(ポオル・モオランの「タンドル・ストック」)
堀辰雄



 堀口大學氏が「三人女」と云ふ題名で譯されてゐるポオル・モオランの短篇集の原名は Tendres Stocks と云ふのである。三人の女のことを描き分けたものだから「三人女」と云ふ題もなかなか惡くないが、私はこの「タンドル・ストック」と云ふ題には何かもつと洒落れた意味があるのではないかと思つてゐた。

 ところがこの夏、私が輕井澤に行つてゐた時のことである。とりかかつてゐた仕事もやつとすんだので、私はほつと一息つきながら、ホテルの應接間へ何か輕い讀物はないかしらと探しに行つた。そのとき私の眼についたのは前田曙山の「草花の栽培」といふ本であつた。私はそれを手にして、そこの肱掛椅子に腰を下ろしながら、讀んでみるとそれは思つたよりも面白かつた。

 そのうちに「あらせいとう」といふ章があつた。この西洋の詩によく出てくる草花のことを俗に Stock と呼んでゐると云ふ。そしてこの一種に Sweet Stock(にほひあらせいとう)といふのがあるさうである。……ここまで來ると、この Sweet Stock といふ名前が私の頭のなかで閃いた。これを佛蘭西語に直すと、ひよつとしたら Tendre Stock になりはしないかしら? するとポオル・モオランの短篇集の題は「にほひあらせいとう」と譯されなくつちやならん。……

 丁度そこへ佐藤朔と阿此留信が遊びに來たので、私は兩君にラフィンズ・サイダアを御馳走しながら、だしぬけにかう云つたものだ。「ポオル・モオランに『タンドル・ストック』と云ふのがあるね、あれ、君、どういふ意味だかわかる?」

 流石の兩君も、だしぬけに私にかう訊かれると、いささか自信のなささうな顏をしながら私の方を見た。

 私はすこし得意になりながら、私のいましたばかりの小さな發見を話した。「だからね、『タンドル・ストック』は『にほひあらせいとう』さ。……こいつばかりは堀口さんも知るまいなあ。……」

 私は早速、このチャアミングな發見を神西清に手紙で書いてやつた。

 すると二三日後、彼から端書が來た。

「いかにも君が輕井澤で思ひつきさうな譯語で面白かつた。しかし Sweet と Tendre とはすこし異ふやうだな。矢張り Stock は普通の意味でのストックだらう。因みに英譯は Green Shoots(嫩芽)となつてゐる。」

 なるほど、さう言はれて見るとそれに違ひないので、私は私の「にほひあらせいとう」説を棄てることにしたが、まだいくらかこの説に未練がないこともない。


          


「タンドル・ストック」はポオル・モオランの最初の短篇集である。堀口氏の譯本には多分ついてゐなかつたと思ふが、原書にはマルセル・プルウストが序文を書いてゐるのである。その序文がちよつと面白い。その序文でプルウストはモオランの特異なスタイルを辯護するために、アナトオル・フランスの舊スタイル論を難じてゐる。つまり、スタイルからあらゆる特異性を棄てろと云ふアナトオル・フランスの説を駁して、プルウストは、感受性が特異である以上、スタイルの統一を期することは難しいと言ふのである。その序文の一節を引用して見ると、

「十八世紀末から誰ももう書くことを知らん、とアナトオル・フランス氏は仰言るが、その反對もまた眞實ではなからうか? すべての藝術において、藝術家の才能なるものは表現すべき對象へどれだけ接近し得るかにあると言つてよい。その間に隔りがあればあるほど、仕事は未完成なのだ。……他の世紀においては、作家とその對象との間にはいつも或る距離があつた。ところが、例へばフロオベルになると、彼はみづから川蒸氣の顫動にならうとする。そして遂に作家が姿を消し、我々の前にはただ走つてゐる川蒸氣があるばかりになる。……かかるエネルギイの變化こそ、作家がそのスタイルに對して最も意を注ぐべきものではなからうか?」


          


 プルウストがモオランの最初の短篇集にかういふ序文を書いてやつてゐるやうに、嘗つてプルウストの最初の短篇集(Les Plaisirs et Les Jours)に序文を書いてやつたのがアナトオル・フランスであることを知れば、この序文はますます面白い。そこに時代の推移がうかがはれないこともない。レオン・ピエル・カン等の著書によると、プルウストは若い頃しばしばアナトオル・フランスのところへ訪ねて行つたらしい。さうしてアナトオル・フランスは若いプルウストのために書いてやつた序文の中に、

「プルウスト氏は優雅な悲哀、自然の苦痛に少しも劣らぬ人工の苦痛を物語るのに秀でてゐる。この人間的な天才によつて發明された苦痛、發見された悲哀は私には限りなく興味ぶかく、貴重なるものにさへ思はれる。……突然、獨逸の醫者の光線が肉體をよぎるやうに、電光が一過する。詩人はたちまち、祕かな思ひ、人しれぬ欲望を見ぬいてしまふ。……」

 などと書いてゐる。數年後のプルウストの仕事を思へば、アナトオル・フランスはかなりこの若い詩人の本質を見ぬいてゐたやうでもある。が、まあ半分はお世辭だつたのであらう。何故なら、數年後プルウストが「失はれた時を求めて」を徐々に發表し出したとき、アナトオル・フランスのそれに對する態度はきはめて冷淡なものだつたらしいからである。それを讀んでゐるのかどうかも疑はしい。たとへ手にとつたにしても、恐らく數頁ではふり出してしまつてゐたのかも知れない。

 何時にかぎらず老いたる時代はより若い時代を理解しようともせず、又、できないものだからである。私はいま、「アナトオル・フランスとの對話」の著者が晩年のアナトオル・フランスをツウルに訪れた時の話を思ひ出さずにはゐられない。


          


 一九一九年のある夏の日の午後であつた。ニコラス・セギュルはツウルに住んでゐるアナトオル・フランスを訪れた。何かの本の序を乞ひに行つたのである。すつかり壁が繪で埋まつてゐる、小さなサロンに、老詩人は一人の客と元氣よく話してゐた。しかし、彼の健康はもう衰へかかつてゐるやうに見えた。彼はすぐその序文を引受けてくれた。そして明日、それを渡すから、ツウルの或る小さな羅紗屋に來いと云ふことだつた。

 翌日、二時頃、セギュルはその店へ行つた。アナトオル・フランスはその二階の小さなオフィスのやうなところで、そこの主人と話しながら、彼を待つてゐた。そこで二人はしばらく文學の話をした。それから下へ降りて行つて、店の前に待たしてあつた有名な赤い自動車に乘つた。その赤い自動車をツウルで知らないものはなかつた。それから二人は骨董店だの、家具店だのをひやかして歩いた。そして最後にちよつと本屋へ立寄つた。

 その本屋で一番目についたのはN・R・F社の數多い出版物だつた。それを見ながら、アナトオル・フランスはアンドレ・ジィド(この間その「狹き門」を讀んだと言つてゐた)やポオル・クロオデル等の名前を口にした。

「C公爵夫人に──今でも詩を書いてゐる人だが──ある日、サン・クルウで、私はこれらの詩人のことをどうお考へになるかと訊かれた。私はその問をすこし無作法だと思つた。しかし私は勿論、彼等に非常に好意を持つてゐると答へて置いた。自分の隣人に、それが誰だらうと、好意を持たないものがあらうか? しかし、實際を言ふと、私は彼等のことをちつとも知つてゐないのだ。それに私はもう彼等を知つてそれをどうしようと云ふ氣にもなれない。……流行は來たり、流行は去る、いつも同じやうにね。……私たちの時代には、マラルメが大流行だつた。しかしマラルメは、今日の詩人の或るものみたいには難解でもなければ、生眞面目でもなかつたやうだ。とにかく、詩は青年のものだ。われわれ老人は少くともかう云ふことを悟るがいいのだ、即ち、新しい詩はわれわれには閉された本であることを!」

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年930日初版第1刷発行

底本の親本:「曠野」養徳社

   1944(昭和19)年920日刊

初出:「リベルテ 創刊号」

   1932(昭和7)年111日発行

※初出時の表題は「文学的散歩」、その後の刊本においては独自の表題は附せられてないが底本では新潮社元版全集にならって仮題を附した。

入力:tatsuki

校正:岡村和彦

2013年411日作成

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