印度更紗
泉鏡花
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一
「鸚鵡さん、しばらくね……」
と真紅へ、ほんのりと霞をかけて、新しい火の𤏋と移る、棟瓦が夕舂日を噛んだ状なる瓦斯暖炉の前へ、長椅子を斜に、ト裳を床。上草履の爪前細く嬝娜に腰を掛けた、年若き夫人が、博多の伊達巻した平常着に、お召の紺の雨絣の羽織ばかり、繕はず、等閑に引被けた、其の姿は、敷詰めた絨氈の浮出でた綾もなく、袖を投げた椅子の手の、緑の深さにも押沈められて、消えもやせむと淡かつた。けれども、美しさは、夜の雲に暗く梢を蔽はれながら、もみぢの枝の裏透くばかり、友染の紅ちら〳〵と、櫛巻の黒髪の濡色の露も滴る、天井高き山の端に、電燈の影白うして、揺めく如き暖炉の焔は、世に隠れたる山姫の錦を照らす松明かと冴ゆ。
博士が旅行をした後に、交際ぎらひで、籠勝ちな、此の夫人が留守した家は、まだ宵の間も、実際蔦の中に所在の知るゝ山家の如き、窓明。
広い住居の近所も遠し。
久しぶりで、恁うして火を置かせたまゝ、気に入りの小間使さへ遠ざけて、ハタと扉を閉した音が、谺するまで響いたのであつた。
夫人は、さて唯一人、壁に寄せた塗棚に据置いた、籠の中なる、雪衣の鸚鵡と、差向ひに居るのである。
「御機嫌よう、ほゝゝ、」
と莟を含んだ趣して、鸚鵡の雪に照添ふ唇……
籠は上に、棚の丈稍高ければ、打仰ぐやうにした、眉の優しさ。鬢の毛はひた〳〵と、羽織の襟に着きながら、肩も頸も細かつた。
「まあ、挨拶もしないで、……黙然さん。お澄ましですこと。……あゝ、此の間、鳩にばツかり構つて居たから、お前さん、一寸お冠が曲りましたね。」
此の五日六日、心持煩はしければとて、客にも逢はず、二階の一室に籠りツ切、で、寝起の隙には、裏庭の松の梢高き、城のもの見のやうな窓から、雲と水色の空とを観ながら、徒然にさしまねいて、蒼空を舞ふ遠方の伽藍の鳩を呼んだ。──真白なのは、掌へ、紫なるは、かへして、指環の紅玉の輝く甲へ、朱鷺色と黄の脚して、軽く来て留るまでに馴れたのであつた。
「それ〳〵、お冠の通り、嘴が曲つて来ました。目をくる〳〵……でも、矢張り可愛いねえ。」
と艶麗に打傾き、
「其の替り、今ね、寝ながら本を読んで居て、面白い事があつたから、お話をして上げようと思つて、故々遊びに来たんぢやないか。途中が寒かつたよ。」
と、犇と合はせた、両袖堅く緊つたが、溢るゝ蹴出し柔かに、褄が一靡き落着いて、胸を反らして、顔を引き、
「否、まだ出して上げません。……お話を聞かなくツちや……でないと袖を啣へたり、乗つたり、悪戯をして邪魔なんですもの。
お聞きなさいよ。
可いかい、お聞きなさいよ。
まあ、ねえ。
座敷は──こんな貸家建ぢやありません。壁も、床も、皆彩色した石を敷いた、明放した二階の大広間、客室なんです。
外面の、印度洋に向いた方の、大理石の廻り縁には、軒から掛けて、床へ敷く……水晶の簾に、星の数々鏤めたやうな、ぎやまんの燈籠が、十五、晃々点いて並んで居ます。草花の絵の蝋燭が、月の桂の透くやうに。」
と襟を圧へた、指の先。
二
引合はせ、又袖を当て、
「丁ど、まだ灯を入れたばかりの暮方でね、……其の高楼から瞰下ろされる港口の町通には、焼酎売だの、雑貨屋だの、油売だの、肉屋だのが、皆黒人に荷車を曳かせて、……商人は、各自に、ちやるめらを吹く、さゝらを摺る、鈴を鳴らしたり、小太鼓を打つたり、宛然お神楽のやうなんですがね、家が大いから、遠くに聞えて、夜中の、あの魔もののお囃子見たやうよ、……そして車に着いた商人の、一人々々、穂長の槍を支いたり、担いだりして行く形が、ぞろ〳〵影のやうに黒いのに、椰子の樹の茂つた上へ、どんよりと黄色に出た、月の明で、白刃ばかりが、閃々、と稲妻のやうに行交はす。
其の向うは、鰐の泳ぐ、可恐い大河よ。……水上は幾千里だか分らない、天竺のね、流沙河の末だとさ、河幅が三里の上、深さは何百尋か分りません。
船のある事……帆柱に巻着いた赤い雲は、夕日の余波で、鰐の口へ血の晩御飯を注込むんだわね。
時は十二月なんだけれど、五月のお節句の、此は鯉、其は金銀の糸の翼、輝く虹を手鞠にして投げたやうに、空を舞つて居た孔雀も、最う庭へ帰つて居るの……燻占めはせぬけれど、棚に飼つた麝香猫の強い薫が芬とする……
同やうに吹通しの、裏は、川筋を一つ向うに、夜中は尾長猿が、キツキと鳴き、カラ〳〵カラと安達ヶ原の鳴子のやうな、黄金蛇の声がする。椰子、檳榔子の生え茂つた山に添つて、城のやうに築上げた、煉瓦造がづらりと並んで、矢間を切つた黒い窓から、弩の口がづん、と出て、幾つも幾つも仰向けに、星を呑まうとして居るのよ……
和蘭人の館なんです。
其の一の、和蘭館の貴公子と、其の父親の二人が客で。卓子の青い鉢、青い皿を囲んで向合つた、唐人の夫婦が二人。別に、肩には更紗を投掛け、腰に長剣を捲いた、目の鋭い、裸の筋骨の引緊つた、威風の凜々とした男は、島の王様のやうなものなの……
周囲に、可いほど間を置いて、黒人の召使が三人で、謹んで給仕に附いて居る所。」
と俯目に、睫毛濃く、黒棚の一ツの仕劃を見た。袖口白く手を伸べて、
「あゝ、一人此処に居たよ。」
と言ふ。天窓の大きな、頤のしやくれた、如法玩弄の焼ものの、ペロリと舌で、西瓜喰ふ黒人の人形が、ト赤い目で、額で睨んで、灰色の下唇を反らして突立つ。
「……余り謹んでは居ないわね……一寸、お話の中へ出ておいで。」
と手を掛けると、ぶるりとした、貧乏動ぎと云ふ胴揺りで、ふてくされにぐら〳〵と拗身に震ふ……はつと思ふと、左の足が股のつけもとから、ぽきりと折れて、ポンと尻持を支いた体に、踵の黒いのを真向きに見せて、一本ストンと投出した、……恰も可、他の人形など一所に並んだ、中に交つて、其処に、木彫にうまごやしを萌黄で描いた、舶来ものの靴が片隻。
で、肩を持たれたまゝ、右の跛の黒どのは、夫人の白魚の細い指に、ぶらりと掛つて、一ツ、ト前のめりに泳いだつけ、臀を揺つた珍な形で、けろりとしたもの、西瓜をがぶり。
熟と視て、
「まあ……」
離すと、可いことに、あたり近所の、我朝の姉様を仰向に抱込んで、引くりかへりさうで危いから、不気味らしくも手からは落さず……
「島か、光か、払を掛けて──お待ちよ、否、然う〳〵……矢張これは、此の話の中で、鰐に片足食切られたと云ふ土人か。人殺しをして、山へ遁げて、大木の梢へ攀ぢて、枝から枝へ、千仭の谷を伝はる処を、捕吏の役人に鉄砲で射られた人だよ。
ねえ鸚鵡さん。」
と、足を継いで、籠の傍へ立掛けた。
鸚鵡の目こそ輝いた。
三
「あんな顔をして、」
と夫人は声を沈めたが、打仰ぐやうに籠を覗いた。
「お前さん、お知己ぢやありませんか。尤も御先祖の頃だらうけれど──其の黒人も……和蘭陀人も。」
で、木彫の、小さな、護謨細工のやうに柔かに襞襀の入つた、靴をも取つて籠の前に差置いて、
「此のね、可愛らしいのが、其の時の、和蘭陀館の貴公子ですよ。御覧、──お待ちなさいよ。恁うして並べたら、何だか、もの足りないから。」
フト夫人は椅子を立つたが、前に挟んだ伊達巻の端をキウと緊めた。絨氈を運ぶ上靴は、雪に南天の実の赤きを行く……
書棚を覗いて奥を見て、抽出す論語の第一巻──邸は、置場所のある所とさへ言へば、廊下の通口も二階の上下も、ぎつしりと東西の書もつの揃つた、硝子戸に突当つて其から曲る、……本箱の五ツ七ツが家の五丁目七丁目で、縦横に通ずるので。……こゝの此の書棚の上には、花は丁ど挿してなかつた、──手附の大形の花籠と並べて、白木の桐の、軸ものの箱が三ツばかり。其の真中の蓋の上に……
恁う仰々しく言出すと、仇の髑髏か、毒薬の瓶か、と驚かれよう、真個の事を言ひませう、さしたる儀でない、紫の切を掛けたなりで、一尺三寸、一口の白鞘ものの刀がある。
と黒目勝な、意味の深い、活々とした瞳に映ると、何思ひけむ、紫ぐるみ、本に添へて、すらすらと持つて椅子に帰つた。
其だけで、身の悩ましき人は吻と息する。
「さあ、此の本が、唐土の人……揃つたわね、主人も、客も。
而して鰐の晩飯時分、孔雀のやうな玉の燈籠の裡で、御馳走を会食して居る……
一寸、其の高楼を何処だと思ひます……印度の中のね、蕃蛇剌馬……船着の貿易所、──お前さんが御存じだよ、私よりか、」
と打微笑み、
「主人は、支那の福州の大商賈で、客は、其も、和蘭陀の富豪父子と、此の島の酋長なんですがね、こゝでね、皆がね、たゞ一ツ、其だけに就いて繰返して話して居たのは、──此のね、酋長の手から買取つて、和蘭陀の、其の貴公子が、此の家へ贈りものにした──然うね、お前さんの、あの、御先祖と云ふと年寄染みます、其の時分は少いのよ。出が王様の城だから、姫君の鸚鵡が一羽。
全身緋色なんだつて。……
此が、哥太寛と云ふ、此家の主人たち夫婦の秘蔵娘で、今年十八に成る、哥鬱賢と云うてね、島第一の美しい人のものに成つたの。和蘭陀の公子は本望でせう……実は其が望みだつたらしいから──
鸚鵡は多年馴らしてあつて、土地の言語は固よりだし、瓜哇、勃泥亜の訛から、馬尼剌、錫蘭、沢山は未だなかつた、英吉利の語も使つて、其は……怜悧な娘をはじめ、誰にも、よく解るのに、一ツ人の聞馴れない、不思議な言語があつたんです。
以前の持主、二度目のはお取次、一人も仕込んだ覚えはないから、其の人たちは無論の事、港へ出入る、国々島々のものに尋ねても、まるつきし通じない、希有な文句を歌ふんですがね、検べて見ると、其が何なの、此の内へ来てから、はじまつたと分つたんです。
何かの折の御馳走に、哥太寛が、──今夜だわね──其の人たちを高楼に招いて、話の折に、又其の事を言出して、鸚鵡の口真似もしたけれども、分らない文句は、鳥の声とばツかし聞えて、傍で聞く黒人たちも、妙な顔色で居る所……ね……
其処へですよ、奥深く居て顔は見せない、娘の哥鬱賢から、妼が一人使者で出ました……」
四
「差出がましうござんすが、お座興にもと存じて、お客様の前ながら、申上げます、とお嬢様、御口上。──内に、日本と云ふ、草毟の若い人が居りませう……ふと思ひ着きました。あのものをお召し遊ばし、鸚鵡の謎をお問合はせなさいましては如何でせうか、と其の妼が陳べたんです。
鸚鵡は、尤も、お嬢さんが片時も傍を離さないから、席へ出ては居なかつたの。
でね、此を聞くと、人の好い、気の優しい、哥太寛の御新姐が、おゝ、と云つて、袖を開く……主人もはた、と手を拍つて、」
とて、夫人は椅子なる袖に寄せた、白鞘を軽く圧へながら、
「先刻より御覧に入れた、此なる剣、と哥太寛の云つたのが、──卓子の上に置いた、蝋塗、鮫鞘巻、縁頭、目貫も揃つて、金銀造りの脇差なんです──此の日本の剣と一所に、泯汰脳の土蛮が船に積んで、売りに参つた日本人を、三年前に買取つて、現に下僕として使ひまする。が、傍へも寄せぬ下働の漢なれば、剣は此処にありながら、其の事とも存ぜなんだ。……成程、呼べ、と給仕を遣つて、鸚鵡を此へ、と急いで嬢に、で、妼を立たせたのよ。
たゞ玉の緒のしるしばかり、髪は糸で結んでも、胡沙吹く風は肩に乱れた、身は痩せ、顔は窶れけれども、目鼻立ちの凜として、口許の緊つたのは、服装は何うでも日本の若草。黒人の給仕に導かれて、燈籠の影へ顕れたつけね──主人の用に商売ものを運ぶ節は、盗賊の用心に屹と持つ……穂長の槍をねえ、こんな場所へは出つけないから、突立てたまゝで居るんぢやありませんか。
和蘭陀のは騒がなかつたが、蕃蛇剌馬の酋長は、帯を手繰つて、長剣の柄へ手を掛けました。……此のお夥間です……人の売買をする連中は……まあね、槍は給仕が、此も慌てて受取つたつて。
静かに進んで礼をする時、牡丹に八ツ橋を架けたやうに、花の中を廻り繞つて、奥へ続いた高楼の廊下づたひに、黒女の妼が前後に三人属いて、浅緑の衣に同じ裳をした……面は、雪の香が沈む……銀の櫛照々と、両方の鬢に十二枚の黄金の簪、玉の瓔珞はら〳〵と、お嬢さん。耳鉗、腕釧も細い姿に、抜出るらしく鏘々として……あの、さら〳〵と歩行く。
母親が曲彔を立つて、花の中で迎へた処で、哥鬱賢は立停まつて、而して……桃の花の重つて、影も染まる緋色の鸚鵡は、お嬢さんの肩から翼、飜然と母親の手に留まる。其を持つて、卓子に帰つて来る間に、お嬢さんの姿は、妼の三ツの黒い中に隠れたんです。
鸚鵡は誰にも馴染だわね。
卓子の其処へ、花片の翼を両方、燃立つやうに。」
と云ふ。声さへ、其の色。暖炉の瓦斯は颯々と霜夜に冴えて、一層殷紅に、且つ鮮麗なるものであつた。
「影を映した時でした……其の間に早や用の趣を言ひ聞かされた、髪の長い、日本の若い人の、熟と見るのと、瞳を合せたやうだつたつて……
若い人の、窶れ顔に、血の色が颯と上つて、──国々島々、方々が、いづれもお分りのないとある、唯一句、不思議な、短かい、鸚鵡の声と申すのを、私が先へ申して見ませう……もしや?……
──港で待つよ──
と、恁う申すのではござりませぬか、と言ひも未だ果てなかつたに、島の毒蛇の呼吸を消して、椰子の峰、鰐の流、蕃蛇剌馬の黄色な月も晴れ渡る、世にも朗かな涼しい声して、
──港で待つよ──
と、羽を靡かして、其の緋鸚鵡が、高らかに歌つたんです。
釵の揺ぐ気勢は、彼方に、お嬢さんの方にして……卓子の其の周囲は、却つて寂然となりました。
たゞ、和蘭陀の貴公子の、先刻から娘に通はす碧を湛へた目の美しさ。
はじめて鸚鵡に見返して、此の言葉よ、此の言葉よ!日本、と真前に云ひましたとさ。」
五
「真個、其の言に違はないもんですから、主人も、客も、座を正して、其のいはれを聞かうと云つたの。
──港で待つよ──
深夜に、可恐い黄金蛇の、カラ〳〵と這ふ時は、土蛮でさへ、誰も皆耳を塞ぐ……其の時には何うか知らない……そんな果敢い、一生奴隷に買はれた身だのに、一度も泣いた事を見ないと云ふ、日本の其の少い人は、今其の鸚鵡の一言を聞くか聞かないに、槍をそばめた手も恥かしい、ばつたり床に、俯向けに倒れて潸々と泣くんです。
お嬢さんは、伸上るやうに見えたの。
涙を払つて──唯今の鸚鵡の声は、私が日本の地を吹流されて、恁うした身に成ります、其の船出の夜中に、歴然と聞きました……十二一重に緋の袴を召させられた、百人一首と云ふ歌の本においで遊ばす、貴方方にはお解りあるまい、尊い姫君の絵姿に、面影の肖させられた御方から、お声がかりがありました、其の言葉に違ひありませぬ。いま赫耀とした鳥の翼を見ますると、射らるゝやうに其の緋の袴が目に見えたのでこさります。──と此から話したの──其の時のは、船の女神さまのお姿だつたんです。
若い人は筑前の出生、博多の孫一と云ふ水主でね、十九の年、……七年前、福岡藩の米を積んだ、千六百石の大船に、乗組の人数、船頭とも二十人、宝暦午の年十月六日に、伊勢丸と云ふ其の新造の乗初です。先づは滞りなく大阪へ──それから豊前へ廻つて、中津の米を江戸へ積んで、江戸から奥州へ渡つて、又青森から津軽藩の米を託つて、一度品川まで戻つた処、更めて津軽の材木を積むために、奥州へ下つたんです──其の内、年号は明和と成る……元年申の七月八日、材木を積済まして、立火の小泊から帆を開いて、順風に沖へ走り出した時、一人、櫓から倒に落ちて死んだのがあつたんです、此があやかしの憑いたはじめなのよ。
南部の才浦と云ふ処で、七日ばかり風待をして居た内に、長八と云ふ若い男が、船宿小宿の娘と馴染んで、明日は出帆、と云ふ前の晩、手に手を取つて、行方も知れず……一寸……駈落をして了つたんだわ!」
ふと蓮葉に、ものを言つて、夫人はすつと立つて、対丈に、黒人の西瓜を避けつゝ、鸚鵡の籠をコト〳〵と音信れた。
「何う?多分其の我まゝな駈落ものの、……私は子孫だ、と思ふんだがね。……御覧の通りだからね、」
と、霜の冷い色して、
「でも、駈落ちをしたお庇で、無事に生命を助かつたんです。思つた同士は、道行きに限るのねえ。」
と力なささうに、疲れたらしく、立姿のなり、黒棚に、柔かな袖を掛けたのである。
「あとの大勢つたら、其のあくる日から、火の雨、火の風、火の浪に吹放されて、西へ──西へ──毎日々々、百日と六日の間、鳥の影一つ見えない大灘を漂うて、お米を二升に水一斗の薄粥で、二十人の一日の生命を繋いだのも、はじめの内。くまびきさへ釣れないもの、長い間に漁したのは、二尋ばかりの鱶が一疋。さ、其を食べた所為でせう、お腹の皮が蒼白く、鱶のやうにだぶだぶして、手足は海松の枝の枯れたやうになつて、漸つと見着けたのが鬼ヶ島、──魔界だわね。
然うして地を見てからも、島の周囲に、底から生えて、幹ばかりも五丈、八丈、すく〳〵と水から出た、名も知れない樹が邪魔に成つて、船を着ける事が出来ないで、海の中の森の間を、潮あかりに、月も日もなく、夜昼七日流れたつて言ふんですもの……
其の時分、大きな海鼠の二尺許りなのを取つて食べて、毒に当つて、死なないまでに、こはれごはれの船の中で、七顛八倒の苦痛をしたつて言ふよ。……まあ、どんな、心持だつたらうね。渇くのは尚ほ辛くつて、雨のない日の続く時は帆布を拡げて、夜露を受けて、皆が口をつけて吸つたんだつて──大概唇は破れて血が出て、──助かつた此の話の孫一は、余り激しく吸つたため、前歯二つ反つて居たとさ。……
お聞き、島へ着くと、元船を乗棄てて、魔国とこゝを覚悟して、死装束に、髪を撫着け、衣類を着換へ、羽織を着て、紐を結んで、てん〴〵が一腰づゝ嗜みの脇差をさして上陸つたけれど、飢渇ゑた上、毒に当つて、足腰も立たないものを何うしませう?……」
六
「三百人ばかり、山手から黒煙を揚げて、羽蟻のやうに渦巻いて来た、黒人の槍の石突で、浜に倒れて、呻吟き悩む一人々々が、胴、腹、腰、背、コツ〳〵と突かれて、生死を験されながら、抵抗も成らず裸にされて、懐中ものまで剥取られた上、親船、端舟も、斧で、ばら〳〵に摧かれて、帆綱、帆柱、離れた釘は、可忌い禁厭、可恐い呪詛の用に、皆奪られて了つたんです。……
あとは残らず牛馬扱ひ。それ、草を毟れ、馬鈴薯を掘れ、貝を突け、で、焦げつくやうな炎天、夜は毒蛇の霧、毒虫の靄の中を、鞭打ち鞭打ち、こき使はれて、三月、半歳、一年と云ふ中には、大方死んで、あと二三人だけ残つたのが一人々々、牛小屋から掴み出されて、果しも知らない海の上を、二十日目に島一つ、五十日目に島一つ、離れ〴〵に方々へ売られて奴隷に成りました。
孫一も其の一人だつたの……此の人はね、乳も涙も漲り落ちる黒女の俘囚と一所に、島々を目見得に廻つて、其の間には、日本、日本で、見世ものの小屋に置かれた事もあつた。一度何処か方角も知れない島へ、船が水汲に寄つた時、浜つゞきの椰子の樹の奥に、恁うね、透かすと、一人、コトン〳〵と、寂しく粟を搗いて居た亡者があつてね、其が夥間の一人だつたのが分つたから、声を掛けると、黒人が突倒して、船は其のまゝ朱色の海へ、ぶく〳〵と出たんだとさ……可哀相ねえ。
まだ可哀なのはね、一所に連廻はられた黒女なのよ。又何とか云ふ可恐い島でね、人が死ぬ、と家属のものが、其の首は大事に蔵つて、他人の首を活きながら切つて、死人の首へ継合はせて、其を埋めると云ふ習慣があつて、工面のいゝのは、平常から首代の人間を放飼に飼つて置く。日本ぢや身がはりの首と云ふ武士道とかがあつたけれど、其の島ぢや遁げると不可いからつて、足を縛つて、首から掛けて、股の間へ鉄の分銅を釣るんだつて……其処へ、あの、黒い、乳の膨れた女は買はれたんだよ。
孫一は、天の助けか、其の土地では売れなくつて──とう〳〵蕃蛇剌馬で方が附いた──
と云ふ訳なの……
話は此なんだよ。」
夫人は小さな吐息した。
「其のね、ね。可悲い、可恐い、滅亡の運命が、人たちの身に、暴風雨と成つて、天地とともに崩掛らうとする前の夜、……風はよし、凪はよし……船出の祝ひに酒盛したあと、船中残らず、ぐつすりと寝込んで居た、仙台の小淵の港で──霜の月に独り覚めた、年十九の孫一の目に──思ひも掛けない、艫の間の神龕の前に、凍つた竜宮の几帳と思ふ、白気が一筋月に透いて、向うへ大波が畝るのが、累つて凄く映る。其の蔭に、端麗さも端麗に、神々しさも神々しい、緋の袴の姫が、お一方、孫一を一目見なすつて、
──港で待つよ──
と其の一言。すらりと背後向かるゝ黒髪のたけ、帆柱より長く靡くと思ふと、袴の裳が波を摺つて、月の前を、さら〳〵と、かけ波の沫の玉を散らしながら、衝と港口へ飛んで消えるのを見ました……あつと思ふと夢は覚めたが、月明りに霜の薄煙りがあるばかり、船の中に、尊い香の薫が残つたと。……
此の船中に話したがね、船頭はじめ──白痴め、婦に誘はれて、駈落の真似がしたいのか──で、船は人ぐるみ、然うして奈落へ逆に落込んだんです。
まあ、何と言はれても、美しい人の言ふことに、従へば可かつたものをね。
七年幾月の其の日はじめて、世界を代へた天竺の蕃蛇剌馬の黄昏に、緋の色した鸚鵡の口から、同じ言を聞いたので、身を投臥して泣いた、と言ひます。
微妙き姫神、余りの事の霊威に打れて、一座皆跪いて、東の空を拝みました。
言ふにも及ばない事、奴隷の恥も、苦みも、孫一は、其の座で解けて、娘の哥鬱賢が贐した其の鸚鵡を肩に据ゑて。」
と籠を開ける、と飜然と来た、が、此は純白雪の如きが、嬉しさに、颯と揚羽の、羽裏の色は淡く黄に、嘴は珊瑚の薄紅。
「哥太寛も餞別しました、金銀づくりの脇差を、片手に、」と、肱を張つたが、撓々と成つて、紫の切も乱るゝまゝに、弛き博多の伊達巻へ。
肩を斜めに前へ落すと、袖の上へ、腕が辷つた、……月が投げたるダリヤの大輪、白々と、揺れながら戯れかゝる、羽交の下を、軽く手に受け、清しい目を、熟と合はせて、
「……あら嬉しや!三千日の夜あけ方、和蘭陀の黒船に、旭を載せた鸚鵡の緋の色。めでたく筑前へ帰つたんです──
お聞きよ此を! 今、現在、私のために、荒浪に漂つて、蕃蛇剌馬に辛苦すると同じやうな少い人があつたらね、──お前は何と云ふの!何と言ふの?
私は、其が聞きたいの、聞きたいの、聞きたいの、……たとへばだよ……お前さんの一言で、運命が極ると云つたら、」
と、息切れのする瞼が颯と、気を込めた手に力が入つて、鸚鵡の胸を圧したと思ふ、嘴を踠いて開けて、カツキと噛んだ小指の一節。
「あ、」と離すと、爪を袖口に縋りながら、胸毛を倒に仰向きかゝつた、鸚鵡の翼に、垂々と鮮血。振離すと、床まで落ちず、宙ではらりと、影を乱して、黒棚に、バツと乗る、と驚駭に衝と退つて、夫人がひたと遁構への扉に凭れた時であつた。
呀!西瓜は投げぬが、がつくり動いて、ベツカツコ、と目を剥く拍子に、前へのめらうとした黒人の其の土人形が、勢余つて、どたりと仰状。ト木彫のあの、和蘭陀靴は、スポンと裏を見せて引顛返る。……煽をくつて、論語は、ばら〳〵と暖炉に映つて、赫と朱を注ぎながら、頁を開く。
雪なす鸚鵡は、見る〳〵全身、美しい血に染つたが、目を眠るばかり恍惚と成つて、朗かに歌つたのである。
──港で待つよ──
時に立窘みつゝ、白鞘に思はず手を掛けて、以ての外かな、怪異なるものどもの挙動を屹と視た夫人が、忘れたやうに、柄をしなやかに袖に捲いて、するりと帯に落して、片手におくれ毛を払ひもあへず……頷いて……莞爾した。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「中央公論」
1912(大正元)年11月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。