い板敷を少時渡ると、𤏋ともみぢの緋の映る、脇廊下の端へ出た。
言ふまでもなく、今は疾くに、資治卿は影も見えない。
もみぢが、ちら〳〵とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
「千鳥、千鳥。……」
と﨟たく口誦みながら、半ば渡ると、白木の階のある処。
「千鳥、千鳥、あれ〳〵……」
と且つ指し、且つ恍惚と聞きすます体にして、
「千鳥や、千鳥や。」
と、やゝ声を高うした。
向う前栽の小縁の端へ、千鳥と云ふ、其の腰元の、濃い紫の姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる〳〵と、鞠が乱れて飛んで行く。
恰も友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら〳〵と人影が黒く散つた。
其時、お局が、階下へ導いて下り状に、両手で緊と、曲ものの刀持つ方の手を圧へたのである。
「うゝ、うゝむ。」
「あゝ、御番の衆、見苦しい、お目触りに、成ります。……括るなら、其の刀を。──何事も情が卿様の思召。……乱心ものゆゑ穏便に、許して、見免して遣つてたも。」
牛蒡たばねに、引括つた両刀を背中に背負はせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、曲者の手を引張つて遠ざかつた。
吻と呼吸して、面の美しさも凄いまで蒼白く成りつつ、階に、紅の袴をついた、お局の手を、振袖で抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの危さを思ふにつけ、安心の涙である。
下々の口から漏れて、忽ち京中洛中は是沙汰だが──乱心ものは行方が知れない。
二
「やあ、小法師。……」
こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、霧と、霜と、あの蘆の湖と、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
繰返して言ふが、文政初年霜月十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の渚である。
霧は濃くかゝつたが、関所は然まで遠くない。峠も三島寄の渚に、憚らず、ばちや〳〵と水音を立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち〳〵と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
鷺、獺、猿の類が、魚を漁るなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、怪しからず凄じいことは、さながら狼が出て竜宮の美女たちを追廻すやうである。
が、耳も牙もない、毛坊主の円頂を、水へ逆に真俯向けに成つて、麻の法衣のもろ膚脱いだ両手両脇へ、ざぶ〳〵と水を掛ける。──恁る霜夜に、掻乱す水は、氷の上を稲妻が走るかと疑はれる。
あはれ、殊勝な法師や、捨身の水行を修すると思へば、蘆の折伏す枯草の中に籠を一個差置いた。が、鯉を遁した畚でもなく、草を刈る代でもない。屑屋が荷ふ大形な鉄砲笊に、剰へ竹のひろひ箸をスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、小法師、小法師。」
もの幻の霧の中に、あけの明星の光明が、嶮山の髄に浸透つて、横に一幅水が光り、縦に一筋、紫に凝りつつ真紅に燃ゆる、もみぢに添ひたる、三抱余り見上げるやうな杉の大木の、梢近い葉の中から、梟の叫ぶやうな異様なる声が響くと、
「羽黒の小法師ではないか。──小法師。」
と言ふ〳〵、枝葉にざわ〳〵と風を立てて、然も、音もなく蘆の中に下立つたのは、霧よりも濃い大山伏の形相である。金剛杖を丁と脇挟んだ、片手に、帯の結目をみしと取つて、黒紋着、袴の武士を俯向けに引提げた。
武士は、紐で引からげて胸へ結んで、大小を背中に背負はされて居る。卑俗な譬だけれど、小児が何とかすると町内を三遍廻らせられると言つた形で、此が大納言の御館を騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
と小法師の擡げた顔の、鼻は鉤形に尖つて、色は鳶に斉しい。青黒く、滑々とした背膚の濡色に、星の影のチラ〳〵と映す状は、大鯰が藻の花を刺青したやうである。
「これは、秋葉山の御行者。」
と言ひながら、水しぶきを立てて、身体を犬ぶるひに振つた。
「御身は京都の返りだな。」
「然れば、虚空を通り掛りぢや。──御坊によう似たものが、不思議な振舞をするに依つて、大杉に足を踏留めて、葉越に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視て、拙道、胆を冷したぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯ぢや。悪戯は仔細ないが、羽ぶしの怪我で、湖に墜ちて、溺れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
と事もなげに笑つて、
「いや、些と身に汚れがあつて、不精に、猫の面洗ひと遣つた。チヨイ〳〵とな。はゝゝゝ明朝は天気だ。まあ休め。」
と法衣の袖を通して言ふ。……吐く呼吸の、ふか〳〵と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の小法師、秋葉の行者、二個は疑もなく、魔界の一党、狗賓の類属。東海、奥州、ともに名代の天狗であつた。
三
「成程、成程、……御坊の方は武士であつた。」
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、──小法師が言つたのである。
「然れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館へ、然も、念入りに、十二間のお廊下へドタリと遣つた。」
「おゝ御館では、藤の局が、我折れ、かよわい、女性の御身。剰へ唯一人にて、すつきりとしたすゞしき取計ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
と云つた山伏は、真赤な鼻を撮むやうに、つるりと撫でて、
「最早知つたか。」
「洛中の是沙汰。関東一円、奥州まで、愚僧が一山へも立処に響いた。いづれも、京方の御為に大慶に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷い。」
「やあ、如何な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失。……愚僧、早合点の先ばしりで、思ひ懸けない隙入をした。御身と同然に、愚僧等御司配の命令を蒙り、京都と同じ日、先づ〳〵同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住の大橋、上野の森を一のしに、濠端の松まで飛んで出た。かしこの威徳衰へたりと雖も、さすがは征夷大将軍の居城だ、何処の門も、番衆、見張、厳重にして隙間がない。……ぐるり〳〵と窺ふうちに、桜田門の番所傍の石垣から、大な蛇が面を出して居るのを偶と見つけた。霞ヶ関には返り咲の桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬籠りの長隠居、炬燵から這出したものと見える。早や往来は人立だ。
処へ、遙に虚空から大鳶が一羽、矢のやうに下いて来て、すかりと大蛇を引抓んで飛ばうとすると、這奴も地所持、一廉のぬしと見えて、やゝ、其の手は食はぬ。さか鱗を立てて、螺旋に蜿り、却つて石垣の穴へ引かうとする、抓んで飛ばうとする。揉んだ、揉んだ。──いや、夥しい人群集だ。──そのうちに、鳶の羽が、少しづゝ、石垣の間へ入る──聊かは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、片翼が隠れたと思ふと、するりと呑まれて、片翼だけ、ばさ〳〵ばさ、……煽つて煽つて、大もがきに藻掻いて堪へる。──見物は息を呑んだ。」
「うむ〳〵。」
と、山伏も息を呑む。
「馬鹿鵄よ、くそ鳶よ、鳶、鳶、とりもなほさず鳶は愚僧だ、はゝゝゝ。」
と高笑ひして、
「何と、お行者、未熟なれども、羽黒の小法師、六尺や一丈の蛇に恐れるのでない。こゝが術だ。人間の気を奪ふため、故らに引込まれ〳〵、やがて忽ち其最後の片翼も、城の石垣につツと消えると、いままで呼吸を詰めた、群集が、阿も応も一斉に、わツと鳴つて声を揚げた。此の人声に驚いて、番所の棒が揃つて飛出す、麻上下が群れ騒ぐ、大玄関まで騒動の波が響いた。
驚破、そのまぎれに、見物の群集の中から、頃合なものを引攫つて、空からストンと、怪我をせぬやうに落いた。が、丁度西の丸の太鼓櫓の下の空地だ、真昼間。」
「妙。」
と、山伏がハタと手を搏つて、
「御坊が落した、試みのものは何ぢや。」
「屑屋だ。」
「はて、屑屋とな。」
「紙屑買──即ち此だ。」
と件の大笊を円袖に掻寄せ、湖の水の星あかりに口を向けて、松虫なんぞを擽るやうに笊の底を、ぐわさ〳〵と爪で掻くと、手足を縮めて掻すくまつた、垢だらけの汚い屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの千草の股引を割膝で、こくめいに、枯蘆の裡にかしこまる。
此の人間の気が、ほとぼりに成つて通つたと見える。ぐたりと蛙を潰したやうに、手足を張つて平ばつて居た狂気武士が、びくりとすると、むくと起きた。が、藍の如き顔色して、血走つたまゝの目を睜りつつ、きよとりとして居る。
四
此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。──薩摩鹿児島に、小給の武士の子で年十四に成るのが、父の使に書面を持つて出た。朝五つ時の事で、侍町の人通りのない坂道を上る時、大鷲が一羽、虚空から巌の落下るが如く落して来て、少年を引掴むと、忽ち雲を飛んで行く。少年は夢現ともわきまへぬ。が、とに角大空を行くのだから、落つれば一堪りもなく、粉微塵に成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成るがまゝに身をすくめた。はじめは双六の絵を敷いた如く、城が見え、町が見え、ぼうと霞んで村里も見えた。やがて渾沌瞑々として風の鳴るのを聞くと、果しも知らぬ渺々たる海の上を翔けるのである。いまは、運命に任せて目を瞑ると、偶と風も身も動かなく成つた。我に返ると、鷲は大なる樹の梢に翼を休めて居る。が、山の峰の頂に、さながら尖塔の立てる如き、雲を貫いた巨木である。片手を密つと動かすと自由に動いた。
時に、脇指の柄に手を掛けはしたものの、鷲のために支へられて梢に留まつた身体である。──殺しおほせるまでも、渠を疵つけて地に落されたら、立処に五体が砕けよう。が、此のまゝにしても生命はあるまい。何う処置しようと猶予ふうちに、一打ち煽つて又飛んだ。飛びつつ、いつか地にやゝ近く、ものの一二間を掠めると見た時、此の沈勇なる少年は、脇指を引抜きざまにうしろ突にザクリと突く。弱る処を、呼吸もつかせず、三刀四刀さし通したので、弱果てて鷲が仰向けに大地に伏す、伏しつつ仰向けに飜る腹に乗つて、柔い羽根蒲団に包まれたやうに、ふはふはと落ちた。
恰も鷲の腹からうまれたやうに、少年は血を浴びて出たが、四方、山また山ばかり、山嶽重畳として更に東西を弁じない。
とぼ〳〵と辿るうち、人間の木樵に逢つた。木樵は絵の如く斧を提げて居る。進んで礼して、城下を教へてと言つて、且つ道案内を頼むと、城下とは何んぢやと言つた。お城を知らないか、と言ふと、知んねえよ、とけろりとして居る。薄給でも其の頃の官員の忰だから、向う見ずに腹を立てて、鹿児島だい、と大きく言ふと、鹿児島とは、何処ぢやと言ふ。おのれ、日本の薩摩国鹿児島を知らぬかと呼ばはると、伸び〳〵とした鼻の下を漸と縮めたのは、大な口を開けて呆れたので。薩摩は此処から何千里あるだい、と反対に尋ねたのである。少年も少し心着いて、此処は何処だらう、と聞いた時、はじめて知つた。木曾の山中であつたのである。
此処で、二人で、始めて鷲の死体を見た。
麓へ連下つた木樵が、やがて庄屋に通じ、陣屋に知らせ、郡の医師を呼ぶ騒ぎ。精神にも身体にも、見事異状がない。──鹿児島まで、及ぶべきやうもないから、江戸の薩摩屋敷まで送り届けた。
朝五つ時、宙に釣られて、少年が木曾山中で鷲の爪を離れたのは同じ日の夕。七つ時、間は五時十時間である。里数は略四百里であると言ふ。
──鷲でさへ、まして天狗の業である。また武士が刀を抜いて居たわけも、此の辺で大抵想像が着くであらう。──
ものには必ず対がある、序に言はう。──是と前後して近江の膳所の城下でも鷲が武士の子を攫つた──此は馬に乗つて馬場に居たのを鞍から引掴んで上つたのであるが、此の時は湖水の上を颯と伸した。刀は抜けて湖に沈んで、小刀ばかり帯に残つたが、下が陸に成つた時、砂浜の渚に少年を落して、鷲は目の上の絶壁の大巌に翼を休めた。しばらくして、どつと下いて、少年に飛かゝつて、顔の皮を毮りくらはんとする処を、一生懸命脇差でめくら突きにして助かつた。人に介抱されて、後に、所を聞くと、此の方は近かつた。近江の湖岸で、里程は二十里。──江戸と箱根は是より少し遠い。……
それから、人間が空をつられて行く状に参考に成るのがある。……此は見たものの名が分つて居る。讃州高松、松平侯の世子で、貞五郎と云ふのが、近習たちと、浜町矢の倉の邸の庭で、凧を揚げて遊んで居た。
些と寒いほどの西風で、凧に向つた遙か品川の海の方から、ひら〳〵と紅いものが、ぽつちりと見えて、空中を次第に近づく。唯、真逆になった女で、髪がふはりと下に流れて、無慙や真白な足を空に、顔は裳で包まれた。ヒイと泣叫ぶ声が悲しげに響いて、あれ〳〵と見るうちに、遠く筑波の方へ霞んで了つた。近習たちも皆見た。丁ど日中で、然も空は晴れて居た。──膚も衣もうつくしく蓑虫がぶらりと雲から下つたやうな女ばかりで、他に何も見えなかつた。が、天狗が掴んだものに相違ない、と云ふのである。
けれども、こゝなる両個の魔は、武士も屑屋も逆に釣つたのではないらしい。
五
「ふむ、……其処で肝要な、江戸城の趣は如何であつたな。」
「いや以ての外の騒動だ。外濠から竜が湧いても、天守へ雷が転がつても、太鼓櫓の下へ屑屋が溢れたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋が興がつた男で、鉄砲笊を担いだまゝ、落ちた処を俯向いて、篦鷺のやうに、竹の箸で其処等を突つきながら、胡乱々々する。……此を高櫓から蟻が葛籠を背負つたやうに、小さく真下に覗いた、係りの役人の吃驚さよ。陽の面の蝕んだやうに目が眩んで、折からであつた、八つの太鼓を、ドーン、ドーン。」
と小法師なるに力ある声が、湖水に響く。ドーンと、もの凄く谺して、
「ドーン、ドーンと十三打つた。」
「妙。」と、又乗出した山伏が、
「前代未聞。」と言の尾を沈めて、半ば歎息して云つた。
「謀叛人が降つて湧いて、二の丸へ取詰めたやうな騒動だ。将軍の住居は大奥まで湧上つた。長袴は辷る、上下は蹴躓く、茶坊主は転ぶ、女中は泣く。追取刀、槍、薙刀。そのうち騎馬で乗出した。何と、紙屑買一人を、鉄砲づくめ、槍襖で捕へたが、見ものであつたよ。──国持諸侯が虱と合戦をするやうだ。」
「真か、それは?」
「云ふにや及ぶ。」
「あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。──」
「む、大納言殿御館では、大刀を抜いた武士を、手弱女の手一つにて、黒髪一筋乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く撮出す。」
「征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買唯一人を、老中はじめ合戦の混乱ぢや。」
「京都の御ため。」
と西に向つて、草を払つて、秋葉の行者と、羽黒の小法師、揃つて、手を支いて敬伏した。
「小虫、微貝の臣等……」
「欣幸、慶福。」
「謹んで、万歳を祝し奉る。」
六
「さて、……町奉行が白洲を立てて驚いた。召捕つた屑屋を送るには、槍、鉄砲で列をなしたが、奉行役宅で突放すと蟇ほどの働きもない男だ。横から視ても、縦から視ても、汚い屑屋に相違あるまい。奉行は継上下、御用箱、うしろに太刀持、用人、与力、同心徒、事も厳重に堂々と並んで、威儀を正して、ずらりと蝋燭に灯を入れた。
灯を入れて、更めて、町奉行が、余の事に、櫓下を胡乱ついた時と、同じやうな状をして見せろ、とな、それも吟味の手段とあつて、屑屋を立たせて、笊を背負はせて、煮しめたやうな手拭まで被らせた。が、猶の事だ。今更ながら、一同の呆れた処を、廂を跨いで倒に覗いて狙つた愚僧だ。つむじ風を哄と吹かせ、白洲の砂利をから〳〵と掻廻いて、パツと一斉に灯を消した。逢魔ヶ時の暗まぎれに、ひよいと掴んで、空へ抜けた。お互に此処等は手軽い。」
「いや、しかし、御苦労ぢや。其処で何か、すぐに羽黒へ帰らいで、屑屋を掴んだまゝ、御坊関所近く参られたは、其の男に後難あらせまい遠慮かな。」
「何、何、愚僧が三度息を吹掛け、あの身体中まじなうた。屑買が明日が日、奉行の鼻毛を抜かうとも、嚔をするばかりで、一向に目は附けん。其処に聊も懸念はない。が、正直な気のいゝ屑屋だ。不便や、定めし驚いたらう。……労力やすめに、京見物をさせて、大仏前の餅なりと振舞はうと思うて、足ついでに飛んで来た。が、いや、先刻の、それよ。……城の石垣に於て、大蛇と捏合うた、あの臭気が脊筋から脇へ纏うて、飛ぶほどに、駈けるほどに、段々堪らぬ。よつて、此の大盥で、一寸行水をばちや〳〵遣つた。
愚僧は好事──お行者こそ御苦労な。江戸まで、あの荷物を送と見えます。──武士は何とした、心が萎えて、手足が突張り、殊の外疲れたやうに見受けるな。」
「おゝ、其の武士は、部役のほかに、仔細あつて、些と灸を用ゐたのぢや。」
「道理こそ、……此は暑からう。待て〳〵、お行者。灸と言へば、煙草が一吹し吹したい。丁ど、あの岨道に蛍ほどのものが見える。猟師が出たな。火縄らしい。借りるぞよ。来い。」
とハタと掌を一つ打つと、遙に隔つた真暗な渚から、キリ〳〵〳〵と舞ひながら、森も潜つて、水の面を舞つて来るのを、小法師は指の先へ宙で受けた。つはぶきの葉を喇叭に巻いたは、即ち煙管で。蘆の穂といはず、草と言はず毮り取つて、青磁色の長い爪に、火を翳して、ぶく〳〵と吸つけた。火縄を取つて、うしろ状の、肩越に、ポン、と投げると、杉の枝に挟まつて、ふつと消えたと思つたのが、めら〳〵と赤く燃上つた。ぱち〳〵と鳴ると、双子山颪颯として、松明ばかりに燃えたのが、見る〳〵うちに、轟と響いて、凡そ片輪車の大きさに火の搦んだのが、梢に掛つて、ぐる〳〵ぐる〳〵と廻る。
此の火に照された、二個の魔神の状を見よ。けたゝましい人声幽に、鉄砲を肩に、猟師が二人のめりつ、反りつ、尾花の波に漂うて森の中を遁げて行く。
山兎が二三疋、あとを追ふやうに、躍つて駈けた。
「小法師、あひかはらず悪戯ぢや。」
と兜のやうな額皺の下に、恐しい目を光らしながら、山伏は赤い鼻をひこ〳〵と笑つたが、
「拙道、煙草は不調法ぢや。然らば相伴に腰兵糧は使はうよ。」
と胡坐かいた片脛を、づかりと投出すと、両手で逆に取つて、上へ反せ、膝ぶしからボキリボキリ、ミシリとやる。
「うゝ、うゝ。」
「あつ。」
と、武士と屑屋は、思はず声を立てたのである。
見向きもしないで、山伏は挫折つた其の己が片脛を鷲掴みに、片手で踵が穿いた板草鞋を毮り棄てると、横銜へに、ばり〳〵と齧る……
鮮血の、唇を滴々と伝ふを視て、武士と屑屋は一のめりに突伏した。
不思議な事には、へし折つた山伏の片脛のあとには、又おなじやうな脛が生えるのであつた。
杉なる火の車は影を滅した。寂寞として一層もの凄い。
「骨も筋もないわ、肝魂も消えて居る。不便や、武士……詫をして取らさうか。」
と小法師が、やゝもの静に、
「お行者よ。灸とは何かな。」
七
此の間に──
「塩辛い。」
と言ふ山伏の声がして、がぶ〳〵。
「塩辛い。」
と言つて、湖水の水を、がぶ〳〵と飲んだ──
「お行者。」
「其の武士は、小堀伝十郎と申す──陪臣なれど、それとても千石を食むのぢや。主人の殿は松平大島守と言ふ……」
「西国方の諸侯だな。」
「されば御譜代。将軍家に、流も源も深い若年寄ぢや。……何と御坊。……今度、其の若年寄に、便宜あつて、京都比野大納言殿より、(江戸隅田川の都鳥が見たい、一羽首尾ようして送られよ。)と云ふお頼みがあつたと思へ。──御坊の羽黒、拙道の秋葉に於いても、旦那たちがこの度の一儀を思ひ立たれて、拙道等使に立つたも此のためぢや。申さずとも、御坊は承知と存ずるが。」
「はあ、然うか、いや知らぬ、愚僧早走り、早合点の癖で、用だけ聞いて、して来いな、とお先ばしりに飛出たばかりで、一向に仔細は知らぬ。が、扨は、根ざす処があるのであつたか。」
「もとよりぢや。──大島守が、此の段、殿中に於いて披露に及ぶと、老中はじめ額を合せて、
此は今めかしく申すに及ばぬ。業平朝臣の(名にしおはゞいざこととはむ)歌の心をまのあたり、鳥の姿に見たいと言ふ、花につけ、月につけ、をりからの菊紅葉につけての思ひ寄には相違あるまい。……大納言心では、将軍家は、其の風流の優しさに感じて、都鳥をば一番、そつと取り、紅、紫の房を飾つた、金銀蒔絵の籠に据ゑ、使も狩衣に烏帽子して、都にのぼす事と思はれよう。ぢやが、海苔一帖、煎餅の袋にも、贈物は心すべきぢや。すぐに其は対手に向ふ、当方の心持の表に相成る。……将軍家へ無心とあれば、都鳥一羽も、城一つも同じ道理ぢや。よき折から京方に対し、関東の武威をあらはすため、都鳥を射て、鴻の羽、鷹の羽の矢を胸さきに裏掻いて貫いたまゝを、故と、蜜柑箱と思ふが如何、即ち其の昔、権現様戦場お持出しの矢疵弾丸痕の残つた鎧櫃に納めて、槍を立てて使者を送らう。と言ふ評定ぢや。」
「気障な奴だ。」
「むゝ、先づ聞けよ。──評定は評定なれど、此を発議したは今時の博士、秦四書頭と言ふ親仁ぢや。」
「あの、親仁。……予て大島守に取入ると聞いた。成程、其辺の催しだな。積つても知れる。老耄儒者めが、家に引込んで、溝端へ、桐の苗でも植ゑ、孫娘の嫁入道具の算段なりとして居れば済むものを──いや、何時の世にも当代におもねるものは、当代の学者だな。」
「塩辛い……」
と山伏は、又したゝか水を飲んで、
「其処でぢや……松平大島守、邸は山ぢやが、別荘が本所大川べりにあるに依り、かた〴〵大島守か都鳥を射て取る事に成つた。……此の殿、聊かものの道理を弁へてゐながら、心得違ひな事は、諸事万端、おありがたや関東の御威光がりでな。──一年、比野大納言、まだお年若で、京都御名代として、日光の社参に下られたを饗応して、帰洛を品川へ送るのに、資治卿の装束が、藤色なる水干の裾を曳き、群鵆を白く染出だせる浮紋で、風折烏帽子に紫の懸緒を着けたに負けない気で、此大島守は、紺染の鎧直垂の下に、白き菊綴なして、上には紫の陣羽織。胸をこはぜ掛にて、後へ折開いた衣紋着ぢや。小袖と言ふのは、此れこそ見よがしで、嘗て将軍家より拝領の、黄なる地の綾に、雲形を萌葱で織出し、白糸を以て葵の紋着。」
「うふ。」
と小法師が噴笑した。
「何と御坊。──資治卿が胴袖に三尺もしめぬものを、大島守其の装で、馬に騎つて、資治卿の駕籠と、演戯がかりで向合つて、どんなものだ、とニタリとした事がある。」
「気障な奴だ。」
「大島守は、おのれ若年寄の顕達と、将軍家の威光、此見よがしの上に、──予て、資治卿が美男におはす、従つて、此の卿一生のうちに、一千人の女を楽む念願あり、また婦人の方より恁と知りつつ争つて媚を捧げ、色を呈する。専ら当代の在五中将と言ふ風説がある──いや大島守、また相当の色男がりぢやによつて、一つは其嫉みぢや……負けまい気ぢや。
されば、名にしおはゞの歌につけて、都鳥の所望にも、一つは曲つたものと思つて可い。
また此の、品川で、陣羽織菊綴で、風折烏帽子紫の懸緒に張合つた次第を聞いて、──例の天下の博士めが、(遊ばされたり、老生も一度其の御扮装を拝見。)などと申す。
処で、今度、隅田川両岸の人払、いや人よせをして、件の陣羽織、菊綴、葵紋服の扮装で、拝見ものの博士を伴ひ、弓矢を日置流に手ばさんで静々と練出した。飛びも、立ちもすれば射取られう。こゝに可笑な事は、折から上汐満々たる……」蘆の湖は波一条、銀河を流す気勢がした。
「かの隅田川に、唯一羽なる都鳥があつて、雪なす翼は、朱鷺色の影を水脚に引いて、すら〳〵と大島守の輝いて立つ袖の影に入るばかり、水岸へ寄つて来た。」
「はて、それはな?」
「誰も知るまい。──大島守の邸に、今年二十になる(白妙。)と言つて、白拍子の舞の手だれの腰元が一人あるわ──一年……資治卿を饗応の時、酒宴の興に、此の女が一さし舞つた。──ぢやが、新曲とあつて、其の今様は、大島守の作る処ぢや。」
「迷惑々々。」
「中に(時鳥)何とかと言ふ一句がある。──白妙が(時鳥)とうたひながら、扇をかざして膝をついた。時しも屋の棟に、時鳥が一せいしたのぢや。大島守の得意、察するに余ある。……ところが、時鳥は勝手に飛んだので、……こゝを聞け、御坊よ。
白妙は、資治卿の姿に、恍惚と成つたのぢや。
大島守は、折に触れ、資治卿の噂をして、……その千人の女に契ると言ふ好色をしたゝかに詈ると、……二人三人の妾妾、……故とか知らぬ、横肥りに肥つた乳母まで、此れを聞いて爪はじき、身ぶるひをする中に、白妙唯一人、(でも。)とか申して、内々思ひをほのめかす、大島守は勝手が違ふ上に、おのれ容色自慢だけに、いまだ無理口説をせずに居る。
其の白妙が、めされて都に上ると言ふ、都鳥の白粉の胸に、ふつくりと心魂を籠めて、肩も身も翼に入れて憧憬れる……其の都鳥ぢや。何と、遁げる処ではあるまい。──しかし、人間には此は解らぬ。」
「むゝ、聞えた。」
「都鳥は手とらまへぢや。蔵人の鷺ならねども、手どらまへた都鳥を見て、将軍の御威光、殿の恩徳とまでは仔細ない、──別荘で取つて帰つて、羽ぶしを結へて、桜の枝につるし上げた。何と、雪白裸身の美女を、梢に的にした面影であらうな。松平大島守源の何某、矢の根にしるして、例の菊綴、葵の紋服、きり〳〵と絞つて、兵と射たが、射た、が。射たが、薩張当らぬ。
尤も、此の無慙な所業を、白妙は泣いて留めたが、聴かれさうな筈はない。
拝見の博士の手前──二の矢まで射損じて、殿、怫然とした処を、(やあ、飛鳥、走獣こそ遊ばされい。恁る死的、殿には弓矢の御恥辱。)と呼ばはつて、ばら〳〵と、散る返咲の桜とともに、都鳥の胸をも射抜いたるは……
……塩辛い。」
と山伏は又湖水を飲む音。舌打しながら、
「ソレ、其処に控へた小堀伝十郎、即ち彼ぢや。……拙道が引掴んだと申して、決して不忠不義の武士ではない。まづ言はば大島守には忠臣ぢや。
さて、処で、矢を貫いた都鳥を持つて、大島守登営に及び、将軍家一覧の上にて、如法、鎧櫃に納めた。
故と、使者差立てるまでもない。ぢやが、大納言の卿に、将軍家よりの御進物。よつて、九州へ帰国の諸侯が、途次の使者兼帯、其の武士が、都鳥の宰領として、罷出でて、東海道を上つて行く。……
秋葉の旦那、つむじが曲つた。颶風の如く、御坊の羽黒と気脈を通じて、またゝく間の今度の催。拙道は即ち仰をうけて、都鳥の使者が浜松の本陣へ着いた処を、風呂にも入れず、縁側から引攫つた。──武士の這奴の帯の結目を掴んで引釣ると、斉しく、金剛杖に持添へた鎧櫃は、とてもの事に、狸が出て、棺桶を下げると言ふ、古槐の天辺へ掛け置いて、大井、天竜、琵琶湖も、瀬多も、京の空へ一飛ぢや。」
と又がぶりと水を飲んだ。
「時に、……時にお行者。矢を貫いた都鳥は何とした。」
「それぢや。……桜の枝に掛つて、射貫れたとともに、白妙は胸を痛めて、どつと……息も絶々の床に着いた。」
「南無三宝。」
「あはれと思し、峰、山、嶽の、姫たち、貴夫人たち、届かぬまでもとて、目下御介抱遊ばさるる。」
「珍重。」
と小法師が言つた。
「いや、安心は相成らぬ。が、かた〴〵の御心もじ、御如才はないかに存ずる。やがて、此の湖上にも白い姿が映るであらう。──水も、夜も、さて更けた。──武士。」
と呼んで、居直つて、
「都鳥もし蘇生らず、白妙なきものと成らば、大島守を其のまゝに差置かぬぞ、と確と申せ。いや〳〵待て、必ず誓つて人には洩すな。──拙道の手に働かせたれば、最早や汝は差許す。小堀伝十郎、確とせい、伝十郎。」
「はつ。」
と武士は、魂とともに手を支いた。こゝに魂と云ふは、両刀の事ではない。
八
「何と御坊」
と、少時して山伏が云つた。
「思ひ懸けず、恁る処で行逢うた、互の便宜ぢや。双方、彼等を取替へて、御坊は羽黒へ帰りついでに、其の武士を釣つて行く、拙道は一翼、京へ伸して、其の屑屋を連れ参つて、大仏前の餅を食はさうよ──御坊の厚意は無にせまい。」
「よい、よい、名案。」
「参れ。……屑屋。」
と山の襞襀を霧の包むやうに枯蘆にぬつと立つ、此の大なる魔神の裾に、小さくなつて、屑屋は頭から領伏して手を合せて拝んだ。
「お慈悲、お慈悲でござります、お助け下さいまし。」
「これ、身は損なはぬ。ほね休めに、京見物をさして遣るのぢや。」
「女房、女房がござります。児がござります。──何として、箱根から京まで宙が飛べませう。江戸へ帰りたう存じます。……お武家様、助けて下せえ……」
と膝行り寄る。半ば夢心地の屑屋は、前後の事を知らぬのであるから、武士を視て、其の剣術に縋つても助かりたいと思つたのである。
小法師が笑ひながら、塵を払つて立つた。
「可厭なものは連れては参らぬ。いや、お行者御覧の通りだ。御苦労には及ぶまい。──屑屋、法衣の袖を取れ、確と取れ、江戸へ帰すぞ。」
「えゝ、滅相な、お慈悲、慈悲でござります。山を越えて参ります。歩行いて帰ります。」
「歩行けるかな。」
「這ひます、這ひます、這ひまして帰ります。地を這ひまして帰ります。其の方が、どれほどお情か分りませぬ。」
「はゝ、気まゝにするが可い、──然らば入交つて、……武士、武士、愚僧に縋れ。」
「恐れながら、恐れながら拙者とても、片時も早く、もとの人間に成りまして、人間らしく、相成りたう存じます。峠を越えて戻ります。」
「心のまゝぢや。──御坊。」
と山伏が式代した。
「お行者。」
「少時、少時何うぞ。」
と蹲りながら、手を挙げて、
「唯今、思ひつきました。此には海内第一のお関所がござります。拙者券を持ちませぬ。夜あけを待ちましても同じ儀ゆゑに……ハタと当惑を仕ります。」
武士はきつぱり正気に返つた。
「仔細ない。久能山辺に於ては、森の中から、時々、(興津鯛が食べたい、燈籠の油がこぼれるぞよ。)なぞと声の聞える事を、此辺でもまざ〳〵と信じて居る。──関所に立向つて、大音に(権現が通る。)と呼ばはれ、速に門を開く。」
「恐れ……恐多い事──承りまするも恐多い。陪臣の分を仕つて、御先祖様お名をかたります如き、血反吐を吐いて即死をします。」
と、わな〳〵と震へて云つた。
「臆病もの。……可し。」
「計らひ取らせう。」
同音に、
「関所!」
と呼ぶと、向うから歩行くやうに、する〳〵と真夜中の箱根の関所が、霧を被いて出て来た。
山伏の首が、高く、鎖した門を、上から俯向いて見込む時、小法師の姿は、ひよいと飛んで、棟木に蹲んだ。
「権現ぢや。」
「罷通るぞ!」
哄と笑つた。
小法師の姿は東の空へ、星の中に法衣の袖を掻込んで、うつむいて、すつと立つ、早走と云つたのが、身動きもしないやうに、次第々々に高く上る。山伏の形は、腹這ふ状に、金剛杖を櫂にして、横に霧を漕ぐ如く、西へふは〳〵、くるりと廻つて、ふは〳〵と漂ひ去る。……
唯、仰いで見るうちに、数十人の番士、足軽の左右に平伏す関の中を、二人何の苦もなく、うかうかと通り抜けた。
「お武家様、もし、お武家様。」
ハツとしたやうに、此の時、刀の柄に手を掛けて、もの〳〵しく見返つた。が、汚い屑屋に可厭な顔して、
「何だ。」
「お袂に縋りませいでは、一足も歩行かれませぬ。」
「ちよつ。参れ。」
「お武家様、お武家様。」
「黙つて参れよ。」
小湧谷、大地獄の音を暗中に聞いた。
目の前の路に、霧が横に広いのではない。するりと無紋の幕が垂れて、ゆるく絞つた総の紫は、地を透く内側の燈の影に、色も見えつつ、ほのかに人声が漏れて聞えた。
女の声である。
時に、紙屑屋の方が、武士よりは、もの馴れた。
そして、跪かせて、屑屋も地に、並んで恭しく手を支いた。
「江戸へ帰りますものにござります。山道に迷ひました。お通しを願ひたう存じます。」
ひつそりして、少時すると、
「お通り。」
と、もの柔な、優しい声。
颯と幕が消えた。消ゆるにつれて、朦朧として、白小袖、紅の袴、また綾錦、振袖の、貴女たち四五人の姿とともに、中に一人、雪に紛ふ、うつくしき裸体の女があつたと思ふと、都鳥が一羽、瑪瑙の如き大巌に湛へた温泉に白く浮いて居た。が、それも湯気とともに蒼く消えた。
星ばかり、峰ばかり、颯々たる松の嵐の声ばかり。
幽に、互の顔の見えた時、真空なる、山かづら、山の端に、朗な女の声して、
「矢は返すよ。」
風を切つて、目さきへ落ちる、此が刺さると生命はなかつた。それでも武士は腰を抜いた。
引立てても、目ばかり働いて歩行き得ない。
屑屋が妙なことをはじめた。
「お武家様、此の笊へお入んなせい。」
入れると、まだ天狗のいきの、ほとぼりが消えなかつたと見えて、鉄砲笊へ、腰からすつぽりと納つたのである。
屑屋が腰を切つて、肩を振つて、其の笊を背負つて立つた。
「屑い。」
うつかりと、……
「屑い。」
落ちた矢を見ると、ひよいと、竹の箸ではさんで拾つて、癖に成つて居るから、笊へ抛る。
鴻の羽の矢を額に取つて、蒼い顔して、頂きながら、武士は震へて居た。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
1922(大正11)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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