其中日記
(六)
種田山頭火



   旅日記


□東行記(友と遊ぶ)


□水を味ふ(道中記)


□病床雑記(飯田入院)


□帰庵独臥(雑感)


 三月廿一日 (東行記)


春季皇霊祭、お彼岸の中日、風ふく日。

樹明君から酒を寄越す、T子さんが下物を持つてくる、やがて樹明君もやつてくる。……

出立の因縁が熟し時節が到来した、私は出立しなければならない、いや、出立せずにはゐられなくなつたのだ。

酔歩まんさんとして出かける、岐陽君を訪ねる、酒、さらに呂竹さんを訪ねる、そしてFをSを訪ねて酒。

とう〳〵出立の時間が経過してしまつたので、庵に戻つて、さらに一夜の名残を惜しんだ。


 三月廿二日 徳山から室積へ。


晴、朝早く駅へかけつけて出立。

物みなよかれ、人みな幸なれ。

八時から一時まで白船居、おちついてしんみりと別盃を酌んだ、身心にしみ入る酒だつた。

駅の芽柳を印象ふかく味はつた。

白船君の歯がほろりと抜けた、私の歯はすでに抜けてしまつてゐる。

汽車からバスで室積へ、五時から十時まで、大前さん水田さんと飲みながら話す。

十二時の汽船(商船愛媛丸)で宇品へ、春雨の海上の別離だ。

船中雑然、日本人鮮人、男女、老人子供、酒、菓子、果実、──私は寝るより外なかつた。

庵はこのまゝ萠えだした草にまかさう

そして私は出て行く、山を観るために、水を味ふために、自己の真実を俳句として打出するために。

・ふりかへる椿が赤い

其中庵よ、其中庵よ。

 わかれて春の夜の長い橋で

 木の実すつかり小鳥に食べられて木の芽

・こんやはこゝで涸れてゐる水


 三月廿三日


おくれて九時ちかくなつて宇品着、会社に黙壺君を訪ねる、不在、さらに局に澄太君を訪ね、澄太居に落ちつく、夫妻の温情を今更のやうに感じる。

樹明、白船、せい二、清恵、澄太、等、等、等、春風いつもしゆう〳〵だ、ぬくい〳〵うれしい〳〵だ。

夜は親しい集り、黙壺、後藤、池田、蓮田の諸君。

近来にない気持のよい酒だつた、ぐつすりと眠れた。


 三月廿四日


おこされるまで睡つてゐた、夢は旅のそれだつた。

春雨、もう旅愁を覚える、どこへいつてもさびしいおもひは消えない。……

澄太君が描いてくれた旅のコースは原稿紙で七枚、それを見てゐると、前途千里のおもひにうたれる、よろしい歩きたいだけ歩けるだけ歩かう

青天平歩人──清水さんの詩の一句である。

しぜんに心がしづみこむ、捨てろ、捨てろ、捨てきらないからだ。

放下着──何と意味の深い言葉だらう。

澄太君の友情、いや友情といつてはいひつくせない友情以上のものが身心にしみる。……


夕方から、澄太君夫妻と共に黙壺居の客となる、みんないつしよに支那料理をよばれる、うまかつた、鶩の丸煮、鯉の丸煮、等、等、等(わざ〳〵支那料理人をよんで、家族一同食べたのは嬉しい)。

澄太居も黙壺居もあたゝかい、白船居も緑平居も、そして黎々火居も、星城子居も。……

私だけ泊る。

 春の波の照つたり曇つたりするこゝろ

・菜の花咲いた旅人として

 日ざしうらゝなどこかで大砲が鳴る(澄太居)

・枯草あたゝかうつもる話がなんぼでも


 三月廿五日


早く起きる、八時の汽船に乗り込まなければならない。

こゝでも黙壺君の友情以上のものが身心にしみる、私は私がそれに値しないことを痛感する。……

宇品から三原丸に乗る、海港風景、別離情調、旅情を覚える。

法衣姿の私、隣席にスマートな若い洋装の娘さん、──時代の距離いくばくぞ。


三原丸船中、──

天気予報を裏切つて珍らしい凪、

ラヂオもある、ゆつたりとして、

人間は所詮、食べることゝ寝ることゝの動物か

高等学校の学生さんと漫談、

瀬戸内海はおだやか、

甲板は大衆的に、

兎の子を持つて乗つた男女

島から島へ、酒から酒へ!

船中所見、──

港について売子の売声、

インチキ賭博、

上陸して乗りおくれた人、

修学旅行の中学生、私も追憶の感慨にふける、

春風の甲板を遊歩する、

団参連中のうるさいことは、

船から陸へ、水から土へ、

四時神戸上陸、待合室で六時半まで。

自動車、自動車、自動車がうづまいてゐました。


・兵営、柳が柳へ芽ぶいてゐる

・旅も何となくさびしい花の咲いてゐる

 しつとりと降りだして春雨らしい旅で

 お寺の銀杏も芽ぐんでしんかん

・そここゝ播いて食べるほどはある菜葉

・水に影あれば春めいて

・春寒い朝の水をわたる

船窓マドから二つ、をとことをなごの顔である

 なんぼでも荷物のみこむやうらゝかな船

 島にも家が墓が見える春風

 銭と銭入と貰つて春風の旅から旅へ(黙壺君に)


 三月廿六日


歩いて兵庫へ、めいろ居へ。

神戸は国際都市であることに間違はなかつた。

ビルデイングにビルデイング、電車に自動車、東洋人に西洋人、ブルヂヨアにプロレタリヤ。……

めいろ居はめいろ君のやうに、めいろ君が営んでゐた、意外だつたのは、ピヤノのあつたこと。──

わざ〳〵出迎へて下さつたのに、出迎への甲斐がなくて、めいろ君にも詩外楼にもすまなかつた、それもかへつて悪くなかつたが。

 ぽつかり島が、島も春風

 島はいたゞきまで菜ばたけ麦ばたけ

・ここが船長室で、シクラメンの赤いの白いの(三原丸)


 四月十四日 坂下から清内路へ。


曇、やがて晴、そゞろ寒い、春がおそい今年で、さらに春がおそいこのあたりで。


 四月十五日 清内路から飯田町へ。


 四月十五日 蛙堂居。

 〃 十六日

 〃 十七日

 〃 十八日

 〃 十九日

 〃 廿日

 四月廿一日 川島病院。

 〃 廿二日

 〃 廿三日

 〃 廿四日

 〃 廿五日

 〃 廿六日

 〃 廿七日

 四月廿八日




大死一番 天地一枚


莫妄想


無常迅速

時不待人

光陰可惜

慎勿放逸


裁断前念後念


大事了畢

身心脱落

断命根

己平究明

大我爆発

三昧発得


天地同根 万物一体

   □

山はしづかにして性を養ひ、水は動いて情をなぐさむ

諸行無常、無常迅速、

諸法常示寂滅相、

眼前景致、口頭語。


 四月廿九日


四月廿九日、暮れて八時過ぎ、やうやく小郡に着いた、いろ〳〵の都合で時間がおくれたから、樹明君も出迎へてゐない、労れた足をひきずつて、弱いからだを歩かせて、庵に辿りついた、夜目にも雑草風景のすばらしさが見える。……

風鈴が鳴る、梟が啼く、やれ〳〵戻つた、戻つた、風は吹いてもさびしうない、一人でも気楽だ、身心がやつと落ちついた。

すぐ寝床をのべて寝た、ぐつすりとゆつくりと寝た!

 ふるさとはすつかり葉桜のまぶしさ

・やつと戻つてきてうちの水音

・わらやしづくするうちにもどつてる

・雑草、気永日永に寝てゐませう(病中)


 四月三十日


久しぶりにようねむれた、山頭火は其中庵でなければ落ちつけないのだ、こゝならば生死去来がおのづからにして生死去来だ、ありがたし、かたじけなし。

降つたり照つたり、雑草、雑草。

起きるより掃除(樹明君が掃除してくれてはゐたが)、数十日間の塵を払ふ。

学校に樹明君を訪ねる、君は私が途中、どこかに下車したと思つて、昨日も白船君と交渉したさうな、感謝々々。

街へ出かけて買物、米、炭、味噌、等々(うれしいことにはそれらを買ふだけのゲルトは残つてゐた)。

御飯を炊き味噌汁を拵らへて、ゆう〳〵と食べる、あまり食べられないけれどおいしかつた。

つかれた、つかれた、……うれしい、うれしい。

とんぼがとまる、てふてふがとまる、……雲雀がなく蛙がとぶ、……たんぽぽ、たんぽぽ、きんぽうげ、きんぽうげ。……

柿若葉がうつくしい、食べたらおいしからう!

方々へ無事帰庵のハガキを書く、身心がぼーつとしてまとまらない、気永日永に養生する外ない。

午後、樹明君来庵、酒と肉とを持つて、──もう酒が飲めるのだからありがたい。

樹明君を送つてそこらまで、何と赤い月がのぼつた。

蛙のコーラス、しづかな一人としてゆうぜんと月を観る。

今夜はすこし寝苦しかつた、歩きすぎたからだらう、飲みすぎたからでもあらうよ。

・いかにぺんぺん草のひよろながく実をむすんだ

・藪かげ藪蘭のひらいてはしぼみ

 みんな去んでしまへば赤い月

   改作二句

 乞ひあるく道がつゞいて春めいてきた

 藪かげほつと藪蘭の咲いてゐた

 木の実ころころつながれてゐる犬へ

 まんぢゆう、ふるさとから子が持つてきてくれた

 雑草やはつらつとして踏みわける


 五月一日


早く起きた、うす寒い、鐘の音、小鳥の唄、すが〳〵しくてせい〴〵する。

雑草を壺に投げ揷す、いゝなあ。

身辺整理、その一つとして郵便局へ投函に。

私の身心はやぶれてゐるけれどからりとしてゐる、胸中何とはなしに廓落たるものを感じる。

北国はまだ春であつたのに、こちらはもう、麦の穂が出揃うて菜種が咲き揃うて、さすがに南国だ。

ありがたいたより、今日は作郎老からのそれ。

食べることは食べるが、味へない。

誰か通知したと見えて、健が国森君といつしよにやつてくるのにでくはした、二人連れ立つて戻る、何年ぶりの対面だらう、親子らしく感じられないで、若い友達と話してゐるやうだつたが、酒や鑵詰や果実や何や彼や買うてくれた時はさすがにオヤヂニコニコだつた(庵には寝具の用意がないので、事情報告かた〴〵、夕方からS子の家へいつてもらつた、健よ、平安であれ)。

午後、樹明君がまた鈴木周二君と同行して来庵(周二君は徴兵検査で帰省中、私の帰庵を知つて見舞はれたのである)、飲む食べる饒舌る、暮れて駅まで送る。

今日はよい日だつた、よい夜でもあつた。

・肌に湿布がぴつたりと生きてゐる五月

 草からとんぼがつるみとんぼで

 五月、いつもつながれて犬は吠えるばかりで

 こんなところに筍がこんなに大きく

・おててをふつておいでもできますさつきばれ

・雑草につつまれて弱い心臓で

   病臥雑詠

 寝床から柿の若葉のかゞやく空を

 柿若葉、もう血痰ではなくなつた

 病んでしづかな白い花のちる

 蜂がにぎやかな山椒の花かよ

・ぶらぶらあるけるやうになつて葱坊主

・あけはなつやまづ風鈴の鳴る

・山ゆけば山のとんぼがきてとまり

・あれもこれもほうれん草も咲いてゐる(帰庵)


 五月二日


五時を待ちかねて起床、晴、五月の朝はよいかな。

子の事を考へるともなしに考へてゐる、私はやつぱり父だ!

うれしいたよりがいろ〳〵。

病人らしくないといつて樹明君に叱られるほど、私は不思議な病人だ、生きのこつたといふよりも死にそこなつた山頭火か。

ちよつと街まで出かけても労れる、間違なく病人だ。

うどん二つ五銭、これが今日の昼食。

春蝉──松蝉──初夏だ。

天地人の悠久を感じる

湿布する度に、ヱキシカを塗る毎に入雲洞をおもふ。

夕方、敬坊来、約の如く、樹明は手のひけないことがあるので二人だけでFへ行きうまいものをどつさりたべて別れる、彼は東京へ、私は庵へ(彼は私と東京で出逢ふべく、無理に出張さしてもらつたのだが、私が中途で急に帰庵したので、がつかりしてゐた)。

しづかで、しづかで、そして、しづかで。

  病臥雑詠

蛙とほく暗い風が吹きだした

病めば寝ざめがちなる蛙の合唱

五月の空をまうへに感じつつ寝床

死にそこなつたが雑草の真実

風は五月の寝床をふきぬける


 五月三日


五月の空は野は何ともいへない。

湿布とりかへるときなどは、もう一つ手がほしいな。

ぬかなければならない雑草だけぬく、衰弱した体力は雑草のそれにも及ばなかつた。

ありがたいたより(四有三さんから、桂子さんから)。

ちよつと街まで、たゞし、さうらうとして!

五月サツキをはつきり感覚する。

歩けば汗ばむほどの暑さ、珍らしや雀どの、来たか。

おまんまにたまごをかけてたべる──老祖母のこと、母の自殺などが胸のいたいほどおもひだされる。……

友人からの送金で、ふとんを買ふ、それを冬村君に持つて来て貰ふ(夜、自転車で)。

 ねむれない夜の百足が這うてきた

 這うてきて殺された虫の夜がふける

 日だまりの牛の乳房

 草の青さで牛をあそばせてゆふべ

・てふてふつるまうとするくもり

 暮れてふるさとのぬかるみをさまよふ


 五月四日


放下着、放下着。

やつぱり酒はうまい、雑草はうつくしい。

山口まで、湯田で一浴、廿日間の垢をおとす、おとなしく帰庵、ふとんのしきふをかゝへて(昨日から拾壱円ばかり買つた)。

山のみどり、鯉のぼりのへんぽん、蛙げろ〳〵。

粉末松葉を飲みつゝ、源三郎さんをおもふ。

・向きあうて湯のあふるゝを(湯田温泉で澄太君と)

 風はうつろの、おちつけない若葉も

 やつと家が見えだした道でさかなのあたま

・おもひではそれからそれへ蕗をむぎつつ

 たどんも一つで事足るすべて


 五月五日


けさも早起、晴れて端午だ。

身辺整理、きれいさつぱり、針の穴に糸が通らないのはさびしかつた。

さみしくなるとうぐひすぶゑ(叡山土産の一つが残つてゐた)をふく、ずゐぶんヘタクソ鶯だね、そこが山頭火だよ。

放下着、死生の外に。──

T子さん来庵、白米を持つてきてくれたのはありがたいが。

寝苦しかつた、肺炎なんて、凡そ私にはふさはしくない。

 雑草そのままに咲いた咲いた

 おもさは雨の花のあかさ

 けふも雨ふる病みほうけたる爪をきらう

・雨のゆふべの人がきたよな枯木であつたか

・どうやらあるけて見あげる雲が初夏


 五月六日


晴、朝は郵便を待つ、これあるがゆえの毎日でもある。

樹明来、胡瓜で一杯、さらに鯛で一杯、鯛は近来の美味だつた、さしみ、うしほ、そして焼いて、たらふく頂戴した、うまかつた、うまかつた。

寝苦しい、放下着。


 五月七日


まさに五月だ。

同朋園の田中さんから、たくさん薬を送つてきた、ありがたし、さつそく服用する。

街で買物、──洗濯盥、たどん、火鉢、鎌、等々。

山へ枯枝拾ひに、それから風呂へ。

粟餅屋の小父さん、彼とはもう三度目の邂逅だ、私は彼をよく記憶してゐるが、彼は私を覚えてゐないらしい(私がもう乞食坊主の服装をしてゐないから)、街角の彼等から一包を買うて追憶に耽つた。

健が持つてきてくれた饅頭もうまかつたがカステイラもおいしいなあ(ぬけさうな歯が少々邪魔になる)。

今夜はとう〳〵一睡もできなかつた、終夜読書した。


 五月八日


曇、風(風はさみしくてやりきれない)。

弱い身心となつたものかな、あゝ。

・山はひつそり暮れそめた霧のたちのぼる

・サイレンながう鳴りわたる今日のをはりの

・病みて一人の朝となり夕となる青葉

・雑草咲くや捨つべきものは捨てゝしまうて

・草や木や死にそこなうたわたしなれども

・五月の空の晴れて風吹く人間はなやむ


 五月九日


曇、昨夜は眠れた、何よりも睡眠である。

初夏の朝、よいたより。

ちよつと街へ出て戻ると、誰やら来てゐる、思ひがけなく澄太君だ、酒と豆腐とを持つて。

ちび〳〵やつてゐるところへ、呂竹さんが見舞に来られた、これまた茶を持つて。

さらに樹明来、T子さん来庵。

風が吹いて落ちつけない、風には困る。

澄太来のよろこびを湯田まで延長する、よい湯、よい酒、よい飯、よい話、よい別れでもあつた、澄太君ほんたうありがたう、ありがたう。

夕暮、帰庵すると、飲みつゝある樹明を発見する、彼はまことに酒好きだ、少々酒に飲まれる方だが。

労れた、よい意味で、──今夜はよくねむれるだらうと喜んでゐると、T子再来、詰らない事を話して時間を空しくする、しめやかな雨となつたが寝苦しかつた、困つた。

・生きて戻つて五月の太陽

・けさは水音の、よいことがありさうな

 葱坊主、わたしにもうれしいことがある

 湯あがりの、かきつばたまぶしいな(病後)

・竹の葉のうごくともなくしづかなり

・土は水はあかるく種をおろしたところ(苗代)


 五月十日


雨、風、朝酒が残つてゐた、しめやかな一日だつた。

・いつまで生きることのホヤをみがくこと

・ひとりをれば蟻のみちつづいてくる

・草の青さできりぎりすもう生れてゐたか

・胡瓜植ゑるより胡瓜の虫が暑い太陽

 風ふくゆふべのたどんで飯たく(追加)


 五月十一日


雨、五時には起きておさんどんの仕事。

地下足袋はいて街へ、びつしよりになる。

放下着。

うろ〳〵する油虫をたゝきつぶしたほど、いら〳〵してねむれなかつた。


 五月十二日


まだ降つてゐる、どうやら霽れさうではあるが。

陽が照りだした、照るとなか〳〵暑い。

ヘビ、トカゲ、クモ、いろ〳〵さま〴〵のものがうごいてゐる、私自身もぢつとしてはゐられないやうに。

鶯笛はなか〳〵よろしい、ピーピツ、ピヨピヨピーツ。

畑仕事、やうやく一畝だけ耕して大根を播いた。

春は逝く、夏近し、いよ〳〵晴れた、苗代作りが初まつた、それは感じのよい仕事だ。

風呂にはいり豆腐をたべた。

酒は内から、湯は外から、どちらもちよいと一杯、などゝ考へてゐたら樹明来庵、酒なかるべからずと酒を買つた、すこし酔うて、同道してF家へ押しかけて御馳走になる、それからまたSで飲む。

樹明は泥酔して行方不明になつてしまつた、私は酔へないで戻つて寝た、ふと眼がさめて、そこに酔樹明を見出した、彼がこゝへ倒れ込んだのは、まづ〳〵感心、すぐ寝せる、大蛇のやうな鼾声をあげて眠つた、私もいつしか睡つた。

   断想二三

存在の世界、あるがまゝの世界、それを示現するものとして私の周囲に雑草がある。

雑草の花、それを私の第何集かの題名としたい。

生活の単純化、そこから日本的なものがうまれる。


 五月十三日


晴、好季節。

左股の注射のあとが痛い、起居が苦しい。

鶯笛、かなしい笛か、さびしい笛か、それを私が吹く。

樹明は酔がまださめきらないので、ふら〳〵してゐるけれど、講習があるとやらで、日曜日にもかゝはらず出勤、これも感心の一つたるを失はない。

予期したやうに、十時の汽車で黎々火が来てくれた、お土産は鮹壺雲丹、巻鮨(お手製だからひとしほうれしい)。

その雲丹を蛙堂老と青蓋人君とに贈つた、かういふハガキといつしよに、──

下関名産の鮹壺雲丹を送ります、名物にうまいものなしといひますが、これはなか〳〵うまくて、初夏の食卓に磯の香が、いや玄海の波音が聞えるかも知れません、云々。

T子さんが卵を持つて、樹明君が魚を持つて来た、四人で飲んだり食べたり、寝たり、饒舌つたり。

黎々火君が草をぬき土をうつてくれた、樹明君が苗を植ゑてくれた、これで茄子も胡瓜も十分だ。

暮れてみんな帰つていつた、まことによい一日だつた。

   改作追加

・藪かげほのと藪蘭の花かな

・いつもつながれて吠えるほかない犬です

・木の芽草の芽いそがしい旅の雨ふる

・からりと晴れて枯木なんぼでもひろへるよ

・もう秋風の、腹立つてゐるかまきり

   発表できない句!(或る時機がくるまでは)

・死ねる薬はふところにある日向ぼつこ(再録)


 五月十四日


寝た、寝た、九時から四時までぐつすりと寝た。

申分のないお天気だ、うらむらくは私の身心がよくない。

風呂へ行く、五月野をよこぎつて。

トマトを植ゑる準備、草取、肥汲。

雑草のうつくしさよ、私は雑草をうたはずにはゐられない。

・道がひろくて山のみどりへまつすぐ

・けふ播いた苗代へあかるい灯


 五月十五日


今日も好いお天気。

街へ、豆腐買ひに、むろん酒も買ひに。

草も人もしづかなるかな。

播きおくれた山東菜を播く、芽が出ればよいが。

初夏の暑さだ、しかし私はまだ綿入を着てゐる、病人くさいな。

夕方から農学校へ行く、今晩は樹明宿直なので、一杯やらうといふ約束が一昨日ちやんと成り立つてゐるのである、すこし早すぎたのでそこらを見てまはる、花草はうつくしいが、豚は、食べてゐる豚も寝てゐる豚も、仔豚も親豚もいやらしくつてたまらなかつた、これは必ずしも、ブルヂヨアイデオロギーのせいではあるまいて。

二人で飲んで(彼が飲まないので、殆んど私だけが飲んで)、いゝ機嫌になつて戻つて寝る、まだ十時前だつた。

樹明君は熱があるので、何を食べてもうまくないといふ、私は回復期でもあり粗食してもゐるので、何を食べてもうまいといふ、今夜の場合でも、この蒲鉾はまづいといつて二三片しか口にしない彼、これはうまいよと一枚食べつくした私、寄宿舎のライスカレーなんぞ閉口とばかり二口三口しか食べやうともしない彼、そんなにまづくはないと大丼をぺろりと平げた私、──うまいかうまくないか、──たべない者は不幸で食べる者は幸福だらう。

今夜もだいぶ寝苦しい、寝苦しいのも肺炎の特徴らしい、読書でゴマカすより外ない。

毎晩寝苦しいのには閉口する、一時間ぐらゐとろ〳〵するとすぐ眼がさめる、あやしい夢(といつてヱロチツクぢやないが)をみるのである。

・この笛、おかしいかさみしいか、また吹く(鶯笛)

・青葉あざやかな身ぬちへポリタミン

・明けてくる空へ燃やす

・とほく朝の郭公がなく待つものがある

 シヤンがゐるので垣のかなめが赤いので


 五月十六日


日本晴、むしろ日本的晴朗とでもいふべきだらう。

外は夏、内は春、私の身心にふさはしい気候である。

今朝もむろん早過ぎるほど早かつた、六時過ぎにはもうちやんとすべてがとゝなうてゐた。

朝、西の方で郭公が啼いた、珍らしい、そして好きだ(昨日学校でも聞いたが)。

雀が来て遊んでゐる、これも珍らしい、そして親しい。

蜻蛉の飄逸、胡蝶の享楽、蜂の勤勉、どれもそれ〴〵によろしい。

餅をたべる、餅もうまいな、餅はうまいな。

放下着、放下着、放下着と私は私に警告した、そして監視した。……

今日はとう〳〵郵便が来なかつた、一日のよろこびの大半をなくした訳である。

帰庵このかた、いつとなく昼酌(晩酌はない)がおきまりになつたが、さてこれがいつまで続くか、続けられるか?

・柿の梢のいつか芽ぶいて若葉して窓ちかく

・ひつそりとおちついて蠅がいつぴき

・焼かれる虫の音たてていさぎよく

   T子さんに

・雑草にほふや愚痴なんどきかされては(与樹君)


 五月十六日


曇、何となく身心重し、昨夜はねむれたが、変な夢に苦しんだけれど、十一時から四時までねむれたのだ。

だん〳〵晴れてきた、防府へ行かうかとも思つたが止める、さらに山口へ行かうかとも思つたが、また止める、元気もないし銭もないし。……

けさは郵便屋さんが、うれしい、ありがたいたよりを持つてきた。

独り者はなか〳〵忙しい、立つたり坐つたり、下りたり上つたり、炊いたり沸かしたり。……

もう茨の白い花がちらほら、セルを着て歩く若い女の姿は悪くない、初夏風景の一つ。

垣根にばら、道べりにはあざみが咲いてゐた、私はちつとも迷はないで後者を採つた、一輪ざしにさすために。

しづかなるよろこび。──

午後は湯屋へ、そしてうどん玉を買うて戻る。

初めて蚊帳を吊つた。

梟が啼きつゞける、根気のよい鳥だな。

 寝床までまともにうらから夕日

 青葉からまともな陽となつて青葉へ

・これは母子草、父子草もあるだらう(述懐、子に)

   夜ふけて餅を焼いて

 ふくれて餅のあたたかさを味ふ

・麦畑へだてゝとんとん機音は村一番の金持で


 五月十八日


予期した通りの雨、しかしあまり降らない。

ありがたい手紙やら小包やら。

青蓋人君からは豊川稲荷の玉せんべい(たゞし実際は、せんべいの断片!)。

今日の買物は、──味噌、酒、ふらん草、合して三十銭。

放下着。

降らないで曇、曇つてゐたが晴となつた。

昼食後ふと大田行を思ひ立つた、敬君とゆつくりよい酒を飲みながら話したくなつたのである、学校に樹明君を訪ねて、念のために電話で都合を訊ねて貰つたら、出張で不在といふので止めた(かういふ場合、電話──文明の利器に感謝しないではゐられない)。

横臥読書。

蕗を摘んで、お菜をこしらへる、茎もうまいし葉もうまい。

入雲洞君から借りた「雲水は語る」を読む、前の著作と重複するところはあるが、面白く読ませるところに蓬州和尚の腕がある、大に飲んで大に書いて下さい(もう書きすぎてゐるから!)。

可愛らしい鼠がそこらをかけまはつてゐる(これは不思議、いつやつてきたのだらう、これで其中庵も家並の家になつた)、上手な鶯が窓ちかく啼く、なつめの若葉、桐の花、密柑の蕾。……

雑炊を味ふ、雑草を眺めつつ!

あやめを床に、いばらを机上に活ける、どちらもよい。

ゴウが残つてゐる(死にそこなうた、死ねなかつた)、といふことは、仕事がある、成し遂げるべきものがある、といふことだらう。

木曽路で句作のいとぐちがやうやくほぐれかけたが、飯田で病んでいけなくなつた、そして帰来少しづゝほぐれる。

捨てるも捨てないもない、さういふ考へを捨ててしまへばそれでよいのだ、即今の這箇に成りきればそれでよいのだ。

・あさのみちの、落ちてゐる梅の青い実の

・あほげば青梅、ちよいともぐ

・病めば考へなほすことが、風鈴のしきりに鳴る

 をさないふたりで、摘みきれない花で、なかよく

・ほんにしづかな草の生えては咲く

・ひらかうとする花がのぞいた草の中から

・芽ぶいて若葉して蓑虫は動かない

・いちはやく石垣の茨は咲いた校長さんのお宅

 声をそろへて雨がほしい青蛙はうたふ

・打つ手を感じ逃げてゆく蚊の、寝苦しい

・灯火、虫はからだをぶつつける

・生えて伸びて咲いてゐる幸福


 五月十九日


頬白が晴々と囀つてゐる、誰かを、何物かを待つてゐる。

考へること、読むこと、書くこと、……歩くこと。

人生は五十からだ、少くとも東洋の、日本の芸術は!

曇つて降りだしさうになつたが、なか〳〵。

昼酌をやりながら、といふよりも、ほうれん草のおしたしを食べつゝ、味取をおもひだした、H老人をおもひだして、彼の生死を案じた、味取在住一ヶ年あまり、よくH老人と飲んだ、そしておさかなはほうれん草のおしたしが多かつた。……

私は毎日これだけ食べる(不幸にしてこれだけ飲みます!)。

米 四合、三椀づゝ三回

酒  合、昼酌 壱回

朝、味噌汁 二杯

昼、野菜  一皿

晩、同 外に佃煮

時々

うどん玉

まんぢゆう

これで食費一ヶ月まづ五円位。

湯屋で感じた事、──

男湯と女湯とを仕切るドアがあけつぱなしになつてゐたので、私は見るともなく、女の裸体を見た(山頭火はスケベイだぞ)、そしてちつとも魅力を感じなかつた、むしろ醜悪の念さへ感じた(これは必ずしも私がすでに性慾をなくしてゐるからばかりではない)、そこにうづくまつて、そして立つてゐた二人の女、一人は若い妻君で、ブヨ〳〵ふくれてゐた、もう一人は女給でもあらうか、顔には多少の若い美しさがあつたが、肉体そのものはかたくいぢけてゐた、若い女性がその裸体を以ても男性を動かし得ないとしたならば、彼女は女性として第一歩に於て落第してゐる、──私は気の毒に堪へなかつた、脱衣場の花瓶に揷された芍薬の紅白二枝の方がどんなにより強く私を動かしたらう!(私はまだ雑草のよさを味ふと同様に、女の肉体を観ることが出来ない、修行未熟ですね)

俳人の夥多、そして俳句の貧困。

ながいこと、ぶら〳〵うごいてゐた前歯(後歯はもうみんな抜けてしまつたが)がほろりと抜けた、抜けたことそのことはさびしいが、これでさつぱりした、物を食べるにもかへつて都合よくなつた(私自身が社会に於ける地位はその歯のやうではないかな)。

ラツキヨウを食べつゝ考へる(私はラツキヨウが好きだ、帰庵して冬村君から壺に一杯貰つたが、もう残り少なくなつた)、人生はラツキヨウのやうなものだらう、一皮一皮剥いでゆくところに味がある、剥いでしまへば何もないのだ、といつてそれは空虚ではない、過程が目的なのだ、形式が内容なのだ、出発が究竟なのだ、それでよろしい、それが実人生だ、歩々到着歩々を離れては何もないのが本当だ(ラツキヨウを人生に喩へることは悪い意味に使はれすぎた)。

たどんはありがたいかな、たどん一つのおかげで朝から夜まで暖かいものが食べられる、その火一つで、御飯もお湯もお菜も、そしてお燗も出来ます。……

今日の夕方はさみしかつた、人が恋しかつた、──誰か来ないかなあ、と叫びたかつた、いや、心の中では叫んだのである。

寝苦しかつた、一時から三時まで、やつとねむれた。

 うちの藪よその藪みんなうごいてゆふべ

・空は初夏の、直線が直角にあつまつて変電所

・閉めて一人の障子を虫がきてたたく

・影もはつきりと若葉

・ほろりとぬけた歯は雑草へ

・たづねあてたがやつぱりお留守で桐の花

・きんぽうげも実となり薬は飲みつゞけてゐる

・くもりおもくてふらないでくろいてふてふ

 この児ひとりこゝでクローバーを摘んでゐる

 摘めば四ツ葉ぢやなかつたですかお嬢さん(途上即事)

   断想

生活感情をあらはすよりも生活そのものをうたふのだ。

人生は、少くとも私の生活は水を酒にするのではなくて、酒が水になるのだ。

生活事実、その中に、その奥に、その底に人生の真実、自然の真実がある。

・誰もたづねて来ない若葉が虫に喰はれてゐるぞ

・ひよいと穴から、とかげかよ

・雑草が咲いて実つて窓の春は逝く

・ねむれない私とはいれない虫と夜がながいかな

・夜ふけてきた虫で、いそいで逃げる虫で


 五月二十日


雨、よい雨、風、わるい風、身心すなほ、しづかな幸福。

時化になつた、米もなく石油もなくなつてゐるが、そしてそれを買ふだけの銭は持つてゐるが、とても出かけられない、ひとりしづかに寝床に横はつて読書。

もう一週間ほど誰も来なかつた、私からはちよいちよい出かけたが。

夕方、樹明来、米持参、この米は今日の場合、とりわけ有難かつた、君は健康を害して酒が飲めないので、お茶をのんで閑談、幸に青蓋人おくるところの、せ、ん、べい、があつた。

といふやうなわけで、米代が浮いたので、──といつても五十銭だが──風雨を衝いて街へ、酒と石油を買うて戻つた、雨風でびつしよりになつた、いや御苦労、々々々。

酒はウチノアブラ、石油はソトノアブラ。

樹明がくれた胡瓜を膾にして飲む、胡瓜もうまいが、酒はとてもうまい、陶然悠然としてベツドへ。──

雨で水が出たので、そこらに水のたまり水の音、水はよい、断然よい、水と雑草との俳人として山頭火は生きる、生きられるだけ生きる、そしてうたへるだけうたふのだ!

 ひとりひつそり雑草の中

・雨の、風の、巣を持つ雲雀よ、暮れてもうたふか

・宵月のあかり、白いのはやつぱり花だつた

・よい雨のよい水音が草だらけ

 活けられて開く花でかきつばた


 五月廿一日


細い雨、風は落ちた、頬白が機嫌よく囀るうちに、日が照りだしていよ〳〵初夏日和となつた、もう湯あがりに浴衣がほしい。

昨夜はよう寝た、九時から四時まで眠つた。

たよりいろ〳〵ありがたし、田中耕三君から心臓の薬、青蓋人君から静岡茶、黎々火君から豆腐の本、その他。

よき本はよき水の如し、よき水はよき本に似たり。

佐藤吾一氏の豆腐を語るは面白い、著者に早速、葉書をだしたほど好意が持てた。

小郡のやうな町でも、八百屋の店頭に苺や枇杷がならべられて、行人の食指を誘ふ。

酒の量りのよさわるさが妙に神経にこたえる、これについては興味ふかい随筆が書けるよ。

入浴のついでに工場の冬村君を訪ねる、二三日前に父となつたといふ、その娘は不幸な人間として生れてきたが、どうか不幸でないやうにと祈らずにはゐられない。

結婚はもう Adventure でなくて Business となつたのである、Business でなければならないのである。

・金魚売る声も暑うなつたアスフアルト

 いやな薬も飲んではゐるが初夏の微風

・なんと若葉のあざやかな、もう郵便がくる日かげ

 若葉めざましい枯枝をひらふ

・郵便もきてしまへば長い日かげ

・湯があふれる憂欝がとけてながれる(改作)


 五月廿二日


とてもよいお天気、小鳥も草も人間もよろこぶ。

何とはなしに憂欝になる、病気のためか、銭がないためか、お天気があまりに好すぎるためか、……やつぱり把握すべきものをしつかりと把握してゐないからだ、自己阿附が感傷的になるからだ、このセンチを解消しなければ、ほんたうの山頭火にはなれない、ほんたうの句は作れない。

野をよこぎつて街をあるいたが、カケで一杯ひつかけたが、そんなことでは駄目だつた、私の身心はなぐさまなかつた、咄。

昼飯最中だつた、誰だか来て案内を乞ふ、出て見て思ひだしたが、福日の恒屋匡介君だつた、まことに意外なお客さんだつた、白船君から私の近況を聞いて訪ねて来たといふ、閑談二時間あまり、後日を約して別れた。

あんまり虫が胡瓜の葉を喰ふから紙袋で囲うてやつた、もう花をつけてゐる、ちと早熟だな。

煩悩執着を放下することが修行の目的である、しかも修行しつつ、煩悩執着を放下してしまうことが、惜しいやうな未練を感ずるのが人情である、言ひ換へると、煩悩執着が無くなつてしまへば、生活──人生──人間そのものが無くなつてしまうやうに感じて、放下したいやうな、したくないやうな弱い気を起すのである、こゝもまた透過しなければならない一関である(蓬州和尚の雲水は語る、を読んで)。

有仏のところ止まる勿れ無仏のところ走過せよ、──私は今、この話頭に自から参じてゐる。

もううす暗くなつて、農学校の給仕さんが酒徳利をさげてきた、樹明来の予告である、間もなく樹明来、自分で飲みたいよりも私に飲ませる心いきはよく解る、よく解るだけ酔へない、胡瓜と酒とは食べて飲んだが。

干大根は煮そこなつた、伽羅蕗はうまくできるらしい。

蛙かやかやこやこや、ころころ、げろげろ。……

よう寝た、さすがにアルコール大明神の効験はいやちこ也。

  (未定稿)(生みの苦しみ)

 (わたしの)窓へ糸瓜の蔓をみちびく

 (だん〳〵畠の)麦刈ればそこには豆が芽ぶいてる

 (夜の机の)これでも虫であつたか動いてる

・風の夜の虫がきて逃げない

・風鈴鳴ればたんぽぽ散ればとんぼ通りぬける

・触れると死んだまねして虫のいのち

・蜘蛛はほしいままに昼月のある空

 蜂もいそがしい野苺咲いた


 五月廿三日


今日はすばらしい好晴、清明の気が天地にあふれてゐる、身心ほがらかにしてかろし。

朝は、とりわけて初夏の朝はよろしいかな。

うれしいたよりが方々から、そして意外のよろこびがあつた!

山口へ行く、いつぞや見つけておいた食卓──それは私が食卓として用ひるので、安物の小机──を買ふために、そして湯田で入浴するために、しかしその机はもう無かつた、千人風呂はあつくあふれてゐたけれど。

酒一杯、うどん一杯、十五銭なり、これは昼食、見切本のお惣菜のこしらへ方十銭、菜葉弐把五銭なり、これはお土産。

もう戸外は暑い、今日は一日ゆつくり遊ぶつもりだつたが、三時には戻つてきた、バス代を倹約して半分は歩いた、途上、感じのよい若いマダムを見た、山口小郡間のバスが乗心地のよいやうに、気持がよかつたことです!

暮れるころになつて、約の如く樹明来庵、例の如く飲んで食べる(念のために断つておくが、食べて飲むのではない)それから両人共理髪、ちよいと、ちよいとしたところを見て帰庵。

まだ酒が残つてゐる、その酒を飲んで、飯を食べて、そして寝る、樹明はいびき、わたしは眠れない。

もう一時過ぎてゐたらう、T子さんが来た(仕事がすむのは毎夜今頃ださうな)、樹明君は二時の汽車に乗るといふので、彼と彼女は同道して出て行つた、彼の旅に幸あれ、彼女の生活に幸あれ。

・誰も来ない蕗の佃煮を煮る

・蕗つめば蕗のにほひのなつかしく

・蕗の香のしみ〴〵指を染めた

・初夏の、宵月の、何か焦げるにほひの

・こゝまではあるけたところで熱い温泉がある(山口へ)

・あかるくあつくあふれる湯にひたりおもひで(湯田入浴)

・惜しみなくあふるゝよながるゝよ(途上即事)

・街からついてきた蠅で打つ手は知つてゐる

 ゆふべおもむろに蠅は殺された

・打つ手を感じて蠅も私もおちつかない

 草が青うてどこかの豚が出て遊ぶ

・よい湯あがりのはだかであるく雑草の風(追加)


 五月廿四日


すばらしいお天気のつゞくことである、すこし急いで歩けば汗ばむほどの暑さとなつた。

茄子の支へ竹を拾ふべく椹野河原へまで出かける(近所にもあるけれど個人所有の山へはいるのはうるさいから)、月見草がうつくしく咲いてゐた、土手の葉桜もうつくしかつた。

帰途、魚市場の前を通りかゝつて、鯖を一尾買うて戻つた(私が生魚を買つたのは、今年はこれが最初ではないか知ら)、下手糞に料理して食べたが、予期したほどうまくなかつた、私の嗜好はたしかに、腥いもの油濃いものから去つてしまつた、肉食よりも菜食が好きになつてゐる。

鯖の刺身でビール(このビールは昨夜T子さんが持つてきてくれたその一本だ)、ゼイタクだな。

畑の麦刈がはじまつた。

そこらの青梅を十個ばかり盗んで梅焼酎をこしらへた。

昨日植ゑたトマトへ支へ竹をして肥水を与へる、威勢よくそよいでゐる、これでこの夏もトマトのおいしいのが食べられる。

しづかな一日だつた、しづかな私自身でもあつた。

 朝風の青梅をぬすむ五つ六つ

 家は青葉の中からアンテナ

・郵便がなぜ来ない朝から雀のおしやべり

・青葉あかるくげつそりと年とつた鏡の顔

・これが今日のをはりの一杯をいただく


 五月廿五日


快晴、身心さわやかである。

途上、兎の仔の可愛いのを見た、豚も仔はさすがにいやらしくない、それはそれとして、彼等はすべて、殺されて食べられるために養はれてゐるのだ、平気で食べる人間はどんな人間か(さういふ人間は二種ある、一は菩薩ともいふべく、他は禽獣ともいふべき人間)。

肥育といふことも)

君よみだりに愛を口にするなかれ慈悲を説くなかれ

もう暑い、街まで出かけてもヱライ、弱くなつたものだ、こんなに弱くては。……

夕方、案外早く樹明君が帰つて来た、飲んで寝る。

よい月夜、ほろ酔の月のあかりはよろしいかな。

樹明君は夜の明けるのを待つて早く帰つていつた、よろしい。

・青葉そよぐ風の、やぶれた肺の呼吸する

・夕風がでてあんたがくるころの風鈴の鳴る(樹明に)

・かたづけてまだ明るい茄子に肥水コヱをやる

・月夜の、洗濯ですか、よいですな

                 (自問自答)

     せんたくはよろし

 月夜の蛙がなく米をとぐ

 厠のあかるさは月のさし入りて


 五月廿六日


日本晴、頬白が囀り合うてゐる、私もうれしい、多分彼氏の来る日だ。

何とあたゝかい手紙が──澄太君をして迎田さんから──

ふと思ひ立つて山口へ行く、途上、冬村君に逢ふ、ニコ〳〵してゐる、その筈だ、今夜が婚礼だといふ、一天雲なし、めでたい〳〵。

大歳駅附近には芝居の掛小屋があつた、山口駅では旅芸人の群を見た、彼等に幸福あれ。

買物いろ〳〵──夕顔の苗、蕨、生干の小鰯、小さい食卓、等々──それだけで壱円あまり。

昼食は酒一杯とうどん一杯、むろん千人風呂には入つた、これが目的の大半だから、──温泉はほんたうによい。

九時で行つて三時には戻つた、戻つてみたら、やつぱり敬治君が来てゐた、いつしよに農学校へ、樹明君は婚礼の接待役を頼まれてゐて駄目、二人で駅のI旅館で夕飯、よく食べてよく飲んだ、うまかつた、近来の御馳走だつた、それからMでコーヒー一杯、そこで別れる、敬君は実家へ、私は庵へ戻つてぐつすりと寝た(コーヒー代五十銭はやつぱり惜しかつた、それは買はなければならない米二升代だつたではないか!)。

陰暦四月の十四日、月がよかつた。

 ちつとも雲がない山のよろしさ

・おもひでは山越えてまた山のみどり

 刑務所の高い塀から青葉若葉

   千人風呂

 ま昼ひろくて私ひとりにあふれる湯

 ぞんぶんに湧いてあふれる湯をぞんぶんに

・ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

   駅所見

 初夏の牛どもよ載せられてどこへ行く

・こんなに晴れた日の猫が捨てられて鳴く


 五月廿七日


晴、午後は曇つて雨が近いらしい、満月も駄目になつた。

身心がすこし重い、昨夜の飲みすぎ食べすぎのむくいだ。

街へ石油アブラ買ひに、──砂土を貰つて戻る、昨日、わざ〳〵山口から買つてきた夕顔の苗を植ゑる、どうもあぶないらしい、どうか生きかへつてくれ、伸びてくれ、咲いてくれ、実つてくれ。……

今日は海軍記念日、町では記念会が催されたらしい、飛行機が通つていつた爆音も今日にふさはしかつた、非常時風景、軍国風景の一つだ。

敬治君来庵、庵の御飯はうまいといつて数椀食べてくれた。

人間の気分といふものも面白いものだ、君は、医者のところで、うつかり父はゐないといつて、父を殺してしまつたさうな!

私だけ学校へ、鋸と鎌とを借りて、葵一茎、白薔薇一枝を貰つてくる。

やがて樹明君来庵(昨夜の冬村婚礼は朝の六時まで続いたさうだ)、ビール、酒、胡瓜も来庵!

飲んで食べて饒舌つて、夕方解散。

しづかなるかなさびしくはないしづかなる一人だ

・雨ふる竹をきる濡れてゐる(追加)

・死んでもよい青葉風ふく(〃)

・雀こゝまで子を連れてきてだんだんばたけ

・大きな鋸が造作なく大きな木を炎天(追加)

   改作追加

・雨ふる生えてゐる木を植ゑかへる

・百姓も春がゆく股引のやぶれ

・たま〳〵髯剃れば何とふかい皺(病後)

・ひとり、たんぽぽのちる

・寝るとして白湯のあまさをすする


 五月廿八日


曇、后晴、また持ち直したらしい、よく続くことだ。

ありがたい手紙をいたゞく(江畔老人から)。

うつかりして百足に螫された、大していたまなくてよかつた、見たらいつも殺すのだから一度ぐらゐ螫されたつて腹も立てられない。

街へ出かける、米買ひに(ついでに酒もうどんも)。

杉の下枝をおろす、茂りおろすや、と一句ありさうなものだが。

樹明君から白米を貰ふ、ありがたし。

敬治君は予想した通りに来ない、山口から大田へだつたらう、それがよろしい。

昨日も今日も句なし、それもよろしい。

何といふ鳥か、夕まぐれを切なさうに啼く。

虫が、いろんな虫がいそがしく動いてゐる。

山頭火の胃袋は何とデカイかな(その実例)。

朝食─お茶漬さら〳〵三杯、手製の新菜漬で。

昼食─小鰯を焼いて独酌一本(二合入)、温飯四杯。

夕食─うどん三杯、飯二杯、蕗の佃煮で。


 五月廿九日


よい月夜、寝苦しい寝返りを繰り返してゐるうちに、いつとなく夜が明けてしまつた、けさは早起の中の早起だつた。

しかし、二時頃だつたらう、二声三声、ほとゝぎすが啼いたのはよかつた、私には初音だつた。

今日も好天気、歩きたいな、行きあたりばつたりの旅がしたい。

たよりいろ〳〵、澄太君の温情、ありがたしともありがたし。

学校に樹明君を訪ねる、それから街を歩いてゐるうちに、ガソリンカーに乗つて山口へ、──小人、銭を持つて罪あり、──酔うて歩けばすつかり夏だ。

鈴木の奥さんを訪ねてビールをよばれる、湯田の湯はよいな、外郎はうまいな。

とにかく、愉快で、そして憂欝で、妙な一日一夜だつた。

・白うつづいてどこかに月のある夜みち

・寝苦しい月夜で啼いたはほととぎす

・てふてふとまるなそこは肥壺

・悔いることばかり夏となる

・いつでも死ねる草が咲いたり実つたり


 五月三十日


晴、いよ〳〵夏が来た。

独臥漫読、出て歩くのもよいが、かうしてゐるのも悪くない。

放下着、放下着の外に何物もない、何物もないのが放下着だ。

夜、樹明来庵、酒はやめて飯をあげる。……

更けてT子さん来庵、庵にも珍風景なきにしもあらず!

 おたがひにからだがわるくていたはる雑草

・胡瓜の蔓のもうからんでゐるゆふべ

・とんぼついてきてそこらあるけば

   改作追加

・前田も植ゑて涼しい風の吹いてくる


 五月三十一日


曇、一雨ほしい、草も木も人間も。

胡瓜に棚をこしらへてやる、伸びよ、伸びよ、実れ、実れ。

駅のポストまで、戻つてビール、これはT子さんが昨夜のお土産。

柿の花はおもしろい。

蛇には親しめない、によりと出てきてぎよつとさせる。

遊びすぎた、ちと勉強しよう。

夕方樹明来、今日はどうしても飲ましてくれといふ、からだのぐあいがわるくて酒でものまなければやりきれないといふ、すこし買うてきて飲む、彼もうまくないといふ、私もうまくない、何といつても健康第一ですよ。

   寒山の路、拾得の箒

酒も水もない世界、善悪、彼我、是非、利害のない世界、個も全もない世界。

それが極楽であり浄土である、いはゆる彼岸である。

水を酒とするのでなくて、酒が水となつた境地だ、酒は酒、水は水だけれど、酒と水とにとらへられない境涯、酒と水とに執しない生活だ。

こゝから、俳句、私の欣求する俳句は出てくる、私はさういふ俳句を作らうと念じてゐる。

個から出発して全に到達する道である、個を窮めて全を発見する道である。

我心如秋月──と寒山拾得は月を見て笑つてゐる。


 六月一日


曇、糸瓜を植ゑる、おもての入口に、うらの窓の下に。

入浴、髯を剃る。

放下着の放下──放下着を放下せよ。

清貧清閑、竹葉微風。

三時頃、ヱプロン姿でT子さんがやつてきた、今日は酒と肴とを持参して、樹明君にも来て貰つて、ゆつくり飲むつもりだつたが、仕事が忙しくて手がひけないので、お断りにきたといふ、そして酒屋の方へまはらなかつたからといつて、五十銭銀貨一つを机に載せて帰つていつた、彼女もずゐぶん変り者だ、女としては殊に変つてゐる、夫もあり子もあり、そして料理屋兼業の旅館Mの仲居さんだが、ヒス的であることに間違はない(樹明君も妙な人間を其中庵訪問者として紹介したものである)、句作でもすると面白いのだが、まあ、文学好きの程度、或る意味では求道者といつてもよからう。

夕暮はいろ〳〵の鳥が啼くかな。

つゝましい一日だつた。


 六月二日


曇、こんどこそ雨だらう、風が吹きだした。

草花を活ける、草花はどれもいつもよいなあ。

風、風、いやな風がふく、風ふく日の一人はいろ〳〵の事を考へる、──今日は自殺について考へた。

簡素、禅的生活、俳句生活は此の二字に尽きる。

純情熱意とを失ふ勿れ。

すなほに受ける、そしてすなほに現はす。

やうやく雨になつた、よい雨だが、風が落ちるとよいのだが。

在るところの世界について考察する、在るべき在りたい在らねばならない世界在らずにはゐない世界

夜は碧巌録を読む、いつ読んでもおもしろい本である、宗教的語録として、そして文芸的表現として。

趙州三転語、彼は好きな和尚だ。

・すでに虫がきてゐる胡瓜の花

・さつそくしつかとからみついたな胡瓜

・麦がうれたよ嫁をとつたよ

・なにがなしあるけばいちじくの青い実

・子を負うてさかなを売つて暑い坂かな

・茂るだけ茂つて雨を待つそよぎ

・蜂がてふてふが花草なんぼでもある

・風のふくにしいろい花のこぼるるに

・風の中の蟻の道どこまでつづく

・風ふくてふてふはなかよく草に

・風ふく山の鴉はないてゐる

・いちにち風ふいて永い日が暮れた

 暮れてふきつのる風を聴いてゐる


   つい   (安心決定とは)

自殺は人間の特徴だといふ、同時に特権でもあると思ふ。

自殺者は必ずしも生死透脱底の人ぢやない、否、寧ろ生死の奴隷が多い、しかし自殺は一大事であるには相違ない。

死にたくて死ぬる人もあらう、死にたくなくて死ぬる人もあらう、死にたくもなく、死にたくなくもなくて死ぬる人もないことはなからう。

ほがらかな自殺、幸福な自殺者、それは第三者には到底理解されない心境であり体験であると、私は考へる。

自殺の方法、それは自殺者に任したがよい。

自殺者の手記、それは最も下手糞な文芸作品だらう。

天も白く地も白く、そして人も白く光る、白光は死である、死の生である(死の生ではあるが、生の死ではない)。


      ┌存在

    生命│生存

      └生活


    生死去来

     行│遊行

     乞│苦行

     句│難行

     作│易行

     独り遊ぶ

      いつしよにあそぶ


 六月三日


霽れてゆく空や野や、雨後の朝景色はさわやかである。

野菜畑がいき〳〵としてきた。……

とても好い、そして暑いお天気になつた。

めうが一茎をぬすんできてたべる、めうがのかをりはよい。

T子さんがメカシて来た、今から掛取にゆくといふ、料理屋のカケがうまくとれるやうになれば、立派な一人前だ。

淡々君を待つ、今日来庵の通知があつたので、──もう、日が暮れるのに来てくれない、待ちきれなくなつて、学校に樹明君を訪れる(今日は宿直なのだ)、病状すぐれないと見えて欠勤、Cへ行つて酒一杯(四日目のアルコール注入だ)、ほろ〳〵として帰つてくると来客、来客──淡々君、そして耕三君。

暫らく会談、それから街へ、淡々君と私とはバスで湯田へ、耕三君は庵へ(どちらがお客だかわからない、そこが其中庵の其中庵たるところかもわからない!)。

湯田では飲んだ、飲んだばかりでなくフラウといつしよに寝た、しかし幸にして、或は不幸にして一夜だけの童貞であり、処女でありました!


 六月四日


朝早く一杯浴びて一杯ひつかける、湯町の朝酒はまことにまことによろし。

淡々君の財布が軽くなつたらしい(私は財布を持つてゐないし、持つてゐても重い日のあつたことなし)、十時のバスで小郡駅まで、そこで私は眠り、君は去つた。

耕三さんは昨夜よく庵で寝てくれたらしい、酒と米とが置いてあつた、ありがたすぎて、あまりにすまなくて。……

さつそく飲む、食べる、そして寝る、あゝ、庵中極楽。

寝た、寝た、ぐつすりねむれた、労れて、ぐつたりして。

酒と女、人間と性慾──こんな問題が考へられてならなかつた。

女よりも酒酒よりも本、──それが本音だ、私の、今の。

・風をおきあがる草の蛇いちご

・鳴きつつ呑まれつつ蛙が蛇に

・雨をたたへてあふるるにういて柿の花

・霽れててふてふ二つとなり三つとなり

・いつでも植ゑられる水田蛙なく

・夏めいた空がはつきりとあふれる水


   『

性慾といふものは怪物である。

人間が生きてゐるかぎり、それはどこかにひそんでゐる。

若いときにはあまりに顕在的に、老いてはあまりに潜在的に。

生存力、それは性慾の力といつてもいいかも知れない。

食慾は充たされなければならない、これと同じ意味で、性慾も充たされなければならない、それが要求する場合に於ては。

┌個体維持

└種族保存

性は生なり、といつても過言だとは必ずしもいへないだらう。

生活と交接とは不可離不可別である。

性慾は常に変装して舞踏する、それが変形変態すれば性慾でないかのやうでさへあるが、性慾の力はそのうちに動いてゐる。


 六月五日


曇、反省して顔を蔽ふ、なんぼ淡々君といつしよであつても、湯田に於けるプチブルくさい遊蕩ぶりは恥づかしい。

身心すぐれず、罰をうける、当然だ、必然だ。

裏の藪に──よその藪からうちの藪へ──によろりと筍が伸びてゐた、さつそく草をわけて抜く、お汁の実として食べる。

まだ酒があり米がある日。

夕方、樹明君に招かれて学校へ行く、宿直室で酒と飯とをよばれる、かういふ酒、かういふ飯がホンモノだ。

早く戻つて読書、それから安眠。


 六月六日


晴、勉強しよう、一切放下着、クヨ〳〵するな。

入浴、さつぱりする、清風こゝろよし。

うれしいたよりがあつた、砂吐流君から、安六君から。

一は一だけしか、一は一として、黒いものは黒く、黒いなりに、──それ以外の何物でもない、それはそれでよろしいではないか。

夕、樹明君が痛む足をひきずつてやつてきて泊めてくれといふ、OK、酒はないが飯はある、蚊帳の中で大の字に寝そべつて漫談数刻、いつのまにやら寝入つてしまつた。

庵中無事、事々妙好である。

   其中庵二句

・しろい蝶くろい蝶あかい蝶々もとぶところ

・花がさいて蜂がきてゐる朝

 この木のどこか病んでゐる日向水やらう

・てふてふあそばせてあざみあさのいろ

・ここにもてふてふがぢやがいものはな

・うぐひすよ、もとのからだにはなれないで夏


 六月七日


晴、すこし寒くて、なか〳〵忙しい。

薊を活ける、老鶯が啼く。

「松」「雑草」到着。

山へ行く、山はよいかな。

よく眠れた。

   こんな句はナイシヨウ〳〵!

・死んでしまうたら、草のそよぐ

・死ぬるばかりの、花の赤いかな

・からりとしてしきりに死が考へられる日

・死なうとおもふに、なんとてふてふひらひらする

 夏野、犬が走れば人も走つて

・朝風のきりぎりす大きうなつた

・ゆふべあかるい草の葉で蝶はもう寝てゐる


 六月八日


晴、けさはゆつくりと五時すぎるまで寝床の中。

自殺是非について考へる。──

詩外楼君から、桂子さんから来信、桂子さんからのそれはなか〳〵興ふかいものだつた。

大事に育てる茄子の一本が枯れた、根切病、詮方なし。

額が出来た、井師筆の其中一人、ありがたい。

焼酎一杯、むろんカケで、その元気で学校へ寄る。

T子さん来庵、酒とサイダーと肴とを持つて、やがて樹明君も来庵。

それから歩く、私一人で、そしてヘト〳〵になつて帰る、途中無事で、ヤレ〳〵。

・風ひかる、あわたゞしくつるんでは虫

 めくらのばあさんが鶏に話しかけてゐる日向

・たつた一人の女事務員として鉢つつじ

 たま〳〵たづねてくれて、なんにもないけどちしやなます(友に)

 もう春風の蛙がとんできた(再録)


   自殺是非

       (などゝいふなかれ)

自殺の可否は自殺者にあつては問題ぢやない。

死にたくて自殺するのでなくて、生きてゐたくないからの自殺だ。

生の孤独や寂寥や窮迫やは自殺の直接源因ではない。

自殺は最後の我儘だ。

酒と句とが辛うじて私の生を支へてゐた


 六月九日


三時半には起きた、昨夜の後始末。

うつ木の花、はかない花だ、活けてもすぐ散る。

残つたゞけ飲む、飲まずにはゐられない、といふよりも一滴も残しておけないのが酒好きの酒飲みだ。

性慾と食慾、食慾は満たさないと死ぬる、性慾は抑へてゐても生きてゐられる、そこに私共の関心がある。

技巧はそれを技巧と感じさせないところにそのうまさがある。

茄子苗を見つけた、すぐ植ゑる、どうぞついてくれ。

野韮の花、坊主花。

ウソかマコトか、ウソからマコト、マコトからウソ。

桂子さんのちまきが来た、重いな、グロテスクな食物だ、屈原の味か、薩摩隼人の味か、ようく噛みしめろ。

入浴、数日来のわだかまりを流す。

山へ、つつじを折つてきて仏様に供へる。

しづかな日だつた、遊蕩気分を払拭した。

ほんとに熟睡した、近来にないことだ。


 六月十日


曇、梅雨入前、午後すこし降つて晴。

時の記念日、とまつた時計を時計屋へ持つてゆく、ネヂがゆるんだためで、すぐに直してくれた、タヾで。

なまけもの、きまぐれもの、ぐうたら、等々と自分を罵つた、どうもこれは直らない、ネヂがゆるんだのではあるまい、ネヂがないのだらう!

郵便はとう〳〵来なかつた、さみしい日だ。

ゆすら桃、通りかゝつた垣根から二粒三粒つまんでたべて、遠い少年の夢を味つた。

夾竹桃がもう咲いてゐる、南国の夏の色と姿だ。

更けて、跛を曳きつつ、犬に吠えられつつ、樹明泥酔して来庵、自転車々々々と繰り返す、生酔本性とはこれだらう、宥め賺して、やつと寝させる、……すぐ大鼾だ!

夕暮、クロトリを聴く、ぢつと耳傾けてゐると、その声は切ない、しかし情愛の籠つた声だ。

一元的になりきりえない自分をあはれむ。

夜、時の記念として、──この句を喜代志さんにあげませう。

サイレンが鐘が正しく私の時計も九時

雨、夜の雨の音はよろしい。

未明近くT子さん来庵、たづねてきたのは私をぢやない、樹明をである、庵にはふさはしくない──困つたことである。

四時半には起きた、めづらしく裏山で狐が鳴いた。


(変電所の構成)


・草からてふてふがまた草へ

 大地にごろ〳〵かさなつて豚の仔が暑い

 ゆふべ時計がとまつてゐる午後三時

 ゆふべの窓に影あるは竹の二三本

・ひろがつて、こぼるゝ花をうけてゐる葉の(南天と蕗)

・ゆふ空ゆうぜんとして蜘蛛の生活

・蜘蛛は網張る、私は私を肯定する

・枯木へ糸瓜の蔓をみちびく

・萱もみな穂に出て何か待つてゐるようなゆふ風

・かういふ世の中の広告気球を見あげては通る

・実つて垂れて枯れてくる

・いちめんの夏草をふむその点景の私として

・待つでもなく待たぬでもなく青葉照つたり曇つたり


 六月十一日


梅雨日和、明日から入梅だ。

枇杷を食べる、私には初物だ、これは恐らく、昨夜の宴会の残物だらう、といつては持つてきてくれたT子さんにすまないけれど。

だん〳〵晴れる、雨後の風景はまことにあざやかなものである。

T子さん帰る、樹明君も帰る、あとは私一人でしづかなこと、其中一人で十分だ(半人では困るが二人三人でも困ります)。

雑草の中から伸びてゐた葱坊主、それは野韮でもないし、ラツキヨウでもないし、何だらうと考へてゐたが、玉葱だつた、今年捨てた屑根から芽生えてきたのだつた、小さい玉が三つ、これでも私の味噌汁の実にはなる、いや有難う。

大根菜間引、洗つて干す、あす新漬にするために。

奴蜘蛛を観察する、なか〳〵面白い。

虫を殺すことは不愉快だ、しかし殺さなければならない虫。

駅へ砂吐流君を出迎ふべく行かける、途中、樹明を訪ねて訳を話す。

赤と黒との接触を観察した、赤い蝶と黒い蝶との交尾行動!

砂君と共に、もう一度、樹明徃訪、二十年振の昔話、それから庵で、三人でよい酒うまい酒を飲む、砂君宿泊。

よく飲みよく話しよく寝た。

・歩いても歩いても草ばかり

・雑草やたらにひろがる肉体

・てふてふとんでも何かありさうな昼

・濡れて、てふてふも草の葉のよみがへる雨

・虫はなんぼでもぶつかつてくる障子の灯かげ

・ここにも工場建設とある草しげる

・土に描いて遊ぶ子のかげもむつまじく


 六月十二日


早朝、砂君を見送つて駅へ。

砂君はまろい人だつたが、二十年の歳月が君をいよ〳〵まろくした、逢うて嬉しい人だ。

何だか遣りきれなくて飲む、酔うて辛うじて戻つて寝た。

或る時は善人、或る時は悪人、或は賢、或は愚、是非正邪のこんがらがるのが人間の生活だ。

・てふてふよつかれたかわたしはやすんでゐる

・ふつと逢へて初夏の感情(追加)

・青空したしくしんかんとして

・朝じめりへぽとりと一つ柿の花

・けさはじめての筍によつこり

・こんなところに筍がこんなにながく(再録)

・あひゞきの朝風の薊の花がちります

・酔ざめはくちなしの花のあまりあざやか


 六月十三日

 六月十四日


身心も梅雨季だ、寝る、寝るより外ない!

寝る、寝る、寝るよ。

大村君が不意来庵、しばらく話す、樹明君へ手紙を托して米を送つて貰ふ。

夕、樹明来庵、庵の空気の険悪なのに避易して直ぐ帰つてしまつた!

・梅雨空おもく蜘蛛と蜂とがたたかふ

・焼かれる虫のなんと大きい音だ

・頬白がよう啼いて親鳥子鳥

・何もないけどふるさとのちしやなます(砂君に)

・話しても話しても昔話がなんぼうでもとんぼ通りぬけさせる

   こんな句も

・けさも二人でトマト畑でトマトをたべる(新夫婦に)

   (一人ならば私だ!)


 六月十五日


空も私もすこし晴れてきたが、……放下着。

筍によき〳〵、うまいなあ。

やつと層雲句稿を送つた、ほつとした。

シヨウチユウ! いけなかつた、破戒の罰はテキメンだつた。Yさんにもすまなかつた、樹明君にもすまなかつた、とう〳〵二人で酔つぱらつて、M旅館に酔ひつぶれてしまつた、……何といふダラシなさだらう!


 六月十六日

 六月十七日

 六月十八日


こん〳〵と寝た、寝る外ないのだ!


 六月十九日


……ヨリいけなくなつた、……シヨウチユウの誘惑、泥酔の醜態。……

放下着する外ないとすれば、行乞流転のくりかへしか、それとも自殺のハカナサか。……

衝動性変質者のみじめさ。

樹明君に謝し、同時に戒めます、あんたもあぶない!


 六月廿日


今日から断食、いや、絶食


 六月廿一日


夕方だしぬけに金井三郎さん来庵、対談一時間あまり。

お茶もあげなかつた、すまなかつた。

お土産として、日本魂の二合罎を戴く、胡瓜をもいできてさつそくに飲む、酒はうまいけれど、……あゝ。


 六月廿二日


晴、身心やつと落ちつく、ちつとも睡らないで、四時には起きて身辺整理。

時計をマゲテ──マゲルほどの品ではないが──それで米を買ふ。

三日ぶりにオマンマにありついたのである。

米は安い、酒は高い。

先日来の自分を反省して悲憤やる方なかつた、馬鹿、阿呆、頓間、間抜。

死にも死ねないやうになりつゝあつたのだ、情ない。

樹明君が死にそこなつた私を案じて給仕をよこした、ありがたい志だつた。

暴風一過の境地である。


いぬころぐさを活ける、去年をすぐおもひだす、おどり子草も咲いてゐる、すぐまた一昨年のことをおもひだす。……

ぐみの実、草いちごの実、おもひでがあまりに多い。

虫が鳴く、こうろぎよ。……

虫が歩く、油虫だ。

近眼と老眼とがこんがらがる、躓き易くなつて老を感じる。

       ………………………………………………………

・ま昼の花の一つで蝶々も一つで

・かどは酒屋で夾竹桃が咲きだした

・朝風の草の中からによこりと筍

・ゆふ空ゆたかに散りくるはあざみ

・ほんに草の生えては咲く(改作)

 うらは藪で筍によきによき(其中庵風景)

・水田たたへてつるみとんぼがゆふ日かげ

・雲雀が空に親子二人は泥田の中

・鍋や茶碗や夜つぴて雨が洗つてくれた

   かういふ句も

 抱かうとして夜の雨ふる


 六月廿三日


昨夜もよく睡れなかつたので、何となく身心が重苦しいけれど、落ちついたことに間違はない。

学校に樹明君を訪ねて、先夜のお詑とお礼とをいふ、君はまつたく病人だつた、身心共に。

酒はよいが、アルコールがいけないのだ、人そのものは申分ないのに意志が弱いのだ。

君よ、しつかりして下さい、私もしつかりと生活する。

梅雨の暑苦しさ、それは私たちの身心のやうな!

放下着、そしてまた放下着。

行雲流水、無礙無作、からりとして生きて行け。

田植がはじまつた、毎日、朝から晩まで泥田を這うて働らく人々に対して、私は恥づかしく思はないではゐられない。

豚が食べてゐる、クン〳〵鼻を鳴らして──豚は食慾そのものであるやうに感じさせる、食べて肥えて、そして殺される豚だ。

雀の子がうまく飛べない、畦から畦へと餌をあさつてはゐるが──多分、彼はみなしごだらう。

夕方、ばら〳〵と降つた、なか〳〵降らない梅雨だ。

風呂を飲んでしまつた、澄太君に申訳がない、どうでもかうでも風呂代だけは捻出して、その野風呂にはいつて貰はなければならない。……

中外日報を読んで、無塀さんを思ひだした、品のよい、おとなしい芸術家である彼はしづかな力を持つてゐられる。

   断想

心清浄、身清浄、 身清浄、心清浄

山のすがた、水のすがた、人間のすがた。

すがた即こころ、こころ即すがた。

そのすがたをうたふ、それがこゝろの詩である、私の俳句である。


 六月廿四日


曇、梅雨らしく降りだした。

私は平静である、清澄でさへあると自惚れてゐる、私は私にかへることが出来たから、私は私の場所に坐つてゐるから。

一切が過ぎてしまつた、といふやうに私は感じつゝある。

午後、樹明君が酒井教諭をひつぱつて来た(本当は酒井さんが樹明君に案内されて来庵したのださうなが)、無論、酒と肉とを御持参になりまして、──三人ほどよく酔うて暮れる前に解散、それから私は御飯を炊いて筍を煮て夕飯。

快眠、眼覚めたのが十二時頃、漫読してゐると、ゴム靴の音がする、樹明酔来、手のつけやうがないので、ほつたらかしておく、かういふ場合の彼は(必ずしも彼に限らないが)人間でなくて獣だ、鼾は大蛇の如く、そして野猪の如く振舞ふ、あゝ酒好きの酒飲みの亭主を持つた女房は不幸なるかな!(これは樹明君にのみ対して投げる言葉ぢやない)

   酒についての覚書

味うてゐるうちに(飲むのではない)酒のうまさがよい酔となるのでなければ嘘だ、酒はうまい、酔へばます〳〵うまい。……


 六月廿五日


曇、雨、梅雨らしくなつた、梅雨は梅雨らしいのがよい。

樹明君は朝になつてもまだ酔が醒めないらしい、それでも、ひよろ〳〵跛をひいて出勤した、樹明君よ、しつかりして下さい、あなたがしつかりしてゐてくれないと、私も倒れる(私にはそんな忠告を敢てする資格はないけれど)。

晴ならば山口へ行くつもりだつた、明日は澄太君、砂吐流君が来て下さるのに、もう米もない、醤油もないから、本でも売つていくらか拵らへるつもりだつたが。

自然生の桐苗を移し植ゑた、どうか枯れないでくれ。

窓に近く筍二本、これは竹にしたいと思ふ、留守にTさんが来て抜かれては惜しいと思つて、紙札をつけておく、『この竹の子は竹にしたいと思ひます 山頭火』

昨夜の酒は私にはよかつた、今日は昨日よりも落ちついて、そして幸福である。

・ここでもそこでも馬を叱りつつ田植いそがしい

・叱つても叱られても動かない馬でさみだれる

・人がきて蠅がきて賑やかなゆふべ

・どうにもならない人間が雨を観る

・負うて曳いて抱いてそして魚を売りあるく(彼女を見よ)


 六月廿六日


梅雨曇、まづ玉葱と筍とを茹でて友を待つ。

昨夜もよく眠れたが、狂犬に追つかけまはされた夢を見た、その狂犬は煩悩だつたらう。

たよりいろ〳〵、なかんづく、緑平老からの手紙は涙がこぼれるほどうれしかつた。

晴れてきて蒸暑くなつた。

街へ、買物かず〳〵、米と醤油と買へたのが何よりも有難かつた。

友に与へた手紙のうちに、──

老来なか〳〵に思ひ惑ふことが多くて、ます〳〵グウタラとなり、モノクサとなりつゝあります、どうでも少し歩いて来なければなりません。……

駅のポストへ行つて戻つたところへ、ひよこりと澄太君があらはれた、さつそく一杯やる、胡瓜がうまかつた、酒のうまさはいふまでもない、何もかも愉快々々。

六時の汽車で帰りたいといふので駅まで見送る、待つてゐる人のところへかへるとは、ちと癪にさわりますね。

月がよかつた、陰暦の五月十五夜だつた、一人で観るには惜しい景色であつた。

月がこぼれる、月かげを拾ふ、といふやうな文句が思ひ浮べられた。

澄太君の友情はありがたい、水を汲んでくれ、そしてまた小遣までもおいてくれて、──私はこんなにして貰つてもよいだらうか!

螢がとぶ、すこしさびしい。

のう〳〵と蚊帳の中に横はつてもなか〳〵に睡れなかつた、何だか少し興奮して。

・山はひそかな朝の雨ふるくちなしの花

・子供が駈けてきてカツポウによきりと抜いたぞ

 赤い花や白い花や梅雨あがり

 降つて降つていつせいに田植はじまつた

・花さげてくる蝶々ついてくる

   石鴨荘即事

 草山のしたしさは鶯のなくしきり(改作再録)

・酔へばはだしで歩けばふるさと

・さみだるるやはだしになりたい子がはだしとなつて

・なんとよい月のきりぎりす

・はだかで筍ほきとぬく

・竹にしたい竹の子がうれしい雨


 六月廿七日


曇、よく睡れないので明けきらないうちに起きた、水鶏(?)がしきりに啼く、あはれな声で。

草苺のうつくしさよ。

朝酒のよろしさ、一人のよろしさ。

ほろ酔機嫌で、床屋へ、湯屋へ、酒屋へ、質屋へ、仕立屋へ、そして防府へ行つた。

三田君の宅に泊めて貰ふ、E君にもI君にも逢ふことは逢ふたが、もう彼等と私との間には友情が残つてゐない、三田君は特別だ、彼は世間的には失敗した方だけれど、人間としてのあたゝかさを失つてゐない、彼のあたゝかさは沸かしあたゝかさでなくして湧くあたゝかさだ。

月はよかつたが蒸暑い夜だつた、飲みすぎたので寝苦しかつた。

・ならんで竹となる竹の子の伸びてゆく雨

・竹となりゆく竹の子のすなほなるかな

・山から山がのぞいて梅雨晴れ

 月夜の青葉の散るや一枚

・もう一めんの青田となつて蛙のコーラス

・がつがつ食べてゐるふとると殺される豚ども

・街はうるさい蠅がついてきた

 ついてきた蠅でたゝき殺された

・風ふくとんぼとまらないとんぼ


 六月廿八日


晴、いよ〳〵空梅雨だ、もう真夏の暑さである。

昨日の失敗を省みて、気短かと早合点とを戒める。──

朝、九時前にオヨリデキヌ一一ジ二〇ヱキデオアイシタシといふ電報が砂吐流君から来た、で、十時過ぎには駅へ出かけて、大社線十一時弐拾三分止の列車を待つた、が、車内にもプラツトにもどこにも砂君の姿は見えない、そこで気短かの私は早合点して、さては何かの事情で延引したのだらう、留守中に何とかいつてきてゐるかも知れないと考えたので、急いで帰庵したのである、そして念のために、学校に樹明君を訪ねたら、案の定(といふ風に感じたのである)、砂君が自動電報をかけて、私を探しても見当らないから、残念ながらこのまゝ帰京するといふことであつた、それは十一時三十分頃だつたといふ、私もその頃駅の附近にゐた、もうすこし待つて十一時四十分東上急行車の発着までゐればよかつたのだ(砂君は多分自動車でやつて来て、その列車に乗り込んだのである)、人生の事おほむね斯くの如し、ほんの五分か十分の現在が当来の十年二十年となるのである。

何ぞ塩の安きや、私は一ヶ年間に五銭づゝ三度しか塩を買はない、それで十分なのである、一年十五銭の塩代だ。


宮市はふるさとのふるさと、一石一木も追懐をそゝらないものはない、そして微苦笑に値しないものはない。

天神様へ参詣した、通夜堂から見遙かす防府はだいぶ都会らしくなつてゐる、市となるのも時の問題だらう。

町役場で戸籍謄本を受ける、世間的に処理しなければならないことが私にもある!

駅前の菖蒲園を見た、日本的なのがうれしかつた。

十一時の汽車で帰庵、うちがいちばんよい(といふことは防府が私をひきとめるだけのものを持つてゐないといふことだ)。

……足らで事足る生活……それが私の現在の、そして将来の生活でなければならない。

日が傾いてくると、きゆつと一杯ひつかけたくなつて、もうたまらないので、わざ〳〵T店まで出かけて、焼酎一杯、息なしに飲む、だいたい焼酎を私は好かない、好かないけれど酒の一杯では酒屋の前を通つた位にしかこたえない、だから詮方なしに焼酎といふことになる、酒は味へるけれど、焼酎は味へない、たゞ酔を買ふのである、その焼酎がいかに私の身心を害ふかは明々白々だ、だから、焼酎を呷ることは、まあ自殺──慢性的な──今の流行語めかしていへば slow suicide だ! それはむしろ私に相応してゐるではあるまいか!

転ぜられるところが転ずるところそこは物心一如自他不二だ

腐つた物をたべてもあたらない、──こゝまでくるとりつぱにルンペンの尊さを持つてゐる。

いはでもの事をいふ私、しなければならない事をしない私。

ふと眼がさめたら、とてもよい月夜、もう十二時を過ぎてゐた、近来稀な快眠熟睡だつた。

   防府にて

・この家があつてあの家がなくなつてふる郷は青葉若葉

・青田はればれとまんなかの墓

・青草をふみ鳴らしつつ郵便やさん

   再録二句

・月からこぼれて草の葉の雨

・あほげば梅の実、ひよいともぐ

・ほろにがさもふるさとにしてふきのとう(追加)

   故郷といふもの

故郷はなつかしい、そしていとはしい、それが人情だ。

故郷の人間には何の関心を持たなくても、故郷の風物には心を惹かれる。

一木一石、すべてが追想を強いる。

歩々の微苦笑だ、ニガワラヒといふやつだ。(防府にて)


・朝風のトマト畑でトマトを食べる(改作再録)

・うらへまはる私ととんぼとぶつかつた


 六月二十九日


晴、昨日今日、梅雨には珍らしい青天、そして暑気だ。

九時の汽車へゆく、もう米もないし、米代もないから。

朝から失敗した、年はとりたくないもの、此頃は物忘れして困る、といふのは煙草代と汽車賃だけはある銭入を忘れて出立したのである、八百屋のおばさんに事情を説いて、時計を預けて、五十銭玉一つを借りる、おかげでバツトが吸へて、ガソリンカアに乗れた。

古本として多少の銭になりさうな弐冊、それが八十銭になつた、さつそく一杯、そしてS家を訪ねる、周二さんはまだ帰郷してゐない、赤の事で当局に油をしぼられてゐるらしい。

湯田の千人風呂で一浴、バスで上郷まで、新町で下車して、朝のマイナスを返す、やれ〳〵。

二時半帰庵、うちほど楽なものはない。

今日もまた焼酎を呷つた、それだけ寿命を縮めた。

何となく──それはウソぢやない──人心凝滞、世相険悪を感ぜざるを得ない、ダイナマイトはうづたかく盛られてある、まだ点火するほどの人間が出現しないのだ!

我儘を許されない身心──かうまで心臓が弱くなつてゐるとは思はなかつた、ああ。

くちなしの花、その匂ひが(その色よりも姿よりも)私を追想の洞穴に押し込める。……

アルコール中毒、ニコチン中毒、そして俳句中毒、酒と煙草と俳句とはとうてい止められない、止めようとも思はない。

在る世界から在るべき世界へ、在らずにはゐない世界へ、そして私はまた在る世界へかへつて来た、在るところに在るべき、或は在らずにはゐないものがある、──私をそれを知るといふよりも感じる、そしてそれを味はひつゝある。

私も破家散宅したけれど、それは形骸的であるに過ぎなかつた、これから心そのものの放下着だ。

   『旧道』

新道はうるさい、おもむきがない、歩くものには。

自動車が通らないだけでも旧道はよろしい。

旧道は荒れてゐる、滅びゆくもののうつくしさがある。

水がよい、飲むによろしいやうにしてある。

山の旧道、水がちろ〳〵流れるところなどはたまらなくよい。

   或る農夫の悦び

・植ゑた田をまへにひろげて早少女の割子飯

・田植もすましてこれだけ売る米もあつて

・足音は子供らが草苺採りにきたので

・夕凪の水底からなんぼでも釣れる

・露けき紙札『この竹の子は竹にしたい』

・ほんとにひさしぶりのふるさとのちしやなます(改作再録)

   山口後河原風景

・おいとまして葉ざくらのかげがながくすずしく

 木かげがあれば飴屋がをれば人が寄つて

・ま夏ま昼の火があつて燃えさかる

 大橋小橋、最後のバスも通つてしまつて螢

・バスの揷花の、白百合の花のすがれてはゐれど

   緑平老に

・あれからもう一年たつたナツメが咲いて


 六月三十日


晴、曇、蒸暑いこと。

水はともかく、ビールのやうな句も出来ない、出来るのは濁酒のやうな句だ、ウソはないけれど。

ごろ〳〵と寝たり起きたり、あゝ退屈だ、もつたいないが。

坐敷にぱたりと音を立てゝとかげ殿の散歩!

とんぼがあたまのてつぺんにとまりました。

蝉の声です、初耳です、もちろんみん〳〵蝉です。

今日も焼酎を呷ることを忘れなかつた、といふよりも、呷らずにはゐられなかつた、飲むときは胸が痛いほど苦しい、しかし飲んでしまへば何となくうれしくなる。……

ウソイツハリのない自殺的行為だ。

歩けなくなつた山頭火、みじめな山頭火だ。

青紫蘇の香のよろしいこと。

心境はかはる、気分はうつる、──生きたくも死にたくもなかつた、生きてゐてもよく死んでしまつてもわるくなかつた、──生きてゐたくなくなつた、──死んでしまひたくなつた、──それは自然的推移、必然的変化ではあるまいか。──

事物の破壊から自己の破壊へ!

       ……………………………………………………………………

・筍あんなに伸びて朝月のある空へ

・いつも鳴る風鈴で夏らしう鳴り

・晴れて朝から雀らのおしやべりも(改作)

・糸瓜の蔓がこゝまで筍があつた

・空ラ梅雨のゆふ風や筍はしづくして


 七月一日


晴、つゝましくすなほな生活を誓ふ。

こゝろあらためて七月朔日の朝露を踏む

筍を観てゐると、それを押し出す土の力と、伸びあがるそれ自身の力とを感じる。

ウソからホントウの自殺へ──彼は酔うて浪費つて、毒をのんだとウソをいつたが、とう〳〵ホントウに服毒しなければならなくなつた、そして死んだのである。……

移植した三本の桐苗がみんなついたらしい、二三年もたつたら青々として夕日をさえぎつてくるだらう。

樹明来庵、飯を食べたい、そして銭を三十銭貸してくれといふ、昨夜から飲んで帰らないのださうな、目前酔うてゐないのがうれしくて、飯を炊き銭入をはたいた。……

焼酎を呷る、焼酎が焼酎をよぶ、酔うた、泥酔した、しかし、庵にかへつてぐつすり寝た。

酔うても酔はないでも、悠然として変らない身心となりたい。

シヨウチユウよ、サヨナラ。

 家いつぱいに昇る日をまともに郵便を待つ

・たづねてくれるみちの草だけは刈つておく

・郵便やさんがきてゆけばまた虫のなく

 すこし風が出て畳へちつてくるのは萱の穂

・ひとりひつびり竹の子竹になる

・うれしいこともかなしいことも草しげる

・生きたくもない雑草すずしくそよぐや

 あをあをと竹の子の皮ぬいでひかる

・竹の子竹となつた皮ぬいだ

・竹の子伸びるよとんぼがとまる


 七月二日


曇、酔覚のむなしさ、はかなさ、終日読書。

さらにこゝろをあらためて七月二日の朝露をふむ


 七月三日


晴れきつて暑かつた、今日も終日読書。

水、水、水はうまいな、ありがたいな。

身心が弱くなつたことを痛感する。

・雑草すゞしく人声ちかづく

・すくすくと筍のひたすら伸びる

・暮れるとひやつこい風がうら藪から

・けさは鶯がきてこうろぎも鳴く

・炎天、かぜふく

・おもくて暑くてねぎられてまけるのか


 七月四日


晴、夏の朝はよろし。

一天雲なくして暑い、まだ梅雨のうちだのに。

昨夜は寝苦しくて寝不足だつたので、ぐつすりと昼寝。

四日ぶりに街へ出かけてコツプ酒一杯借りた。

たいへん忘れつぽくなつた、忘れてならないことを忘れるやうになつた。

 ここにも筍がとなりの藪から

・炎天、とんぼとぶかげ

・いま落ちる陽の、風鈴の鳴る


 七月五日


晴、とても暑くなるだらう、終日読書。

蝉が鳴きはじめた、まだ長く巧くは鳴けないが。

何といふ鳥か(雉子かとも思ふが)、迫るやうな鋭い声で裏山の奥の方で啼く。

よいたよりもよくないたよりもこないさびしさだつた。

うちの初茄子を味ふ。

野菜に水をやる、いかに私の身心が弱つてゐるかを知る。

・けふも暑からの山の鴉のなくこゑも

・朝からはだかでとんぼがとまる


 七月六日


好晴、身心清澄。

あれからもう一年たつた、緑平老をおもひ白船老をおもふ。

碧巌を読む、碧巌はいつ読んでもなんど読んでも興が深い、そこに禅の語録の味はひがある。

私に貧閑の記があるべきだ、あらなくてはならない。

今日も郵便が来ない、さびしいなあ!

樹明徃訪。

何日ぶりかで新聞を読む、斉藤内閣が総辞職して大命が岡田大将に降下したことを知つた。

米がなくなつて思案してゐたら、米を与へられた、米、米、米、米なるかなです、日本人は米がなくては生きてゐられない。

暑い、暑い、ぢつとしてゐて、雑草の風がふくのにこんなに暑い、さぞや。……

さびしいけれどしづかで、貧しいが落ちついてをります、……と友へ書いた、私はやうやく落ちついた、過去の一切の罪障を清算しなければならない。……

・かうしてながらへて蝉が鳴きだした

・藪を伸びあがり若竹の青空

・若竹ゆらゆらてふてふひらひら

・いつぴきとなりおちつかない蠅となつてゐる

・炎天の萱の穂のちるばかり

・ま昼ひそかに蜂がきては水あびる


 七月七日


晴、新暦では七夕、一年一回の逢瀬は文字通りに一刻千金だらう!

朝は涼しいよりも寒い、そして日中は土用よりも暑い。

一雨あつたら、人よりも草木がよろこぶだらう、田植の出来ない地方、田植しても枯渇する地方のみじめさ、気の毒さ。

身心ます〳〵平静、山頭火は山頭火であれ。

若竹のすなほさ、のびやかさ、したしさ。

やつと郵便がきた、北朗君がよく覚えてゐて鈴を送つてくれた、忘れてゐたゞけ嬉しかつた、「松」「地に坐る者」などそれ〴〵ありがたい。

嫌な手紙を書いた、それは書きたくない、書いてはならない手紙だつた、生きてをれば、生きるために、かういふ手紙を書かなければならないのだ。

雨乞の声が山野に満ちてゐる。

ちよつと街まで出かける、心臓の弱さがハツキリ解る、ぽつくり徃生こそ望ましい。

夕方、樹明君が来た、酒と下物とを持つて、──よろしくやつてゐるところへ、ひよこりと黎々火君がやつて来た。

黎々火君をそゝのかして街を歩く、持つてゐるだけ飲んでしまつた(といつてもみんなで一円五十銭位!)、酔ふ、とう〳〵野菜畑で一寝入した。……

・すゞしい風のきりぎりすがないてとびます

・炎天、なんと長いものをかついでゆく

・父が母が、子もまねをして田草とる

・炎天、きりぎりすはうたふ

・朝の水があつて蜘蛛もきて水のむ


 七月八日


晴、とても暑い日だつた、百度近くだつたらう。

朝蝉が鳴く、朝酒がほしいな、昨夜の酒はだらしなかつたけれど、わるい酒ではなかつた、ざつくばらんな酒だつた。

八時頃、約を履んで樹明来、釣竿、突網、釣道具、餌、そして辨当まで揃へて。

三人異様な粉装で川へ行く、途中コツプ酒、与太話、沙魚は釣れなかつたが蝦をすくうた、裸体で水中を歩くのは愉快だつた、船のおかみさんが深切にも辨当を食べる用意をしてくれました。

帰途、酒と豆腐とを買つて(三人で買へるだけ、金九十五銭!)、ゆつくり飲んだ、それは「豆腐をたべる会」第一回でもあつた、とかうして七時解散。

 とんぼふれても竹の皮のおちる

・とぶは萱の穂、おちるは竹の皮

・いつもの豆腐でみんなはだかで

 蝉なくやヤツコよう冷えてゐる

 したしさははだかでたべるヤツコ

・風はうらからさかなはヤツコで

・金借ることの手紙を書いて草の花

・朝蝉、何かほしいな

・夕蝉、かへつてゆくうしろすがた(黎々火君に)

・ともかくもけふまでは生きて夏草のなか

・ぽとりぽとり青柿が落ちるなり


 七月九日


晴、降ればよいのに、降りさうにもない。

甘草、またの名は忘れ草を活ける、百合よりも野趣がある。

蟻地獄といふもの、何だか気味悪い存在だ。

ちよつと街のポストまで、そしてちよつと一杯!

夕蝉なけばまた一杯やりたいな!

・風がふきぬけるころりと死んでゐる(自弔)


 七月十日


晴、曇、夕立がきさうだつたが、バラ〳〵と落ちたゞけ。

昨日も今日も終日読書。

一杯やりたいが、それどころぢやない、一椀があやしくなつた!

周囲が(私自身も)コセ〳〵してゐるのが嫌になる、もつとユツタリとしたいものだ。

……生きてをれば生きてをるがために、いひたくない事をいひ、したくない事をしなければならない、……生きてゐたくないと思ふ。

三八九復活の外はない、やつぱり謄写刷がよい。

肋膜の工合が変だ、うまく死ねないものか!

・食べる物がない涼しい風がふく

・どうせもとのからだにはなれない大根ふとる

 生えて移されてみんな枯れてしまつたか

・酒と豆腐とたそがれてきて月がある

・青田風ふく、さげてもどるは豆腐と酒

・食べる物はあつて酔ふ物もあつて草の雨


 七月十一日


晴、曇、晴、そして待ちに待つ手紙は来ない。

今日は食べる物がないから砂糖湯を飲む、そして胡瓜を食べる。

米屋は米を貸してくれない、酒屋は酒を飲ましてくれた!

酔ふ、虚無が酔ふ踊らう、踊らう。

肺炎再発の気味、生死去来は御意のまゝ!

何か食べたいな──これが人間の本音かも知れない。

生死去来


 七月十二日


曇、やつと雨になつた。……

慈雨、喜雨、生命の雨だ、降れ降れ、降つてくれ。

何とうれしい手紙が、それはNKから、そして地獄がすぐ極楽だ!

食気と色気の二つが人間生活の根源だつた。

飯のあたゝかさ、うまさ、ありがたさ。

よく飲んでよく食べて、ぐつたりとしてゐるところへ黎々火君ひよつこり来庵、酒と米とを持つて、──はだかで、かやの中で飲んだり食べたり。

彼の憂欝はよく解る、私も老来かへつて惑ひ多し。

父と子との間

  ──(Kをおもふ)──


 七月十三日


雨、曇、晴。

朝の四時の汽車で黎々火君は出立出勤。

過去一切の悪業を清算する時機が来たやうだ。

酒といふものは、飯といふものは、銭といふものは、句といふものは、人間といふものは。

今の今こゝのこゝ私の私。──

ちよつと街まで、午前、ちよつと駅まで、午後、夜は読書。

無事平安の一日だつた、めでたし、めでたし。

・どうにもならない空から青柿

・若竹はほしいままに伸びる炎天

・雨を待つ風鈴のしきりに鳴る

・炎天のはてもなく蟻の行列

・身のまはり草の生えては咲いては実る(改作)


 七月十四日


曇、おかげでよいお盆が迎へられました。

鬼百合を活ける、力強い花である。

句稿をおくる、かなり句作するのだが、おくるとなれば、さても少ない、自信のある句が少ないのである。

あるだけの酒を飲む、街を歩いても、友を訪ねても、ちつとも慰まない、戻つて寝る、──まことにあぶない一歩だつた。

父と子との間は山が山にかさなつてゐるやうなものだ(母と子との間は水がにじむやうなものだらう)、Kは炭塵にまみれて働らいてゐる、彼に幸福あれ。

雨乞が方々で行はれる、こゝでも今夜裏山で火を焚くさうな。

・空梅雨いちにち、どなられてぶたれて馬の溜息

・空は空梅雨の雨蛙なくとても

・その竹の子も竹になつた、さびしさにたへて

・もう死んでもよい草のそよぐや(帰庵病臥二句)

・死ねる薬はふところにある草の花

・灯すよりぶつかつてくる虫のいのちで(改作)


 七月十五日


今日も曇つてゐるが、降りさうでなか〳〵降らない。

酒に対する執着を放下しないかぎり、私の生活は安定しない。

まづ、消極的禁酒を実行しなければならない(進んで呷らないこと、退いて味ふこと、具体的にいひかへれば、ありもせぬ金で買うて飲まないこと、貰ふたら飲むこと、御馳走酒しか飲まないこと)。

個人的感情──社会的感情──人間的感情

午後、樹明君が来て、ゆつくり昼寝して帰つた、私は今日の君にフイリスチンを感じた、多分、君も今日の私にミサンスロピストを感じたであらう。


 七月十六日


曇、だいぶ日が短かくなつた。

昨夜はよくねむれた、九時から四時までぐつすりだつた。

街のポストまで、ついでにちよいと一杯、つい破戒してしまつた!

・青田いちめんの送電塔かな

・虫が蔓草のぼりつめて炎天

・ひでり空、咲いて鬼百合の情熱は

・しげりふかく忘れられたるなつめの実

・きのふのいかりをおさへつけては田の草をとる

・炎天まうへにけふのつとめの汗のしたたる


 七月十七日


曇、今日こそは降りさうな。

たより、いろ〳〵のおもひ。

蓮華がひらいた、まことに仏の花。

今日の一杯は昨日の百杯よりも明日の千杯よりもうれしい。

午過ぎ、ひよこりと周二さん来庵、暫らく話した。

油虫! この虫には閉口する、すまないけれど見つけしだいに殺す、百足と同様に。

昨日のやうに今日も寝ころんで漫読。

どうしても睡れないから、読んだり作つたりするうちに、やつと夜が明けた、身のつかれ、心のつかれ、かうなつては薬物の力で睡るより外はあるまい。……

・蝉の声はたえずしてきりぎりす

・むしあつく鴉の声は濁つてゐる

 窓へもからんで糸瓜がぶらりと

・風の雀がとまらうとする竹がゆらいで

・ゆふ風によみがへり草も虫も

・暮れると出てくる油虫だけ


 七月十八日


曇、朝から暑い、よその夕立。

彼は子を負うて田の草をとつてゐる。

豚小屋の豚を見るとき、嫌厭と憐愍とにうたれる。

彼の結婚について考へる、……私は。……

また一杯、サケ一杯では酒屋の前を素通りした位にしか感じないから、シヨウチユウにした、──破戒の破戒だ。

学校に樹明君を訪ねる、別状なし、どちらも酒が飲みたい顔色をしてゐたらう!

私のでかい胃の腑よ、呪はれてあれ、でかすぎる。

久しぶりに入浴、そして顔剃。

めづらしく犬がきた、猫もきた、鼠もきてゐるらしい。

夕暮、すこしセンチになつた、白髪のセンチメンタリストか。

・ひでりつづきの踊大皷の遠く近く

・風鈴すずしい雑草青い朝がきた

・いつまで降らない蕗の葉もやぶれ

・ぎいすはらめばはひあるくひでりばたけ

・百合咲けばお地蔵さまにも百合の花

   酒中酒尽

・よい酒だつた草に寝ころぶ(末後の一句)


 七月十九日


曇、思はせぶりなお天気ではある。

裸礼讃、むろん私は朝からハダカだ、お客にもすぐハダカになつてもらう、ハダカは其中風景のありがたい一景だ。

感覚的なものが最も現実的である、だから、食慾と色慾とが生活の根本動力であり、ニヒリストが官能に走る所以である。

気分に沈静になつてくる、あまり好もしい状態ではない。

今日の、招かないお客さんとして、とんぼ、とかげ、蜂、蠅、かまきり、きりぎりす、そしてあぶら虫は嫌な食客である。

何と糸瓜と糸瓜とが握手してゐる、その蔓が蔓にからんでござるのだ。

今夜も不眠苦、不眠は生理的には勿論、心理的にも、道徳的にさへもよろしくない。

・胡瓜ばかりたべる胡瓜なんぼでもふとる

・炎天落ちる葉のいちまい

 炎天、がつがつ食べるは豚

 青田のなかの蓮の華のひらいた

・汲みあげた芥がおよげばいもりの子かよ

・バケツの水もゆたかにいもりの子はおよぐ

・からむものがない糸瓜が糸瓜に

・食べる物がない夜中のあぶら虫でやつてきた


 七月二十日


曇、──后晴か! と思つてゐたら降りだした!

垣根から白い花が咲いてゐた、私はぢつと眺めてゐたが、たまらなくなつて、一枝下さいといつたら、若い妻君が、さあどうぞといつてナイフまで持つてきてくれた、彼女はおなじく白い花だつた。(白木槿の花)

彼のハズは幸福だらう、幸福でなくちやならない。

一切は死に対する心がまへ、死についての身じまひではなからうか、もとより生や生の全機現、死や死の全機現ではあるが。

うまい句とよい句、──これが解らなければダメだ、私としてはうまい句を望まない、よい句を作りたい、それは真実の句だ。

どうにもやりきれなくなつて、あの店この店とヤケで二三杯飲み歩いた、もしも人生に、いや私に酒といふものがなかつたら!

とにもかくにもよい雨だつた。

ねむれた、十時から五時まで、夢が夢につゞいたが。

・草にも風が出てきた豆腐も冷えただろ

・ゆふなぎを、とんでゐるてふねてゐるてふ

・田の草をとるせなかの子は陽にやかれ

・めつきり竹になつてしづくしてゆふ風に

・ここを死場所として草はしげるまゝに

・汲む水もかれがれに今日をむかへた


 七月廿一日


曇、時々雨、よその夕立のこぼれだらう。

熊蝉最初の声、油蝉も鳴いた。

芭蕉撰集を読む、それは碧巌録のやうである、私には。

豚の如く──まつたく私は豚のやうに生活、いや、生存してゐる、異るところは、肉が食料として役立たないばかりか、焼却の手数を煩はすことだ!

私はなるたけ虫類を殺さないやうにしてゐるが(雑草を茂るがまゝに茂らせておくとおなじく)、油虫だけは見あたりしだい殺さずにはゐられない、彼等は食器を汚して困る、物をいためて困る、本でさへかじる、──しかし、私はいつも私のヱゴイズを恥ぢる。

ねむれない、ねむれない、雨声を聴く、虫声に耳傾ける、そしてとろ〳〵とすれば、何といふ夢だ! 恥を知れ!

・百姓なれば石灰をまく石灰にまみれて炎天

・朝はすずしくお米とお花とさげてもどる

・夕立つや若竹のそよぎやう

・青田も人も濡れてゐる雨のあかるく

・こゝまでさくらが、窓あけておく

・あすはかへらうさくらがちるちつてくる(追加)

・病み臥してまことに信濃は山ばかり(飯田にて)


 七月廿二日


曇、夕立、身心やゝよろし、豪雨こゝろよし。

柿が大きくなつた、葉からのぞいてきた。

死をおもふ。……

樹明来、サケとトウフとカルモチンとザツシとを持つて。

酔ふ(酔ひでもしなければやりきれなくなつてゐた私だつた)、そして山口へ、たゞ歩いた。

酔如件──これで何もかも解消!

・虫が火のなか声もろともに無くなつた

・そばの花もうてふてふきてゐる

・さびしさにたへて草の実や

・さびしい手が藪蚊をうつ

・月夜風呂たく麦わらもにぎやかに燃えて

・宵月ほつかりとある若竹のさき


 七月廿三日


晴、シアヤ〳〵〳〵(これは蝉)ヒヨロ〳〵〳〵(これは私)。

朝酒三三杯ひつかける、これで先日来、不眠と疲労からくる、イラ〳〵クヨ〳〵がとんでしまつた、ほがらかな気分でラツキヨウを買うて戻つて漬けた。

やつぱり私は私だつたのだ、山頭火は山頭火以外の何物でもありえないのだ!

おもしろな、世の中は、人の身は。

うちのひよろ〳〵へちまも咲きだした。

待ちかまへてゐる敬坊も中原さんもやつてこない。

壺の白木槿がしほれたので、鬼百合に活けかへる、前者はリフアインされたレデーのやうだつたが、後者は厚化粧した田舎娘に似てゐる。

胃痛、そして読書。

自己忘却! よろしい、酒を飲んで酔ふ場合ばかりでなく、任意自由にさうありたい。

ねむれた、ありがたかつた、カルモチンよりアルコールだ。

・うつ手を感じて街の蠅うまく逃げた

・うまく逃げた蠅めが壺の花のうへに(再録)

・モシモシよい雨ですねよい酒もある待つてゐる(樹明に)

・どしやぶりのそのおくで蠅のなく

・草にてふてふがきてあそぶ其中一人(本文に)

・ランプ消せば月夜の雨が草に地べたに

・ゆふぐれせつなくむしあつくうめくは豚か


 七月廿四日


雨、万物がうるほうてゐる、だん〳〵晴れて暑くなつた。

たよりいろ〳〵、とりわけて緑平老の手紙はいつもうれしい。

草にてふてふがきてあそぶ其中一人

白い蝶に黄ろい蝶がまじつてゐる。

樹明君から来信、お客はどんな都合かといふ、中原さんも伊東さんも、どうしたのかやつてこない、腹を立ててはならないとは思ふけれどやつぱり腹が立つてしようがない。……

裏山でもうつく〳〵ぼうしが鳴きはじめた。

夏の夜の散歩はよいね、方々で夏祭。

めづらしい熟睡快眠だつた。

・山のすがたが三十五年の夢(山口にて)

・ここで死にたい萱の穂の散りてはとぶ

・山あをあをと死んでゆく

・みんな死んでしまうことの水音

・ぽとりと青柿が炎天の音

・しがないくらしの、草がやたらにしげります

・夏の夜あるけばいつか人ごみの中


 七月廿五日


曇、少雨、まるで梅雨のやうな土用である。

緑平老から大泉到来、これはまたよい雑誌だ、井師としみ〴〵話すやうな気がする、心がぴたりと心に触れる。

揷木と移植、昨年の桐はついたが、今年のは三本とも枯れた、莱竹桃はうまく根ついた、白木槿が根ついてくれるとほんとうにうれしいのだが。

蠅と蚊と油虫と、彼等は毎日私を考へさせる!

いつみても、なんぼうみてもあかない雑草、みればみるほどよい雑草、私を雑草をうたはずにはゐられない。

わたくしごゝろと個性とは別物だ、私心がなくしてそこで個性が発揮されるのである。

蜩が鳴いた、しつかり鳴いてくれ。

生活の糧となる仕事、糧にする仕事ではない。

宗教的真理の芸術的表現、それが私の仕事だ。

自然(生活もその一部分)──律動リズム──俳句的詠出。

生活に即するといふことは生活の奴隷となることではない。

一時頃、樹明来庵、例の如くお辨当を食べ、そしてお昼寝だ、昼寝から覚めてさかんに悪口をいふ、やつてこないお客さんに向つて、──とう〳〵たまらなくなつて、街へ出て一杯やる。

よく食べてよく飲んだ、よく戻つてよく寝た。

酔うて乱れない樹明を見出したことが何よりもうれしかつた。

山頭火は酔うて朗らかだつた。

去年は蒲団を飲み、今年は風呂を食べた。……

・けふ咲きだした糸瓜が一つあすは二つで

・うまくだまされたが、月がのぼつた(敬君に)

・蠅はうごかない蠅たたきのしたで

・いつしよに昼寝さめてかなかな(樹君に)

・待つても待つても来ない糸瓜の花もしぼんでしまつた(礼、敬、二君に)

・けさも雨ふる鏡をぬぐふ

・月夜、飲んでも酔はない二人であるく(樹君に)


   日記といふもの


   改作再録

・ゆふなぎしめやかにとんでゐるてふねてゐるてふ

・病みて寝てまことに信濃は山ばかり

・ちんぽこもおそそもあふれる湯かな(千人風呂)


山があれば山を観る

雨のふる日は雨を聴く

春、夏、秋、冬

受用しつくさない

花開時蝶来

蝶来時花開




(善導大師の言葉)

従仏逍遙帰自然、自然即是弥陀国

「百花春到為誰開」

底本:「山頭火全集 第六巻」春陽堂書店

   1987(昭和62)年125日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2009年715日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。