手紙
堀辰雄



 野田君

 また惡いさうだね。だから言はないこつちやない。ぢつと寢てゐたまへ。病氣はこつちで辛抱強く馴らしてやるがいいんだ。一度馴れてしまつたら、こんなに可愛い奴はない。


 池谷さんが死んだんでこれからお葬式に行くところだ。時間が半端なので、いまコロンバンで、珈琲をのみながら、この手紙を書いてゐるんだ。

 前から君に「オフェリヤ遺文」のことを何か書けと言はれてゐるので、何か書かう書かうと思つてゐたが、この頃僕は非常に混亂した氣持でゐるんだ。それで、「オフェリヤ遺文」を書きながら小林が行つてゐたやうな、あんな遠いところまで、とても今の僕にはついて行けさうもない。

 しかし今度「オフェリヤ遺文」を讀み直して、いままでとは全然異つた興味をもつて僕はこの作品を眺め出してゐる。どんな興味かといへば──簡單に言つてしまふと、僕は今度こんなアムビシァスな作品が書いて見たくなつてゐるんだ。

 これは小林の私小説であると同時に、自分とはまるで異つた他人の中に自分を生かさうとした小説ではないかしらん。さうしてさういふ底の小説を書いた小林の氣持が三年もかかつて漸つと僕に解りかけてきたやうな氣がする。

 これは小林の「エグモント」だつたんだ。僕は最近ゲエテの「エグモント」を讀んだが、あれを書いたゲエテの氣持が非常によく解つた。「ゲエテはデモンに憑かれてリリイとの戀に落ちた。もしその戀を遂げてしまつたら、ゲエテは自滅する他はなかつたらう。しかしゲエテはその一歩手前に踏み止つて、それと同じ道を最後の一歩まで行つて自滅するエグモントを書いて自分自身を救つた。」たしか鴎外がゲエテ傳の中でそんなことを書いてゐたと覺えてゐる。

 恐らく小林がオフェリヤを書きたかつたのはそれと同じ氣持だつたんではないかと思ふ。デモンに憑かれた小林にはそれをふり落すためには、一人のオフェリヤを書くことが絶對に必要だつたんだ。

 しかし小林がオフェリヤを書いた動機はそれに盡きてゐない。ゲエテはエグモントを描くために、實際は當時既に妻子のあつた相當の年輩の男だつたのに、自分の戲曲のなかでは彼を若い獨身者として取扱つてゐる。自分に引き寄せたんだ。しかし小林はことさら自分とは似ても似つかないやうなオフェリヤを選んでゐる。

 小林はそのなかに自分を生かしながら、しかも自分とはまるで異つた他人を描かうとしたんだ。なんといふアムビシァスな仕事だらう。──しかしデモンをふり落すことには成功した小林も、どこまでその他人を描けたか? 見事にそれには失敗した。

 そのすばらしい失敗以來、小林はこの種の作品をまだ書かずにゐる。しかし書きたくつて書きたくつてしようがないらしい。僕はその作品を非常に待つてゐる。

 小林よ。デモンに憑かれろ! 憑かれろ!


     追伸


 さつきの手紙を北原君に托してコロンバンを出てしまつてから、町の中でひよつくり二三日前に讀んだリヴィエールの「エチュード」の一節を思ひ浮べた。──ヂィドが「窄き門」のアリサを描いた動機には、最初はああいふ自己犠牲に對する諷刺の意圖があつたのだが、ヂィドは遂にアリサに打負かされた。ヂィドはアリサを殆んど自分の意に反して(Malgré lui)書き上げた。──と云ふやうな一節だ。さうして僕は一瞬間はつとした。小林がオフェリヤを描いたのにも、そんな諷刺の意圖があつたんぢやないかといふ疑ひが起りかけたんだ。しかし、いや、いや、恐らくさうではあるまい。今度小林に會つたら、聞いて見たい。

 さう言へば、「オフェリヤ遺文」の中では、小林はあまりにオフェリヤに打勝ちすぎてゐた。アリサに對するヂィドのやうには、ちつとも相手に打負けてゐるところがなかつた。──それが一番あの作品をあんなに公衆に解りにくくさせたんだな。そりあ小林に責任がないとは言へない。

 とにかく、まあ、なんといふ込み入つた、いろんなことを考へさせる作品だらう。考へ出せば切りがありあしない。それも小林が書いたことそのものより、その書いたことからあいつが何を書かうとしたかを引き出して行けば行くほど面白くなるのぢやないかしら。さうなると作品の出來不出來なんぞは問題ぢやなくなつてくる。こつちですこし本氣になつてそれに向つてゐると、作者自身が大へんなものにぶつかつてしどろもどろになつてゐる樣子がはつきり浮んでくるが、しかしそれは作者の方ばかりぢやなしに、こつちまでひどくしどろもどろにさせずには措かないやうな、底の知れない、氣味の惡い作品だ。

 君はもつと本の裝幀のことなど僕に書かせたかつたんぢやない? しかし、僕はいまそんな餘裕のある氣持ぢやないんだ。いい本はとてもいい本だとも。

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年830日初版第1刷発行

初出:「ヴアリエテ 第四号」三才社

   1934(昭和9)年11

入力:tatsuki

校正:染川隆俊

2011年39日作成

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