湯島詣
泉鏡花
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紅茶会 三両二分 通う神 紀の国屋
段階子 手鞠の友 湯帰り 描ける幻
朝参詣 言語道断 下かた 狂犬源兵衛
半札の円輔 犬張子 胸騒 鶯
白木の箱 灰神楽 星 |
「紅茶の御馳走だ、君、寄宿舎の中だから何にもない、砂糖は各々適宜に入れることにしよう。さあ、神月。」
三人の紅茶を一個々々硝子杯に煎じ出した時、柳沢時一郎はそのすっきりと脊の高い、緊った制服の姿を籐の椅子の大きなのに、無造作に落していった。
渠は腕袋の美しい片肱を椅子の縁に掛けて、悠然とぶら下げながら、
「篠塚、その砂糖をお客様に出して上げろ。」
「おい、」と心安げに答えたのは和尚天窓で、背広を着た柔和な仁体、篠塚某という哲学家。一脚の卓子を囲んで、柳沢と差向いに同じ椅子に掛けていたが、体を捻って、背後へ手を伸すと雑書を納れた本箱の上から、一瓶の角砂糖を取って、これを二人の間に居る一人の美少年の前に置いた。
「取って頂くよ。」と優しく会釈する、これが神月と呼ばれた客で、名を梓という同窓の文学士、いずれも歴々の人物である。
梓は柳沢が煎じてくれた紅茶の、薄紅色の透取る硝子杯の小さいのを取って前に引いたが、いま一人哲学者と肩を竝べて、手織の綿入に小倉の袴、紬の羽織を脱いだのを、紐長く椅子の背後に、裏を翻して引懸けて、片手を袴に入れて、粛然として読書する薄髯のあるのを見て、
「何を読んでるんです、」と少しく腰を浮かして、差覗いて聞いた。
「僕、」と応じはしたけれども、急に顔を上げたので誰に返事をするのであるか、自分にも分らないで迂路々々するのを柳沢は気軽に引取って、
「若狭が読んでるのは歴史だよ、国史専修の先生だもの、しばらくの間も研究を怠らない。」
「御勉強です、」といって神月が点首くと、和尚は、にやにやと笑いながら、その読んでる書を横目で見た。柳沢は吹出して、
「真面目な挨拶をする奴があるものか、歴史は歴史だが大変なもんです。無名氏著、岩見武勇伝だから可いじゃあないか。」
「酷く研究をしております、」と哲学者は仰いで飲む。これが聞えたものらしい。若狭は読みながら莞爾とした。
「また何ぞの材料にならないとも限らないだろう。」と梓はその硝子杯を手にした。
柳沢は斜に卓子に凭れて、小刀の柄で紅茶に和した角砂糖を突きながら、
「そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。」
「馬鹿をいえ。」
梓は傍より、
「しかし君も鳥屋の女の言は、時に詩調を帯びると、そういった事があるよ。」
底意なき人達は三人一堂に笑った。
「賑かだね、柳沢、」と窓の下の園生から声を懸けたものがある。
一番窓に近い柳沢は、乱暴に胸を反して振向いたが、硝子越に下を覗いて見て、
「竜田か。」
「誰か来ているかい。」
「根岸の新華族だ、入れ。」と云って座に直る。
同時に、ひよいと窓の縁に手が懸った、飛附いて、その以前、器械体操で馴らしたか、身の軽さ、肩を揺り上げて室の中に、まずその瀟洒なる顔を出したのは、竜田、名を若吉というのである。
梓を見て笑を含み、
「堪忍してやれ、神月はもう子爵じゃあない。」といいながら腕組をして外壁に附着いたままで居る。柳沢は椅子をずらして、
「まあ入れ、ちょうど可い。今その事に就いて、神月問題というのをはじめた処だ。ちょっとその休憩時間よ。神月が酷く弁論に窮して、き様の来るのを待っていたんだぜ、竜田が居たらばッてそういってな。」
聞きも果てず、満面に活気を帯び来った竜田は、飜然と躍込み、二人の間へ衝と立って、卓子に手を支いたが、解けかかる毛糸の襟巻の端を背後へ撥ねて、
「可し、また例の筆法で苦しめたか、神月君、」
親しげに、
「よく、僕を待っててくれました、もう大丈夫だ、心配をしたもうな。僕何のために学生となって、法律を研究してると思う、皆親友神月の弁護をするためだね、どうです。」
「どうぞ宜しく、」といって梓は戯れに頭を下げた。
竜田はその薩摩飛白の羽織の胸紐をぐッと〆め、
「さあ、来い。」
「またやんちゃんが始まるな、」と哲学者は両手で頤を支えて、柔和な顔を仰向けながら、若吉を瞶めて剃立の髯の痕を撫で廻す。
「大概分ってるさ、問題というのは神月が子爵家を去って、かの夫人に別れて、谷中の寺に籠城して、そして情婦の処へ通うのを攻撃するんだろう。」
「勿論、」と簡単、がちゃりと雑具の中へ小刀を投出して、柳沢は大跨に開き直り、
「最初、神月がその夫人との中に感情を害したのは、不幸にも結婚の第一日、すなわち式を挙げた日だ。」
「さよう、」と突込んで応ずる竜田の声は明快である。
「き様も知ってるな、僕も聞いた。そうして成程と思ったが、考えて見ると蓋し神月の方が非なんじゃあないか。」
「何、そんなことがあるものか、新婚旅行に出掛けようとして、上野から汽車に乗込むと、まだ赤羽の声も掛らぬうち、山下の森の中で、光りものがした。神月は──おや、人魂が飛ぶ、──と何心なくいったんだ。谷中は近し、こりゃ感情だね。そうすると、あの嚊々め。」
「竜田窘め、旦那様の前じゃ、」と哲学者が戯れる。
顧みて、
「失敬。」
「結構、」といったのは、そのいわゆる旦那様梓であった。竜田は勢よく、
「どうだ、小生意気ではないか、──いいえ、星が流れたんです、隕石でございます、──と云った、そればかりならばまだしも恕すね。」
「神月が人魂だといったのを聞いた時、あいつ愛嬌のない、鼻の隆い、目の強い、源氏物語の精霊のような、玉司子爵夫人竜子、語を換えて云えば神月の嚊々だ。君、そいつがねその権式高な、寂しい顔に冷かな笑を帯びてさ、文学士を軽蔑したもんだぜ、神月なるもの癪に障らざるを得んじゃあないか。」
「可し、婿さんは癪に障ったろう。癪に障ったろうが、また夫人その人の身になって、その時には限らぬが、すべて神月の性質と、行を見た時の夫人の失望を察せんけりゃ不可。もっとも余り物質的の名誉を重んずる夫人の性質も極端だが、それだけにまた儕輩に群を抜いて、上流の貴婦人に、師のごとく、姉のごとく、敬い尊ばれている名誉を思え、七歳の年紀から仏蘭西へ行って先方の学校で育ったんだ。」
「待て、待て、少し待て。」と竜田は掌で卓子を押え、語を遮り、
「まあ待て、先方が七歳の時から仏蘭西で育ったんなら、手前どものは六歳の年紀から仲之町で育ったんです、もっとも唯今は数寄屋町に居りますがね。」
「竜田、」と留めた、梓は恥ずる色があった。
「可いよ、君、可いから言わしておけ、どうせ皆御存じなんだ。どうです、彼が仏蘭西で、学び、日本で得た、すべての学識と、その子爵たる財産と、家屋と、庭園と、十幾人の奴隷とだ。その言一句といえども忽にせず、一挙手一投足といえども謹んで、二十七歳の今日まで、旭の昇るがごとくに博し得た名誉とを、悉皆神月に捧げて、その妻となったのを、恩だというんなら、こっちにだってその一切に価するものがあるんだよ。」
哲学者は言を挟み、
「見たまえ、また竜田が例の笛と鼓を持出すからな、はははははは。」
「何を失敬な、」と哲学者をちょっと睨んで、
「そうさ、持出すが悪いか。先方じゃあ巴里で、麺麭を食ってバイブルを読んでいた時に、こっちじゃあ、雪の朝、顫えてるのを戸外へ突出されて、横笛の稽古をさせられたんだ。吹込む呼吸が強くなるためだといって抱主が、君、朝御飯も食べさせない、耐るもんか、寒い処を、笛を習ってる中に呼吸が続かぬから気絶するのが、毎朝のようだ、水を吹かけて生返らして、それから握飯の針のようなのを二ツずつ貰って食べる、帰ると三味線のお温習をして、そのまま下方の稽古に遣られる。直ぐに踊の師匠に打ちのめされるんだ。生疵の絶間もない位、夜はというと座敷を廻り歩いちゃあ、年上の奴に突飛ばされて、仰向けに倒れると見っともないといって頬板を打たれたもんだ、何のためだ、同じ我々同胞の中へ生れて来て、一方は髯を生して馬車に乗った奴に尊敬される、一方は客とさえいやあ馬の骨にまで、その笛をもって、その踊をもって、勤めるんです、この間に処して板挟となった、神月たるもの、宜しく彼を棄ててこれを救うべしじゃないか。どうだね、殊に親も兄弟も叔父叔母もない。ただ手足と、顔と、綾羅錦繍と、三味線と冷酒と踊とのみあって存する、あわれな孤児をどうするんです、ねえ君、そこは男子の意地だ。」と若い人は意気頗る昂った。
柳沢は冷然として、
「あらず、そういう意地は、鳶の者も持ってるじゃあないか。」
この折から譬えば荒滝をずたずたに切って落すような、がッがッという響がした。この音は校舎の奥の方より遥に轟き来って、床下を決して戸外へ抜けたのである。
先刻からわざと笑顔を装いながら、何か澄まないらしい色が見えて、ほとんど茫然したかのごとく、柳沢と竜田の論ずる処を聴いていた文学士は、太くこれを感じた様子で、
「何だね、今の音は、」と安からぬ状して尋ねた。
柳沢、そのあらぬ方を瞶めていて落着かない梓の面を瞻って、
「忘れたか、神月。」
「何を。」
「今の音を。室を煖める蒸気じゃあないか。」
言う時、煉瓦造の高い寄宿舎の二階から一文字に懸けてある鉄の樋が鳴って、深い溝を一団の湯気が白々と渦き上った。硝子窓は朦朧として、夕暮の寒さが身に染みるほど室の煖まるのが感じらるる。
柳沢は片手を握って、長くこれを神月に差向けて卓子の上に置き、
「それだからもう寄宿舎に居た頃の事を君は忘れてしまったのだ。既に幾たびも君が学資に窮して、休学の已むを得ざらんとするごとに、常に仏文の手紙が添て、行届いた仕送があったではないか。神月、君が俊才有為の士である事は皆が認めていた、けれども、いざとなって金貨を積んでその業を助けたものは、天下に今の夫人を措いて他にゃなかろう。
そうすりゃ恩人でまた唯一の知己といわなければならない。夫人の名誉のため、幸福のため、子爵のためというよりも、ただその知己であるというばかりに対しても、君の行はちと間違っているじゃあないか。」
梓は聞いて物をもいわず差俯向いたにも係らないで、竜田は凜として姿を調え、
「柳沢、そんなことをいって僕の居ない時に梓君を苛めるのか、止せ。可いよ、待て、まあ、僕のいうことを、今君のいうごとくんばだ。嚊々殿は仏文の手紙と、若干金の学資とをもって神月を買ったものだと言わなけりゃなりません、そいつあ御免を蒙りたいな、仕送をしたっていくらがもんです。金子なら千か二千じゃあないか。利をつけて返すくらいさほど困難なことでもなし、またそのくらいな価で婿に買占められるような、僕の梓君じゃあない。それをともかくも言に応じて玉司家を嗣いだのは、すなわち君のいう、その知遇に感じたからだ。
しかるに、のっけから人魂と流星の事で早くも神月の感情を害ねたのはどういう訳だい。
すべて女学校の教科書が貴婦人に化けたような訳で、まず情話を聞かされると頭痛がして来るといやあ、生理上そういうことのあろう筈はない、といった調子だから耐った訳のもんじゃあない。
鰹は中落が旨くッて、比良目は縁側に限るといやあ、何ですか、そこに一番滋養分がありますか、と仰有るだろう。衛生ずくめだから耐らない。やれ教育だ、それ睡眠時間だ、もう一分で午砲だ、お昼飯だ。お飯だ。亭主が流行感冒一つ引いても、まっさきに伝染性なりや否やを医師に質すような婦を、貴婦人だって、学者だって、美人だって、年増だって、女房にしていらるるもんか。」
「考えて見たまえな、名誉だの、品性だの、上流の婦人の亀鑑だのと、体の可い名は附けるものの、何がなし見得坊なんじゃあないか。
御覧なさい、だから神月と結婚をした当座に、はじめからの関係を知ってる新聞が報道をすると、その記事の中に、何か夫人がかねて神月に恋をしていたというような意味が書いてあったといって、嚊々め恐しく憤って、名誉を蹂躪された、世の中へ顔出しも出来ないてッたようなことを云って、あたかも神月君が社をして書かしめたように当り散らしたというんだ。夫に愛しとるということをもって、大なる恥辱と心得るような見得坊がまたあるかい、怪しからんじゃあないか。」と声を鋭くしていう、竜田はその白面に紅を漲らしたのである。
これを聞いて聞き惚れて、
「しっかりやれ〳〵。」と哲学者も嬉しそうに応援した。
「それのみならず、数寄屋町と神月君とは神の引合せだと云っても可いな。……
第一それからして夫人と衝突する基じゃあったろうけれども、神月は先天的、むしろ家庭的か、そうだ、家庭的信心者で、寄宿舎に居る時分から、湯島の天神へ参詣をするのが例で、子爵家に行ってからも毎月欠かさなかった。去年の夏だ、まだ朝早いのに湯島に参って、これから鰐口を鳴らそうと思うので、御手洗で清めようとすると、番の小児が水銭をくれろと云った。懐を探すと神月が懐中物を忘れたね、後に届けるといっても小児だから訳が分らぬ。内気な殿様だから顔を赧くしてまごまごしたッさ。そこへ来合せて水銭を達引いて、それが御縁となりましたのが、唯今の美人です。蝶さんなんだ。」
「解りましたよ。」といって柳沢は詮方なげに苦笑した。
神月は極悪げに、
「もう可いじゃないか、皆僕が悪いんだから、まあ、柳沢、竜田。」
「いいえ悪かないよ。僕は大賛成、一体婦人が男子に対して貢献するのに、自分の名誉だの、財産だの、芸術だのをもってして、それで、算盤玉に当って、差引こうというほど生意気なことは無い、いわんや、それに恩を被せるに到っては、不届といわざるを得ないな。
しかるに蝶さんに至っては、その今まで為し来ったすべての、可いかい。平ッたくこれをいえば苦労だ。その苦労はほとんど天下に大名をなしたものの、堅忍苦耐したくらいなもんだよ、その閲歴に対する報酬として、ただ、ひたすら、簡単に神月に見捨てられまいということを願ってまた他意なきを如何よ。その上に一意専念、神月のために形造るに到っては、男子すべからくこれがために名と体とを与うべしさ、下らない名誉だの、財産だの、徳義だのに、毛一筋も払うもんか。」
「しかし竜田、アダムとイヴあって以来、世界に男女ただ二人ばかりではない。譬えば、神月とその美人と、」
「勿論、僕も居る、」
「それから俺よ、」
「私も居るわい。」と哲学者は前に屈んで、顔を差向けていった。
「加うるに君が居ても差支えない。諸君のような人ばかりなら、幾人居たって私は心配も何もしないが。」と梓は愁然として差俯向く。
「だから神月、君自ら感情を制して、その美人と別れたら可かろう、」と柳沢は慎重に諭した。
「何、もう子爵家を去って、寺に下宿したら可いじゃあないか。僕はね、爵位と、君があの高慢な嚊々とを棄てたというので、すべての罪を償うて余あるもんだと思う。借金でも何でも遣ッつけッちまえ。癪に障ったら片端から弾飛せ。一般の風潮で、日本に容れられなかったら、二人で海外に旅行するさ。それでも可けなけりゃ、天に登るこッた。美しい星が二つ出来るんです。天文学者には分らなくッても、情を解するものには、紫か、緑か、燦然として衆星の中に異彩を放つのが明かに見出される。」といい放って、竜田はその若々しい、美しい顔を仰向けて、腕組をした、毛糸の茶色の襟巻は端がほろほろと解けた。
その背を叩いて、
「江戸ッ児! 相変らず暢気なものだな、本人の神月は、君よりよっぽど訳が分ってるよ。だから心配をするんじゃあないか。」と穏に云いながら柳沢は老実々々しく、卓子の上に両方からつないで下げた電燈の火屋の結目を解いたが、堆い書籍を片手で掻退けると、水指を取って、ひらりとその脊の高い体で、靴のまま卓子の上に上って銅像のごとく突立った。天井はそれよりも遥に高いが、室は狭く、五人を入れて、卓子を真中に、本箱を四壁に塞いだ上に、戸の入口には下駄箱が竝んで、これに、穿物が脱いであるなり、衣服は掛けてあり、外套は下ってる。避て通らなければ出られないので、学士はその卓子越の間道を選んだので、余り臨機な働であったから、その心を解せず、三人は驚いて四方を囲んで、斉しく高く仰ぎ見た。ために国史専修の学士も、しばらく岩見重太郎に別れなければならず余儀なくされた。
柳沢は突立ったまま、
「おい、ちょっと退かないか。」
「何をする、」と哲学者は呆れ顔をしてほとんど問題を研究する時のように難しく眉を顰めた。
事も無げに、
「紅茶を入替えよう、湯を取りに行くんだから、」
「こっちへ寄越せ、僕が行こう、」と哲学者も衝と立上る。
「そうか。」といいさま、柳沢はひらりと下りて、身軽に立直った、ぱたりと靴の音。
電燈の球は卓子の上を這ったまま、朱を灌いだように颯と赫くなって、ふッと消えたが、白く明くなったと思うと、蒼い光を放つ!
「星を仰ぐこと、正に、」と竜田若吉は腰を落して頭を卓子の下に入れ、顔を上げて、清しい目を睜って、
「こういう風。」
梓はその面羞気な顔を照らされるのを厭うがごとく、椅子を放れて疾く背後に退いた。柳沢は長い足を素直に伸ばして、膝を膝に乗せて組違えると同時に仰向けに寝て一杯に肱を張って、両手で項を抱きながら、じッと件の電燈を瞶めた。
その時、国史専修の学士は、静に糸を取って、無心に繋合せて、灯を宙に釣したと思うと、袴の下へ手を入れて、片手で赤本をおさえてみたが、そのまま腰を掛けて、また読みはじめる、岩見重太郎武勇伝。
「歇んだ、歇んだ、可い塩梅だ。」
空を仰いで立停ったのは、町屋風の壮佼で、雨の歇んだのを見ると、畳んで袂の下に抱え込んでいた羽織を一揺、はらりと襟を扱いて手を通した。この男が雨に当てまいと大切がるのは、単にこの羽織ばかりではなく、一品懐に入れているものがある。大きな紙入ではない。乳貰の嬰児でもない。すなわち一足表打の駒下駄であるが、尾上の使に駈出して来た訳ではない。これはさる筋の芸妓から年玉に買って頂いたので、すべて、お守扱いにしているから、途中で雨を啖ったために、汚すまいと懐中した。本人は生白い跣足である。
かかる人は、下町にまず松の鮓の忰源次郎を措いて外にはない。
それ世に、鳶の者の半纏は侠にして旦那の紋着は高等である。しかるに源ちゃんは両天秤、女を張る時は半纏で、顱巻。宗匠を張る時は紋着で巻莨、色と点取発句が一斉に出来るのであるから、ついこう下駄を懐に入れるような事にもなる。
かえって説く源ちゃんは町中の暗がりに羽織を着込んだが、足が汚れていたから下駄は穿かないで、そのまま懐を揺り固めた。
「可い塩梅だ、畜生。」と、これも何か両面に意味の通ずるような独言をして、また足早に歩き出した。
その面形のごとく凹んだ面の、眉毛の薄い、低い鼻に世の中を何と睨んだ、ちょっと度のかかった目金を懸けている名代の顔が、辻を曲って、三軒目の焼芋屋の灯に照された時、背後から、錆びたずんぐりした声で、
「源じゃあねえか、おい、源坊。」
「誰だい、」と思入のある身振で、源次郎は振返る。
「俺だ。」
「や、」
「待ちねえ。」
つかつかと近いた、三尺帯を尻下りに結んで、両提の莨入をぶらりと、坊主天窓の親仁が一名。
「頭。」
「おい、」と重く落着いて一ツ頷いた。これは下谷西黒門町に住んで、頭、頭と立てらるる、辰何とか言うのであろう。本名は誰も知らない、何をして暮すのか、ただ遊んで、どことも謂わず一群一群入り込む侠な壮佼に、時々木遣を教えている。
頭は膨らんだ源のその懐をじろりと見て、
「何だ、それは、」
「ええ、」
「下駄じゃあねえか、下駄じゃあねえか、串戯じゃあねえ、何を面啖ったか知らねえが、そいつを懐に入れるだけの隙が有りゃ、敵の向脛をかッぱらって遁げるゆとりはありそうなもんだぜ。何だい、出会したなあ、犬か、人間か。」
「喧嘩じゃあないんです。」
「辻斬か。」
「冗談をいっちゃあ可けません。」
頭はわざとらしく呵々と笑って、
「じゃあ、どうしたんだ。」といったが、思う処あるらしく、房りしたその眉を顰めた。
源次は何の気も付かない様子で、
「仔細はないんです、喧嘩なんて何も決してそんな訳じゃあないんだけれどね、」
「ふむ、」と心ある頭は返事まで物々しい。ちと応答を仰山にされたので、源次は急に極が悪そう。
「降って来たもんですから、その何なんですよ、泥でも刎上げちゃあ、そのね、」と今更のように懐を眗して、
「へへへへ、なに詰んねえ事なんで、」
「それが、」とその時、頭はずッと合点んだ顔をして、
「あれだな、評判の。ついまだ掛違いまして手前お目通は仕らねえが、源坊が下駄と来ちゃあ当時名高えもんだ。むむ、名高えもんだよ。」
「なに詰らない。」
「馬鹿あ言え。畳算より目の子算用を先に覚えようという今時の芸妓に、若干か自腹を切らせたなあ、大したもんだ、どれちょっと見せねえ、よ、ちょっと拝ませねえかよ。」
思わず上から手で押えて、
「頭、これですか。」
「その芸妓の達引いたやつよ。」
「へ、何、下らないことを、」と内々恐悦で、少し含羞む。
「可いやな、見せねえ、見せねえ、一番御灯明を奉ることにしようぜ、待ちねえよ。」
と言い懸けて向直り、左側の焼芋屋の店へ、正面を切って揺いで入る。この店は古いもので、取つきの行燈に、──おいしくば買いに来て見よ川越の、と仮名書して、本場○焼俵藤助──となん。
「父爺さんや、」で頭は無造作に言を懸ける。
ぶつぶつ、……ものを読んでいた声がはたと止んで、破行燈の灯の射す土間の上の一枚の古障子を明けて、
「誰だい。」といった藤兵衛は、匍匐になって、胸の下に京伝の読本が一冊、悠々と真鍮環の目金を取って、読み懸けた本の上に置きながら、頬杖を突いたままで、皺面をぬっ!
「俺だよ、へんちっとも珍しくねえ。」
「おお、頭。」
「用じゃあねえんだ。とっさん少しばかり店を貸してくんねえ、灯が欲しいでの。」
「何か、灯ッて、その燻ぶり返った釣洋燈のことかい。」
「そうよ。まあ、」
「御念にゃあ及ばねえこッた、内証の文でも読むか、」
「いんや、質札だ、構わっしゃるな。寒いから閉めてくんな。」
戸外に向って、
「源坊、こっちへ入らっし。おい、何を茫然石地蔵を抱いた風で突立ってるんだ、いじけるない。」
「頭、煖んなさい、」と竈の後から皺嗄れた声を懸ける。
「おお、入れ黒子のしなびたの、この節あどんな寸法、いや、寸伯か寸伯か、ははは。」
「串戯じゃあない、ちょうど一くべ燻べた処だ、暖けえよ。」
「豪儀だな、そいつあ、」とくるりと廻った、頭の法然天窓は竈の陰に赫々して、
「よ、まあこっちへ来ねえ、松の鮨の兄哥、入れッてことよ。」
強いられて、源さん止むことを得ず。
「御免なさい。」
「さあさあ、」と婆さんも七十ばかりだが如才ない。
「聞きねえ、婆さん、御前なんざあ上草履で廊下をばたばたの方だったから、情人を達引くのに、どうだ、こういうものは気が付くめえ。豪儀なもんだぜ、こら、どうだ素晴しいもんじゃあねえか。」
頭は籐表を打った、繻珍の鼻緒で、桐の柾という、源次が私生児を引放して、片足打返して差出した。
「ねえ、こら。」と引くり返して鼻緒を掴んでちょっと捻る。
「どうしたんだね、」と婆さんは膝に手を乗せて蹲まったまま呆れて見ている。
頭は大袈裟に、
「どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を踏鳴すんだぜ、お前も知ってるだろう、一昨年の仁和加に狒々退治の武者修行をした大坂家の抱妓な。」
「蝶吉さんかね。」
「うむ、この節あ数寄屋町に居らあ、あの跳ッ返りめ、お先走りで、何でも来いだから、仁和加の時も、一本引ッこ抜いて使うんだからッて、それ痛い目に逢わないだけにして、本式に習いたいというので、お前ンとこの藤さんに仕込んでもらったな。
面小手で竹刀を引担いでお前、稽古着に、小倉の襠高か何かで、朴の木歯を引摺って、ここの内へ通っちゃ、引けると仲之町を縦横十文字に鳴して歩いた。ここにおわします色男も鳴すことその通り。
それがだな。あのお茶ぴいめ、ついこないだまで竹馬に乗ったり、学校の生徒に引張り出されちゃあ田圃でぶらんこをしていたっけが、どうだい、一番この男とおっこちゃあがって、それ、お歳玉に内証だよ、と遣りゃあがったんだとよ。驚くじゃあねえか、この下駄だ。」といって、また引くり返した。頭は竈の前に両足を拡げながら、片手で抜取って銀煙管を銜え、腰なる両提ふらふらと莨を捻る。
「おや、」といったきり、婆さんはかねてその蝶吉というのを知ってるほど、おっこちたと謂わるる男、すなわちこれなる源次郎のせめてそれだけでも止して頂きたい、目金を乗せた鼻の形と、件の下駄と交る交る見競べて解せない顔附。
頭は悠然と煙を吹して、
「何しろ素晴しいもんじゃあねえか、可恐しい。幾らだとか言ったっけな、んんどうだろう、うむ、豪儀な。」
言いようが余り業々しいので、取合う気もなかった婆さんも近々と目を寄せて、
「頭、こりゃ今の流行かい。」と老いたる事をまじまじと言う。
これを聞くと叱るがごとく、
「これ庫の七戸前も嘗めた口で、何だい、その言い種は、こう源坊、若い中だぜ、年紀は取るもんじゃあねえの。ここに居る婆さんは、これでも仲じゃあ葛の葉といってその昔は売ったもんだ、ずうっとそれ、」
「止しねえな、見っともない、」と穏に微笑んで目を外した、もう仏に近いのである。
「旧の直で二朱ぐらいか、源坊、幾らだとかいったっけな、二両二分。」
「頭、三円、」といって件の鼻を仰向にして澄す。
「ああ、三両二分か、何でも二分という端だけは付いてると聞いたよ。そうか、三両二分か。ふ、豪儀なもんだ、ちょっとした碁盤より直が張ってら。格子戸で、二間なら一月分の店賃だ、可恐しい、豪傑な。」と熟々見ながら、うっかりしたか、下駄の肚で吸殻をとん。
源次慌しく、
「頭、」
「ほい、これは。」
「しかしどうも可恐しい気前だぜ。もっともあの蝶吉といやあ、いつかも客に連れられて中の植半へ行った時、お前、旦那がずッしり重量のある紙入をこれ見よがしに預けるとな、肯かない気だから、こんな面倒臭いものは打棄っちまうよ。まさかと思うから、うむ、可いとも大川へ流しッちまえ、といったが災難、仲店で買物をして、お前紙入は、というと、橋の上から打棄ったと言わあ。本当か、とばかりで真蒼になったとよ。そうだろう、二百円足らず入ッてたんだそうだ。
それだものこのくらいな達引はしかねめえ。」という、高がこんな下駄を(しかねめえ。)というほどの事はあるまいと思うほど、頭が為振を見て、婆さんはこの年紀になってもその瞼の黒い目に、逸疾く仔細があろうと見て取った。
源次も何となく気がさして、少し不安心になった、引構で、
「頭、もう沢山だ。」
気可愧しそうに装って、もじつきながら、出して取ろうとした手を、外して持更え、
「遠慮をするなッて事よ、何もはにかもうッて年紀じゃあねえ。落語家の言種じゃあねえが、なぜ帰宅が遅いんだッて言われりゃあ、奴が留めますもんですから、なんてッたような度胸があるんじゃあねえか。」
「なにまた詰らないことを、」
「それでなくッて、どうしてお前、これが長火鉢の上へ持出されるもんか、この間もお前、脱いだやつを持って上って、伝が家の帳場格子の中へ突込んで見せたというぜ。」と風見の鴉がくるりと廻って、少し北風が吹いて来る。
「え。」
「その時ぶん撲られなかったのが目っけもんだ。」とずッきり言って、したたかに気を替える。
ひやりと応えて、
「何だってね、」
「婆さん、もう一燻𤏋とやりゃどうだ。」
といいながら突込むように煙管を納れた、仕事に懸る身構で、頭は素知らぬ顔をして嘯きながら、揃えて下駄を掻掴めり。
形勢穏ならず、源次は遁足を踏み、這身になって、掻裂くような手つきで、ちょいと出し、ちょいと引き、取戻そうとしては遣損い、目色を変えて、
「頭、何ですから、急ぎますから、」
「跣足で駈出しねえ、跣足で。それが可いや、可恐しく路が悪いぜ。」
また一当当てられて揉手をして、
「穿いて行きますよ、よ、穿くんだから、頭失礼ですが、その。」
「穿かねえでさ、下駄は穿くに極ったもんだ。誰がまあ頂く奴があるもんか。だが、それ懐へ入れる奴は無えとも限らねえ、なあ、源坊。」
「私ゃちっと何だから、これから少し急ぐんですから、」
「どこへ急ぐんだ。どこへ、」
「ええ、ちっとその、何で。これから発句の会があるんです。」と捨鞭で歌を読むような見得をいった。
「発句の会、ああ、そうか。源、何、何とか云ったな、その戒名、いや俳名よ。待ちねえ、お前なんざあ俳名よりその戒名の方をつけるが可いぜ、おいらが一番下駄の火葬というのを遣って、先きへ引導を渡してやろう。」
「ひゃあ、」
「馬鹿め、跣足で失せやあがれ。」
「おやおや、酷く曇ってるなあ、何だかこれじゃあ君を送って来たようだが、神月君。」
竜田は校内の園を抜けて、弥生町の門を出ようとして空を見たのである。
「一所に散歩をしようと思ったけれど、降りそうだから僕はもう失敬するよ、それじゃあ君、議論は議論だが実際は実際だ、よく考えて軽忽なことをしたもうな。」と年下の友に熟々言われて、ただ打頷くのは神月であった。
「それでは。」
「失敬。」と言い棄てて、竜田は門から引返した。暗がりの中を詩を唱ったが、低唱してやがて聞えなくなった。
梓は彽徊して歩を転ずる、向から来て、ぱッたり。
「えッ。」といって何物か身を開いて退って神月の姿を透し、
「よ、先生か。」と冷評すような調子で言った。
これは松の鮨の源次郎で、蝶吉から頂いた、土付かずといって可い大事の駒下駄を、芋を焼く竈に焚られた上に、けんつくを啖って面目を失ったが、本人に聞くより一段情無い愛想尽しを、頭の口から、しかも意見するごとく言い聞かされ、お穿物という謎まで聞いて、色男堪忍ならず。胸はひッくり返るようだが、むずと胸倉を取られると、目の玉が出そうな豪傑の頭を対手には文句も言われず、居耐らなくなった処を、煙に燻されて泥に酔ったように駈出して来たのである、が、自分から顛倒していて突当った人を見ると、蛇の道は蛇で、追廻す蝶吉がまた追廻す探索は届いて、顔まで見知越の恋の仇。恋に上下の差別がないから仇に上下の差別はない、学士神月梓である。むかッ腹立の八ツ当りで、
「ふん、色男も凄じいや、汝が孕ませた児を堕されりゃ沢山じゃあないか、お政府へ知れて見ろ、二人とも、泥を噛るんだい。知ってていわないのはお慈悲だと思うが可い。こっちから突当ったらな、そっちからあやまって、通るこッた。人をつけ、学者もそれで沢山だい、色男万歳だな。」
と影の添うがごとく七八歩、学士に添って逆戻をして歩いたが、
「ざまあ見ろ色男、面が見てえや、青いのか、赤いのか、やい、七面鳥の文学士。」と悪たれ口を吐き棄てて擦違って駈出した。学士は歩み悩んだ様子で、ふと足を留めたがさすがに後を見も返らず、取るにも足りない下司の雑言と思ったから。
「雨か。」
空を見ると雲低く、ひやりとして頬に雫、またばらばらと二ツ三ツ。
「ああ、」と呟いて、あたかもこの雫に懸るまいとするごとく、かなたこなた身を交して歩いた。
最初はただ、廂溝などを幽に打つ音のみであったが、やがて、瓦屋根に当ってまたばらばら。
「厭だな。」
見る見る繁しくなって、颯と鳴り、また途絶え、颯と鳴り、また途絶え途絶えしている内に、一斉に木の葉に灌ぐと見えて静な空は一面に雨の音。
神月は見えなくなった。
御待合歌枕。磨硝子の瓦斯燈で朧の半身、背に御神燈の明を受けて、道行合羽の色くッきりと鮮明に、格子戸の外へずッと出ると突然柳の樹の下で、新しい紺蛇の目の傘を、肩を窄めて両手で開く。顔はその中に隠れて見えず、丈の好いすらりとした痩ぎすな立姿。桃色縮緬の扱帯で、弱腰を固くしめている。白足袋で、黒の爪皮を深く掛けた小さく高い足駄穿で、花崗石の上を小刻の音、からからと二足三足。頭が軒の下を放れたと思うと、腰を伸して、打仰いで空を見た。
ここに引着けた腕車が一台。蹴込に腰を掛けて待っていた車夫、我が主来れりと見て、立直り、急いで美しい母衣を刎ねる。楫棒に掛けて地に置いた巳之屋と書いた看板は、新しい光を立てて、蝋紙を透す骨も一ツ一ツ綺麗である。
「おや、降っちゃあいないんだね。」静に蛇の目を窄めて片手に提げた。鼻筋の通った細面の凜とした、品の良い横顔がちらりと見えたが、浮上るように身も軽く、引緊った裙捌で楫棒を越そうとする。
「こちらへ、」といった車夫は小腰を屈めて、紺蛇の目を手早く受取る。その腕車に乗ろうとする時、かちかちかちと木を拍って、柳の彼方の黒塀の前に、頬冠をした二人が在った。
「へい、御贔屓を一両名、尾上菊五郎、沢村源之助。」ト声を懸けたので、腕車の蔭に立停る。
その時、板塀の上なる二階の障子へ、明るく影が映ったが、端を開けて、廊下へ出た。植込の梢がくれに、
「あいよ、」という声、捻った紙包が宙を切って、忍返の釘を掠めてはたと二人の前に落ちる。
「ええ、鼠小紋春着新形。神田の与吉実は鼠小僧次郎吉、傾城松山、」ちょっと句切って、
「鎌倉山の大小名、和田北条をはじめとして、佐々木、梶原、千葉、三浦、当時一﨟別当の工藤などへは二三度入り、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。その替りにゃあ貧乏と、その名の高え曾我などじゃあ、盗んだ金を置いて来た、悪事はするが義理堅え、いわば野暮な盗人だが、知らねえ先あともかくも、こういう身性と聞いたらば、お主ゃあ厭になりやしねえか。」
「何で厭になるものかね、これもみんなその身の好々、お嬢さんといわれるのが、ちいさい時から私ゃ嫌い、油で固めた高髷より、つぶし島田に結いたい願い、御殿模様の文字入より、二の字繋ぎのどてらが着たく、御新造さんや奥さんと、いわれるよりも内の奴、内の人かといいたさに、親をば捨てて勘当うけ、お前の女房になった私、どんな事があろうとも、何で愛想が尽きようぞいな。」
菊「そんならおぬしゃあ盗人と、知ってもやっぱり愛想も尽さず、」源「お前と一所に居たいのは、譬にもいう似た者夫婦、」菊「夜盗を働く鬼の女房に、」源「枕探しの鬼神とやら、」菊「そういうお主が度胸なら、明日が日ばれて縄目にあい、」源「お上のお仕置受ければとて、」菊「隙行駒の二人連、」源「二本の槍の二世かけて、」菊「離れぬ中の紙幟、」源「果は野末に、」菊「身は捨札、」源「思えば果敢ない、」
「紀之国屋引」と思いがけず、暗がりの露地の後の方で、うら若い清しい声。
「ほほほほほほ、」と蓮葉に仇気なく笑ったが、再び、
「紀之国屋!」とあてもなく漫ろに気の冴えた高調子。酔ったと見えて、ふらふらして仮色使の背後に立って、
「嬉しいねえ、」
といいながら、無遠慮に一ツその一人の肩を叩く。吃驚して黙って呆れる、女は罪もなくまた笑った。
「ほほほほほ。」
「おや! お蝶さんだ。」と二階の欄干に凭懸ったのが、思わず威勢よく声を立てた。
振仰いで、
「今晩は。」
「神月さん参りました、来たんですよ。」と言ったが障子の中に姿が消えた。
「へい難有う様でございます。」
度胆を抜かれて、茫然した仮色使は、慌てて見当を失ったか、かえって背後に立ったのに礼をいって、
「さあ、」
「おい。」
踵を廻らすのを見も返らず、女は身を斜にまた蹌踉けて、柳の下を抜けようとした。
門口で、
「蝶ちゃん、」
「はい、」
「お気を付けなさいよ。」
「才ちゃんかい。」
「お楽みだね。」
とひらりと乗る途端に楫棒を取った、腕車の上から、
「さようなら。」
「チャチャチャッチキチッチドンドン。」軽く柳の枝の垂れた尖を細く指で叩いて見せる。
「ふん、」とばかり腕車の上で。見ぬようにしてちょっと見ながら面を背ける、途端に車夫は曳き廻らした。暗夜の小路を看板は、これ流星のごとくに去んぬ。
「チャチャチャッチキチッチ、」と低く口吟みながら、格子戸をがらりと開けると、同時に框の障子を開いて、
「よくねえ、」と声を懸けて、逸早く今欄干に立顕れたその女中が出迎えた。帳場の灯と御神燈の影で、ここに美しく照らし出されたのは、下谷数寄屋町大和屋が分の蝶吉である。
着つけは濃いお納戸地に、金で乱菊を織出した繻珍と黒繻子の打合せの帯、滝縞のお召縮緬に勝色のかわり裏、同じ裾を二枚襲ねて、もみじに御所車の模様ある友染に、緋裏を取った対丈襦袢、これに、黒地に桔梗の花を、白で抜いた半襟なり。
洗髪の潰島田、ばっさりしてややほつれたのに横櫛で、金脚五分珠の簪をわずかに見ゆるまで挿込んだ、目の涼しい、眉の間に雲のない、年紀はまだ若いのに、白粉気なしの口紅ばかり、小肥して痩せてはおらぬが、幼い時から、踊が自慢の姿である。
出迎えた女中は前へ転ったと思って慌しく身を開いて、
「あれ危いじゃありませんか、」
蝶吉は躓くように駒下駄を脱いで、俯向けに蹌踉け込んで、障子に打撞かろうとして、肩を交し、退って、電燈を仰いで、踏しめて立った。ほッという酒の息、威勢よく笑って、
「今晩は。」
「蝶さん、奢らせますよ。」と帳場から呼んだのは女房である。この待合はその座敷、その器物、その取扱、何につけても結構なものではない。五人一座の二人までは敷かせる座蒲団の模様が違って、違った小紋も、唐草も、いずれ勧工場ものにあらざるなく、杯洗と海苔とお銚子が乗って出るのも、牛屋のちゃぶ台の真中へ丸く木を填めてあろうという組織であるのに、お座料がまた必ずしもお安くない。これでは何の取得もないが、ここに注意すべきは女房たるもの、兄とその情人のごときもの、且つ女中に至るまで、よく注意して秘密を守り遂げる信用があるので、知れては身分に係わるといった側が、ちょいちょい懐手で出入する。
あえてものの三角形が秘密を守るものだという数学の原理はないけれども、歌枕の女房は目の形が三角である。鼻が三角で、口が三角、眉を払った痕がまた三角なりで、頤の細った頬骨の出た三角を逆にして顔の輪廓の中に度を揃えて竝んでいる。白ッぽい糸織の羽織の裙を払って、金の平打の指環を嵌めた手を長火鉢の縁から放し、座蒲団を外してふわりと立つと、むッくりと起きた飼犬が一頭。
真鍮の首環をがちゃがちゃと鳴らして、さらさらと畳を渡り、蝶吉の裾を掠めて、取着の階子段へ、矢のごとく駈け上った。
この犬、一挙一動よく主婦の意を知る、今その座を立ったのを見ててっきり二階へ上るのだと目敏く先へ立って飛出したのであるが、段を六ツばかり駈上ると、振返って猶予って待っている風情。
三角の主婦は悠々として、
「さあ、お二階へ。」
「お早くいらっしゃいな、」と傍からまた女中が促した。
蝶吉は雨の朝桜の色しっとりとして、瞼に色を染めながら、
「厭ですよ、」とすねるように言って肩を振った。
「可いのかい、ちょいとそんなことを言って、」
「どうせね、」と主従が澄して莞爾して左右から顔を覗くと、
「犬が恐いのよ。」と段階子を見込んで笑う。
主婦はつかつかと前に出て、目をきょろつかして伺ってる飼犬を見上げながら、左の手を袖の中へ引込ませて、ちょいと出して、指をさすと電気を感じたようにくるりと廻って、小犬はちょろちょろと駈け上る。
「可けない!」
というが疾いか、段に片足を上げて両手を支く、裾を引いて、ばったり俯向に転った綺麗な体は、結えつけられたように階子に寝た。
「危い。」
「あれ、」とけたたましく諸声に叫ぶのを耳にも入れず、蝶吉はそのまま腕を伸して、
「不可ません、不可い、不可いよ、」と蹌踉ける足を引摺って、
「畜生、私より先へ行くッて法があるかい。」
「おいで。」
と膝を軽く拍って、振返ったのは梓である。
上口の処で、くるくる廻っていた飼犬は、呼ばれて猶予わず衝と飛込み、いきなり梓の袂に前足を掛けて、ひょいとその膝に乗って畏った。
「不可いッたら! あれ。」
「失敬な奴ぢゃ、てッたような訳だわね、不都合だよ、いけすかない、何だ手前は、」ふらふらするのを踏こたえて、
「誰に断ったの、畜生、こっちへ来ないかい、打ってやるから、」と袖を飜して、手を挙げたが、そのまま立ってるさえ物憂げであった。
「誰が打たれに、……」
梓は俯向いて、犬の天窓をこれ見よがし。
「厭よ、厭よ、私は厭ですよ。そんなもの、打っちゃらかしておしまいなさいなねえ。」
「恐いな、どこかの姐さんが、打っちゃらかしておしまいなさいなねえッて言ってるよ。」
「焦れッたいねえ。」
梓は笑いながら犬の前足を取って伸すと、飼犬は口を開けて、目を光らして、わッ!
「悔しがってるじゃあないか、」と横顔を見せて振向いた。
「なぜそうですよ、言うことをお聞きなさいなね、ええ焦れったい、」
地蹈韛を踏んでも澄して取合ないので、
「悔しい。」
と横を向いて上口の壁を、構いつけず平手でどんどんどんと撲り付けて体を揉む。酔ってる処へ激しく動いたので、がっくり膝が抜けて崩折れようとして、わずかにこらへ、掻挘るように壁に手を縋って、顔を隠して吻という息を吐いた。
「どうしたんですよ、」
階子段を上り上り、主婦は物音を怪んで来たのである。
「おや、おや、」
「言句ばかり言ってるさ、構わないでおくが可い。なあに汝が先へ来たって何も仔細はなかろうじゃないか。」
「そのことなんですか、まあ、飛んだ難かしいこと、トン!」
わッと吠えて前足を立てた、トンは飼犬の名であろう。
「おいで、おいで。さあ、」
「可いよ、おかみさんこっちへ。」
「でもまた奥様がその何ですから、おほほほほ、」と主婦は三角の口を丸うして笑って控える。
「何を、詰らない。」
「はい、はい。」
膝に手を垂れ、腰を屈めて、戯に会釈すると、トンはよくその心を得て、前足を下して尻尾を落した。扁い犬の鼻と、主婦の低い鼻は、畳を隔てて真直に向い合った。
「おお、可し、可し。」二ツばかり頷いて、「それではお邪魔を致しましょうか。」
同時に、ど、ど、ど、ど、どんと床板を踏鳴して、
「厭! 厭よ、」と壁の中から唐突に声を出した。
主婦は驚いて退って、
「まあ、済みません、どうも。」
蝶吉は振乱すように壁に押着けた島田髷を揺ぶって、
「私、厭、厭よ。」
「泣いてるんだよ、おや、ま、どうしたッてこッたろう。驚きますねえ、」
と平手を二ツ乳の上へあて、目を睜って、
「しようのない嬰児ちゃんだよ。」
「どうにかしてやっておくれ、面倒だから。」
梓は膝からトンを掻退けて、座も言葉も更めて言った。
「さあ、あなた、」とこれもちゃんと極って背に手を掛けると、訳もなく振払って、
「厭です。」
「拗るもんじゃあありません、あの方が来ていらっしゃるのに、何が気に入らないで、じれてるんですよ、母様は知らないよ。」
といって一つ打つ。
「痛いよ、」
「嘘ばッかり、」
「厭よ。」
「何が厭なんですッてば、よ、焦れッたい人だ。ええ、」
蝶吉は身顫して、
「姐さん、」
「才ちゃんは疾に帰りました、居やあしませんよ。さあ、さあ、もう聞かなきゃこうして、」
「あれ。」
蝶吉が身悶するのを、主婦は構わず擽ったが、吃驚して肩を抱いた。
「おや、本当に旦那、本当に泣いてるんでございますよ。堪忍して下さい、堪忍して下さい、悪かったよ、どうもお前さんただもう嬉しがってるんだろうと思うもんだから、つい知らないで、飛んだことをしたよ。済まなかった、」
極めて後悔し、そのまま首を伸して、肩に搦んで顔を覗くと、真赤になり、可愛い目を細くして、およそ耐らないといった様子で、麗艶に微笑んで、
「嬉しい!」とばかりで斜に顔を向けて、主婦の面と、神月の横顔を流眄に見ながら蝶吉は莞爾する。
「畜生。」
小さくなって、
「擽りッこなしよ、私はもう擽られると死ぬんですから、酷いわ、一番恐いことよ。」といいながら澄して壁を離れ、裾を払って立直る処を、両手で背後から突飛ばした。
「可憎しいッたらないんだもの。」
壁には薄り、呼吸の痕と、濡れた唇が幻にそのまま残って、蝶吉の体は源之助の肖顔画が抜出したようになって、主婦の手で座敷の真中へ突入れられて、足も溜らず、横僵れになったが、男の傍。
あたかも好し、梓の膝を枕にして、片手を逆に支いて起上ろうとしたが、支えかねて半面を隠して倒れた。件の御所車を染めた友染の長襦袢は、かわり裏のしどけない、裳をこぼれて媚めかしい。
男は懐にした手を出しもやらず、眉を顰めて、
「何だね、その形は。」
「可くッてよ。」
「可かあない、かみさんが見ているよ。」
「可いのよ、ねえ、おかみさん、」
「どうですか。」と極めて慎重に答えた。主婦は心なく飛込むも異なものなり、そのまま階子段へ引退るも業腹なりで、おめおめと見せられる。
「不可いッたッてしかたがない。」
とその玉のごとき手を畳に、はったり。
「私はもう草臥れたんです。」
「重い、しようがないな、おい、ちゃんとおしよ、」と揺り落す勢で、梓は邪険に肩を振った。
「あら、髪がこわれてよ、」と少し横になって、蝶吉は片手を上げて仰向けに梓の胸を押えて、恍惚して嬉しそうに、
「鬢のほつれは枕の咎よ──あれさ、じっとしていらっしゃい。後生だから、」
「構うもんか、怪しからん。」と男はわざと叱るように言って、振落そうとする。
蝶吉は目を瞑って、口をしめ、眉を顰めて、さも切なげに装った、
「頭痛がしてよ、頭痛が、天窓が痛いのに、酷いことねえ。」
「嘘を吐け、」
「あなた擽っておやんなさいまし、」と主婦は焦れったそうに足踏をした。
黙って主婦を見たが、神月は下を向いて、
「止そう、見ッともないから、擽ると最後、きゃっきゃっいってその騒々しいといったらないもの。」
「おや、いつも擽るんだと見えますね、あなたは。」
「え、何、下らない、何を言ってるんだ。まあ、おかみさん、飲むさ、こっちへ来て。」神月はこれをキッカケに片肱をちゃぶ台に支いて、やや所在を得たのである、しかたのなかった懐中の手は、猪口を取って、ちょっと上げて、
「飲むさ。」
「いえ、頂きますまい、そんなことでごまかそうたって駄目ですよ。まあ、串戯は止して早く拵えさせますから、寝かしてお上げなさい、本当に酔ってるんですよ、全く苦しそうだわ。」
主婦は一切呑み込んだ顔附であった。神月はそれとはなげに、
「直ぐ帰るんだから、何だよ。」
「ですから誰もあなたにお休みなさいとは申しません。」
と悪く切口上で、別にお燗を見ようともせず、上口に先刻から立っていたままで、二階を下りようとする、途端にちゃぶ台の片隅に蹲って、洋燈の影で見えなかったトンは、むッくりと跳起きて首輪の音をさして座敷からつッと出た。
「どこでそんなに酔わされたんだ、よ。」
神月は期せずして主婦を下に去らしめた件の猪口を棄てて、手をその小さな女の胸に置いたのである。
熟として、
「存じません。」
「存じないことがあるものか。」
「解らなくッてよ。」
といって清しい目をぱっちりと開いた。蝶吉は、男の、凜とした品の可い、取って二十五の少い顔を、しげしげと嬉しそうに瞶めている。
「それじゃあ、酔わされたんだとはいうまいから、どこで飲んで来た、それなら知ってるだろう。」
「あなた、また叱ろうと思って、厭よ。そんな真面目な顔をしていらしちゃあ……。だって少しばかりなんですもの、」といい懸けて目を外し、枕にしている神月の膝を着物の上から撮んだが、固くちゃんとしているので、指尖にかからない、絹布に皺を拵えようと、抓るでもなく、撫でるでもなく、爪さぐって莞爾して、
「可いじゃあありませんかねえ、少しばかり、偶なんですもの、大丈夫さ。」
「大丈夫? そうさ、また大丈夫でなくったって誰が何というものか、酒はお前さんが飲むんじゃあないか、そしてお前さんが酔ったんだろう、芸者の蝶吉が酒に酔ったって、私にゃあ甘くも辛くもない、何も難しいことはありません。」と向へ押遣ると、銚子が袴を着けたままで、盤の上をするすると歩いた。杯は一個横になって、飲みさしが流れていた。あえてこれを細く断る必要はないけれども、ちょうどその銚子が歩いた時、蝶吉が起きたからのことである。
梓の羽織の袖に、髷の摺合うばかり附着いて横坐になったが、鹿爪らしく膝に手を置き、近々と顔を差寄せて、
「おや、異う仰有いますね、異なことを。何ですッて、」
蝶吉は詰め寄りそうにしていった、梓は今辷らした銚子を更に手許へ引いて、
「まずお酌でもして頂こうかね、お燗ざましじゃあありますけれども、」
「ふん、」と言ったばかりで澄して見ている。
「いかがでございましょう、頂く訳には参りませんか、どうです、蝶さん、ここに是非一番君のお酌をという、厄介な、心懸の悪いのが出来上ったんですが、悪うございますか。」
「はあ、随分宜しゅうございましょう。」
梓は猪口を拾って、杯洗の水を切り、
「結構な訳ね、宜しければ、どうぞこれへ、」
「おやおや唯今内の人におことづけをなさいました、蝶吉姐さんに酌をして欲しいと仰有いますのは、ちょいとお前さんかい。」
「私でございます。」
「おお、心懸の可い奴じゃ、宜しい。さあぐッとお飲み。余り酔わないように致せ、これ、女房がまた心配をするそうじゃからな。」
「畏りましたが、一向さようなものはございませぬ。」
「なくても今に出来ます。その心懸なればきっと出来るから、さよう心得るじゃぞ。」
「はい。」
「一体、容子が可くッて、優しくッて、それで悪くまた学問とかがお出来遊ばしゃあがって、知った顔をしないでな、若殿様のようで、世話に砕けていて、仇気なくって可愛らしくッて、気が置けなくッて、その癖頼母しい、き様は女殺じゃ。よくない奴じゃぞ。方々の女の子が皆で騒ぎゃあがるで、可哀そうに蝶吉が気ばかり揉んでいるわえ、なぜそうじゃろかな。不心得な奴じゃ、その分には差置かれぬぞ。」と覚束なげに巡査の声色を佳い声で使いながら、打合せの帯の乳の下の膨らんだ中から、一面の懐中鏡を取出して、顔を見て、ほつれ毛を掻上げた。その櫛を取直して、鉛筆に擬えて、
「コヤコヤ、いつかも蝶吉がお花札を引いた時のように警察の帳面につけておく。住所、姓名をちゃんと申せ、偽るとためにならぬぞ。コヤ、」と一生懸命に笑を忍んで、細りした頬を膨らしながら、唇を結んで真面目である。最初は何か取合って遊ぶ意だった梓もあんまりだから、
「何だ、馬鹿々々しい。」
「コヤ、巡査に向って何だ、馬鹿々々しい、き様は失敬な奴じゃな。」
「可加減にしておけよ、面倒臭い。」
蝶吉はちょっと膝を突ついて、
「よう、巡査ごとをしようよ、よう、可笑くッてよ。」
梓は叱る訳にもゆかず、苦笑一番して、
「暢気なもんです。」
神月梓は学士である。同窓の朋友の間にも、その温雅なる風采と、秀麗なる容貌と、学識の豊富なるをもって聞えた、俊才で、且つ人魂と、流星と、意見の衝突以来、不快の念を抱いて、頃日夫人の許を辞して、谷中の寺に隠れたけれども、梓は子爵家の婿君である。すなわち華族の殿様であって見れば、世に処してかかる待合などには出入すべき身分ではない。
もっとも地位あり、名声ある人の芸妓遊をせぬという限はない、立派に客たる品位を保って、内に疾ましい処がなければ、まだしも世間は大目に見ようが、梓はさる身分でありながら、一待合の女房を見て、これを(おかみさん)といって自ら謙り、相手の芸妓を捕えて、おいとも、こらともいうのではない、お蝶さん、おまえさんは、という調子たるや、蓋し自ら卑うしたるものだと謂わざるを得ぬ。
少くとも青年の佳士、衣冠正しい文学士が、譬えば二人対向いの時、人知れずであろうとも独省みて恥辱でないことはない。
しかるに、梓は旧仙台の生で、土地の塗物師の子であったが、豊なる家計の下に育ったものではなかった。使に行く問屋の旦那にも、内へ注文に来る余所の小父さんにも、隣家の士官の奥方にも、向の質屋の番頭にも、いつも、可愛がられてはいたけれども、未だ敬礼された覚がないので、人に逢えばまず此方から挨拶をするもののように、余儀なくされて育ったのである。
加うるに、その母親というのは、その始江戸から住替えて来た有名な芸妓だった、のみならず、これを便って同じ仙台の土地へ後から出て来た母の妹夫婦も、また甚だ不遇で、年も措かず夫が亡なったので活計を失うと、女の子が二人あったのが、姉妹揃って苦界に身を沈た。前世の因縁とでもいうのか、父の姉の子が一人、梓より年上であったのが、それもまた同じ勤の止むを得ぬ境遇であったから、中の好い従姉妹が三人、年紀の姉なると、妹なると、皆お嬢様ではおらず、女房にもならず、奥様にはもとよりなり、揃って世の中から畜生呼わりをされる身で。
母親は若死した、やがて父親も亡った。その遺言に因れば、梓の実の姉が一人ある。内の都合で、生れると直ぐ音信不通の約束で他へ養女に遣わしたのが、年を経て風の便に聞くと、それも一家流転して、同じく、左褄を取る身になったという。野辺の送が済んで、七々四十九日というのに、自ら恥じて、それと知りつつ今まで遂に音信なかった姉者人、その頃一豪商の愛妾になっていたのが尋ねて来て、その小使と、従姉妹三人が竜の腮を探るような思をして工面をしてくれた若干金とで、ようよう後弔も出来たくらい、梓の家は窮していた。
もっとも小学を卒え、中学に入って、ちょうど高等学校に入っていたその学資は、父が膏血を絞ったものであることはいうまでもないが、従姉妹達が銘々、自分の境遇を悲しむ余りに、一門の中からせめて一人、梓さんが男だからと、石筆を持って来る、算盤を買って来る。本の栞に美しいといって、花簪の房を仕送れば、小な洋服が似合うから一所に写真を取ろうといって、姉に叱られる可愛いのがあり。
学校の帰途、驟雨に逢えば、四辻から、紺蛇の目で左褄というのが出て来て、相合で手を曳いて帰るので、八ツ九ツ時分、梓は酷く男の友人に疎じられた。人は皆竹馬の友を持ってるけれども、梓はかえって手鞠、追羽子の友を持っていたのである。
父親が亡って、姉が初めて訪寄ったのが機会で、梓は高等学校の業を卒えて上京した、学資は姉の手から──その旦那の懐中から──出たのであるが、学年中途にして志未だ成らず、年紀はようよう梓より二ツ上の姉が、両親の後を追って、清く且つ美しい一輪の椿、床の花瓶をほつりと落ちた。
最後にその三人の従姉妹が、頭のもの、帯一本、指環を一ツ売ったという、二十円余二月足らずの学資を達引いてくれたまでで、あわれ一人は目を煩い、一人は気が狂ったようになり、いま一人は人に連れられて北海道に渡ったという、音信があって、それなりけり。
という境遇であったので、幼少の折から、紅の曙、緑の暮、花の楼、柳の小家に出入して、遊里に馴れていたのであるが、可懐しく尋ね寄り、用あって音信れた、往くさきざきは、残らず抱であり、分であり、いずれも主人持のことであるから、勢已むことを得ず、帳場に片膝立てている女房に挨拶をせねばならず、奥に掻巻を懸けて昼寝をしている、亭主に天窓を下げねばならない。
単にそう云えば梓が酷く意気地のないように聞えるけれども、人の召使は我が召使ではない、玄関番の書生が、来客の履を取って送迎するのを見て、来客たるもの、自家を尊大にして己に従うものだと思うのは失敬であろう。履を取るはすなわち主公に使うるの道で、あえて来客に対する礼ではないから。
芸妓も自家これに客となって、祝儀を発奮み、玉を附けて、弾け、飲め、唄え、酌をせよ、と命令を奉ぜしめた時ばかり、世の賤業を営むものとおとしめて宜しいけれども、臂鉄砲に癇癪玉を込めた、ドンを啖い、鳩玉で引退るに当ってや、客たるものは商となく、工となく、武となく、文となく、戦に敗けたものと謂わなければならない、いわんや、さッさと貰われてのッけから、対手にされざるものにおいてをや。
忘八の亭主、待合の女房といえども、己遊客となってこれが敬礼を受ける場合でなく、一個人としてここに訪い寄れば会釈をしなければならない数で。
たとい、売淫婦といえどもその妹たるものは、淑女であっても渠は姉さんである。たとい山賊といえども、山路におのれ蹈迷った時寸毫の害も加えられずして、かえって此方より道を聞いて、麓に下りることを得たりとせんか、渠は恩人である。世を害するものなりといって訴人に及ぶは情において忍ばるる処ではあるまい。しかるにこれを訴人して、後にざまあ見ろをくらって、のり血になって悶くのは、芝居でも名題の買って出ぬ役廻であろう。
母をはじめ、姉、従姉妹、幼時における梓が七情を支配したものは、皆苦労人であった。あえてこれ天下に憚る処なしといえども、しかれども、数の奇なるもの、顧れば無慙な境遇。
梓が上京して後東京の地において可懐いのは湯島であった。湯島もその見晴の鉄の欄干に凭って、升形の家が取囲んでいる天神下の一廓を詠めるのが最も多く可懐しかった。
可懐しさもまるで過世の夢をここに繰返すようなもので、あえて、ここで何等のことを仕出したことはないが、天神下はその母親の生れた処だということについてである。
されば故郷を去って独り寄宿舎に居る、内気な、世馴れない、心弱い、美少年は、その界隈に古びた廂を見ては、母親の住んだ家ではあるまいかと思い、宮の鰐口に縋っては、十七八であった時の母の手が、これに触れたのであろうと思い、左側に竝んだ意気な二階家の欄干、紅裏の着物が干してある時、夜は殊に障子に鏡立の影の映る時、いつもいつも心嬉しく姿寂しく、哀れさ、床しさが身に染みて、立去りあえず彳むのが習であったが、恋しさも慕しさも、ただ青海の空の雲の形を見るように漠然とした、幻に過ぎなかった。しかるにある時、それを形に現して、梓の感情を支配する、すなわち、床しい、懐しい念のすべてをもって注ぐべき本尊、譬えば婦人が信仰の目じるしに、優しい、尊い、気高い、端厳微妙なる大悲観世音の御姿を持ってるようなものが出来たのである。
ちょうど玉司子爵の令嬢いまは梓の夫人たる竜子から、まだ仏文の手紙の来ない先、姉が死んで、従姉妹が離散して、学資が途切れたので、休学して、しばらく寄宿舎を退いた間、夫婦で長屋を借りて世帯を持っていたいささかの知己の処に世話になったが、その主人また大の貧窮で店立を命ぜられて、一日九尺二間の城を明渡すの止むを得ざることに立至った。その日も梓は例のごとく、不遇の身を湯島の境内に彷徨わせて、鉄欄干に遣瀬のう時を消して暮方に家に帰ろうとする、途中で会った友達夫婦が、一台の荷車の両脇に附添って、妻恋の下通を向うから曳かせて来て、
(天神下の××番地へ引越す、後から来たまえ。)
(神月さん、その時この車に附けあまったがらくたを隣家へ預けて来たんですから、車を雇って持って来て下さいな。)
と暢気なもので別れて行った。意を了して、その頃同朋町に店借をしていた長屋に引返して、残りの荷物を纏めたが、自分の本箱やら、机やら、二人乗には積み切れないで、引越車をまた一輛。
天神下までは路も近し、洋燈を手にして宰領して、男坂の裏を抜けて、目的の処へ行くと、さあ知れない。
向うが言い違えたか、こっちで聞違えたか、覚えた番地を差配にまでかかって尋ねたが、皆くれ分らず、荷車について、ぐるぐる廻ってる、日は暮れる、暗くなる、二三時もかかったので、間が抜けてるじゃありませんか、と曳子はぶつぶつ叱言をいう。引返した処で寝る家もない場合。梓一人が迷惑して困じ切っている処を、灯がないと、交番で咎められたが、提灯の用意はなし、お前さん。その手に持ってる洋燈をお点けなさい、と曳子は中ッ肚だから口の裡で、幾たびも、ヘン間抜だな。
さるほどに神月梓は、暗夜、町中に灯した洋燈を持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、莨屋の店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、背後から、噛着くように叱言をくッて、ほとんど耐え切れなくなると、雨が降出した。
梓は蒼くなるまでに、果は気を苛って、額がつッぱると思うほどな癇癪筋、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして粉微塵に砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。
その時、黒縮緬の一ツ紋。お召の平生着に桃色の巻つけ帯、衣紋ゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いので丈もすらりと見え、洗髪で、濡手拭、紅絹の糠袋を口に銜えて、鬢の毛を掻上げながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある知己の口入宿に遊んでいた。年紀十七の夏のはじめ、春の名残に降ろうとする大雨の前で、戸外は真暗な出会頭。蝙蝠が一羽ひらひらと地を低くう飛んだと見た、早や戸を閉めた縄暖簾を洩れて二筋三筋戸外にさす灯の色も沈んだ米屋を背後に、此方を向いて悄然洋燈を手にして彳んでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も逆釣ッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台に抛むとする、眦の下ったのは蝮より嫌な江戸ッ児肌。人見知をせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血も逆らんとする、若い品の良いのを見て嬉しくッて耐らず、様子を悟って声を懸けた。
(ちょいとどこへいらっしゃるの、)
一幅の赤い灯が、暗夜を劃して閃くなかに、がらくたの堆い荷車と、曳子の黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、
(家を探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。
蝶吉は莞爾々々しながら、愛想よく仔細を尋ねて、
(そう、今日お引越なすったの、何でしょう、兵児帯をして、前垂を懸けた、肥った旦那と、襟のかかった素袷で、器量の可いかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭で指をしてくれた。蝶吉はその長屋の表通の口入宿に居たのであった。
この口入宿の隣家は、小さな塩煎餅屋で、合角の花簪を内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると突当が黒板塀。ついて右へ廻ると粋な格子戸の内に御神燈を釣したのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が見透される板屋根の小家がある、そこが引越先であった。
この一廓は、柳にかくれ、松が枝に隔てられ、大屋根の陰になり、建連る二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から瞰下しても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。
さて件の花簪屋と煎餅屋との間の露地口の木戸は、おしめ、古下駄等、汚物洗うべからずの総井戸と一般、差配様お取極で、紙屑拾不可入、午後十時堅く〆切。
梓が引越してから五日目の夜、十時を過ぎて帰ることがあった。木戸へ来ると、鍵がかかっていた。向うの湯屋では板の間を磨る音、男坂下なる心城院の門も閉って、柳の影も暗く、あたりは寝て、切通の方には矢声高く、腕車の疾く軋るのが聞えたが、重宝なもので、煎餅屋の店から裏長屋へ抜けられるのだから、木戸を閉切ったあとはこれが例、女房が見つけて、ちゃんと心得、
(書生さんの旦那、お穿物をお提げなすって、こちらから。)と言ってくれた。
極も悪し、面を背けて店口から奥へ抜けようとすると、同く駒下駄を手に提げて裏口からはらりと入って来た、前日の美人とぱったり逢った。袖も摺合うばかり敷居で行違う。振の明から溢れる緋の長襦袢が梓の手にちらちらと搦むばかり、颯とする留南木の薫。顔を見合せて、
(失礼、)
(……………)
(ちとお遊にいらっしゃいな。)と言い棄てて、それでもまだ答をしない中に、早やばたばたと戸外へ出たが、
(おばさん、お邪魔様、)と言いさまに口入宿の表の戸がらがら、鈴を鳴らして入った。蝶吉は今夜裏なる常盤津の師匠の許に遊びに行った帰であった。
梓は幾ほどもなく仏文の手紙を得て、この隠家を出て、再び寄宿舎の卓子にバイロンの詩集を繙いて粛然とする身になったが、もとより可懐しい天神下はますます床しいものと成り増ったのである。
今こそあれ、件の美人を梓は誰なりと知る由なく、ただかの時と、その時と再度のみ。それもつくづく見たのではないから、年紀のほども顔立もよくは分らなかったけれども、ただ彼が風俗は一目見て素人でないことを知った。宛たるこの大都の芸妓の風俗、梓はぞっとしたのである。
しかも窮苦極りなきに際して家を教えられたのであるから、事は小なりといえども梓は大なる恩人のごとくに感じた。感ずるあまり、梓は亡母が仮に姿を現して自分を救ったのであろうと思った。あえてここに更めていう、梓の母は芸妓であった。そして天神下はその生れた処である。
幾多の星霜を経てはいるけれども、かしこの柳、ここの松、湯屋も古くからあるというし、寺の門前のは今もあたりの女の子が、打集うては遊んでいる、鞠唄も唄うている、廂、軒、土の色も有の儘。これがむかし母親の住んだ家ではないかと心の迷うのも慕わしさの余、しばらく住んでいた、破屋の太く古いのにつけても、もしやそれかと、梓はあたかも幻というものを画に描いて、目にこれを見るような思がした。それこれの聯想から、誰とも知らず、その頃の蝶吉を、母の俤に肖たように思ってた折から、煎餅屋の店で行違った時も、母があたかもその年紀で、その頃、同じことを、ここでして、こうして育ったのであろうと、あたかも前世紀の活きた映画に接するがごとく感じたのである。
梓が大学の業を卒えて、仏文の手紙の姫、年紀は二ツ上の竜子に迎えられて、子爵の家を嗣ぐ頃には、地主の交替か、家主の都合か、かの隠家の木戸は釘附の〆切となって、古家の俤も偲れなくなった。構外を廻って見ると、今までとは方面の違った町の側、酒屋の蔵の廂合に一条仄暗い露地が開かれた。大方そこから旧の借家へ通ずることが出来るのであろうと思うばかり、いうまでもなく、先に世話になった友人夫婦は、疾くに引越して行方知れず、用もない処、殊に、向合って御膳を食べる、窓から手を出して、醤油を借りようという狭い露地内へ、紋着の羽織でうそうそ入られたものではない。入って見られず、伺うて分らなくなると、ますます可懐しさは増ったけれども、これまでと違って玉司子爵梓氏となってからは、邸を出入の送迎も仰々しく、往来の人の目にも着く、湯島のそぞろ歩行は次第に日を措き、週を隔つるようになったが、遠いが花の香で、床しさはまた一入。
梓はその感情をもって、その土地で、しかも湯島詣の朝、御手洗の前で、桔梗連の、若葉と、幟と、杜鵑の句合の掛行燈。雲が切れて、梢に残月の墨絵の新しい、曙に、蝶吉に再会したのである。
今日しも寄宿舎の紅茶会で、竜田若吉が言ったごとく、梓はその時もある意味をもって、蝶吉に助けられた。
些細なことだけれども、一体貧窮刻苦の中に育った人の、文学士で玉司子爵夫人の恋婿でありながら、ちっとも小遣などは気にしないので、持って来たとも覚えず、忘れて来たとも知らず、落したのか、紙入というものを持合さず、水を注ごうとして干杓を取ると、
(水銭をおくんな。)と豆を装ってならべてある土器の蔭から、丸々ッちい、幼い顔を出されて、懐を探るとない。袂に手を入れるとない。左にもない、帯の間にはもとよりない。
思わず、どぎまぎして呟いた。
(どうした知らん。)
(水銭をおくんな。)
梓は極が悪いので、
(おや、おや。)と疑わしそうに言ったけれども、一種の見得で、自分には掏られたあてもないのである。
子供は同じことを、
(水銭をおくんな。)
(まあ、懐中を忘れたそうだよ。)
目をぱちくりして、委細構わず、
(水銭をおくんな。)
ただ六ツばかりの小児に対しても、梓は性としてこれには顔を赧くして、立場なく後へ退ろうとする。背後に立ったのが、朝参の婀娜たる美人で、罪もなく莞爾々々しながら、繻子の不断帯の間から、膨りと懐紙に包んだ紙入を抜いて取り、掌に拡げて緋地の襤褸錦の紙入を開いた中から、指で環を拵えたような、小さな玩弄の緑の天鵝絨の蟇口を引出して、パチンとあけて、幼児が袂の中を覗くように、あどけなく、嬉しそうに、ぱっちりした目を細めて見ながら、一片の、銀の小粒を、キラリと撮んで、向うへ投げた。
(小僧さん、旦那様の分もあるんだよ。)
梓は屹となった。
美人は顧みて嫣然として、
(あなたや、さあ、手をお出しなさいな。)
梓はここに到って、胸中まず後の謝恩を決しながら、衝と差出した、医師のごとく、爾く綺麗な手に、一杯の清水、あたかも珠のごときを灌いで、颯と砕けると更に灌いだ、雫も切らせず、
(私のを使って下さらなくッて。)と落着いて、静に秋波に視ていいながら、ちょいと、仰向いて
端を引いた、奉納の手拭、いまだ手摺もなく新しい。
茶色の地に、白で抜いて、数寄屋町、大和屋内──ちょう吉──とある。
(姐さん、きっとお礼をする、)と梓は心を籠めてはじめていった。
(あら、何ですよ、)
(いいえ、)と押えて、そのまま別れて敷石の上を渡った。額堂の軒、宮の廂、鳥居の下、御手洗の屋根に留まった鳩が、あちらこちらしばしば鳴いて、二三羽、二人が間をはらはらと飛交わした。納豆々々の声遥に、人はあたりになかったのである。──この間二年余相たち申候。歌枕の今夜の逢曳。
「ちょいと今夜は私嬉しいわねえ、こないだから塩梅が悪くッて、それにお前さんは久しくおいでなさらないし、鬱いでばかりいたんですよ。」と急にまたしめやかになった。気の変ることの極めて早い、むしろ鋭いといっても可い。この女の心は美しく、磨いた鏡のようなものであろう、月、花、鶯、蜀魂、来って姿を宿すものが、ありのまま色に出るのである。
梓も可懐げに頷いて、
「ついちっとばかり忙しかったもんだから、病気とは聞いていたけれど。」
「精出して勉強をしていたんですか。」
「ああ、」と何気なく答えたがふと気に懸った様子で浮かぬ顔をした。
蝶吉はもとより何の気もつかないので、
「そう、生意気だねえ。」
「失礼な、人が勉強してるというのに、生意気だということがあるものか。」
「あなたや、馬車に乗ろうと、いうんじゃあなし、詰らなくッてよ。また煩いでもすると悪いもの。」
「だって怠けてちゃあ食べられませんから、」
「私が達引くから可いわ、」といって蝶吉は仇気ない顔に極めて老実な色を装った。梓はこれを聞いて、何か気がさしたような様子であったが、笑に紛らして、
「どうぞ宜しく、」
「ええ、それはもうね。」
「しかし、私は駒下駄じゃあ厭なんだ。」と思い切ったという語気で冷かにいって、屹と蝶吉を見た、目の中には一種の思を籠めたのである。
蝶吉はさも思い懸けなかったらしかった。
「おや、おや、異なことを、」といって、澄したもの。
梓はここに至って居住を直した。
「いいえ、異なことをいうんじゃあない、隠し立をされてはおかしくないよ、お前、松の鮓は一体どうしたんだえ、」とさすがに問い兼ねて当らず障らず。
「厭よ、やくのかい、貴方気に懸けるような対手じゃあなくッてよう、初心らしいことをいって、可笑しいわねえ。」
「何しろ、全くか。」
「はあ、」と極り悪げに男と見合ってた顔の筋を動して、
「それはあの、何なの、だって私は何にも知らないんですもの、」と俯向いて膝の上を、煙管で無意識に敲きながら、
「だってもうそれっきり何だってあんな奴は何だろう、それを気に懸けて下さるのは、あんまり可哀そうよ、蝶吉じゃあありませんか。」といって自らたゆげに見えて微笑んだ。
「その事じゃあないよ、お腹の……」といいかけて、梓は我ながら面を背けた。
「まあ、」
黙って、俯向いてしばらくして、蝶吉は顔を赧らめ、
「貴方、誰に聞いて来て、ようどこから知れたのよ。」
「なに少しばかり気になることを途で聞いたもんだから、つい、」
「もっとまだその上に知ってるんですか、」
蝶吉は驚いたような声。
「悪く思ってくれちゃあ困るよ、僕はね、知ってる通、遊ぶのはお前がはじめてだ。商売だから嘘を吐くもんだと思っていたんだけれども、お前が見ッともない、たというそにでも好いたとか、何とかいって、そうして好いた真似をして見せる分には、好かれた者に違いはないのだから、好かれたんだと思っておいでなされば可い。いやに疑るのは見っともない、男らしくもない、とそういうから、成程そうだと、自分極で、好かれてると思ってる。ああ、ずっと惚れられたんだと思って、これでも色男に成済しているんだ。だから、何も洗い立をして、どうの、こうのと、詮議立をするんじゃあないけれども、今来る途中で、松の鮨が、妙なことをいって当っ擦ったよ。」
「厭だ!」
蝶吉は閨を透見したものを、辱しめ、且つ自分のしどけなかったのを愧ずるごとき、荒ッぽい調子であったが、また自ら危んで、罪の宣告を促して弱々しく、
「何か言っていましたか。」
「残らず、」と神月はきっぱり言った。
「へい、」と真面目に、蝶吉はたちまち三ツばかりものの言いざまに年紀を取ったが、急に気を換えて、
「だって、すっかり快くなってよ。西洋じゃあ皆平気ですって。また田舎なんぞには当前だと思ってますとさ、私もうさっぱりしたんです。
体にも障らなかったといって、今夜ねえ、床上げやら、何やらで、内の姐さんが赤飯を炊いてくれました。そして一杯飲んだんですもの、祝ったくらいじゃあありませんか、不可くッて、え、え?」
蝶吉は梓が何か易からぬ面色があるのを見て、怪しむ様子。
梓は急に語も出でず腕を拱いて黙然としていた。
「よう、何を鬱ぐのよ、私のことなんですか、不可くッて、」
「可いも悪いもお前、」
言語道断だ。
「だってしかたがないじゃあありませんか、」と詮方なげに蝶吉はぱっちりした目を細うして、下目使いで莞爾したが、顔を上げてまじくりして、
「もっとも何なのよ。一度そんなことをしたものは、もうもう一生子供は出来ないッていうのよ。ですけれども、貴方嬰児はいらないんでしょう、ぎゃあぎゃあ泣いて可煩いから大嫌だって言ったじゃあありませんか。ですもの、三ツばかりの児が、父さん、母さんッて、生意気な口を利くのが可愛いんですから、余所から貰うことにでもしましょうッていったら、それさえ面倒だ、可愛い口を利かせるなら鸚鵡を飼えば沢山だッて言ったんですもの。」
梓呆れ果てて言葉なし。
蝶吉はしたり顔で、
「ほら、御覧なさいな、可いじゃあありませんか、私も嬰児なんか欲しくないんですから、」
と言い懸けて少し体を斜にして、秋波で男を見ながら指示すがごとく、その胸に手を当てた。
「こっちのお乳をお菜にして、こっちの大い方をお飯にして食べるんだって、」とぐッと緊め附けて肩を窄め、笑顔で身顫をして、
「厭、痛いわ!」
梓は耐りかねて、
「お蝶、」とちと鋭くいうと、いつも叱るのを外らかす伝で、蝶吉は三指を支いて的面に潰し島田に奴元結を懸けた洗髪の艶かなのを見せて、俯向けに畏り、
「召しましたは何御用にござりまするな。」と男の仮声を造って、笑いたさを切なく耐える風情。余りのことに気の弱い梓は胸が充満、女が見ないので心の張が弛んだか、瞶めている目にほろりとした。が、思切って、衝と寄った、膝を膝に突掛けて、肩に手を懸けるとうっかりした処を不意に抱起されて、呆れるのを、熟と瞶め、
「可哀そうだな、お前は不幸に生れて来て、何にも世の中の事というものが分らないんだから、私は何にも咎めやしない。たといここで、目の前で、やあい、欺してやった、二本棒め、殺を言やあ嬉しがって、色男が聞いて呆れる、ざまあ見やがれと、愛想尽を言って舌を出した処で、ちっとも肚を立てはしない。
いいえ、たとい悔しくッて、肚は立っても、お前を不人情だとも何ともいわないよ。
こうすりゃ薄情だ、不人情だと思ってされてこそ、癪だけれども、ちっとも知らないで言うことなり、することなら、不都合でも何でもなかろう。
だから、何にも言わないが、その何だよ。お前は僕のことを初心だ、坊ちゃんだ、何にも知らないというそうだ。勿論三が下るものやら二が上るものやら、節は伸すもんだか縮めるもんだか、少しも知らない。通だとか粋だとかいうことは、からももんじいで分らないけれども、意気だといって、この寒中、綿の入らない着物を着ていりゃ、体に毒だということは知ってるんだ。そしてまたここらの芸妓は綿のはいったものを引摺ってるといって、お前の豪がることも知っている。
成程薄着ですらりとして、そりゃ姿は可いだろう。ものが間違って、馬鹿げていて、仇気ないのが可いとして、わざとさえ他愛ないことをいうようにしこまれるくらいだそうだッてな、字引と首ッ引で、四角い字、難かしい理窟ばかり聞いてた耳に、お前が、訳の分らない、他愛のない、仇気ない、罪のないことを言ってくれるのが嬉しかった。なに面白かったんだ、面白いといやあ慰だ。それが段々嬉しくなって、可愛らしくもなり、ついこういうことにもなったんだが、他愛なさも、仇気なさも、お肚を……可いかい、政府へ知れりゃ罪人だぜ。人にゃあ交際も出来ないようなことをしながら、赤飯を食べさせられて、酔って来るようになりゃ沢山だ。」とひそひそながら声と共に手に力が入ったので、蝶吉は赧らむ顔を外しもならず、呼吸を引くように唇を動かしている。
様子を見守り、
「可哀そうに、決して、それを責めるのじゃあない。さっきも言う通、お前がお前だから何とも思いはしないけれど、お前は十九で、私は二十五。七ツ違いの兄さんだ。まあ、妹だと思っていうから聞きな。」
さればぞ思い当る。一月ばかり前の夜、同じこの歌枕で会った時、蝶吉はそれとはなく、頻に子が一人欲しくはないかといったのを、気にも留めないで聞棄にしたが、松の鮨の毒口を、ここで聞正せば実際で、梓は思い懸けず、且つ驚き且つ呆れ、あわれにも情なくも思ったのである。
梓はかつて、蝶吉の仇気ない口から、汐干に行って、騒ぎ歩いて、水を飲んだ、海水は塩ッぱいということを、さも大なる学理を発見したごとくにいうのを聞かせられた。
子供の中悪戯をして叱られると、内を駈出して、近所の馬鹿囃子の中へ紛込んで、チャチャチャッチキチッチッと躍っていると、追駈けて来た者が分らないで黙って見遁しては帰ったが、私の顔は今でもおかめの面に肖ているかといって、尋ねられたこともある。
その気であるから、蝶吉がおもてを歩いて、生意気だと思う奴には突当ってやるというから、何を弱虫、先方が怒ったらどうするといって窘めれば、打たれそうになったら二十五座へ紛込んで、馬鹿囃子を躍ってよ、と真面目でいうのだから耐ない。まさかに今十九にもなって、そうとは信じもすまいけれども、口でいうような幼心は、今もなお残っている。堕胎をしたものは刑法の罪人だといえば、何の事かもとより分らず、お前巡査に捕って牢へ入れられなけりゃならないといえば、また二十五座へ遁込んで躍るというであろう、手のつけられたものではない。
さまでに世の中の事というものが分らない生立が、馴染むに従って知れれば知れるほど、梓は愛憐の情の深きを加えた。
さらぬだに蝶吉は恩人である。殊に懐旧の情に堪えざる湯島の記念がある上に、今はある者は死し、ある者は行方の知れない、もの心を覚えてから、可懐しい、恋しい、いとおしい、嬉しい情を支配された、従姉妹や姉に対するすべての思を、境遇の斉しい一個蝶吉の上に綜合して、その情の焦点を聚めているのであるから身にかえても不便でならぬ。
まして打明けた蝶吉の身の上を悉しく知ってからは、謂うべからざる同情の感に打たれたのである。
梓は何となくよく似た身の上だと思った。
蝶吉の母親は旧京都のしかるべき商賈の娘であったが、よくある、浄瑠璃の文句にある、親々の思いも寄らぬ夫定めで、言い交した土佐の浪人とまだ江戸である頃遁げて来た。二人で根岸に隠れている中、時世といい、活計を失って、仲之町の歌妓となった、且つ勤め、且つ夫に情を立てて、根岸に通っている内に、蝶吉は出来たので。
子持の母も芸で通り、馴染の座敷では小女が連れて来ると、背後を向いて、三味線を下に置いて、懐を開けて乳房を含ませるという境遇であったが、誕生を済して、蝶吉がようやく立って歩くようになると、根岸では、父が病の床に倒れたがまた起たなくなった。
越えて三歳になる時、母親は蠣殻町の贔屓客に、連児は承知の上落籍されて、浜町に妾宅を構えると、二年が間、蝶吉は、乳母日傘で、かあちゃん、かあちゃんと言えるようになった。
それもしばらく、米屋町は米の上り下りで人間の相場が狂い、妾宅の主人は大失敗で、落魄して、最後に一旗という資本がないので、心まで淋しくなり、蝶吉の母に迫って、その落籍しただけの金員耳を揃えて返せという。
蝶吉の母は根岸の情人が亡なってから、世を味気なく、身をただ運命に任せていたので、いうことに逆らわず、芳町から再勤したが、足りない金子は、家財を売って、それでもまだ償われなかったので、蝶吉を仲之町の大坂屋というのに預けた、年期が十三年。
廓の抱妓の慣例として、色はきっと売らさぬ代り、芸事にかけてはいかなる手段をもって仕込んでも差し支えはない、少々痛いおもいをさせてもという口約束をしたのであるから、そのせたげようと云ったら方外な。
座敷は三人が一組、姉株の芸妓が二人、これに蝶吉が、下方を持って跟いて行くのであった、といって、いつか雪の降る夜、身の毛を悚立てて梓にその頃の難苦を語ったことがある。
座敷がある、客はというと、あの土地では夜が更けてからのが多い。それという声が懸ると、手取早く二人の姉分の座敷着を、背負揚、扱帯、帯留から長襦袢の紐まで順序よく揃てちゃんと出して、自分が着換えるとその手で二人分の穿物を揃えて、三味線を──その頃腕達者な烈しい姉は、客の前で弾切ると糸を掛けてる中も間が抜けるといって、伊達に換え三味線を持ったので──四張。呼ばれた青楼の帳場まで運んでおいて、息を切って引返す、両手に下方を持って駈着ける。
それから四張の三味線を座敷に運んで、調子を合せて、差置くや否や、取って返して、自分が持の下方の調の緒を〆める時分には、二人悠々と入って来る。穿物の雪を落して、片附ける間も心が急かれ、座敷へ上るとお座附の済む頃で、膝に手を置く猶予もなく、それ下方といって責められるが、指の皮が破れてる上に冷たくッて手がかじかむ。息が切れて、もう小鼓を肩に振懸ける力もない。
これを梓に言った時、蝶吉は床から出て、友染の夜具の袖を敷いたと見ると、長襦袢のまま片膝を立てた。その上に手を翳して、
(私小さくッてこれんばかりだったんですもの、鼓ばかりで体がどこにあるか分らなかったの。)と、いいつつ片手を肩に懸けて、小鼓を構える姿で屹と直った。鬢の毛ははらりはらりとその雪のような素顔に乱れたが、往時を追懐する目も据って、いうべからざる悲哀の色を浮べたので、梓は思わず寝衣の襟を正して起きた。
とんと打入れる発奮をくッて、腰も据らず、仰向に引くりかえることがある、ええだらしがない、尻から焼火箸を刺通して、畳の縁に突立ててやろう、転ばない呪禁にと、陰では口汚く詈られて、帰ると耳を引張って掌で横すっぽう。襟首を取って伏せて、長煙管で背を擲わすという仕置。ただその粗忽があった時ばかりではなく、着物を畳んで背筋を曲げたと言っては折檻、踊がまずいといっては打たれて、体に生疵の絶間もないのに、寒さは骨を通すようなあけ方までも追廻されて、二人が帰ると、着物から三味線、下駄のあと始末、夜が明けると帳面をさげて、青楼を廻らせられるので、寝る間といってもおちおちない。
昼は昼で、笛やら、太鼓やら、踊の稽古、手習も一日置で、ほっという間もなかったのである。
うろ覚えに実の母親は知っていたけれども、年紀も分らねば所も知らず、泣けば舌の尖を捻じられるから、ほろほろ、涙を流しては、といった、蝶吉はその時、崩折れて涙を払った。
土手など通ると、余所の児が母親に手を曳かれて行くのを見たり、面白そうに遊んでいるのを見るたびに、同じ人間がなぜだろうと、思わぬ時といってはない。ある時も、田圃のちょろちょろ水で、五六人、目高を掬っているのを見ると、可羨しさが耐えられないから、前後も弁えず、裾を引上げて、袂を結えて、私も遊ばして下さいな、といって流に入った。やい、売婦め、お玉杓子め、汚らわしい! と二三人、手と足を取って仰向けに引くりかえしたので、泥水を飲んで真蒼になって帰ると、何条これを許すべき、突然細紐でぐるぐる巻、濡しょびれたまま高い押入の中に突込まれた。半日とその夜の夜中二時頃まで、死んだもののようになってる中に、私ばかり、情ないものを、辛いものを、慰めてこそくれずとも、売婦だといって突転がした町の奴等。
内で芸事をせたげるのも、皆手前達が甘やかされて、可愛がられて、風にもあてず育てられた、それほどの果報にも飽き足らず、にきびの出る時分にはその親に泣を見せて、金を掴んで、女をもてあそびに来せるためだ。蹴飛ばしてやろう、おのれ、見返してやろう、おのれ誑してやろう、嬲ってやろう、死ぬような目にあわしてやろう。泡を吹かせずにおくものかと、それからは気に張が出て、稽古事も自分で進み、人には負けぬ気で苦労も気にせず、十七の年紀まで遣り通したが、堅い莟も花になって、もうあとへ、自分を姉さんといって冊くのが出来て、秋の仁和賀にも引を取らず、座敷へ出ても押されぬ一本、地は清元で、振は花柳の免許を取り、生疵で鍛え上げて、芸にかけたら何でもよし、客を殺す言句まで習い上げた蝶吉だ、さあ来い!
花も見、月も見る癖に、活きた女を慰もうとする畜生等、目にものを見せてやろう、簪の先が尖ってるから、憎まれて怨まれて、殺されそうになったらば、対手の目球を突潰して、体だけ逃げれば可いと、柳眉星眼火燄の唇。満腔の不平を湛えて、かえって嫣然として天の一方を睨むようになり得ると、こはいかに、薄汚い、耳の遠い、目の赤い、繿縷を纏った婆さんが杖に縋って、よぼよぼと尋ねて来て、生の母親が大病である、今生でたった一目、名残が惜みたいという口上。
夢にも逢いたい母様と、取詰めて手も足も震う身を、その婆さんと別仕立の乗合腕車。小石川指ヶ谷町の貧乏長屋へ駈着けて、我にもあらず縋りついた。母様、峰(幼名)か、と嬉しさのあまり、呼吸の下で声も出た。母親はその日絶えなむとする玉の緒を蝶吉の手に繋ぎ留められて、一たびは目を開いたが。
一目見廻した様子でも、医師はいうまでもないこと、風薬の手当も出来ないと見て取って、何は措いて、蝶吉は一先ず大坂家に帰って、後の年期も少いので、上借をして貢いだけれども、半日もままならぬ抱妓の身。看病人を頼むのも、医者を心付けるのも、北里と、小石川の及腰、瘠細るばかり塩気を断って、生命を縮めてもと念じ明した。
七日目の朝、ようようのことで抱主から半日の暇を許され、再び母親を小石川の荒屋に見舞うと、三日が間、夜も昼も差込み通し、鳩尾の処へぐッと上げた握掌ほどのものが、上へも下へも通らぬので、唇の色も紫になっていたのが、蝶吉の手で擦られると、恩愛の情に和げられて、すやすやと寝ることが出来た。三時間ばかり経つと、病苦も忘れたようになり括枕に胸を圧えて起上った時、蝶吉は生れて以来、しみじみ顔を見たのである。
(よく紀の国屋に肖ていてよ。)
と蝶吉がそう云う顔立、母親は名を絹といった。
娘を大坂屋に預けて、その身葭町で弘めをしてから、じみちに稼ぎ稼ぎ借金をなし崩し、およそ五年ばかりで身脱をした、その間に世話をするものがあって、自前になって御神燈を出したが、可い抱妓の一人も置いてやろう、と言うものがあったけれども、母親はこれを己に鑑み、たといそうして所得が有って身代が出来た処で、汚れた金で蝶吉を救出しては、きっと末がよくあるまい。また二度の勤をしてますます深みへ落ちようも知れず、もとより抱妓を置く金で仲之町から引取って手許で稼がせる数ではなし。さればといって人の深切も、さすがに娘を落籍してくれるまでには到らなかったが、女腕で一人を過す片遑に端金を積立てても、なかなか蝶吉の体は買取られぬ。たとえばそれが出来るにせよ、母はもとより天道の大御心には協わぬ生立、自分の体を牲にして、そして神仏の手で、つまり幽冥の間に蝶吉の身を救ってやろう、いずれ母娘が、揃って泥水稼業というは、免れぬ前の世の因縁づく。罪滅のためだと思って母親の持った亭主は──間黒源兵衛──渾名を狂犬という、花川戸町の裏長屋に住む人入稼業、主に米屋の日傭取を世話する親仁。
渡者を振廻して処々の米屋に稼がしておく、お絹はその賃銭を集めに廻った。橋場今戸の居まわりは云うに及ばず、本所、下谷、飛離れて遠くは日本橋あたりまでも、草履穿で駈ずり歩かねばならないのみならず、煮るも、炊くも、水を汲むのも、雑巾がけも、かよわい人の一人手業で、朝は暗い内に起きねばならず、夜になるまで、足を曳摺って、日雇の賃銭を集めて、家に帰ると親仁の酒の酌をして、灸の蓋を取換えて、肩腰を擦って、枕に就かせて、それから、歩を取って、各々、二階に三人、店に五人、入交りに泊に来る渡者の稼ぎ高に割当てて、小遣を遣って、屋根代を入れさせる。この算用を算盤ぱちぱち、五を引いて二が残り、たった三厘の相違があっても髻を掴んで引摺倒そうという因業な旦那を持ってるから、夜の更けるまで帳場に坐って、その疲れ果てて吻と一息吐くと綿のようになる体で、お絹は添臥をしたのである。
何の! 踊の稽古をしても、三味線の弟子を取っても、我身一ツは安々と世間を清く過さるるを、獄に投ぜられて苦役に就いても、さばかりにはあらずと思う、ほとんど生身を削り落すような難行をしたのは、あえて堕地獄の我身の苦患を扶かろうというのではない、ただ単に蝶吉のためにしたのであったと、母親がその時の物語。
もとより自ら進んでも、かくはなるべき運命であったろうけれども、さまでとはさすがに思い懸けなかった、積年の憂苦辛酸、一日の安き暇もないので、お絹は身も心も疲れ果てて、その一月ばかり前から煩い出し、床に就いて足腰の自由が利かなくなると、夫狂犬源兵衛は屋外にこれを追出した。それを争う力もなくて、指す方もなく便ったのが、この耳の疎い目腐れの婆の家、この年寄の児は、かつて米搗となって源兵衛が手に懸って、自然お絹の世話にもなったが、不心得な、明巣覗で上げられて、今苦役中なので、その以前から忰の縁で、お絹にも厚意を受けた。年寄は恩を忘れず家へ引取って介抱をしてはいるけれども、活計に窮するのはいうまでもない上に、耳が遠くッて用が足りず、水一杯といっても聞えない看護を請けるお絹の身になったらどうであったろう、またこれを知りつつも、一晩と附切って介抱することのならなかった蝶吉の気はどんなであった? 人が神仏を怨むのは正にそういう時である。
そちこちする中、昼も過ぎたので、年寄はまめまめしく形ばかりの膳立をした、お菜がその時目刺に油揚。
(母さんが烘って上げよう、)と、お絹は一世の思出。知死期は不思議のいい目を見せて、たよたよとして火鉢に凭った。夏近いが、寒いからと、年寄は危んで、背後から昆布のような蒲団を被せようとすると、これじゃあ汚らしくッて折角の馳走も旨しゅうないと、取って撥退けたので、蝶吉が心得て、被ていた羽織を脱いで着せた。
(じみなんですから母さん似合いますよ、)と嬉しそうにいう顔を視めながら、お絹は手を通しつつ振沢山な裏と表を熟と見て、
(峰ちゃん、生意気なものを着てるね、)といった。故郷の京の色香に江戸の意気張を持って、仲之町でも、葭町でも、小さんといって、立てられた蝶吉の母は年紀わずかに三十三、最後の大厄で、その日の晩方、男は自分で見立てろと言って遺言して、日本の男と女の中に、しかも、廓の中に、蝶吉ばかりを残したのである。あと十日とは措かないで、小石川柳町から丸山の窪地へ水が出た時、荷車が流れたのが、根太へ打つかって、床を壊すと、件の婆は溺れて死んだ。これも葬る者がないので、蝶吉は母が臨終に世話になったのを恩として、同じ寺に葬ったのである。
印の墓石はいまだ立てることは出来ないけれども、出来る時だけは欠かさないで参詣する、梓がなかった以前は、ただその墓に取縋ることばかりがこの上もない楽みであった。
蝶吉はその亡きお絹の引合せだと信じている梓に、いつの晩か手を開いて見せた。指の先が色に染まって、赤くなって血が浸んだようなのを怪んで聞くと、今日お墓参りをした時濡れ手で線香を持ったといって、
(私母さんと御膳を食べたのは生れてからたった一度なんですもの、)と縋り着いて泣いた。その手が冷たかったから、梓は思わず、しっかと胸に抱いたのである。
(お宗旨は何だ。)
(知りません。)
(問えば可いじゃあないか。)
(だって可笑しいわ。)
(じゃあ何てッて拝むんだな。)
(一生懸命に南無阿弥陀仏。)
この女が、この体で、この姿で、ただ一人墓の前に泣くのだと思って、梓は抱いたまま放さなかった。
「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、怨と、僻と憤とをもって見た世に対して、謂わば復讎的に己が腕で幾多遊冶郎を活殺して、その肉を啖い、その血を嘗むることをもって、精魂の痛苦を癒そうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、誑すの嬲るのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。譬えば、その家は壊たれ、その樹は伐られ、その海は干され、その山は崩され、その民は屠られ、その女は姦せられた亡国の公主にして、復讎の企図を懐いて、薪胆の苦を嘗め尽したのが、張も忘れ、意気地も棄ててかえって我に哀を請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとく憐むべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉は残少になった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に便なく、心細さの余、ちと棄身になって、日頃から少しは飲けた口のますます酒量を増して、ある時も青楼の座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月が射して、その肉は蒼く、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、往来の仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に胸前へ差込が来てから、持病になって、三日置ぐらいには苦悶える、最後にはあまり苦痛が烈しいので、くいしばっても悲鳴が洩れて、畳を掻むしって転げ廻るのを、可煩いと、抱主が手足を縛って、口に手拭を捻込んだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の拇指の間へ続け様に灸を据えた。妙齢になってから、火ぶくれの痕は、今も鮮明に残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣に搦んで足を揃えて、小い爪尖を見せながら、目に涙を浮べたその目で、待合の襖の紙が蟹のような形に破れているのを見付けると延した足の拇指を曲げて、件の破目を、
(繕ったら可さそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいって抉るのを、
(馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻を詰らせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうに瞶めていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、取留のない、しかも便りのない孤に、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。
蝶吉はかの時無慙なる介抱をした抱主の処置に平なることあたわず、圧え切れない虫は突走って、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、葭町かと行先を選んでいる中に、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、髪結が一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せに行く。場所も薔薇の花の盛な中へ取って、朱塗の埒も結ってある、日給は一日三円、十月の約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に観世物になる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようよう獣に楽まれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、
(こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)
梓は余りのことに吹出して、
(シャモの牝はこれでございと言やあしないか、)
(まずね、)と莞爾した暢気さ加減、浅はかさも程があった。
「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息を吐きもあえず、
「それさえ見棄てて、別れなければならないような、児を堕すなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉の項を抱いて口移しに噛んで含めるように、自分の赤心を語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。
蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、摺抜けて駈出しもしかねない様子に見え、左に、右に、その面を背けたが、梓の手と、声と、語と、真心は、ますます力が籠ったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到る頃いの、果は、悄然と頭を低れて、腕に落した前髪がひやりとしたので、手折った女郎花の儚い露を、憂き世の風が心なく、吹散すかと、胸に応える。
「僕だって最初からこういう間の中といっちゃあ、末始終はきっと泣を見なければならないと思うから、今度こそ別れるような話にしようか、今度こそと、その度に悄れちゃあここへ来ると、何かしらお前に言われること、されることが、一々思いの増すようなことばかり。私はもう一服ずつ痺薬を飲まされるようだった。
今じゃ家にも居られなくッて、谷中に引込むようになった上は、どうせ破れかぶれだから、人が何といったって、世間も義理も構うことはない、お前とどうぞしてという覚悟を極めた処へ飛んだことを聞いてしまった。
お蝶さん、お前は訳が分らないから、何にも世の中のことは知るまいがね、およそ堕胎ということをした者は、これが罪とも恥とも知らないでした事にしろ、心は腐っても、人間という目鼻だけの、せめて皮でも被ってる中は、二人竝んじゃあ居られやしない。こう言えば水臭いと、きっと私を怨むだろうが、いつも言う通り、お前のような稼業をしている者とは、兄弟であったり従姉妹であったりした上に、皆にたんと世話にもなった。どういう因縁だか、お前にも恩を被た私だから、訳は分ってる、こう見えても可愧しいが、馬車に乗ったこともあるし、御前様々々と畏られたこともあるが、大な声一つ出してお前にゃあ、用を言い付けたこともない。あんまり大人しくッて、頼りがないから、私は何だか物足りない、きりッとして叱ってくれ、癇癪を起して横顔の一ツも撲られたいと、芸妓のお前にいつも言われた、男が一人そのくらいに惚れたら可かろう。故郷とは始終便をして、人のおもちゃになってる女に、姉上々々と書いたから、ああこんなことをするような身分ではないと知りながら、お前の手紙が来れば、様づけにして返事を出した、何も機嫌を取った訳でもなし、取入って色男になろうと思ったのでもない。
うわべはどうでも、理窟は知ってても、小児の内からの為来りで、本当に友達のようにも思い、世話になったとも思う上に、可愛い、不便だと思うから、前後も考えなかった。
お前を立派な女だ、姫様だ、女房さんだと心から思ってしたことだよ。僕はお世辞も何にも言わない。女は氏なくして玉の輿だから、どんな身分の人に姉さんといわれないとも限らぬが、そりゃ男の方から心を取って惚れさせようとか、気に入られようとかして、後じゃあ玩弄にするためだ。
可い餌をかって肥えさしてしめて食べようという、鴨と同じ訳じゃあないか。これが遊人とか、町内の若い衆とかいうなら知らず、ちったあ身分もあるものに本当に惚れられた芸妓といっちゃあ、まあ、お前一人だろうよ。
それを思出にして、後生だから断念めておくれ。神月は私の良人だったと、人にいっても差支えはない。そして謂うに謂われない仔細があって別れたといって御覧、お前の恥にゃあならないから、よ、解ったかい。
いまにもう少し年紀でも取って、ちったあ分別がついて来ると、成程無理はなかったと、自分のしたことに気が付いて私の心も知れるから、体だけ大事にして軽忽をしないで辛抱しな。別れるといって見棄てやしない、蔭じゃあどこまでも思っている、」と神月もほろりとした。蝶吉は死んだ者のようである。
「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の打欠をお飯にかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのは止せ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」
としめやかに言ったがふと心付いて、手を弛めた、
「酔醒か。寒くはないか。」
「いいえ、」と内端に小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。
「そうか、また冷えると悪いぜ。」
「ええ。」と仇気なく秘さず、打明けて縋り着くような返事をする。梓はこの声を聞くと一入思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。
「体はもうすっかり良いのかい、」
「ええ、」
「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よく暴れるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内で姐さんと喧嘩はしないか。」
「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で微笑む。
「やっぱり母様の夢ばかり見てるのか。」
「ええ、」ともいわず蝶吉は面を背けると、御所車の簾の青い裏に、燃立つような緋縮緬を、手に搦んで、引出して、目を拭って、
「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、可笑しいねえ、」といって袖口を除けたが、ぱっちりと目を睜いて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬ方を瞶めたけれども、
「おやおや、可けないねえ。」
また俯向いて目を塞いで、
「貴方、手を放して下さいな、」
声も消入るようであった。
梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま背後へ倒れるだろうと思った。
蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、恍惚して梓の顔を見ていたが、細い声で、
「あなた、」
「どうしたの、」
「後生だから顔を見ないで下さいな。」
梓は思わず面を背けた、火鉢の火は消えかかって籠洋燈の光も暗い、と見ると痩せた薄と、悄れた女郎花と、桔梗とが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の屏風が立っているのが、薄暗い灯で、幻のようで、もの寂しい。
「私泣くんだから、あっちを向いても可くッて?」
梓は頭から寒くなったが、俯向いて頷くと、蝶吉は向むきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。
着物の振が両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指の尖が、肩から見えて、潰し島田の乱れかかったのを、ふらふらとさして熟としていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓も耐らず、背向になった。二人の茫然した薄い姿は、件の秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。
「さて早や、」と云う懸声で大和家の格子戸を開けて入る、三遊派の落語家に円輔とて、都合に依れば座敷で真を切り、都合に依れば寄席で真を打つ好男子。但しこの男が真の時は必ず御定連へ半札を出す例であるから、通称は半札の円公。鈴本が刎ねてあいにく繰込のお供も仕らず、御酒頂戴も致されず、家へ帰って妹じゃ間に合ずというので、近所だから大和家へ寄ることちょいちょい。さてはや半札の円公は、御神燈の下から、まず御馴染の顔色を御覧に入れますると、
「よう!」と長火鉢の前から奇な声を発して応じたものあり。内の姐さんか、あらず、傭の婆さんか、あらず、お茶を碾いてる抱妓か、あらず、猫か、あらず。あらず。あらず。湯島天神中坂下の松の鮨の忰源ちゃんである。この男銭を遣わずに女の子と遊ぶのをもって、通と悟ったから耐らない。数寄屋町の御神燈の下を潜る事、毎夜あたかも燕のごとしで、殊にこの大和家には、蝶吉という、野郎首ッたけの女が居るから、その取入ること一通ではなく、余所の障子を張ってやりの筆法で芸妓の用達から傭婆の手助までする上に、隙な時は長火鉢の前で飼猫の毛を梳いている。運が好いと、雛妓の袖を引張ることも出来るし、女中の臀を叩くことも出来るのが役得。蝶吉に肱鉄砲を食ッて、鳶頭に懐中の駒下駄を焼かれた上、人の妓を食おうとする、獅子身中の虫だとあって、内の姉御に御勘気を蒙ったのを、平蜘蛛で詑を入れて、以来きっと心得まするで、何卒相変りませず、今夜も来ている。
あいにく抱妓どもは皆出を勤めて居らず、女中は忙しいし、姉御は用達にお出懸けなり、火鉢の灰は綺麗だし、注す後から鉄瓶の湯は煮立つので、色男余の所作なさに、猫を撫でたり、擦ったり、どうしたなどと、言って見たり、耳を引張ったり、髯の数を数えたり、様々に扱うと、畜生とて黙っておらず、ニャアと一声身顫をして駈出そうとするのを、逃がしてなろか、と引抱て、首環に噛り着いて、頬杖して、ふと思い着いて、「恩愛雪の乳貰」という気取、わざと浮かぬ面をしている処へ、件の半札がさて早であった。
「師匠上りたまえ。ようこそ、」と諸事内の人で挨拶する。
ぐッと呑込んで、円輔はあたりを眗し、
「へへえ、成程、あいにく出懸けまして御愛想もございませんがね、どこへ、姐さんは。」
「また、これだそうさ、」といって窪んだ顔の真中へ指をした、近眼鏡の輪を真直に切って、指が一本。何と気を変えたか、宗匠、今夜は大いに侠って、印半纏に三尺帯、但し繻珍の莨入に象牙の筒で、内々そのお人品な処を見せてござる。
円輔は細長い膝を小紋縮緬の薄ぺらな二枚襲の上から、掌でずらりと膝頭へ擦り落すこと三度にして、がッくりと俯向き、
「さてはや。」
「どうしました、大分落胆の気味だね、新情婦も出来ませんか。」と源次郎は三味線の挂った柱に凭れて澄ましている。
円輔はまた耳朶へ掛けて頬辺を扱き上げて、
「いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。」
「何ちっと、遠方だそうです。」
「ははあ、遠出でげすかい、なにかに就けてさぞ気が揉めるこってえしょう、よ、色男。」と浮ッ調子で臀をぐいと突くと、尋常に股を窄めて、
「止せッてえに、これ、詰らないことを、何だ。こう見えても苦労があるんだから、ねえ、おい。」と甘ッたるい。
「よ、苦労!」
と仰々しく手を支いて、ぐッと反って、
「来ましたね、隊長、恐入ったね、どうも。苦労と来たね、畜生、奢りたまえ、奢りたまえ。」
「いずれ帰ったら奢らせることに致しましょうよ。」と北叟笑をする。
「これは!」
「いや、師匠、串戯は止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく吝嗇に行った処で、鰻か鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと発奮んで伊予紋となろうも知れず、私ゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。」
「確に、」
「ええ、確りだ。」
「豪い!」と大声を張上げて、ぴたりと、天窓を下げたが、ちゃんと極って、
「さてどっちです、こうなると待遠しい。」
「八丁堀だそうだ。」
「成程御遠方だ。幾時頃から、」
「一昨日の晩から行きッ切り、おなじく、」と鼻を指して、「ね、さっき使が来て、今夜は遅くとも帰るッていうんだ、ねえ、升どん。」
勝手から女中の声で、
「はあ、」
「ねえ、おい、富ちゃん。」
次の部屋の真中で、盆に向って、飯鉢と茶の土瓶を引寄せて、此方の灯を頼りにして、幼子が独り飯食う秋の暮、という形で、掻っ込んでいた、哀な雛妓が、
「ええ、」と答えてがッくりと飲む。
「確かい。」
「きっとでございますって。」
「占めた!」という時からからと戸が開いた。
円輔は振返って、
「や、御帰館!」と喚いて、座を開いて、くるりと向く。
源次はぬうと首を伸ばして、
「誰だい、」
「蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。」
「そう、」といって源次は猫を落して坐り直った。
蝶吉は何か悄然として帰って来たが、髪も乱れて、顔の色も茫然している。前垂懸で繻子の帯、唐桟の半纏を着た平生の服装で、引詰めた銀杏返、年紀も老けて見え、頬も痩せて見えたが、もの淋しそうに入って脇目も触らず、あたりの人には目も懸けないで、二階へ澄して上ろうとするのを、円輔が瞶めて、ちっと当ての違ったという形で、変に生真面目に、
「お帰んなさい。」
「唯今、」と言ったばかり、つんとしてトン、トン、トン。
「御機嫌麗わしからずじゃあないか。顔色が可恐しく悪いぜ、花札が走ったと見える、御馳走はお流れか、」と円輔はてかてかした額を撫でた。
「いえ、師匠、御馳走はその勝負にゃあ寄らないんだ。但し御機嫌の悪いのはこの節しょっちゅうさ、心太の拍子木じゃあないが、からぶりぶりしてらあな。」
「やっぱり……。」と押えて、それか、と呑み込んだようにいうと、源次は黙って頷く。
声を低うして、
「何でげすかい、あの神月とやらいう先生に一件が知れて、先方から突出したというのは本当なんで?」
「ああ、」と何だか聴きたくもなさそうに、源次郎は乗らない返事。
「成程竝べて置けば雛一対というのだが、身分には段があるね。学士と謂やあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志で惚れ合ったって、お前さん、その身分で芸妓に懸り合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりと止して、落語家となったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子を堕したと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがに豪いや、へん、猪口の受取りようを知らねえような二才でも、学問をした奴あ要が利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも男振ばかりじゃあないと見える、縒が戻りそうでもありませんかい。」
「どうして、ちっとでも脈がある内に鬱ぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。」
「成程、して見るとこちとら一味徒党。色情事に孕むなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、蟇の食傷じゃあねえが、お産の時は腸がぶら下りまさ、口でいってさえ粋でねえね、芸妓が孕んで可いものか悪いものか、まず音羽屋に聞いてもらいたいなんてッて、あの女が、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃ怨まれそうなこッてげす。何を目当に、御馳走なんぞ、へん下らない。」
と円輔はまた落胆、源次は落着き澄して、
「師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。」
「だってあの御気色を御覧じろ、きっとあれだ、違えねえね、八丁堀で花札が走った上に、怨み重なる支那と来ちゃあ、こりゃ奢られッこなし。」
「勿論僕の、その御相伴なんだよ。」
「へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。」
「ずッと有る、有るね、そこあ憚りながら源ちゃん方寸にありさ。」
「じゃあ一番お手形を頂きたいね。」と円輔は詰寄った。
「手形宜しい。当てが違えば、師匠、どうだ、これを献上は。へへ、詰らねえもんだけれど。」
と少し見せたくもあって件の莨入を抜く。円輔は打返して捻ッて、
「罷り間違えば、手前にこのお腰のもの、ちょいと武士に二言はなしかね。」
「いや、江戸ッ児だ。」と誰かの声色で、判然となる。
「豪い?」と大声で、ぴたりとお辞儀をした、円輔は驚いて顔を上げる。
二階から蝶吉の声で、
「富ちゃん! 富ちゃん。」
「はァい。」と引張って返事をして、雛妓は膳を摺らして立ち、段階子の下で顔を傾けて、可愛らしく、
「何、姐さん。」
「あのね、私は今夜塩梅が悪いから、どこから懸って来てもお座敷は皆断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へ臥りましたッてね。」
「はい。」
「可いかい。」
蝶吉は、帰るとその時まで何をするともなく可厭な心持で、箪笥の前にぼんやり立っていたのであった。
雛妓に言付けて、座敷を斜に切って、上口から箪笥の前へ引返すと、一番目の抽斗が半ば開いていた。蝶吉は衝と立って、
「おやおや、私が開けたのか知ら、」
と思い寄らず呟いた。抽斗には、神月の写真をいつも立て掛けておくのである。
ふッつり切られてしまってからは、人は見なくッても、神月は知らないことでも、蝶吉は何となく、その写真を見ることさえ、我身で儘ならぬようで儚いので、あえて、今は仇なれと、偲ぶ思の増すのが辛さに、俤を見まいとするのでない、身に過失があって、縁切ったと言われた人の、たといその姿でも、見てはならないようにされたごとく感じている。
抽斗の縁に手を掛けて、猶予いながら、伸上るようにして恐いもののように差覗こうとして目を塞いだ。がッくり支えるように抽斗を差し懸けて、ああこの写真から下げて来ちゃ旨しいものを食べたっけと、耐らなくなって、此方を向くと、背中でとんと閉ッた途端に、魂を抜去られたか、我にもあらず、両手で顔を隠して、俯向いて、そのまま泣いていた。
しばらくして、蘇生ったもののように、顔を上げる。
向の隅に、雛の屏風の、小さな二枚折の蔭から、友染の掻巻の裾が洩れて、灯に風も当たらず寂莫としてもの寂しく華美な死体が臥ているのは、蝶吉が冊く人形である。掻巻はいつも神月と添寝した五所車を染めた長襦袢を裁ったのに、紅絹の裏を附けて、藤色縮緬の裾廻、綿も新しいのをふッかりと入れて、天鵝絨の襟を掛けて、黄八丈の蒲団を二枚。畳を六ツに仕切ったほどの処へ、その屏風、その枕、小さく揃えて寝かした上の、天井には犬張子の、見事大きなのが四足をぶら下げて動きもせず、一体遣りッ放しのお侠で、自転車に乗りたがっても、人形などは持ってもみようと思わない質であったのが、児を堕したために神月との縁が切れて、因果を含められた時始めて罪を知って、言われたことを得心してから、縁なればこそ折角腹に宿ったものを、闇から闇へ遣った児に、やがて追い着いて手を引くまで、詑をする気でこうしている。あたかも活きたるものを愛するごとく、起きると着物を着更えさせる。抱いて風車を見せるやら、懐中へ入れて小さな乳を押付けるやら、枕を竝べて寝てみるやら、余所目にはまるで狂気。
「ああ、天窓が重い、胸が痛い、体中がふらふらする、もう寝ようや、」
蝶吉は枕を竝べて、着たまま横になって裾を伸ばして、爪先を包んだが、玉のような腕を人形の掻巻の上へ投げ掛けて、ぴったり寄って頬を差寄せ、
「坊や、ちょいと、どうしたの、お母ちゃんは可けなくッてよ、すっかりお花を引いて負けて来たわ。二晩ちっとも寝ないんだもの、天窓が割れるようなの、悪いわねえ、穴蔵ン中でお前、六人一座でさ、灯は点け通しだし、息が苦しくなると、そこらへ酢を打つのよ。私はもう死ぬようだ。お前のお父ちゃんに叱られてから、お花なんざ引くまいと思って、水も沸したんでなくッちゃ飲まないでいたけれども、お母ちゃんはお暇が出たんですもの、体を大事にしたって詰らなくなってよ。だから、最初ッから、お前さんに棄てられると、私はどうなるか知れないッて、始終いっていたのにさ、打遣ってしまってさ、そして軽忽なことをするなッて言ってくれたって私は知りません。天窓へぴんと来るような五円花でも引かなくッちゃあ、自分で生きてるのか何だか分らないもの。
だけどもねえ、身でも投げて死んじまうと、さも面当にしたようで、どんなに心配を懸けるか知れないし、愛想を尽かされると、死んでからも添われないと悪いから。何も私を厭なんじゃない、世間の義理だからって言うんだけれども、何だか自分勝手のようだわねえ。
どうせ早く死にたいんだから、何だって、構やしない。坊や、お前でも生きてるなら可いけれど、目ばッかりぱちぱちしていて、何にも言わないんだもの、張合も何にもありやしない。私も死んじまったら、死んだものと、死んだものとだから、お前も口を利くだろう。少しも分らないでした事だから、堪忍することはするッて、お父ちゃんもそうお言いだから、坊や、お前も酷いことをされて、鬼とも蛇とも思ってようけれど、堪忍して、母ちゃんと言って頂戴な。」
と摺着いたが、がッくり仰向き、薄い燈火に手を翳して見た。
「おやおや、痩せたわねえ。徹夜をして、湯にも何にも入らないから、黒くなったよ、段々痩せて消えれば可いな。」
と袖口を掴んで肩の辺まで、撫で下げると、上へ伸ばしていた着物は飜って、二の腕もあらわになった。柔肌に食い入るばかり、金金具で留めた天鵝絨の腕守、内証で神月の頭字一字、神というのが彫ってある。
蝶吉は清しい目をぱっちりと睜って、恍惚となったが、枕を上げると突然忘れたように食い付いた。腕守を噛んで、頭を振って、髪を揺ぶり、
「厭よ、私厭よ、別れるのは厭、厭! 厭だ、厭だ、別れるのは厭。」と、泣吃逆をして、身を顫わし、
「写真くらい見たって、可いじゃないかね、可けないかい、ええ、構うもんか。私はもう、」
むッくり起上ろうとすると、茫然犬張子が目に着いた。
「はッ、」という溜息で、またばったり枕に就いたが、舌打をして、
「寝ッちまえ!」
と縋り寄り、
「私も端の方へ入ってよ、坊や、さあ、お乳。」
といって、見得もなく、懐を掻開けて、ふッくり白いのを持ち添えて、と見ると、人形の顔はふッと消えて無かったのである。
「おや、おかしいねえ、」と吃驚して屹となったが、蝶吉は出がけに人形の顔を掻巻の襟で隠しておいたのに気が付いた。
「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、俤だったかしら。」
思わず悚然として、あたりを見たが、莞爾して、
「ちょいと、肖ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んで応がない。
「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、恐々掻巻を上げて見ると、牡丹のように裏が返った、敷蒲団との間には、紙一枚も無いのである。
蝶吉は我知らず、
「富ちゃん、」と声を立てて、真直に跳起きた。
「はてな、」机に凭りかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中瑞林寺の一間に寓する、学士神月梓である。
衣帯正しく端然として膝に手を支いて熟ともの思いに沈んだが、借ものの経机を傍に引着けてある上から、そのむかしなにがし殿の庭にあった梅の古木で刻んだという、渠が愛玩の香合を取って、一捻して、
「こんなこッちゃあ可かん。」と自から窘めるがごとく呟いて、洋燈を見て、再び机に向った時、室が広いので灯も届かず、薄暗い古襖の外に咳く声して、
「先生、御勉強じゃな、」といいながら静かに入ったのは、院の住職律師雲岳である。
学士の前に一揖して、
「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、暫時あれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の貴方の御声というものは、実に白蓮の花に露が転ぶというのか、こうその渓川の水へ月が、映ると申そうか、いかにも譬えようのない、清い、澄んだ、冴々した、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細い情ないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。
梓はト胸を突いた様子で、
「希代なことがあるんですよ、お上人、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞き惚れるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を一雫ずつ飲むようで、唾が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けて行くようで、月の雫で洗ったようです。それでいて爽かな可い心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たい衣の上から胸を圧えた、人にも逢わず引籠って、二月余、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、艶を増して、品好く痩ぎすな俤は、見るともの凄いほどである。
「胸騒ッていうんでしょう。」
「痛いのかと思うとそうでもなしに、むず痒い、頼ない、もので圧えつけると動気が跳る様で切なくッて可けません。熟としていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分で凄くなるように、仰有れば成程良い声というんでしょうか。」
「なかなか、幽冥に通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。」
「憑物でも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」と微かに笑を含んで、神月は可愧しげに上人が白き鬚ある棗のごとき面を見た。
「どうしても思い切れなかったんです、実は……。」
ここに梓が待人、辻占、畳算、夢の占などいう迷信の盛な人の中に生れもし育ちもし、且つ教えられもしたことを予め断っておかねばならぬ。
はじめ蝶吉と歌枕で逢曳の重なる時分、神月は玉司子爵の婿君であったから、一擲千金はその難しとせざる処、蝶吉が身を苦界から救うのはあえて困難な事ではなかった。
もっとも他と違い、神月は、己が既往の経歴に徴して、花街にあるものの、かえって、実があって、深切で、情を解して、殊に一種任侠の気を帯びていることを知ってはいたが、さすがに清い、美しい体のものだとは思わない。そのほとんど、掌にも、額にも、悪汗一ツ掻いたことのない、黒子も擦傷の痕もない、玉のごとき身を投じて、これが歌枕の一室に、蝶吉と衾を同じゅうする時は、さばかり愛憐の情は燃えながら、火中一条の冷竜あって身を守り、婀娜窈窕たる佳人にも梓の肌を汚さしめず、幾分の間隙を枕の間に置いたのであるが、一朝、蝶吉はふッと目を覚して、現の梓を揺起して、吃驚したようにあたりを見ながら、夢に、菖蒲の花を三本、莟なるを手に提げて、暗い処に立ってると、明くなって、太陽が射した。黄金のようなその光線を浴びると、見る見る三輪ともぱっと咲いた、なぜでしょう、といって、仇気なく聞かれた。梓はあたかも悪夢に襲われて、幻の苦患を嘗めていた、冷汗もまだ止らなかったくらいの処へ、この夢を話されて、面を赤うするまで心に恥じた、あわれ泥中のこの白き蓮に比して、我が心かえって汚れたりと、学士はしみじみ蝶吉の清い心を知った。
その時と、いま一度は、蝶吉がしかるべき軍人の一座の客に呼ばれたが、言うことが癪に障った上に、酔って懐の玉を探ろうとしたので、癇癪を起してその横顔を平手で撲ると、虎髯を逆にして張飛のように腹を立て、ひいひい泣入る横腹を蹴つけたばかりでは合点せず、その日の主人役が客に済ずとあって、死だもののようになってるのを引起し、二人両手を取って、小刀で前髪を切って、座敷をつッ立った。居合した朋輩も、女中も、駈上った若い者も、顫えるばかりで、取おさえ手もなかったといって、梓に顫着いて口惜がった時には、耐らずその場から車に乗せて、これをわが園へ移し植えようと思ったのである。
もとよりその時には限らない、女は迷惑を懸けようとはしないで、一生芸妓をしているから、変らず見棄てないでさえくれれば可いというのだけれども、いうがごとく、聞くがごとく、はたそれ見るがごとき気性の女、梓は心の動くごとに勤を落籍そうと思わぬことはなかったが、渠が感情の上に、先天的一種の迷信を持ってるというはここのこと。
一体、天神様の境内で、恩を謝す心を決して以来、その機会がなかった処、翌年一月、伊予紋で、大学出の人の新年会があった。一座の中に蝶吉が居た。また一座の中に、下宿の二階に住んで六畳の半ばを蔽う白熊の毛皮を敷いて、ぞろりと着流して坐りながら、下谷の地を操縦する、神機軍師朱武あって、疾より秘計を囲らし、兵を伏せて置いたれば、酒半ばにして哄と矢叫の声を立てて、突然梓の黒斜子に五ツ紋の羽織を奪って、これを蝶吉の肩に被せた。嬉しい! と手を通して出の三枚襲の上へ羽織ると斉しく引緊めて、裾を引いたまますッと出て座敷を消えると、色男梓君のために、健康を祝してビールの満を引くもの数をしらず。梓は丸腰の着流し、あたかもお館の法度を犯して裏庭から御台のお情で落ちて行くように、腕車で歌枕に送られたが、後を知らず、顔色も悪く未明に起きると、帯を取って、小取廻に尖を渡して、本式に畳んで置いた袴の腰板を取ってあてがい、着たまま枕頭に坐って介抱していた蝶吉が件の羽織を惜そうに脱いで被せた。人肌のぬくみも去らず、身に染みた移香をそのまま、梓は邸に帰って、ずッと通ると、居間の中には女交りにわやわや人声。明けて入るのを、小間使が、あれといって、手を突く間もなく、一人が背後からぴッたり閉めた。雨戸は半開のまま、朝がけの軍に狼狽えたような形。払を持つやら、箒やら、団扇を翳しているものやら、どこに透があって立ち込んだか、鶯がお居間の中に、あれあれという。鴨居から飛んで、到来ものを飾った雪の積ったような満開の梅の盆栽の枝に留ったのを、逃がすなと箒を突出すから、梓は引留めながら件の羽織を脱いで、はらりと投げたのが、中に鶯を包んで落ちた。
手を入れて労り取って、二十四の梓は嬉しそうに、縁側を伝って夫人竜子の寝室に入って、寝台の枕頭に押着けて、呼起して、黄鳥を手柄そうに見せると、冷やかに一目見たばかり。
(私はまだ起きる時間ではございません。)と背後も向かず自若として目を瞑った。その時も梓は顔の色を変えたのであるが、争うこともせず。
(失礼、)といってずッと出て、廊下に立ちながら籠を命じ、持って来る間を、手では、と懐に入れながら、見霽の湯島の空を眺めている内、いかなる名鳥か嚶々として、三度、梓の胸に鳴いたのである。
が、籠が来て懐から出そうとすると、羽ばたきもしないので、早や馴れたかと思うと、あわれ、翼をちぢめて目を落していたのである。蒔絵の鳥籠に、件の盆栽の梅を添えて、わざわざ葬らせに使を出した。以来心に懸って、蝶吉を落籍そうと思うたびに、さることはあらじと知りながら、幼い時からの感情で、羽織の同一のが兆をなして、恐らく、我が手に彼を救うてこれを掌中の玉とせんか、時を措かず砕けるのである。日もあらず煩いでもするのであろう、むしろ、生命が長くあるまい、と思う念に制せられて、その寿を欲するために、常に躊躇していたのであったが。
「……一旦縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、疚しいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、表向縁を切りかたがた、あの男は手切を取ると言われても構わない。芸妓を落籍せると隠さずにいって、金子を取って、それで、勿論二度とかかりあいはしない意じゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、可愧いんですが言います。実はそれを心楽みにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。
先刻私を尋ねて来た、品の可い老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めている取しまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、怪我にも仰有りはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。貴方が内を出てからは、鬱々として人にもお逢いなさらない。
医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性に罹って、三日も四日も、七日ばかり一目もお寝みなさらない事がある。悩みが一通じゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が跫音を立て、それがために目が覚めたといって腹を立って、小刀を投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。
この頃じゃ、まるで一室の外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。
承れば大分御謹慎で、すっかりお品行も治ったそうだって、そういうことでございました。
随分片意地な老女が、我を折っていましたから嘘じゃあありますまい。
成程それではあんな夫人でも私をそれまでに思ってくれるのが解りましたが、こうなった上のこと。
謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の引籠って身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。
ときっぱりいって帰しましたよ。」
「ふう、」と上人は頷いて、じっと考え、
「いや、段々お心が静まって来て、好い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、
「それでさっぱりとなされたかな。」
「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金の蔓があって、一式のことに落籍して素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底に温があったのを、断然、使を帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに棄身になった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう孤島に独り残されたようで心細い、胸騒のするのはそのために違いないんです、お可愧いね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。
「ははあ、いや、お若い中また余り悟り澄さないのも宜しかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、呵々と笑って、行きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」
梓はまた机に向ったが、木の角では、心の跳るのが押え切れず、胸騒がする、気が鬱ぐ、もう引入れられそうで耐えられなくなって、香の薫に染みた不断着をそのまま、かかる時、梓が行くのは必ず湯島。
「富ちゃん、ちょいと、富ちゃん、私の人形を知らなくッて、」
あたふた狼狽えたようなものの気勢、癇癪交りに呼んだのは蝶吉である。
「一件だ、」と、これを聞いてかねて心得たもののごとく、源次は傍に目配せした。
「来ましたね。」と低声でいって、訳もなく天窓を叩いて竦んだが、円輔は、えへん! 声繕をして二階に向い、
「お蝶さん、何ですか、人形。人形どころかい、そこどころじゃあない、大変なことがありますぜ、ちょいと大したこッた、豪いこッたよ。」
「何、」と切って棄てたような、つッけんどんなもの言いである。
「まあさ、ちょいとおいでなさいていこッた、こッたの性なら下まで来いだよ。」
「富ちゃん、富ちゃんてば。」
蝶吉は取合ずに、雛妓ばかり呼立てる。
「まあおいでなさいっていうのに、何ですぜ、ちょいと、大変なこった、お蝶さん、神月の旦那から、」
「ええ、」
「それ見ねえ、」と源次がちょいと突いて、にやりと笑うと、円輔は大乗地で、
「旦那から、もし小包郵便が来たんですぜ。」
「ええ。」
「神月さんからお届けものだ。」と源次も傍から口を添える。
「知りませんよ。」と邪険には言ったけれども、そのうち自ら和のある、音色を下で聞澄して、
「御存じの筈ですが、神月さんといやあお前さん、」
「可いよ。」
「宜しくばお止めになさいまし。」と大いに澄し、顔を見合せて黙りとなった。
「富ちゃん、」
「そら、また富ちゃんだ。」といって円輔は、敷居の処まで来て立っている雛妓を見て屹と目で知らせた。
「私は知らないの。」
しばらくして、声も優しく、
「いいえ、小包さあ、」
「本当だってば、何を疑るんだな。」と源次は大真面目でいる。
「嘘ばッかり、」といいながら、ちょいとためらった様子であったが、階子段がトンと鳴った。
下から仰山に遮って、
「ちょいとお待ちなさい、お蝶さん、請取がいりますぜ、いらっしゃるなら、どうぞ、御懐中物を御持参で、」
「宜しい、」と男らしく派手に爽にいった。これを機掛に、蝶吉は人形と添寝をして少し取乱したまま、しどけなく、乱調子に三階から下りて来て、突然、
「どこにさ、」と嬰児の強請るようにいいながら、人前を澄した顔。
「気が疾いな、どうも、師匠出してやりたまえ。」
「まずお受取を頂戴いたしたいような訳で。」
「すッかり負けて来たんですからたんとはなくッてよ。」
「豪い!」といいさま、小紋縮緬で裏が緞子、同く薄ッぺらな羽織を飜りと撥ねて、お納戸地の帯にぐいとさした扇子を抜いて、とんと置くと、ずっと寄って、紙幣を請取り、
「何にいたしましょうな。」
源次は取片附けて、
「まあ、師匠。」
「じゃあちょいと升どん。」
勝手から、
「御馳走様ですね。」
「さてはや、何でげすえ御到来物は。」と円輔は洋燈の方へ顔を突出し、源次は柱に天窓を着けて片陰で仰向いた、この両人、胴中を入違いに、長火鉢の前で形がX。
「どうもお相伴を難有うございますよ。」と向へ坐ったのは、遣手が老いたりという面構、目肉が落ちたのに美しく歯を染めている、胡麻塩天窓、これが秘薬の服方、煎法、堕胎した後始末、体の養生まで一切取計った、口の臭い、お倉という婆である。
蝶吉は、確に小包を請取ったので、かくとは思い懸けず、慎みながら、若いから、今も今で、かねていいつけられて窘んだ、花札を引いて、気の衰えるまで負けて帰ったので、済まなさも済まないし、嬉しさも嬉しければ、包んでも色に出る極の悪さ。震える手で明い処へ持出して、顔を見られまいと、傍目も触らず、血の上った耳朶を赧うして、可愛らしく畏って、右見左見、
「おやおや、大倭家内松山峰子様行と書いてあるねえ。」
「峰子様、よッ。」と懸声をするは円輔なり。
「可くッてよ、」と可愧しそうに、打返してまた裏を見た。
「神月より、……おや、平時の字と違ってやしなくッて?……何だか手が違ってるようだねえ。」
あえて疑うというではないが、まさかと思う心から人にも、確めてもらいたいので、わざと不審げに呟いた。
「わざッと手を替えてお書きなさいましたあね、そりゃ、お前さん。」と婆々は極めて鹿爪らしい。
「そうねえ、何だか包が大きいわねえ、何だしら。」
玉手箱という形で両手に据えながら目を瞑る。
「何でげしょう。」
「何だか、」
「そうさね。」
「一番あてッこで、丁と出たらまた頂戴は、どうでげすえ。」
源次は鷹揚に、
「下司張るな下司張るな。」
「どうせ詰らないものよ。」と蝶吉は笑いたそうにして押耐える。
円輔は例に因って、
「よッ!」
「沢山おひゃらかして下さいな。」と怒ったのでも何でもない、いそいそ膝の上へ抱下して斜にした。
蝶吉は簪を抜いて、そっと持って、
「邪険に封をしてさ。」といいいい、名工が苦心の眼で、瞶めて、簪の尖で、封じ目を切って解く。
上包はくるくると開いて、やまと新聞の一の面が颯と膝の上に広がった。中は、中は、手文庫ばかりの白木の箱。
「さあさあ御覧じろ、封が解るに従うて、お蝶さんの、あの顔が段々弛んで来る処を、」
「どういう訳だか、不思議なもんさね、」と源次郎は憎体な。
「私沢山だ。」
「何もお前さんそんなにつんとすることはないじゃありませんか、頬を膨らしてさ。」
「一生懸命でおいで遊ばす、さあ、耐らない。ほれ、」
「それ笑った。」
蝶吉は莞爾して、
「御免なさい、」というかと思うと、引攫うように小包を取って、裳を蹴返すと二階へ、ふい。
驚いたのは円輔である。ぐんにゃりとなって、
「豪い!」
「堪忍なさいな、私は見向いても下さらないんだと思って、自暴よ、お花札なんか引いてさ、堪忍して下さいな、可くッて。おまえ様の深切を無にしたようだけれど、だってしようがないんだもの。これからきっと大人しくしますから。いいつけた通にしていると思っていらっしゃるんだよ。悪かったわねえ。それでも開けても可くッて。嬉しいなあ、」と胸を抱しめて身を顫わした。この音信があったので、許されたもののように思われて、蝶吉は二階に上ると、まずその神月の写真を懐に抱いたのであった。
それでも箱の中が気に懸って、そわそわして手も震い、動悸の躍るのを忘れるばかり、写真で圧えて、一生懸命になって蓋を開けた。
箱の中には紙にも包まず裸の人形が入っている。
ふっと見て少し色を変えて、
「おやおや、おかしいねえ、あてッこすりに寄越したのかしら、私をこんなにしておいて、まだそんなことをする方じゃあない、」とこの時気が付いたのは、自分の人形のことである。
蝶吉は夢のような心持がして、気味悪そうに、灯の暗い、森として、片附いた美しい二階の座敷を眗したが、そうだ、小包が神月からというのに顛倒して忘れていた、先刻を思出すと、悚として、ばたりと箱を落して立ち、何を憚るともなく、浮足で、密と寄って、蒲団を上げて見ると何にもない。思切って、白い手を冷い小さな閨の中に差入れると、丹精をして着せておく、筒袖の着物に襦袢、縮緬の書生帯まで引くるめて、円げてあった。蝶吉は、呼吸を詰めて、唾を呑み、座に直って、引寄せて、熟と見て蒼くなった。涙をはらはらと落して、震い着いて、
「坊や、」とばかり、あわれな裸身を抱え上げようとして、その乳のあたりを手に取ると、首が抜けて、手足がばらばら。胴中の丸いものばかり蝶吉の手に残ったので、
「厭!」と声を上げざまに、蛇を掴んだと思って、どんと投げると、空を切って、姿見に映って落ちた。
「あれえ。」
下階では哄と笑う声、円輔は屹と見得をして、
「今のは確に、」
「叱!」と押えて源次はしてやったという顔色。
「雲井の印紙を引剥がして、張り付けて、筆で消印を押したお手際なんざあ、」
「どんなもんだい。」
「いや、御馳走様でございますよ。」
「口惜しい!」と泣く声が細く耳を貫いて響いたが。
下じめの端を両手できりきりと〆めながら、蹌踉いて二階を下りて来た、蝶吉の血相は変っている。
顔も蒼白く、目が逆釣り、口許も上に反ったように歯を噛んで、驚いて見る下地ッ子の小さな手を砕けよと掴んでぐッと引着けた。
「あれ、姐さん。」
「さあ、言っとくれ、言っとくれ、承知しなくッてよ、私の、私の人形をあんなにしたなあ誰だ。いいえ、知らないッたって不可いの、あんなにお前さんにも頼んでおくものを、……」と力を籠めておさえるようにいったが、ぶるぶる震える、額には筋が通った。
「手も足もばらばらよ、酷いッたら、酷いことよ。さあ、誰だか、いっておしまい、いえ、聞かしておくれ。蔭になり日向になり、しょっちゅう庇ってやる姐さんだ、お聞かせなね、ええ! 畜生言わないかい。」
「痛い、痛い、姐さん。」とべそを掻いてたのがわっと泣出した。
「ま、ま、お前さん何でございます、手荒なことを。」と婆は居合腰に伸上って、袂を取って分けようとするのを、身悶して振払い、振向いて屹と見て、
「お婆さん、お前にも私は怨があってよ、可い加減なことをいって誑してさ、お肚が痛むか擦ろうなんぞッて言っておくれだから、深切な人だと思ったわ、悔しいじゃあないかね。畜生、放せ、何をするのよう。」
「おや、恐い、恐いこッた。へん、」と太々しい。血眼でもう武者振附そうだから、飽気に取られていた円輔が割って入った。
「さてはや、」
「ええ、手前達の手を触る体じゃあないんだい、御亭主が着いてるよ、野幇間め、」と平手で横顔をぴたりと当てる。
天窓を抱えて、
「豪い、」と吃驚。
「亭主持が凄じいや、向から切られた癖に、何だ、取揚婆のさかさまめ、」まさかにこうとは思い懸けず、いやがらせをやって、嬲って奢らせた上、笑い着けて、下駄の肚癒をして、それから、仲直りをして、ちょいと悪党な処を見せて、そこらで思い着かれようという際限のない大慾張、源次は源次だけの考で、既に今夜印半纏で、いなって反身の始末であったが、悪戯も、人形の手足を掙いでおいたのに極って、蝶吉の血相の容易でなく、尋常では納りそうもない光景を見て、居合すは恐と、立際の悪体口、
「ざまあ見やがれ、」とふてを吐いて、忘れずに莨入を取って差し、生白い足を大跨にふいと立って出ようとする。
「待ちゃあがれ。」
「ええ、」
「悪戯をしたなあ、源の野郎、手前だな。」
「いいえ、私だ。」とすっきりいって、ずッと入ったのは大和屋の姐さんで、蔦吉という中年増。腕も器量も凄いのが、唐桟ずくめのいなせな形で、暴風雨に屋根を取られたような人立のする我家の帳場を、一渡眗しながら、悠々として、長火鉢の向側、これがその座に敷いてある、黒天鵝絨の大座蒲団にきちんと坐って、「寒い。」と肩を一つ揺っておいて、
「皆静にしておくれ、お蝶さんお前もおすわり。」
「何ですッて、」と蝶吉は目を据えて立ったまま、主婦が方に向直って、
「悪戯をしたなあ、お前さん、」と屹という。
「あい、私さ、」
「何、」
「突立って、何だ。」
「坐ったらどうおしだい。」
「おやおや、この女は、目が上ってるよ、水でもぶッかけておやんなね。」
「まあ、姐さん、」とばかりで円輔は遣瀬がない。
「お蝶私は主人だよ。」
「は、私お前さんの抱妓じゃありません、誰が、そんな水臭い、分らない奴に抱えられるもんか。人が知らないと思ってさ、薬を飲ませてさ、そのせいで、私逢えないんじゃありませんか、命もいらない人よ。あんまり思遣がない、何が気に入らないで、人形を壊したのよ、よ。お前さんは悪いことを、ようく知ってて私に教えてさ、無理にあんなことをさせておいて、まだ足りなくッて。畜生! 義理知らず、お前さんの出は田舎じゃあないか、私はね、仲之町で育ったんです。」と蝶吉は急き上げて言うこともしどろである。
「黙れ、黙れ、黙れ、ええ黙らないかい。」といいさま持ってた長煙管で蝶吉の肩をぴしと打った。
「畜生!」
「生意気な、文句をいうなら借金を突いて懸るこッた、分が何だい、憚ンながら大金が懸ってますよ。そうさ、また仲之町でお育ち遊ばしたあなただから、分外なお金子を貸した訳さ。しッ越もない癖に、情人なんぞ拵えて、何だい、孕むなんて不景気な、そんな体は難産と極ってるから、血だらけになって死なないようにとお慈悲で堕してやったんだ。商売にも障ります、こっちゃ何も慰に置くお前じゃあない、お姫様も可い加減にしておくが可いや、狂気。朝から晩まで人形いじくりをし通されて耐るもんか、外の妓にも障るんです、五人六人と雑魚寝をする二階にあんなもの出放しにしておかれちゃあ邪魔にもなるね。面も生ッ白いし、芸も出来て、ちったあ売れるからと大目に見て、我ままをさしておきゃあ附け上って、何だと、畜生。もう一度いって見ろ、言わなきゃあ言わしてやろうか、」
と乗上って火鉢越に、またその頸のあたりを強く打ったのである。
「神月さん!」と蝶吉は半狂乱で悲鳴を上げる。
「まあさ、まあさ、姉さん。」と円輔は手持不沙汰なのを頻に揉む。
「一体口が過ぎるんですよ。」と婆はねッつり。
「いいえ、たまにゃこんな目に逢わせておかないとね、いい気になってつけ上りまさあね。神月さんがどうした、向うから突出された癖に何だい、器量の悪さッたらありやしない、呼べるなら呼んで見るが可いや。」
「ええ、呼べなくッて、」と泣々いいながら、立とうとするのを、婆がむずと掴まえた。
「お前さんは。」
蝶吉は弱々となって崩折れて、
「悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、皆で私を、私をどうするのよ。どうせ死ぬんだから、さあ、殺しておしまいなさいなね、さあ、さあ、」と小供が捏々をいうごとく、横坐になって、顔も体も水から上ったようにびッしょり汗になりながら、投遣りに突かかる。
「殺して耐るもんか、大枚のお金子だあね、なあお婆さん。おほほほほほ。」
「さようでございますとも、ははははは、」と笑いつけてあえて不関焉。
真蒼になり、髪も乱れて、泣吃逆をしいしい、
「殺さなくッたって可いのよ、可いのよ、厭なら止せ、私どうせ死ぬんだから。そして、あの皆神月さんに言付けてやるから覚えているが可い。私誰も構っちゃあくれないんだもの、世間にゃあ、鬼ばッかり。」とはや血が狂ったか舌も縺れて他愛がない。
「ええ、性根をつけないかい!」と、力なく己を捕えた敵の腕、婆の膝によりかかって肩で息を吐いている、胸の処を、また一つ煙管で撲った。
途端に糸切歯をきりりと鳴して、脱兎のごとく、火鉢の鉄瓶を突覆すと、凄じい音がして𤏋と立った灰神楽、灯も暗く、あッという間に、蝶吉の姿はひらひらとして見えなくなる。
「待て、」と縋って戸口で押えたのは源次であった。
物をも言わず、据った瞳で、じっと見るや、両手に持った駒下駄を襷がけに振ったので、片手は源次が横顔を打って退け、片手は磨硝子の戸を一枚微塵に砕いた、蝶吉は飜って出たと思うと、糸を曳くように颯と駈ける。
「こりゃ、待て。」
学士は胸騒がして、瑞林寺のその寓居に胸を圧えて坐するに忍びず、常にさる時は行いて時を消すのが例であった湯島から、谷中に帰る途の暗がりで、唐突に手を捕えたのは一名の年若き警官である。
梓は気も心も沈んでいたから少しも騒がず、もとより驚く仔細はない。静に顧みて、
「私、」
「どこへ行くか、あッ貴様は。」
言葉も荒く、ものに激しているようである。
「谷中の方へ行くんですが、」
「うむ、墓原へでも寝に行くか、嘘を吐け! き様掬摸じゃろう、」とほとんど狂人に斉しい譫言を言ったけれども、梓はよく人を見て、この年少巡査があえて我を誣いんとする念慮のあるのでもなく、また罪人を悪む情が烈しいのでもなく、単に職務に熱誠であるため、自ら抑うることの出来ない血気に逸るのであることを知った。
「貴方御心配には及びません。」と微笑むばかりに涼しく答える。清らかなその面を見ても、可懐しい香の薫の身に染みたのに聞いても、品位ある青年であることが分るであろうに、警官は余り職務に熱心であった。
「名を言え、番地はどこか。」
「…………」
「こら!」と驚くべき声で詈り喚く。
あえて憚る処はないけれども、名告るは惜しい名であった。神月はいい淀み、
「玉……月、」とばかり言葉が濁る、と聞免さず、
「玉……玉……玉何だ、」と畳みかけて尋問する。
「玉月、あ、秋太郎です。」といったが我にもあらず狼狽たのである。
「家は、」
「下宿して、」
「どこだ、何というか、うむ、疾く言わんか。」と急き立てられて、トむねをついて猶予って、悪いことをしたと思った。
横顔を一拳、拉げよと撲りつけて、威丈高になって、
「来い、」
蒲柳の公子は生れて以来、かばかりの恥辱を与えられたことをかつて覚えぬ。夜目にこそ見えね色を作して、
「君!」
「馬鹿いえ、君たあ何か、」といいざまに横撲に払く手を、しっかと取ったが声も震えて、
「名を言おう。」
「何い。」
「神月梓というんだよ。」といいながら手を向うへ押遣ったが、吻と息を吐いて俯向いた。学士はここで名乗った名が太くも汚れたように感じたのである。
警官はこれを聞くと、その偽名を語ったゆえんを詰ろうともせず、たちまち声を和げて、
「神月かね、」
「用があるんですか。」と、憤はまだ消えず冷かに答えた。
「さようか、何にしても交番まで、」といって、巡査はその仔細を語った。
ちょうど今しがた、根津の交番で、太く取乱した女が一人掴ったが、神月という人を尋ねるのだとばかりで、取留のないことを言っている。最初その女が路を歩いている時背後から一人跟けて来た男があった、ということを通行人が告げたので、女は身装の可い上に、容色が抜群であるから、掬摸か、何ぞ悪意あって尾行したものであろうという鑑定で、女を取調べる旁その悪漢の手当に巡行を命ぜられたものである。
語りかけて巡査は嘲けるがごとく梓を見て、
「ふむ、色狂気の亭主だな。」
しかり、==色狂気の亭主==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。
されば冥土を辿るような思いで、弥生町を過ぎて根津まで行くと、夜更で人立はなかったが、交番の中に、蝶吉は、腕を背へ捻られたまま、水を張った手桶にその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。
帯を解いて下じめと共に卓子の上に綰ねてあった。この時まで嗜んで持っていたか、懐中鏡やら鼈甲に透彫の金蒔絵の挿櫛やら、辺に散ばった懐紙の中には、見覚のある繿縷錦の紙入も、落交って狼藉極まる、蝶吉はあたかも手籠にされたもののごとく、三人懸りで身動きもさせない様子で、一人は柄杓を取って天窓から水を浴びせておった。黒髪も海松となり、胸も裾も取乱して乳も露になって震えている。
梓は歯切をして、衝と寄って、その行為を詰ったが、これに答えた警官の語は、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。
狂人力で手に合わず、取静めようとして引留めれば、主のある身体だ、指を指すなと、あばれ廻って、簪を抜いて突こうとする。突かれて手の甲に傷けられたものも一名ある、ようよう掴まえてからも危険だから、腕は捻じ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の手懸を知るために、懐中物も検べねばならず、或はいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ不可い。逆上て夥多しく鼻血を出すから、手当をして、今冷している処だといった。学士がここに来た時には、既にその道を行く女に尾行した男というのが明かに分っていた。
交番の窓に頬杖を支いて、様子を見ている一名紋着を着た目の鋭いのがすなわちそれで、渠は学士に怨のある書生の身の果で、今は府下のある小新聞に探訪員たる紳士であった。
「やあ、神月。」
これにも答えず、もとより警官には返すべき言もなく、学士は見る目も可憐さに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。
「神月だ。」
思わず骨も砕くるばかり、しっかと縋って離れぬのを、賺かして、帯をしめさせて、胸を掻合せてやって、落散った駒下駄を穿かせて、手を引いて交番を出ようとする時、
「そら忘物だ、」といって投出して呉れたのは、年紀二十の自分の写真、大学の制服で、折革鞄を脇挟んだのを受取って、角燈の灯の達かぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車の轆る音が起って、都の一端をりんりんとして馳せ行く響、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、合乗の泥除にその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔を仰けにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、死骸は大川で別々。
男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を下〆で鳩尾に巻きしめていた。
この死骸を葬る時、疾風一陣土砂を捲いて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき驟雨が注いだ。柩は白日暗中を通ったが、寺に着く頃いには、拭うがごとき蒼空となった。
墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。
弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一人、忍々に音信るる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、哀を請うもののごとく、その自分がここに詣ずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといって跪いたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の背後に粛然として頷いたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつ頭を掉った。星はその時煌いたであろう。いかに、紫か、緑か、燦然として。
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店
1940(昭和15)年3月30日
初出:「湯島詣」春陽堂
1899(明治32)年11月23日
※「鮓」と「鮨」、「飜」と「翻」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2018年10月24日作成
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