行乞記
仙崎
種田山頭火
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八月八日
五時半出立、はつらつとして歩いてゐたら、犬がとびだしてきて吠えたてた、あまりしつこいので拄杖で一撃をくれてやつた、吠える犬はほんとうに臆病だつた。
水声、蝉声、山色こまやかなり、大田へはいつてゆく道はやつぱりよろしい。
十時には秋吉に着いて行乞、さらに近在行乞、財布(ナイフとルビをふるべし)を忘れてきてゐる。
夕立がやつてきた、折よく観音堂で昼寝。
もう萩が咲いてゐる。
新屋といふ安宿に泊る、愛嬌のない、井戸もない宿だつた、相客はいかけやさん、料理人、前者はおしやべり、どこか抜けたところがある、後者は生来の世間師、いらないものがある。
水は正直ですよ、といつていかけやさんが修繕したバケツに水を入れて覗いてゐる。
さすがに秋吉附近は大理石の産地、道ばたの石ころも白い光沢を持つてゐる。
旅立つ今朝の、蝉に小便かけられた
朝月のある方へ草鞋はかろし
・あぶない橋の朝風をわたり山の仕事へ
笹に色紙は七夕の天の川
・そこは涼しい峠茶屋を馬も知つてゐる
・夕立晴れた草の中からおはぐろとんぼ
・昼寝覚めてどちらを見ても山
・おのが影をまへに暑い道をいそぐ
暮れると水音がある暗い宿で
・月夜の音させる牛も睡れないらしく
・旅はいつしか秋めく山に霧のかゝるさへ
・霧ふかく山奥は電線はつづく
・ゆふべの鳥が三羽となつて啼いてゐる
・山のまろさは蜩がなき
・蜩のうつくりなくに田草とる
かなかなもなきやんだ晩飯にしよう
行程五里、行乞四時間。
今日の所得は 銭弐十六銭、米弐升八合。
木賃は三十銭 (等級は中の下)。
お菜は野菜づくし
八月九日
朝曇、涼しかつた、七時出立。
山の奥へ奥へと分け入つてゆく、霧がたちこめてゐる、時鳥がなく、途上ところ〴〵行乞。
売られてゆく豚のうめき、水蜜桃の供養、笑顔うつくしい石仏。
どこでも土用干の着物が色とり〴〵、私は何を干さうか、支那の何とかいふ奇人のまねではないが、破れ法衣に老いぼれ身心でも干さうよ、いや現に干しつゝあるではないか。
彼のよしあし、それはやがて私のよしあしだつた、行乞の意義はこゝにもある。
嘉万の街を行乞してゐるところへ伊東さんが自転車でやつてきた、今夜は八代でゆつくりとよい酒を飲む約束で、此地方へ出かけてきたのだが、万事都合好く運びつゝある(君は醤油味噌醸造の講師として出張したのである)、山のまろさ酒のうまさ人のよさ!
負子(朝鮮ではチゲ)は印象ふかく眺められる。
八代の共同作業所へ着いたのは五時過ぎだつた、そして意外にも樹明君が後を追うて来た、小郡から自転車で二時間半で飛んだのである。
生一本、此地方でいはゆる引抜はよかつた、N家の酒はよい酒である、そのよい酒の最もよい酒だ、酔うて蚊帳もつらずに寝たのはあたりまへだらう。
私の好きな山がかさなつてゐる、私の好きな友だちといつしよである、酒はひきぬき、風はすゞしい、あゝ極楽、極楽。……
今日の行程八里。
今日の所得銭五十七銭、米三升六合。
・近道の近道があるをみなへし
・こゝから下りとなる石仏
・山の朝風の木が折れてゐる
・ほんにうまい水がある注連張つてある
・どうやら道をまちがへたらしい牛の糞
・住めば住まれる筧の水はあふれる
近道近かつた石地蔵尊
うらは蓮田で若いめをとで
・はだかではだかの子にたたかれてゐる
・波音のガソリンタンクの夕日
・一切れ一銭といふ水瓜したたる
八月十日
朝の山を眺めながら朝酒を味はつた、樹明君は夜明けに起きるなり自転車を飛ばせていつた。
七時すぎてから地下足袋を穿く、ほろ酔のうれしさである。
峠は近道(いひかへれば旧道)を歩いた、道連れとして面白い人物が待つてゐた、彼は酒好きの左官、女房に死なれて焼糞になつてゐるが、近く後妻を貰ふつもり、どうでせうかと訊く、是非お貰ひなさい、それが最も賢明な策ですと勧説して別れた。
三隅へ二里、十時頃に着いた、さつそく行乞をはじめる、今日はどういふものか気分がすぐれない、手当り次第に何でもぶちこわしたいほどいら〳〵してゐる、かういふ場合の行乞はとても苦しい、自他共に傷づく行為である、しかし私は無理にも行乞しなければならないのだ、私は銭が欲しいのだ、不義理な借金をいくらかづゝでも払はなければならないのだ。──
仙崎まで三里の間、行乞しつゞけた、中途で橋の下の草の上で昼寝などして。
投げてくれた一銭銅貨は投げかへしてやつた。
田舎饅頭、五銭で六つはうまかつた。
若い飴売鮮人と話し合うた。
こぢれた気分がすこしづゝほぐれた、こだはるな〳〵、水のながれるやうであれ。
仙崎の宿はよかつた、設備(部屋も夜具も便所も湯殿も井戸も)待遇(その大半はおかみさんのサービス如何にある)共によかつた、木賃料は一昨夜の宿とおなじく三十銭だが、その倍の値打はある、相客三人、屋号は寺田屋。
今日の所得(銭六十四銭、米二升二合)
晩のおかず(さしみ、茄子、焼海老)
夜は近所のお寺の夜店を見物した、観音祭らしい。
桟橋の涼風が身心をさはやかにしてくれた。
昨日は山の青さ、今日は海の青さ、明日はまた山の青さを鑑賞することができる。
朝月残る木槿が咲いてゐるながれ
島へ渡しの、氷や菜葉や郵便や
・氷屋ができて夾竹桃の赤や白や
・落ちてきて米つく音の水がながれる
・近道のいちはやく山萩の花
・水は岩からお盆のそうめん冷やしてある
行乞雑感(一)
八月十一日
晴、暑かつたが気持は軽かつた、仙崎町行乞、そして滞在、新相客は伊佐で同宿の老遍路。
行乞雑感(二)
八月十二日
明けてゆく海の色はうつくしかつた。
六時出発、深川町を行乞しはじめたら大夕立がきた、そして地雨らしく降りつゞける、馴染の川本屋へとびこむ、こゝの主人公──押入聟さん──は私の放浪時代に度々同宿して打解けた飲友達だ、久振に一杯やらうといふので一升買つた、酔うて唄うて踊つて──誰も彼もいつしよになつて──近来の大散財なり。
前後不覚になつて、どうして寝床にはいつたやら、いつ寝たやら、一切合切不明なり、しかも些の不都合なし、善哉々々。
今日の所得(銭七十九銭、米二升一合)
今日の買物 一、五銭 キセル
一、三銭 シヤモジ
一、四銭 ハシ
一、弐十四銭 サケ
八月十三日
からりと晴れてゐる、身心もさつぱりしてゐる、今日は昨日の分まで行乞しなければならない。
午前中深川町行乞、巡査がきていろんな事をたづねる、要領よく応対。
湯本へ出て、安宿で昼寝、それから湯町を行乞してゐるとまた巡査がやつてきた、何のかのとうるさい、近く澄宮殿下が萩市に行啓なさるので、彼等は神経過敏になつてゐるらしい、あんまりうるさいから峠を越えて於福まで歩き、朝日屋といふのへ泊つた、母子二人のしめやかさ、なか〳〵よい宿だつた、木賃二十五銭は安すぎる、気の毒な事には娘さんが病んでゐる、肺結核らしい、とても助かるまい。
今日の行程は四里。
所得は銭八十一銭、米一升七合。
八月十四日
山村の朝は何ともいへないすが〳〵しさだ。
今日は樹明居徃訪を約してゐる、樹明君も待つてくれてゐるだらうか、同行の敬治君も待ちあぐんでゐるだらう。
急テンポで於福行乞、途中また堅田行乞、急いで帰庵したが、五時を過ぎてゐた、置手紙二つ、一つは樹明君が待つてゐるといふ、他は敬治君が待ちあぐねたといふ。
おそかつた、すまなかつた、くたびれた、がつかりした。……
昼食として桃を食べた、おいしかつた、気附薬として焼酎半杯、これはむろんうまい。
× × ×
行乞七日間、懸命に稼いで(私のやうな行乞はまつたく筋肉労働である)残つたものは、銭が壱円四十銭あまり、米が三升ばかりだつた。
今日の所得(銭四十七銭、米一升六合)
行程八里。
八月十四日
於福から八里歩いて戻つて、戻るなり樹明居へ押しかけて、お盆のお経をあげてお盆の御馳走になつた、たいへん酔うた、道がわからなくて樹明君に途中まで送つて貰つた。……
樹明君ありがたう、敬治君すみませんでした、二時間も待たせて、そしてとう〳〵いつしよに樹明居襲撃ができなくて。
改作
・からりと晴れたる法衣で出かける
追加二句
みんな寝てしまつてゐるポストのかげがはつきり
見おくるかげは見えない松むし鈴むし(樹明君に)
八月十五日
晴、宿酔ほがらかである、昨夜、最後の一片まで賞味した鮒のあらひのうまさがまだ残つてゐる!
樹明来、敬坊不来。
夜、樹明君といつしよに街へ、水哉居を襲うてビールを頂戴する。
樹明君泊る。
ガチヤガチヤ、ガチヤガチヤ、轡虫が鳴きはじめた。
きのふの酔がまだ残つてゐるつく〳〵ぼうし
・ま昼ふかうして鳴子鳴る
・ゆふべの夏草をふみわける音がちかづく
・日ざかりあるくはつるんだ虫で
八月十六日
朝風は秋風だ。
方々から便りをもらつたりあげたり。
買物いろ〳〵、品多くして銭少し。
出勤した樹明君が到来のビールをさげてまたやつてくる、敬坊が酒とかしわとを持つてくる。
其中庵独得の酒宴がはじまる、うれしやめでたや。
提灯がないので、暗くて蝮の危害を懼れて、樹明君即製の灯火をふりかざして帰つてゆく、昭和の討入よろしくといつた風態!
私は酔うてぐつすりと寝た。
・いなびかり別れて遠い人をおもふ
こうろぎこうろぎ風鈴が鳴る
八月十七日
朝、敬坊来、それから樹明来、私が使者となつて酒と豆腐と味噌と焼魚とを仕入れて戻る、夕方まで三人でゆつくり飲む、樹明帰宅、敬坊と私とは街を散歩する、そして敬坊は泊つた。
書物を食べる虫! 油虫が新刊歳事記の表紙を舐めて剥がしてしまつた。
追加
・おべんとうをひらく雀も何やら食べてゐる
・昼寝覚の夕立の水音が鳴りだした
八月十八日
昨夜は二人共安眠熟睡だつた。
敬治君は朝飯も食べないで早々帰つていつた。
△私は狷介だけれど、友には恵まれてゐる、それを何よりもありがたいと思ふ。
△いつのまにやら、歯がぬけてゐる、歯がぬけるといふことは寂しい、自分でぬかないのにぬけてゐたといふことはより寂しい。
昼寝、ぐう〳〵ごろ〳〵と眠りたいだけ眠つた、我儘すぎるかな。
裸木の訃がまた新らしく胸をついた。
・一人となれば風鈴の鳴る
白い花たゞ一りんの朝風のふく
とりとめもなく考へてゐる日照雨
改作一句
・ちかく、あまりにちかくつく〳〵ぼうし
八月十九日
晴々として門外不出。
八月二十日
早く起きたが、そして行乞するつもりだつたが、雨がふりだしたので安居。
しめやかな雨、しめやかな心。
先日来配達中止だつた新聞をまた配達して来てゐる、昨日は防長社の主人が来て、代金未払の歳事記を何とか彼とか口実をいつて取り戻していつた。
来者不拒、去者不追、有つてもよし、無くてもわるくない。
樹明君が何だかいら〳〵してやつてきた、一応帰つてまたきた、酒と下物とを小者に持たせて。
よい酒だつた、よい酔だつた、よいよいよいとなあ。──
・深夜の鏡にふか〴〵と映つてゐる顔
あれは青柿が落ちた夜の音
八月二十一日
草取、身辺整理。
藪蚊と油虫とが癪に障る。
早く晩飯をすまして、蚊帳の中で読書をしてゐるところへ樹明君が来て、井手逸郎さんの到着を知らしてくれる、私は駅前の宿屋まで出迎にいつたが、かけちがつて、逸郎さんはひとりでもう庵にきてゐられた。
酒も下物もすべてを樹明君が負担してくれた、いつもすまないと思ふが、さう思ふだけでどうにもならない。
三人で夜のふけるのも忘れて話しあつた、愉快な一夜だつた、送つて街へ出かける、まるし食堂でビールを飲んで別れる。
樹明君はいつしよに戻つて泊つた。
・朝焼うつくしいとかげの木のぼり
・泣く子泣かしておく青田風
述懐一句
がちや〳〵がちや〳〵生き残つてゐる
八月廿二日
晴、宿酔気分、焼酎一杯。
逸郎さんから見事な葡萄を一籠貰つたので、冬村君、呂竹さんへお裾分する。
△私の貧乏はよい貧乏だとしみ〴〵思ふ、裸木さんの貧乏だつたことを聞くにつけても。
蛙の子がやたらにそこらあたりを飛びまはつてゐる。
すつかり無くなつた、──米も薪も、無論、銭も! 明日はどうでもかうでも行乞しなければならない。
夕方、学校の宿直室に樹明君を訪ねて暫らく話した、十一銭のお辨当を頂戴した、庵ほど御馳走のないところはないから、何を食べてもうまい。
どうも飲みすぎる食べすぎる、禁酒絶食はとても出来ないが、せめて節酒節食したい、しなければならない。
いかなる場合でもいかなる事物でも、過ぎたるは及ばざるに如かず、好物に対して殊に然り。
・あすのあさの水くんでおくかなかな
(追加)本妙寺
・昇る陽を吸うてゐる南無妙法蓮華経
・秋がきた朝風の土に播いてゐる
・めつきり秋めいた風が法衣のほころび
・何となく考へてゐる犬も私も草のうへ
・夕立つや思ひつめてゐる
・夕立が洗つていつた茄子をもぐ
・夕立晴れたトマト畑に出て食べる
・夕立晴るゝや夕焼くる草の葉
・藁屋根はしづくする雑草はれ〴〵
八月廿三日
今朝はすつかり秋だつた。
七時から嘉川在を行乞したが、何分にも心臓がわるくて気分がすぐれない、無理に二時間ばかり家から家へと歩いて、今日明日食べるだけのお米を頂戴して帰庵した。
曼珠沙華が一輪、路傍の叢に咲き出てゐた、折つて戻つて、机上に飾つてゐたら、油虫が食べてしまつた。
△死生から脱することは出来ないが、死生に囚はれないことは出来る、宗教的修行の意義はこゝにある。
△行乞してゐると、村の餓鬼君がホイトウホイトウといふ、いつぞや敬治居に泊つたとき、坊ちやんが、「おぢさんはホイトウかの」といつて私達を微苦笑させたが、ホイトウはおもしろいな!
午後、夕立があつた、落雷もあつたらしい。
・青田おだやかな風が尾花のゆるゝほど
・秋暑く何を考へてゐる
・こゝにも家が建てられつゝ秋日和
・何もかも虫干してある青田風
八月廿四日
秋、秋、秋寒く秋暑し、夜は秋にして昼は夏なり。
気分すぐれず、身心の倦怠いかんともしがたし、行乞もやめて終日独居、ぼんやりして一句もなし。
明日の糧は明日に任さう。
八月廿五日
曇、風模様、二百十日前後らしい天候。
出勤途上、樹明君が立ち寄つて暫らく話す。
晴れてきた、おだやかなお天気となつた。
気分はすぐれないけれど、もう食べるものがなくなつたから、しようことなしに近在行乞、やうやく米一杯半と句四つ戴いた。
△昨日の御飯が少しばかり残つてゐたので昼飯をすます、少々ベソをかいてゐる、お茶漬にして食べる、ルンペンを通つてきたおかげで、何でもおいしくして腹をいためない。
△これから水がうまくなる、と今朝樹明君と話しあつたことである、むろん、酒はいよ〳〵ます〳〵うまくなる。
秋が来ると、私はいつも牧水の酒の歌をおもひださずにはゐられない。
こんばんの御飯はほんとうにおいしかつた、からだのぐあいもだいぶよくなつたやうだ、気持がうかないのは一杯やらないからだらう(二十二日、二十三日、二十四日、二十五日と四日間飲まない、いや飲めない)、機械も人間も同様で、油がきれたのだ、誰か来て油をさしてくれる人はないか、などゝアル中患者の愚痴を一言書き添へて置く。
昨日から待ちつゞけてゐる敬坊は今日も来なかつた、私は失望するよりも、何かあつたのではないかと心配する。
△行乞帰途、路傍に捨てゝあつた大根を拾うてきた、そして浅漬にして置いた、勿論、捨てゝあつたぐらゐだから牛の尻尾みたいな屑大根である、それでも私が作つたのよりもよく出来てゐる、私は不生産的な人間だから、せめて物を粗末にしないことによつて、それを少しでも償ひたいと努めてゐる、そしていつも物の冥加といふことを考へてゐる、生きてゐるよろこびを知るならば生かされてゐるありがたさを忘れてはならない。
それにつけても、その大根を拾ひあげるとき、私は何だかきまりが悪かつた、禅坊主らしくもない羞恥感である、古徳先聖の勝躅を再思三考せよ(巻煙草の吸殼を拾ふ場合は別である、それは恥ぢなければならない、恥づべき享楽のあらはれだから)。
△ありがたさがもつたいなさとなるとき、その人の宗教的情操は高揚したといつていゝ、彼はもののいのちにぴつたり触れたのだ。
・まへもうしろもつく〳〵ぼうしつく〳〵ぼうし
・胡瓜もをはりの一つで夕飯
・こうろぎよあすの米だけはある
・星がまたゝく山こえて踊大皷の澄んでくる
改作二句追加
・酔ざめの水くみに出て草月夜かな
・家を持たない秋がふかうなるばかり
・昼もしづかな蠅が蠅たゝきを知つてゐる
・蠅たゝきを感じつゝ蠅が飛びまはる
追加(昨年の句を改作して)
・雪ふりつもる法衣のおもくなりゆくを
・朝の鐘の谷から谷へ澄みわたるなり
曇れば鴉鳴もかなしくて
夕鴉鳴きかはしてはさびしうする
追加
・濡れて涼しく晴れて涼しく山越える
・いつもひとりでながめる糸瓜ながうなる
・秋空へ屋根葺きあげてゆく
はだかとなれば秋らしい風で
・水くんであほぐや雲は秋のいろ
八月廿六日
朝晩のすがすがしさ、けさのさわやかさ、身心快適。
つく〳〵ぼうしがいらだゝしく鳴く、その声が迫りくるやうにこたえる。
今日はどういふものか感傷的になつた、そして厭世的にさへなつた、私はセンチメンタリストではあつてもペシミストではない、しかし今日のやうな場合には、もし私が死ねる薬を持つてゐたならば死んだかも知れない。
夢は悪夢だつた、恩愛の夢、執着の夢だつた、それは断ちがたい人間の絆であり軛であつた、人間としてあたりまへのものであつたけれど、私としては──かふいふ生活にはいりこんだ現在の私としては捨てなければならない夢だつた。
・いつしよにくりやへとびこんだは蛙の子
・ゆふざればトマト畑でトマトを味ふ
・さびしうなつてトマトをもぐや澄んだ空
・煙ひろがるゆふべの山はうごかない
八月廿七日
晴朗、新秋清涼の気天地に満つ、身辺整理、心境平安、澄んで沈むのか、沈んで澄むのか、とにかく落ちついた。
明日から福岡地方へ行乞に出かけるので、畑の手入をして置く、広島菜を一うね、時知らず大根を半うね播いて置く。
トマトはうまいな、いつ食べても、──会心の作が二句できた。
油虫をうたふ二句
・虫も食べる物がない本を食べたか
・這うてきて虫がぢつと考へてゐる
八月廿八日
晴、早天、酔うて倒れこんできた樹明君はそのまゝにして出立。
八月廿九日
『行乞記』
九月三日
底本:「山頭火全集 第五巻」春陽堂書店
1986(昭和61)年11月30日第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年1月15日作成
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