墨子
幸田露伴



 墨子は周秦の間に於て孔子老子の學派に對峙した鬱然たる一大學派の創始者である。

 墨子の學の大に一時に勢力のあつたことは孔子系の孟子荀子等が之を駁撃してゐるのでも明白で、輕視して置けぬほどに當世に威燄を有したればこそ孟子荀子等がこれに對して筆舌を勞したのである。それのみならず人間の善惡を超越し是非を忘却するやうなことを理想としたかの如き莊周でさへも墨家に論及し、それから又手嚴しい法治論者の韓非までも墨家を儒家と列べて論じてゐる。此等の事實は皆墨子の學が少からざる力を當時に有してゐたことの傍證であつて、秦以後の書の孔叢子、淮南子、史記、漢書、七略等に見えてゐることと、その前の尸子、晏子春秋、呂覽等に散見してゐることとを除いても、墨子の本書に、墨子の弟子禽滑釐等三百餘人が墨子の道の爲に守禦の器を持して宋の爲に楚を防がんとしたことが、魯問篇に見えてゐるし、又墨子の弟子の公尚過といふものは越王に優遇され、越王は墨子を故の呉の地方五百里を以て封ぜんことを申出し、又楚の惠王、魯陽文君等は墨子を崇敬し、衞、宋、魯等の君も墨子を尊んだことは本書の各篇に見え、墨子の弟子は禽滑釐を首として、高石子、縣子碩、耕柱子、魏越、管黔敖、高孫子、治徒娯、跌鼻、曹公子、勝綽、彭輕生、孟山譽、王子閭等は皆墨子に道を學び、或は道を問うたものであることは本書に見え、漢書藝文志、呂覽等によれば、隨巣子、胡非子等は墨子の弟子で書を著はし、禽滑釐の弟子には許犯、索盧があり、許犯の弟子には田繋があり、胡非子の弟子には屈將子があり、其他、韓非子、莊子、呂覽等によれば、墨子の學系には、田俅子、相里勤、相夫子、鄧陵子、苦獲、相里氏の弟子の五侯子、それから孟勝、田襄子、腹𪏆、徐弱、謝子、唐姑果等を指摘し得る。是の如くに墨子の弟子又は再傳三傳の弟子を二千年前の昔に指摘し得ることは、墨子の道の盛行したことを語るもので無くて何であらう。

 墨子を孔子と同列のやうに取扱つたのは、早く韓非子の時からで、韓非子顯學篇に、既に儒墨と併稱して、八儒三墨と其の流派を擧げてゐる。儒の至る所は孔丘なり、墨の至るところは墨翟なり、と韓非子が言つてゐるのであるが、是の如く墨子を孔子と併べ稱したのは、墨子の道が孔子の道の如くに天下に顯然としてゐたからでもあるが、一つは又孔子の道が世を救ひ人を正しうするに在る如く、墨子の道もまた世を救ひ人を正しうするに在つて、聖賢を稱揚し、道徳と政治とに兼ね亙つてゐること、相似通ふところがあるからに本づいたのでも有つたらう。で、後に至つて韓退之の如きは孔墨を論じて、其道は相戻るほどの鴻溝大嶺が其間に存するのでは無いとして、余おもへらく辯は末學の各〻其師を售るを務むるの説に生ず、二師の道の本より然るに非ざる也、孔子は必ず墨子を用ゐ、墨子は必ず孔子を用ゐん、相用ゐざれば孔墨たるに足らず、とさへ言つてゐる。退之の此論は勿論割引しなければ通ぜぬ論であるが、先秦諸子の各〻一家の言をなしてゐる中で、墨子の教が孔子の教に近いことは、それは他の莊、列、韓非の輩の孔子に遠いのに比して、大に近く、まことに一脈相通ずるものがあることは爭へない。孔子の堯舜禹湯文武を稱するが如く、墨子も堯舜禹湯文武を稱し、聖王賢主の民を率ゐ躬を正しうしたところに準據してゐるのであつて、自分の小さな知識や感情から一家の言を成し、我より古を成さうとしてゐたのでは無いのである。理想に於ては孔子も墨子も治國平天下、民をして安穩幸福に生を遂げしめんとしたのである。

 さて墨子は何樣いふ人であつたかといふに、墨子の姓は墨、名は翟であつて、魯の人であつた。宋の人といふ説も諸書にあるが、それは恐らくは墨子が宋の太夫となつたところから生じたことであらう。墨氏は孤竹君の後で、墨台氏といつたのが、改めて墨氏となつたのであるといふのが、姓氏學者の説である。姓氏學者の説は時に信ずべからざることがあるが、墨氏が墨台氏で孤竹君の後で有らうと有るまいと、いづれにしても墨子に取つては大したことで無いから論ずるに足らぬ。墨子の姓は翟で名は烏といふ異説もあるが、それは周櫟園が書影に記してから人の談に上るやうになつたので、櫟園は好い人物であり、書影は面白い雜筆だけれど、其説は元の伊世珍の嫏嬛記に賈子説林といふものを引いて記したのが原で、賈子説林なんといふ書は有無不明であり、恐らくは世珍の妄言、墨子の母が日中の赤烏が室に入るを夢みて驚き覺めて生れたから烏と名づけたなどといふことを作り出したのだらう、他の古書に見及ばぬことであるから、面白い説だとて信ずるには足らぬ、たゞ是れ茶話の料たるまでである。

 墨子の在世時代は、墨子に接觸してゐる人〻の上から推測考定して、周の定王頃に生れて、安王の廿四五年頃に死んだのであり、其壽は甚だ長く、八十餘歳、九十一二歳かであつたらうと考へられる。孔子の時に並ぶ、或は曰く其後に在りと、と史記は記してゐるが、史記の撰者は墨子が嫌ひであつたか何樣か知らぬが、墨子に對しては甚だ同情少く、墨子のために其傳を立つるに勞を吝んでゐる。後漢の張衡が、公輸班と墨翟と並びに子思の時に當り、仲尼の後に出づ、と云つてゐるが、實に當を得てゐる。墨子は孔子に後るゝこと百年近く、孟子の師の頃で、丁度子思よりは二十幾歳の年下であつたらうと思はれる。秦火以後に諸子は復活したが墨子は其の學統さへ全く絶えて、終に晉の代の魯勝が出るまでは少くも墨子に左袒する氣味の人が無かつたのであるから、今更判然と考定する事の出來ぬのも自然の數である。墨子の如き儉を尚び民を愛する主張の學説が、長城を築き阿房を起した如き秦の政府に憎惡されたらうことは、儒教其他の學説よりも一層太甚しかつたらうことは想像に難くないことで、秦以後に復び其の學説が起つ能はざるまでに壓迫されて了つたこともおのづから想像するに難くないことであるから、漢に於て儒教が復興し得たにかゝはらず、墨家は殆んど撲倒されたまゝになり了つて、從つて墨子の事に就いては漢でも既に不明になつて了つたのであり、たま〳〵淮南子に其の少許の傳説、論衡に其の教説の批難が見える位で、墨子派の遺緒を紹ぐ者などは見出されないのであつた。史記の撰者父子はたま〳〵墨子を愛尚しなかつたのか否か不明であるけれども、孔子と併稱された墨子に對しては、餘りに其の筆墨を吝んでゐるが、それもたま〳〵既に當時に於て墨子の繼紹者が絶無であつたか、或は甚だ微力であつたかを語るものである。

 墨子の説は墨子の創唱になつたものか、或は古より其の一派傳統のあつたものか、これも論定されてゐないことである。然し漢書の藝文志に、墨家の首に尹佚二篇を擧げてゐる。尹佚は即ち史佚で、周の太史であり文王の時から成王康王の時に亙つた功臣である。此の史佚の書は漢の時に猶ほ遺つてゐたもので、其言が墨家に同じきものがあると認められたからこそ、墨家の首に置かれたのであらう。して見れば墨子の學は、尹佚の流を汲んだものであるとしてよい。古の史官といふものは、實に禮經を司どり國典を管し、其の學は皆傳統的に受授したものである。魯の惠公が郊廟の禮を天子に請うた時、桓王は史角をして魯に往かしめられた。惠公は史角を魯に止めた。此の史角の後が魯に在つた者に就いて墨子は學んだといふことが、呂氏春秋の當染篇に見えて居り、丁度孔子が老聃や孟蘇夔靖叔に學んだと同じやうな例に引いてある。して見れば墨子は史角の後の人に學んだのだが、史角は其名と事とによつて考へれば無論周の史官であり、そして恐らくは史佚の後であらうと推察される。で、墨子の學は史佚の系と見ても可なることになる。漢書に、墨家者流は蓋し清廟の守に出づ、茅屋采椽、是を以て儉を貴ぶ、三老五更を養ふ、是を以て兼愛す、選士大射す、是を以て賢をたふとぶ、宗祀嚴父す、是を以て鬼をたふとぶ、四時に順つて行ふ、是を以て命を非とす、孝を以て天下にしめす、是を以て同を上ぶ、と云つてゐるのは、墨子の書の篇中の主目に依つて言を爲してゐるやうで、少し不穩のところも有るやうだが、大體に於ては當つて居り、そして莊子の天下篇に、後世に侈らず、萬物に靡せず、數度に暉せず、繩墨を以て自づから矯め、而して世の急に備ふ、古の道術、是に在るものあり、墨翟禽滑釐其風を聞いて之をよろこぶ、と云つてゐるのと相應ずるところがある。漢書の各家學説に對する言は、凡べて之を官に淵源する者としてゐるので、儒家は司徒の官に出で、道家は史官に出で、法家は理官に出で、名家は禮官に出で、縱横家は行人の官に出でたとする類で、大體は然樣も言ひ得るのであるが、少し押付がましい傾向もある。名家が禮官に出でたと云つても、公孫龍や惠施の學が禮官とは餘り關係が薄いし、二氏の學はむしろ墨家の末流である。縱横家が行人の官に出たと云つても、蘇秦や張儀の辯が行人の官とは縁遠いものであるが如く、出たと云へば出たやうなものゝ、必ずしも其の正系本統では無い。墨家の學が清廟の守に出たといふのも極〻稀薄な意味で、其の流れの末だといふ位に取らねばならぬ。然し、各派の學説の源を説いて、古の道術是に在る者有りと莊子の説いたのと、九流皆官に出づると爲して漢書の説いたのとは、同じく誣ひざる者があつて、各家の説皆古に原づくところのあることを語つて居るのであるから、墨家者流も忽然として新説を立てたのでは無く、古に依り古より出でゝ説を爲したとして宜しい。清廟に事有るものは巫でなければ史である、史佚史角の流は成程其人であらうし、墨子が史角の後に學び、史佚が墨家に列せられてゐるところを見れば、今は史佚の書が亡びて何樣な言を爲したものか考知することが出來無いが、墨子の學も其邊から出て來たとして認むべきである。但し墨子が史佚史角の學系に出たにせよ、墨子が自家の力量識見を以て、これを墨翟流に擴張し開展して、そして所謂墨家を成立たせたことは認めなければならぬ。墨子以前の墨家者流の撰述と認むべきものは、尹佚二篇のみで、墨子以外の墨家者流著述は皆墨子の弟子の手に成つたもののみであるから。

 墨子の書は漢の時に於て七十一篇存在したが、今に存してゐるのは五十三篇である。そして其書は漢や晉に於て他の諸子が既に注釋詮考され出したにかゝはらず、墨子のみは棄てゝ置かれたので、唐から宋へかけても、誰も注疏などした人が無く、長い歳月の間に於て、漢の王充が墨子を論駁し、晉の魯勝が墨辯注を著はし、唐で韓退之が評し、宋で黄東發が評した位の事であつた。魯勝の墨辯注は何樣なものであつたか、晉の時代は後世の史家等から餘り立派な時代で無いやうに云はれてゐるが、定論になつてゐてもそれは感心されぬ論で、支那の各時代中でも哲學がゝつた方面は進歩した時代であると云ひたい位である。魯勝は天文學的知識の有つた人で、自分の生命を賭けて其學問上の自説を主張したと云はれて居り、其の注した部分は墨子の書の中でも今猶ほ甚だ讀み難き部分であるから、其の泯びたことは惜むべきであるが是非が無い。陶淵明の文と僞傳されてゐるものに、墨家の人のことに筆の及んでゐるものがあるところを見ると、晉時代には墨子が少しは士人の談論に上つたのかも知れないが、文の記するところも何だか異樣である。同じ晉の代には彼の博學能文の葛洪の爲に墨子は仙人のやうにされてしまつて、墨子は變化の術や金丹の法を得た人となり、墨子五行記などといふ者が有つて、神通變化の術を説いてあると云はれ、漢の劉安が未だ僊去せざる時に其要を抄記した一卷が遺つてゐるなどと傳へられ、五代の唐の莊宗の時に魏州の妖人楊千郎といふものが墨子の術を知つてゐて、能く鬼神を使役し、丹砂水銀を化する事を爲すとて、莊宗の崇愛を得た事實が、五代史卷十四に見えるに至つてゐる。葛洪は面白い人だが、神仙傳を撰んで、多く神異の事を録したために斯樣いふ事が起つたので、又同人の著はした抱朴子及び金汋經にも墨子と仙道に關することを載せてゐる。葛洪が妄撰した談だか、當時然樣いふ傳説が有つて、葛洪が之を記したのか不明だが、晉以來墨子が其爲に道家と縁を結んで、後には莊宗の爲に殺されて了ふ楊千郎の事の如きも五代の時には起るに至つたのである。然し何が幸になるか知れないもので、墨子が道家に混入させられた爲に、道藏の中に墨子の佳本が收採されてゐて、その爲に今日墨子を讀む便宜を得るに至つたのである。道藏外の墨子は訛舛の實に甚だしくて讀み難いものであつたのである。晉より後に至つて、梁の陶弘景、これも大學者の詩人であるが、道家が其の本領で、此人も神仙傳に依つて言を爲したのであらうが、墨子が金丹を服して仙となつたと記してゐる。孫子も鬼谷子も韓非子も諸葛孔明も、道家は皆これを道家にして了ふのであるから、墨子が道家にされても不思議は無いが、一つは墨子の學には「實物を處理する」ところがあつて、それが口授親傳され、そして其實際知識の得了されたものが所謂「巨子」となつて其學の宗師となる不文律のやうなものが有つたのであるから、神仙家の假託の談の成立つべき祕密傳授の如き地が有つたからであるかも知れない。墨子の弟子の禽滑釐が日に焦げ黒み、手足胼胝して苦學したといふが如きも、たゞ室内に在つて道を聞き教を受けるのでは然樣いふことになる譯は無い、工學的の實際を敢てしたればこそ然樣なるのであつて、然樣して其學成就すれば「巨子」となるのである。墨者の巨子孟勝が死に臨んで巨子を田襄子に屬した談の如くに、巨子といふのは儒家に於ける碩儒といふやうなたゞの美稱の意味のみでは無い、一種の相傳的地位といふやうなものの附加されてゐる意味を有してゐるのである。斯樣いふところは神仙家金丹家臭いところが無いでも無いのである。そして墨者は死を以て其道と地位とに殉ずる意氣が甚だ強かつたもので、墨子の弟子禽滑釐等三百人は楚を敵として死なうとし、巨子孟勝が呉起の亂に死した時は弟子徐弱をはじめ八十五人が皆死んでゐる。で、莊子には「巨子を以て聖人と爲し、皆之が尸たらんことを願ふ」と記し、淮南子には「墨子の服役百八十人、皆火に赴き刀を踏み、死して踵を旋さゞらしむ可し」と記し、新語の思務篇に「墨子の門、勇士多し」と云つてゐる。此等の有樣を考へると、墨學傳授の有樣は儒家とは大分異つて居り、特に兵科の事の實際を墨子の書の記してゐるところに照し考へれば、墨子は非戰主義では有るけれども、非戰主義でも無抵抗主義では無くて、侵略者を沈默させる主義であるため防禦的兵科を實習實行することをしたもので、それ故に史記に「守禦を善くす」と云はれたのである。神仙家の中には今日の化學作業の如きことをした者もある。墨子の學にも理化學的作業のやうなことをした部面も或は有つたかも知れぬ。飛行機の孩子の如き木鳶を墨子の造つた傳説も有り、雲梯等の攻城器械を無功ならしむる各般の實際設備と、攻城に對する防禦施爲とを墨子が説いてゐるところを觀ると、墨子の學は心識的のみで無くて手腕的の方面も伴なつてゐたもので、その實際施設の方面には口授親接によつて傳へられたものも多かつたらう。墨子が神仙家の方へ引張り込まれたのも少しは理由が有つたかも知れない。韓非子さへ其の學の核心に老子風の人生觀が少し許り存したため道家に入れられた位であるから。

 唐宋元明の間には前に言つた通り墨子は講明さるゝことも無くて過ぎたが、此は一つは墨子が讀み難い文であり、古字が有つたり、寫誤や錯簡が有つたり、又意味の元來晦澁なところが有つたり、解し易い部分は讀んでも興味が少かつたりしたためで、墨説の興味少くて華やかで無いことは既に韓非子に、楚王と田鳩との問答に見えてゐる通りである。先秦諸子の中で、公平に評して、墨子は餘り高級の出來榮の文章では無い。特に他書には見えぬやうな詞づかひなどもある。然樣いふ譯で長く顧みられず、且又儒學の兩大家である孟子荀子には斥けられ異端邪説とされてゐたのであるから、骨を折つて讀まうといふものも無く、僅に茅鹿門に明の時に評された位であつた。ところが清朝になつて古を攻むることが行はれたに際し、畢沅、孫星衍、盧文弨が初に出で、汪中、王念孫、引之が次で出で、後に兪樾、孫詒讓等が出づるに及んで、衆燭の光り漸くにして闇を破り明を發し、何樣やら斯樣やら讀めるやうになつたのである。それでも中〻以て十分とはいかぬし、隅から隅まで明晰に解し得るとはならぬのであり、解釋に日が暮れて、批判といふところまで手を着けてゐるものは未だ見當らぬのである。何にせよ二千年も棄てゝ置かれた舊籍で爛脱訛舛が多いのみならず、孔老の道、莊列の書、管晏の説とも異なる墨子は墨子だけの特立の學であるから、其の理路を考へるにも沈涵の日數を累ねなければならぬので、今でも明白に讀み得ぬところが殘されてゐる。畢沅は博學な人ではあるが、一番最初に讀墨に着手した人なので、隨分多くの讀み誤りをしてゐる位である。でも畢氏から讀墨の道が拓けて、其後王引之が特に詞辭の學を詳にしたので、墨子特有の「惟母」といふやうな稀有の言葉づかひも明らかにされ、念孫の讀書雜志は大に墨子の錯簡や古字を闡明し、兪樾の諸子平議は時に鑿説と思はるゝのもあるが、是亦少からぬ發明をして居り、孫詒讓が間話を撰するに至つて、衆説を滙會し、精力を傾倒して、おほよそは後學をして、此の滿目棒蕪の古典を窺知するを得せしめたのである。が、猶ほ甚だ多く不明の處が遺されてゐることは否定することが出來ぬのである。

 さて墨子の思想や主張に就いて語らうとするに、墨子を覗ひ知るべきものは今存してゐる五十三篇のほかに正しい材料とすべきものは無い。墨子に就ては先秦諸子及び漢の時の諸書が言及してゐるものが無いではないが、それ等は餘り價値は無い。淮南子の要略に、墨子儒者の業を學び孔子の術を受くなどと云つてゐるが如きは取るに足らぬ妄言であり、同書主術に、孔墨皆先聖の術を脩め、六藝の論に通ず、と云つてゐるのも、孔墨を同視した言で、孔墨の道の相反すること多きことを無視してゐる妄言である。古書古人の言と雖も間違つてゐるものは間違つてゐるのである。古書古人の言もたゞ參考とすべきであつて、無批判に採用は出來ぬ。それよりも墨子の書が幾篇を亡つても今幸に五十三篇を存してゐるから、直ちに其の書に就いて其説を觀取する方が宜い。

 但し現存の墨子は墨子の躬づから撰したもののみでは無い。古書多くは皆然りであるが、墨子の書の大部分は墨子の手に成つたのでは無くて、墨子の弟子、或は墨子の弟子の禽滑釐の弟子、或は其弟子の弟子等の手に成つたものである。其の證據は現存の墨子所染篇の末のところに「禽子傳説の徒是なり」とある句があるが、禽滑釐は墨子の弟子であるのに、それを「子」といふ尊稱を以て名いつてゐるのは、禽子系の弟子の手に文が成つたからである。又尚賢篇の中篇に、「且つ尚賢を以て政の本と爲す者は、亦豈獨り子墨子の言のみならんや」と記してある。墨子が自づから子墨子といふ譯は無いから、文が墨子の弟子、又は孫弟子の手に成つた證である。かゝる證は他にも幾箇處もある。して見れば現存墨子の書は少くも全部墨子の親撰に出でたものでは無い。論語が有子の弟子、若くは其同列地位の人の手で成つた如くに、現存墨子は禽子の弟子、孫弟子、若くは墨門の門弟子輩の手に成つたことは猜知するに難くない。然し其等の人の手に成つたとしても、現存墨子の中に、墨子の言の載つてゐることは疑も無いから、墨子を窺はんとするには現存墨子に依るのが不當でも何でも無い。現存墨子の中で、經篇は墨子自撰であるといふ人もある。それも疑はしいことで無くも無い。が、何にせよ現存墨子を除いては墨子を知るべき材料は何も無い。墨家の書といふものは、漢書に六部の書名が見えるが、胡非子隨巣子等の文は意林や太平御覽や北堂書鈔等に散見するのみで全豹は覗へぬのであり、何樣しても現存墨子を研究の標的とするほかに道は無い。

 墨子の現存五十三篇は、自分をして評させれば、おのづからにして三部を爲してゐるのである。此事は前人にかゝる言を爲したものは無いが、精しく墨子を讀んだ人ならば自分の言を首肯して呉れるだらう。其の三部といふのは何樣いふのであるかといふと、甲部は、

親士、脩身、所染、法儀、七患、辭過、三辯、尚賢上、同中、同下、尚同上、同中、同下、兼愛上、同中、同下、非攻上、同中、同下、節用上、同中、同下、(闕)節葬上、(闕)同中、(闕)同下、天志上、同中、同下、明鬼上、(闕)同中、(闕)同下、非樂上、同中、(闕)同下、(闕)非命上、同中、同下、非儒上、(闕)同下、大取、小取、耕柱、貴義、公孟、魯問、公輸、□□、(闕)

の篇〻であつて、これは墨子の對世間言、顯説、一般の士君子に對しての教諭訓説である。乙部は、

經上、經下、經説上、經説下、

の四篇であつて、これは前の諸篇の對外の言説であるとは異つて、墨學の學徒内のものであり、學問的に純なる部分であり、理論的、又は理論の取扱ひ方、認定論決の確實性を成立たしむる道の如きものである。或は墨子の死後に韓非子莊子の敍してゐる如く、別墨といふ一派、南方に於て墨學から開展したる學徒のものかも知れない。畢沅はこれを墨翟の自著と云つたが、それは「經」といふ字に眼を奪はれたまでの説であるらしく、甲部の所説とは大に樣子が異つてゐる。墨子の中で最も讀み難いのは此部分である。甲部に擧げたが、大取、小取等の篇は、甲部の多數とは樣子が異つてゐて、或は此乙部に聯屬したもののやうな氣もする。公孫龍等の學説は漢書藝文志の説によれば、禮官に出たのであるが、公孫龍、惠施等の學と此の乙部及び大取小取等の篇の言とは少しく通ずるものがある。墨子の學と惠施の説と通ずるところがあるといへば、人は大口を開いて笑ふであらうが、これは他日細心の人の研覈に委ねることとして、こゝではたゞこれだけのことを言つて置く。それから丙部は、

備城門、備高臨、備鉤、(佚)備衝、(佚)備梯、備堙、(佚)備水、□□、(佚)□□、(佚)備突、備穴、備蛾傅、備轒轀、(佚)備軒車、(佚)□□、(佚)□□、(佚)□□、(佚)迎敵祠、旗幟、號令、襍守、

の篇〻である。此中に篇名不明なのと、篇名あるも佚字を記したのは今は亡はれたもので、七十一篇の目に合せしむるために篇名不明のものまでを擧げて置いたのである。此部は事と法とに約して判すれば、事の部で、理論や主張が説かれてあるのでは無く、全く兵事を説いたもので、防禦對敵の施爲を傳授したものである。嚴格に云へば非戰主義では無くて、非侵略主義であるところの墨子の説を實際に成立たせようとすれば、敵が侵略行爲に出て來る以上は對抗撃攘の道を講ぜねば空言に終るから、それで是の如き兵備施爲をば教へたものである。此部は甲部には關係があるが、乙部とは殆んど別途異門である。三部中の「事」の部として特立してゐるものと云つても宜い。然し理の中に事を觀るべく、事の中に理を觀るべしであるから、此部を度外視する譯にもゆかぬし、此部の所説に考へ照らして墨家の意途を觀て取るべきところも有る。

 以上の三部の中で、所謂墨家の説として古來の人〻の論議したところは甲の部であり、しかも墨家の思想や主張は實に殆んど甲部に盡きて居ると云つても宜いのである。

 墨子の道とするところは孔子の道とするところとは何としても異なつてゐる。然し古より儒墨といひ、又は孔墨と併べ稱したのは何故であるか、それは淮南子が謂つた通り、兩者いづれも先聖の術を脩め古王の道に依つたからで、孔子とは其の執るところが異なつたとは云へ、墨子も亦孔子と同じく堯舜禹湯文武を稱したのである。墨子も亦孔子と同じく詩、書を稱したのである。墨子は、吾嘗つて百國の春秋を見るといひ、又其の藏書の甚だ多かつたことを本書に記されてゐる。墨子も實に孔子と同じく古を學び史に據りて、そして所信を立てゝ居るので、我流に一家の見を立てたのでは無い。但し孔子と異なるに至つたところは、孔子は周の人として特に周公を尊び、周初の文治を謳歌し、何とかして周初の郁〻乎として文なる哉の代に一世をして引戻らせたい意を有してゐたのに、墨子は孔子よりも後の世に出で、世は愈〻自利自恣の念のみ強くなつて、且又人情は浮薄で、目前主義、享樂主義、虚榮の是認、奢侈の衒耀、殘虐と騙詐、侵略と劫掠、あらゆる惡徳の日に盛んならんとする時に際會したので、中〻孔子のやうに手緩い態度や思想や感情を抱いてゐることが出來ず、そこで孔子と同じく古王の道に依り、同じく先聖の術を脩めたのではあり、同じく道徳の念の強い人ではあつたが、其の實際に施爲せんとするところは、おのづから孔子とは色彩をも樣式をも異にするを以て時を救ひ世を濟ふの法に於て是なりとするに至つたものと見える。孔子は周公が周國の成立つて國家の機運と人民の精神との將に新しい文化を成就せんとするに適した時代の施爲にかゝる周初の道徳や教法や禮樂や及び其の精神を、理想の標的として言を立て教を布かれたと見えるが、墨子は同じ先聖古王の中でも、最も國家危難の時に當つて非常の勤勞を以て世を治め時を濟つたところの夏王の禹の道法や精神を以て、此の時代に對するのをば最適と信じたと見える。禹は非常の大洪水で天下が滅茶〻〻になつた時に當つて、あらゆる困難窮乏に堪へて、其の偉大であり寛厚であり、そして畏るべき勞苦を辭せぬ勇健なる精神を以て、亂れ潰えた乾坤を處理し、人民を救濟した聖主である。尋常一樣のことでは如何ともする能はざる時に於て、大わらはになつて働いて、大抵の事は顧みるに遑も無く、一生懸命に世の爲に民の爲に勞苦したのが大禹である。周公だとて吐哺握髮して、一寸の暇隙も無く天下の爲にされたには相違無いが、大禹の時は周公の時どころでは無かつた。濁流山谷を掩うて、國境も分らなくなれば道路も無くなり、何も彼も眼鼻のつかないやうになつたのであるから、大禹は吾家にも歸らぬこと何年、眞黒になつて日に焦げ、向ふ臑に毛も無くなるまで奔走馳驅して、そして辛くも政治の功を擧げたのである。墨子の時は、孔子の時よりも世の中が愈〻亂れ立つて、爲政者は暑威暴利を縱いまゝにし、人民は頽廢的氣象になつて、まことに惡い世になり下つて來た。それは宛然濁水に山川陵谷を呑み盡された禹の大洪水の時の如くであつたのである。墨子が古聖賢の道を學んで、堯舜より周公に至るまでの人〻を稱しながら、特に大禹を稱すること、孔子が古聖賢を稱しながら、特に周公を夢みるまでに渇仰した如くであるのは、一つは孔墨の個性の差によること勿論だが、又一つは時代の形勢の差にもよつて居たらう。周公の施爲は文明的であり、大禹は生やさしいことは顧みて居られぬ時に當つたのであるから應急的施爲の常として實質的に傾かざるを得なかつたらう。墨子はもう孔子の如く周公の世に與へた文明的形式及び其精神を採るに堪へぬ時に當つてゐると、自己の時代を考へたであらうか、或は又自己の性質上に根ざす思想の傾向から、古聖の中に於て周公よりも大禹に心を惹かれたであらうか、何にせよ孔子が周公を仰いだ如くに墨子は夏王を仰いだのである。夏王の精神も周公の精神も國家人民に對する點に於ては勿論大同であらうが、其の施爲に於ては小異、イヤ大分の差異の有らうことは分明である。で、孔子墨子の其時を救ふの精神の大處は餘り間隔は有るまいとしても、一方が周初の文明施爲を理想の標的とし、一方が大洪水氾濫の時の實質的施爲を取るといふことになつては、其間に大なる距離が生じて來る。そこで韓文公は儒墨の距離を餘り大きく見ないで、其の精神の上に於て相通ずるところ有る者と評した、それは好觀察では有るけれど、孔墨兩家の爭は秦以前において既に發生してゐる。孟子と荀子とは其人生の信仰、及び古聖賢に對する解釋に於て大に差が有るが、兩子とも墨家に對しては同じく儒家として非難の鋒矢を向けてゐる。これも亦おのづから已む能はざるの勢といふもので、儒家が墨家を難じ、墨家が儒家を難ずるのは、互に相非とせずんば各〻自づから是とせざるに近きものであるから致し方は無いのである。

 儒墨は洵に異なるところが有る。然し異なるところの存すると同樣に同じきところもある。其同じきところは何かと云へば第一精神である。兩者同じく國家の安康にして人民の生を樂まんことを欲してゐる。此第一精神においては差は無い。佛氏は國家の觀念に於て甚だ稀薄であり、老氏は佛氏ほどでは無いが、又やゝ稀薄である。莊列は原人生活を謳歌するかの如く見えて、是亦國家を重視することに於て儒墨とは餘程の距離が有る。楊朱の學に至つては甚だしい個人主義である。墨子は他の諸家の如くに國家に對して稀薄の思想を有し、又は之を輕視無視する如き非實際的理想的思想的のところは無い。此點は儒家と同じである。墨子は其時代に於て用ゐらるれば直ちに國家人民の爲に有利であると信ずる實行可能性を有する言を爲したのであつて、實際的であり、空言的で無いところを、其力強い存在の支持としてゐる。空言の徒らに高くして實際の伴なはぬのをば墨家は「蕩口」といつて甚だしく卑んでゐる。言論の空しく美にして實に益無きをも「文を以つて用を害する」として恐れてゐる。すべて「實」を重んずるのは墨家の信條である。直ちに依つて以て天下國家を濟ふべきものを眞の道としてゐる。此點に於ては孔子の學と其色彩こそ少し異なるものがあれ、性質と精神とに於て相通じ相同じきものがある。

 たゞ其の實行の形式、及び其の形式の内に存する精神に於て、儒墨は何樣しても一致する譯には行かぬものがある。賢士を重んじ、正しき行爲を重んじ、教育を重んじ、法儀を重んずる等の點に於ては、儒墨同一である。然も墨子の孔子と相異なる第一は、墨子が甚だしく質素簡易な生活状態をば人の正當な生活状態と認め、これに反するものをば一切の社會惡の生ずる根本と見做してゐるのに、孔子は同じく儉素を尊び奢侈を惡みながらも、相當な文化を取入れることは、人間の自然でもあり、社會を善美にする所以でもあると認めて居られ、從つて「禮樂」を重んぜらるゝのであるから、そこで自づから左右に分岐するに至るのである。墨子は甚だしく「用を節する」ことを大切なこととする。用を節せぬ故に節度無き生活と慾求が起る。節度無き生活と慾求が起る故に自己を愛して已まぬ結果として他を侵害することが生じる。それが即ち社會の紛亂の根原である、と説いて、特に「治者」「優者」の節用を強調する。堯が天子の尊きを以て、「土階三等、茅茨剪らず」などと言囃したのも墨子から出たことである。堯が果して天子の尊きを以て然樣いふ生活をしたか否やは不明であつて、堯の女の墓と考へらるゝところの古墳の發掘に於て多くの珠玉を見出したことによつて、宋の羅廬陵は古傳の堯の甚だしい質素の眞否を疑つてゐる。が、史實は兎に角に墨子の時に於て然樣いふ傳説が有り、そして墨子がそれを振かざして、當時の分國の諸侯等の奢侈を戒め簡素儉約を強調したのは、墨子に於ては至當の事と考へたからであつた。詮ずるところ例へば齊の賢相の晏平仲の如きは墨子の最も善しとした人で、同じ賢相でも管仲の如きは三歸反坫の事があるから、墨子からは感心せぬ側の人であつたらう。此點が儒家でも實際世間といふものに對して判釋力を有してゐる人〻には必ずしも是認されない一つである。荀卿の如きは、そんな消極的な、不景氣招致に適したやうなことは不可である、社會が蹙然として萎縮してしまふ、人の上たる者は美ならず飾らずんば民を一にするに足らない、面白いものをあてがひ、味よきものを與へ、天下人民をして愉悦踴躍して、業を勤め生を樂ましめるやうにと取計らふのが聖王の道である、と論難してゐる。雙方に相當の主張は有るが、攻掠侵伐の爭亂が不節用の奢侈、無節度の生活に本づく場合の多いことも疑ふことの出來ない道理で、墨子の時代の君民皆放縱であつたに對し、墨子が節用を強調したのも確に一面の眞理を含んでゐる。今日簡易生活を叫ぶもののあるやうな譯で、時代の大勢は反對な或者を産み出す、河水が強く流れ下る時は其岸邊には上へ向く流れが生ずるやうなもので、墨子は放縱の世に際しておのづから敢然として節用を主張したのである。

 節用の主張を一環の半圓とすると、他の半圓として相助けて一環を成すものに兼愛の主張がある。兼愛とは非個人主義である。墨子の考では個人主義は罪惡の根源である。子が父を愛せず、弟が兄を愛せず、吏が上を愛せず、君が臣を愛せず、賊が自己を愛して他人を害し、諸侯が各〻自國を愛して異國を愛せず、皆自己を本位として、無節度の生活をすれば、天下の爭亂の生ぜぬ理は無い。兼ねるといふのは自他を兼ねるのである。兼の反對は別である、別は私である、兼は公である。古來の聖王、禹も湯も文王武王も皆「兼」の道を以て道と爲したのである、絶對に自己を利し他を顧みぬ如き、「別」の道を取つたのではない、「私」を爲したのでは無い、そこで終に天下の安と民庶の福とを致すを得たのである。人の上たる者、治者たる者は、「兼」に因らずして何樣して民を率ゐ世を治むるを得よう。民も亦「兼」によらずして何樣して家を齊へ生を樂むことを得よう。我が人の親をも愛利し、人も亦我が親を愛利し、交〻兼ねるの道が立つに至つて眞の平和と幸福とが成立つのである。詩に謂はゆる、我に投ずるに桃を以てす、之に報ゆるに李を以てす、といふやうでなければ、人生は眞の幸福では無い、といふのが墨子の説で、「兼」の道は古聖王の取つたところの大道であると、古に徴して論證し、世間是の如くならざるべからずと、今に照して説諭し、反對側の個人主義を不幸への道であるとして、論談甚だ力めてゐる。墨子の此の主張が、多分を治者優者に對つて爲されてゐるのは特に有理であつて、其意は先づ人の上長たる者の「兼」を以て道とせんことを求め、そして此「兼」の道に民庶も從ふに至るによつて理想的幸福世界を現ぜんとするに在る。此主張はもとより史的の正確不正確を以て爭ふべきでも無く、又其主張の中に含まれてゐる意圖の善惡等を以て爭ふべきでも無く、自己を中心とする楊朱の刻薄な思想などより遙に立勝つてゐる博大な善良な立派なものである。然し人は如何にしても自己を中心としてゐるものであるといふ現在事實とは牴觸してゐる弱味が有ることは爭はれぬ。たゞ眞の人間の幸福といふものは「兼」の道によつてのみ得らるべきものであるとしたら、眞の幸福を得んとするのは是亦人の如何ともする能はざる本願であるから、自己中心といふ現在事實を漸〻と克服せんとするに力むべきであるとせねばならぬのであるから、墨説も人類の本願といふところに於て非常な強みを有つてゐるのである。然も此説もまた儒家とは容れぬところがある。儒家は勿論楊朱の如き自己中心主義では無いが、自他に於て程度の差を立つることを自然の状態でもあり道理の眞致でも有るとしてゐる。人の親を敬愛せぬことは無いが、吾が親を敬愛して然して後に人の親を敬愛し得ると爲してゐる。そこに差別があつて、その差別は自然であり道理であるとしてゐる。そこで孟子は墨子の道をば、「墨子の兼愛するは是れ父を無みする也、父を無みするは是れ禽獸なり」と酷論してゐるが、これは少し苛評である。孟子は墨子が爲政者治者等に對して「兼」の道を強調してゐるところを看過してゐる。孟子が「何ぞ必ずしも利をいはん」と云つて、人各〻自ら利せんとすれば社會は何樣にもならぬものである、と説いたところは、正に是れ墨子の兼愛の説の由つて出づるところである。今少し墨子の精神を看取して、そして徐ろに儒家の差別説が墨子の無差別説に優るあるところを説破しなければ、墨家をして首肯せしむるには至らぬと考へられる。

 節用は質素簡樸の原徳を保持する所以であり、質樸は勤勞と因果の好循環を爲す所以である。これに對して奢侈は人の原徳を喪失するに至らしむる所以であり、又奢侈は安逸遊惰と因果の醜循環を形づくるものである。善く勤勞に服すれば、麤食冷水も其の甘きこと精饌美醁の如く、草に睡り樹に枕するも其夢は安靜甘美であるべきである。そして好き睡眠と善き攝養とは、復び勇健爽快なる精神による確實重厚性の尊き勞作を甘なはしむるものである。これと同じ比例に遊惰なる生活は奢侈を要求し、奢侈は又人をして遊惰ならざる能はざらしむるものである。此の意味に於て、墨子は節度ある生活、質樸なる生活を強調すると同時に、「勤勞」といふことを極力強調し、これが世を濟ひ社會を拯ふ所以の道であるとする。彼の大洪水の時に當つて、大禹が水行陸行、奔走寧日無く、營〻孜〻として身を碎き心を勞したところは、殆ど其の形儀の標的であるとするのである。莊子をして、「禹親自に槖耜を操つて天下の川を鳩雜し、腓に胈無く、脛に毛無く、甚雨に沐し、疾風に櫛けづり、萬國を置く、禹は大聖也、而して形の天下に勞するや斯の如し、後世の墨者をして多く裘褐を以て衣と爲し、跂蹻を以て服と爲し、日夜休まず、自ら苦むを以て極と爲し、曰く、此の如くなる能はずんば、禹の道に非ざるなり、墨と謂ふに足らずと」と云はせた通り、實に墨子の道は勤勞に服することを人たるものの道の根幹と認めてゐたのである。勞に服することは道であり善であり美であり幸福であり、これによつて世界は化醇し人間は至樂を得るとしたもので、墨家が向臑に毛の無くなるまで奔走勞作することを尊んだことは、楊朱が吾が脚の一毛を拔いて天下を利することになるとも其の一毛を拔くことを肯んじない利己主義と極端の對照を爲してゐるものである。此墨子の服勞を重んじたことは如何にも立派な精神から出てゐることであるが、一面には明らかに當時の君主も士人も民庶も衰世的の精神傾向を有して皆各〻巧慧狡猾と遊惰安逸と奢侈放肆と虚榮浮美とを以て生活を遂げんとしてゐた状態に切齒して反抗したるに出で、勤勞に服せずんば人世それ如何との感想から出發してゐることも看取されるのである。

 そこで墨子の政體に就ての觀察も是の如きの思想精神から來るために、精しく論ずる時は少し儒家の見とは異なるもののあることが見える。墨子の目に映じた天子といふものは天子の名はあつても、天若くは神の寵命を受けて此世に君臨する運命を負うてゐる天子では無い、神權説的の天子ではない。墨子の思想では、人各〻其義とするところのものを有すれば、一人一義、十人十義、百人百義、千人千義で、義の定まるところは無い。各〻皆其義を是として人の義を非とすれば、厚き者は鬪、薄き者は爭を生ずる。そこで「兼」といふことの大切なるが如くに「同」といふことが大切である。衆義を一にして、衆異を融冶し、賢者を選擇して立てゝ天子と爲すのであり、そして天子の是とするところは民必ず之を是とし、天子の非とするところは民必ず之を非とし、天子は又必ず天即ち「兼愛」の本體と一致すべきである、とするのである。墨子の天子は「賢者を選擇して立てゝ天子と爲す」といふのであるから、天子の根源は「大統領」と同じものである。これは支那上古の政史に於て、或は然樣であつたので、墨子の上古史解釋は間違つて居らぬかも知れぬ、又或は然樣では無かつたかも知れぬ、墨子の理想の影を以て上古を掩うたのかも知れぬ。いづれにしても此の一半は史的の事にかゝるが、墨子の解では「尚同一義」といふことが非常に大切なことで、そこで、尚同一義のために、天子の獨力が天下を治むるに足らぬから其下に三公を立てる、三公の下に諸侯を立てる、諸侯の次に卿と宰とを立てる、卿と宰とで未だ足らぬから、次に郷長・家君を置く、正長・里長等、墨學に於ては天子以下次第に、絲縷の紀あり、網罟の綱有るが如くに組織立つた職制を置いて、そして同じきを尚び義を一にするのである。墨説によれば諸侯等は富貴遊佚を謂れ無く得るものでは無くて、天子と人民との間に尚同一義の機關として、馳驅して以て上に告げ下に臨むところのものである。墨子の尚同一義の旨を詳しく察すると、墨子は君主は兵力徳力等を以て人民を克服して成立つたものとせずして、民意によつて其異を去り同に歸し爭を除き利を公にする爲に成立したものとする。つまり君主政體を解釋するに民主政體を以てせんとするが如くに見える。上古の支那の政治の實相は或は墨子の言の如くであつたかも知れぬが、それは暫く保留して置く問題として、夏・殷・周に至つては君主政體が確立してゐるのだから、周制を是とする儒家とは此點に於ても墨家は異説であるに相違無い。尚同の論は墨家の古を援き語を壯んにして極力主張するところであるが、儒家でさへ政治の妨害とした秦の時、是の如きの學説が秦の朝廷から酷烈に彈壓されたらうことは分明であるから、秦の後に墨學の全く絶滅した如き觀があるのも不思議では無い。

 墨子の政論は是の如くであるから、勢として人世の最上權力者の上に「天」といふ者を立てなければならぬ。そこで墨學では「天」といふものを立てる。「天」は「兼愛兼利」である。天意に順ふを「義政」と爲し、天意に反くものを「力政」とする。上は天に、中は鬼神に、下は人民に利するものを聖王と云ひ、然らざるものを暴王といふとする。「政」は「正」であるとする、「義」は「善政」であるとする。義は「天」より出づるとする。天子の貴き所以は「天の意」を奉ずる故であるとする。是に於て墨學は少し宗教じみる。天は民を愛する厚きものである、堯舜禹湯文武は天意を奉じたもので、それで天の賞を得たものであるとする。兼愛は「天志」である、獨り我が「天志」を以て儀法と爲すのみならず、先王の書、大夏の道に於て然るあるなり、と斷じ、天志は義の經也と斷じてゐる。天志を規矩として世に臨まんとしてゐる。上帝鬼神は天子より庶民の上に存してゐるものとする。帝と鬼は義の體であり、兼愛其物であるとしてゐる。こゝは大に基督教的信仰に近い。從つて天地間の現象は有意義のものであり、天の褒美、天の刑罰が存在してゐるものと認めてゐる。從つて祭祀は無意義のもので無いとしてゐる。此點は儒家にも通じ、支那上代より存してゐる上帝の思想にも淵源してゐる。が、然し墨家では隨つて「運命」を信ぜぬ。「運命」といふものは盲目的なものであるが、墨家では盲目的な運命を認めず、吉凶禍福窮通は皆意義あるものとして、偶然といふやうなものを認める如き生緩い考を有せず、天志に從へば必ず可であるとしてゐる。「非命」の論の立つ所以で、ここは又儒家と岐れる。儒家では不可測の「命」が有るとする、墨家ではそんな不明なものは無いとして、牢固なる信念に立ち、天志を奉じて努力勤勞すれば可なりとしてゐる。

 鬼神を信ずることは又墨子の勇氣ある行爲を取らしむる所以の一である。不幸にして又其論の三の二を失つてゐるが、墨家の鬼神といふものは猶ほ耶蘇教の天使といふが如きものである。「深溪博林幽澗無人の所有りと雖も、施行は以て正しうせざるべからず、鬼神ありて之を視る」となして居る。虞夏商周の聖王の天下を治むるに鬼神を先にする者は必ず鬼神を以て有りとするからであると爲し、而して人死して或は鬼神となり、天の化育を贊し施運を輔くるものと爲し、古傳説を援いて之を證し、古儀式を釋して之を通じ、鬼神のまざ〳〵と存することを説いてゐる。これは明らかに古來からの信仰に依つたもので、必ずしも墨子一家の言では有るまいが、此點に於ても儒家は墨家ほどに人の死後或は生けるが如くに存することなどを執しては居らぬ。儒家では死後の状態などを問題にすることを好まない。天神地祇人鬼の語は儒家にも存するが、墨家ほどには語らない。

 人の鬼となるものの有ることを信じてはゐるが喪葬に關しては墨家は儒家ほどに重視せぬ。これは節用と勤勞とを尊ぶより出たことで、厚葬久喪は財を靡し事を妨げ、國家人民をして窮乏に陷らしむるからで、桐棺三寸、衣裳三領が古聖王の葬埋の法であるとなし、死則ち既に以て葬る、生者必ずしも久哭する無かれ、そして人各〻其事に從へ、といふのが墨説である。墨説では、堯でも舜でも禹でも、あれほどの聖者でも皆薄葬である、今に當つて何ぞ厚葬を用ゐんといふのであるが、周の俗に至つては中〻鄭重な葬儀を用ゐたもので、今に至つて支那人は世界各國民中でも厚葬する國民である、墨子時代にも隨分家を敗り産を毀つほどに半分は虚榮的俗習的壓逼を感じながらも厚葬したものと見える。で、何事にも實際を重んずる墨子は其俗を改めて、そんな事は人世を利する所以で無いと爲し、且又三年の喪などといふのも其實は虚禮虚式になつてゐる世なのであるから、むしろ三月で澤山であるとなしたのである。事實に於て三年の喪などは眞に行はれては居ないのであるが、虚禮は二千年後の今日にも稀に行はれてゐるほどの支那であるから、墨子の厚葬久喪を非とした論は、裏面は兎に角に表面は歡迎されなかつた事であらう。音樂も亦墨家の勤儉主義からは弊多く利少きものとして斥けられた。葬を薄くし樂を非とするといふことは、儒家では最も大切にする禮樂を輕視するのであるから、此點は大に儒家に論難せられ、荀子なんどには手嚴しく非樂説を糺彈されてゐる。然し墨子の當時、良い樂は聲を潛めて、むしろ人の善良の精神を破壞し、頽廢的氣分を増長させるやうな靡曼の音樂が行はれて、淫蕩の風を煽るやうなもののみ多かつたから、激して非樂の論を發するに至つたものでも有らうし、又墨子の性癖が是の如くなるに至らしめたのでも有つたらう。薄葬は可否相半してゐる。陶淵明の如き温藉の人でも、「裸葬また何ぞ惡からん」と云つて居る位だから、墨子及び其徒にして薄葬を好み、又久喪を非とするならば其の所望に任せて宜しいが、之を人に強ひんとするに至つては餘り感心も出來ぬ。況んや非樂に於ては、其意は或は可にして、其言は或は時弊に當つたものにせよ、人情に遠い頑固論であり、之を人に強ひんとするは不通の説である。且又古聖が樂を重んぜぬなどと言つたのは明らかに古聖を誣ひたもので、荀子に駁倒されたのも是非ないことである。莊子が墨家を評して、「其の生けるや勤め、其の死するや薄く、生きて歌うたはず、死して服せられず、桐棺三寸にして而も槨無く、其道や大觳、人をして憂ひしめ、人をして悲ましむ、其爲し難きを行ふや、其の以て聖人の道と爲す可からざるを恐れ、天下の心に反す、天下堪へずんば、墨子獨り能く任ふと雖も、天下を奈何にせん」と云つたは實に適評で、大觳といふのは「うるほひの無い」といふことである。墨子の道は惡しからずと雖も、「うるほひの無い」ことは爭へない。貞しい説でも有り善い教へでも有らうが、一口に云へば野暮なことで、天下堪へず、墨子獨り能く任ふと雖も天下を如何にせん、と云つたのは流石に洒落者の巧みな論破ぶりである。

 經、及び經説は前に述べた如くに奇異にまで見えるものである。恐らくは「別墨」の言であらう。晉の魯勝の書でも存して居たらば少しは明らかに解し得ようが、數學の如く、論理學の如く、實に異なものである。列子の中、莊子の中、淮南子の中などに、これと相渉るものが少し存するが、宛として幾何學の出來ぬ學生が強ひて幾何學的論證をしてゐるのを聞くが如く、理屈めいて而もとりとめの無いやうなものである。惠施や公孫龍の學に近い、イヤ惠施や公孫龍の學が或はこれから縯出されたものかを疑ふ。考古の念の強いものに在つては、ゆつくりと研鑽したら或は面白いことを發見するか知れぬが、要するに墨學の主張を是の如き辯證法で裏づけたものか、或は墨學を爲す者が、一部面に於て是の如きことを學んだのか知らぬけれど、尚同・兼愛・節用・天志等の論とは交渉の濃厚で無いものであり、おのづから別部を爲してゐるものであり、且其の思想を抽出して語り難いものである。強ひて言へば硜〻然として理を析ち事を究めんとするの言を累ねたもので、而も零細叢脞、一貫の脈絡無きに近きもので、たゞ其の勃窣として纍瓦結繩の辯を陳ぶるを看るのみである。

 墨子の兵科の教は當時に於ては實用に供せらるべきことで有つたから、重要の事で有つたらう。狗を用ゐて敵の近づくを知つたり、火を用ゐて敵の攻撃器具を燒いたり、空罌を地に埋めて共鳴槽の道理によつて敵が隧道を掘鑿して城に入らんとするのを早く悟つて之に應ずべき處置を取つたりすることなど、中〻感ずべきことを説いてゐる。然し墨子の學説には皆交渉の薄いことであるが、墨子が兼愛の主張からして、侵攻は墨子の非常に憎惡するところで、これに對してはたゞに之を非とするのみでは無く、實際の防禦に訴へて侵略攻撃し來る者を撃退せんことを平常時に於て攻究し置き、時に臨んでは其不法非道の攻撃者を粉碎せんことを期してゐる。これは明らかに當時に於て墨子一派が世に重視せられた一因を爲してゐたに違ひ無い。其の方法擧施は今日に於て取るところが有るべくも無いが、たゞ其中に於て驚くべきことがある。それは墨子が、籠城守禦の場合に於ては、女子老少をして其の兵務を執らしむること殆ど男子に異なる無からしむることで、而も女子老少と雖も兵務を執らしむる以上は軍律を以て是を律することである。大抵兵士の割合、丈夫十人、壯女二十人、老少十人といふことで、兵の一には女子の二、老少の一を用ゐる比例になつてゐる。籠城の場合だから是非無しとは言へ、女子と老少とを斟酌無く使はうとすることは流石に墨子である。女子も參政權など要求する道理が有るのだから、兵務に就かせらるべき權利の有ることは勿論であるから、これは明らかに墨子の最も進歩した思想に本づいた施爲である。大觳にして、「うるほひの無い」どころでは無い、女子より音樂を取上げて、土畚を荷はせたりなんぞしようとしたのは、隨分手強い人である。此事は前人が墨子を論ずるに當つて誰も指摘して居らぬが、孫子が女兵を調練して軍律を用ゐんとした談と共に、周秦の間の世相に就いて或種の考を抱かせる。大體に於ての墨子の評は先づ莊子の評が當つてゐる。

(昭和四年七月)

底本:「露伴全集 第十八卷」岩波書店

   1949(昭和24)年1010日第1刷発行

底本の親本:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店

   1929(昭和4)年7月発行

初出:「岩波講座 世界思潮 第二册」岩波書店

   1929(昭和4)年7月発行

入力:しだひろし

校正:大沢たかお

2011年17日作成

2013年1214日修正

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