霰ふる
泉鏡花
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若いのと、少し年の上なると……
この二人の婦人は、民也のためには宿世からの縁と見える。ふとした時、思いも懸けない処へ、夢のように姿を露わす──
ここで、夢のように、と云うものの、実際はそれが夢だった事もないではない。けれども、夢の方は、また……と思うだけで、取り留めもなく、すぐに陽炎の乱るる如く、記憶の裡から乱れて行く。
しかし目前、歴然とその二人を見たのは、何時になっても忘れぬ。峰を視めて、山の端に彳んだ時もあり、岸づたいに川船に乗って船頭もなしに流れて行くのを見たり、揃って、すっと抜けて、二人が床の間の柱から出て来た事もある。
民也は九ツ……十歳ばかりの時に、はじめて知って、三十を越すまでに、四度か五度は確に逢った。
これだと、随分中絶えして、久しいようではあるけれども、自分には、さまでたまさかのようには思えぬ。人は我が身体の一部分を、何年にも見ないで済ます場合が多いから……姿見に向わなければ、顔にも逢わないと同一かも知れぬ。
で、見なくっても、逢わないでも、忘れもせねば思出すまでもなく、何時も身に着いていると同様に、二個、二人の姿もまた、十年見なかろうが、逢わなかろうが、そんなに間を隔てたとは考えない。
が、つい近くは、近く、一昔前は矢張り前、道理に於て年を隔てない筈はないから、十から三十までとしても、その間は言わずとも二十年経つのに、最初逢った時から幾歳を経ても、婦人二人は何時も違わぬ、顔容に年を取らず、些とも変らず、同一である。
水になり、空になり、面影は宿っても、虹のように、すっと映って、忽ち消えて行く姿であるから、確と取留めた事はないが──何時でも二人連の──その一人は、年紀の頃、どんな場合にも二十四五の上へは出ない……一人は十八九で、この少い方は、ふっくりして、引緊った肉づきの可い、中背で、……年上の方は、すらりとして、細いほど痩せている。
その背の高いのは、極めて、品の可い艶やかな円髷で顕れる。少いのは時々に髪が違う、銀杏返しの時もあった、高島田の時もあった、三輪と云うのに結ってもいた。
そのかわり、衣服は年上の方が、紋着だったり、お召だったり、時にはしどけない伊達巻の寝着姿と変るのに、若いのは、屹と縞ものに定って、帯をきちんと〆めている。
二人とも色が白い。
が、少い方は、ほんのりして、もう一人のは沈んで見える。
その人柄、風采、姉妹ともつかず、主従でもなし、親しい中の友達とも見えず、従姉妹でもないらしい。
と思うばかりで、何故と云う次第は民也にも説明は出来ぬと云う。──何にしろ、遁れられない間と見えた。孰方か乳母の児で、乳姉妹。それとも嫂と弟嫁か、敵同士か、いずれ二重の幻影である。
時に、民也が、はじめてその姿を見たのは、揃って二階からすらすらと降りる所。
で、彼が九ツか十の年、その日は、小学校の友達と二人で見た。
霰の降った夜更の事──
山国の山を、町へ掛けて、戸外の夜の色は、部屋の裡からよく知れる。雲は暗かろう……水はもの凄く白かろう……空の所々に颯と薬研のようなひびが入って、霰はその中から、銀河の珠を砕くが如く迸る。
ハタと止めば、その空の破れた処へ、むらむらとまた一重冷い雲が累りかかって、薄墨色に縫合わせる、と風さえ、そよとのもの音も、蜜蝋を以て固く封じた如く、乾坤寂となる。……
建着の悪い戸、障子、雨戸も、カタリとも響かず。鼬が覘くような、鼠が匍匐ったような、切って填めた菱の実が、ト、べっかっこをして、ぺろりと黒い舌を吐くような、いや、念の入った、雑多な隙間、破れ穴が、寒さにきりきりと歯を噛んで、呼吸を詰めて、うむと堪えて凍着くが、古家の煤にむせると、時々遣切れなくなって、潜めた嚔、ハッと噴出しそうで不気味な真夜中。
板戸一つが直ぐ町の、店の八畳、古畳の真中に机を置いて対向いに、洋燈に額を突合わせた、友達と二人で、その国の地誌略と云う、学校の教科書を読んでいた。──その頃、風をなして行われた試験間際に徹夜の勉強、終夜と称えて、気の合った同志が夜あかしに演習をする、なまけものの節季仕事と云うのである。
一枚……二枚、と両方で、ペエジを遣つ、取つして、眠気ざましに声を出して読んでいたが、こう夜が更けて、可恐しく陰気に閉されると、低い声さえ、びりびりと氷を削るように唇へきしんで響いた。
常さんと云うお友達が、読み掛けたのを、フッと留めて、
「民さん。」
と呼ぶ、……本を読んでたとは、からりと調子が変って、引入れられそうに滅入って聞えた。
「……何、」
ト、一つ一つ、自分の睫が、紙の上へばらばらと溢れた、本の、片仮名まじりに落葉する、山だの、谷だのをそのままの字を、熟と相手に読ませて、傍目も触らず視ていたのが。
呼ばれて目を上げると、笠は破れて、紙を被せた、黄色に燻ったほやの上へ、眉の優しい額を見せた、頬のあたりが、ぽっと白く、朧夜に落ちた目かずらと云う顔色。
「寂しいねえ。」
「ああ……」
「何時だねえ。」
「先刻二時うったよ。眠くなったの?」
対手は忽ち元気づいた声を出して、
「何、眠いもんか……だけどもねえ、今時分になると寂しいねえ。」
「其処に皆寝ているもの……」
と云った──大きな戸棚、と云っても先祖代々、刻み着けて何時が代にも動かした事のない、……その横の襖一重の納戸の内には、民也の父と祖母とが寝ていた。
母は世を早うしたのである……
「常さんの許よりか寂しくはない。」
「どうして?」
「だって、君の内はお邸だから、広い座敷を二つも三つも通らないと、母さんや何か寝ている部屋へ行けないんだもの。この間、君の許で、徹夜をした時は、僕は、そりゃ、寂しかった……」
「でもね、僕ン許は二階がないから……」
「二階が寂しい?」
と民也は真黒な天井を。……
常さんの目も、斉しく仰いで、冷く光った。
「寂しいって、別に何でもないじゃないの。」
と云ったものの、両方で、机をずって、ごそごそと火鉢に噛着いて、ひったりと寄合わす。
炭は黒いが、今しがた継いだばかりで、尉にもならず、火気の立ちぎわ。それよりも、徹夜の温習に、何よりか書入れな夜半の茶漬で忘れられぬ、大福めいた餡餅を烘ったなごりの、餅網が、佗しく破蓮の形で畳に飛んだ。……御馳走は十二時と云うと早や済んで、──一つは二人ともそれがために勇気がないので。……
常さんは耳の白い頬を傾けて、民也の顔を覘くようにしながら、
「でも、誰も居ないんだもの……君の許の二階は、広いのに、がらんとしている。……」
「病気の時はね、お母さんが寝ていたんだよ。」
コツコツ、炭を火箸で突いて見たっけ、はっと止めて、目を一つ瞬いて、
「え、そして、亡くなった時、矢張、二階。」
「ううん……違う。」
とかぶりを掉って、
「其処のね、奥……」
「小父さんだの、寝ている許かい。……じゃ可いや。」と莞爾した。
「弱虫だなあ……」
「でも、小母さんは病気の時寝ていたかって、今は誰も居ないんじゃないか。」
と観世捩が挫げた体に、元気なく話は戻る……
「常さんの許だって、あの、広い座敷が、風はすうすう通って、それで人っ子は居ませんよ。」
「それでも階下ばかりだもの。──二階は天井の上だろう、空に近いんだからね、高い所には何が居るか知れません。……」
「階下だって……君の内でも、この間、僕が、あの空間を通った時、吃驚したものがあったじゃないか。」
「どんなものさ、」
「床の間に鎧が飾ってあって、便所へ行く時に晃々光った……わッて、そう云ったのを覚えていないかい。」
「臆病だね、……鎧は君、可恐いものが出たって、あれを着て向って行けるんだぜ、向って、」
と気勢って肩を突構え。
「こんな、寂しい時の、可恐いものにはね、鎧なんか着たって叶わないや……向って行きゃ、消っ了うんだもの……これから冬の中頃になると、軒の下へ近く来るってさ、あの雪女郎見たいなもんだから、」
「そうかなあ、……雪女郎って真個にあるんだってね。」
「勿論だっさ。」
「雨のびしょびしょ降る時には、油舐坊主だの、とうふ買小僧だのって……あるだろう。」
「ある……」
「可厭だなあ。こんな、霰の降る晩には何にも別にないだろうか。」
「町の中には何にもないとさ。それでも、人の行かない山寺だの、峰の堂だのの、額の絵がね、霰がぱらぱらと降る時、ぱちくり瞬きをするんだって……」
「嘘を吐く……」
とそれでも常さんは瞬きした。からりと廂を鳴らしたのは、樋竹を辷る、落たまりの霰らしい。
「うそなもんか、それは真暗な時……ちょうど今夜見たような時なんだね。それから……雲の底にお月様が真蒼に出ていて、そして、降る事があるだろう……そう云う時は、八田潟の鮒が皆首を出して打たれるって云うんです。」
「痛かろうなあ。」
「其処が化けるんだから、……皆、兜を着ているそうだよ。」
「じゃ、僕ン許の蓮池の緋鯉なんかどうするだろうね?」
其処には小船も浮べられる。が、穴のような真暗な場末の裏町を抜けて、大川に架けた、近道の、ぐらぐらと揺れる一銭橋と云うのを渡って、土塀ばかりで家の疎な、畠も池も所々、侍町を幾曲り、で、突当りの松の樹の中のその邸に行く、……常さんの家を思うにも、恰もこの時、二更の鐘の音、幽。
町なかの此処も同じ、一軒家の思がある。
民也は心もその池へ、目も遥々となって恍惚しながら、
「蒼い鎧を着るだろうと思う。」
「真赤な鰭へ。凄い月で、紫色に透通ろうね。」
「其処へ玉のような霰が飛ぶんだ……」
「そして、八田潟の鮒と戦をしたら、何方が勝つ?……」
「そうだね、」
と真顔に引込まれて、
「緋鯉は立派だから大将だろうが、鮒は雑兵でも数が多いよ……潟一杯なんだもの。」
「蛙は何方の味方をする。」
「君の池の?」
「ああ、」
「そりゃ同じ所に住んでるから、緋鯉に属くが当前だけれどもね、君が、よくお飯粒で、糸で釣上げちゃ投げるだろう。ブッと咽喉を膨らまして、ぐるりと目を円くして腹を立つもの……鮒の味方になろうも知れない。」
「あ、また降るよ……」
凄まじい霰の音、八方から乱打つや、大屋根の石もからからと転げそうで、雲の渦く影が入って、洋燈の笠が暗くなった。
「按摩の笛が聞えなくなってから、三度目だねえ。」
「矢が飛ぶ。」
「弾が走るんだね。」
「緋鯉と鮒とが戦うんだよ。」
「紫の池と、黒い潟で……」
「蔀を一寸開けてみようか、」
と魅せられた体で、ト立とうとした。
民也は急に慌しく、
「お止し?……」
「でも、何だか暗い中で、ひらひら真黒なのに交って、緋だか、紫だか、飛んでいそうで、面白いもの、」
「面白くはないよ……可恐いよ。」
「何故?」
「だって、緋だの、紫だの、暗い中に、霰に交って──それだと電がしているようだもの……その蔀をこんな時に開けると、そりゃ可恐いぜ。
さあ……これから海が荒れるぞ、と云う前触れに、廂よりか背の高い、大な海坊主が、海から出て来て、町の中を歩行いていてね……人が覘くと、蛇のように腰を曲げて、その窓から睨返して、よくも見たな、よくも見たな、と云うそうだから。」
「嘘だ! 嘘ばっかり。」
「真個だよ、霰だって、半分は、その海坊主が蹴上げて来る、波の潵が交ってるんだとさ。」
「へえ?」
と常さんは未だ腑に落ちないか、立掛けた膝を落さなかった……
霰は屋根を駈廻る。
民也は心に恐怖のある時、その蔀を開けさしたくなかった。
母がまだ存生の時だった。……一夏、日の暮方から凄じい雷雨があった……電光絶間なく、雨は車軸を流して、荒金の地の車は、轟きながら奈落の底に沈むと思う。──雨宿りに駈込んだ知合の男が一人と、内中、この店に居すくまった。十時を過ぎた頃、一呼吸吐かせて、もの音は静まったが、裾を捲いて、雷神を乗せながら、赤黒に黄を交えた雲が虚空へ、舞い舞い上って、昇る気勢に、雨が、さあと小止みになる。
その喜びを告さんため、神棚に燈火を点じようとして立った父が、そのまま色をかえて立窘んだ。
ひい、と泣いて雲に透る、……あわれに、悲しげな、何とも異様な声が、人々の耳をも胸をも突貫いて響いたのである。
笛を吹く……と皆思った。笛もある限り悲哀を籠めて、呼吸の続くだけ長く、かつ細く叫ぶらしい。
雷鳴に、殆ど聾いなんとした人々の耳に、驚破や、天地一つの声。
誰もその声の長さだけ、気を閉じて呼吸を詰めたが、引く呼吸はその声の一度止むまでは続かなかった。
皆戦いた。
ヒイと尾を微かに、その声が切れた、と思うと、雨がひたりと止んで、また二度めの声が聞えた。
「鳥か。」
「否。」
「何だろうの。」
祖母と、父と、その客と言を交わしたが、その言葉も、晃々と、震えて動いて、目を遮る電光は隙間を射た。
「近い。」
「直き其処だ。」
と云う。叫ぶ声は、確かに筋向いの二階家の、軒下のあたりと覚えた。
それが三声めになると、泣くような、怨むような、呻吟くような、苦み踠くかと思う意味が明かに籠って来て、新らしくまた耳を劈く……
「見よう、」
年少くて屈竟なその客は、身震いして、すっくと立って、内中で止めるのも肯かないで、タン、ド、ドン! とその、其処の蔀を開けた。──
「何、」
と此処まで話した時、常さんは堅くなって火鉢を掴んだ。
「その時の事を思出すもの、外に何が居ようも知れない時、その蔀を開けるのは。」
と民也は言う。
却説、大雷の後の稀有なる悲鳴を聞いた夜、客が蔀を開けようとした時の人々の顔は……年月を長く経ても眼前見るような、いずれも石を以て刻みなした如きものであった。
蔀を上げると、格子戸を上へ切った……それも鳴るか、簫の笛の如き形した窓のような隙間があって、衝と電光に照される。
と思うと、引緊めるような、柔かな母の両の手が強く民也の背に掛った。既に膝に乗って、噛り着いていた小児は、それなり、薄青い襟を分けて、真白な胸の中へ、頬も口も揉込むと、恍惚となって、もう一度、ひょいと母親の腹の内へ安置され終んぬで、トもんどりを打って手足を一つに縮めた処は、滝を分けて、すとんと別の国へ出た趣がある、……そして、透通る胸の、暖かな、鮮血の美しさ。真紅の花の咲満ちた、雲の白い花園に、朗らかな月の映るよ、とその浴衣の色を見たのであった。
が、その時までの可恐しさ。──
「常さん、今君が蔀を開けて、何かが覗いたって、僕は潜込む懐中がないんだもの……」
簫の窓から覗いた客は、何も見えなかった、と云いながら、真蒼になっていた。
その夜から、筋向うのその土蔵附の二階家に、一人気が違った婦があったのである。
寂寞と霰が止む。
民也は、ふと我に返ったようになって、
「去年、母さんがなくなったからね……」
火桶の面を背けると、机に降込んだ霞があった。
じゅうと火の中にも溶けた音。
「勉強しようね、僕は父さんがないんだよ。さあ、」
鮒が兜を着ると云う。……
「八田潟の処を読もう。」
と常さんは机の向うに居直った。
洋燈が、じいじいと鳴る。
その時であった。
二階の階子壇の一番上の一壇目……と思う処へ、欄間の柱を真黒に、くッきりと空にして、袖を欄干摺れに……その時は、濃いお納戸と、薄い茶と、左右に両方、褄前を揃えて裾を踏みくぐむようにして、円髷と島田の対丈に、面影白く、ふッと立った、両個の見も知らぬ婦人がある。
トその色も……薄いながら、判然と煤の中に、塵を払ってくっきりと鮮麗な姿が、二人が机に向った横手、畳数二畳ばかり隔てた処に、寒き夜なれば、ぴったり閉めた襖一枚……台所へ続くだだっ広い板敷との隔になる……出入口の扉があって、むしゃむしゃと巌の根に蘭を描いたが、年数算するに堪えず、で深山の色に燻ぼった、引手の傍に、嬰児の掌の形して、ふちのめくれた穴が開いた──その穴から、件の板敷を、向うの反古張の古壁へ突当って、ぎりりと曲って、直角に菎蒻色の干乾びた階子壇……十ばかり、遥かに穴の如くに高いその真上。
即ち襖の破目を透して、一つ突当って、折屈った上に、たとえば月の影に、一刷彩った如く見えたのである。
トンと云う。
と思うと、トントントンと軽い柔かな音に連れて、褄が揺れ揺れ、揃った裳が、柳の二枝靡くよう……すらすらと段を下りた。
肩を揃えて、雛の絵に見る……袖を左右から重ねた中に、どちらの手だろう、手燭か、台か、裸火の蝋燭を捧げていた。
蝋の火は白く燃えた。
胸のあたりに蒼味が射す。
頬のかかり白々と、中にも、円髷に結ったその細面の気高く品の可い女性の、縺れた鬢の露ばかり、面婁れした横顔を、瞬きもしない双の瞳に宿した途端に、スーと下りて、板の間で、もの優しく肩が動くと、その蝋の火が、件の絵襖の穴を覘く……その火が、洋燈の心の中へ、𤏋と入って、一つになったようだった。
やあ! 開けると思う。
「きゃッ、」
と叫んで、友達が、前へ、背後の納戸へ刎込んだ。
口も利けず……民也もその身体へ重なり合って、父の寝た枕頭へ突伏した。
ここの障子は、幼いものの夜更しを守って、寒いに一枚開けたまま、霰の中にも、父と祖母の情の夢は、紙一重の遮るさえなく、机のあたりに通ったのであった。
父は夢だ、と云って笑った、……祖母もともに起きて出で、火鉢の上には、再び芳しい香が満つる、餅網がかかったのである。
茶の煮えた時、真夜中にまた霰が来た。
後で、常さんと語合うと……二人の見たのは、しかもそれが、錦絵を板に合わせたように同一かったのである。
これが、民也の、ともすれば、フト出逢う、二人の姿の最初であった。
常さんの、三日ばかり学校を休んだのはさる事ながら、民也は、それが夢でなくとも、さまで可恐いとも可怪いとも思わぬ。
敢て思わぬ、と云うではないが、こうしたあやしみには、その時分馴れていた。
毎夜の如く、内井戸の釣瓶の、人手を借らず鳴ったのも聞く……
轆轤が軋んで、ギイと云うと、キリキリと二つばかり井戸縄の擦合う音して、少須して、トンと幽かに水に響く。
極ったように、そのあとを、ちょきちょきと細かに俎を刻む音。時雨の頃から尚お冴えて、ひとり寝の燈火を消した枕に通う。
続いて、台所を、ことことと云う跫音がして、板の間へ掛る。──この板の間へ、その時の二人の姿は来たのであるが──また……実際より、寝ていて思う板の間の広い事。
民也は心に、これを板の間ヶ原だ、と称えた。
伝え言う……孫右衛門と名づけた気の可い小父さんが、独酌の酔醒に、我がねたを首あげて見る寒さかな、と来山張の屏風越しに、魂消た首を出して覘いたと聞く。
台所の豪傑儕、座敷方の僭上、栄耀栄華に憤を発し、しゃ討て、緋縮緬小褄の前を奪取れとて、竈将軍が押取った柄杓の采配、火吹竹の貝を吹いて、鍋釜の鎧武者が、のんのんのんのんと押出したとある……板の間ヶ原や、古戦場。
襖一重は一騎打で、座敷方では切所を防いだ、其処の一段低いのも面白い。
トその気で、頬杖をつく民也に取っては、寝床から見るその板の間は、遥々としたものであった。
跫音は其処を通って、一寸止んで、やがて、トントンと壇を上る、と高い空で、すらりと響く襖の開く音。
「ああ、二階のお婆さんだ。」
と、熟と耳を澄ますと、少時して、
「ええん。」
と云う咳。
「今度は二階のお爺さん。」
この二人は、母の父母で、同家に二階住居で、睦じく暮したが、民也のもの心を覚えて後、母に先だって、前後して亡くなられた……
その人たちを、ここにあるもののように、あらぬ跫音を考えて、咳を聞く耳には、人気勢のない二階から、手燭して、するすると壇を下りた二人の姿を、さまで可恐いとは思わなかった。
却って、日を経るに従って、物語を聞きさした如く、床しく、可懐しく、身に染みるようになったのである。……
霰が降れば思が凝る。……
そうした折よ、もう時雨の頃から、その一二年は約束のように、井戸の響、板の間の跫音、人なき二階の襖の開くのを聞馴れたが、婦の姿は、当時また多日の間見えなかった。
白菊の咲く頃、大屋根へ出て、棟瓦をひらりと跨いで、高く、高く、雲の白きが、微に動いて、瑠璃色に澄渡った空を仰ぐ時は、あの、夕立の夜を思出す……そして、美しく清らかな母の懐にある幼児の身にあこがれた。
この屋根と相向って、真蒼な流を隔てた薄紫の山がある。
医王山。
頂を虚空に連ねて、雪の白銀の光を放って、遮る樹立の影もないのは、名にし負う白山である。
やや低く、山の腰にその流を繞らして、萌黄まじりの朱の袖を、俤の如く宿したのは、つい、まのあたり近い峰、向山と人は呼ぶ。
その裾を長く曳いた蔭に、円い姿見の如く、八田潟の波、一所の水が澄む。
島かと思う白帆に離れて、山の端の岬の形、にっと出た端に、鶴の背に、緑の被衣させた風情の松がある。
遥かに望んでも、その枝の下は、一筵、掃清めたか、と塵も留めぬ。
ああ山の中に葬った、母のおくつきは彼処に近い。
その松の蔭に、その後、時々二人して佇むように、民也は思った、が、母にはそうした女のつれはなかったのである。
月の冴ゆる夜は、峰に向った二階の縁の四枚の障子に、それか、あらぬか、松影射しぬ……戸袋かけて床の間へ。……
また前に言った、もの凄い暗い夜も、年経て、なつかしい人を思えば、降積る霰も、白菊。
底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房
2006(平成18)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
初出:「太陽」
1912(大正元)年11月号
※表題は底本では、「霰ふる」となっています。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2015年10月17日作成
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