江戸川氏と私
小酒井不木
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はじめて江戸川氏の作品に接したのは、大正十一年の夏頃ではなかったかと思う。「新青年」の森下氏から同君の「二銭銅貨」と「一枚の切符」を送って来て、日本にもこれほどの探偵小説が生れるようになったから、是非読んで下さいとの事であった。早速「二銭銅貨」を読んだところが、すっかり感心してしまって、森下氏に向って、自分の貧弱なヴォカブラリーを傾け尽して、讃辞を送ったのであった。そうして「二銭銅貨」が発表されたときには、私の感想も共に発表された。
これが縁で私は江戸川氏と文通することになった。時々長い手紙を寄せて同氏は私を喜ばせてくれた。その後、ポツリポツリ氏の作が「新青年」に発表されるごとに、私はむさぼり読んで、江戸川党となった。
関東の大震災の後、私は田舎から名古屋に移り住んだ。その翌年中、同氏はやはりポツリポツリ発表した。いずれも傑作ばかりである。私は、江戸川氏にむかって、探偵小説家として立ってはどうかということをすすめた。すると、森下氏あたりからも、その話があったと見え、同氏は「心理試験」の原稿を私に送り、これで探偵小説家として立ち得るかどうかを判断してくれというような意味の手紙を寄せた。
「心理試験」を読んで、私は、何というか、すっかりまいってしまった。頭が下った。もうはや、探偵小説家として立てるも立てぬもないのだ。海外の有名な探偵小説家だってこれくらい書ける人はまずないのだ。そこで、更に大にすすめたのであるが間もなく、一度上京して、いろいろな人に逢って決したい。その序に立ち寄るという手紙が来た。
私は大に待った。十四年の一月、とうとうやって来た。初対面の挨拶に頭の毛のうすいのを気にした言葉があった。私たちは大に語った。江戸川氏は、これから書こうとする小説のプロットを語った。それが、後に「赤い部屋」として発表されたものである。
同氏はこのとき、頻りに私に、創作に筆をそめるようすすめた。私も、創作をして見ようかという心が、少しばかり動いていたときであるから、とうとう小説を書くようになったのである。「女性」四月号に出た「呪われの家」がいわば私の処女作であった。
いよいよ、同氏は小説家として立つことになった。その頃から、日本の探偵小説創作壇がだいぶ賑い出して来た。大阪で探偵趣味の会が出来、各娯楽雑誌にも探偵小説が歓迎されるようになった。
ところが江戸川氏は、いつ逢っても、もう探偵小説は下火になりはしないか、行き詰りではないかということを口にしている。然し私はいつでもそれを打消して楽観的な見方をした。同氏のように、いわば精巧極まる作品を生産する人が、そのような憂をいだくのは当然のことであり、私のような、無頓着な、荒削りの作品を生産するものが楽観的態度をとるのは当然のことである。然し、江戸川氏は、そういいながらも、先から先へと立派な作品を生産して行く。この点は、天才に共通なところであって、私は、氏が、行詰ったとか、書けないとか言っても、もはやちっとも心配しないのである。
探偵小説ことに長篇探偵小説はこれからである。すでに「一寸法師」に於て本格小説の手腕を鮮かに見せた氏は、きっと、次から次へと、大作を発表して、私を喜ばせてくれることを信じてやまない。
底本:「江戸川乱歩 日本探偵小説事典」河出書房新社
1996(平成8)年10月25日初版発行
初出:「大衆文藝」
1927(昭和2)年6月
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年5月18日作成
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