刑余の叔父
石川啄木



     一


 一年三百六十五日、投網打とあみうち帰途かへりに岩鼻の崖から川中へ転げ落ちて、したたか腰骨を痛めて三日寝た、その三日だけは、流石に、盃を手にしなかつたさうなと不審がられた程の大酒呑、酒の次には博奕ばくち所好すきで、血醒ちなまぐさい噂に其名の出ぬ事はない。何日いつ誰が言つたともなく、高田源作は村一番の乱暴者と指されてゐた。それが、私のたつた一人の叔父。

 我々姉弟は、「源作叔父様おんつあん」と呼んだものである。母の肉身しんみの弟ではあつたが、顔に小皺の寄つた、痩せて背の高い母にはすこした所がなく、背がずんぐりの、布袋ほていの様な腹、膨切はちきれる程酒肥りがしてゐたから、どしりどしりと歩くさまは、何時見ても強さうであつた。ひらたい、あぶらぎつた、赤黒い顔には、深く刻んだ縦皺が、真黒な眉と眉の間に一本。それが、顔全体いつたいを恐ろしくして見せるけれども、笑ふ時は邪気あどけない小児こどもの様で、小さい眼を愈々小さくして、さも面白相に肩をゆする。至つて軽口の、さばけた、竹を割つた様な気象で、甚麽どんな人の前でも胡坐あぐらしかかいた事のない代り、又、甚麽人に対しても牆壁しやうへきを設ける事をしない。

 少年等こどもらが好きで、時には、厚紙の軍帽しやつぽやら、竹の軍刀サアベル板端いたつぱしの村田銃、其頃流行はやつた赤い投弾なげだままで買つて呉れて、一隊の義勇兵の為に一日の暇をつぶす事もあつた。気が向くと、年長としかさなのをれて、山狩、川狩。自分でいた小鳥網から叉手網さであみ投網、河鰺網かじかあみでも押板でも、其道の道具は皆揃つてゐたもの。鮎の時節が来れば、日に四十から五十位まで掛ける。三十以上掛ける様になれば名人なさうである。それが、皆、商売にやるのではなくて、酒の肴をる為なのだ。

 妙なところに鋭い才があつて、勝負事には何にでも得意な人であつた。それに、野良仕事一つ為た事が無いけれど、三日に一度の喧嘩に、鍛えに鍛えた骨節が強くて、相撲、力試し、何でも一人前やる。就中なかんづく、将棋と腕相撲が公然おもてむきの自慢で、実際、誰にも負けなかつた。博奕は近郷での大関株、土地ところよりも隣村に乾分こぶんが多かつたさうな。

 不得手なのは攀木きのぼり駈競かけつくら。あれだけは若者共にかなはないと言つてゐた。脚が短かい上に、肥つて、腹が出てゐる所為せゐなのである。

 五間幅の往還、くわツくわと照る夏の日に、短く刈込んだ頭に帽子も冠らず、腹を前に突出して、懐手ふところで暢然ゆつたりと歩く。前下りに結んだ三尺がだらしなく、衣服きものまへはだかつて、毛深い素脛からツつねが遠慮もなく現はれる。戸口に凭れてゐる娘共には勿論の事、逢ふ人毎に此方から言葉をかける。茫然ぼんやり立つてゐる小児でもあれば、背後うしろからそつと行つて、目隠しをしたり、唐突いきなり抱上げて喫驚びつくりさしたりして、快ささうに笑つて行く。千日紅の花でも後手に持つた、腰曲りの老媼ばばあでも来ると、

『婆さんは今日もお寺詣りか?』

『あいさ。暑いこつたなす。』

『暑いとも、暑いとも。恁麽こんな日におめえみたいな垢臭い婆さんが行くと、如来様も昼寝が出来ねえで五月蠅うるさがるだあ。』

『エツヘヘ。源作さあ何日いつでも気楽でえでヤなあ。』

『俺讃めるな婆さん一人だ。死んだら極楽されてつてやるべえ。』と言つた調子。

 酔つた時でも別段の変りはない。死んだ祖父に当る人によく似たと、母が時々言つたが、底無しの漏斗じやうご、一升二升では呼気いきが少し臭くなる位なもの。顔色が顔色だから、少し位の酒気は見えないといふ得もあつた。徹夜よどほし三人で一斗五升飲んだといふ翌朝あくるあさでも、物言ひが舌蕩したたるく聞える許りで、挙動ものごしから歩き振りから、確然しつかりとしてゐた。一体私は、此叔父の蹣跚よろよろした千鳥足と、少しでも慌てたさまを見た事がなかつた。も一つ、幾何いくら酔つた時でも、唄を歌ふのを聞いた事がない。叔父は声が悪かつた。

 それが、怎して村一番の乱暴者あばれものかといふに、根が軽口の滑稽しやれに快く飲む方だつたけれど、誰かしら酔ひに乗じて小生意気な事でも言出すと、座がしらけるのを怒るのか、

『馬鹿野郎! 行けい。』

と、突然いきなり林の中で野獣でも吼える様に怒鳴りつける。対手がそれで平伏へこたまれば可いが、さもなければ、盃をげて、唐突いきなり両腕を攫んで戸外そとへ引摺り出す。踏む、蹴る、下駄で敲く、泥溝どぶ突仆つきのめす。める人が無ければ、殺しかねまじき勢ひだ。滅多に負ける事がない。

 それは、三日に一度必ずある。大抵夜の事だが、時とすると何日も何日も続く。又、自分が飲んでゐない時でも、喧嘩と聞けば直ぐ駆出して行つて、遮二無二中に飛込む。

 喧嘩の帰途かへりは屹度私の家へ寄る。顔に血の附いてる事もあれば、衣服きものが泥だらけになつてる事もあつた。『姉、姉、姉。』と戸外そとから叫んで来て、『俺ア今喧嘩して来た。うむ、姉、喧嘩が悪いか? 悪いか?』と入つて来る。

 母は、またかと顔をしかめる。叔父は上框あがりがまちに突立つて、『悪いなら悪いと云へ。沢山うんと怒れ。うなの小言など屁でもねえ!』と言つて、『馬鹿野郎。』とか、『この源作さんに口一つ利いて見ろ。』とか、一人で怒鳴りながら出て行く。其度、姉や私等は密接くつつき合つて顫へたものだ。

『源作が酒と博奕を止めて呉れるとなあ!』

と、父はよく言ふものであつた。『そして、少し家業に身を入れて呉れるとえども。』と、母が何日いつでも附加へた。

 私が、まだずつと稚なかつた頃、何か強情でも張つて泣く様な時には、

『それ、まだ源作叔父様おんつあんが酔つて来るぞ。』と、姉や母におどされたものである。


     二


 村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家さむらひ、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村ひやくしやうむら逼塞ひつそくしたのだ。

 其一軒は、ひがしといつて、眇目めつかちの老人の頑固つむじまがりが村人の気受に合はなかつた。おまけに、働盛りの若主人が、十年近く労症をわづらつた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地もちちも大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児こども相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃──私の稚かつた頃──は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其理由わけは、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。

 東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳むつつ位の時、愛宕あたご神社の祭礼おまつりだつたか、盂蘭盆うらぼんだつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶おぼえてゐる。私は目をまろくして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、おあしを呉れた。其翌日あくるひ、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈おつかけて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊〓(「羔/((美-大)/人)」)をどつさり呉れて行つた事がある。其以後それからといふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密ないしよ一寸々々ちよいちよい、東の店に痰切飴たんきり氷糸糖アルヘイを買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。

 残余あとの二軒は、叔父のうちと私の家。

 高田家と工藤家──私の家──とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸さんのへの城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取やりとりも二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃ひきはらふ時も、両家で相談した上で、多少の所有地もちちのあつたのを幸ひ、此村に土着する事に決めたのださうな。私の母は高田家の総領娘であつた。

 尤も、高田家の方が私の家よりも、少し格式が高かつたさうである。寝物語に色々な事を聞かされたものだが、時代が違ふので、私にはよく理解のみこめなかつた。高田家の三代許り以前まへの人が、藩でも有名な目附役で、何とかの際に非常な功績てがらをしたと言ふ事と、私の祖父おぢいさんが鉄砲の名人であつたと言ふ事だけは記憶おぼえてゐる。其祖父さんが殿様から貰つたといふ、今で謂つたら感状といつた様な巻物が、立派な桐の箱に入つて、刀箱と一緒に、奥座敷の押入に蔵つてあつた。

 四人の同胞きやうだい、総領の母だけが女で、残余あとは皆男。長男も次男も、不幸ふしあはせな事には皆二十五六で早世して、末ツ子の源作叔父が家督を継いだ。長男の嫁には私の父の妹が行つたのださうだが、其頃は盛岡の再縁先で五人の子供の母親になつてゐた。次男は体の弱い人だつたさうである。其嫁は隣村の神官の家から来たが、結婚して二年とも経たぬに、唖の女児をんなのこを遺して、盲腸炎で死んだ。其時、嫁のお喜勢さん(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、あによめのお喜勢さんと夫婦いつしよになつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。

 私の物心ついた頃、既に高田家に老人としよりが無かつた。私の家にもなかつた。かすかに記憶えてゐる所によれば、私が四歳よつつの年に祖父おぢいさんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、へやから室と跳歩いたものだ。

 道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端かたつぱじから田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家がうならうと、妻子が甚麽どんな服装なりをしようと、其麽そんな事は従頭てんで念頭にない。自分一人、誰にも頭を下げず、言ひたい事を言ひ、為たい事をして、酒さへ飲めればかつたのであらう。

 それに引代へて私の家は、両親共四十の坂を越した分別盛り、(叔父は三十位であつた。)父は小心な実直者で、酒はほん交際つきあひに用ゆるだけ。四書五経を読んだ頭脳あたまだから、村の人の信頼が厚く、承諾はしなかつたが、村長になつて呉れと頼込まれた事も一度や二度ではなかつた。町村制の施行以後、村会議員には欠けた事がない。共有地の名儀人にも成つてゐた。田植時の水喧嘩、秣刈場まぐさかりばの境界争ひ、豊年祭の世話役、面倒臭がりながらも顔を売つてゐた。余り壮健ぢやうぶでなく、痩せた、図抜けて背の高い人で、一日として無為ぶゐに暮せない性質たちなのか、一時間と唯坐つては居ない。何も用のない時は、押入の中を掃除したり、寵愛の銀煙管をみがいたりする。田植刈入に監督を怠らぬのみか、股引に草鞋穿わらぢばきで、みづから田の水見にも廻れば、肥料こえつけの馬の手綱も執る。家にも二人まで下男がゐたし、隣近所の助勢すけても多いのだから、父は普通あたりまへなら囲炉裏の横座に坐つてゐて可いのだけれど、「俺は稼ぐのが何よりのたのしみだ。」と言つて、露程も旦那風を吹かせた事がない。

 随つて、工藤様といへば、村の顔役、三軒の士族のうちで、村方から真実ほんとに士族扱ひされたのは私の家一軒であつた。あへ富有かねもちといふではないが、少許すこしは貸付もあつた様だし、田地と信用とは、増すとも減る事がない。穀蔵に広い二階だての物置小屋、──其階下したが土間になつてゐて、稲扱いねこきの日には、二十人近くの男女が口から出放題の戯談じようだんやら唄やらで賑つたものだ。庭には小さいながらも池があつて、赤い黒い、尺許りの鯉が十ぴきも居た。家の前には、其頃村に唯一つの衡門かぶきもんが立つてゐた。叔父の家のは、とうに朽ちて了つたのである。

 母と叔父とは、齢もとを以上違つて居たし、青い面長とひらた赤良顔あからがほ、鼻の恰好がややてゐた位のものである。背の婷乎すらりとした、髪は少し赤かつたが、若い時は十人並には見えたらうと思はれる容貌かほかたち。其頃もう小皺が額に寄つてゐて、持病の胃弱の所為せゐか、はだ全然まるで光沢つやがなかつた。繁忙いそがし続きの揚句は、屹度一日枕についたものである。愚痴ぐちツぽくて、内気で、苦労性で、何事も無い日でも心から笑ふといふ事は全たくなかつた。わけても源作叔父の事に就いては、始終しよつちゆう心を痛めてゐたもので、酔はぬ顔を見る度、何日いつでも同じ様な繰事くりごとならべては、フフンと叔父に鼻先であしらはれてゐた。見す見す実家さとの零落して行くのを、奈何いかんともする事の出来ない母の心になつて見たら、叔父の道楽が甚麽どんなに辛く悲く思はれたか知れない。

 恁麽こんな両親の間に生れた、最初の二人は二人とも育たずに死んで、程経て生れた三番目が姉、十五六で、矢張内気な性質たちではあつたが、娘だけに、母程陰気ではなかつた。姉の次に二度許り流産が続いたので、姉と私は十歳とを違ひ。


     三


 記憶は至つて朧気おぼろげである。が、私の両親は余り高田家を訪ふ事がなかつた様である。叔父だけは毎日の様に来た。叔母も余り家を出なかつた。

 私は五歳いつつ六歳むつの頃から、三日に一度か四日に一度、必ず母に呍吩いひつかつて、叔父の家に行つたものである。餅を搗いても、団子を拵へても、五目鮨ごもくずしを炊いても、母は必ず叔父の家へ分けて遣る事を忘れない。或時は裏畑から採れた瓜や茄子を持つて行つた。或時は塩鮭しほびきの切身を古新聞に包んで持つて行つた。又或時は、姉と二人で、夜になつてから、五升樽に味噌を入れて持つて行つた事もある。下男に遣つては外聞が悪いと、母が思つたのであらう。

 私は、叔父の家へ行くのが厭で厭で仕様がなかつた。叔父が居さへすれば何の事もないが、大抵は居ない。叔母といふ人は、今になつて考へて見ても随分好い感じのしないひとで、尻の大きい、肥つた、夏時などはそばへ寄ると臭気にほひのする程無精で、挙動ものごしから言葉から、半分眠つてる様な、小児心にも歯痒はがゆい位鈍々のろのろしてゐた。毛の多い、真黒な髪を無造作に束ねて、垢染みた衣服きものに細紐の検束だらしなさ。野良稼ぎもしないから手は荒れてなかつたけれど、踵は嘗て洗つた事のない程黒い。私が入つて行くと、

『謙助(私の名)さんすか?』

と言つて、だるさうに炉辺ろばたから立つて来て、風呂敷包みを受取つて戸棚の前に行く。海苔巻でも持つて行くと、不取敢とりあへずそれを一つ頬張つて、風呂敷と空のお重を私に返しながら、

『お有難う御座ごあんすてなツす。』

と懶げに言ふのである。愛想一つ言ふでなく、笑顔さへ見せる事がなかつた。

 顴骨ほほぼねの高い、疲労の色を湛へた、大きい眼のどんよりとした顔に、唇だけが際立つて紅かつた。其口が例外なみはづれに大きくて、欠呻あくびをする度に、鉄漿おはぐろの剥げた歯が醜い。私はつくづくと其顔を見てゐると、何といふ事もなく無気味になつて来て、怎うした連想なのか、髑髏されかうべといふものは恁麽こんなぢやなからうかと思つたり、紅い口が今にも耳の根まで裂けて行きさうに見えたりして、ひ知れぬ悪寒さむさに捉はれる事が間々あつた。

 古い、暗い、大きい家、障子もからかみも破れ放題、壁の落ちた所には、漆黒まつくろに煤けた新聞紙を貼つてあつた。板敷にも畳にも、足触りの悪い程土埃ほこりがたまつてゐた。それも其筈で、此家の小児等は、近所の百姓の子供と一緒に跣足はだし戸外そとを歩く事を、何とも思つてゐなかつたのだ。納戸の次の、八畳許りの室が寝室ねまになつてゐたが、夜昼蒲団を布いた儘、雨戸の開く事がない。妙な臭気が家中に漂うてゐた。一口に謂へば、叔父の家は夜と黄昏との家であつた。陰気な、不潔な、土埃の臭ひと黴の臭ひの充満みちみちたる家であつた。笑声とはしやいだ声の絶えて聞こえぬ、湿つた、唖の様な家であつた。

 その唖の様な家に、唖の児の時々発する奇声と、けたたましい小児等の泣声と、それを口汚なく罵る叔母の声とが、折々響いた。小児は五人あつた。唖のお政は私より二歳ふたつ年長としうへ、三番目一人を除いては皆女で、末ツ児はまだを飲んでゐた。乳飲児を抱へて、大きい乳房を二つともはだけて、叔母が居睡ゐねむりしてる態を、私はよく見たものである。

 五人の従同胞いとこの中の唯一人の男児は、名を巡吉といつて、私より年少としした顳顬こめかみに火傷の痕の大きい禿のある児であつたが、村の駐在所にゐた木下といふ巡査の種だとかいふので、叔父は故意わざと巡吉と命名なづけたのださうな。其巡吉は勿論、の児も何の児も汚ない扮装みなりをしてゐて、くびから手足から垢だらけ。私が行くと、毛虫の様な頭を振立てゝ、接踵ぞろぞろ出て来て、何れも母親にた大きい眼で、無作法に私を見ながら、鼻をしかめて笑ふ奴もあれば、「何物なに持つて来たべ?」と問ふ奴もある。お政だけは笑ひもせず物も言はなかつた。私は小児心にも、何だか自分の威厳を蹂躙ふみつけられる様な気がして、不快で不快でたまらなかつた。若しかして叔母に、遊んで行けとでも言はれると、不承不承に三分か五分、遊ぶ真似をして直ぐげて帰つたものだ。

 私の母は、何時でも「那麽あんな無精な女もないもんだ。」と叔母を悪く言ひながら、それでも猶何ににつけて世話する事を、怠らなかつた。或時は父にかくしてまでも実家さとの窮状を援けた。

 時としては、従同胞いとこ共が私の家へ遊びに来る。来るといつても、先づ門口へ来て一寸々々ちよいちよい内を覗きながら彷徨うろうろしてゐるので、母に声を懸けられて初めて入つて来る。其都度、私は左右かにかくと故障を拵へて一緒に遊ぶまいとする。母は憐愍あはれみの色と悲哀かなしみの影を眼一杯に湛へて、当惑気に私共の顔を等分に瞰下みおろすのであつたが、結局矢張私の自由わがままとほつたものである。

 叔父は滅多に家に居なかつた。飲酒家さけのみの癖で朝は早起であつたが、朝飯が済んでから一時間と家にゐる事はない。夜は遅くなつてから酔つて帰る。叔母や従同胞等いとこらは日が暮れて間もなく寝て了ふのだから、酔つた叔父は暗闇の中を手探り足探りに、おの臥床ふしどを見つけてもぐり込むのだつたさうな。時としては何処かに泊つて家へは帰らぬ事もあつたと記憶おぼえてゐる。そして、日がな一日、塵程の屈托が無い様に、陽気に物を言ひ、元気に笑つて、誰に憚る事もなく、酒を呑んで、喧嘩をして、勝つて、手当り次第に女を弄んで、平然けろりとしてゐた。叔父は、叔母や従同胞共いとこどもを愛してゐたとは思はれぬ。叔母や従同胞いとこ共も亦、叔父を愛してはゐなかつた様である。さればといつて、家にゐる時の叔父は、矢張平然けろりとしたもので、別段苦い顔をしてるでもなかつた。


     四


 時として、叔父は三日も四日も、或は七日も八日も続いて、ちつとも姿を見せぬ事があつた。其麽そんな事が、収穫とりいれ後から冬へかけて殊に多かつた様である。

 飄然ふらりと帰つて来ると、屹度私に五十銭銀貨を一枚宛呉れたものである。叔父は私を愛してゐた。

 加之のみならず、其麽時は、何処から持つてくるものやら、鶏とか、雉子とか、鴨とか、珍らしい物を持つて来て、手づから料理して父と一緒に飲む。或年の冬、ちらちらと雪の降る日であつたが、叔父は例の如く三四日見えずにゐて、大きい雁を一羽重さうに背負つて来た事がある。父も私も台所の入口に出てみると、叔父は其雁を上框あがりがまちの板の上に下して、

『今朝隣村の鍛冶の忰の奴ア、これ二羽撃つて来たで、おもがつけども一羽背負つて来たのせえ。』

と母に言つて、額の汗を拭いてゐた。

『大ぎな雁だなあ。』

と父は驚いて、鳥の首を握つて持上げてみた。私の背の二倍程もある。怖る〳〵触つて見ると、毛が雪に濡れてゐるので、気味悪く冷たかつた。横腹よこつぱらのあたりに、一寸四方許り血が附いてゐたので、私は吃驚びつくりして手を引いた。鉄砲弾てつぽうだまの痕だと叔父は説明して、

此方こつちにもある。これ。』と反対の脇の羽の下を見せると、成程其所そこにも血があつた。

『五匁弾だもの。貫通ぶつとほされでヤ人だつて直ぐ死んで了ふせえ。』

 人だつて死ぬと聞いて、私は妙な身顫みぶるひを感じた。

 やがて父は廻状の様なものを書いて、下男に持たしてやると、役場からは禿頭の村長と睡さうな収入役、学校の太田先生も、赧顔あからがほの富樫巡査も、みんな莞爾にこにこして遣つて来て、珍らしい雁の御馳走で、奥座敷の障子を開け放ち、酔興にも雪見の酒宴さかもりが始まつた。

 其時も叔父は、私におあしを呉れる事を忘れなかつた。母はいつもの如く不興な顔をして叔父を見てゐたが、四周あたりに人の居なくなつた時、

『源作や。』と小声で言つた。

『何せえ?』

『おめえ、まだ善くねえごどして来たな?』と怨めしさうに見る。

えでば、黙つてるだあ。』

『そだつてお前、過般こねえだも下田の千太おやぢどこで、巡査に踏込ふんごまれて四人許よつたりばか捕縛おせえられた風だし、俺アほん心配しんぺえで……』

莫迦ばかな。』

『何ア莫迦だつて? 家のごとかまねえで、毎日飲んでつて許りゐたら、高田の家ア奈何どうなるだべサ。そして万一捕縛おせえられでもしたら……』

何有なあに、姉や心配無えでヤ。の村さ行つたて、俺の酒呑んでゐねえ巡査一人だつて無えがら。』

『そだつておめえ……』

えでヤ。』と言つた叔父の声は稍高かつた。『それよりや先づ鍋でも掛けたら可がべ。お静ツ子(私の姉)、徳利出せ、徳利出せ。俺や燗つけるだ。折角の雁汁に正宗、綺麗な白い手でお酌させだら、もつと好がべにナ。』と一人で陽気になつて、三升樽の口栓くちの抜けないのを、横さまに拳で擲つてゐた。

 母は気が弱いので、う目尻を袖口で拭つて、何か独りで囁嚅ぶつぶつこぼしながら、それでも弟に呍吩いひつけられたなりに、大鍋をガチヤ〳〵させて棚から下してゐた。それを見ると私は、妙に母をあはれむ様な気持になつて、若し那麽あんな事を叔父の顔を見る度に言つて、万一叔父が怒る様な事があつたら、母は奈何どうする積りだらうと、何だか母の思慮の足らないのが歯痒くて、それよりは叔父がうして来た時には、口先許りでも礼を言つて喜ばせて置いたら可からう、などと早老ませた事を考へてゐた。それと共に、母の小言などはとも思はぬ態度そぶりやら、赤黒い顔、強さうな肥つた体、巡査、鉄砲、雁の血、などが一緒になつて、何といふ事もなく叔父をおそれる様な心地になつた。然しそれは、酒をくらひ、博奕をうち、喧嘩をするから畏れるといふのではなく、其時の私には、世の中で源作叔父程えらい人がない様に思はれたのだ。土地ところでこそ左程でもないが、隣村へでも行つたら、屹度衆人みんなが叔父の前へ来て頭を下げるだらう。巡査だつてうに違ひない。時々持つて来る鶏や鴨は、其巡査が帰りの土産に呉れてよこしたのかも知れぬ。今朝だつて、鍛冶の忰といふ奴が、雁を二羽撃つて来た時、叔父が見て一羽売らないかと言ふと、「お前様めえさまならタダで上げます。」と言つて、うしてもおあしを請取らなかつただらう、などと、取留とりとめもない事を考へて、おそおそる叔父を見た。叔父は、内赤に塗つた大きい提子ひさげに移した酒を、更に徳利に移しながら、莞爾にこついた眼眸めつきじつと徳利の口をみつめてゐた。


     五


 巡吉の直ぐ下の妹(名前は忘れた。)が、五歳いつつ許りで死んだ。三日許り病んで、夜明方に死んだので何病気だつたか知らぬが、報知しらせの来たのは、私がまだ起きないうちだつた。父は其日一日叔父の家に行つてゐた。夕方になつて、私も母にれられて行つた。

(未完)
〔生前未発表・明治四十一年七月稿〕

底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房

   1978(昭和53)年1025日初版第1刷発行

   1986(昭和61)年1215日初版第6刷発行

※生前未発表、1908(明治41)年5~6月執筆のこの作品の本文を、底本は、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿によっています。

入力:林 幸雄

校正:川山隆

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2008年1021日作成

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